「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判20


20.「自治」の光と影を見誤る:農村の自治

  「都市と農村の変化」の三つめの項目は、「農村の自治」である。この項目の記述は他の多くの教科書と大差はない。しかしこの記述は、「自治の村」が成立したことだけを進歩として強調するという戦後一時期において隆盛を誇った「人民闘争史観」的な誤りを含んでおり、民族主義的主張を繰り広げる「つくる会」が、意外にも彼らが「自虐史観」と批判した左派系の歴史教科書と同じ戦後の一時期に主流派となったマルクス主義的歴史理解に基礎を置いていると言う一面を垣間見せてくれるものである(「武士」とは何かという問題についても同じ傾向を見せるのであるが)。

 教科書は以下のように記述している(p100)。

 中世に農業が発達して、農民の暮らしが向上すると、近畿地方やその周辺では、有力な農民(名主、地侍)を指導者として、村のまとまりが固まった。そこでは、という自治の仕組みを整え、農民が自分たちの手で村を運営するようになった。こうした村の自治は、さらに外部にも広まった。
 惣では、村の神社や寺などで寄合を開き、祭りのことや、林野の共同利用、用水路の管理など、村の運営について相談した。また、村の人々がみずから守るべき規則である、惣掟(村掟)を定めたりした。
 惣が発達してくると、年貢の納入を惣で請けおう地下請(村請)も、しだいに広まる。領主のむやみな介入をしめ出した農村の自治は、こうしていよいよ確かなものになっていった。
 やがて農民が力を伸ばすと、いくつもの惣が目的を同じくして結束し、幕府に借金を帳消しにする法令である徳政令の発布や、武士の地元からの追放、関所を取り払うことなどを求め、武器をとって立ち上がることもあった。これを土一揆という。

 この記述には、いくつかの重大な誤りが含まれている。

 それは1つに、「自治の村」の成立の背景を「農業の発達と農民の暮らしの向上」としており、村における農間副業としての手工業と商業の発展と村自身による商工業の管理の問題や、荘園領主や地頭との年貢・公事をめぐる減免の闘争と村の境を巡る村同士の戦いという重要な側面を見落としていること。
 さらに2つめには、、村における名主・凡下・下人という身分階層の問題が捨象され、寄合に参加できるのは、このうちの名主と凡下百姓だけに限られていたことや、村における被差別民の存在を見落としている事。
 そして3つめには、「自治の村」と領主との関係を「村の自立」の側面からだけ見ており、領主と村との相互で利用する関係にあったことを見落としている事。
 さらに4つめには、広い範囲の惣村連合による自衛のための一国規模の土一揆(国一揆)と、村からのあぶれもので守護大名の被官となって足軽働きをしていた人々による「軍事費用催促」としての徳政一揆とを混同している事。

 この教科書の記述には、大きく分けて以上4つの誤りが見うけられる。そしてこの記述の背景としては、「自治の村」が置かれた中世という時代が、統一権力の存在しない戦乱に明け暮れた乱世であるという認識が欠如していることにあろう。またこれれ以外には、中世という600年にもわたる期間に徐々に発展してきた「村の自治」を時代による変化を無視して一度にまとめて記述してしまったことによる説明不足や機械的理解が多々見られるのである。

 以下に、4つの誤りを中心として、中世における「村の自治」の発展過程とその姿について述べておこう。

(1)「村の自治」が発展した背景は?

 最初に中世において「自治を行える村」が発展した背景についての誤りについて説明しておこう。

 @村における都市的な場と商工業の発展

 中世において「惣」を持った自治的な村の多くは、その中に「都市的な場」を持ち、村として管理された商工業が発展していた。

 惣村として認識されている中世の村は、その内部に、近世において独立した村として機能した集落を複数抱えているのが通例である。つまり村の連合体と言ったほうが正確である。そしてその連合体は、貴族・皇族や寺社の荘園であれば、「荘」という地域単位で成立し、国衙領であれば、「保(ほう)」「郷」という単位で成立していた。
 この「荘」「保」「郷」を単位とする惣の中には、惣の中核的役割を果たしかつ集落のあり方としては「都市的な性格」をもつ中心的集落を持っているのが通例である。そしてその集落は、幾つかの街道が交差する地点に成立した「市」としての性格を持つ物や、街道と川や湖や海との接点である「津」や「泊(とまり)」という港とそこに成立した「市」の性格をもつものであった。
 そしてこの都市的な性格をもつ集落=村がその周辺の農村的な性格をもつ集落=村を従え・統合して、惣とよばれる「自治の村」は成り立っていたのである。

 つまり惣村とは、市や港を抱えそこに商工業者となった人々が集住する村が核となり、そこに工業原料や食料や商品となる農産物や林産物・海産物を提供する周辺の村村が結合して成り立っていたのである。

 農業の発展と手工業の発展、そして商業の発展は、機械的に段階的に行われるのではなく、相互に密接に関連して発展したことについてはすでに前の節において述べた。惣を持った「自治の村」は、こうした農業・商工業の発展の中で形成されたのである。

 しかし「自治の村」における都市的な場は、戦国大名と言う地域統一権力が形成され、それが城下に新たな都市を形成し、付近の都市的な場に住む商工業者を集めたことで次第に吸収・解体され、やがて織田・豊臣・徳川政権によって行われた商工・農の分離政策によって、都市と村という形で、商工業の場と農業の場は分離されていったのである。

 A戦いの中で生まれた「自治の村」

 そしてもう1つ、「自治の村」を生んだ背景は、中世における戦いの連続という時代背景そのものであった。

 (a)村同士の争い

 中世・近世から現代にまで続く、街道沿いの一角に集落があり、その背後や周囲に農地が広がるという形の村は、12世紀以後、つまり中世において形成されたものである。それ以前、つまり古代・律令制国家の下の村は、荘園や国衙領の中に家屋が散在するという形をとっており、ここの家屋の周囲に農地が広がり、それを灌漑用水が結ぶと言う形をとっていた。しかし律令国家が衰退し、大規模な灌漑用水を維持することができなくなるにつれて農地の多くは荒廃し、12世紀になると、在地の人々の力で維持できる範囲の小規模な灌漑設備を中心として家屋が集中した形の集落が形成されていった。これが中世以後の村の形である。そして村は、集落とその周辺に広がる田畑と灌漑設備とからだけで成り立っていたのではない。住民の生活にとって不可欠な用材や燃料や肥料や飼料を手に入れる場でもある山林や河原などの地域が村の周辺に広がっていたのである。
 この山林や河原などは村と村との境界をなしており、したがってここは隣接する村同士の権利が競合する所でもあった。

 村が発展する中でこの村同士の境界領域も次第に狭まり、やがてこの境界領域を巡って村どうしの争いが起こるようになる。山林や河原の利用権、そして灌漑設備に繋がる河川・湖沼の水利権をめぐる争いである。そして中世という時代は広い範囲を統治する統一権力の不在と言う時代的性格を持っていたが故に、この村同士の争いを中立的立場から裁定する権力がないため、ぶつかり会う村同士は、それが同じ領主に属する村なら共通の領主に、違う領主に属する村なら互いの領主を通じて領主の上級の権力に提訴して裁定を仰ぐが、それらの権力も村村の衝突を裁定する実効的権力を有しないため裁定がうまくゆかず、しばしば村同士の武力衝突に立ち至っている。

 この村同士の争いを裁判において有利に運ぶためにも村人が自立的に村の運営に携わる事と、村民の意思を統一して臨むことが不可欠となる。そして武力衝突になる危険を抱えるということは、村が村として武力を蓄え武力を統制する必要が出てくるのである。ここにも「自治の村」が生まれる背景がある。なおこの村の武力とは、村の若者から成り立っており、村の指導層である名主層(しばしば殿原衆と呼ばれた)の若者たち(殿原衆若輩と呼ばれた)を指導者としていた。

 (b)領主権力との戦い

 村が争わなければならなかったのは、隣接する村だけではない。村に様々な税をかけてくる領主とも争わなければならなかった。しかも中世の特徴は、村に税をかけてくる領主が複数に及んだということである。

 皇族・貴族や寺社の荘園に属する村に税をかけてくるのはこれらの荘園領主だけではない。律令国家の末期に荘園が拡大する時期に於いては、この荘園に国家の税を課そうとする国司権力の介入があった。そもそも村が荘園に属するということは国家の課税を逃れ国司の裁判・警察権からも逃れることを目的としており、荘園領主に年貢を納入することの見返りとして荘園領主の特権的権力を背景として、国家の課税や裁判・警察行動から逃れるためであった。しかし荘園領主の特権も彼らの都での地位の不沈によって変化し、それに合わせて国司の介入も何度も繰り返された。このため村人たちは村の指導者たちを立てて、荘園の範囲をこえて国衙領の村とも連合して国司の介入に異議申立てを行い、国司の介入を排除しようとしていた。11・12世紀においてしばしば「郡司・百姓申し状」という形で国司の横暴が朝廷に訴えられていたのはこのためであった。

 しかし律令国家の統制力が低下するとともに、今度は国司ではなく、今までは連合して国司に対峙していた郡司たち、すなわち現地に定住して荘園や国衙領の統治を実質的に担ってきた武士たちによる、周辺村落の横領行動が目立つようになった。そしてこの動きは鎌倉幕府の成立と諸国荘園・国衙領への地頭の設置によって加速され、地頭は幕府によって公認された荘園・国衙領の管理・徴税・警察権を背景として、領主への年貢・公事の横領や増徴に乗り出し、村村は地頭との戦いを余儀なくされていった。
 このため村村は地頭の横暴を荘園領主や直接幕府に訴えたりして、その暴力から逃れようとしたし、「地頭の横暴」を理由として領主への年貢・公事の減免を図ったりと、村人が団結したり、村と村とが連合したりして戦ったのである。有名な紀伊の国の阿弖河の荘の鎌倉時代末における「百姓申し状」はこの例である。

 さらに鎌倉末から南北朝の戦乱期を経ると、戦乱の中での武士による村の横領や村が軍団の通路や戦場そのものになったことからする惨劇に、村は見舞われるようになった。
 村を横領するとは、収穫前の作物を強制的に刈りとってしまうとか(苅田)、場合によっては、村の中に城を築いて村の統治権そのものを横領するということである。当然村を取られる領主の側も反撃するので、村が戦場となってしまう。
 中世の戦争は争う相手に打撃を与えるとともに、相手の富みを奪うと言うものであった。それゆえ戦場となったり大規模な軍団の通路となると、しばしば苅田や村の家々への放火・掠奪、そして村人自身を略奪して奴隷として売りさばくなどの乱暴狼藉が行われた。この武士たちの横暴から逃れるためには、村村は自前の暴力を保持して彼らと戦わねばならなかったし、村そのものにも防御のための施設を設けねばならなかった。中世の村がしばしば、周囲を掘りや土居で囲まれていたり、村の周囲にある山に「村の城」と呼ばれる要塞・非難施設を持っていたのは、このためである。そして武装した村の姿は、南北朝の戦乱期を描いた軍記物・太平記の中にも「野伏せり」として登場している。

 こうした領主権力との戦いの継続も「自治の村」を形成する背景である。
 多くの教科書の「自治の村」の記述は、「自治の村」の成立が産業の発展と連動した村人の権利の拡大の結果だけで生まれたかのような印象を与えてしまう。この点においては「つくる会」教科書も同様なのだが、これは事態の一面しか見ていないものであり、戦後にはやったマルクス主義的な「人民闘争史観」によって盛んに主張されたものでもある。

 しかし「自治の村」成立の背景は産業の発展と村人の権利の拡大であったとともに、600年にもわたって統一した権力が存在せず、村が絶えず戦乱に晒されるという非常事態の連続の中で、村人たちが自己の命と生活の防衛のために生み出したものであったという側面を忘れてはならない。この側面を忘れると、中世から近世への移行期において、織田・豊臣・徳川政権によって「自治の村」の重要な要素であった「武装した村」が解体されたにもかかわらず、近世社会においても「自治の村」が継続した事の意味を充分には受け止められない事になるのである。

(2)村の中の階層差別

 多くの教科書の「自治の村」の記述は、中世の村が「平等な住民の共同体」であったかのような印象を受ける。この点は「つくる会」教科書も同様なのだが、これは完全な幻想である。

 村に住む人々は、いくつかの階層に分かれる。

 最上層は、領主層と呼ぶべきもので、上級領主の代官として村を管理する武士たちである。
 次の層が、名主とよばれる層である。 名主とは「名田」とよばれる12世紀以降に誕生した、同一の灌漑水系に属するなどの理由で便意的に統合されて名前をつけられた田畑を管理し、そこにおける年貢・公事の徴収を代行する下級の役人でもあった上級百姓である。
 この下の層が、凡下とよばれる一般の百姓で、ここまでが中世において「村人」として認定された層である。

 そしてこれらの階層の下に、村に住む事を許された住民がいる。その一つが「下人」であり、彼らは武士や名主に隷属し、彼らの田畑を耕作したり、下人としてその様々な用事に従事する隷属民であった。
 またこの下人の下には、隷属民ではないが、人として認定されていない被差別の民が、村には多数居住していた。彼らは、「非人」と呼ばれ、乞食や流れ巫女、流れ山伏、流れ僧侶、そして様々な芸人など村の祭礼に際して様々な儀礼を奉じる人々であった。

@村における武士の位置

 これらの階層の中で武士は領主層に属するので「村人」ではなかったが、名主の中には領主である武士の一族・分家も多数おり、武士は「自治の村」にも深く関わっていた。つまり「自治の村」の様々な要求を上級の領主に取り次いで場合によっては村の側に肩入れしたり、逆に領主の要求を村に伝達し、その執行を強制したりしたのである。この武士と「自治の村」との関係は、武士の力の大きさによって様々であり、領主として動いたものもいたし、名目的な領主となっていたものもいたし、「自治の村」の代表の一人となっていたものもいた。

A「自治の村」の主役:名主層

 「自治の村」の主役は名主層である。
 惣意思の最高決定機関は「村人」全員(正しくは村の家々の代表各1人からなる)による「寄合」であったが、その寄合の決定に基づいて日常的に村務を執行するのは、村の鎮守である社や寺の「宮座」を構成する名主たちであった。彼らの多くは村が出来た時から居住する村の有力者とその一族であり、村の鎮守の社の氏子や寺の檀那衆として、村を代表してさまざまな業務に従事していた。それは村の祭礼の執行であったり、領主とのさまざまな交渉事や他の村との交渉、そして村の財産の管理や村としての警察・裁判権の執行などであった。

 かれら名主層は苗字をもって帯刀し、村が武力を行使しなければならないときには鎧甲に身を固めて馬に乗り、同じく武装した下人や凡下の百姓を従えて「出陣」したのである。なお彼らのことを「地侍」とも呼び、彼らは村においては「殿原衆」とか「侍衆」と呼ばれていたが、戦国時代になるまでは、彼らの多くは武士の家臣団には組み込まれてはいなかった。
 彼らは古代末期以来の下級の役人として蓄えた知識や経験をもとにして、村の対外的交渉事を主導して、村の指導者としての地位を維持していたのであるが、「宮座」の一員としてその決議には縛られ、「村人」としては「寄合」の決議に縛られており、村人の指導者として村の利益のために行動することが求められていた。

B村の危機の時の犠牲としての被差別民

 村に住む住民のうちの最下層の「非人」の役割は何であったのか。彼らは村が危機に陥ったときの村の犠牲としての役割を課せられ、その役割を果たす事を見返りとして、村に養われていたのであった。
 彼らが村の犠牲になるのは、村と村との争いによって村から死罪に処せられるものを出さねばならなくなった場合には、村の責任者の名主の代理として彼らが差し出され死罪に処せられていたのである。後に戦国時代になって、大名から危険な軍役をかけられたときなどには、非人を代役として出していくようにもなる。
 彼ら非人は「聖なる存在」と捉えられていた。彼らは神に通じる人として見られていた。したがって彼らを犠牲として村の安泰を図るということは、裁判の場である寺社の神・仏に対して犠牲をささげ、村の罪を清めるという意味があったのではないかと推測されている。

 中世の村はけっして「平等な住民の共同体」ではなかったのである。

(3)「自治の村」と領主との相互依存関係

 「自治の村」と領主との関係は、一方的な支配・非支配の関係ではなかった。

 興味深いことは、「自治の村」として報告されている村の領主は、皇族・有力貴族・有力寺社らの朝廷側と、室町幕府将軍・将軍奉公衆など、中世後期・室町時代においては京都に基盤を置くどちらかと言えば旧権力の側に位置するものであることが多い(これはこの人々の領地が比較的長く1つの領主によって統治され比較的平和が保たれた結果、村の有力者や領主の子孫の家に、「自治の村」に関する資料が長く伝わった結果でもあるのだが)。
 そして「自治の村」の側は、これらの旧権力の側に位置する領主たちを、台頭する守護方の武士の村への介入を阻止するために大いに利用し、また領主の側も、「自治の村」の自治能力、すなわち名主に率いられた統一された力としての村の交渉力と武力とに依拠して、自らの領地への守護方の介入・横領を阻止しているという、領主と村との間の相互依存関係が見られることである。

 これは何を意味しているのだろうか。

 中世に入り、村は地頭や守護となって支配権を広げようとしてきた武士の介入や武士相互の争いに巻き込まれるようになってきた。この過程で「自治の村」は成立してきたのであるが、この時、地頭や守護の介入を阻止する盾として、村は寺社や有力貴族・皇族の持つ武力や権威を利用していた。鎌倉時代後期の紀伊の国阿弖河の荘の「百姓申し状」は、その良い例である。

 有力な寺社はそれ自身としての武力を保持していた。それは荘園に根を張る武士とその郎等・下人たちを僧兵として抱えるものであり、比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺、そして紀伊の粉河寺や根来寺などは、並みの守護では及びもつかない規模の武力を保持していた。この寺社の武力につながる武士を村の代官として抱える村は、領主の武力を背景に、村の支配権を奪おうとする地頭・守護と戦ってきたのである。

 しかしこれらの領主の力は武力だけではない。寺社には聖なるものとしての権威があり、皇族や有力貴族にも同様な権威がある。そして皇族や有力貴族ともなると、将軍を任命する権威を帯びており、その将軍に任命される事で権威をもっていた守護たちにとって、皇族や寺社領を横領することには、それらの権威が大きな抵抗力となっていたのであった(また室町時代の皇族・有力貴族は、室町将軍との縁戚関係を持っていた)。そして力が落ちたとはいえ、室町将軍も同様な権威を帯びており、将軍直轄地、すなわち将軍の傍近く仕える奉公衆の領地ともなると、将軍の権威が守護方の武士たちの村の横領に対して有効な盾として作用していたのである。つまり領主とは、村人の暮らしと安全を守るべきものでありその力(権威や武力)を持つ物という認識が前提にあったのである。

 そしてこれらの「権門」にとって自己の領地を守護方武士の横領から守るには、戦乱の中で鍛えぬかれた「自治の村」の交渉力と武力とが大いなる味方として認識されていたのである。

 「自治の村」と領主の関係は、戦乱が続く世の中にあっては、持ち持たれつの関係にあったのであり、武士による領地の横領を実力で防いできたという実績が、年貢・公事の村請という「自治の村」の基盤を確かなものにした。そして、このことにより、村は年貢・公事の量を決める村高の決定においても主導権を握り、村の台帳は惣が保持し、その年の作柄や天候・戦争などの諸事情を勘案して年貢・公事を決めるように村は領主に迫り、領主は領主で、村の安全を守護方武士から守ってきた実績を背景に村の要求を減額しようとした。こうして双方は、互いの力を頼り、領主と領民という関係は、相互依存関係であり相互契約的関係になっていたのである。

 そしてこのことは領主が武士である村についても同様であろう。武士が領主として君臨するためには、彼は村を横領しようとする他の武士から村を守らねばならず、その際には村の交渉力と武力に頼ることにもなる。また村の側も村の危機の場合には領主たる武士の力に頼る事も多く、武士の持つ武力や城、そして武士の上級の権力の力をも利用して村の安全を確保していたのである。

 こうして「自治の村」と領主との関係は、相互依存関係になっていたのであり、領主が一方的に村の生産活動の余剰を奪いとることは出来ず、この意味で領主にとっても長く続く戦乱は、彼らの収入を拡大する阻害物と化していたのである。

(4)「自治の村」の要件

 最後の国一揆と土一揆の問題を述べる前に、以上のことを前提として、「惣村=自治の村」とは何かと言う事についてまとめておこう。どの教科書の記述も羅列的になっているので。

 「自治の村」の完成された形は、中世末期・戦国時代のものである。

 その第1の基盤は「年貢・公事の村請」である。今までは一人一人の百姓が年貢・公事を負担する対象として公的に認定されており、惣村もその減免を要求してはきたが、年貢・公事を納める主体としては認定されてこなかった。村請の実現によって惣村が公的な主体として認定され、領主は一人一人の百姓の田畑の石高や百姓自身を直接掌握・支配することができなくなったのである。以後領主は、年貢・公事をどれだけ納めるかの交渉は惣村を対象として行う事となり、領主の百姓直接支配は解体された。

 この村請を実現させた基盤は、宮座・寄合を中心とした村の自治組織であり、自治組織が保持する村の武力であったが、これを維持できた背景には、惣自身が惣有財産を持っており、その財産からの上がりを惣の諸費用に使用できたことと、さらに惣の費用を村人に負担させる(村役)ことが出来た事がある。
 惣有財産の中心は鎮守の社や寺の物とされ年貢・公事を免除された免田である。この免田は長い闘争の中で徐々に獲得されたものであり、村の交渉力や武力を背景として、荘・保・郷を他の領主の横暴から守り抜いてきたという実績を背景として領主に認めさせたものである。さらに重要な惣有財産は、村の灌漑施設であり、村の森や野原・河原である。このような惣有財産からの収穫・収入は惣のものとされ、対外交渉の際にかかる費用(実費だけではなく賄賂などの付け届けも必要)や軍事動員に必要な糧食など、そして村の鎮守の祭礼の費用などに使われた(街道沿いの市を含む村や津や泊を含む村の場合は、街道そのものと市の流域と建物、そして津・泊の港湾施設も村の財産であった)。
 しかしこれでも足りない部分は、村人の家々から家あたりいくらという基準で村役として費用を徴収してきたのである。

 したがって「自治の村」の要件としては、惣有財産を守り、村人から村役を徴収するという対内的強制力が不可欠であった。だから惣は「村掟」を持っているのである。村掟には、惣有財産の私的流用を禁止した条項が多々見られ、さらに村の軍事動員を拒否したり村役を負担しない家は村人としての資格を失い、家財没収の上で追放されることなどが定められている。つまり惣は惣としての団結を守るために掟を持ち、その掟を守らせるために、惣が裁判権をもち処罰する権限も持っていたのである。村が所持する暴力は、外部の敵に対して動員されるだけではなく、内部の秩序を侵すものに対しても動員されていたのである。

 以上によって「自治の村」の要件は四つにまとめられよう。
 1つは年貢・公事の村請。
 2つは、それを実現できる惣としての強制力の保持(掟・武力)。
 3つは、惣の物的基盤となる惣有財産の保有。
 4つは、惣の意思を決定して執行する組織、村人の寄合と執行部としての宮座の存在。

 最後に一つ指摘しておこう。村の自治の基本組織となった寄合と宮座の持っている「神聖な」性格について。

 中世において人々が神仏の前で合議する時は、「一味同心」するとか「一揆」するとか呼ばれていた。これは神仏の前で集団で神仏に誓う事によって、その集団自身の決定が「神聖なもの」となるという観念からきたものである。だから、「一味同心」した人々の決定は「神の意志」と同義になり、多くの人々の行動を規定する力を持つのである。
 この「一味同心」「一揆」は百姓だけではなく武士や貴族や僧侶も行っており、幕府や朝廷や寺院における「衆議」はすべて「一味同心」「一揆」とみなされていたのである。

 「自治の村」の「衆議」が領主の介入をも排除し得たのはそれが持つ「村の武力」だけではなく、村の「衆議」の持つ「神聖な」性格もまた、それに寄与していた事を忘れてはならない。

(5)地域安全保障体制としての郡・国を単位とした惣の連合

 しかし乱世である中世において村村の安全を確保するには「自治の村」を築いただけでは不充分である。村の安全を脅かすのは周辺の村や夜盗だけではなく、守護権力という強大な武力を保持した武家勢力が形成されていた。この守護の介入を防ぐために「自治の村」は皇族・貴族・寺社・幕府などの旧権力にぞくする領主の権威をも動員していたのだが、これらは命令を実行できるだけの権力を持ち合わせていない。したがって領主の力は実効的作用をなさない可能性がある。
 また村同士の争いを裁定する際にも、領主や守護の主催する裁判だけではうまくいかない場合がある。村村の領主は異なる場合が多く、守護も一国的規模で確実に支配権を持っていたわけではないので、すべての紛争当事者を統制できるわけではなかったからである。

 そこで「自治の村」は、周辺の村同士で連合(一揆を組み)し、互いに協力することで大きな危機に対処しようとした。
 それは、村同士の争いや、守護の介入など、大きな問題が起きて武力衝突の危険性があった場合には、当該の村を支援する「与力」の村を作っておき、当該の村の要請があれば与力の村の武力が直ちに動員されるようになっていたことである。この与力の村は、郡単位で組まれた場合が多く、郡単位の宮座の連合(一揆)や郡単位の村に住む武士(国人と呼ぶ)の連合(一揆)が組織され、それぞれ郡単位で寄合を持って意思決定できるようになっていった。
 またこの与力の村は、合戦の場合以外では、裁判の場で協力したり、場合によっては対立する村を相互の与力の村を代表したいくつかの村が寄合を持ち、対立を超えるための仲裁案を出すという形で、村の平和を維持しようともしていたのである。

 この郡を単位とした惣の連合がさらに幾つかの郡の連合として動いたものを「国一揆」と呼んだ。中世末期になると守護の介入や守護同士の争いで国・郡単位の村の安全が脅かされた場合には、郡・国単位の村の連合が団結して決起し、領主の権威をも動員しながら、郡・国単位の惣の武力を背景にして守護と争い、しばしば守護権力を掣肘したのである。これが後に述べる「山城国一揆」であり、「加賀一向一揆」なのであった。

(6)あぶれものの一揆としての土一揆

 しかし従来中世の「自治の村」をあらわす動きの代表として捉えられていたのは、土一揆である。土一揆は1428年・正長元年の近江・山城・大和の各地で起きたものが最初とされ、しばしば幕府に要求して徳政令という借金棒引きを実現していた。特に1441年に起きた土一揆は、数万と呼ばれた土一揆が蜂起して京都の町を包囲し、主な酒屋・土倉を襲って幕府軍も蹴散らし、幕府から徳政令を勝ち取った一揆として有名である。以後京都周辺では応仁の乱の前後の時代に毎年のように土一揆が起こり、幕府に徳政令を要求して勝ち取っていったのである。

 この土一揆は、惣の連合としての一揆、郡・国一揆として発動されたもので、中世の「自治の村」の強さを表すものと従来は認識されていた。
 しかし従来からこの徳政を掲げた土一揆は百姓の村を挙げた一揆としては解釈に苦しむ要素を持っていることが指摘されていた。すなわち、一揆を主導したものが有力守護の被官である武士で、その一揆参加者にも数多くの守護被官が含まれていた事。そして、徳政令といっても多くは分一徳政といって、借金の10分の1の銭を払って質物を受けかえすものであったのに、銭をまったく払わずに金貸しからむしりとるものがいて、これらのものは「田舎者」と、10分の1の銭を払っていた京都近郊の村人たちから蔑まれていたこと。さらには、応仁の乱の間には徳政令を掲げる土一揆は起きていないこと。これらの不審な点が指摘されていた。

 近年、京都周辺の惣村の資料が、村の有力者や領主の子孫の家から数多く発見され、それぞれの惣村が徳政令を勝ち取った土一揆の時にどのような行動をとっていたのかや、土一揆の構成員についての詳しい資料が明かとなっている。

 これらの資料から明かとなったことは、土一揆と惣が発動する一揆(郡一揆・国一揆)とは別物であったということである。
 土一揆の構成員は京都周辺の村村や近国の村村の構成員のうち数人が集まって土一揆をなし、それを指揮していたのが、京都周辺の国人侍で有力な守護の被官であった。つまり土一揆とは、畿内近国の村村の構成員ではあるが、飢饉や戦乱などにより暮らせなくなって村を捨て、京都に流れてきてお救いなどによる食物にありつこうとした「あぶれもの」の集団だったのである。そして村を捨てざるをえなくなった「あぶれもの」が生きていくにはお救いはあまりに心もとない。この時代に「あぶれもの」が充分な財物を得るただ1つの道は、守護被官の下人となって守護の軍隊に属し、戦争で戦場となった村や町を荒らして財物や人を絡め取ることだったのである。そしてこの時代の戦闘とはそういうものであり、守護は戦場でのこうした乱暴行為(=乱捕り)を公認していた。さらに守護はこれらの「あぶれもの」からなる戦闘員(=つまり足軽)が、戦さに赴くための諸費用を調達するために村や町の在家から物資を徴発することも公認していた。
 さらに土一揆はしばしば政治的理由で動員されている。最初の土一揆が起きた1428年は、将軍・天皇が相次いで死去しそれぞれ代替わりが行われた時である。そして権力者・領主の代替わりの時には徳政とよばれる政策がとられ、民の苦労を取り除くのが当たり前という通年が中世の人々にはあったのである。1428年の徳政を求めた土一揆はまさに代替わり徳政を求めたものであった。
 また1441年は、将軍足利義教が守護赤松氏によって殺され、赤松氏討伐のために幕府軍の主力が播磨の国に発向し、都を守る軍隊はごく少数となっていた時である。そして幕府の内部には、次の将軍を巡って有力守護同士の争いがあった。この時京都を目指して動員された数万の土一揆は有力守護の被官によって指揮されており、将軍の代替わり闘争へ介入しようと言う思惑があったのではないかと言われている。しかも代替わりなのであるから、代替わり徳政を求める大義名分はある。

 土一揆とはこういうものであった。土一揆の徳政とは、戦がないときに足軽たちが必要物資を求めて軍費調達を目的とした徳政なのであった。

 しかし彼らが徳政を要求し、それを幕府が呑んだのは、多くの人が徳政を求めていたからでも有った。徳政を望んでいたのは、幕府の将軍や将軍の家来衆などの武士に留まらず、天皇や公家たち、そして村村の百姓たちであった。
 将軍・武士や公家たちは、その領地支配が次第に縮小する中で、生活費用を捻出するために日常的に金貸しからの借金に頼っていた。しかし飢饉続きや戦乱続きともなると領地から上納される年貢・公事の量は減額され、新たな借金の必要から返済金にも困ることとなる。同じことは京都周辺の村村の百姓にも言える。年貢・公事の村請はしばしば銭で支払われていた。したがって秋の収穫を当てにして早い時期に金貸しから借金して年貢・公事を立て替えるといったことも行われていた。そして一人一人の百姓にしても生活物資の購入や村役のために銭を必要として、秋の収穫を当てにして借金をしていた。しかし飢饉や戦乱続きで収穫が減ってしまうと借金は膨らみ、やがて大事な田畑や家屋敷すら借金のかたにとられてしまうのである。

 中世のこの時代には、多くの人が徳政を望んでいた。だから代替わりなどを理由として「あぶれもの」たちが土一揆を起こし、その力が幕府で統制できなくなると幕府もしばしば徳政令を出してしまったのだ。
 徳政令が出てしまえば、村村は公然と質物を取り返しに出かけられる。こうして惣の一揆が発動される。また将軍や天皇・公家・武士たちも、こっそりと顔を隠して金貸しの所にでかけて質物を受けかえす。ただしかれらはみな借金の10分の1の銭を払ってのことなのだが。
 こうした人々の多くが徳政を望んでいるということを背景として「あぶれもの」による土一揆が発動されたのである。

 土一揆と郡・国一揆を混同するのは間違いである。ただしどちらも乱世という時代の中で、村村の百姓たちが自らの生活と命の安全を保持するために行ったことであるという共通点はあるのだが。

 以上の諸点を押さえれば、教科書の「自治の村」の記述の誤りは正す事ができるであろう。
 しかし「つくる会」という民族主義を標榜する団体が、戦後のマルクス主義的歴史学の捉え方である「人民闘争史観」に依拠した「自治の村」の認識を共有していたということは、意外である。だが良く考えてみればこれも当然である。「つくる会」の主力をなす層は戦後生まれ。純粋の皇国史観に染まった戦前世代ではない。そして「人民闘争史観」が「腐敗する貴族」に代って権力を握り新しい時代を作り上げようとする「開発領主としての武士」の進歩性を高く評価してきた事は、武士の力を重く見る「つくる会」の人々の心性には、ぴったりくるものであったろう。したがって「人民闘争史観」がその武士の足元を脅かすものとして、村に住む「地侍」を指導者とした百姓の団結した力=「自治の村」を高く評価していたことは、意外とすんなりと受け入れられたのかもしれないのである。何しろ「つくる会」の人々は、日本が周辺諸国とは異なって植民地とはならなかった主な理由として、日本は武士を中心として尚武の気風の強い国だった(これも幻想ではあるが)ということを挙げているのだから。民衆が武装していたという事実を、日本という国の強さになぞらえたのであろう。

:05年8月刊の新版では、「農村の自治」と「都市の自治」とを合体して「都市と農村の自治」と題して記述しているが(p81)、「農村の自治」の記述は、旧版とほとんど同じであり、同じ誤りをしたままである。

:この項は、前掲、脇田晴子著「室町時代」、藤木久志著「戦国の作法ー村の紛争解決」(1987年平凡社刊)、藤木久志著「雑兵たちの戦場ー中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年朝日新聞社刊)、藤木久志著「戦国の村を行く」(1997年朝日新聞社刊)、坂田聡・榎原雅治・稲葉継陽著「村の戦争と平和」(中央公論新社2002年刊「日本の中世12」)、今谷明著「土民嗷々−1441年の社会史」(1988年新人物往来社刊)、浅尾直弘著「惣村から町へ」(1988年岩波書店刊「日本の社会史6:社会的諸集団」所収)、池上裕子著「戦国の村落」(1994年岩波書店刊「講座日本通史中世4」所収)、神田千里著「戦国乱世を生きる力」(2002年中央公論新社刊「日本の中世11」)などを参照した。


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