「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判19


19:事項の羅列:手工業・商業の発達

  農業の発達に続いて、「手工業・商業の発達」が記述されている。しかしこの項目の記述も、中世という都合600年にも及ぶ期間をまとめて記述しているため、さまざまな無理が生じ、多くのことが記述から削除されている。

 内容的には4つのことに分かれるので、順次批判をしていきたい。

(1)各地に手工業が発展した背景

 まず最初に各地に手工業が発展したさまが記述されている(p99)。

 手工業が各地に発達すると、京都の西陣織をはじめ、それぞれ地元の特色をいかした織物・紙・陶器・刀剣・酒などの特産品がつくられるようになった。また、すき・くわなどの農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ・かまなどの日用品をつくる鋳物職人もあらわれた。

 ここでも時代的に異なる事項がそのまま羅列されている。

 まず「職人」の語がこの教科書で初めて使用されているが、各地にさまざまな職人が生まれた(こうして各地に手工業が生まれたわけだが)背景と時代をはっきりさせよう。

@各地に職人が生まれたのは中世前期

 各地に様々な職人が生まれたのは、中世前期、平安時代末期から鎌倉時代のことである。
 ではそれまでは職人はどうしていたのか。さまざまな専門的知識をもとにして様々な工業製品をつくる「職人」はそれまでは朝廷の諸々の役所に隷属したり、大きな寺院や神社に隷属したりしていた。なぜなら朝廷のためや寺院・神社のためにそれらの品物をつくる以外に需要がなかったからである。しかし各地で農業・商業が発展してくるとあちこちに新たな需要が生まれる。その需要を満たすために、朝廷や寺社に隷属していた「職人」が諸国を経巡って、各地で工業製品を作り、それを市で売買するようになったのである。例えばこの教科書で例示されている鋳物職人や鍛冶職人などである。

 これらの人々は最初は、各地の有力者、郡司とか里長と呼ばれ大規模な農地を持っていた人々の元に寄宿して生産を行っていたが、やがて各地の需要の拡大とともに、彼らの一部が地方に定着し、そこで生産を継続するようになっったのである。そして最初は地方の有力者のために生産していたのが、しだいに発展していった市を基盤に、多くの人々を対象に生産を行うようになったのである。こうして地方にも専門的な「職人」が生まれた。

 しかし彼らは平安時代末期や鎌倉時代において、独立して仕事をしていたわけではなかった。彼らはその仕事を安定させるためにも、また各地の市で製品を有利に売りさばくためにも、有力者の庇護を必要とした。彼らは有力な中央貴族や有力な寺社に隷属する形をとり、貴族や寺社にその職人として奉仕することを見かえりとして、諸税の免除や諸国自由通交権などの特権を得、仕事を有利に運ぼうとしたのである。こうして貴族や寺社の庇護を受けた商工業者を「神人」「寄人」などと呼んだ。彼らは自らが住む荘園や公領の支配者である有力者に使えることで特権を得ていたのである。そしてこれは同じ時期に武士という階級が荘園や公領の管理者という「職(しき)」を得ることでさまざまな特権を得ていた動きとも対応し、彼ら商工業者の長は武士でもあった。

 その彼ら「職人」の力がさらに増大し、保護を受けていた寺社・貴族からも半ば独立し、その仕事の独占権を巡って各地に「座」を結成したのは、中世後期・室町時代のことである。

A手工業の発展の裏には商業の発展がある

 さらにこうして諸国に特産物を作り出す手工業が発展した背景には、農業の発展だけではなく、全国的な商業の発展も大きな要因となっている。

 それは次に述べるような各地での市の発展と各地の市を結んで大規模に商品を運送する運送業者の発展と、大規模な商品交換を可能にするための交換手段(=貨幣)の進化が存在した。そしてこのような過程が進んだのも遅くとも平安時代末であり、平安時代末には各地に手工業が生まれ、その製品がかなり遠隔地にまで運ばれていたのである。その代表的なものは、瀬戸や常滑の陶器である。これらの地域で作られていた粗製の皿や壷は、おそらく船を使って全国的に販売されていた。有名な奥州平泉の館あとにおいて、中国わたりの磁器に混じって、瀬戸や常滑で生産された粗製の陶器が大量に出土している。

 また各地での特色のある手工業の発展の背景には、律令国家体制のゆるみによって、全国から調・贄として調達されていた手工業製品が集まらなくなり、畿内近国の特定の地域の特定の集団に手工業製品の生産と献納が義務付けられていたこともある。この場合にも、都までそれらの製品を運ぶ、運送業などの発展は不可欠である。

 そして各地での手工業の発展の裏には、外国貿易の発展も寄与している。例えば京都を代表する西陣織であるが、ここで高級な綾織が作られるようになったのは、宋・元・明と続く中国との貿易によって、中国から高級な綾織が大量に輸入され、貴族階級を中心としてそれが愛用され、高級綾織りの需要が拡大したことも背景にある。そしてこの綾織は外国貿易の成功率が自然条件や政治条件に左右され不安定である事から、これを安定的に供給し高い利益をえることを目的として綾織の技術が工夫され、ついには中国渡りの綾織に勝るとも劣らない製品を生み出すようになったことが、京都における西陣織りの発展の背景である。そしてこの西陣ほど高級ではないが、手ごろな値段の綾織として美濃織りなどが生まれ、拡大する需要に対応していったのである。
 さらに京都を中心として各地に刀や紙の生産が盛んになったことも、輸出品としての刀や輸出品としての扇の存在がその背景にあるのである。そしてこのように諸国にさまざまな手工業が発展したのは、中世後期・室町時代のことである。
 この観点からいうと、101ページにある全国の特産品と座の存在を示した地図には、主な港町と陸路・海路を図示することが不可欠であろう。

(2)時代によって異なる商業発展のさま

 さてつぎに教科書が記述するのは、商業の発展のさまである(p99)。

 農業や手工業の生産が高まるにつれ、生産品の売り買いをする商業も活発になった。交通の要地や寺社の門前などで、決まった日に市場が開かれる定期市が始まり、その回数も3回(三斎市)だったのが6回(六斎市)へと増えていった。取引には、布や米よりも、永楽通宝など中国から輸入した銅銭(宋銭・明銭)が使われるようになった。

 この叙述は、「農業・手工業の発展⇒商業の発展」という図式的理解で成り立っているが、これは間違いである事は、すでに指摘しておいた。

 ここでは二つのことが語られている。市の発展と貨幣使用の拡大である。しかしここでも異なる時代のことを一度に記述しているため、さまざまなことが記述されず、わかりにくいものになっている。

@平安時代末の商業の発展のさま

 市の発生自体はかなり古いものである。

 3世紀の魏志倭人伝には「国国市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」と。また海の交易についても「対海国に至る。・・・・南北に市擢(てき)す。」と。つまり3世紀に倭国においてすでに国々に市が開かれており、それを「大倭」(=倭国の中心・邪馬一国)が監督していた。そして韓国との境にある対馬国では船をつかった交易が行われていたと。

 市はかなり昔から開かれていたのである。大和の国でも諸所で市が開かれていた事は古事記や万葉集からもわかる。さらに少なくとも8世紀に大和朝廷が和同開珎の銀銭・銅銭を作ったときには、それ以前に九州の倭国朝廷による「無紋銀銭」という通貨が流通しており、これに代って和同開珎を流通させようとして苦労したことは、先に古代の所で述べた。そして律令国家の租税の体系自身が、調・贄として様々な手工業製品を要求しており、その中には市において米との交換で得ることを前提としたものであったことも、何度も述べてきた所である。

 平安時代末には各地の国府およびその近辺で定期的な市が開かれており、そこには都市といってもよいほどの集落が発展していた事は、最近の発掘結果でもわかる。そして各地の市を貫いた海路と陸路が整備され、そこで運送業をなりわいとした商人集団も生まれていたのであった。

 この市は、神聖な場所、人と神とが交歓できる場に開かれていた。品物にはそれを作った人の魂が込められていると昔の人は観念していた。したがってそれを他の人の所有物にするには、その魂を入れ替えねばならない。そしてこのようなことが出来るのは、人と神とが交歓できる聖なる場所でのみ可能だとも考えていた。このことが、市が開かれる場所が、交通の要所、すなわち川や湖や海と陸路の出会う場所、川や湖や海という異界との接点であり、これ自身が聖なる場所と考えられていた場所や聖なる場所としての寺社の門前に開かれた理由である。そして斎日という神をまつる日に市が開かれた理由でもあるのだ。

 さらに平安時代における貨幣の使用の問題がある。奈良時代までには貨幣は全国的に流通していた。しかし10世紀ともなると律令国家の統合力は衰え、国家が鋳造した貨幣は皇朝十二銭の最後の乾元(けんげん)大宝(958年発行)で終息し、その後は米や布が貨幣としての役割を果たすようになった。しかし12世紀ともなるとまず東国において中国・宋から輸入された宋銭が流通し始め、後には、当初は宋銭の流通を規制した王朝国家の動きが緩むとともに西国でも流通し始め、鎌倉時代には全国的に流通するようになったのである(この教科書が「布や米よりも」という表現をしたのはこのような事情だった)。

A鎌倉時代における商業発展のさま

 鎌倉時代になると宋銭も全国的に流通し、商業はさらに発展していった。

 斎日に行われていた各地の市も、月に三日の斎日に開かれるようになり三斎市と呼ばれるようになった。この市を目当てに、農民も領主も職人もそれぞれの商品を持ちこむようになり、大きな市の場合には、市に常設される家に住み商業に従事するものも現われていたのである。都市の誕生である。

 そして全国的な商業の発展とともに、各地に職人集団が形成され、商業の独占を巡って争いが生じるようになる。神人や寄人という形で有力や寺社や貴族に隷属することで各地で商業上の特権を得ていた集団に対して、全国的な特権を得て商業上の利益を独占しようとした集団は、都の役所と繋がってその役所に役を納めることによて「供御人」という身分を得、それによって各地の神人・寄人を統制しようと画策した。

 またこの時代にはすでに商業の発展を基盤とした金貸し業も誕生していた。彼らの多くは有力な寺社の神人・寄人であり、神に納められた初穂を貸し付ける形で金融業を開始していたのである。さらに全国的な商業の発展は、商品の運送を生業とし、かつ年貢の運送を代行する業者を生み出していた。これが後にのべる土倉・酒屋・問屋や馬借である。

 商業の発展は急速であり、幕府も朝廷もそれを統制し、かつそこから諸税を得ようと努力していた事は、鎌倉幕府の項や建武の新政の項で述べたとうりである。そしてこの全国的な商工業に携わる人々は、次第に寺社・貴族、そして幕府の統制をも脱し、政治的にも大きな力を見せるようになる。この人々を幕府は悪党と呼んで怖れ、これを鎮圧しようとしていた。

B室町時代における商業発展のさま

 そして中世後期・室町時代となると商業の勢いはさらに増した。

 市の開催は月に六度となり六斎市と呼ばれ、どこの市においても市に付属する町屋に常住して商いを営む商人や職人が現われ、京都や鎌倉や各地の国府などの政治的都市以外にも大きな寺社の門前や、重要な港などに都市が形成された。そしてこの都市は、全国的な陸路・海路の輸送とも緊密に結びつき、朝鮮・中国・琉球・蝦夷が島などの外国との貿易とも深く結びつくようになっていった。

 また貨幣としてはこの時期に大量にもたらされた明銭が流通するとともに、これでは不足したために各種の私鋳銭が作られ、より小さい単位の銭としては全国的に流通したのである。さらに商品取引の活発化を背景とした信用貨幣も登場し、割符や為替と呼ばれて、各地の問屋を経由して貨幣とも交換可能な紙幣すら使用されていたのである。

 そして商業・手工業の民はさらに寺社や貴族からも独立する傾向を強め、各地で「座」を形成してそれを保護する寺社・貴族に座銭を払う事で、諸税の免除や諸国往来の自由などの特権を得ようとする。また中には各地に勢力を伸ばし始めた守護などの武士の力を背景にして、寺社・貴族などの権威を背景とした座の特権に対抗するものも出てきた。さらには大きな重要な門前町や港町ともなると、市それ自身の神聖さを背景として、寺社や貴族そして諸国守護などの武士の介入もそしてした「自治都市」を形成し、そこでの市を「楽市」と称して、諸税の免除や市座の座銭免除などの特権を市にあつまる手工業者や商人に与える所まで出てきたのである。近世の織田・豊臣政権における「楽市・楽座」令は、すでに戦国大名にも先例が見られるが、この神聖な都市での「楽市」の存在を前提にして、新たに作られた城下町に多くの商工業者をあつめるための施策だったのである。

(3)営業独占の試み

 続いて教科書が叙述するのは、このような商工業の発展の中での営業独占の試みについてである(p99)。

 朝廷や貴族・寺社につかえていた職人や商人は、とよばれる同業者の組合をつくり、営業税を納めるかわりに、生産や販売を独占する権利が認められた。

 これは先にも述べた「営業の独占」に関する記述である。しかしこの記述では、朝廷や貴族や寺社につかえた職人や商人が、中世においていきなり「座」を結成して営業の独占をはかったかのように読み取れてしまう。

 この過程は中世600年間において徐々に起きたことである。

@商工業の発展の結果としての座の成立

 律令国家はすでに発展していた商工業を統制すべく手を尽くした。その一つの形が調や贄という形で直接国家に品物を献納させる形であったが、10世紀ごろの律令国家の統制力の緩みによってこの体制は壊れた。
 これに代って登場したのが、有力な寺社や貴族による荘園の形成の過程で、彼らの荘園に住む商人や職人を「神人」「寄人」という形で隷属させ、免税特権を与えるかわりに品物を献納させる体制を築いていった。朝廷もこれに対抗して朝廷の役所に「供御人」という形で直接隷属させ、免税特権を与えるかわりに品物を直接献納させた。

 この時の「神人」「寄人」「供御人」という称号は、それぞれ寺社・貴族・役所にそれぞれの職能を根拠として品物を納める「職(しき)」を得た人という意味であり、だからこそ後にこれらの商人や手工業者が「職人(しきにん)」と呼ばれたのだ。そしてこの「職人(しきにん)」の中には、荘園や公領の荘官や地頭などにつく武士も含まれており、荘官・地頭などは、それぞれの地の管理と年貢の徴収をこととする「職(しき)」を得た人という意味であった。
 この「職(しき)」を得るということは、朝廷や貴族や寺社に隷属する事で特権を得て、営業の独占をはかるということだったのであり、主として神聖なものとしての朝廷・貴族・寺社に隷属することによって行われていた。

 しかし中世前期におけるさらなる商工業・農業の発展は、商品経済における営業の独占をめぐる戦いに拍車をかけ、彼ら商人や手工業者の朝廷・貴族・寺社からの独立の度合いは拡大し、彼らは中世の世界において一般的であった自治組織である「座」を結成し、朝廷や貴族・寺社へ、「座役」としての銭を払う事を代償として、免税特権や、それぞれが主人とあおぐ朝廷の役所や貴族・寺社が支配する地域における自由通行権と営業の独占権を得るようになったのである。だから商工業における座の結成とは、これらの商人・手工業者が政治的にも独自性を強め、自治組織として動き出したことを意味している。そしてこの時代においてはまだ、農民・商人・手工業者(そして武士)の相互の身分的分離はなされていないため、座は村を単位としても結成されていたのである。

A武家権力の登場の結果としての座の成立

 そしてもう一つ、商工業における座が単なる商売の利益のための座になり、商工業者の朝廷・貴族・寺社からの独立度が高まった理由がある。それは武家権力の登場である。
 室町時代、商工業の全国的中心であった京都に幕府が成立した。室町幕府はそれ自身の所領が少なく経済的基盤が小さい事もあって、全国的商工業の中心である京都にその経済的基盤を置いた。京都は朝廷・貴族・寺社の支配地が複雑に入り組んでおり、それぞれの支配地において朝廷・貴族・寺社が裁判・警察権(検断権)を保持し、その地位の住民に対する課税権も保持していた。この中で京都に住む商工業者は、朝廷・貴族・寺社の隷属民として「供御人」「神人」「寄人」の身分を得て、商業上の特権を保持してきた。彼らは集落単位でまとまりその集団を座と呼んでいた。この場合の座は、神に仕える人々の集団を意味する座であり、商業上の特権はそれに付随するものであった。
 しかし室町幕府は徐々に京都における検断権と徴税権を掌握し、京都の地域と住民に対する直接的支配権を我が物とし、商工業者には役銭を直接課税するようになった。この京都における武家政権の成立と基盤の強化は、商工業民と朝廷・貴族・寺社の直接的支配関係を廃絶し、このためにその関係は「神」につかえる隷属民ではなくなり、純粋に商業上の利権を求めてのものに変化したのである。

 やがてこの動きは戦国時代にもなると、各地に力をつけてきた戦国大名によってその領国の一元支配が完成して行く過程で、その領国内で朝廷・貴族・寺社の支配を受けてその隷属民として商業上の特権をもっていた商工業者をその支配から切り離し、大名に直属した商工業者集団へと組替えていく事となる。

 中世後期・室町時代における商業上の利益をえるための座の成立は、このような動きの前史だったのである。

(4)都市の形成と特権的大商人の形成

 この教科書の「手工業・商業の発展」の記述の最後は、特権的大商人の形成の問題である(p99)

 こうして産業がさかんになると、物資の輸送を管理する問丸や、それが発展して商品の中継ぎをするようになった問屋、馬に荷物を乗せて運ぶ馬借、高利貸をいとなむ土倉や酒屋などが活躍するようになる。

 教科書の記述は単に、商工業の発展の中で、問丸・馬借という運送業者や、土倉・酒屋という金融業者が生まれたということを示しただけであるが、これらの業種、特に問丸・土倉・酒屋は、特権的大商人とも呼べるものであり、彼らの営業範囲はかなり広く、朝廷や幕府、そして勢力を伸ばしつつある守護大名にも癒着したものであることが全く忘れ去られている。

 問丸は、中世前期・鎌倉時代に、全国の港や津に居住し、渡船や商人宿を営み、年貢物や商品の中継・保管・輸送・販売に携わった業者のことを言う。そしてこの年貢の保管・輸送などの業務を朝廷の役所や貴族に代って請け負う業務のことを「問職(といしき)」「問丸職(といまるしき)と呼んだことから生まれた名称である。
 彼らは中世後期・室町時代ともなると、その配下に廻船人という海の運送業者や馬借などを組みこみ、広域的に独占的な営業を行った。彼らは朝廷や・寺社・貴族とつながった特権的大商人といっても間違いはない。

 馬借も単なる運送業者ではない。彼らもまた有力な寺社に隷属した商人である。近江の大津・坂本、山城の淀・山崎・木津、越前の敦賀、若狭の小浜などが集住地として知られ、とくに近江・山城の馬借は京都に米を搬入する米商人としての性格ももっていた。この近江・山城の馬借は叡山・日吉社の「神人」であり、それぞれの地域における物資の運送の独占権をもっていた。しかし彼らはその仕事が馬という獣に関わる仕事であったからか次第に賎視され、中世後期・室町時代ともなると「柿帷子(かきかたびら)衆」とよばれる「非人」に等しいあつかいを受けて行った。室町時代の土一揆において彼ら馬借がその最も過激な戦闘集団となっていったのには、このことが背景になっていたかもしれない。

 土倉は、これも有力な寺社に隷属した金融業者である。寺社に納められた初穂などを元手に人に貸し利子をとる業者として現われ、叡山・日吉社の「寄人」として僧形のものが多く、土壁の倉に質物などを保管する事から土倉とよばれたものである。平均的な利率は月に6〜8%と高いが、彼らは金貸しだけではなく、荘園の代官となって年貢徴収や荘園経営にもあたり、室町時代にもなると、日明貿易にも携わるものも出るなど、単なる金融業者ではなかった。彼らも朝廷や貴族・寺社と繋がり、その業務を請け負う事を代償にして利益をあげていた特権的大商人である。
 酒屋も有力な寺社、とりわけ叡山と結びつき、その「寄人」として酒の醸造と販売の独占権を持っていた。そしてその特権的利益の大きさから金融業にも進出し、大きな力を発揮したのである。
 土倉や酒屋はその財力を背景にして朝廷や貴族・寺社などのそれぞれの所領からの年貢の徴収を請け負い、これら権門の財政を事実上担う存在になっていた。室町幕府も京都に集住する土倉・酒屋にそれぞれ役銭をかけてその財政基盤とするとともに、次第に彼らを幕府の勘定方に任命して、その財政を担う官僚としても組織していった。

 これらの特権的商人は中世後期ともなると大都市に集住し、しだいにその財力を背景にして、他の商人や手工業者を統制する存在にもなっていったのである。後にのべる自治都市としての大都市において、納屋衆として都市の運営にあたった有力な商工業者には、問丸などの特権的商人が多かったのである。この意味でここに都市の発生の問題を記述し、自治都市の成立と絡めて叙述しておいた方がわかりやすかっただろう。

 

 したがって中世で各地にさまざまな手工業が発展したことを述べるのならば、市の発展や商業の発展、そして朝廷・貴族・寺社という旧権力と新興権力である武家権力のあり方とも有機的に繋げて記述しなければならず、そのためには、「中世」としてひとくくりにして記述するのではなく、平安末・鎌倉・室町と三つの時代に分割して手工業の発展を叙述する必要がある。「つくる会」教科書は、それをせず、中世として一括したために、さまざまな要素の有機的関係がわからなくなり、事項の羅列となったのである。

:05年8月刊の新版では、「農業の発達」「手工業・商業の発達」そして「都市と農村の自治」という三つの項目を見開き2ページに、「中世の都市と農村の変化」という項目として一括して記述している。しかしその分記述は簡略化され、旧版と同様に事項の羅列に終わり、中世という長い時代におけるそれぞれの変化を捉えたり、農業・手工業・商業の相互関係を有機的に捉えるという所には至っていない(p80)。
 ただし、旧版でも掲載されていた「室町時代の各地の特産品」の地図には、主な陸上交易路と主な海上交易路、そしてそれぞれの幹となる都市や港がきちんと図示されていることが、大きな前進である。そしてこの交易路が、北は蝦夷が島の松前につながり、西は博多経由で朝鮮や中国につながり、南は鹿児島経由で琉球につながることが図示されており、国内における商工業の発展と海外貿易の発展を一体のものとして捉える基礎を形作っている。ただし本文において、この地図を生かすような記述が行われていない事は残念である。

:この項は、前掲、脇田晴子著「室町時代」、勝俣鎮夫著「売買・質入れと所有観念」(1986年岩波書店刊「日本の社会史第4巻:負担と贈与」所収、大山喬平著「供御人・神人・寄人」(1988年岩波書店刊「日本の社会史第8巻:社会的諸集団」所収、笹本正治著「異郷を結ぶ商人と職人」(2002年中央公論新社刊「日本の中世3」)、網野善彦著「中世前期の都市と職能民」(2003年中央公論新社刊「日本の中世6:都市と職能民の活動」所収)、などを参照した。


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