「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判14


14.本質を歪めた「建武新政」論

 「鎌倉幕府の滅亡」に続いて、建武新政の性格とその崩壊についての記述に進む。
 ここでは、建武の新政の性格に付いては、以下のように記述されている(p95)。

 後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇親政を目標として、院政や摂関、幕府をおさえ、新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年、年号を建武と改めたので、これを建武の新政という。武家政権がほろび、公家政権が復活したという見方からは、建武の中興とよぶ。
 しかし、建武の新政は公家を重んじた急激な改革で、武家の実力をいかす仕組みがなかった。

 はたして、この性格付けは正しいのだろうか?。

(1)至高の権力保持者としての天皇

 この記述では、「院政・摂関・幕府をおさえた天皇親政」という「新しい政治」の意味があまりに不明確である。この「院政・摂関・幕府」を抑えるということが何を意味するのかが、まず明らかにされねばならない

 摂関制は、中世前期において、安定した皇位継承を図り、律令法では対応できなくなった現実に対して、律令制の外にある「摂政・関白」という権力によって対応しようという政治形態である。しかもこれは、天皇家が行く筋にも分立して皇位継承を争うという状態の中で、天皇権力の保持者としての天皇家の家長が、幼い後継ぎを残して夭折するという権力の危機の構造の中で生まれた政治形態であり、本来は至高の権力の保持者である天皇家の家長に代って、天皇の母方の家長が摂政・関白という地位について、権力の執行を代行するという政治形態である。したがって権力の源としての天皇とその代行者である摂関という形に権力が実質的に二元化してしまい、その内部に激しい権力闘争を内包するきわめて不安定な政治形態である。

 また院政は、中世前期において、安定した皇位継承を図り、律令法では対応できなくなった現実に対して、律令制の外にある「院」という権力によって対応しようという政治形態である。これによって、権力は天皇家の家長である「院」が保持し、律令制の枠に縛られる天皇に代って、権力を行使するという、政治形態である。しかしこの政治形態も、天皇家が幾つかの分流に分かれて皇位を争うと言う皇位継承が安定しない状況に中で生まれた政治形態であり、内部に権力闘争を内包した、不安定な政治形態であることは、摂関制と同じ性格を持っている。

 さらに幕府は、その権力の所在を巡る争いが、武力を持ってしか解決し得ない状態になり、武力を司る武門貴族の権力が増大する中で、王朝国家の中で、軍事・警察権を行使する部門として生まれたものである。これは本来は天皇家を頂点とする王朝国家の枠内で動くべきものであったのだが、社会の深部からの変化により、共同体が崩壊・変質する中でさまざまな争いが頻発するという状況により、軍事・警察権という権力の一部を行使する存在から、裁判権・行政権まで行使せざるを得なくなり、本来は武門貴族の一家政機関であった幕府が、実質的な権力の行使者へと変化せざるをえなくなったものである。しかし幕府権力は、権力の源としての天皇もしくは「院」の存在を前提としており、本質的に権力が二元化してしまっているが故に、不安定な政治形態である。

 つまり後醍醐天皇が抑えたという「院・摂関・幕府」とは、どれも権力が二元化しており、不安定な政治形態であると言う共通な特徴を持っている。それを否定し、天皇親政を実現すると言うことは、権力の所在を天皇に一元化することで、安定的な政権を築こうということなのである。
 後醍醐天皇が目指したのは、天皇に権力が集中した中央集権的国家の建設なのであり、権力の一元化を要請する時代の趨勢に対する一つの答えなのであった。まずこのことを最初に確認しておく必要がある。

(2)天皇を中心とする官僚制国家へ

 しかしこの政治形態は、公家と言う堂上貴族を中心とした政権で、武家という武門貴族の力を生かせない仕組みと言うことを意味するのではない。

 後醍醐天皇がやったことは、公家にしろ武家にしろ、彼らが持っていた特権を廃止し、彼らをすべて天皇の権力を行使する官僚として再編成することであったのである。

 後醍醐天皇は都に帰還すると、後伏見上皇による院政を廃止し、光厳天皇を退位させた。そして彼は天皇に復位するとともに、彼が島流しにあっていた間の全ての官位の授受や命令を廃止して、以前の天皇親政期に復させた。その中で彼がやったことは以下のとうりである。

@公卿会議の廃止

 院政にしろ摂関制にしろ、実は権力は、院や摂関が独裁的に行使したわけではない。日本の律令は、中国のそれとは違って天皇に絶対的な権力を付与してはいなかった。王朝国家において権力の最高意思決定機関は、太政官の議政局、のちには公卿会議である。これは、天皇の親裁の下で、左右の大臣と大納言・中納言・参議という最も位の高い貴族=公卿たちが集って物事を決定する機関である。
 摂関はこの公卿会議の上に、天皇の名代として臨むのであり、摂関以下の公卿たちの合議にかけて、物事を決定していたのである。そして院政の場合も「院」が絶対的権力を握ったわけではない。天皇の名代としての摂関を頂点にした公卿会議があいかわらず最高の意思決定機関であり、院は摂関と頻繁に協議することを通じて、自らの意思を公卿会議に反映させていたのである。

 ようするに王朝国家は、公卿と言う高位の貴族の合議制であったのである。
 その公卿会議を後醍醐天皇は廃止してしまった。公卿会議の決定事項は太政官官符として流されるが、新政の初期においてはこれが全く見られなくなってしまったのである。そしてこれに代って頻繁に出されたのが天皇の意思としての綸旨であった。

A公卿の官僚への転化

 では高位の公卿たちはどうなったのか。
 彼らは天皇の忠実な僕=官僚として、天皇に奉仕することが期待された。
 建武の新政において、太政官の下にあって中央政治を司る八省の長官に二位とか三位とかの位を持つ公卿たちが任命された。そして諸国の国々の政治を司る官僚としての国司にもこれらの高位の公卿たちが、後醍醐天皇の側近となった武士たちと並んで任命されていたのである。
 さらに建武の新政においては、天皇直属の令外の機関として置かれた雑訴決断所や記録所や恩賞方などの執行機関の頭人にも、これらの上位の公卿が天皇の近臣である武士たちと並んで任命されていた。

 つまり公家・武家の区別なく、後醍醐天皇は彼らに、天皇の忠実な僕=官僚となって働くことを期待したのである。これぞまさしく天皇を至高の権力者とする中央集権的官僚国家の建設が、後醍醐天皇の夢であった所以である。

B特権の廃止

 ということは公家が従来持っていた特権をすべて、後醍醐天皇は廃止したということなのである。
 上位の公卿たちの持っていた特権は、公卿会議という政治の意思決定権だけではなかった。彼らは「知行国」といって、代々ある国々の国司を一族から任命させ、その国の税収入を私するという特権を持っていた。後醍醐天皇は、この知行国制を廃止し、上位の公卿の家伝来の領国を奪ってしまったのである。具体的には持明院統の院分国の廃止や鎌倉将軍家分国の廃止、そして中院家(村上源氏)や西園寺家の分国の廃止などである。これは国家の収入を増やす政策である。

 上位の公卿でなくとも、その下に属して、太政官の事務方である弁官を家職にしたり、その下の省・庁の長官を家職として、それぞれの組織を運営するために付属された所領を代々私していくという特権を、中流の公家たちも持っていた。
 後醍醐天皇は、これらの所職の特権も廃止し、そこに腹心の公家や武家を任命したのである。具体的には、弁官の長である大外記である中原家が家職としていた造酒正や、中原家が家職としていた京都の市を管理する市司、技術官僚である丹波家や安部家・賀茂家・清原家などが家職としていた、宮中の警護を担当する大舎人を統括する大舎人寮などを廃止し、腹心を配したことである。

 こう考えてくると、建武の新政は「公家を重んじた」どころの話ではない。公家たちがもっていた特権を剥奪し、彼らが天皇の忠実な僕となることを要求したのである。

 では武家の側はどうであったのか。

C小幕府と守護の容認

 後醍醐天皇の思いとしては、幕府を廃止したのだから、諸国の軍事・警察権を行使する守護や、諸公領・荘園の管理・軍事・警察権を行使し、兵糧米を私する地頭は廃止対象であり、守護や地頭の武士たちの特権は廃止されるべきものであった。そして守護は本来の国々の司である国司の権限に統合され、そこには武家・公家の別なく、天皇に奉仕する官僚が任命されるべきものであった。

 しかし諸国の現場での権力の行使を実際に行ってきた武家の「特権」を剥奪することは容易ではなかった。しかも彼らの多くが幕府の滅亡に際して、後醍醐天皇の側に組したわけだから、幕府執権であった北条得宗家とその一統以外のものの守護・地頭職を剥奪することは容易ではなかった。彼らは実際の地方における徴税と警察という、国家の基本行為を担っていたからである。

 したがって武家は、北条氏に味方して、天皇に敵対したと認定されたものの特権は剥奪できたが、それ以外は、事実上認める以外になかったのである。

 しかも後醍醐天皇の幕府討伐と時明院統の院と天皇の廃止は、社会のあらゆる所での権威の崩壊傾向に拍車をかけ、鎌倉期において激化していた地方における武力による諸特権をめぐる争いはさらに激化した。それはとりわけ、都からは離れた地方、奥州や関東、そして九州の地においてはなおさらであった。
 したがって後醍醐天皇は、武家の力を抑えるためにも、そして激化する地方での反乱を抑えるためにも、これらの辺境の地に武家を実質的権力者とする小幕府を置き、これの下に諸国守護を統括することで、辺境の地を統治する方策をとらざるを得なかった。すなわち、義良親王を戴いた陸奥の守北畠顕家を長とする奥州鎮守府、そして成良親王を戴いた相模の守足利直義を長とする鎌倉府、さらに建武新政崩壊後のことであるが、九州の地を管領する懐良親王を長とする征西府。これらのように辺境の各地に小幕府というべき軍政府を置かねば秩序を保てなかったのである。

 こうなると全国的に秩序を維持し、権力を一元化するには、幕府を再興する以外に道はないことを、後醍醐天皇自身が認めざるを得なくなる。しかしそうなると、天皇親政という、天皇に権力を一元化した国家体制は否定せざるをえない。この理想と現実の狭間での苦渋の妥協が、辺境における小幕府の設置と、守護権力の容認であったのである。

 武家の特権は剥奪しようにもできなかった。
 建武の新政は「武家の実力を生かす仕組みがない」のではなく、武家の実力で全国を統治する唯一の形態である幕府を容認することは、天皇親政を否定することになるので、組みこむことができなかったのである。

 このように見てくるならば、建武の新政にたいする不満は、武家の間に起きただけではなく、特権を奪われた公家の間にも生まれたのであり、むしろ不満派の方が多数を占めていたのではないだろうか。

 では、「つくる会」教科書は、建武の新政の崩壊をどのように描いているのだろうか(p95)。

 建武の新政は公家を重んじた急激な改革で、武家の実力をいかす仕組みがなかった。また、討幕をめぐる戦乱でうばわれた領地をもとの持ち主に返し、今後の土地所有権の変更はすべて後醍醐天皇自身の判断によらなければならないとしたが、はるかむかしに失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、その方針は後退せざるをえなかった。そのため早くも政治への不満を多く生み出すことになった。
 そのようなときに、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げたので、建武の新政はわずか2年余りで崩れてしまった。

(3)新政崩壊の原因は土地政策の混乱にあるのではない

 この記述に拠れば、新政崩壊の原因は、「武家の実力をいかす仕組みがない」ことと「土地政策が混乱」したことで、不満を多く生み出したことだという解釈になる。

 しかしこの新政の土地政策の変遷についての解釈には、重大な反論がなされており、根本的な資料の読み間違いであると指摘されていることは、注目に値する。
 この教科書が依拠した解釈は、佐藤進一氏がその著書において出したものである。それは後醍醐天皇の帰京後すぐの6月15日に出された口宣案で、佐藤氏はこの法令を、「あらゆる所領の領有権を綸旨で再確認する」と宣言したもので、これには「今次の戦乱によって没収された所領を回復させる効果」が託されていたと解釈した。そして、7月に出された法令で、「北条氏に味方した者以外の当知行地を一律に安堵し、その手続きを国司にゆだねた」とされているので、建武の新政の土地政策は大きく後退したと判断したのであった。

 しかしこの解釈については黒田俊雄氏や上横手雅敬氏の批判がある。
 それによると、6月15日の法令は、「凶悪の輩が綸旨を帯びずに自由に乱暴狼藉を働くこと」を禁止したのであって、この「凶悪の輩」は護良親王とその一統を指しており、親王が討幕の戦いの中で「旧領回復」の令旨を乱発し、これに依拠した領地の横領などが頻発していることを禁止し、天皇に対抗する権力を行使しようとする護良親王の力を削ごうとするものである。そして新政の土地政策の基本こそ、7月の法令なのであり、6月の法令で領地の安堵は綸旨によるとして庶民にいたるまで発行したが、それでは事務的に煩瑣で、領地の安堵を求める者が都に集中して混乱したので、「今後は北条高時の党類や朝敵の類の以外のものの所領は安堵し、その処置は国司が行う」というものであったという。

 つまり建武の新政の土地政策は北条氏に味方して天皇に敵対したもの以外の領地は安堵するという点では一貫しているのであり、その処理を綸旨によるとした初期の政策が混乱を極めたので、国司の裁可によると改めたということである。

 このように解釈すれば、建武の新政に対する不満は、土地政策にではなくて、その国家構想そのものにあることが明確になってくる。この点を踏まえて考えれば、建武の新政に対する最初の反乱が、院政ー幕府の再興を目指した、北条氏の残党によるものであったことの意味が明確になってくるのである。

(4)尊氏が目指したのは、院政ー幕府の再興

 建武の新政に対する最初の反乱は、足利尊氏によって行われたのではない。それは建武2(1335)年に起きた「中先代の乱」であった。
 この反乱の実行者は、北条高時の息子である北条時行・時泰であるが、彼らに反乱の大義名分を与えたのは、有力公家の西園寺公宗であり、彼は後醍醐天皇によって停止された後伏見院政の再興と幕府再興を目指し、後伏見の院宣をもって後醍醐天皇の暗殺と幕府再興を命じたのであった。
 この計画は事前に漏れ、6月に西園寺公宗は逮捕され、7月に挙兵し、鎌倉府の足利直義軍を破って関東を手中に収めた北条氏一統を抑えたのは、天皇の命令を拒否して直義救援に向かった足利尊氏であった。そして尊氏はこの反乱を8月に打ち破って後も都に戻ろうとせずに鎌倉に居を構え、11月に新田義貞を打つと称して兵を挙げた。

 足利尊氏の挙兵は、後伏見上皇を戴いた、西園寺ー北条の反乱に触発されたと言って良いだろう。つまりこの反乱によって都の貴族や皇族、そして地方の武士の間に、建武の新政への不満と、院政ー幕府の再興への願いが充満していることを、尊氏は確信したのである。

 この最初の挙兵は、1336年1月一度は都を陥れたが、尊氏の背後の奥州から長駆遠征してきた北畠顕家の軍によって打ち破られ、尊氏は九州目指して一旦は落ち延びた。しかしその過程で尊氏は、時明院統を継ぐ光厳上皇の院宣を手に入れて、院政の再興・幕府の再興の大義名分を得るとともに、建武政府によって没収された領地をすべて返付するという法令を発して、反撃のための手を打っていた。そして九州の地で勢力を建てなおし、5月に迎え撃つ新田義貞・楠木正成を打ち破って6月には再度入京。そして後醍醐親政を廃して光厳院政を復活し、院の弟を天皇として戴いた(光明天皇)のである。この時をもって室町幕府の成立とするのである。

 この動きを見てもわかるように、建武の新政に対する反乱は、天皇親政の否定=院政ー幕府の再興という形をとっているのであり、その基盤は、従来のあらゆる政治形態を否定し、公家や武家の特権を廃止しようとする後醍醐天皇の政権構想に対する、公家や武家の間での不満であったのである。
 足利尊氏が再興しようとしたのは、幕府ではなく、院政(王朝国家)−幕府という、従来の国家形態の再興であったのである。

 時代は権力の一元化を要請していた。しかしそれは、後醍醐天皇の考えたような、公家と武家の特権を排除した形のものではなかったのである。

(5)建武の新政の先見性

 では後醍醐天皇の新政は、まったくの時代錯誤のものであったのだろうか。この教科書の記述でも、いや他の教科書の記述でも、そのように受け取られてしまう。

 しかし、そうではないのである。新政の地方政策に見られるように、現実を見れば政治制度としては、天皇を権威の源泉として、権力を武家に預けた幕府制度が現実のものであった。建武の新政も現実に即してみれば、時代を先駆けていたのである。

 そしてこの時代を先駆けた性格は、政権の経済政策の面において色濃く現れている。

 後醍醐天皇は、後宇多院政の時から、京都を天皇の直轄地として重視し、京都の流通の要になるところを直接掌握しようとしていた。大炊寮に京都の米屋から公事を徴収させたり、諸所の新関の撤廃や、造酒司に酒屋の公事を徴収させ、さらには、京都の神人が本所寺社に負っていた公事を免除して、天皇に供御人名簿を提出させたことは、京都の商人・職人を直接掌握しようとする政策の現れである。さらに京都の米価や酒価を統制しようとして、公的な市を作って米の定価販売を強制したりした。
 これらの政策は後の室町幕府が京都を直轄地としてて、京の商人を直接掌握し、京都を中心とした全国的な商品流通を掌握しようとした政策の先駆けと言えるであろう。そして先の公家の家職を取り上げた例の中に、市司があったが、これも流通拠点を天皇が直接掌握しようとする動きの一環だったと言えるのである。
 さらに1334年には、中国の銭貨が基本通貨として流通している時代に、乾坤通宝と名づけた銭貨を鋳造して紙幣と併用させようとしたことは、まったく実現しなかったとはいえ、中世後期の秀吉政権が貨幣を鋳造し通貨の統一を図った政策の先駆けとも言え、興味深いものがある。

 これらの流通に注目しそれを天皇の下の規制しようとした動きは、後醍醐天皇の天皇に権力を集中しようとした構想と同じく中国の宋代の政治理論に依拠した動きとも言えるが、一方で、隆盛しつつある商品経済を直接天皇権力の基盤にしようとした動きは、商品経済の発展が権力の一元化を必然としているという現実の動きに沿ったものであった可能性も高いのである。

 建武の新政は、けっして荒唐無稽の絵空事の権力構想などではなかったのである。一代限りの天皇という特殊な位置に置かれた後醍醐天皇の自己保身と自己の血統に皇統を伝えようとする執念が生み出した権力構想ではあり、さまざまに現実を無視した側面があったがゆえに新政は崩壊したが、それ自身、時代の要請に応える動きであったし、ある意味では、時代を先駆けた動きでもあったのである。
 しかるに「つくる会」教科書は、このような建武新政の性格をきちんと評価するのではなく、「恣意的な政治」(先の鎌倉幕府の滅亡の所で行った評価)と、後醍醐天皇の政治を断罪してしまったのである。

 :05年8月刊の新版では、記述に変更がなされ、後醍醐天皇の政権構想は、単に「公家と武家とを統一した天皇親政を理想とした」という記述となり、旧版の「院政や摂関、幕府を抑えた」という、天皇に権力を集中したのだと言うことを推理できる文言は完全に削除された(p76・77)。すっきりとした柔らかな表現にして採択率をあげようという新版の編集方針が、旧版が持っていた、荒削りで様々に問題はあるが鋭い記述を、かえって凡庸な平板な記述にしてしまったという例の一つである。

 :この項は、前掲の佐藤進一著「日本の中世国家」、前掲の網野善彦著「異形の王権」、前掲の村井章介著「13−14世紀の日本」、今谷明著「14−15世紀の日本 南北朝と室町幕府」(岩波日本通史巻9:1994年刊)と、同じく岩波日本通史9巻の上横手雅敬著「封建制と主従制」などを参照した。


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