「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判13


13.歴史の表層をなぞるだけー鎌倉幕府の滅亡

 第2章「中世の日本」の第2節「武士の政治の動き」の冒頭は、「鎌倉幕府の滅亡」についての記述である。短いので記述の全文を載せておこう(p94)。

 鎌倉幕府の支配がゆらぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めた。
 14世紀のはじめに即位した後醍醐天皇は、天皇親政(天皇みずからが政治を行うこと)による恣意的な政治を行うため、討幕の計画を進めた。初め計画がもれて二度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に移されるようなこともあった。しかし後醍醐天皇の皇子の護良親王や河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して、絶大な幕府の勢力とねばり強く戦った。
 やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、それまで討幕勢力が不利だった形勢は一変する。幕府軍から御家人の脱落が続き、足利尊氏が幕府にそむいて、京都の六波羅探題をほろぼした。ついで新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて鎌倉を攻め、1333(元弘3)年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

(1)目立つ恣意的な表現

 一読して気がつくことは、あちこちに恣意的な記述や表現が目立つことである。

@後醍醐天皇の親政は「恣意的な政治をおこなうため」なのか?

 この教科書は後醍醐天皇が幕府を討とうとしたのは、「天皇親政による恣意的な政治を行うため」と表現している。「恣意的」とは「自分勝手な考えによる」という意味であり、たしかに後の「建武の新政」はまさに、それに反対する貴族や武士によって「恣意的な政治」と謗られた。それは後醍醐天皇の政治が、従来の院政期における様々な慣行を一切無視し、貴族や武士の特権を廃止して、天皇にすべての権力を集中しようとするものであったがゆえに、特権を奪われる貴族や武士からは「恣意的」と謗られ、それが新政の崩壊に繋がった。

 だがこれは結果である。
 教科書のこの部分は、後醍醐天皇がなぜ、何のために幕府を討とうとしたのかを説明するのであるから、彼自身の理想・政治思想を述べる必要がある。そしてこれは後の評価抜きに、正確に彼の意図を記述すべきなのである。しかるに「つくる会」教科書は、「恣意的な政治を行うため」と記述した。これこそ「恣意的な」記述である。

 ではどう記述すべきか。「天皇親政を理想とし、天皇にすべての権力を集中した中央集権国家を築くため」とすべきなのではなかろうか。これなら理想とする政治形態も、国家のありかたも一言で表現できる。

 :05年8月刊の新版は、「天皇みずからが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために、討幕の計画を進めた」と、後醍醐天皇の意図についての記述を改めている。しかし「天皇親政」がどのような国家のありかたを目指すものなのかは、相変わらず何も触れられていない。

A後醍醐天皇は隠岐に「移された」のか?

 なぜ「移された」という表現になるのか。事実は「流罪」である。一度目の討幕の陰謀の発覚時には側近が斬罪に処せられただけで天皇はお構いなしだったが、2度目は幕府も放置できず、承久の乱の先例にならって「流罪」として、隠岐の島に「配流」としたのだ。彼は討幕を企てるという「犯罪」を犯し、天皇の位を剥奪されて、島流しにあったのである。

 なぜこう記述しないのか。おそらく「つくる会」の人たちは、日本における権力の所在は天皇にあるのであって、幕府はその天皇から権限を委譲されて国家統治を行うとものである。その臣下たる幕府(正しくは執権北条氏)が、主君を「処罰」するなどということはあってはならない。このように考えたから「移した」と記述したのであろう。

 :承久の乱の所でも、「後鳥羽上皇は隠岐に移された」と記述し、「配流」とは記述しない。これも同じ理由であろう。

 しかし当時の法的な処置としても、後醍醐天皇を流罪として隠岐に流したのは、後醍醐天皇に代って天皇位についた光厳天皇であり、実質的な権力の行使者である後伏見上皇によってなのである。そして後醍醐天皇がやったことは、天皇家の存続を危うくし、王朝国家滅亡に至る危険な行為であると、多くの貴族や皇族が認識していたのであり、彼の「謀反」を幕府に知らせたのは、彼の腹心であった吉田定房なのである。後醍醐天皇による討幕の行動は、当時の貴族社会にとっては、「天皇御謀反」であり、「気狂い」の沙汰だったのである。だから幕府が実質的に彼を流罪に処したのであっても、それは貴族社会の多数派の支持を得て行われたのであり、討幕派こそが少数派であったというのが事実なのである(この事実をとらえておかないと、建武の新政の崩壊後に、足利尊氏が、別の天皇を立てることができた理由がわからない)。

 後醍醐天皇は「流罪」に処せられた。これが事実であり、当時の人々の評価なのである。それを「つくる会」の教科書執筆者たちは、彼らの今日の時点における価値観で事実を歪めた。まさに恣意的な記述である。

B楠木正成は悪党ではなかったのか?

 さらに討幕運動に参加した武士として楠木正成の名をあげているが、彼は「豪族」であったと記述されている。そして彼や護良親王が集めた勢力は「近畿地方の新興武士」であったと記述する。
 この「豪族」とか「新興武士」とは一体何者なのか。

 通常、楠木正成は「悪党」と認識され、当時の資料にもそのように記述される。そして彼ら「悪党」こそ「新興の武士」なのであった。彼らは発展しつつある商工業を基盤にして財力を蓄え、荘園や公領の年貢を掠め取ったり、その領地の一部を奪い取ったりして、当時の幕府や王朝の定めた法にも従わないものたちであった。だから「悪党」とよばれたのである。

 なぜ楠木正成など、後醍醐天皇(正しくは護良親王の令旨によって)の下に集まった武士たちが「悪党」ではいけないのか。彼らが幕府や王朝の法には従わず、実力で領地を奪い取っていく武士だったからこそ、後醍醐天皇の「親政=新政」の呼びかけに応え、公然と幕府に叛旗を翻したのである。そしてだからこそ彼らは建武の新政に賛同し、これに反対する公武の勢力によって造られた北朝=室町幕府に従わずに、新政の崩壊以後も後醍醐天皇とその一派=南朝に付き従って戦ったのだ。
 なぜこの事実を見ようとしないのか。

 おもうにこれも、「つくる会」教科書執筆者の大義名分論に基づいているのだろう。主権者である天皇を支えた武士たちが「悪党」であってはならない。「悪党」とは天皇に敵対した幕府のつけた呼び名なのだからと。
 しかし彼ら悪党は幕府にとってだけではなく、王朝にとっても「悪党」であったのだ。

 「悪党」であった彼らを、「豪族」とか「新興の武士」と記述することは、かえって史実を見えなくしてしまい、これもまさに恣意的な記述なのである。

C足利尊氏は「高氏」である

 そしてもう一つ、些細なことに見えるが、足利尊氏の名前を「尊氏」として記述することも、歴史事実として違うし、史実を見えにくくするものである。
 彼は幕府の滅亡・新政の成立までは「高氏」であった。そしてこれは時の幕府執権北条氏の得宗であった高時の一字をもらったものであり、足利氏が代々、北条得宗家と婚姻関係を持ち、幕府中枢に連なってきた家柄であったことを示すものである。その足利家の当主である「高氏」が幕府に叛旗を翻した。ここに幕府崩壊の直接の引き金になった理由があるわけである。

 さらに、足利氏が頼朝流の清和源氏が滅びた後では、清和源氏の嫡流として遇されていたこと、そして足利高氏が幕府による討幕派討滅のための遠征軍の総大将であったことを、この教科書はまったく記述しない(関東において挙兵した新田義貞も清和源氏であるが傍系であり、彼一人の決起では兵が集まらず、関東の武士の多くが集まったのは、高氏の嫡男の足利義詮の下であったのが事実だ)。「清和源氏嫡流であり、幕府の中枢に場を占める、遠征軍の総大将であった」足利高氏が北条氏に叛旗を翻したという事実こそが、鎌倉幕府崩壊の引き金なのであり、だからこそ建武の新政期を通じて尊氏(新政期に彼は後醍醐天皇の名前:尊治:の一字をもらって改名している)に公武の多数の人々の期待が集まり、これが建武の新政の崩壊に導いたという歴史的事実につながるのである。

 足利高氏についての記述は多くの教科書において、「つくる会」教科書とほぼ同じであるので、この記述は恣意的なものではないが、これでは、討幕に至る社会関係が不分明な記述になってしまうのである。

(2)時代が要請したのは、権力の一元化

 この教科書の記述の誤りは以上のとおりであるが、もっと大事なところが抜け落ちている。

 それはこの時代において望まれていたのは「権力の一元化」なのであり、だからこそ、「北条氏も権力を集中」しようとしたのであり、「後醍醐天皇も権力を集中」しようとしたのだという、時代の根幹の所での流れが一顧だにされていないことである。この時代背景が抜けているから、「北条氏が権力を集中しようとして御家人の反発を強めた」理由も、「後醍醐天皇が討幕を企てた」理由もよくわからない記述になってしまうのである。

@頻発する争いと統一権力としての幕府

 すでに「元寇」「鎌倉幕府のおとろえ」の所で詳しく記したが、武士勢力が伸張するなかで、そしてその背景にある貨幣経済が発展する中で、諸国において領地をめぐる「土地争論」が頻発していた。それは王朝の皇族や貴族・寺社対その領地の現地管理者(荘官であったり地頭であったりする)という対立だけではなく、荘官・地頭対新興の武士(悪党)であったり、荘園・公領の百姓対荘官・地頭・悪党であったりと、多岐に及んだ対立であった。

 この動きは土地とその管理権、さらには土地からあがる収益の運用権という支配の根幹に関わるものであり、裁判によって決着がつかない場合は、実力によって争奪するという問題であるから、裁判によって調停する側にも物理的な暴力の発動が期待される。このためこの頻発する土地争論は幕府の裁判所に持ち込まれ、朝廷ではなく幕府が裁定しなければならなくなっていたのである。

 さらにこの土地争論の頻発の背景には、全国的な貨幣経済の発展を背景にした貧富の格差の増大という問題があり、貨幣経済・商品経済を全国的に統制するという課題があった。
 そして武士たちの争論の結果として、それを抑えることを任務とする守護の権力の増大という事態の変化があり、国々において武士たちが強大な力をもつ守護の下に統合され、その被官となるという動きが起こってくる。

 そうなるとこの争いの調停には、幕府内における有力御家人同士の争いという要因も絡んでくるのである。

 このような争乱の時代に、モンゴル帝国が日本に攻め込んできたのであるから、事態はますます「権力の一元化」を要請する。外敵の脅威を前にして国家を統一して対する権力の創出、そして頻発する土地争論などの争いを、国家的に統一対応で調停する権力の創出。時代は、「権力の一元化」を望んでいた。その期待は幕府に集まっていたのが事実である。

A皇統の分裂=揺らぐ血脈の優位

 なぜならば朝廷はますます現実対応能力を失っていた。それは荘園・公領という場の直接的掌握力の低下という問題だけではない。朝廷の頂点にある皇統が二つに分裂して相争い、収拾がつかず、幕府に調停を願い出ると言うしまつであったのだ。
 いわゆる「大覚寺統と時明院統の対立」である。

 承久の乱の後、皇位は後鳥羽天皇の系統から、彼の兄である守仁親王(高倉天皇の第2皇子、後に出家して行助法親王)のこである茂仁が後堀河天皇となり、この系統に伝えられた。しかし後堀河の子の四条天皇が後継ぎもないまま幼くして死すと、誰を後継ぎにするかで朝廷内で争いが起きた。この時幕府の調停の結果、承久の乱の時に反幕府の姿勢を示さなかった土御門上皇の子が即位し、後嵯峨天皇となった。以後この系統に皇位が伝えられたのだが、後嵯峨が彼の長子である後深草の系統ではなく、末子の亀山の系統に皇統を継がせようとし、亀山ー後宇多と大覚寺統に皇位が続くと、後深草の流れの皇統(時明院統)は危機感を持ち、幕府に調停を申し入れた。幕府の調停は、「両方御流断絶あるべからず」というもので、以後、二つの皇統が交代で皇位につくというものであった。
 以後、誰が皇位を継ぐかという問題が起こるたびに朝廷内は混乱し、それぞれの皇統を支持するものたちが、競って鎌倉に調停を依頼するという事態が起き、しかも幕府の対応はかなり恣意的で、その時の朝廷における実力者の側に偏った判定を下したものだから、皇統をめぐる争いは一層激化するという事態になってしまった。

 そのため皇位は2・3年で交代となり、交代するたびに、実質的権力行使者である院も交代してしまうため、継続的な政策をうつこともできなくなってしまった。
 となれば天皇・院の権威すら低下する。誰がなるかは、その時の朝廷の実力者と幕府の合議による恣意的に決定によるのだから、「誰でも良い」という観念が生まれ、天照大神の血脈が皇位を継ぐという「血脈の優位」という観念すら揺らぎ、「皇位につくものは徳のあるものでなければならない」という、中国の宋代の政治理論の影響を受けた考え方が伸張してきた。
 こうなれば皇位のそんざい事態がその存在意味を問われることになり、天皇制の危機の状況と言ってよい状態になったのである。

B一御家人が支配するという矛盾

 だからますます鎌倉幕府に期待が集まるわけだが、その幕府にも大きな矛盾があった。

 それは幕府は形の上では、貴種(=天皇の血をひく貴人)である将軍の下に、諸国の武士が御家人として奉仕するという体制ではあったが、実権は、執権北条氏の下にあり、将軍(最初は摂関家出身、以後は皇族)は形だけのお飾りとなっていた。
 しかしその執権北条氏は、桓武平氏を名乗ってはいるが、伊豆国の一在庁官人の末裔に過ぎず、幕府の基盤である関東にも他の有力御家人(彼らは清和源氏であったり桓武平氏、もしくは藤原氏の子孫であり、国内に有力な一族を多数配置し、守護の下にその国を支配する体制を固めていた)とは異なって、有力な一族も少なく、権威も実力も乏しい武士団であった。北条氏は、身分としては一御家人にすぎず、数多い御家人の同輩の一人でしかなかったのである。

 その北条氏が幕府の主要な役職を独占するばかりか、モンゴルの襲来を契機にして、非常時を理由にして諸国守護まで独占していく。そして非常時を理由として、朝廷や有力寺社にまで命令をおよぼし、諸国で頻発する土地争論も裁断していく。さらにその裁定がおおかたの納得のいくものであれば問題はないのだろうが、北条得宗家においてその家臣団が実権を握っていくや、幕府の裁定は、これらの有力被官の恣意に委ねられてゆく。そして分裂する皇統に対する裁定や、永仁の徳政令に見られるように、訴訟の強権的禁止に至るや、事態を直視しない、場当たりの政策にすらなっていった。

 御家人や朝廷の貴族や皇族、有力寺社、さらには庶民の間にいたるまで、不満は鬱積するのである。その不満は「伊豆の一在庁の子孫でしかない北条になぜ我らが従わねばならないのか」という意識を生み出し、より高い権威の下で、政治がなっとくのいくものであるものに変わることを人々が期待していったのである。

 このことを示す動きとして、討幕の企てに有力御家人が加わっていたという事実がある。

 これは他の教科書もほとんど記述しないのだが、1324年の後醍醐天皇による第一回の討幕の謀議には、幕府の中枢を占める御家人武士たちの幾人かが加わっていた。それは、北条得宗家の縁者でもあり、六波羅探題の引付頭人・評定衆の一員であった有力御家人伊賀兼光である。彼は幕府の滅亡後の新政において後醍醐天皇の寵臣の一人として活躍し、新政府の中枢を占めた人物であった。彼は1324年3月に造像された奈良般若寺の本尊の施主であり、この像は、後醍醐天皇による討幕の企ての成就を願って造られたものという。
 つまり六波羅探題の中枢を占める有力御家人が、すでにこの時点で後醍醐天皇の企てに参加していたのである。

 伊賀氏は有力御家人ではあるが、1285(弘安8)年のいわゆる霜月騒動においては安達泰盛の側に組して、北条得宗家と戦って敗れ、所領の一部を奪われたという経歴を持っている。つまり北条得宗家に権力が集中することに不満を持っていた有力御家人ということなのである(網野善彦氏は、他にも伝来の常陸守護職を北条氏に奪われ、建武新政で要職を占めた小田氏の一族も、この時期から後醍醐天皇の側についていたのではないかと推測している)。

C一代限りの王=後醍醐天皇

 このような時代に「一代限りの王」として即位したのが後醍醐天皇であった。
 彼は即位にあたって父である後宇多上皇から「皇位は皇太子である邦良親王(後醍醐の兄、後二条天皇の子)に継がせる」と言い含められており、皇統は後醍醐天皇の血脈には受け継がれない。彼は大覚寺統の期待の星であったのに若くして死んだ兄後二条の子が成人するまでのピンチ・ヒッターであり、一代限りの天皇であった。

 しかも当時、皇位は朝廷の内部だけでは決まらない。幕府の裁定が決定する。その裁定を自派に有利にするために、後醍醐天皇の下で皇太子すらとれなかった時明院統の一派や、皇太子である邦良派が、なんと両派が手をつないで、幕府に対して後醍醐天皇の早期引退を願い出るありさまであったのである。

 後醍醐天皇は、「権力の一元化」が期待される時代に応え、院も摂政も関白も、そして幕府もおかずに天皇の下に権力を統一した中央集権的国家の樹立と言う理想を持って即位した。しかし政治の実権は父・後宇多が握る。その理想も、一代限りの天皇では実現不可能である。彼にとっては朝廷も幕府も敵なのであった。

 そんなとき1321年。父・後宇多が死去する。後醍醐天皇は念願の親政を実行し、朝廷の旧来の慣行である官職の家相続の制度を無視して、彼の側近を職につける。たとえば増大する商品の流通を管理する市司を家職とした貴族ではなく、彼の側近とし、市からあがる税を天皇の手に集中しようとし、さらには、家々に代々継承されていた国司の座も奪い、天皇の側近に代える。こうやって天皇に権力を集中しようとはじめたのである。

 だがこの動きには、朝廷内から激しい反発がおこる。それは時明院統派だけではなく大覚寺統派からも起きた。そして後醍醐天皇の親政に反発する貴族たちはこぞって、幕府に彼の退位を願い出たのである。
 後醍醐天皇が、彼の権力を維持し、彼の理想を実現するには、幕府とそれに頼ろうとする全ての皇族・貴族をも一掃しなければならなかったのである。

 後醍醐天皇は、「親政を実現するため」に討幕を企てたのではない。1321年。彼の親政は実現したのである。しかしその理想の貫徹のためには、都の貴族・皇族の多数派が壁として立ちはだかり、その背後には鎌倉幕府が存在した。彼はこの圧力の前に屈して退位するか、それとも幕府を討って、朝廷内の反対派を黙らせて、親政を貫徹するか、二つの道しか残されていなかったのである。

 鎌倉幕府の滅亡は、この「一代限り」の天皇の執念が、幕府内部の反北条派や、幕府や朝廷の権威にも従わない新興の武士=悪党たちという、それぞれ思惑の異なる諸勢力をも惹きつけて起きた出来事なのであった。

 これが鎌倉幕府の滅亡の背景である。この背景がわかるように、またこの背景が記述から浮かび上がってくるように教科書は記述されるべきである。
 しかし「つくる会」教科書は、恣意的でかつ平板な表面的な記述に終始したことは上に記述したとおりである。

:05年8月刊の新版の「鎌倉幕府の滅亡」の項の記述は、旧版とほとんど同じである(p76)

:この項は、佐藤進一著、前掲の「日本の中世国家」、網野善彦著「異形の王権」(平凡社1986年刊)、村井章介著「13−14世紀の日本―京都・鎌倉」(岩波書店1994年刊、岩波日本通史第8巻中世2の巻頭の概説)などを参照した。


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