「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判11


11.軍記物の性格を見誤った文学論

(1)軍記物=武士の文学、和歌・随筆=貴族の文学という認識

 鎌倉の文化の二つ目の項目は、「武士の文学」と題する文学論である。そしてこの文学論の構造は、軍記物を武士の気風を反映した「武士の文学」とし、和歌や随筆を貴族の文学という認識になっていることである。
 最初の武士の文学の記述は、以下のようになっている(p91)。

 文学では、合戦のようすなどを力強くえがいた軍記物や、語り伝えられた物語を集めた説話集がつくられた。保元の乱をえがいた『保元物語』や、平治の乱を扱った『平治物語』では、武士の勝利と貴族の没落がはっきり示されている。同時に、見事に人物がえがきわけられていて、すぐれた作品である。
 『平家物語』は、盲目の琵琶法師によって各地に語り広められた。この物語は、平氏の繁栄と没落をえがいてはいるものの、勝利する頼朝の戦いをたたえているのではない。戦いの中で苦悩する人々の姿を伝えたのである。『今昔物語』のような説話文学からも、民衆のいきいきとした生活の様子がうかがえる。

 この主として軍記物を「武士の文学」として規定した記述には、あとで述べるように、この教科書の著者たちが、鎌倉幕府の成立をもって「武家政権の成立=貴族の没落」と捉えるという、あまりに古い誤った歴史観に依拠していることの反映である。そして三つの軍記物語が何を伝えているのかすら、事実と違っているのである。

 また、ここで「今昔物語」を「鎌倉時代を代表する説話集」として取り上げているが、これは院政期に入れるべきものであって、著者たちの勘違いであろうか。また、この物語には、たしかに民衆の生活が生き生きと描かれてはいるが、これは民衆に限られることではなく、武家や貴族たちの生活も生き生きと描かれているのである。
 ここにも記述の一部を根拠にして全体の性格を歪めるという、この教科書特有の記述の歪みが見て取れる。

(2)軍記物=権力闘争が武力をもってしか決着しない時代を描いたもの

 軍記物語とはどのような物語なのであろうか。たしかにこの教科書の著者たちがいうように、「合戦のようすなどを力強くえがい」てはいる。とりわけ、「保元物語」や「平治物語」は、保元の乱・平治の乱という争乱そのものを主題に置いているために、主たる記述は合戦の場面である。しかしそれだけではないし、記述の中心は合戦場面ではないのである。
 また「平家物語」は「軍記物」という名前からは違和感を感じるほど、宮廷における貴族たちの生活が生き生きと描かれており、合戦場面が中心になるのは、物語の後半に過ぎない。この物語は平家が繁栄し滅亡したという直前の時代の大事件を、その原因を含めて、数十年の時間の幅をもって描きあげているのであるから、これは当然のことである。

@保元の乱・保元物語とは?

 保元の乱は、近衛天皇の死後、誰を次の天皇にするのかということをめぐって、新院=崇徳上皇とその父=鳥羽上皇とが争い、鳥羽の死を直接のきっかけにして、この争いを双方が武力を持って決着しようと図って起きた出来事である。
 鳥羽の長子として生まれた崇徳は、自らの血統が長く天皇位を継ぐことを望んだ。しかし鳥羽は、崇徳が鳥羽の父である白河の子であると疑っており、最愛の妻である美福門院の腹に生まれた五宮(=後の近衛天皇)に天皇位を継がし、近衛の血統が長く皇位を継ぐことを願った。そして鳥羽は3歳の近衛を即位させるとき、近衛を引退する崇徳の養子とすると約束し、崇徳上皇による院政の可能性を仄めかして彼を引退させた。しかしこの約束は反故にされ、近衛は「皇太弟」として即位したのである。院政の可能性を閉ざされた崇徳上皇は父鳥羽を深く恨んだが、彼の長子の重仁親王が美福門院の養子になっており、若年で病弱な近衛に子がないことから、近衛の次には、実子である重仁が即位するものと希望を持った。
 だが、鳥羽・美福門院の思惑は異なった。近衛が後継ぎもなく病床につき、やがて死去するや、鳥羽が即位させたのは、崇徳上皇の弟である四宮(=後の後白河)であり、その皇太子は後白河の実子で、美福門院の養子となっていた守仁親王(=後の二条天皇)であった。
 完全に自らの血統が皇位を継ぐ可能性を絶たれた崇徳上皇は父を深く恨み、時の左大臣藤原頼長と彼が動員できる清和源氏の源為義の軍勢に依拠して権力を暴力的に転覆しようと図った。これに対して鳥羽・後白河の側も同じく清和源氏嫡流の源義朝らの軍勢を集め対抗し、事態は何かあれば軍事的衝突がおきるという事態になったのであった。
 そして鳥羽の死をきっかけにして衝突は始まり、崇徳の子の重仁の乳父でもあった平清盛の軍勢をも味方につけた後白河の側が勝って、この争いに決着をつけたのであった。

 保元物語はその冒頭において、この乱が鳥羽と崇徳との間におきた皇位継承をめぐる争いが原因であることをはっきりと明示し、裏切られた崇徳の恨みが何度も生々しく描かれている。したがってこの物語の本来の結末は、淡路島に流された崇徳上皇が血書の5部の大乗経を書写したものを都に送り、せめてこれを身代わりに都に埋納してほしいとの希望を述べたが、これをも拒否されて、食を絶って飢え死にするという壮絶な最後を遂げた所で終わるものであっただろう。だが現存の物語はのちに改作されて、崇徳の側に立って戦った源為朝を合戦場面の中心として描いたために、彼の八丈島での最後に物語の最後が変えられ、彼を追憶するものになってしまった。

 しかし物語りが争乱の原因が皇位継承を巡る天皇家内部の争いにあることを明確にして、この立場を最後まで崩していないこと、そして武士とは王権を維持するための暴力であることをきちんと描いていることから、保元物語は、皇位継承の争いが武力によってしか決着できない時代を描いた物語と性格付けして間違いないと思う。

A平治の乱・平治物語とは?

 平治の乱は、直接的には後白河の寵を得た藤原信頼が二条の側近である藤原惟方・経宗と語らって後白河を幽閉し、後白河・二条の執政である藤原通憲(信西)の宿所を襲って彼の殺害を図った事件である。しかし信頼らは信西を討つ事には成功したが、惟方・経宗の裏切りにより後白河・二条を確保することに失敗して逆賊となり、王命を受けた平清盛らの軍勢によって蹴散らされ、敗北した。
 この事件の背景には、信頼と信西の反目と、鳥羽・美福門院らによって擁立された二条を支える廷臣らと、後白河に従う廷臣らの反目があり、それは後白河を正統な王者とみなすのか二条を正統な王者と見なすのかという、朝廷における皇統の2派に別れた対立があったわけであった。しかし信頼らの性急な決起に不安を感じた後白河が信頼の下から脱出することによって彼らの決起は後ろ盾を失い、単なる逆賊となってしまったのである。

 平治物語はこの信頼・信西の不仲が乱の原因であると述べてはいるが、信頼が後白河の寵によって急速に朝廷で重きをなしてきたことを示すとともに、信西は後白河・二条の2代にわたる執政の臣であること、すなわち二条を推す為にその父後白河を中継ぎとして擁立した鳥羽・美福門院派を代表する公卿であったことを記述することによって、二人の不仲の背後には、中継ぎの地位に不満を抱く後白河と、彼をその地位に押し込めようとする二条=鳥羽・美福門院派の、皇統をめぐる対立があったことを匂わせているのである。
 そしてこの物語はその冒頭において、王者の政道を支えるものとして、文と武とは不可欠なものであるとして、王者にとって武力とそれを担う人々は大切なものではあるが、末世においては、武力に奢って野心を持つ者が出てくる危険性を述べて、信頼がそのような王者にとって危険な野心家であるとにおわすことによって、この事件の枠組みもまた、王権をめぐる争いである可能性を述べているのであった。
 さらにこの物語は、王に奉仕することの素晴らしさを強調し、この物語の端々に、王に奉仕する者たちの活動を生き生きと描いている。それは後白河を幽閉して二条天皇の親政を実現しようとした弟藤原惟方を諭し、後白河を御所から清盛の館である六波羅に脱出させた藤原光頼の行動や、熊野参詣の途上で事件を知り、すぐさま都へ取って返して逆賊を討った平清盛の行動を生き生きと詳しく劇的に描いた部分である。そして武士は王のために働くこそ本意であることを、源義朝に「同属の源氏を裏切ったもの」として罵られた源頼政に、「自分は十善の君(=院)にしたがって行動したまでだ。貴殿こそ信頼に組するとは何事か」と語らせたのであった。

 したがって平治物語は、王権をめぐる争いの顛末を描いているわけで、本来の物語の結末は、信頼側のすべての者の処断が終わると共に、本来信頼と結んで乱を起こした首謀者である惟方・経宗の流罪で終わるものであっただろう。頼朝配流の後の話や牛若丸奥州下りの話などは、別の話をあとから加えたものであろうか。

 平治物語も合戦場面を中心に描いてはいるが、この合戦も王位を巡る争いであることを示すことで、王位を巡る争いが武力をもってしか決せられない時代の様と、武士とは王権を維持するための暴力であることを見事に描いているのである。

 以上詳しく検証したが、この二つの物語をして「武士の勝利と貴族の没落がはっきりと示されている」と規定する「つくる会」教科書の記述は、物語のどこを見て言っているのか、まったくのたわ言であることがわかる。
 ここにもこの教科書の著者たちが、院政期〜幕府成立期を「貴族の没落・武士政権の成立」という、まったく誤った時代認識にたっていることがよく表されている。

B平家物語とは?

 では平家物語は、この教科書が記すように「戦いの中で苦悩する人々の姿を伝える」ための物語であったのだろうか。

 有名なこの物語の冒頭において、「奢れるものもたけき者も滅びる」例として古今の「悪人」をあげ、平清盛入道は、それら以上のものであると示している。そしてここで名前を挙げられた中国と日本のものたちをよく見れば、これらの者がなぜ「奢れるもの」とされたかというと、彼らは皆王者を入れ替えたり自らが王者になろうとした者であり、逆賊として討伐されたものであることがわかる。
 すなわち冒頭においてあれほどに栄えた平氏が滅びたのは、王権に逆らったからだということが暗示されているのである。そして続く各部分において平氏は白河天皇以下の王家の寵によって高い地位を得たこと、またそれは王家がいくつかに分裂してあい争う中で起きたのであることを、二代の后を巡る後白河と二条の対立などを示すことで暗示している。そして高倉天皇の治下において平家の横暴を理由に後白河を中心として彼の主だった廷臣たちが集まって平家討伐の謀議をめぐらした有名な鹿ケ谷の事件や、その後清盛によって後白河が幽閉されたことなどを記すことによって、平家の没落は後白河との対立にあったことを示している。さらにこれは源義仲に都を明渡すときに、時の最高権力者である後白河を平家の側に確保することに失敗したことを「便りにしていたものに打ち捨てられて心細い思いがした」と語り、平家滅亡の原因が後白河法王との対立であったことが明確に述べられているのである。
 この院との対立が平家滅亡の原因であることは、後白河院が大原に隠棲していた建礼門院を密かに訪ねた時に、建礼門院をして自らの一生を六道巡りにたとえて後白河に語らせた話を、わざわざ最後に持ってきたことで、平家滅亡の原因は後白河にあったことを見事に浮き上がらせることに成功している(おそらくこの形の平家物語は後の形であろう。平家の盛衰の様を語るのがこの物語の主たるテーマだとすると、平家嫡流の六代が切られ平家嫡流家が滅びた所で物語を終わるのが、本来の形であろう)。

 この物語の主なストーリーは平家の隆盛から滅亡に至る様なのであるが、それはすべて王権とのかかわりであることをこの物語は明確に述べているのである。

 後白河の一生は、王権をめぐる争いの中で、王権の新たな基盤の確立とありかたを求めての戦いであった。彼は中継ぎの天皇として擁立されたのにもかかわらず、次々と襲ってくる危機を乗り越え、自らの血脈に皇位を継がせる事に成功し、王権の新しいあり方を作り上げた。
 この時彼が依拠した基盤の一つが、武家の力であった。
 保元の乱において対立する崇徳上皇の側を破って彼の権力を維持した基は、源義朝を中心とした武家の武力であった。そして平治の乱においても、彼を自家薬籠中のものにしようとした藤原信頼から救ったのは、平清盛を中心とした武家の武力であった。そして同じく彼を操ろうとした源義仲から彼を救い、平家の力からも独立して、平家が擁立する安徳ではなく、後鳥羽を擁して院政を行うことを可能にした力は源頼朝を中心とした武家の力であった。彼ら武家がその過程で、朝廷から軍事統帥権や検断権を奪い、朝廷や天皇家・貴族の所領の管理権を奪い、税の一部を奪い取ろうとしたことに対して、後白河が戦い、それを認めざるを得なかったにしても、ある一定の範囲に限定し、統帥権の名目的には院の下に確保し得て、朝廷の位置を守り得たのも、武家の武力を基盤の一つにしていたからであった。

 保元物語・平治物語・平家物語の軍記物は、このような時代のありさまを見事に描写していたのである。

(3)「武者の世」を越えて軍記物語が意図したものは

 まさに時代は、天台座主慈円が愚管抄に描いた「武者の世」、すなわち暴力なしには政治が行えない時代に入っていたのであり、軍記物はまさにそのような時代のありさまを描いていたのであった。

 しかしこれらの物語は、単に時代のありさまを歴史として描くことに目的をもっているのではない。

 この点が見事によく表現されているのが平家物語である。

 平家物語が各所で強調するのは、武士というものは王権に仇をなすものを討つためにあるということである。有名な源頼政の鵺退治の句などはその典型であり、「化け物などを討つために借り出されるなど武士の本意ではない」と頼政に語らせている。また同じことは都落ちした平家の公達たちの口を通じて何度も言わせている。都落ちした平家に後白河が3種の神器と主上を返せば罪を許すと書状を認めた場面では、平家の公達に「一院のために奉仕してきたわれらに何の落ち度があって追討されるのか」と語らせ、平家もまた王権に奉仕するものであったことをはっきりと語らせている。

 なぜこの物語は、執拗に武家と王家の関係を語り、武家は王家の支えであることを強調するのだろうか。

 この問題を考えるとき、大切な視点を与えてくれる章段がある。それは巻の11の12番目の句である「剣」である。
 宝剣が海の底に沈んで見つからなかったことについて先例や故実について詳しい人々がさまざまな意見を述べたのだが、一人の博士が、「この宝剣は昔スサノオノミコトが出雲のひの河上において殺した大蛇の尾から出てきたものである。この宝剣を惜しんだ大蛇が8歳の帝となって宝剣を取り返し、海底にお沈みになったのだ」と言ったということをあげる。平家の作者はこの句のまとめとして、「深い海の底の竜神の宝となったのならば、宝剣が人の手に戻らないのも道理というものである」と締めくくる。

 この宝剣とともに沈んだ8歳の帝、安徳天皇が竜神の生まれ変わりであるという説明は、慈円の愚管抄にも見られる。
 慈円は、安徳天皇は清盛が厳島神社に願をかけてお生まれになった帝であるから、竜神である厳島の神の生まれ変わりである。だから最後には海に帰られたのであるという説を紹介する。そしてこれに続けて、こうして宝剣が竜神とともに海の底に帰られたのは理由がある。宝剣は皇室の祖先の神が武器の基本である剣に乗り移って長く皇室の支えとなってきたのだが、武士の大将軍がしっかりと政治の権をにぎって、武士の大将軍の心にそむくようでは天皇も位についてはいられないような時代になったのだから、宝剣はもう役に立たなくなったのだ。だからお隠れになったのだと述べている。

 愚管抄はそもそもは幕府と対立して、幕府を武力で取り除こうとする後鳥羽上皇に対する諌めの書として書かれたものであった。慈円は歴史を遡って考察し、天皇の政治は臣下によって支えられてきたこと、とりわけ代々の天皇が若くして死去した時に摂政関白として藤原氏が次の幼帝を支えて政治を行ってきたように、藤原氏によって支えられてきたことを説くと共に、保元の乱以来の世は、武家の力なくして天皇家もないことを説いたのである。愚管抄の末尾の第7巻において慈円は、鎌倉の将軍として摂関家の頼経が下向したことは、摂関家と将軍家とを一体にし、文武を兼ね備えて世を治め、そういう文武兼行の臣下が後見役として帝王をお助けするべき世の中になったのであるとし、世の道理が変化したことを述べた。そして武士がすでに荘園・公領の年貢を徴収して都に運ぶことで天皇や貴族の暮らしもなりたっているのだから、武士を排除しようなどとはせず、幕府を朝廷を支えるものとして認めるべきであると、後鳥羽を諌めていたのである。

 まさに武士とは朝廷を支えるためにあるのだというのが慈円の主張なのだ。

 こう見てくると平家物語は、慈円が愚管抄において主張していることとほとんど同じことを主張していることがわかる。武家は王家の支えであるべきだ。それが武家の役割だ。その役割を果たしたからこそ平家は興隆し、そしてその役割を超えて王家と対立したからこそ平家は滅びたのである。平家物語はこう主張しているのだ(この意味で平家物語は、後白河院政を「支えた」鎌倉将軍頼朝をたたえているのである)。そしてこの主張にほぼ同じ頃に出来た保元物語と平治物語の記憶を重ね合わせてみれば、天皇といえども武家の支持なくして存続しえないことが明らかになる。

 しかもこれらの物語が世に出た1230年代は、すでに幕府の力を削ごうとして失敗し、沖ノ島に流された後鳥羽上皇の先例が眼前にあるのである。承久の乱を現代史として体験しているこの時代の貴族や天皇、そして武士にとって、平家物語が奏でる「武家は王家の守り、武家なくして王家も存在できない」という主旋律は、動かし得ない事実として、人々の胸に刻み込まれたことであろう。

 たしかに平家物語は、他の二つの物語とは異なって、「戦いの中で苦悩する人々の姿を」生き生きと伝えている。戦いの場面の描き方すら、前の二つの物語とは違って、勇壮というより哀愁を帯びた筆致でさえある。しかしそれは物語の技巧であって、物語の主題ではないのである。
 いやむしろ、戦いの悲しさ、戦いの中で苦悩する人々を生き生きと描きあげたことで、平家物語は、武家と王家が争うことの愚かしさを、承久の乱後の貴族や天皇、そして武士に強く印象付けることになったのだと思う。

 軍記物は、武家と王家のあるべき関係を、王家や貴族、そして武士に示すべく作られた物語であったと思う。そしてその中で平家物語が、最もその意図を全編にわたって精緻に描きあげ、「戦いの中に苦悩する人々の姿」を生き生きと描いたことによって、承久の乱後の貴族・武家社会だけではなく、後の世の人々をも魅了し、その主張の枠の中に、人々の意識を閉じ込めることに成功したのであろう。

 軍記物語は、「武士の文学」などと規定できるものではない。武士が王家の支えとして不可欠なものであることを歴史を生き生きと描くことで人々に提示した物語であるが、作者は貴族であり、その成り立ちから主として対象は、王家と貴族であったと思う。もちろん武家社会の棟梁たちも武門貴族として貴族の一翼を占めるのであるから、彼らも主たる対象であり、彼らの部下である地方の武士たちにも聞かせておきたい物語ではあったであろうが。
 軍記物語は、和歌や随筆などとともに、貴族の文学であったのである(棟梁格の武士は貴族であったから、漢籍などを読破し、和歌を読むのは当然であった。しかし多くの地方の武士は、御成敗式目がかな文字で書かれていたことにも明らかなように、文字文化としては、貴族の水準には遠く及ばなかったのであるから、彼らが文化の主たる担い手ではありえないのは当然である。それゆえ軍記物は物語として書かれながらも、琵琶の旋律に載せた「語り」として流布され享受されていたのも当然のことであろう)。

補遺1:公家文学について(和歌と随筆)

 さらに、「公家文学」についての「つくる会」教科書の捉え方には多くの誤りがある。教科書は以下のように記述している(p92)

 一方、公家の間では和歌が愛好された。後鳥羽上皇は藤原定家らに命じて、『新古今和歌集』を編纂させた。その作風は、ときに技巧に走りすぎるところもあるが、『万葉集』や『古今和歌集』よりもさらに洗練され、繊細さと哀愁の情が強い。
 随筆では、歌人でもあった鴨長明が『方丈記』を、やはり歌人の吉田兼好が『徒然草』をあらわし、ともに時代のはかなさと生の無常をつづっている。

(1)滅び行く公家文学という認識のあやまり

 この記述の第1の誤りは、 和歌や随筆を「公家文学」と捉え、それが武家に押されて滅び行く階級の文学である事が、和歌の「哀愁の情」や随筆の「時代のはかなさと生の無常」に現れていると認識しているところにある。先にも述べたが、鎌倉時代の文化は「王朝文化」と言ったほうが正しく、それは幕府が王朝の軍事・検断部門と徴税部門を受け持ったものであり、日本列島はまだ都に存在する王朝国家の統治下にあることを反映している。したがって鎌倉に拠点を置く「武家」も王朝国家を支える軍事貴族が率いていたのであり、都の堂上貴族や実務貴族からなる公家層とともに武家もまた王朝文化の担い手であり、和歌は(そしてこの時代に第1の流行期を迎える連歌もまた)公家にも武家にも必須の教養であったのだ。この点についての認識が、「つくる会」教科書には根本的に欠けているのである。
 そしてこの事は第2に、和歌に現われた「哀愁の情」は公家だけではなく武家にも共有された美学であり、随筆に表現されているという「時代のはかなさと生の無常」という観念は公家や武家、そして庶民層も含めたこの時代に生きた全ての人々に共通した観念なのであったことを、「つくる会」教科書が認識し得ていないという誤りにつながっていく。この時代は院政期から続いて「末法の世」と信じられており、それゆえ「時代のはかなさと生の無常」とは、誰でもが持っていた通念なのである。だからこそ、公家にも武家にも(また庶民層にも)出家遁世する人々が絶えなかったのであり、鴨長明や吉田兼好がものした随筆も遁世者の文学の範疇に属するのである。

(2)摂関・院政期が理想の時代

 『新古今和歌集』におさめられた和歌に「哀愁の情」が多く込められていると言うのにはわけがある。
 それはこの時代の王朝貴族の世界では、摂関時代こそが王朝貴族の理想的な姿が刻印された時代であったという認識が背景にあるからである。そして王朝貴族の理想的な姿とは、恋愛と自然とを愛で、人の心や自然の移り変わりとそこで織り成される情感に浸るという生活、彼らの言葉で言えば「風雅」を愛する暮らしであったのだ。これは文学で言えば「源氏物語」に表された世界であり、文化史で言えば「国風文化」で繰り広げられた活動をこそ理想とするものであった。

@理想をさらに昇華する和歌の世界

 このような摂関時代を理想とする観念は、和歌の世界では「古今和歌集」を模範とする。つまり「万葉集」のような生活の中でおりにふれてその時の情感を具体的に歌うものではなく、そのような体験を基礎にして、屏風絵や言葉を題として、さまざまな情感を客観的に描写する技巧的な和歌が理想とされていた。そしてこの「古今和歌集」を理想とする和歌の流れは、このまま明治初期にまで続く「日本の伝統」になったのである。

 この「古今和歌集」の歌の有り方が漢詩に学んだことは先に国風文化の項で述べたが、これこそが「日本の和歌の伝統」であったことを「つくる会」教科書は全く記さない。それはこの会の人々が「外国風」に毒されていない「純和風」としての「万葉集」を「日本の伝統」とする国学の系譜に属しているからであることは明かである。

 しかし「新古今和歌集」で理想とされた和歌は、単に「古今和歌集」の歌風を引き写したものではない。むしろ「古今和歌集」などの摂関期そしてそれに続く院政期に詠まれた和歌を元歌として、元歌の核となる言葉を使用してその歌の情感を借り、元歌が表現しようとした情感がそこはかとなく漂ってくるような技巧に満ちた作歌をよしとしたものである。そしてこのような傾向を「幽玄」あるいは「優艶」とよび、さらに新古今で特徴的な、和歌の途中に体言止めを多用する「切れ」の多い作風は、どちらもやはり漢詩の表現方法に学んだものだったのである。「つくる会」教科書が、「技巧に走る」とか「繊細」だとかの言葉であらわしたことは、このような摂関期の和歌を理想として、その美しさをさらに洗練させようとした取り組みのことを表現していたのである。

A王朝国家の模索の時代

 鴨長明の「方丈記」や吉田兼好の「徒然草」が表現しているのも、摂関期こそが理想の時代であったという通念である。ただそれは和歌の世界も含めて滅び去ったものを懐かしむといものではなく、かつて王朝国家がもっと華やかなりし頃のありさまを復興させようというこの時代の政治的取り組みと一体であった事は忘れては成らない。これは院政期、それも後白河の時代以後は、王朝国家といえども武家の武力を利用する事なしには国の統治も皇位の継承もありえないという現実の中で、王朝国家の伝統を守りかつそれを新たなものに再生しようとする試みがさまざまになされた時代であった。後白河の行った絵画・文芸などの面でも王がそれを統括するのだと言う動きや、都市と流通をその基盤としようとする試みがそれであったし、後鳥羽の武力で幕府を壊そうとする動きも、その流れに属している。しかし現実にはこの後鳥羽の試みは挫折し、王朝国家は武家とその幕府とにならいかつそれに依拠しながら、あらたな統治のありかたを模索していた時代であった。だからこそ理想としての「摂関時代」が極められたのだし、その余韻が残っている「院政時代」もまた、依るべき理想とされる時代認識が貴族、これこそ公家たちの間に顕著であったのだ。

B王朝国家の理想を基礎とする批評精神の発露

 このような摂関期を理想とする公家たちの動きが、「王朝国家」の理想を基礎として同時代を批評し、あるべき政治(文化も政治と一体である)の姿を求めようとする「批評」活動を促す事となる。「つくる会」教科書はまったく記述していないが、「王朝国家」と「幕府」との関係のありようを王権は歴史的にも臣下によって支えられてきたという歴史観によって論述しようとした、天台座主慈円による「愚管抄」はその頂点に位置するものと言えよう。そして吉田兼好による「徒然草」もまた、この流れに属する「批評精神」が発露されたものと捉えると理解しやすい。

 17世紀江戸期以来の「徒然草」の捉え方、つまり人生の有り方・心のあり方をつづった教訓の書という理解は、あまりに一面的である。「徒然草」を詳細に眺めてみれば、人生の有り方・心のあり方をつづったときにその規範とされている例はすべて、摂関期のものか院政期のものであることに気がつかされる。つまり「徒然草」は、漫然と教訓を垂れたものではなかったのである。それは「摂関期」とその余波としての「院政期」の人々(正しくは公家)の生きかたを理想的な規範として、現代、すなわち鎌倉後期、皇位継承すら幕府の意向で決められ、対立する皇統(持明院統・大覚寺統ともに)の双方が幕府のご機嫌をとるという「乱れた世」にあって、公家がどのように生きるべきなのか、どのような政治を行うべきなのかを、現代の人々のありようを批評する中で語っているのである。吉田兼好は単なる歌人ではない(この時代に現代のような歌人は存在しない。作歌それ自身が高度な政治的行為なのだ)。彼は1301年から1308年まで在位した大覚寺統の後二条天皇に蔵人として仕えた公家であり、後二条の死後は、その子邦良親王にも仕えていた。そして同時に彼は、大覚寺統派の有力貴族である村上源氏の堀川家の執事でもあり、その晩年には若くして堀川家の当主となった堀河具親の教育係・ご意見番でもあったのだ。彼は大覚寺統の中心である後宇多上皇にも近く、彼が交友があった貴族たちは皆、この時代の大覚寺統・持明院統に属する有力貴族であたったのである。この兼好が仕えた邦良親王は大覚寺統の直系でありながら、幕府との対決に走った後醍醐天皇の蔭にかくれてついに皇位につくことなく、彼に仕える貴族たちは、かつて皇位をねらって対立した持明院統と連携して幕府に連なることで皇位につこうと画策した。兼好もこのような貴族の一員であったのであり、だからこそ鎌倉にも下ったし、後には室町幕府を作った足利尊氏やその執事の高師直とも親交があったのである。

 国文学の従来における「徒然草」理解は、このような兼好の政治的来歴を問題にすることなく、テキストの表面的な理解に留まっていたのである。「つくる」会教科書は、この表面的理解に依拠しただけなのだ。

※注:鴨長明の「方丈記」は、「徒然草」とも違った性格の書である。それは批評の書でもない。正しくは貴族としての立身に敗れた敗残の貴族がこの時代に流行した自然の中で暮らす生活に憧れ、形だけ「遁世僧」のまねをした生活をするなかで表した随筆にすぎない。そして「方丈記」にはそれが内容的にも文体的にも先例としたものがあり、摂関期の慶滋保胤や兼明親王の「池亭記」がそれである。すなわち、後鳥羽上皇の推薦にも関わらず父祖以来の家職である下鴨社の禰宜になれなかった鴨長明が出家・遁世し、京都南郊の日野の山に庵を結び、作歌や管弦に興じたり古の歌人の事跡を辿る旅をしたりしながら、「池亭記」にならって自然の中での暮らしと理想とした王朝的風雅の道が廃れているさまや、自身が世俗との縁を捨てられずにいるさまをつづったものである。ここに流れている「世のはかなさと生の無常」観はこの時代の人一般に共有されているものでもあり、家職を次ぐ事の出来なかった鴨長明自身の無念さを示すものである。

 そうじてここで示されている「公家の文学」なるものは、「つくる会」教科書が暗示した、滅び行く公家の挽歌ではなく、末法の世の中で、変化する社会に応じた新しい政治の有り方を模索する公家達の生き生きとした生を表すものだったのである。

補遺2:大衆芸能の王朝文化への吸収について(連歌と田楽・猿楽)

 またこの時代は、院政期に続いて、大衆の間で生まれた芸能が王朝文化の中に吸収されて洗練化されていった時代でもあった。その代表が、連歌と田楽・猿楽であった。このことについては「つくる会」教科書はまったく記述していない。

(1)連歌の発生と王朝文化への吸収

 連歌はもともと酒宴を伴った遊興の場における座興であった。5・7・5・7・7からなる和歌の内、最初の5・7・5の上の句を誰かが読み、それに別の誰かが7・7の下の句をつけて言葉遊びとして行うものであった。やがて逆に下の句を誰かが読み、それに別の誰かが上の句をつけるというよりスリリングな形態も生まれていった。ともかく最初は、庶民も含めた酒宴における座興であったのだ。
 それが12世紀院政期のころ、貴族層にもはやっていった。この頃は、一つの和歌を二人で作り、その描く情景の連続と断続の様がおりなす情感を楽しむものであった。そして13世紀ともなるとその形式がさらに発展し、50句とか100句とか連続して読む形の連歌が流行し、より大規模なものになるとともに、新古今和歌集で代表されるような、幽玄とか優艶とかいう情感を重んじる芸術的なものも現われていった。これは後鳥羽上皇や藤原定家らを中心とするサロンで行われてたもので、彼らが理想とした和歌の有り方を反映したものであった。

 新古今和歌集などが理想とする和歌の形に、先に見た「切れ」があるが、これは漢詩の影響であると共に、連歌における上の句と下の句の断絶に見られる「切れ」の面白さに影響されたものでもあった。

 だが王朝貴族の間で流行した連歌とはべつに、この時代でも庶民の間で依然として連歌は流行していた。それは桜の花の盛りの時期に、京都の毘沙門堂や法勝寺・清水寺などの花の下で、「地下の連歌師」と呼ばれた人達の指導の下で行われたものであり、中にはいかに句を連続させるかを金品を賭けた賭け事としての連歌すらあったのである。そして伝えられる所によると、宮廷社会における和歌・連歌の主導者であった後鳥羽上皇はしばしば、これらの下々の人々の句会にお忍びで参加していたという。

 連歌がさらに上下に渡って広く流行するのは南北朝期から室町時代のことであり、連歌の会を通じて様々な政治的談合が行われたり、連歌師自身がさまざまな人々の政治的繋がりをなす媒体となっていったのだが、その基礎は、院政期から鎌倉時代に培われたものである。

(2)田楽・猿楽の発生と王朝文化への吸収

 田楽はもともと田植えにまつわる樂であり、庶民の文化であった。そして田植えや村の祭礼に際して、村村から派手で目を引く格好をした大勢の村人が踊り狂いながら村村を練り歩くものであった。しかしこの田楽の狂乱の様が「風流」とされて平安時代摂関期に都の貴族たちにも取り入れられ、宮中や神社の祭礼の樂として催されるようになると、中国宋において流行していた「散樂」と呼ばれる同様な舞楽の形式が取り入れられ、散樂の一種である猿樂と一体のものとなり、この舞楽は院政期・鎌倉時代に大流行をとげるようになった。

 猿楽はもともと中国唐からもたらされた「散樂」の一種で、物まねや曲芸を中心とするものであった。そして宮中の様々な節会で催されていたのだが、その主流はやがて民間に流れ、職業的な猿楽者を生んだ。そして猿楽はやがて田楽などの民間遊芸も取りこみ、物まねや曲芸だけではなくて、滑稽な劇や奇術・魔法の類、そして歌舞をも含む芸になり、これも含めて猿楽と称されるようになっていった。そしてこの多彩な舞楽は民間で行われただけではなく、王朝貴族にも関心が持たれ、院政期には、寺院の様々な催しなどでも猿楽が演じられるようになっていった。

 そしてこれが王朝貴族や武家によって愛玩されることを通じて彼らの文化が猿楽の中に取り入れられ、当時流行していた声明や説教節、そして大寺院の法会の余興として行われていた延年風流などの影響を受けて猿楽はより一目をひく演劇となっていった。その中でまじめな歌舞劇である能が作り上げられていったのは13世紀中頃だろう。それは猿楽能とか田楽能とか呼ばれていた。そしてこの能は、滑稽なせりふ劇である狂言と一体のものとして演じられるようになっていったのである。さらにこの過程で、曲芸や物まね芸は田楽として自立し、奇術・魔法は傀儡師の専業となって独立、猿楽は歌舞を伴う演劇に純化していった。

 こうして演劇に純化した猿楽は、鎌倉末期から室町初期のバサラと呼ばれる一目をひくことを美学とする傾向したがって栄えていったが、やがて室町中期以降に一般にも受け入れられていった禅宗の考え方が取り入れられて、より簡潔で幽玄の様を大事にする芸術的なものへと変化し、武家も含む上流貴族たちに愛される芸術となっていったのである(これはかの世阿弥以降のことであるが)。

 このように平安時代・摂関期から院政期にかけて庶民の間に流行した田楽・猿楽が王朝貴族の文化の中に吸収されることで、能という新しい芸術に生まれ変わっていったのである。

 このように院政期から鎌倉時代は、庶民的な芸能と王朝貴族的な芸能とが互いに交錯し、それぞれが影響しあって新しい芸能が生まれていく時期であった。これはこの時代が権力が一元化されずに多元化されていたが故に、それぞれの階層がめざすべき社会のあり方や政治のありかたを求めて交錯していた時代であったことを文化の面で反映していたのである。そしてこれが新しい文化として成立するのが室町期・戦国期であり、鎌倉時代はその過渡期であった。
 鎌倉時代の文化を論じるのであれば、このような視点も欲しいものである。

補遺3:平家琵琶について

 「つくる会」教科書は先にあげた個所で「平家物語は、盲目の琵琶法師によって各地に語り広められた」と記述し、「慕帰絵詞」という室町時代(正しくは、観応2:1351年)に作られた絵巻が描く「琵琶法師」の姿を掲載している(p91)。しかしこの記述および掲載された琵琶法師の絵には少々問題がある。

(1)琵琶法師=乞食坊主という偏見

 ここで教科書が掲載している「琵琶法師」の絵姿を見ると、彼は片肌脱ぎで袴もはいていない。そしてお伴の小坊主は裸足であり、貧しい法師の姿である。しかも今まさに語りを始めようとして犬の群れに吠え掛かられた琵琶法師は、持っていた杖を振り上げて犬を追い払おうとし、なんと彼の左目はかっと大きく見開かれているのである。つまり彼は盲目の法師ではない。偽者の盲目の琵琶法師ということだ。ということはつまり、平家物語を語る「琵琶法師」は、貧しい乞食坊主であると言う認識にたってこの絵は選ばれていると言う事なのである。
 このような認識はなにも「つくる会」教科書だけのものではなく、多くの平家物語・平家琵琶研究者にも共通するものである。例えば、平家琵琶の研究者である薦田治子はその著書で、彼ら「琵琶法師」が使っている琵琶の形状が、宮中の樂所などで使われている舶来もしくは舶来の木を使って作られている高価な樂琵琶と同じなのだが、「村や町で琵琶を弾きながら歩くような貧しい琵琶法師が、そうして贅沢な楽器を持てるとは考えられないので、手近にある、サクラ・センダン・ケヤキといった国産材を使って、樂琵琶の形を真似たものと思われる」(p323)で断定してしまっている。平家物語を語る琵琶法師は乞食坊主=貧しいという「常識」が存在するのである。

(2)勧進聖としての琵琶法師

 たしかに琵琶法師は遍歴の遊芸人であり、盲目の法師であった。琵琶法師の資料での初出はすでに平兼盛(990年死去)の歌集に見えているので平安時代には存在していたことは確実である。そして同時期・10世紀の貴族・橘直幹の事跡を描いた「直幹申文絵詞」(絵巻自身の成立は13世紀後半と考えられている)には、直幹の館の外の社の前で演奏する琵琶法師の姿も描かれ、さらには平安時代末期につくられた扇面法華経冊子にも貴人の館の縁先で琵琶を奏して何かをかたる琵琶法師が描かれている。
 つまり琵琶法師そのものは、平家物語の成立以前から存在しているのである。
 では彼らは何を語っていたのであろうか。琵琶法師の平安時代における語りの内容を示す資料は存在しない。一つ考えられることは、ずっと後の江戸時代になって平家琵琶を表芸とする琵琶法師の座である「当道座」が、この座に属さない琵琶法師が柱を動かす事のできる樂琵琶を使用することや浄瑠璃・筝曲・三味線・胡弓を演ずる事を禁止する裁判を幕府に起こしたとき、「琵琶を弾いて語る事は、古来から地神経に乗せて弾き語ってきたので、この儀は別として」と例外を設け、座外の琵琶法師が地神経を琵琶(ただし柱が固定された琵琶のみ使用許可)をつかって語る事だけは認めていた。この地神経を琵琶で語ったというのは、新築家の敷地を祓い清める事や、炊事の為に使用する竈(かまど)の神を祭る時に、土荒神と称する土の神を祭る際に、地神経を唱える伴奏に琵琶を用いたことを指している。そして江戸時代において地神経を琵琶で語ることを許された盲僧琵琶法師は、地神経だけではなく、仏の道をやさしく説いた「和讃」も語り、これらの法要の語りの合間に余興として、さまざまな物語を琵琶の伴奏で語っていた。またこの盲僧琵琶といわれる琵琶法師たちの「座」の伝承では、このような盲僧琵琶の起源は8世紀であり、天台宗の延暦寺に抱えられた盲僧たちが、「地神陀羅尼経」を法会で語ったとしている。

 このような伝承をもとに考えてみると、平安時代の文献や絵巻に登場する琵琶法師は、この時代に現われて各地を流浪しながら仏の道を説き浄財を集めてくる「勧進聖」に属するのであり、宗教的活動の一環だった可能性がある。この時代の琵琶法師たちの姿が黒衣の乞食のものであっても(前記の「扇面法華経冊子」や「直幹申文絵詞」が描く琵琶法師は袴姿で乞食の姿ではない)、それは釈迦が乞食姿で修行したという伝説に基づいて釈迦に戻ろうとする宗教活動上の姿である。そして、この聖たちの多くは、仏の道を易しく説くために大和言葉でづづられ節をつけて歌うように語る「和讃」を唱えたり、勧進に使用する絵巻をもって、その由来を口上として述べたりして人々との結縁を求めていた。このような「聖」の活動の一つとして、「和讃」や「経文」を琵琶の調べに乗せて語る琵琶法師が生まれたとは考えられないだろうか。

(3)貴族社会で生まれた平家琵琶

 このように比叡山延暦寺などの寺院を背景として諸国を勧進してあるく聖としての琵琶法師であれば、彼らが高価な樂琵琶を持っていたとしても不思議ではない。

 では平家琵琶の発生はどのような過程を経たものであろうか。
 それは、吉田兼好の徒然草第226段に依拠すれば、平家物語は平安貴族藤原行長の手によるものであり、彼と生仏という琵琶法師の合作によってこの物語を琵琶の調べに乗せて語るようになったという。そしてこの出家遁世した行長を扶持したのが天台座主慈円であるというのだ。

 この兼好の記述は、平家物語の内容と慈円の生涯を合わせて考えてみると、極めて蓋然性の高い話しである。
 平家物語は先に述べたように、「王朝の存続には武家の力は不可欠の存在であり、武家のつくった幕府は王家の守りなのだ」という主張が貫かれ、平家の栄枯盛衰は王朝(一院後白河)への奉仕と、彼との対立に原因があるという、極めて政治的な主張で成り立っている(この主張を法然流の浄土思想の調べに乗せて語っているわけであるが)。そして慈円が著した「愚管抄」の主張も全く同じであり、慈円は幕府との武力対決に踏み込もうとする後鳥羽上皇を諌め、王家は摂関家と武家とによって守られ存続してきたのだという歴史認識に基づいて、後鳥羽の行動を諌めようとしたのが「愚管抄」論述の意図であった。そして慈円は治承・寿永の内乱のあと、戦乱によって命を落したものたちの霊を慰めるために叡山に「大懺法院」をつくり、戦死者、とくに平氏の一族の霊が怨霊となることのないよう日々様々な法会を催していたという。
 平家物語が平家の怨霊鎮めのものとも言える内容を持っている事も考え合わせると、平家物語は慈円の主導下の叡山において「平家怨霊鎮め」と「後鳥羽の幕府武力討伐の沈静化」を図って作られた政治的な書であると解することができる。そしてこの比叡山が「和讃」や「地神経」を語って人々との結縁を求める琵琶法師の活動の場でもあったのだから、生仏はそのような琵琶法師の一人であったと考えることもできる。そして平家物語と平家琵琶とが生まれた平安末期・鎌倉初期の都では、叡山を拠点として「声明」という経文や仏教説話に節を付けて謡う芸能が盛んになっており、これは平安貴族の間でも流行していた。このことを考え合わせると、平家琵琶の節に(もちろん現在に伝承されているそれだが)「声明」と極めて類似した曲節が見られることや、平家琵琶の音楽そのものが声明の音楽理論を元にして作られている可能性が高いことは、平家物語と平家琵琶が、叡山を拠点にして生まれたと考えれば、納得の行く話である。
 また琵琶法師の座である「当道座」の伝承では、生仏は慈円の甥の子であり承久の乱前後の王朝国家の主導権を握っていた貴族・藤原道家の子であったという。
 要するに平家物語と平家琵琶は、巷で作られたのではなく、平安貴族の政治生活の場の中で生まれたのである。

(4)平家琵琶法師の諸国流浪は室町時代?

 このように考えてみると、平家琵琶のもともとの主たる聴衆は、公家と武家とを含めた貴族層であることがわかる。したがって平家琵琶を語る琵琶法師の活動場面は主として、公家たちの拠点である都と、武家の拠点である鎌倉ということになろうか。

 ところで鎌倉時代につくられたことが確実な「一遍上人絵伝」に描かれた琵琶法師の姿をよく見てみよう。彼らは一様に、袴をはいて高下駄をはき、背中に樂琵琶を背負って、伴の小坊主を連れて歩いている。この姿は「乞食坊主」のそれではない。そして琵琶法師が描かれた場面は、善光寺・鎌倉片瀬の地蔵堂・美作の国の一宮・京都七条の空也上人の遺蹟である。少ない事例ではあるが、けっして諸国どこでもというわけではない。このことはここに描かれた琵琶法師が平家琵琶を語る者だと仮定しても、語りの場が、寺社など人の沢山集まる場であるとともに、その主な聴衆が公家や武家であり、それらの貴人の家であった可能性を物語っている。平家琵琶を語る琵琶法師は、けっして諸国を流浪していたのではなく、聴衆の求めに応じてその居所にまで出向いて語ってもいた可能性も示している。

 「つくる」会教科書が掲載した「慕帰絵詞」は、室町南北朝時代に描かれたものである。そしてこの時代にはすでに都において兼好法師の知り人(おそらく貴族)も自宅で平家琵琶を聞いていたことが徒然草に書かれているし、太平記によれば、足利尊氏や高師直も平家琵琶を聞いていた。そしてまさしく「慕帰絵詞」が描いたその時代に活躍していた琵琶法師に覚一検校がいる。彼によって平家琵琶語りの琵琶法師の座である「当道座」が、公家の中の琵琶の家である源氏長者の村上源氏久我氏を本所として結成され、彼が主催する「当道座」の平家語りの規範本として1370年、覚一検校の死の前年につくられた語りのテキストが、今に流布する「覚一本平家物語」なのである。

 この「当道座」の琵琶法師は厳しい身分制度によって統制され、平家琵琶を全て語ることができたのは、その頂点に位置する検校や別当・勾当などの上位の琵琶法師に過ぎなかった。そして彼らは主に貴族の邸宅をまわって語ったり、院や天皇・皇族・公家、そして室町将軍や幕府重鎮の大名などの貴人に平家琵琶を教授したりしていたのである。このことは南北朝期の皇族である伏見宮貞成親王の「看聞日記」に詳しく記されている。ただこの時期の都の貴族たちは、所領の多くを武家に横領され、しだいに生活は困窮していた。したがって貴人の間をまわっていた上位の琵琶法師たちも都だけでは生活できず、諸国の武家を頼って各地に下向する旅を行っていた事も「看聞日記」に記されている。

 思うに、平家琵琶を語る琵琶法師たちが諸国を経巡ったのは、この南北朝期から次ぎの戦国期にかけてのことではなかったのか。そして「慕帰絵詞」に描かれた琵琶法師がもし平家琵琶を語る法師だったとしても、その風体からしてその身分は低く、平家物語のいくつかの句を語ることしかできない最下級の琵琶法師・座頭であった可能性が高いのである。

 絵巻に描かれた「諸国を経巡った」琵琶法師たちは、この座頭と呼ばれる身分の低い琵琶法師であった可能性が高い。彼らの風体を根拠にして、琵琶法師を乞食坊主だとする認識は間違いであり(しかも乞食坊主の風体でもない。乞食坊主は黒衣なのだから)、この意味で、教科書に琵琶法師の絵姿を紹介するのであれば、せめて鎌倉時代に描かれた「一遍上人絵伝」あたりの、きちんと袴をはいて伴を連れて旅をする琵琶法師の絵姿を紹介してほしいものである。

 :05年8月刊行の新版では、この「武士の文学」の項の表題は「鎌倉時代の文学」に改められ、保元物語や平治物語についての言及個所は、完全に削除され、軍記物が武士の文学で、和歌・随筆が貴族の文学と受け取られるような表現は全面的に削除されている(p74)。しかし平家物語の性格規定や、徒然草・方丈記の内容は旧版のままである。そして連歌や田楽・猿楽の記述もない。さらに、琵琶法師の絵姿も室町時代の「慕帰絵詞」のままである。

 :この項は、新日本古典文学大系の「保元物語・平治物語・承久期」(岩波書店92年刊)の各テキストと解説、「平家物語」(岩波文庫99年刊のテキストと解説、新潮日本古典集成の「平家物語」新潮社81年刊の各テキストと解説、五味文彦著「平家物語ー史と説話」(平凡社87年刊)、兵藤裕己著「平家物語ー語りのテクスト」(ちくま新書98年刊)、日本の名著「慈円・北畠親房」(中央公論社83年刊)の愚管抄とその解説、小西甚一著「中世の文芸ー道という理念」(1975年講談社現代新書刊、97年講談社学芸文庫所収)、五味文彦著「徒然草の歴史学」(1997年朝日新聞社刊)、館山漸之進著「平家音楽史」(明治42年刊・1974年芸林社再刊)、薦田治子著「平家の音楽」(2003年第一書房刊)、横井清著「室町時代の一皇族の生涯ー『看聞日記』の世界」(1979年そしえて刊・2002年講談社学術文庫再刊)などを参照した。


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