「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判18


18.技術発展の羅列:「農業の発達」

  室町時代政治史の記述の次に、「都市と農村の変化」と題して、中世における社会経済史の記述が置かれている。「つくる会」教科書は社会経済史的視点が希薄であり、古代史においてはほとんど記述されていないのであるが、その最初の記述が、中世における「都市と農村の変化」の項であり、これは「農業の発達」の記述で始まっている。

 教科書は以下のように中世における農業の発達を叙述する(p98)。

 中世の農業では、人々の工夫によって、さまざまな技術の改良があり、生産が高まった。また農業の発達にともない、手工業や商業などでも、新しい動きがおこった。
 まず農業では、二毛作や牛馬耕などが広まった。二毛作とは、米の裏作に麦をつくることで生産を高める、農地の有効な利用法をいう。牛馬耕は、牛や馬を耕作に使って、人の労力をはぶくとともに、耕作をより効果あるものにした。このほかに田に水を引くさいに水車を利用したり、刈草や牛馬のふんを肥料に使うなどの工夫もなされた。また、稲の品種が改良されて、各地の気候に合わせて栽培されるようになった。
 さらに手工業の原料として、さまざまな商品作物の栽培がさかんになった。麻・桑・こうぞ・うるし・えごま・藍・茶などである。16世紀になると、朝鮮から伝わった綿の栽培も始まった。

 中世における農業の技術的変化がおおむね記述されているのだが、記述が羅列的であり、このことによる生産の拡大がどう他に影響していくかなど、農業の発達の社会的広がりを示唆する記述がほとんどないなど、多くの欠点を抱えている。以下にそこについて詳述しよう。

(1)時代差・地域差を無視した記述

 まず目に付く欠点は、「中世の農業は」と、平安末期・鎌倉期・南北朝室町期という都合12世紀から16世紀におよぶ400年間の時期をひとくくりにして叙述してしまっていることである。実際にはそれぞれの技術の発展には時間的差があり、それぞれの時期の農業技術の発展が、それぞれの時代の社会に大きな変化を与えてもいるのである。

 二毛作はすでに鎌倉時代において全国的に広がっていた。ということは、その始まりは平安時代中期にすでにあったはずである。
 二毛作の文献的初見は1118年であり、1264年の関東御教書では幕府が水田二毛作の麦について領主の所当徴収を禁じており、すでにこの時代に二毛作が関東も含めて全国的に広がっている事がわかっている。
 中世後期の室町時代における変化は、二毛作に継いで三毛作が一部の地域で行われている事である。
 1420年に国書奉呈の任を果たして帰国の旅についた明使の宋希mは摂津尼崎で、「日本農家は、秋に水田を耕して大小の麦をまき、翌年の初夏に刈り取り、ついで稲苗を植えてそれを秋初に稲刈りて、次に木麦(蕎麦)をまいて初冬に刈り取る。一水田に一年に三たびまく」と、畿内地方では米⇒麦⇒蕎麦の三毛作が行われていた事を記述し、その農業技術の高さに驚いていた。

 また牛馬耕はすでに5・6世紀には始まっており、中世前期の鎌倉期には畿内ではかなり広まっていた事が、法然上人絵伝などによっても確認されている。

 さらに水車は9世紀には中国からもたらされ、庭園池の引水に使われていたらしいことは徒然草などの記述からも知られ、13世紀初め(鎌倉末)に作られた石山寺縁起絵巻には、宇治川においていくつもの水車が設けられ、水田に水を自動的に引くことができていたことが知られる。そして、1429年に来日した朝鮮通信使の朴瑞生は、畿内農村で自転揚水車を目撃して朝鮮の竜骨車(人が水車の羽を踏んで動かすもの)より便利である事を賞賛し、この模型をつくって帰国後国王にこれを献じ、水車の普及を進言している。
 水車は15世紀の畿内においては、かなり一般化していたことがわかるのである。

 また16世紀には朝鮮から木綿の栽培技術が伝わった事が記述されているが、これも全国に直ちに広がったわけではない。主な産地は、三河・摂津・駿河・相模三浦各地方である。この耐寒服にとって重要な役割を占める木綿の産地が偏っていたことは、この後の歴史に大きな役割を果たす事になる。

 そして以上のことからもわかるとおり、農業技術の発達は地域による差が見られたということである。常に進んだ技術を持っていたのは京都を中心とする畿内であり、そこから全国各地に進んだ技術が広まるという構造にあったのである。この畿内の先進性は、この地域における工業・商業の発展とともに、この地域の社会の変化が日本の中で最も早かったということを示し、それが政治社会的変化にも繋がっており、見逃すことはできない。

(2)技術間の有機的な繋がりを無視

 さらに「つくる会」教科書の記述で気になるのは、技術相互の繋がりを無視している事である。

 水田で二毛作や三毛作を行うには、水田に入れた水を速やかに出して水田を乾燥させ、水田を畠に転換する技術が不可欠である。つまり灌漑の技術。その要が用水路の建設と水車の使用である。

 さらに用水路を建設するには、それぞれの農家が鍬などの土木工事に使用する鉄製の利器を所有していることが不可欠であり、これ自身、手工業の発展と商業の発展を背景として持っていない限り実現されない事である。

 また、商品作物の栽培の広がりが記述されているが、本来田にかかる税は稲で納めるものであり、限りのある水田を畠として商品作物(これはすべて畑作物である)をつくるには、限られた水田で収穫量をあげる技術の発展を前提にしている。すなわち二毛作や三毛作による収穫の増大や、稲の品種改良による収穫の増大、さらには、牛馬耕による田畑を深く耕す事による収穫の増大など、さまざまな技術の発展によってそれは裏打ちされている。

 そして商品作物の栽培の広がりは、耕地の増大によっても裏付けられなければならない。いくら技術の発展による収穫の増大があったにしても水田を畠にするには限りがあるからである。
 中世においても耕地の拡大は行われていた。しかしそれは古代や近世におけるような大規模な用水路建設を背景にして荒地の開墾ではなかった。強力な国家が崩壊していたこの時代には、古代において作られた大規模用水路は整備が行き届かずに埋没し、多くの耕地が荒地に転換していた。これを少しずつ小規模な水路を建設して再度耕地への転換を試みていたのが中世という時代である。
 この時代の農村遺跡の発掘によって、この時代には古代の散開した村から、1ヶ所に集まった集村が形成され、その中心には堀で囲まれた大規模な家が存在し、ここに小規模ながら権力の集中によって、荒地の開拓がなされる基礎が生まれていた事がわかっている。この堀で囲まれた大規模な家の主こそ、自家内に鍛冶職人などを抱える在地豪族であり、後の武士である。

(3)外国との繋がりによる技術発展の軽視

 また「つくる会」教科書の農業技術の発達についての記述でもう一つ気になることは、そこに外国の影響がかなりあったことを軽視していることである。

 たしかに16世紀における木綿の普及が朝鮮から栽培技術がつたわったことが背景にあることは記述されている。

 木綿の日本での栽培の初見は、平安時代799年である。このとき天竺の人が三河に流れ着き綿種を伝え、この種が栽培法とともに紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐および大宰府管内の九州の諸国に支給された。しかし伝えられたのがインド種の綿であったため栽培条件があわず、これは普及しなかった。
 しかし15世紀に入って明や朝鮮との貿易が盛んになるにつれ、両国から大量の綿布がもたらされ、日本の上流階級の間に膨大な需要を生んだ。だが貿易は政治状況や気候に左右されて恒常的ではなく、このころから密かに朝鮮から綿種が持ち込まれ日本での栽培が試みられたらしい。そして16世紀になると各地で栽培されていることが様々な文献に顔を出すのである。 

 しかし農業技術の面での外国の寄与はそれだけではない。

 前記のように水車の導入は中国からの影響である。そしてこの教科書が記述している「稲の品種改良」にも中国の影響が見られるのである。
 日本に弥生時代に導入された稲は南方系の稲であり、生育が遅いため寒さによわく、さらには干害にも弱いと言う欠点があった。これを補うものとして中国から赤米(大唐米:インド種赤米)がもたらされ、日本でも栽培されていた。
 この米が中国で栽培されたのは宋時代であり、1012年に皇帝が使者を福建に遣わして安南(ベトナム)地方原産の占城米の早稲を取り寄せ、以後中国各地に栽培が広がり、12世紀には、早稲と中稲・晩稲の組み合わせで二毛作が行われ、全収穫の70〜80%にもなったという。
 この大唐米が日本にもたらされたのは室町時代。文献での初出は、1308年の東寺資料。東寺領丹波国大山荘西田井地区に関する資料で、それによるとこの地区の米の作付けの22%が大唐米であった。
 大唐米は耐旱性が高く早熟で炊くと大きく膨れるため食料として優秀ではあるが味の面で難点があり、日本の在来品種を補うものとして使われていた。しかしこの災害に強い性質から大唐米自身の品種改良も進み、早大唐・晩大唐・白早大唐・唐法師・大唐餅・小大唐・唐穂生・野大唐の8つの品種に分化していたという。おそらくこれに刺激されたのであろう。日本の在来の米の品種改良も進み、室町時代には、早稲・中稲・晩稲の品種ができ、それぞれの気候条件にあわせて栽培されたのである。

 さらに商品作物としてあげられている茶の栽培も外国からのものである。

 日本での茶の栽培の初出は、平安時代、805年(延暦24)伝教大師最澄が茶の種子を持ち帰り比叡山麓に植えたと伝えられているのが最初。そして翌806年(大同元)には弘法大師空海も茶の種子や茶を搗く石臼を持ち帰ったといわれている。
 確実なのは鎌倉時代、1191年(建久2)僧栄西が宋から帰国のときに茶の種子を持ち帰り、筑前脊振山(福岡県)に播いて育て、これを山城(京都府)栂尾の高山寺の明恵上人に贈ったのが、以後の茶の飲用普及の発端になった。明恵上人は栂尾で栽培を始め、その茶園で得た種子を宇治、仁和寺、般若寺、醍醐、葉室、大和の室生、伊賀の八鳥、伊勢の河合、駿河の清見、武蔵の川越に分けて植えている。これが後年の宇治、伊勢、静岡、狭山茶などの銘柄茶のもとである。

(4)農業の発展と商工業の発展の相互作用

 また「つくる会」教科書の記述で気になるのは、農業・工業・商業の発展の相互作用がきちんとおさえれれておらず、まるで段階的に発展していったかのように見えることである。

 開墾や用水路の建設にとって不可欠な鉄製の鍬などは、当初は在地豪族の館内の鍛冶職人が供給していたであろうが、規模が拡大するにつれてそれでは不足し、鉄製品生産の先進地である畿内河内・和泉地方の鍛冶職人が作った鍬の刃先を行商するという形で、全国に広まっていったと思われる。そしてその鍬の刃先の売り先は豪族の館だけではなく、館の前や荘園の政所や寺社の門前で行われていた市で売りに出されていたのであろう。
 平安時代の末にすでに国府や郡の役所の周辺の交通の要衝に市が開かれていたことがわかっており、鎌倉時代には月に三度の定期市も各地で行われていた。
 農業の発展と工業の発展、そして商業の発展は相互に刺激し合っていたのである。

 さらに商品作物の栽培も同様である。

 商品作物は別名換金作物である。金に換えることを目的として栽培される作物であり、これが農村部に広がるということは、一定の手工業の発展と商業の発展を前提にしなければありえない。

 そしてもう一つ気になるのは、当時は職業的な分業がまだ進んでいない時代であり、職人・商人・農民が分化していないということも忘れてはならない。

 大寺社や貴族のために制作していた職人達は次第に一般の需要にも応えて生産を始めたが、それだけで食べていくわけには行かず、保護する大寺社や貴族から税を免除する田地を給されて、それを耕したり下人をやとって耕してもいた。また職人自身が作った商品を行商することもかなり行われていた。同じことは農民にも言える。彼らは商品作物の栽培だけではなく、その加工、つまり半製品への加工や完成品への加工にも自ら携わり、さらにはそれの販売にも携わっていたのである。
 全国全てというわけではないが、商品作物の導入により、農村自身が商品経済に深く関わっていたのである。

 このこととあとで述べる農村の自立=惣村の成立とは深い関係があり、惣村とは、工業・商業をも行う都市的な場であったのである。そしてこの農村の豊かさに、当時の支配者が無関心であるわけはない。彼らは農村の余剰を税として吸い上げようと画策する。この過程で年貢の金納化が始まり、年貢の村請け、そして年貢金納のための高利貸しからの借金などが行われ、農業の発展した豊かな畿内農村に多数の乞食がいるという、宋や朝鮮の使者を驚かせた貧富の格差まで生まれたのである。

(5)税の徴収と農業の発達の関係

 さらにもう一つ、各地でさまざまな商品作物が栽培されるようになった背景だが、それは商工業の発展だけではない。律令国家の租税の体系自身の中に、調という形で各地の特産物を納めさせており、その中に各種の商品作物や手工業製品が含まれていることを忘れてはならない。そしてこれは調以外にも、贄(にえ)という形で天皇や皇族に直接納めるという形でも行われていた。つまり租税の体系自身の中で、農民は米以外にもさまざまな作物を栽培し税として納める事を期待していたし、さまざまな手工業製品を自身の手で作ったり、作った作物と市場で交換して手に入れて税として納める事も期待されていた。租税の体系自身が、商品作物栽培と市場での交換を前提としていたのである。

 そして古代律令制国家が10世紀ともなると衰微し、全国的に調や贄を集めることが出来なくなると、朝廷は畿内近国にそれを求め、さまざまな食料や手工業の原料となる商品作物や手工業製品を専門的に朝廷に納めることを特定の集団に要求し、その見かえりとして租税免除の田畑や商業・工業上の特権を与えたのである。その集団のことを、寺社が組織したものを「神人(じにん)」、大貴族が組織したものを「寄人(よりうど)と呼ぶ。そしてこれに対抗して朝廷の役所が直接組織したものを「供御人(くごにん)」と呼ぶ。
 このような専門的集団が生まれるとともに、畿内近国においては様々な商品作物を栽培しそれを製品に加工する人々が生まれていったのである。

 農民と職人・商人も未分化であり、彼らの活動と税の体系との関係も密接なことを忘れてはならない。

 農業の発達は、工業・商業の発達と一体であり、農民の社会的・政治的進出とも深い関連がある。しかし「つくる会」教科書の記述には、このような視点は、きわめて希薄なのである。

:05年8月刊の新版では、農業の発達の記述は、あいかわらず羅列的であるだけではなく、稲の品種改良の進展などの事実が削除されて、さらに簡略化されている(p80)。

:この項は、広瀬和雄著「中世への胎動」(1986年岩波書店刊「岩波講座日本考古学第6巻:変化と画期」所収、佐々木銀弥著「技術の伝播と日本」(1993年東京大学出版会刊「アジアの中の日本史Y文化と技術」所収、鈴木敦子著「女商人と女性の地位ー中世後期を軸に」(1996年藤原書店刊「女と男の時空第3巻:女と男の乱ー中世」所収、前掲今谷明著「14−15世紀の日本」、前掲脇田晴子著「室町時代」などを参照した。


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