「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判12


12.中国・宋の影響を軽視した美術論

(1)天平彫刻の影響を重視する美術観

 鎌倉の文化の最後の項目は、「鎌倉の美術」と「肖像画と絵巻物」である。内容的にはどちらも美術作品をあつかっているので、一緒にして論じたい。

 この二つの項で主に論じられているのは、運慶に代表される「写実的で力強い」彫刻と、似絵という写実的な肖像技法が発展したことである。
 運慶に代表される彫刻については以下のように記述されている(p92・93)。

 源平の戦いで、平氏の焼き討ちにあった奈良の大きな寺院では、建築や仏像の復興が進められた。(中略)仏像の制作に参加した運慶は、写実的で力強い像をつくった。(中略)運慶たちは、天平時代の古典彫刻を研究した成果をふまえて、作品に写実性と運動感を与え、仏教彫刻に新しい風を吹き込んだのである。

 つまり運慶らの写実的な彫刻は「天平彫刻」を研究した成果だというのである。

 そして続いて、似絵という写実的な肖像画がさかんになったことや、絵巻物でも生き生きとした迫力のある作品が生み出されたことを論じている。

 注:「つくる」会教科書の旧版では、この写実的な美術の項の位置付けが不明確であるが、05年8月刊の新版は、そこを明確にしている。すなわち、「彫刻では、武士の気風を反映した、力強い作品が生まれた」と。つまり鎌倉時代の写実的で力強い美術作品は、武士の気風を反映したものであり、まさに「武士の世の美術」だと言いたいのであろう。(従来の美術史研究の分野でもそのようにとらえる学者が多い)

(2)「写実」を尊んだ時代を無視する美術論

 たしかに運慶らの彫刻は、天平彫刻に学んではいる。京都の定朝派の流れを汲む彼らも、長く南都の奈良仏所を拠点に活動していた。その地域には天平時代の優品が数多く存在していたのだから、それらからも学ぶことはあったに違いない。そして運慶派の人々が大量に仏像を創作した背景には、1180年の平氏による奈良焼き討ちによって、東大寺などの大寺院が灰燼に帰したという出来事が背景にある。
 戦火で焼失または破損した仏像をなるべく古来の形に復元する作業。見るだけではわからなかっただろう技法を学ぶ機会になったことは確実である。

 しかしそれも、彼らが「写実的な」「動態的な」彫刻を理想として求める心があってのことである。

 ではなぜ彼らが「写実性」や「動態性」を理想として尊んだのか。
 このことを考えるには、運慶らが活動した時代を考えてみれば良い。運慶の没年は1223(貞応2.12.11) 年。1176(安元2)年に、奈良円成寺大日如来像を造立したことは確実であり、彼の父の康慶は、かの後白河法皇の建立した蓮華王院の造立事業にも参加している。つまり彼らは、院政期に活動しているのだ。

 院政期には、きわめて写実的で動態的な美術が生まれていたことは、後白河が作らせた数多くの絵巻物でよくわかる。この教科書も「院政期の美術」で例示していた「鳥獣戯画」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起絵巻」は、どれもかなり写実的であるとともに、人々の姿が生き生きとまるで動いているかのように描かれていた。また、この教科書が記述している絵画における「似絵」の技法も、始まりは院政期である。この似絵技法の始祖とされている藤原隆信は、後白河院の近臣であり、後白河が建立した寺院の障壁画などを数多く手がけている。彼の生没年は、1142‐1205(康治1‐元久2.2.27)である。
 この藤原隆信は、まさに運慶と彼の父との同時代人なのである。そして院政期の生き生きとした絵巻を描いた画家たちもまた、運慶たちと同時代人なのであった。

 院政期とは、そしてこれは同時に、平安末期から鎌倉初期の時代であるが、「写実的」で「動態的」な美術が尊ばれ、盛んになった時代と言っても間違いではない。(旧来の形式を重んじる美術もまた大いに作られているので、二つの傾向が共存しているとも言えるが)

 そしてこれは何も美術に限られることではなく、文学などでも言えることである。この時代は「今昔物語」に結実されるような、さまざまな物語、それも古今の人々の暮らしや思想を生き生きと描いた説話が、いくつも作られた時代でもある。和歌でも新古今に結実するような形式美を重んじた流派があるかと思えば、西行に代表されるように、写実的で人の心情をありのままに描く歌風もあり、鎌倉初期を代表する仏教者である、明恵上人の歌などは、かなり写実的でもある。そしてこの時代は「方丈記」に代表される、時代と自己の人生をありのままに見つめる「隠者の文学」も成立したし、愚管抄のような、論理的に歴史を再構成し、現代と未来とを見とおそうとするような論考も生まれている。
 また仏教における浄土宗や日蓮宗、そして禅宗や、新義律宗や新義華厳宗などの新仏教の動きも、古い共同体が崩壊し、新しい社会が生まれる過程で悩む人々を救おうと言う、きわめて現実直視の、そういういみでは写実であり、時代の要請にあった形で仏教理論を再構成しようとする態度も、論理学における動態性とも言えよう。

 つまり院政期(平安末期から鎌倉初期を含む時代)は、あらゆる分野で「写実性」と「動態性」とが重んじられ始めた時代だったのである。
 したがって運慶らの彫刻を考察するにあたっても、この「時代精神」の問題抜きには考えられないし、その中で「写実性」と「動態性」を求めた彼らの前に、その先例ともいえる天平期の優品があったというように考えるべきである。

(3)触媒としての中国・宋文化の存在を無視する文化論

 そしてもう一つ、この時代において、きわめて「写実的」で「動態的」な文化が生まれた切っ掛けに、中国の宋代の文化の影響があることも見逃せない。
 宋時代の文化の特質は、「写実性」と「現実を直視した論理性・実証性・科学性」にある。そしてこのことは、前代の唐時代に始まったことであり、中国において商品経済が発展するとともに、旧来の血縁的共同体が壊れ、個人が新しい家を単位として社会の中で相対する新しい動きに対応してできたことであった。
 従って文学においては説話集が数多く編まれ、さらには、「記」といって、物事を客観的に記述する文学が、貴族階級や士大夫階級の間に、自然の中で文化を楽しむ暮らしが愛好されたことと相俟って、新たな文学として生まれた。そして芸術においても、写実的なものが好まれるようになり、写実的な絵画や彫刻が作られた。学問においても大義名分論を重んじる朱子学が生まれると共に、それに対して実証的に社会に役立つ学問を目指す傾向も現れ、これは後に明代の王陽明によって大成されることになる学派であった。
 また宋代には印刷技術が発展したことにより、これらの説話や理論書なども仏典とともに印刷に供せられ、中国だけではなく東アジア・東南アジアの諸国の文化にも大きな影響を与えている。

 この宋代の文化は、平安後期から鎌倉になっても盛んに続いていた日宋貿易を通じて日本にも大量に招来され、それが日本の文化にも大きな影響を与えていると見られる。大宰府を通じた貿易には、博多在住の宋人商人が活躍し、彼らによって、日本で必要とされて大量に輸入された宋銭だけではなく陶磁器や書画・仏典などが数多く輸入された。院政期の学者である左大臣藤原頼長や信西入道が、彼らの蔵書の多くを、博多の宋人商人に注文して、宋から取り寄せたことは有名である。
 この宋の文物は、北九州だけではなく瀬戸内海の海路をへて、日本中に広がっていたことは、各地で発見される陶磁器でわかるし、今なお、各地に宋代の様式を伝える仏像が伝来していることなどからも想像される。

 ということは、院政期に、日本に写実的な絵画や彫刻や、同じく写実的な説話集や、現実世界を客観的に描いた「記」や試論が生まれたのは、背景としては日本における商品経済の発展と旧来の共同体の崩壊と「個人」の自立と言う社会的動きがあったことにもよるが、そのようにして生まれた日本における写実的・実証的・論理的な気風が、それぞれ芸術や学問として結実するに際して、宋の文物が、その触媒の役割を果たしただろうことは容易に見て取れることである。

 運慶らの写実的な作風は、宋代の仏像彫刻に特徴的な写実的な衣の襞の描写や、京都の嵯峨野の釈迦堂に残されているような「生身の釈迦」を写したという釈迦如来像のあり方に大いに影響を受けていることは、美術史家がすでに指摘するところである。そして方丈記などの文学が、唐から宋代に発展した「記」という形式の自然を客観的に記述した作品とそれに倣った日本での漢詩文に倣ったものであることも従来から指摘されている。
 絵画における似絵の技法や肖像画の流行の問題は、そして説話物語の成立の問題は、宋代の文化と結び付けられて論じられることはまだないようであるが、これも充分可能性のあることである。

 しかし「つくる会」教科書は、このような「写実を重んじる時代精神」の存在や、その芸術的結実の触媒になったであろう宋の文物の影響をほとんど省みることなく、院政期における日本での写実的芸術の発展を、日本の中での、個的な動きとして記述するだけであるし、運慶らの彫刻については、彼らが典拠の一つとした天平彫刻の影響のみを重視するという誤りを犯している。

 この誤りの原因はおそらく二つある。一つはこの教科書の著者たちが、院政期の文化の写実性や力強さをすべて「武士の勃興」と直接関連づけて考えていること。二つ目は、彼らが天平期の文化を「日本の古典」としてとりわけ高く評価していること(しかしこの天平期文化それ自身が、中国唐文化の完全な模倣であったのだし、唐文化こそ、宋代に花開く写実的・実証的文化の先駆けであったのである)。これら二つの傾向が、院政期文化の実像を把握することをできなくさせた理由であろう。

 「つくる会」教科書は、文化史の分野でもまた、社会史的視点に欠けているという欠点を持つと同時に、外国(特に中国・朝鮮)の影響を軽視するという誤りを犯していたのである。

:「つくる会」教科書の旧版で、鎌倉時代を代表する絵巻物としてあげている「地獄草子」は、かの後白河の作らせたものであり、この教科書の構成でいうと、「院政期の文化」に入れるべきものである。また、この誤りは、05年8月刊行の新版では訂正されているが、「鎌倉時代の美術」という題での記述の性格は、旧版とほとんど同じで、同じ誤りを犯している(p75)。

:この項は、棚橋光男著「後白河法皇」(1995年講談社メチエ刊)、日本大百科全書の関係の項目などを参照した。


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