「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判17


17.”国家間”貿易の意味を度外視:日明貿易

  室町時代政治史の最後に、「日明貿易」と題した、室町幕府と明との貿易についての記述がある。それは以下のようなものである(p97)。

 14世紀後半に中国で建国された明は、日本に倭寇の取り締まりを求めてきた。倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国大陸の沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには、日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていた。
 義満は、さっそくこれに応じて倭寇を禁止し、明との貿易を始めた。この貿易は、倭寇と区別するために勘合とよばれる合い札の証明書を使ったので、勘合貿易とよばれる。日本からは刀剣、銅、硫黄などを輸出し、銅銭や絹織物などを輸入した。しかし、この貿易は明に服属する形をとったため、義満の死後、それを嫌って中断した時期があった。

 これが日明貿易についての、この教科書の記述の全てである。

(1)意味を読み取れない「手抜き」の叙述

 なんとも「簡潔」というか「手抜き」というか、あまりに簡略な記述のため、さまざまな疑問が沸いてくるが、それに対するヒントとなる記述すらも見当たらない。
 例えば、こんな疑問がわいてくる。
 @倭寇って、あんなに大きな中国(明)の政府が手を焼くほど強かったのか?
 A中国と同じく倭寇に荒らされた朝鮮からは、倭寇取締りの要求はなかったのか?
 B倭寇に日本人と朝鮮人が含まれていたというけど、どうして日本と朝鮮の政府は、それを取り締まれなかったのか?
 C義満が明の要求に応じて倭寇を禁止し、明と貿易したのは、何が目当てなのか?
 Dなぜ義満の死後、幕府は、「中国に服属する」形を嫌ったのか?

 これらの疑問は、なぜこの時期に中国と日本との国家間の貿易が復活した(平安時代の遣唐使中止以後の長い時間をへて)のかという、最も本質的な疑問に繋がるものなのだが、この教科書の記述には、これらの問いを考えるヒントすらない。

 @については、文中に記述するか、資料を載せるという形で、倭寇がいかに大規模な海賊であったかということを示せば、一定の理解は得られる。そしてこの@の問いとABの問いは連結しているのだが、倭寇が盛んだった時期を明確に示し、その時の、中国・朝鮮・日本の社会、政治情勢と繋げて考えられるようにしておけば、@〜Bの問いに答える事は可能である。だが、この教科書は、「日本史」に記述が偏っていて、東アジアの情勢については全く記述がない。さらに、日本と朝鮮との間の関係の記事が室町時代ではなく、戦国時代の記述の中に、ここより10ページもあとに分断されて記述され、そして倭寇集団の盛期の記述もないために、この問いに答える事ができないのである。

 さらにCDの問いは、明が倭寇の取締りを求めてきた時期に、義満がどのような動きをしていたかが記述されていれば、すぐに明らかになることである。しかしその記述は、中世をあつかった第2章の最末尾、ここから12ページもあとの「源頼朝と足利義満ー天皇と武家の関係」というコラムのところでようやく記述されているので、つかみづらいのである。

 この日明貿易についての記述が、この出来事の意味がわかるように記述されていないのは、この教科書の根本的な欠陥、@記述が日本一国史に偏っていて、世界、とりわけ東アジア世界の中に日本を位置付けて記述しないこと、A記述がきわめて政治主義的であり、社会史・経済史が軽視されている事、B記述の相互関係が計画的でない事、に由来しているのである。

 では事実はどうであったのか?。

(2)14−15世紀初頭は東アジアの激動の時代

 倭寇の活動が極めて激しくなったのは、朝鮮の例で言えば、1350年の2月に、倭寇が高麗国の慶尚道(朝鮮の東南の地方)の固城・竹林・巨済島を退去して襲ったことがその始まりといわれている(もちろんその前から小規模な襲来はあったのだが)。
 この時期の日本はちょうど南北朝の争乱の真っ最中、それも室町幕府が真っ二つに割れ、足利直義対足利尊氏・高師直に割れて相互に戦いかつ、南朝・北朝を巻き込んで、近畿地方を大動乱にたたきこんだその時である。しかもこの戦いは、関東における戦乱と、中国・九州における戦乱にも直結し、とりわけ中国・九州は、幕府内の争いが収まった後も、直義派・幕府派・南朝派に分かれた抗争が続き、いずれかの勢力がその地方を統治するということが出来ない、激動の時期が続いた。そしてこの九州における争乱は、1361年から72年の一時期、南朝派の征西将軍懐良親王派が大宰府を占拠して一定の安定を得た時期を除いて長く続き、争乱が収まったのは、1399年に義満が中国・北九州の大大名大内氏を打ち従え、翌1400年に、幕府から半ば独立して動いていた九州探題今川氏も義満に屈した時まで続いていたのである。
 実は倭寇がもっとも激しく活動していたのは、この時期なのである。
 そして朝鮮の政府が倭寇禁圧を日本に始めて求めたのは、高麗王朝の時代の1367年、そしてこの1367年に建国された明も建国当初から倭寇の禁圧を日本に求めていた。また1392年に高麗を倒して建国された朝鮮王朝が日本に倭寇禁圧をもとめたのは、その年。しかし日本の国内情勢が上に述べたようなものだったので、幕府はこれに有効に応えることは出来なかった。

 明が倭寇禁圧を求めて博多に使節を送った時、九州を実効支配していたのは、南朝派の征西将軍懐良親王であったので、明はこれと通交を結び、1371年には、征西将軍懐良親王を日本国王に封じたのである。しかしこれも翌年に大宰府が幕府九州探題の今川氏によって落されて、九州は再び戦乱の世に戻ったため、倭寇禁圧はならなかった。そしてその後は、明は幕府に直接倭寇禁圧を求め、将軍義満もそれに応えて、1374年・80年と明に使いを送り、通交を求めたが、彼の資格が「征夷将軍」という対外的には何の意味もない肩書きであったことと、幕府が九州を実効支配していないため倭寇禁圧が不可能なため、明の通交拒否にあって頓挫していた。

 倭寇が活動した14世紀中頃から15世紀初頭までの日本。とりわけ西日本が南北朝の大動乱の中にあったのである。そしてこれは、東アジアの他の諸国、朝鮮や中国も同様であった。

 朝鮮半島の高麗王国は、13世紀のモンゴルの侵入と抵抗の中で国は荒れ、さらに13世紀後半以後の相次ぐモンゴルによる「日本征討」の前進基地にさせられたことにより、さらに国力は疲弊し、14世紀には、民の反乱も相次ぎ、高麗王朝は国を満足に統治できる状態ではなかった。この状況に拍車をかけたのが、相次ぐ倭寇の襲来であった。倭寇との戦いに疲弊した高麗王朝は、倭寇討伐に勲功のあった将軍李成桂が高麗王朝を倒して1392年に朝鮮を建国し、これ以後徐々に倭寇の勢いは衰えたのである。

 同じ事は、中国にも言える。あいつぐ征服戦争に中国の民を動員して民を疲弊させた元(モンゴル)では、1351年に紅巾の乱が起こり、以後、漢民族を中心としたモンゴルへの反乱が相次いで、各地に独立王朝が乱立。その中の一つで「呉王」を称した朱元璋が元の都大都を落して中国を統一したのが1368年。しかし以後も各地で反政府勢力が活動しており、安定したのは、15世紀初頭であった。

 倭寇が朝鮮・中国沿岸を荒らしまわったのは、東アジア全体が激動の時代の、まさにその時期なのであり、各国政府が国土の全体を実効支配できない状態の中で起きていたのである。したがって各国政府が確立し、国土全体を実効支配し、そして倭寇禁圧で連携すると、倭寇は次第に衰えていったのである。

 このような時代背景を記述しないで、倭寇の記事を載せる「つくる」会教科書の記述方針は、あまりに一国主義であり、日本史を日本単独で解釈してしまう誤りを生む基である。

(3)倭寇は”境界の民”

 では、倭寇とはどのような人々であったのか。
 それを示す資料は少ないが、少なくとも、朝鮮・中国を荒らしまわった海賊で、「倭語」を話し「倭服」を着るものたちのことを、朝鮮や中国の人々が倭寇と読んでいたことは確実である。そしてその「倭語」は、後年の朝鮮使節の記録などによると、京都付近の「日本語」とはまた別のもののようであり、朝鮮半島の南部の多島海地方の民たちが熱心に「倭語」を学ぶという事実が、朝鮮の記録にもあることから、「倭語」とは、北九州の島々の言葉であるように思われる。
 また倭寇の根城は、日本の記録や朝鮮の記録でも双方とも、対馬・壱岐の両島であり、ここが倭寇の根拠地の一つであった事は確かである。また倭寇がなかなか禁圧されないことに苛立った朝鮮は、1389年には100余艘の兵船をもって、そして1419年には、兵船227艘、軍兵17285を持っての2度、大軍で対馬を襲っている。さらには、朝鮮で最も倭寇の活動が激しかった1377年の記録には、倭寇が「対馬島より海を蔽いて来る」という記事もあり、倭寇の最大の根拠地が対馬である事は明白である(他には壱岐島と、玄界灘の南岸の松浦の地も倭寇の根拠地にあげられる)。

 倭寇の主力が朝鮮と日本の境界域に住む「日本人」の海賊であった事は確かである。しかし、先の朝鮮南部の多島海地方の人々が積極的に「倭語」を学んでいたという、1428年の済州島島民についての記録や、同じく1446年の朝鮮の記録に、「高麗王朝時代に倭寇が盛んで民を苦しめたとあるが、その中で倭人は一・二に過ぎず、朝鮮の民が倭服を着て集団をなして海賊となっていた」という記録などを考えると、対馬・壱岐、そして松浦の倭人に加えて、済州島の島民や、他の朝鮮南部の多島海地域の住民がそれに加わっていたと推測される。

 :1446年の記事は、朝鮮王朝の時代に、前の王朝の高麗の事跡を批判的に見ている記事であり、高麗王朝が辺境の民たちをきちんと統治する能力に欠けていた事を示すものであり、同時にその記事の他の部分には、「辺境の民と言うものは何をするかわからいもの」という記述が見られる事から、辺境の民に対する差別感に依拠した記事だと考えられる。したがってこの記事は、倭寇が倭人だけではなく、朝鮮の辺境の民もまた加わっていたということを示すものと考えたい。

 つまり倭寇とは、朝鮮・日本・中国の東アジア各国が不安定な政情に入る中で、各国政府が辺境まで統治する能力を失う中で、朝鮮と日本の辺境の民が独自の行動を行い、海賊となって、朝鮮・中国の沿岸部を襲ったものと考えられる。
 この時代には、今日のような確固とした国民国家は存在しない。したがってその境界領域はそもそも、どちらに属するのかあいまいである。その上、朝鮮南部・対馬・壱岐、そして玄海灘南岸の松浦などの北九州北岸の地方は、一衣帯水の地であり、縄文時代以前より、互いの通交は激しく、人的交流・交わりも盛んでもあり、ある意味で、一つの「海洋国家」をなしていた地方である(かの古代史家・古田武彦氏の言う「九州王朝=倭国」は、壱岐・対馬をその聖なる地域とした、対馬海峡・玄海灘の北岸南岸の地域全てを統治した国家であるとされている。これがここにいう「海洋国家」である)。この地域は、「朝鮮人」と「日本人」とが雑居している地域である事は、諸資料にもあらわれている。

 倭寇とは朝鮮と日本との”境界の地域”の”境界の民”の独立した行動であると考えられる。この教科書の「日本人のほかに朝鮮人もおおく含まれる」とは、そのような意味である。「日本人」「朝鮮人」を、今日的な意味で捉えてはならない。

(4)倭寇の規模と略奪品

 では倭寇とよばれる海賊は、どのような規模で、何を奪ったのだろうか。

 倭寇の規模は、かなり大きく、通常でも20〜40艘の船で来襲。多い時には100艘を超え、記録上最大のものは、500艘を数える。遣明船のように大型の船であれば、100〜150人は乗せられるが、倭寇の船は、船足の速い兵船であるので、ずっと小型である。1419年に朝鮮の軍船が対馬を襲った時の記録から換算すると、平均80人ぐらいであるから、少なくとも20〜40人。最大規模で80人ぐらいのものだろうか。こう考えると倭寇の規模は、4・500人から、2000人、最大規模は1万数千人ということになる。実際人数が記録されている場合でも、最大規模で、千数百の騎馬隊と数千人の歩兵を擁しているので、この推測はあたっている。

 倭寇はかなり大規模なものだ。だからこそ倭寇の根城の対馬を朝鮮が襲った時に、100艘とか200艘の軍団が必要だったのだ。ちなみに1419年に朝鮮軍が対馬を襲った時の朝鮮の兵船は227艘。当時の朝鮮の全兵船の数が613艘。対馬で捕獲した倭寇の船が129艘。従って、倭寇の兵船の数は、朝鮮一国にも及ぶものであり、対馬だけではなく、壱岐、そして松浦や、朝鮮の済州島などの島々の兵船が合同で動いていた可能性が高いのである。

 では、この大規模な海賊は、何を奪ったのか。倭寇が奪ったのは、主に食料と人である。朝鮮の場合は、税として集めた米を、運搬中の船を襲って根こそぎ奪い取るとか、郡や国の税の集積倉庫を襲って根こそぎ奪い取るとか、主に米である。これに人の略奪が多数加わる。
 この奪い取った人はどうするかというと、一つは奴隷として使うことで、日本各地や琉球に売られていき、そこで奴隷として使用されていたことは、多くの資料に残存する。また、人を奪いとって、それを倭寇からの分捕り品として朝鮮に送還することで、朝鮮政府から、米や木綿を礼として受け取る事が多々あり、身代金目的の誘拐という面もある。
 中国での場合は、港を襲い、港に入っている諸国の朝貢船を襲って積荷を略奪したり、町を襲って寺院を焼き討ちし、書画骨董品や人を奪うという例が記録されている。

 朝鮮の場合は米と木綿。そして中国の場合は書画骨董。これは日朝貿易や日明貿易で正式に日本にもたらされた商品と同じである。この意味で倭寇は、統制が厳しくなれば転身し、平和な商人として通交する可能性を秘めている事がわかる。これと異なるのは、非合法の貿易である「人身売買=奴隷貿易」である。倭寇が人を奪って奴隷として売ったということは、この時すでに、奴隷市場が成立していたことを意味しており、鎌倉時代以後の大規模な戦闘に際して、「苅田(収穫直前の田の稲を刈り取る)」や「乱捕り(人や金品を奪い取る)」ことが普通に行われていたこととも考え合わせると、倭寇の行動は、通常の経済活動では不足する分を、戦闘によって補うと言う、当時一般的であった行動を、国を超えておこなったものと考えられる(なお、16世紀になって再び活発になった後期倭寇は中国の民が主力であり、主な分捕り品は奴隷であった)。

 そしてさらに倭寇の被害は、襲われた国にとっては、甚大なものであった。高麗・朝鮮については詳細な記録があるので、それによると、倭寇の略奪は大規模な、かつ凄惨なものであった。倭寇の活動が最も活発であった1377年の記事を見ると、「死者数千人、京城大いに震う」「(倭寇の)すぐる所、蕭然たり」「「焚掠して殆ど尽く」「殺傷すること無数」「水原より陽城・安城に至る、蕭然として人煙なし」など、被害の甚大な様をあらわす文字が並んでいる。まさに焼き尽くし・殺し尽くし・奪い尽くすであったのだ。
 あまりに倭寇の掠奪が激しいので、民は山間部に逃げたり、島々に逃げたりして、耕作も満足に行われない地方が出て来たり、郡の役所そのものが避難したり、酷いところでは、村全体が安全な地域に逃げ、そこに新しい村を建てざるをえなかったりしたそうである。

 なぜ倭寇の被害が甚大であった事を、この教科書はまったく記さないのだろうか。朝鮮の植民地時代の被害や大戦中の日本による被害をほとんど記述しない姿勢と通じるのかもしれない。

(5)義満が明と通交した意味

 以上のように見てくれば、なぜ朝鮮・中国が倭寇をなかなか取り締まれなかったのかがわかるであろう。境界領域の民の海賊行為であり、それが通常の平和な商業活動と大差ないので、取締りが難しいということだ。だからこそ朝鮮・中国の政府は、境界領域の一方の端であり、倭寇の主力がいた日本の政府に、倭寇禁圧を求めてきたのだ。しかし15世紀初頭までの日本は、南北朝の大動乱の渦中にあって、境界領域を有効に統治できなかった。だから倭寇を禁圧できなかったのだ。ようやく禁圧できる条件ができたのは、1392年の南北朝合一、そして1400年に、ようやく九州を室町幕府が実効支配するようになってからだったのだ。

 では、足利義満が明の呼びかけに応えて倭寇を禁圧し、明と通交したのにはどのような意味があったのだろうか。

@名実ともに「日本国王」を目指す動き

 足利義満が最初に明に使節を送ったのは、1374年。そして1380年にも使節を送って通交を求めている。これは1368年に建国された明の倭寇禁圧への呼びかけに応えたものであると同時に、1371年に明から「日本国王」に封じられた征西将軍懐良親王を翌1372年に大宰府から追い落とし、北九州を手に入れたことを基礎に、義満自身が征西将軍に代って「日本国王」として明と通交しようと言うあらわれであったと思われる。しかし義満の肩書きが「征夷将軍」というものであったことを理由に、明王朝は、「陪臣=王の家臣」が通交を許された例はないということで、義満との通交を拒絶した。
 この1380年の遣使は義満の意思であると思われる(74年は征夷大将軍になってまだ6年。管領細川頼氏に補佐された状態であった)。そしてこの時期の義満はすでに朝廷の実権、裁判権・祭祀権・人事権の全てにわたってほとんど握っており、それを怒った後円融天皇が人事案を書かないと言うストライキをやっていた時期である。義満が実質的には「日本国王」であったのだ。その彼が明に通交を求めるということは、明から日本国王に封じられる事で、名実ともに「日本国王」になろうという動きであった可能性はある。
 しかし明からは、実質的に倭寇を禁圧していないことと、名目としては「陪臣」であるという理由で断られ、それはならなかった。

 1380年以降の義満の動きは、名実ともに「日本国王」たらんとする動きになる。
 すなわち、1382年には25歳で左大臣となり、名目的官である太政大臣の二条良基を除けば、臣下の最高位につく。そして翌年1383年には、源氏長者の地位を得、同時に、皇后・皇太后・太皇太后に準じる地位である「准三后」の称号を得る。すなわち天皇を除くあらゆる地位の頂点にたったわけである。このころである、義満の行動に憤懣を募らせた後円融上皇が自殺未遂を図ったのは。上皇・天皇の廷臣たちはこぞって義満の意を迎え、彼に追従し、朝廷は実質的に義満のものとなったのである。この同じ年、征西将軍・日本国王懐良親王は大宰府を回復することなく死去した。明王朝が、日本は懐良と時明院との二つの王朝が並び立って争っていたと認識していた、一方の王朝が壊れたのだ。
 九州の征西宮の力が弱体化したことで南朝の勢力は決定的に衰え、南朝の新しい天皇である後亀山天皇は、北朝との融和の動きを始める。そして南北両朝が合体した(事実上北朝への吸収合併)のは1392年。その二年後の1394年。義満は太政大臣となり、征夷大将軍を子の義持に譲る。そして翌1395年、義満は出家して太政大臣の官も辞し、武家・公家の諸官を超越した地位につき、准三后の称号だけを使って、天皇を除くすべての人々の上に立ったのである。

 さらに義満は1399年に中国地方の有力大名である大内氏を討ち従え、翌1400年には、九州探題として独自の動きをしていた今川貞世を解任して屈服させ、九州も幕府の下に従えた。
 この翌年である。義満が「准三后源道義」の名で明国皇帝の上表文を奉り、明と通交を求めたのは。そして翌年1401年、明皇帝は、義満を「日本国王」に封じ使節を日本に送り、義満は京で、その使節に面会し、明皇帝に臣下の礼をとり、翌1403年の明にあてた国書に「日本国王源」と署名したのであった。さらに1404年には明から勘合符を支給され、ここに正式な明との朝貢貿易(日明貿易)が開始された。

 ここから義満の王権簒奪計画は加速する。1406年には妻の日野康子を後小松天皇の准母とし、康子も「准三后」の地位に上り、義満も天皇の准父ともいうべき地位につく。そして1408年、義満は後小松天皇を北山第に御幸させ、自身は上皇としての格式で天皇と面会。そして息子の義嗣を宮中で親王待遇で元服させ、彼を後小松天皇の養子にすべく動き出したのであった。

 このような経過を見る時、義満が明と正式の通交を求めて認められた時期は、まさに彼が日本全国に統治権を及ぼし、朝廷の諸権限を我が手に治め、事実上の上皇として君臨していく、まさにその時なのであった。そして「日本国王」に封じられて後、彼は天皇家をすら簒奪しようと動き始めたのだ。
 「日本国王」の称号は彼による王権簒奪の大義名分とは言えないが、それを補強する意味は充分にあったと言えよう。これが足利義満が明と通交したことの目的の一つであると考えられる。

 だからこそ彼の死後、将軍が手の届かない高みにつくことを恐れた守護大名達の意向にそって、将軍足利義持は、義満への太上天皇号授与を断り、義嗣の天皇養子の件もなきものにし、同時に、「日本国王」として明と通交する事を拒んだのである。このような個別の事情を記すことなく、「明に服属する事を嫌って」貿易を絶ったという記述では、「日本人は外国に服属することを嫌った」のだという誤った観念を植え付けかねない。

A文化・商業の王を目指す

 もう一つ義満が明と通交を望んだ目的があろう。
 明は、諸外国の王との正式の通交・朝貢貿易しか認めていない。ということは、義満時代の明との貿易船はほとんど幕府の船であったことから、明との貿易を幕府・将軍が独占するということを意味している。そして室町将軍が明との貿易を独占することに意味があったのだ。

 このことの意味は、明との貿易品を詳しく見て、それが日本においてどのような役割を持っているかを考えればわかることである。

 明への輸出品は、「刀剣・銅・硫黄など」と教科書は記す。この「など」の主なものは扇子と蒔絵である。刀剣と扇子と蒔絵は当時の日本を代表する工芸品。それも主たる産地が、当時の日本の工業の中心都市の平安京そのものであった。つまり室町将軍は、京都の工業を掌握しており、その主な産物の輸出を統制し、その利益の多くを手にしていたことを意味している。さらに、硫黄は主たる産地の薩摩硫黄島を領する薩摩守護島津氏から、そして銅は、その主な産地である、但馬・美作・備中・備後の守護から調達したものである。さらに資源として輸出されたものに瑪瑙があるが、これも主な産地である加賀の国を領する加賀守護富樫氏と京都五山からの調達。当時の日本の主な鉱産資源の輸出を室町将軍が掌握し、利益を独占するということを意味している。

 では輸入品はどうであろうか。「銅銭や絹織物など」と教科書は記す。銅銭は当時の日本の商業活動にとってはなくてはならない基本通貨である。日本では、平安時代初め以来、朝廷は通貨を鋳造していないので、宋の発行した銅銭(宋銭)と、この日明貿易で得た銅銭(明銭)が基本通貨として流通していた。明は銅銭が海外に流出することを嫌ったので、日本国王に下げ渡す銭の数も制限した。このため明銭の輸入量は少ないのだが、日本に流通する銅銭の中のもっとも質の良い貨幣としての役割を担っていたので、室町将軍は、日本の基本通貨を独占していたと言っても間違いはない(宋銭は、たびたび偽造されており、幕府そのものも明銭を鋳造しているので、当時流通していた銅銭の多くは、日本で鋳造された質の悪い「悪銭」であった)。ということは、室町将軍は、銅銭の輸入を独占することで、日本全体の商業活動を統括していたと言える。

 さらに「など」の中の主なものに、生糸がある。中国渡りの絹織物は、最高級品として珍重されたが、京都で絹織物産業が盛んになるにつれて生糸の輸入量が増え、京都でも高級な絹織物が織られるようになった。西陣織りで代表される、京都の最も重要な工業製品である。その原料糸の生糸は日本では生産できないのだから、室町将軍は、絹織物産業の根幹を握っていたも同然である。

 また、「など」の他の物の中には、書画骨董などの美術品や磁器がある。
 日本の貴族階級は、飛鳥・奈良時代以後、中国渡りの「唐物」崇拝の傾向が強い。国風文化と呼ばれた平安時代の貴族も、競って唐渡りの絹織物に身を包み、唐渡りの香料を焚き染めて、高級な文化に酔いしれていた。これは鎌倉・室町時代に入っても続き、公家だけではなく武家もこの文化傾向に染まっていった。室町時代に始まる「生け花」や「お茶」の文化も、最初は、唐物の中で育まれた文化だった。生け花の始まりは「立て花」という、中国渡りの祭りである七夕の夜に、大きな中国渡りの華麗な花瓶にたくさんの花を生けたところから生まれた。お茶も同じであり、初期のお茶は、様々なお茶を飲み比べて、その味と香りから、産地を言い当てる「闘茶」というゲームであった。これは中国の風習を日本に移したもので、闘茶をする時には、中国風の建物に、中国渡りの書画骨董を並べ、中国服を着て楽しむという趣向であった。

 これらの遊びに不可欠なのが、唐物であり、それが絹織物であり書画骨董や磁器なのである。

 また中国の磁器は、かなり前から珍重され、室町時代になるとこれを愛好する人々は公家や武家上層だけではなく、地方の武士層や上層商人などにも広がっていたことは、日本各地から宋・元・明代の中国磁器がたくさん出土することからもうかがわれる。

 つまり室町将軍が明からの絹織物と書画骨董や磁器を独占するということは、公家や武家たち、そしてこれと同じ文化を享受し始めた地方の人々の文化を室町将軍が支配・統括するということを意味しており、この意味で室町将軍は、先の商工業の独占と相俟って、「商業・文化の王」として君臨したのである。

 天皇と言うものは、日本最大の文化・商工業都市京都を直接支配する王である。天皇は、政治的な王であると同時に、文化面でも、商工業の面でも王であったのだ。義満は、その天皇の上に君臨しようとした。ということは、政治的に王権を簒奪するだけではなく、文化面・商工業面でも王権を奪い取る必要があったのだろう。日明貿易の開始は、このような意味も持っていたのである。

 :これは、義満が能などの庶民の文化から起こった新しい文化を保護し、武士の式樂としたこととも通じることである。室町の文化で詳述。

 だが「つくる会」教科書は、日本の商工業の実態については、これまでの所ではまったく記述しない。次の項ではじめて経済史を扱うのだから、銅銭の輸入が持つ意味は、あとの所を学ばないと理解できない。そして後に述べるが、室町時代の文化の所ではいかに武家・公家ともに唐物文化にかぶれていたのかということについては、まったく触れていないのである(これは、平安・鎌倉の文化でも同様である)。したがって日明貿易を独占する事の経済的・文化的意味を理解することはできないし、先の王権簒奪とのからみも含めて、日明貿易の政治的意味は、ほとんどつかむことができないのである。

 日明貿易についての、この教科書の記述は、その”国家間貿易”の意味をまったく度外視したものと言える。

 :日本と朝鮮との間の貿易については、この教科書が中世の最後の所で「東アジアとのつながり」の項に記述しているので、そこで詳述する。

 :05年8月に刊行された新版の記述もほとんど同じである(p79)。違ったのは3点。一つは、旧版では、戦国時代の所の「東アジアとのつながり」に記述されていた、その後の(16世紀の)日明貿易のありかたが、ここに入ったこと。二つ目は、明への輸出品に蒔絵を加え、明からの輸入品は「室町幕府の重要な財源になった」と記述された事。三つ目は、旧版にあった「義満死後、外国に服属することを嫌って、通交をやめたこともあった」という記述がなくなったこと。しかしこうしたことで、日明貿易はまるで利益をあげるだけが目的であったかのような記述になり、その政治的目的は、完全に隠されてしまった。これは義満による王権簒奪計画の実在を隠したことと同じ意図であろう。

 :この項は、脇田晴子著「室町時代」(中央公論新書1985年刊)、村井章介著「中世倭人伝」(岩波新書1993年刊)、前掲村井章介著「分裂する王権と社会」、田中健夫著「倭寇と東アジア通交圏」(岩波書店1987年刊「日本の社会史」第1巻・列島内外の交通と国家所収)、佐伯浩次著「海賊論」(東京大学出版会1992年刊「アジアの中の日本史」第3巻・海上の道所収)、松岡心平著「室町の芸能」(岩波書店1994年刊「講座日本通史」第9巻・中世3所収)などを参照した。


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