「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判3


 3.「源平合戦」という嘘=研究成果を無視した陳腐な記述

  さて、「鎌倉幕府」の項目の3番目は、「源平合戦」である。
  保元・平治の乱でできた体制が、長い戦乱をへて崩壊・再編される過程を「源平合戦」と名づけてしまうところに、この教科書の著者たちの不勉強さが如実にあらわれている。

  この記述のし方は、2つの誤った捉えかたを含んでいる。1つは、この時代は「武士の時代」であって、天皇や貴族はたいした力を持たなくなっている、というとらえかた。もう1つは、「武士の時代」にあって、源氏と平氏とが主導権争いを演じたのが、治承・寿永年間の鎌倉幕府形成にいたる戦いであるというとらえ方。

  しかし、このどちらも間違ったとらえかたであり、近年の中世史研究で、全面的に否定されてきたものである。

 (1)王朝国家の中での「皇位継承」戦争としての、治承・寿永の合戦

  教科書は、以下のように記述している(p83)。

  しかし、平氏の繁栄も長くは続かなかった。平氏は後白河上皇との対立を深め、その院政を停止して、清盛の娘が生んだ安徳天皇を皇位につけた。すると、後白河の皇子である以仁王がこれに反発し、彼の呼びかけにこたえて、各地の武士が、次々と平氏打倒の兵をあげた。

  この記述では、後白河上皇と対立したのは平氏であり、後白河の意思に反して安徳を平氏が天皇につけたので、以仁王(その背後には後白河がいる)が諸国の武士に平氏打倒を呼びかけた、という流れであるかのように見える。

  しかしこの以仁王の呼びかけに始まる治承・寿永の合戦は、後白河対平氏の対立ではなく、後白河対高倉、そして後白河対旧鳥羽という2種類の王朝国家の中での皇位継承をめぐる対立が複雑に絡まって起きた合戦である。「源氏」や「平氏」という武士たちは、この対立する皇統が、対立に決着をつけようとして動員した武力に過ぎなかったのである。

 (2)後白河と高倉の対立に巻き込まれた平氏

  安徳を皇位につけたのは平氏ではなく、安徳の父で、平清盛の娘婿にあたる高倉天皇であり、彼は安徳即位とともに、院政をしいたのである。

  この安徳が即位した1180年の数年前から、後白河と平氏の間にはきな臭いものが漂っていた。すなわち1177年の6月に平家打倒の陰謀を企てた咎で、上皇の近臣たちがつかまり、死罪や遠流に処せられている。いわゆる鹿ケ谷の陰謀である。そして1179年の11月には突如として福原から兵を率いて上京した清盛の圧力で上皇の近臣や関白などが官を免ぜられ、上皇は幽閉されて、院政は停止された。

  従来はこの事実をさして「平氏と後白河上皇の対立」といい、その翌年2月に安徳の即位と、6月には福原遷都がなされ、「平氏横暴なり」と指弾されたと言ってきたのである。

  だが、こう見ていくと、一人その存在を無視された人物がいる。それは安徳の父であり、後白河院政の停止・安徳即位とともに院政をしいた高倉天皇の存在である。高倉は天皇であり、平清盛はその妻の父、つまり高倉を支える位置にいる。従来のとらえかたでは、平氏が「横暴」となって、後白河を幽閉し、政治の実権を握ったという解釈になり、高倉は平氏の影法師に過ぎない事になる。

  この理解では、平氏と後白河が対立した原因がわからず、それゆえ「平氏の横暴」となってしまったのである。

  平氏と後白河の対立の原因は、後白河とその息子高倉との対立である。そしてその直接のきっかけは、2人と平清盛とを結びつけていた後白河の妻の平滋子(建春門院)の死去(1176年7月)である。この年高倉は16才。そして、18歳になった高倉は、1178年に代替わり新政を宣言して、自ら政務を取りはじめたのであった。

  この流れから見ると、1177年の鹿ケ谷の陰謀は、高倉と後白河の対立により、後白河が高倉の成人前に平氏・高倉を除こうとした動きであり、1179年の清盛の突然の上京と院近臣の解官は、後白河とそれをとりまく院近臣の圧力から天皇高倉を開放し、高倉親政を実現するものであった。そしてその翌年の1180年の安徳即位と高倉院政の開始は、高倉王朝創立の企てであったと言わざるをえない。

  つまり平氏は、平滋子・平徳子と2重の縁で結ばれた高倉・安徳を保護する方向へと動いたのであり、この結果として高倉と対立した後白河と対立したと見られるのである。

  そして高倉・安徳を守るため、平氏栄達の基盤であった後白河院政を停止し、後白河を幽閉したのであった。(この点は、保立道久著「平安王朝」にくわしい。)

 (3)旧鳥羽派の画策・以仁王の挙兵

  だが高倉・安徳王朝は安泰ではなかった。福原遷都の直前、安徳即位の直後に、後白河の第二皇子である以仁王が挙兵し、諸国の武士に平氏打倒の宣旨を配ったのである。

  平氏打倒とは、平氏が支える「高倉・安徳王朝」の打倒ということである。

  だがこの動きは後白河が画策したものではない。これは、後白河・高倉・安徳と皇統が継がれることにより、後白河を中継ぎにして、二条・六条と鳥羽王朝を継続させようとした目論みが、完全に潰えさってしまうことに危機感をもった旧鳥羽・二条派の皇族・貴族が画策したことである。

  この事件については、五味文彦著「平家物語、史と説話」(平凡社刊)にくわしい。以下これにそって述べたい。

  以仁王は、後白河と藤原季成の娘で高倉の三位と呼ばれた女性の間に生まれた息子である。そして彼は、八条女院の猶子であり、元服したのは近衛天皇の皇后で二条天皇の皇后にもなった藤原多子の近衛河原の御所であった。

  藤原季成は白河天皇いらい、次々と天皇の母を生み出した閑院流藤原氏であり、以仁王は天皇になる素質は充分であった。そして彼を猶子にした八条女院とは、鳥羽天皇と美福門院との間に生まれた娘で、鳥羽の正当な後継者と目された近衛天皇の姉妹である。さらにこの女院は、近衛が若くして死に、鳥羽直系が絶えたときに、母の美福門院によって女帝として推挙されたという経歴の持ち主で、美福門院が鳥羽の死後受け継いだ膨大な荘園を、母の死後すべて受け継いだ。

  つまり八条女院とは、鳥羽・近衛と続いた鳥羽直系の王朝を代表する人物であり、以仁王が彼女の猶子だったということは、同じく彼の兄であり、美福門院の猶子となって、近衛の死後天皇位をついだ二条の死後の、鳥羽王朝を継ぐべき位置に、以仁王がいたということなのである。

  したがって以仁王は、父後白河が鳥羽派との提携を打破し、平氏の援助を受け、平滋子との間に生まれた第三皇子の高倉を天皇位につけたときから冷遇され、後白河・高倉の王朝を守ろうとしていた平氏からは、危険人物あつかいを受けていたのであった。

  では何ゆえかれが決起したのか。それは高倉の息子の安徳の即位が原因である。安徳が即位したということは、高倉の兄である以仁王には、永久に皇位は巡ってこないということである。そしてこのことは以仁王を推す、鳥羽派の皇族・貴族にとっても、彼らの復権は夢となってしまう事態だったのである。

  しかし可能性はある。高倉・安徳の王朝を守ろうとした平氏は、それに反対する後白河を幽閉し、後白河を支えてきた貴族層とも激突を始めている。その意味で、新しい天皇である安徳には権威が認められない。一の人である後白河の第二皇子の以仁王の権威で安徳の皇位継承を否定し、そこに多くの貴族を結集できれば、あとは平氏に対立する武士たちを動員すれば、皇位を奪う勝算あり。

  以仁王と彼を支える鳥羽派の皇族や貴族はそう考えたに違いないのである。

  ではなぜ源頼政らの摂津源氏がその武力として動員され、諸国の源氏もまた動員されたのか。

  それは源頼政は1151年に美福門院の院の昇殿を許されて以来、美福門院に仕えており、彼の息子の仲綱も二条の立太子のときに蔵人となり、彼の娘の讃岐は二条の女房であった。つまり彼は美福門院との関係で鳥羽派を支える貴族であったのであり、だから彼は保元の乱のときにも一族の多くが崇徳についたのに、彼は後白河について戦い、さらには平治の乱のときも、鳥羽・二条派の貴族として、清盛とともに、藤原信西の側で戦ったのである。この意味で源頼政は後白河にしたがったのではなく、鳥羽・二条派の一員として行動してきたのである。

  また清和源氏の一方の棟梁である河内源氏の源義朝も、父爲義との軋轢と、妻が美福門院の女房であった関係から美福門院につかえ、この関係から保元の乱では後白河の側で戦ったのである。つまり彼らも鳥羽・二条派の貴族として動いたのである。そしてさらに、この以仁王の決起のときに、各地に王の宣旨を持って回った源行家(義朝の弟)もまた八条院の蔵人であって、鳥羽派につかえる貴族であった。

  以仁王の決起は、皇位継承の権利を失いそうになった鳥羽・二条派の皇族・貴族が、高倉・平氏と後白河の対立をチャンスと見て、自らの派に皇位を奪い返そうとして行ったものだったのである。

 (4)後白河・鳥羽派の提携と、王朝国家からの自立を目指した関東武士

  そして彼の決起が未発に終わり、彼と彼を支える源頼政の一党が亡びたにも関わらず、彼の高倉・安徳王朝の否定・平氏打倒の宣旨が大きな力をもち、そして結局のところは、高倉・安徳王朝をつぶし、それを支えた平氏を倒したのには、2つの異なった事情が介在する。

  その1つは、以仁王の決起と諸国源氏の決起、南都北嶺の諸寺院と平氏との対立によって、そしてさらに高倉の死により、高倉・安徳王朝が揺らいだその時、後白河を伴って西国に落ち延びようとした平氏を裏切った後白河が、鳥羽派の貴族とも手を結び、その鳥羽派との提携で動いた源義仲や源頼朝らとも提携し、平氏・安徳王朝をつぶし、再び自己の血脈に皇位を継承させようと動いた事があった。

 後白河は平氏が西国に院・天皇を擁して落ち延びる計画があることを知るや比叡山に逃げ、後に平氏を破った源義仲が入京すると、義仲が担いだ故以仁王の忘れ形見の北陸の宮ではなく、高倉上皇の第4子の尊成親王(3歳)を即位させ(後鳥羽天皇)、ただちに院政を復活させた。この動きは、以仁王が旧鳥羽・二条派の皇族として動いたことから考えるに、後白河は、旧鳥羽・二条派につらなる北陸の宮ではなく、後白河・高倉・後鳥羽と続く、自身の直系王統を、蜂起した源氏の勢力を背景に再度打ちたてようとしたものと言える。そして後にこの義仲を追い落とした源頼朝は、後白河の直系王統を作ろうとする動きを支え、このことによって、自身の地盤を固めたのであった。

   そしてもう1つは、以上のような王朝内部の皇位継承をめぐる分裂をチャンスと捉え、一方の王朝を支える軍事貴族の棟梁である頼朝を担ぎつつ、関東地方に王朝国家から自立した地域をつくろうと動いた、有力な関東武士の集団があったという、次の新しい時代への胎動が存在した事である。

  だがこの第二の流れが自覚的に動き始めるのは、もっと後である。

  この「源平合戦」と呼ばれる治承・寿永の戦乱の基本的な性格は、「後白河派」「高倉・安徳派」「鳥羽・二条派」と複雑に分裂した王朝国家内の皇位継承の戦争であったのであり、武士はその決着のために動員された武力集団だったにすぎないのである。

 (5)源平に分かれて戦ったわけではない

  最語に1つ蛇足だが、付け加えておこう。

  「源平合戦」という語は、皇位継承戦争に動員された武士が、「平氏」と「源氏」に分かれて戦ったかのような錯覚を生み出す。事実はそうではないのである。

  頼朝を支えた関東の源氏の家人集団は、その主な武士をみれば、多くは桓武平氏の出身である。正確に言えば、桓武平氏出身の軍事貴族の御曹司を自己の血脈に婿として組みこんだ土着の豪族出身の武士たち。北条氏は「平の北条のなにがし」というのが正しい氏名であり、三浦氏も「平の三浦のなにがし」であった。

  また対する平清盛とその武士団にも、多くの源氏が加わっていたことはよく知られた事実である。鹿ケ谷での反平氏の陰謀を暴き、後白河幽閉のきっかけを作った多田行綱は、源頼政と同族の摂津源氏であった。彼は「源平の戦い」の途中まで、平氏の側にたって戦ったのである。さらには、源頼朝の背後にあって、最後まで平氏・高倉安徳王朝の側にたって動いた佐竹氏は源氏であったのである。

  「源平の戦い」は、高倉・安徳王朝の側にたってそれを支えた武士団の棟梁が「平氏」だったにすぎず、またそれに対抗して、鳥羽・二条王朝をささえ、もしくは後白河王朝をささえる武士団の棟梁が「源氏」だったにすぎない。個々の武士たちは、その出身の「氏」にしたがって行動したのでは なく、個々の利害や個々人のつながりに応じて、複数の王朝に奉仕して動いたにすぎないのである。

 

  扶桑社の教科書の「源平の合戦」というとらえかたは、これが武士同士の覇権をかけた戦いではなく、分裂した王朝国家の戦いであったという意味でも、さらには武士団は源氏・平氏に分かれて戦ったのではないという意味でも、2重の意味で、事実とは異なったものであった。

:05年8月刊の新版では「源平合戦と平氏の滅亡」という題になっている(p67)が、その記述は旧版とほとんど同じである。したがって先に示した旧版の問題点は、そのまま新版にもあてはまる。

:この項は、前掲保立道久著「平安王朝」、佐藤進一著「日本の中世国家」(1883年岩波書店刊)、五味文彦著「平家物語、史と説話」(1987年平凡社刊)、河内祥輔著「頼朝の時代ー1180年代内乱史」(1990年平凡社刊)、角田文衛著「平家後抄ー落日後の平家」(1978年朝日新聞社刊)などを参照した。


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