「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判15


15.動乱の背景が見えない記述:南北朝の動乱

 「つくる会」教科書は、「建武の新政」の項目に続いて、一項を立て「南北朝の動乱」と題して、以下のように記述する(p95・96)。

 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、幕府を京都に開くなど、武家政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。
 吉野方を南朝、京都方を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国にわたる争いを続けた。これを南北朝の時代という。

 たったこれだけの記述である。これほど短いもので単独の項目を立てる意味があるのだろうかという疑問を持たざるを得ない。しかし、この短い記述の中にも、本質的な部分で、不充分な説明不足の所が見られる。

(1)天皇って勝手に推薦できるの?

 この記述では、足利尊氏がどこから新しい天皇をつれてきたのかが良く分からない。そしてその天皇が、後醍醐天皇と並んでもう一人の天皇として諸国の武士にどうして認知されるのかということも分からない。
 これでは天皇というものは、権力者の都合で、どこからでも連れてこられるような印象を持たれてしまう(事実それほど天皇の権威は落ちてきており、天皇家そのものの存在の意義が問われると言う危機の時代ではあったが、やはりまだ血の伝統は生きていたわけであるから、このような記述では、天皇という存在の意味がわからなくなってしまう)。

 事実は、後醍醐天皇(大覚寺統)と対立する時明院統の天皇を立てたわけである。尊氏は一度は敗退して九州に下るときに、時明院統の光厳上皇の尊氏を討てという院宣を手に入れており、この大義名分の下で九州・中国の武士を再組織して再度上洛を図り、後醍醐天皇側の軍を破って京都に入り、後醍醐天皇を廃位し、光厳上皇の院政の下で、上皇の弟を天皇に立て(光明天皇)、その下で征夷大将軍に任ぜられることで、幕府を再興したわけである。

 やはり鎌倉時代から天皇家が大覚寺統と時明院統の2派に分立していたことが記述され、鎌倉幕府の滅亡・建武の新政の動きは、後醍醐天皇の立場から見れば、幕府と結んだ時明院派に対するクーデターであったことがわかるように記述される必要がある。そして建武の新政の実現にも関わらず、後醍醐の隠岐配流の間に立てられた時明院統の光厳天皇は廃位されただけで上皇として存在しており、その父の後伏見上皇はじめ、時明院統の皇族は、皇位から遠ざけられたとはいえ健在であったことを書いておく必要があろう。

(2)なぜ新政崩壊後も武士の一部は後醍醐天皇を支持するの?

 しかしこの教科書の記述の根本的欠陥は、別のところにある。
 それは、「両朝はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国にわたる争いを続けた」という部分である。この記述からは、「公家を重んじて」武士の支持を失って政権を追われた後醍醐天皇=南朝がなぜ再び武士の一部の支持を得たのかと言うことがまったく理解不能になってしまうことである。

 教科書はすべて答えを用意する必要はない。むしろ読む者が様々な疑問を持つような記述であるほうが教科書としては優秀である。しかし記述の中に、答えを推理するヒントとなる事実が挿入されている必要がある。だが「つくる会」教科書は、説明しないどころか、ヒントとなる記述がどこにも見当たらない。これでは教科書としては失格である。

 そしてこの「武士の支持を失ったはずの後醍醐天皇=南朝」が60年間も武士の支持を得て、武士の支持をえて立てられたはずの北朝=室町幕府と対抗し得たのはなぜかと言うこの疑問は、この時代の性格の深部に迫る問いである。この問いに答えることは、中世とはどのような時代であるのかという、さらに大きな根本的な問いに至ることであるので、きちんと答えられるように記述が整理されている必要があろう。

 ではなぜ「武士の支持を失った」はずの南朝が武士の一部に支持され、「武士の支持でつくられた」はずの北朝=幕府が武士の一部に支持されなかったのか。ここを説明しておこう。

(3)あらゆる権威の崩壊

 鎌倉幕府の崩壊ー建武の新政の成立と崩壊ー南朝・北朝(室町幕府)の対立という一連の事件の連鎖は、すでに平安時代末期から始まっていた、あらゆる権威の崩壊現象に拍車をかけてしまった。

@天皇の権威の低下

 院政期にすでに抜き差しならぬ状態になっていた天皇家の分裂は鎌倉期の大覚寺統と時明院統との対立と、その対立を自らの力で乗り越えることができずに、鎌倉幕府の決定をあおぐという状況のなかで、さらに深刻なものになっていた。それは天照大神の男系の直系という血の貴種性によって支えられていた天皇の権威を崩壊の危機にさらした。誰が天皇になるかを臣下である武家が決めると言う状況。それも二つに分かれた皇統の中から、その時々の王朝国家内で有力な廷臣との力関係で天皇が選ばれるということは、天皇の血の尊貴さを揺るがし、天皇の存在する意義を揺るがした。その中で、「徳のあるもののみが帝王の資格を持つ」という思想が現れ、それは後醍醐天皇の前の天皇である花園天皇(時明院統)の思想として顕著である。
 この思想は、徳のあるものなら誰でも天皇になれるという思想、つまり中国流の易姓革命の思想に行きつき、尊貴な血という天皇の権威そのものを否定する質を内包していた。
 後醍醐天皇の天皇親政は、この「帝王としての徳」の思想が内包する易姓革命の思想への反発として現れ、だからこそ彼は、断固として旧来の慣習を放棄して、自らに権力を集中しようと図ったのである。
 しかしその天皇の血の尊貴さに依拠した親政も崩壊した。
 このことはさらに一層、天皇は徳のあるものがなるという思想を強化し、天皇という権威を低下・崩壊へと導いていった(この極地が、後の足利義満による皇位簒奪計画へと至るわけである)。

A神仏の権威の低下

 この神にも等しい天皇の権威の低下・崩壊は、同時に諸国の寺社の権威の低下・崩壊現象を伴っていた。諸国において寺社の所領からの年貢を横領したり、所領そのものを横領する行為は、「悪党」と呼ばれた秩序外の存在の武士たちによってなされただけではなく、有力御家人である守護や鎌倉幕府そのものによってもなされていた。幕府は御成敗式目によって王家・貴族・寺社の所領をむやみに横領することは禁じていたが、土地を実効支配する武士による横領の波を留めることはできなかった。こうしてこのような動きを通じて武士層の中に「神仏なにものぞ」の思想が広がっていった。

B武家の棟梁の権威の低下

 そして鎌倉幕府の崩壊の一つの原因になった執権北条氏の権威のなさ(血の尊貴さに欠ける事)とそれに対する足利尊氏の源氏嫡流としての血の尊貴さに依拠した幕府再興の動きは、武家における血の尊貴さという思想そのものを相対化してしまう危うさを持っており、それは事実として、そうなったのである。
 北条氏は桓武天皇の末裔を名乗る平氏であった。しかし彼らが王家の子孫から離れて臣下となってからは数百年の時が移っており、彼らは伊豆の一在庁官人の子孫に過ぎないと言う論理で、北条氏の権威は否定された。そして桓武平氏の子孫は、御家人層には多数いたわけであるから、平氏であることは武家の棟梁としての権威の源泉にはならなかったのである。

 清和源氏は桓武平氏よりはずっと後になって皇親から臣下になったわけで、その意味では、血の尊貴さは平氏よりは濃いわけである。しかし彼らとて、足利氏と同様にして清和源氏嫡流からわかれた同族をたくさん持っているわけであり、彼らのみが清和源氏の血の尊貴さを独占できるわけではなかった。甲斐(山梨)や信濃(長野)には武田・小笠原などの甲斐源氏の一族がいるし、常陸の佐竹氏も清和源氏の有力守護であった。また、足利氏の同族として土岐氏は有力な守護でもあり、足利氏の同族の中にも、足利宗家に対抗して清和源氏の嫡流を名乗ることのできる実力をもった一族がいた。

 要するに武家の棟梁としての資格は血の尊貴さだけではなく、棟梁たるに相応しい実力(天皇の徳に対応するもの)次第だと考えられていたわけであり、この意味で、足利氏も武家の棟梁の地位を独占できる状況ではなかった。

C貨幣と言う新たな神の登場

 このように社会のあらゆる所での血の尊貴さに依拠した権威は低下し、崩壊の危機にあったといえよう。そしてこの背景には、貨幣経済のさらなる発展深化があった。
 貨幣をなかだちにする商品交換そのものは、その交換の場においては商品を売るもの買う者は平等な個人として相対している。そして商品そのものは、本来は異なった使用価値を持ったものであって、決して同等の価値を持ってはいないのだが、それが交換の場に現れて、交換可能な価値として登場するや、異なった価値も同等なものとして認識される。貨幣はその交換価値を体現するものであり、やがて貨幣の数量で持って商品の価値が計られるようになると、貨幣経済には貨幣と言う新しい神が登場する。
 商品の交換はもともと神の下でなされた。神への献納物という余剰物が交換されたわけで、それは神の下され物という価値を持っていた。そして神との媒介を司る寺社は、その手に集められた品物や貨幣を、神の下され物として人々に分け与えたり、貸与していたわけであった。
 しかし商品経済が発展するとともに、商品や貨幣の神の下され物と言う権威は次第に低下する。貨幣そのものがその権威の源泉から独立し、貨幣自身が新しい権威を帯びてくるのである。貨幣は新しい富みをあらわすものとなり、それをたくさん持っている者が社会的に権威を獲得するようになる。

 こうやって商品経済の発展の下で、貨幣という新しい神が、神仏に代って登場してくる。この動きと、血の尊貴さに依拠した権威の低下・崩壊現象は連動しているのである。

 だから「悪党」と呼ばれた人々は、その発展しつつある商品経済に依拠して力を付けてきた人々であるわけだから、他の人々以上に貨幣と言う新しい神を崇め、従来の血の尊貴さに依拠した権威を否定する傾向が強いわけである。そして「悪党」は新興の武士だけではなく、有力御家人の中にも悪党的行動をとる者が増えていたし、さらには公家や僧侶の中にも同様な動きをとったものは増えていた。その背景は、以下に述べるような諸家における庶子の独立傾向の増大と言う社会現象でもあったわけであるが。

(4)社会の全てに広がった争い=分立・対立する家々

 平安末期から鎌倉期にかけて激化していた社会的闘争の背後には、これまで血縁的共同体として存在していた「氏」が庶子の独立によって崩壊し、それぞれの「家」を単位として社会生活がなされるという状況が存在していた。生産が発展し、社会的な余剰物資が増えるに従って、「氏」の長者による物資の独占=氏の構成員への分配というしくみが壊れ、庶子も嫡子に対抗して独立した「家」を構えることが可能になっていった。

 このことがすでに天皇家の分立と言う状況として表現されていたのだが、同じ状況が、公家の間でも武家の間でも起きていたのである。

 公家の間では摂関期において藤原氏という「氏」がいくつもの「家」に分かれて官職の争奪戦を演じていた状況、そしてその家がさらに幾つかの家に分立し、摂関家の中でも摂関の地位を争い、それが分立する天皇家のそれぞれの流れに結合して争うという状況の中にすでに現れていた。そしてそれは他の貴族の間でも同じであり、院政期になるとこの状況は加速されていた。さらに、源氏という王家の守りの武門貴族でも諸家が分立して相争う状況になり、これらの分立する諸家が互いに結びつきあって権力を奪い合うと言う状況が、保元の乱・平治の乱、そして源平の争乱と呼ばれた治承・寿永の乱という相続く戦乱を生み出したことは周知の事実である。

 この諸家における家の分立と対立という状況は鎌倉期を通じて激化し、それが兄弟分割相続による御家人の所領の極小化を生み出し、鎌倉幕府の衰えを生み出したことは、この教科書でも記述されたところである。

 このあらゆる階層における諸家の分立と抗争が、南北朝の背景でもあった。公家や武家の対立する諸家がそれぞれ官職や所領をめぐって争い、それぞれが自己に有利な権威を担いで闘争する。これが南北朝の争乱であったのだ。
 総じて公家の間では、南朝には諸家の庶子家が集まり、北朝には諸家の嫡子家が集まる。これは北朝が従来の嫡子相続や慣習を重んじたのに対して、南朝が後醍醐天皇の方針に明確なように、家の格や慣習によって官職や所領を与えるのではなく、天皇への忠節の度合いに応じて与えると言う政策をとっていた所以である。

 そして武家の間では、新興の「悪党」と呼ばれた武士は南朝を支持し、伝統的な御家人層は北朝=幕府を支持すると言う構図となる。

 しかしこれもそれぞれの個々の事情や時々の事情で異なる。要は、それぞれの都合の良いほうの権威を担ぎ、一旦担いだ権威を状況の変化に応じて捨てて、別の権威に乗り換えるということは、日常茶飯事であったのである。そしてこの状況は何も下層のものたちばかりではなく、上層のものたち、それは幕府の最高権力者を争う足利一族や有力守護たちにとってもそうだったのである。これは次に述べる政権構想の違いに起因する足利尊氏・足利直義兄弟の抗争において、兄弟それぞれが都合に応じて、南朝についたり北朝についたりしたことによく現れている。

(5)新幕府の政権構想のあいまいさ=幕府内部の争いの激化

 以上のように、社会的抗争は激化する状況にあった。だからこそ権力の一元化が望まれたわけであり、後醍醐天皇による建武の新政の試みは、これに対する一つの答えであったのである。後醍醐天皇には、新しい時代に即した政権構想=国家像があったのである。

 では対する北朝=室町幕府の側には、後醍醐天皇のそれに対応する政権構想=国家像があったのだろうか。

 じつはそれがなかった。なかったからこそ北朝=室町幕府の成立によっては世の中の抗争はおさまらなかったのである。その上、幕府内には、ことなる政権構想(というほどしっかりしたものはなかった。異なる利害と言ったほうが正しい)が存在し、それが足利尊氏・足利直義という頂点に立つ二人に体現されてしまったものであるから、幕府が分裂するという事態を生み出し、それぞれが異なる天皇を担ぐと言うことで、朝廷の統一をさらに難しくしてしまい、社会的抗争に拍車をかけたのである。

 では、幕府内にはどのような異なる利害の対立があったのか。

@足利直義と高師直の対立

 室町幕府は、足利尊氏と足利直義という二人の頭領によって運営されていた。尊氏は幕府の主従制の側面、すなわち所領安堵や新恩給付などを司り、直義は訴訟や軍勢催促などの実務的支配の側面を司っていた。そして室町幕府の政権構想は、この直義が担っていたのである。それをあらわすものが建武3年に定められた建武式目である。

 この式目では、本来は鎌倉に幕府を置きたいのだが、幕府の主な武力となっている畿内の武士団が京都を要求するので、それに妥協して都に幕府を置くと定めた。その上で、幕府の施政方針をさだめているのだが、その中には、後醍醐天皇に付き従った公家たちの所領は一律に没収するのではなく、罪の軽重を図って慎重に審議するという条目もあり、公家の所領確保に配慮する姿勢が見られる。また将軍には奢侈や享楽にふけるのではなく、質素倹約を旨とすべしという条目もあり、将軍尊氏の周辺にあつまる悪党的(当時の言葉ではバサラ的)行動をとる輩(代表格が執事の高師直)に対する対抗意識が見え隠れしているという。

 足利直義の政権構想は、鎌倉幕府的な秩序を維持するというもので、御成敗式目に代表されるような、寺社・公家の所領を守り、寺社方・公家方の問題は武家方の法によってではなく公家方の法によってさばくと言うものであった。したがって幕府に持ちこまれる武家と公家との所領を巡る争いでは、ほとんどが公家方の勝利となり、幕府の権力を背景にして公家の所領を奪い取ろうとしていた畿内武士団にとっては不満の多い採決であった。
 したがって足利直義に対する北朝の公家の期待は高まり、彼の下には多くの公家や、悪党的行動の武士と対立する有力守護などが結集したのである。そして対する新興の畿内武士団の直義の政治に対する不満は、尊氏の側近で、足利家執事の職にあった高師直に対する期待となって集まり、足利尊氏と高師直の対立として顕在化した。

A幕府の分裂=観応の擾乱

 この対立は1348年に顕在化し、4月に直義は各地に腹心の部下を派遣して守護の統率を図るとともに、6月には尊氏に迫って高師直を執事職から追放した。しかし高師直は8月に自己の軍勢を京に集めクーデターを敢行し、直義を執政の職から追い、その地位に尊氏の嫡子義詮をつけるという形で互いの争闘は激化した。一時的な和議の後、再び直義の権力は奪われ、幕府における高師直派の勝利が確定したかに見えたが、1350(観応元)年、直義は京都を出奔するとともに、諸国の直義党の守護に決起を呼びかけ、それを討つべく進軍した尊氏が北朝から直義追討の院宣を手に入れるや、直義も対抗して南朝に帰順して尊氏追討の綸旨を得た。しかし北陸地方の守護の組織化に成功した直義が1351年に京都を奪回するや、直義はただちに南朝の綸旨を反故にして北朝につき、摂津で尊氏軍を破り、高師直などを暗殺し、尊氏と有利な状況で講和し、幕府の実権を握った。
 しかしこの和議も長くは持たず、1351年7月に尊氏・義詮父子がそれぞれ賊を討つと称して京都を離れ、東西から直義を討つ態勢をとると直義も北陸に居を移し、畿内地方は南朝・尊氏派・直義派の三つがにらみ合う形となった。そこで尊氏は南朝に帰順し、南朝の後村上天皇から直義追討の綸旨を得、鎌倉に逃亡した直義を討つべく関東に軍を進めた。そして南朝は尊氏との協約に基づいて、北朝の崇光天皇を廃位させて光厳院政を停止して、天下一統がなった。尊氏は直義と和議を結んで鎌倉に入ったが、そこで直義を毒殺。以後、関東にあってこの地方の平定に励んだ。
 このような動きに京都奪回のチャンスを見た南朝方は、尊氏との和平の協約を無視して1352年二月には尊氏から将軍職を奪うと共に、全勢力を京都に集め留守を預かった足利義詮を破って近江に追い、ここに再び京都を回復したのである。

 だがこの南朝の天下も短かった。軍勢を集めた義詮は1352年5月の京都南郊の男山の合戦で南朝軍に勝ち、京都を回復し南朝軍は吉野に引き上げた。しかしこの時南朝は、廃止した北朝の3上皇と廃位した皇太子の4人を吉野に連れ去り、北朝には天皇を任命する治天の君である上皇と天皇候補の不在という事態が生まれた。まさに北朝が廃絶する危機に陥ったのである。
 この危機を北朝方の公家の進言によって、出家していた光厳上皇の三男を還俗させて天皇候補とし、彼の祖母で後伏見上皇の皇后であった広義門院に上皇を代行させて天皇を即位させ、北朝を回復するという異例の措置をとって乗り切った。

 この幕府内部の直義と尊氏(高師直)の対立に起因する内乱(=観応の擾乱)は、ほとんんど命脈を絶たれていた南朝が、戦いのための権威として利用価値があることを明かにしてしまい、以後、諸国における武家同士の争いがやむまで、南朝の命脈を保たせてしまったのである。

 

 権威の崩壊・諸家における分立と抗争、これに幕府内の争いが複雑に絡み合って、1336年の北朝=室町幕府の成立をもっても、諸国の争いは収まらず、以後約60年間も続く、列島全体での争いが続いたのである。南朝が存続し得たのは、その争いの御旗としての存在価値がまだあったからである。
 教科書は、これらの社会深部の争いのありさまをすべて記述するのは、限られた紙幅の中では不可能である。だからこそ、これらの問題を、それが表面に現れた時点において簡略に記述しておくことで、教科書を読み進んでいくと、さまざまな要因が複合的に重なって、60年間にわたる戦乱を招いたのだと言うことが推測されるように記述する必要がある。商品経済の発展と共同体の崩壊は、浄土教の出現・鎌倉新仏教の発生の所で。そして同じく商品経済の発展と諸家の分立は鎌倉幕府の衰えの所で。そして天皇家の分立の問題は鎌倉幕府の滅亡の所で。それぞれの所で簡潔に記述し、それらが繋がって一つの大きなうねりとなっていくことがわかるように全体を記述する。そういう工夫が大事である。

 「つくる会」教科書には、そのような全体構想もなければこまやかな記述もない。だから教科書失格なのである。

 :この項の記述は05年8月刊行の新版でもほとんど同じままである(p77)。

 :この項は、前項で参照した今谷明著「14−15世紀の日本 南北朝と室町幕府」、網野善彦著「日本中世に何が起きたか―都市と宗教と「資本主義」」(日本エディタースクール出版部1997年刊)などを参照した。


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