「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判10


10.社会史との関連が希薄な鎌倉仏教史:

(1)民衆の間に広まった新仏教と旧仏教における戒律の強化

 鎌倉の文化の最初の項目は、「民衆的な仏教の高まり」である。鎌倉仏教史についての記述だが、この表題のつけ方は、この教科書の著者たちが、鎌倉時代の仏教の特徴を「民衆的仏教が広まった」と捉えていることを示している。
 事実、最初の記述は以下のようになっている(p90)。

 12世紀には、仏教がせまい貴族の世界から広がりをみせ、下級武士や庶民たちの間に伝わっていった。

 このような前書きから始まって、そのあとには、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗がひとくくりにして記述されている。つまりこれらの新しい仏教は「下級武士や庶民に広まった」と、この教科書の著者たちが認識していることを示している。
 そしてその次に行を改めて、栄西や道元の禅宗についての記述があり、禅宗は知識人に対して広まったと説明する。ここでの「知識人」が何を指すのか不明であるが、2代将軍頼家や北条政子に支持されて鎌倉武士たちに広がったとあるので、これを指すのかとも思えるが、これはよくわからない。ともあれ禅宗は、浄土系や日蓮宗とは違って、おそらく上級武士の間に広がったと言いたいのであろう。

 このように鎌倉時代に新たに成立した仏教教団の説明に続いて、次のような記述がなされる(p91)。

 このような新しい仏教の動きに対して、天台宗や真言宗などの旧仏教も、改めて戒律を重んじ、勢力の引きしめに努力した。

 つまり新仏教の動きに対して旧仏教の側では戒律を重んじる動きが現れ、新仏教が広がることに対して対抗したと言いたいのであろう。そしてここまでの記述から察するに、旧仏教は貴族の間に広がっていたと言いたいのだろうか。

@「帰依者」の階層で区別する機械的捉え方

 しかしこのような説明には無理がある。この説明では各宗派の違いがその宗派に帰依した者たちの階層の違いで区別されているが、そんなに階層的に異なる広がりを見せたのだろうか。
 たとえばこの教科書が「庶民や地方の武士(=下級武士か)の支持を受けた」と記述する念仏や法華信仰であるが、念仏を重んじる浄土系の諸派、とりわけその中心をなす浄土宗は鎌倉にもたくさんの寺院が作られ、鎌倉大仏は阿弥陀仏として作られていることにも現れているように、幕府においても重きをなしていた。そしてまたこのことは日蓮が幕府に対して法華経の教えを信じよと迫って幕府を批判したとき、幕府が、そして幕府要人たちが浄土宗に帰依していることを批判していることからも、念仏を重視する新しい仏教が、鎌倉武士、この教科書の言う上級武士の間にも広がっていたことは明白である。そしてまた、浄土系の祖師である法然の教えが最初に広まり多くの帰依者を得たのが、都の貴族たちであったことは、彼の主著である「選択本願念仏集」が、彼の最大のパトロンで信者の一人であった、宮廷の実力者である九条兼実の求めに応じて書かれたものであったことからも伺える。
 またこの教科書が鎌倉武士=上級武士の間に広がったとする禅宗も何も上級武士の間に限られた宗派ではない。曹洞宗の祖師である道元が最初に布教を行ったのが平安京の市の人々であったことや、彼の建てた寺院が最初は平安京にあったことや、彼が非人救済を行ったという伝説が付与されていること、そして彼の門流の中には貴族出身のものもいたこと(道元自身が、都の上級貴族である久我家の出身である)などから、この宗派も貴族・武士・庶民と、階層の別なく広がっていたことがわかる。

 したがって帰依者が階層的に異なるという前提に立つこの教科書の説明はおかしいし、「民衆的な仏教」という規定もおかしくなる。

A支配的なのは旧仏教であった

 さらにこの教科書の記述では、鎌倉時代の新仏教がまるで多数派になったかのような感がする。しかし、事実は違う。相変わらず仏教界において支配的な位置を占めていたのは、真言宗・天台宗、そして法相宗などの旧仏教であった。そうでなければ、法然の浄土宗が「破戒」を理由に弾圧をうけ、死罪にされた僧もいたり、法然などの主だった僧が流罪になったりはしなかったはずである。また、道元が平安京に開いた寺を越前の山奥に移したもの旧仏教の側からする弾圧であったという。さらには当初は平安京の東福寺で布教にあたった栄西が鎌倉に居を移したのも、旧仏教の側からする弾圧が原因であったという。

 朝廷との関係で大きな権力を握っていたのは旧仏教の側であった。そして新仏教は、旧仏教の側が、現世を末法の世なのだから戒律などは意味がないとまで極論するなど「堕落」していたことを批判したり、旧仏教が救いの手を差し伸べようとはしなかった非人や女性たちにも救いの手を差し伸べたりしたことから、旧仏教は新仏教は仏教から逸脱していると批判し、しばしば朝廷権力を背景にして新仏教を弾圧したのであった。

 鎌倉時代においても支配的に力をもっていたのは旧仏教なのである。

 なお補足しておくが、新仏教の側でも大きな広がりを見せていたのは浄土宗である。この宗派は貴族の支持も得ていたし、幕府の支持も得、階層を超えて広がっていた。ついで大きな力を持ち始めたのは禅宗であるが、これは幕府の庇護が特に多く、その理由は、加持祈祷をも重んじた栄西系の禅宗が、幕府直属の祈祷僧として重んじられたことと、多くの宋人の高僧が渡来して、幕府が建立した禅宗寺院を開いたり、禅宗の僧には中国留学帰りの僧が多かったことから、幕府がこれらの僧に外交顧問的な地位を与えたことから、大きな力を得たのである。

 一方室町時代には大きな力をもって「一向宗」と呼ばれた親鸞の浄土真宗は、関東地方の一部に広がった極少数派に過ぎないし、日蓮宗も幕府の弾圧にあって、この時代には教線を拡大できないでいた。
 なおこの時代に「一向宗」と呼ばれたのは一遍の時宗であり、これは彼らが教団を形成し寺院を持ってからも、始祖一遍以来の諸国遊行を旨としており、呪術としての念仏とも結びついたこの宗派が、権力などからの規制がきかないところに位置したために、危険視された結果である。
 しかしこれら、室町時代になって大きな力を誇った浄土真宗や日蓮宗、時宗は、鎌倉時代には極少数派でしかなかったのである。

B旧仏教生まれの「戒律重視」派もまた新仏教である

 この教科書の記述のおかしさの一つに、最後に書かれた旧仏教の動きがある。

 この記述だと、旧仏教の側が新仏教の動きに対抗して戒律を再び重視したものに回帰し、勢力の回復を図ったかのように受け取れる(そのように主張する研究者もいるが)。しかしおそらくここで「戒律を重んじた」旧仏教派として描かれているだろう、恵鎮や叡尊や明恵などは、旧仏教の堕落を批判して戒律を重視したことや非人や女性の救済に従事したことから、旧仏教というより新仏教といって良いし、彼らの動きは決して旧仏教の多数派になったわけではないのだから、旧仏教が再び戒律を重視するようになったという記述は誤りである。

 以上のように、「つくる会」教科書の鎌倉時代における新仏教と旧仏教についての記述は、かなり誤ったものといわなければならない。
 思うに「つくる会」教科書が、鎌倉時代の新仏教を「民衆的な仏教」としたのは、この会の人々が嫌っている戦後の歴史学が、鎌倉新仏教の中心を後に民衆の間に絶大な力をもった浄土真宗を新仏教の典型としており、多くの教科書がこれにならってきた事を無批判に継承したことから生じたのだと思う。そしてこの背景には、「つくる会」教科書の著者たちの固定観念、すなわち貴族=軟弱で退廃的・武士=尚武の観に富み、進歩的という歴史観があったと思う。

(2)「民衆の間」に広がったことの社会的な意味

 だこの教科書の認識が以上のような欠陥を持っていても、鎌倉時代(正確には平安時代の院政期からであり、中世初頭という言い方をしたほうが正しいのだが)に、今まで貴族の間にしか広がっていなかった仏教が、他の階層に広がったことは確かである。しかもそれは「広がった」のではなく、新仏教の祖師たちは、意識的に「広げた」のであるから、なぜ新しい仏教が、貴族だけではなく、民衆も含むより広い階層の人々を布教の対象にしたのかは、無視できない重要なことである。

 ではそれはどのような意味を持つのであろうか。

@遁世僧が担った新仏教

 新仏教を担った人々は皆、「黒衣」の僧である。そして旧仏教の僧たちは「白衣」の僧であった。実はこのことに大きな意味がある。旧仏教の僧たちは国家の祭祀に従事する官僧、いわば国家公務員であり、国家の祭祀では穢れがとても嫌われ、死人や病人に触れたり出会ったりしただけで祭祀には出られなくなっていたのである。つまり「白衣」は清浄の象徴。穢れなきものを意味していたのである。
 これに対して、「黒衣」の新仏教の祖師たちの多くは、官僧である身分を捨てて名誉も地位も金も捨てて俗世間から逃れた山間部で修行を積んだ「遁世」僧である。彼らの多くは国家的祭祀を担うのではなく、死人を供養したり、女性や非人などに手を差し伸べたり、要するに穢れを多く持っているとされた人々を救うことを生業とした。この場合、「黒衣」の黒という色は、穢れに関わる乞食僧を象徴するものである反面、黒は高貴の人が着る色という意味もあったので、貴賎を問わず穢れにかかわる遁世僧を象徴するものだった。

 つまり新仏教は、国家仏教と化していて、穢れには関われない旧仏教の境界を越えて、旧仏教では救いの手を差し伸べられない人々に積極的に手を差し伸べようと意図して、官職を捨てて遁世した僧侶たちによって担われたのであった。

A非人・女性へ手を差し伸べた新仏教

 また上にも述べたが、新仏教の祖師たちは、旧仏教が手を差し伸べようとしなかった女性や非人に救いの手を差し伸べたことに特色がある。叡尊を祖師とする禅律宗では、都市境界や街道に集まる非人たちに対して積極的に治療を施したり、食事を与えたり、彼らが住むところを作ったりしたことは有名である。当時非人とは、ライ病患者を中心とした「不治の病」と認識されていた病者と身体障害者が主であった。これらの人々は前世での悪業の報いとして現世に醜い姿をさらしていると当時の人は考えており、穢れ多き人々として放置されていた。また身分の低い人々が「不治の病」に冒され明日をも知れない身になると、生きたまま河原や墓地の片隅や路傍に放置されるのが常であった。
 禅律宗ではこれらの人々に治療と食料と住居を与え、人としての暮らしと死後の救いを与えたのであった。これと同様に禅宗では同じように非人に対して食料を与えるお救いを行っていたことも知られるし、浄土宗の寺院が鎌倉では都市境界に多く作られ、そこでは路上に捨てられた病者を収容し、静かに死を迎えさせる「無常堂」が置かれていたことなどから、浄土宗も非人救済に携わっていたことが推測される。さらには他の宗派の祖師たちの伝説には非人救済の話が必ず出てくることから、これらの新仏教も旧仏教が救いの手を差し伸べなかった非人の救済に携わったと当時の人々が認識していたことがわかる。

 さらに女性も穢れ多き身として悟りを開いて成仏することはできないとされ、僧となっても受戒も受けられない立場であった。しかし新仏教の多くの教団では信者としてたくさんの女性を抱え、僧侶としてもたくさんの尼僧がおり、旧仏教とは異なって、尼寺を持ったり、尼僧専用の受戒のための戒壇すら持っている宗派もあったのである。

 新仏教を広めた人たちは、すべての人には仏性がある、すなわち誰でも悟りを開いて仏となることができるという大乗仏教の教えを徹底させ、全ての人に仏の救いが及ぶように実践活動をし、またそれを裏付ける仏教理論の確立作業も行ったのである。この点に新仏教と旧仏教の大きな違いがあるのである。

B都市的な場へ広がった新仏教

 そしてこのような多くの人々を救済せねばと考えた新しい宗派が出来た背景には、先に浄土教のところでも述べたような、社会の急激な変化が背景にあった。急速な生産・流通の発展を背景に、旧来の血縁共同体を中心とした社会は徐々に崩れ、人々は家族を中心として新たな関係をむすぶようになった。そして流通の発展は、各所に都市的な場を形成し、そこには社会的な余剰生産物が集まるようになると、血縁共同体を離れた人々がここにたくさん集住し、都市は大きく発展した。

 新たに発展した都市では後の世のような地縁的共同体は未だ形成されていなかったために、人々は個人として様々な苦難に対せねばならなかった。ここに血縁共同体の神による救いではない、新たな救いを人々が求める背景があったのである。そして都市的な場が多くできたことは、そこに非人が集住することともなった。

 また当時は、幕府法においても女性の家督相続が認められていたことにも見られるように、また貴族の世界では家産は娘に継承されることが多かったことにも見られるように、女性の地位はかなり高いものであった。それに庶民の階層においては、とりわけ都市的な住民においては女性も大事な稼ぎ手であり、実際に女性は個人としても社会的に大きな役割を担っていた。そして血縁的共同体の力が衰えたことは、この共同体において神に繋がる地位を持っていた女性の地位が不安定にになったことを意味し、この両方の意味においても、女性も心の平安を求めて、叫びをあげるようになっていた。

 こうした都市的な場、つまり人が個人として対峙する場が広がるとともに、旧来の神に変わる新しい神による救いが求められたのであった。だからこそ、院政期あたりから阿弥陀信仰に基づく念仏が民衆の間に広まったのだし、熊野信仰など、旧来の信仰と阿弥陀信仰が融合した信仰が民衆に広がっていたのである。
 このような社会的変化に対応する形で、仏教界に起こった大きな変化が、新仏教の誕生であり、それぞれかなり大きな信者を獲得し、布施という個人的な喜捨に依拠した経済的基盤も持った(旧仏教が荘園の年貢を経済的基盤としていたのとは対照的である)、新しい教団が出来たのである。

 この意味で鎌倉時代の仏教は「民衆的」というよりは、「個人」を救済する仏教として生まれたのであり、これは極めて近代的な動きであったのである。新仏教を統一的に名づけるならば、「個人救済仏教」であり、これが広まり始めたのが鎌倉時代であったのである。

 このことを踏まえて、それぞれの宗派がどのような教えとどのような実践を人々に勧めていったのかを記述し、これをもとにその社会的背景を推理できるような記述に教科書はすべきであると思う。

 なお以上の批判は、「つくる会」教科書だけではなく、他の多くの教科書にも共通した問題であることを付記しておく。 

 :05年8月の新版は表題こそ「新しい仏教」と変えてあり、機械的な帰依者の階層分けによる新仏教の類型化は少し訂正されてはいるが、浄土系・日蓮宗が民衆の仏教で、禅宗は鎌倉武士の仏教という区分けは相変わらずである(p74)。また旧仏教における戒律の重視を、旧仏教の引締め捉えるという、誤った認識もそのままであるし、社会史的背景とのつながりの薄い記述の特色も基本的に同じである。

 :この項は、前掲末木著「日本仏教史」、松尾剛次著「鎌倉新仏教の誕生」講談社現代新書95年刊、同じく松尾著「救済の思想−叡尊教団と鎌倉新仏教」角川書店96年刊などを参照した。


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