「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判16


16.巧妙な虚構が仕組まれた:「室町幕府」

  南北朝の争乱の記述に続いて「室町幕府」の項が記述される。ここでは1338年の幕府の成立から始まって、1392年の南北朝の合一と足利義満による有力守護の統制と朝廷の権限の吸収が語られ、「全国的な統一政権」としての室町幕府の成立で終わっている。

 教科書は、そこを以下のように記述する(p96・97)。

 尊氏は、1338(暦応元)年に北朝の天皇から征夷大将軍に任じられた。足利氏の幕府は、のちに尊氏の孫の義満が京都の室町に邸宅を建て、そこで政治を行ったので、室町幕府とよばれる。
 室町幕府は、北朝によって承認されていることをみずからの正統性の根拠として、しばらく南朝と対立した。(中略)
 室町幕府の3代将軍義満のころには、南朝の勢いが衰え、南北朝の合一が実現して(1392年)、戦乱はおさまった。義満はさらに、地方の有力な守護をおさえ、幕府の支配を安定させた。このころの室町幕府は朝廷の権限の多くを吸収し、全国的な統一政権としての性格を強めた。しかし、将軍が天皇から任命されてその地位につくという原則に、変更はなかった。
 室町幕府の仕組みは、ほぼ鎌倉幕府にならった。ただ、将軍の補佐役として、執権のかわりに管領を置いた。管領には、足利一族の有力な守護大名がついた。また、関東地方を治めるために鎌倉府が置かれたが、大きな権限を持っていたので、しだいに京都の幕府と対立するようになった。

 この「室町幕府」の項は、この教科書としては、比較的整理され、わかりやすい記述である。そして上の記述を読むとさまざまな疑問がわいてきて、その疑問を教科書の他の記述などを参考にして考えると、その答えを推理できるようになっている。このことは教科書の記述のありかたとしては、比較的成功している例であろう。

 たとえばこういう疑問が出てくる。

(1)南北朝の合一はどうやってできたのだろうか?

 この問いは、中世において大事な問いである。60年にもわたって日本中が、二つの朝廷を旗印にしてあい争っていた戦乱がどのようにして収束したのかという問題であり、それはひいては、南北朝の争乱とは何であったかということにつながる疑問である。

 この問いに対する答えは、すぐ前に記述されている。「義満のころには、南朝の勢いが衰えた」と。つまり南北朝の合一ができたのは、南朝の勢いが衰えたからだとわかる。しかし、これはさらに次の疑問に導かれる。

 「南朝の勢力はどうして衰えたのだろうか」。

 この問いに答えるには、前の「南北朝の争乱」の最後の記述(「室町幕府」の項と同じページの上段にある)がヒントになる。そこでは「この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国にわたる争いを続けた」と記述されている。つまり、南朝の勢いが衰えたのは、「各地の武士の支持を失ったのではないか」という推理が、ここで成り立つわけである。
 そしてこの推理はさらに、次の問いに移行する。

 「どうして南朝は武士の支持を失ったのか=どうして北朝・幕府は武士の支持を獲得したのか」という本質的な問いに。

 ここまでくれば、幕府が南北朝の争乱の中で何をやったかに目が行くことになる。そしてこのヒントは、上記の記述の中で「中略」とした部分に、きちんと記述されていたのである。それは以下のようなものである(p96)。

 また、地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を取りたてる権限を与え、守護の力を強めて、全国の武士をまとめようとした。守護はこれを利用して、荘園や公領を自分の領地に組み入れ、地方の武士を家来にした。やがて、国司の権限も吸収して、それぞれの国を支配する守護大名に成長した。

 この記述の荘園が皇族・貴族や寺社の領地であり、その年貢は皇族・貴族や寺社の収入になること。そして公領が朝廷の領地であり、その年貢が朝廷の公の仕事の必要経費になり、当時は下級の貴族が役職を相伝することで、その役職を執行する費用を負担する公領を私していたこと。この二つががわかれば、その年貢の半分を守護が取りたてることにしたことによって、守護がそれを横領し、結果として荘園や公領の半分を(もしかしたら全部を)とってしまったことが理解されるであろう。したがって守護はその横取りした領地を地方の武士に与えることによって家来にして、各国を支配する大名になっていったことがわかる。

 要するに、皇族や貴族や寺社を犠牲にして、彼らの領地を奪うことを幕府が公認したことは、領地をめぐってあらそって南朝についたり北朝についたりしていた武士たちに幕府が守護を通じて領地を与えることを可能にし、このことによって、幕府に帰順する(=北朝に帰順する)武士が増えたので南朝の勢力は衰えたのだ。

 この教科書はこの項の記述はあまり説明的ではない。ある意味で事実を淡々と語っているだけ。そして事実は背景を推理できる最低限の事実を記述してあるので、生徒が自らの力で教科書を読み解いて、南北朝の争乱を収束させた経緯を理解することができるようになっているのである。教科書の著者がどこまでこの記述を意図してこのように書いたのかはわからないが、この項の記述は、とてもわかりやすい、良い記述になっているといえよう。

(2)幕府はなぜ朝廷・天皇を廃止しなかったのか?

 そしてこのような理解はさらに、もう一つのさらに深い理解へと導かれる。
 それは、守護が半分を奪うことを認められた荘園や公領は、そこに「南朝の」という形容詞がついていないのだから、南朝の皇族・貴族・寺社だけではなく、北朝を支持した皇族や貴族・寺社の荘園や公領も守護たちの横領によって半分取られたか、すべて取られたかしたはずである。ということは幕府は、自らの正統性の根拠になっている北朝の力をも弱めていったということになり、そしてこの疑問はただちに教科書の、「義満のころの室町幕府」は朝廷の権限の多くを吸収し、全国統一政権としての性格を強めた」という記述の背景をただちに理解させるとともに、その次の記述、「しかし、将軍が天皇から任命されてその地位につくという原則に、変更はなかった」という記述へ着目させ、そこからさらに深い疑問、「天皇・朝廷って幕府・武士にとって何なのか」という疑問にも行きつくのである。

 生徒はこう考えるであろう。「どうして幕府は天皇を廃止し朝廷を廃止しなかったのか」と。

 教科書の記述は、ここまで生徒の思考を深める切っ掛けを与える。そしてこの理解はさらに、この教科書のP108・109の人物コラム「源頼朝と足利義満ー天皇と武家の関係」という興味深い記述につながり、「最初の武家政権」の長である源頼朝は天皇の権威には挑戦しなかったのに、なぜ「はじめての武家統一政権」の長である足利義満が天皇の権威に挑戦し、天皇を超える権威を獲得しようとしたのかということの背景を理解することにつながる。

 さらにこの義満が急死したことで、天皇家を超える権威を持つ計画は中途挫折し、以後の将軍はだれも義満の真似はしなかったという記述によって、「なぜ朝廷をも上回る力をもった「武家政権」が朝廷を自らの権威の源として残したのか」という本質的な問い、武家と朝廷の関係に思考はさらに発展するのである。

 「つくる会」の人々は、天皇家の政治的な権威の復権をその運動の目標の核に置いている。だからこそ中世の記述の最後に「天皇と武家の関係」という刺激的な記述を置き、天皇家の権威の高さ、「全国を統一した武家でさえ天皇を廃止しようとはしなかった」という事実に気付かせ、日本という国にとって天皇の存在は不可欠であると言う認識に導こうとしたのであろう。そう、天皇は神にも等しい権威を持っていると言いたいのだ。
 この刺激的なコラムを深く理解するのに、「室町幕府」の項の記述は極めて役に立つ。

 こう考えてくると、「室町幕府」の項が淡々と事実を記述するように見えて、その実は、事実の裏に潜む背景を推理できるようになっているという、この教科書の構成にしてはめずらしい「長所」がなぜ生まれたのかということが良く理解できる。
 それは、「日本にとっての天皇の存在の不可欠さ」を認識させたいという目的からなせる技であったのであろう。

(3)天皇を推戴したのは将軍権力の脆弱さ故である

 しかし、この「室町幕府」の記述には、一つ裏がある。それは「全国統一政権」の様相を呈していた幕府も、その構造は、将軍権力という面ではきわめて脆弱であるという大事なことが、慎重に記述から削除されていることである。

 なぜこれが大事かと言うと、将軍の権力は脆弱であったが、その将軍家が天皇の上位に位置する権威を獲得すると守護大名をしのぐ権威を将軍が持つことに成り、それは地方を占拠している守護大名に対して将軍がその権威を背景にして介入し、彼らの勢力を削ぎかねないという懸念が守護大名にあったからである。そしてその懸念は、「王家を奪い取ろうとした義満」その人がやっていたことでもあるので、この懸念には根拠があったのである。

 :「つくる会」教科書は、「上皇に匹敵する権威と権力を兼ね備えることを目指していた」(p109)と記述し、「天皇家を超える権威を獲得」しようとしていたかのような記述をしているが、事実は「王家の簒奪」である。彼は息子を時の天皇の養子にして、彼を次の天皇につけようと画策していたのである。いうなれば天皇家を足利氏が簒奪する。(詳しくは、前掲コラムについての批評を参照)

 :義満は有力守護家の家督争いに目をつけ、有力な嫡流に代えて庶流を将軍権限で守護家の家督を継がせ、内紛をさらに激化させて、守護の家督を巡る戦争まで起こさせて、将軍は一方に荷担して、結果として有力守護家の勢力を削ぐと言うことをやった。教科書の記述の中の「地方の有力な守護をおさえ」という字句は、このことをも指していたのである。

 だから義満死後の将軍は、義満の真似をしなかったのだ。義満以後の将軍は、守護大名に推戴されて将軍についたものがほとんどであった(例外は石清水八幡宮の神籤で将軍になった六代将軍義教=義満の三男だけ)のだから、守護大名の意向には逆らえない。だから彼らは義満のまねはせず、天皇を権威として推戴したのである。
 ということは逆に義満がなぜ天皇の権威を超えようとしたのかがよくわかる。それは将軍の権力が脆弱だったからである。その脆弱性を乗り越えるために義満は「日本国王」を名乗り、上皇と同様の権威をもって、公家・武家双方の上に君臨し、あわよくば王家を奪おうとしたのである。

 つまり武家にとって天皇が必要なのは、将軍が権力が弱いからなのである(これは源頼朝・鎌倉幕府も同じである。詳しくは別項コラムの所で)。

 こうわかってくると、武家と天皇の関係を詳述し、「日本という国にとって天皇は不可欠」という認識を育てようと言う「つくる会」の著者たちのもくろみは崩壊する。力のない天皇が権威として推戴されるのは、時の権力者が全国を統治する力が弱いから天皇の権威を利用して、権力者を超える力をもった者たちの上に君臨して全国を統治しようとするからだ。天皇の権威は、時の権力者の弱さと一対の関係にあるのであり、権力を握った者が天皇の権威を必要としなくなれば、天皇は廃絶される危険に直面するのである。

 室町幕府の将軍の権力の脆弱さについての知識は、天皇というものの権威に帯びさせられようとした「神性」の仮面をも剥ぐ可能性があるのである。だから幕府将軍の基盤の弱さに付いては一言も触れられなかったのだろう。

 では将軍権力はどのように脆弱であったのか。

(4)将軍直轄領の狭さ

 その第一は、将軍直轄領の狭さである。そしてこのことは、教科書の記述と、そこに掲載されている図などの資料を深読みすればすぐに気がつくことである。

 教科書には「室町幕府のしくみ」という図がある。これを仔細に見ると、地方の国々はそれぞれ守護大名が治め、関東10ヶ国は鎌倉府が治めると図示されている。
 では、幕府・将軍はどこを治めているのか。こういう疑問が沸いてくるはずである。
 そしてその答えも、この「室町幕府のしくみ」の図の中にある。
 将軍の下には補佐役としての管領があり、その下に幕府機構として、問注所・政所・侍所の三つの役所があることが図示されている。問注所は「記録や訴訟の文書の保管」と役割が書かれている。さらに政所は「財務の管理」とある。財務が集めた税を管理し、幕府の諸費用にあてることがわかれば、その税は何処から集めるのだろうという疑問もわく。しかし諸国の税は守護大名が自分のものにするのだから、諸国から幕府には税が入らないことは容易に推測できる。
 では幕府はどこから税を取るのか。
 答えはたった一つである。最後の役所、侍所の説明は「京中の警備・刑事裁判」と書かれている。
 そう、幕府が直接軍事・警察・裁判権を行使できるのは、京中、すなわち都である京都という都市だけなのだ。ということは、幕府が税を集めることができるのは、京都だけということがわかるのである。

 「将軍が実質支配しているのは京都だけ?」。これでも将軍?。

 室町幕府の将軍の権力基盤がいかに弱いかよくわかるであろう。幕府は朝廷が持っていた京中の支配権、すなわち京に住む商人や職人に営業税や固定資産税をかけたり、京の入り口にもうけた関所で通行税をかけたりする権限を握り、それが幕府=将軍の権力基盤、財政基盤となったのである。あの建武の新政において、後醍醐天皇が天皇の直接の権力基盤・財政基盤として、国家機構や貴族の手から奪いとろうとした、日本最大の商工業都市京都の諸税を、幕府・将軍は最大の権力基盤にしたのである。

 じっさいには室町将軍には、「御料所」という将軍直轄地があった。しかしこれは畿内近国に散在する小所領の集合体に過ぎず、幕府・将軍の財政基盤としては、京都の諸税のほうがはるかに大きかったのである。

 なぜこんなことになったのか?。

 鎌倉幕府の将軍ですら、「関東知行国」といって、貴族として将軍が国の税を私し、国司を任命できる国を持っていた。それは相模・武蔵・駿河の3ヶ国と伊豆など諸所に移動したあと1ヶ国であり、将軍はその一部を御家人に給与して権力基盤としていた。さらに鎌倉将軍は、関東御領として、治承・寿永の内乱の中で幕府が平家から没収した全国各地に散在する所領をもっており、この一部も御家人に給与することで、自らの権力・財政基盤にしていた。だのになぜ室町将軍には直轄領が少ないのか。

 それは足利氏が有力御家人と言っても、三河・下総を相伝の守護地としていただけで、全国的に見れば、圧倒的な力を持つものではなかったからであった(北条氏を除けば、全国的に大きな力を持っている守護家はなかった)。だから北条氏に反抗した足利尊氏も、天皇の権威に依拠し、天皇が北条氏を討てと命じた綸旨に依拠して、討幕の兵をあげざるをえなかったのである(それは他の有力守護や御家人・悪党も同じである)。
 そして足利尊氏が自らの拠点である東国ではなく、京都に幕府を開かざるをえなくなったことで、足利氏は、拠点である三河と関東を一族に統治を任せるしかなくなってしまったのである。関東は多くの有力御家人(それぞれが源氏や平氏、そして藤原氏を祖先とした有力な武門貴族の末裔であり、足利氏の権威に対抗できる権威と力をもっていた)が割拠しているため、鎌倉に小幕府というべき鎌倉府を置いて関東10ヶ国を事実上統治させることにした。したがって相伝の下総の守護も在地の千葉氏に奪われたし、鎌倉府の公方に尊氏の次男基氏を置いたために、鎌倉府は幕府・将軍に対抗できる力と権威をもってしまい、かえって将軍の権力を脅かす存在になってしまったのである。
 そして相伝の守護地であった三河は、最初は一族の一色氏に守護を任せ、後には一族の今川氏が守護を相伝し、三河・駿河を合わせる大守護大名に成長したため、ここも幕府・将軍の権力・財政基盤たり得なくなってしまったのである。
 南朝に対抗するために京都に幕府を置かざるを得なかった尊氏の手に残された所領は、京都近郊の丹波の国の篠山(尊氏決起の場所である)のような畿内各所に散在する小領地にすぎなかったのである(これが御料所である)。

 尊氏は、はるばる東国からつれてきた譜代の家来に所領を与えたかったし、畿内近国の武士たちにも所領を与えて、彼らを自己の直轄軍とし、かつ自らの財政基盤としたいと思った。そこで彼が考えた(おそらく足利氏執事の高師直の考えであろう)ことが、自らと一族に守護を任せた畿内近国の荘園・公領の税の半分を守護に徴収する権限を与えることで、畿内近国に直轄領を手に入れて、譜代の家臣や在地の武士に所領をあたえようという策であった。だがこれはこの地に基盤をおいている皇族や貴族・寺社の利益を犠牲にするものであったために、旧来の秩序を重視する弟の直義と対立することに結果した。
 南北朝の争乱を生み出した一つの原因である幕府内の分裂、足利直義と高師直の対立は、こうして始まったのである。

 そして直義派との闘争に尊氏が勝利したあと、この方策は、幕府・将軍の権力を広げるために、畿内・近国に限られずやがて全国に広げられた。その結果は、対立した直義派の守護や南朝についた守護や武士の利益をもはかることになり、このことによって幕府=北朝に帰順する守護大名・武士を増やす結果となっていった。そして南朝を屈服させて南北朝を合一させ、室町幕府の下に全国は統一されることになった。

 しかし皮肉なことに、これによって大きな権力・財政基盤を得たのは、幕府・将軍ではなく、守護大名だったのである。幕府・将軍は、畿内・近国に散在したおよそ300ヶ所の小領地を手に入れ、そこに足利氏の譜代の家来や、足利氏の一族や他の大名家の庶子や、在地の武士を領地の管理者として置き、彼らを自己の直轄軍(=奉公衆という)に組織しただけであった。
 当初はそれでも将軍直属の軍隊を持ったわけであるから、義満のように、これを使って有力守護大名家の家督争いに介入して、その勢力を削ぐことに使えたが、なにぶんにも財政基盤としては弱小であり、やがてこの奉公衆自身が小大名として将軍から自立していくや、幕府・将軍の財政基盤としても御料地は、ほとんど役に立たなくなっていったのである。

 室町将軍は、その権力・財政基盤がこのようにきわめて弱いのである。

(5)幕府の実権は守護大名にあり

 さらに将軍の弱さを示す第2の点は、将軍の下に置かれた幕府の諸職が、有力な守護大名によって担われていたということである。

 それは一つには、「管領」という補佐役が置かれ、これは足利氏の一族の有力守護である細川・斯波・畠山氏が交代でついたということ。さらには、幕府直轄地である山城の国と京都を治める「侍所」の長官もまた、有力守護である、赤松・京極・一色・山名の諸氏が交代でついたことである。このうち、一色氏は足利氏の一族であるが早くに没落した。また京極氏は、近江の国の守護を鎌倉時代以来相伝してきた有力御家人・佐々木氏の本家であり(分家が近江半国守護を相伝する守護大名・六角氏である)、足利氏からみれば外様である。そして、赤松・山名の諸氏は、鎌倉幕府の滅亡・建武の新政・南北朝の争乱の時代を通じて、後醍醐天皇に従った南朝派の有力守護大名であり、足利氏の敵ともいって良いほどの守護大名である。

 守護大名はそれぞれの領国を独立して統治する権限を持っており、この意味で、半ばは将軍からも朝廷からも独立した存在である。半ばというのは、諸国守護は形式的には諸国国司のあとを継いでいるので、将軍の推薦により朝廷が任命するものだからであるが、実質的には、幕府の法令や朝廷の権威を利用して、自らの力で諸国を切り従えたのであり、半ば独立した存在なのである。

 したがってこの独立した守護大名が結束して将軍・幕府に対した時は、将軍はこれを掣肘することは出来なくなる。この守護に、関東10ヶ国を統治する鎌倉府の頭領である関東公方をあわせて考えると、幕府の実権は、有力守護大名と、将軍家の有力庶流である関東公方によって握られているといっても過言ではないのである。

 こうしてみると室町幕府は、有力な守護大名の連合政権と言ったほうが良いのである。
 力と権威を備えた統一政権をもとめて行われた、鎌倉幕府の滅亡・建武の新政という試みは、南北朝の争乱という戦乱を生み出したことで、逆に地方の独立性を強化し、ようやくできた「統一政権」をきわめて脆弱なものにしてしまったのだ。従って「強力な統一政権」を求める動きは、室町幕府の成立と義満時代の安定を経ても終わらず、やがて応仁の乱を経て、戦国の大動乱期につながってゆくことは必然であったのである。

 「つくる会」教科書は、他の教科書とは違って鎌倉府が独立した力を持ち、やがて幕府と対立したことはきちんと記述している。その意味で幕府の脆弱性を指摘してはいるが、その鎌倉府の独立性としばしば結んで、同じく幕府から独立した力をもった有力守護大名が幕府に叛旗を翻し、鎌倉公方を将軍家に代る権威として担いで、幕府に対する反乱がしばしば行われたことまでは記述しない。それは全国を統一したはずの武家が天皇を推戴したことを持って、天皇の神性を強調したいという思惑によってではなかったかもしれない。多くの教科書が室町幕府の脆弱性を充分には記述していないという事実にならってこの教科書も記述され、その上に、天皇の権威の至高性を強調しようとした結果であり、巧妙に仕組んだ虚構ではなかったのかもしれないが、結果として「室町幕府」の記述には、大いなる虚構性が生まれたことは、たしかである。

補足1:守護の権限について
 しかしこの記述の中で守護が吸収した「国司の権限」なるものの実態が不明である。この「室町幕府」の項にも説明がないし、そもそも律令制の成立の所で、国司の権限は「国々を統治する」としか説明がなく、権限の実態が不確かなのである。
 国司は諸所の記述から「税を取り立てる」権限を持っていたことがわかるが、南北朝の争乱の中で幕府が守護に荘園や公領の税を半分取りたてる権限を与えたのだから、ここで言う「国司の権限」の実態がますますわからなくなってしまうのである。
 事実は何であったのか。
 国司は国々における裁判権=検断権を持っていた。つまりさまざまな争いを裁判し調停する権限も持っていた。だから国司の管轄する国内で所領を巡る争いがあればそれを裁断することもできたし、犯罪者をとりしまったり、犯罪者をかくまっているものを取り締まったりも出来た。今日で言う警察権と裁判権を併せ持っていたわけである。そして裁判や犯罪者を取り締まるために、国内の諸所に巡検使を派遣し、この巡検使は皇族や貴族・寺社の荘園であっても立ち入って調べる権限をもっていたのである。さらには、徴税権の一種であるが、税以外にも、さまざまな賦課が国家から国々に課せられる場合がある。たとえば、朝廷や幕府が大寺院を建立する場合や大規模な儀式を挙行する際には、ある国の税をそれに充てることにしてその国だけの特別税として寺社の建立のための税や儀式のための税をを課することがある。国司はこれを徴収する権限も持っていた。
 守護はもともと国司が持っていた軍事権、軍役を課する権限を別に有力な武家に委任して「国大将」「国押領使」として設けられた官が発展したものであって、国司のように税を徴収したり、裁判や警察権を行使することができなかった。これを室町幕府は次々に守護に与えたのである。
 したがって守護は、国内の荘園・公領の半分を横領しただけではなく、残った荘園・公領に対して特別税を課して徴税することもできるようになったし、犯罪者の取締りと称して、荘園や公領に巡検使を派遣することもできるようになったのである。そのため皇族や貴族・有力な寺社の荘園では、守護が巡察と称して使いを送ると、荘園内を調査されるのを嫌って多額の礼銭をはらってお目こぼしや、中央の幕府で裁判をすることを願い出たので、守護の下には、正規の税以外にも多額の金銭があつまることになったのである。
 こうして守護は、領国全体に対する徴税権・裁判警察権、そして軍事催促権を行使できるようになり、文字通り国を支配する大名になったのである。
 国司に関する項目の所で、国司の権限をきちんと説明しておけば、「室町幕府」の所で、「守護が国司の権限を吸収して」と記述するだけで、守護が文字通り一国を統治する権限を持ったことが理解でき、それは幕府からも朝廷からも独立した地方権力であることを簡単に理解させることができたのだ。そしてこう理解すれば、室町幕府の統治は、その内部に、そこから半ば独立した大名を抱えるがゆえにその権力基盤は脆弱であり、やがて幕府が衰え、各地に割拠する守護大名それぞれが争いあう時代になり、そこから統一政権が存在しない戦国時代に突入する必然性も理解できたのである。

補足2:幕府が吸収した朝廷の権限について
 教科書の記述の中で、義満時代の幕府が、「朝廷の権限の多くを吸収し」とされているが、その実態があやふやである。
 諸国の軍事催促権を鎌倉時代に握った守護が、さらに徴税権を握ったわけであるから、ここでいう「朝廷の権限」の中に徴税権も含まれる。しかし徴税権のことについてはその前に詳しい記述があるのだから、徴税権だけを指しているわけではない。
 では、それは何か。
 律令制の所の記述に、「律令による統治のしくみ」という図があり(p55)、説明があるが、個々の役所の役割についての説明がなく、太政官は「国政全般をつかさどり」、神祇官は「神々の祭りをつかさどる」としか説明がない。
 今までの記述で、太政官に属するであろう徴税権・軍事催促権・警察裁判権のほとんどが幕府・守護に奪われたことを考えると、残りは神祇官が司った「神々の祭り」かと、推測できる程度であり、よくわからない。ここは律令制の所できちんと朝廷の権限を説明しておくべきである(図に説明を入れるなどの工夫で)。
 義満の時代までに残されていた「朝廷の権限」は京都の徴税権と裁判権、そして国司・守護や摂関・大臣・納言などの官職を任命する権限。さらには、寺社の所領や皇族・貴族の所領を与えたり奪ったりする権限とそこにおける裁判権。また寺社の役職を任命する権限。そして神祇権である、寺社にさまざまな祭りを行わせる権限、これには様々な祈祷を行わせる権限も含まれる。
 義満の時代に幕府は、京都の徴税権と裁判権を朝廷から奪い、寺社・皇族・貴族の所領安堵権やそこでの裁判権も奪い取ってしまった。すなわち朝廷に残されたのはもはや、官職や僧職・神職を任命する権限と祭祀を行う権限しかなかったのである。
 それにも義満は介入した。官職・僧職・神職の任命は、公卿会議の推挙と摂関の推挙をへて、その結果が院なり天皇なりに伝えられ、それを元に天皇が任命リストを書き上げて公卿会議に諮って決定される。義満はその推挙の過程に、自己の意思を介入させ、天皇・院に伝えられる人事案は、事実上義満の案になってしまったのである。怒った天皇は任命リストを自ら書き上げることをボイコットしたため、任命リストは摂関が代筆せざるをえなくなってしまった。義満は人事権も朝廷から奪おうとしたのである。そしてこの頃、寺社に対して祈祷を命じることも朝廷によってではなく、義満の意向で行われ、本来は天皇の意思で行われる改元(年号の改廃)さえ、義満の同意がなければなしえない状態にしてしまった。
 そして最後に義満は次期天皇の人事権すら院・天皇から奪おうとしたのである(詳しくは前掲コラムの批評にて)。
 まさにこの時代に朝廷・天皇は、風前のともし火となっていたのである。

補足3:どのようにして南北朝を合一したか

 この問題の背景は、徴税権を朝廷から奪い、守護に与えたことであるのは確かである。
 しかしそれだけではない。幕府は、皇族・貴族・寺社の所領を安堵する策をとっていた。
 1368(応安2)年、幕府は寺社本所の半済令を定め、畿内・近国の、皇族・摂関領に対する半済(税の半分を守護が徴収すること)を停止・禁止し、併せて有力寺社が一円支配する国(興福寺が国司・守護を兼ねてきた大和の国のような)に対する半済も停止・禁止した。つまり皇族や摂関という上級貴族の領地は安堵するとともに、有力寺社の領地を安堵したのである。
 これは皇族・上級貴族・有力寺社の保護を狙っただけではなく、増大する守護の力を削ぐ政策でもあったが、これは同時に、南朝の側に対する合一に向けた懐柔策であった。
 この懐柔策が功を奏して、南朝においては次第に主戦派が後退して、南北合一にむけて交渉が開始されることになる。そして1392年に南朝の後亀山天皇が京都に戻り、神器と位を北朝の後小松天皇に譲ることで南北朝が合一したわけである。
 この時に義満が南朝に示した和平案は、「@後亀山の天皇としての地位を認め、合法的に後小松に譲位する形をとる。A今後の皇位は、後小松流と後亀山流が交互につく。B諸国の国衙領を後亀山流が知行し、長講堂院領を後小松流が知行する。」の三つだった。これで南朝となっていた大覚寺統も存続できるのであるから、背景となった武士の支持を失った南朝の皇族・貴族は、合一に応じたわけである。いわば、「建武の新政の前の状態に戻す」ことが、南北朝合一の条件であった。
 やはり義満にとっても天皇は自己の権力を維持するに不可欠な権威であったのである。
 だがこの条件のABは結局反故にされた。こうして大覚寺統・南朝は消滅していったのである。

:05年8月刊行の新版における「室町幕府」の記述は、そっくり同じである(p78)。変わったところは、教科書の版型が大ききなったので、資料として14世紀後半の「主な守護大名」の図が掲載されたことである。この図があることによって、幕府・将軍の支配地が極めて限定されていることを判読できる可能性は、旧版より高まった。

:この項は、前掲、今谷明著「14−15世紀の日本―南北朝と室町幕府」と、同じく今谷著「室町の王権―足利義満の王権簒奪計画」(中央公論新書1990年刊)、さらに、村井章介著「分裂する王権と社会」(03年中央公論社刊「日本の中世10)などを参照した。


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