「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判21


21.「自治」の背景を見誤る:都市の自治

  「都市と農村の変化」の四つめの項目は、「都市の自治」である。この項目の記述も他の多くの教科書と大差はない。しかしこの記述は、「農村の自治」の記述と同様な間違いを犯している。

 教科書は以下のように記述している(p101)。

 産業や交通の発達にともない、各地に商人や職人が集まって住む都市が形づくられていった。有名な寺社の門前では、市が開かれたり、参詣のための宿屋ができたりして門前町が生まれ、海上交通の要地である港にも、商人などが住みついて港町がつくられた。
 港町の堺(大阪府)や博多(福岡市)は、日明貿易の根拠地として栄えるとともに、富をたくわえた有力な商人の合議によって町の政治が行われ、自治都市としての性格を備えていた。京都では、裕福な商工業者である町衆が、地域ごとに自治の仕組みをつくっていた。

 この記述にも、いくつかの重大な誤りが含まれている。

 それは1つに、「自治都市」の成立の背景を「産業や交通の発達と富みをたくわえた商工業者の登場」としており、都市という場の持っている「神聖」な性格や都市の領主が守護や地頭ではなく、朝廷や幕府・有力な寺社という、これ自身が「神聖な」性格を持つ公権力であったという事実が「都市の自治」を生み出した背景であったという重要な側面を見落としていること。
 さらに2つめには、「都市の自治」の背景にも、都市における階層差別があったことを見落としている事。

 この教科書の記述には、大きく分けて以上2つの誤りが見うけられる。以下に、2つの誤りを中心として、中世における「都市の自治」の発展過程とその姿について述べておこう。

(1)「神聖な場」としての都市

@市と市の守護神を中心として成立した中世都市

 中世の都市は、この教科書が指摘するように、有名な寺社門前の市や宿、そして港に商工業者が集住して成立しただけではない。各地の街道の辻などに栄えた市もしだいに宿の機能を併せ持つようになり、都市へと発展していったのである。また港町も、海の道に沿ったものだけではなく、川や湖などの水運が内陸交通の主役であったゆえに、川や湖の沿岸にも数多く誕生し、その背景には、港における物資の運送と管理や宿の役目を持っていた問丸の存在や港に隣接した市の存在があったのである。つまり中世の都市は、市を中心として発展した。

 前にも述べたが、市は交通の便の良い、商品の交換に便の良い場所だけではなく、そのような条件を備えた場所で、なおかつどの世俗権力にも属さない「聖なる」場所に開かれた。商品を交換するという行為が、その商品に込められた生産者の魂を抜いて、それに購入者の魂を入れかえるという呪術的な行為として考えられたゆえに、商品の交換が行われる場自身が、「聖なる」場である必要があると考えられていたからである。このため市が開かれたのは、辻や河原・中州などの「無主の地」であった。
 だから市には必ず「市神」が祭られており、「市神」を勧進し神を祭る祭祀を行う事が市を設ける最初の行いであり、そのあとに、市の場に、建屋を設けて商売の場を作ったのである。そしてこの「市神」はしばしば仏と入れ替わっていた場合もあるので、市にはその守護神としての寺社が必ず存在したのである。

 したがって中世の都市とは、市とその守護神とを中心として成り立っていたのであり、市の開かれた場が「神聖な」場であったゆえに、市を基盤として成り立った都市自身が「神聖な」場と観念されていたのであった。

A古代都市の中世都市への変貌

 そしてこれは、政権の所在地として成立した京都や奈良・鎌倉、そして各地の国府においても同様であった。これらの都市は古代においては政庁を中心とした役所が都市の中心であったわけだが、律令国家や幕府権力の衰退によって、都市の中心は、それぞれの鎮守である寺社とその周辺に出来た市が占めるようになり、市場と鎮守の寺社を中心とした中世都市へと変貌を遂げたのであった。

 古代の京都は内裏を中心とした役所と貴族の邸宅からなりたっており、市は、平安京南部の東西の市以外にはなかった。しかし律令国家の衰退とともに、京都の中心は内裏ではなく寺社、それも大衆的な信仰を獲得した寺社に移り、その寺社の門前で寺社地内の街路沿いの空き地(それはしばしば築地を削って作られたり、道と運河との間の空間地であった)に間借りするという形で商工業者の店=棚が出来、それがやがて市町となって発展するという形をとった。中心となった寺社は八坂の祇園社や北野の天神社、そして洛中の六角堂や革堂や阿弥陀堂などであった。中世の京都はこれらの寺社門前の市町の集合体となったのである。そしてこの過程で、政治権力の所在地すらこれらの市町の周囲に移動した。院政期の白河や鳥羽、そして鎌倉幕府時代の六波羅や室町幕府の室町御所。これらは寺社門前町の周辺に建てられ、そこに住む商工業者と密接な関係を持ったのである(鳥羽は、京都南郊の港を中心に作られた港町である)。奈良もまた平安遷都後は、興福寺・春日社の門前に栄えた市町として発展したし、鎌倉も鶴岡八幡宮と大町の祇園社門前の市町として発展した。さらに古代の対外関係の重要な場であった大宰府の外港として発展し大宰府政庁の統治下にあった博多や和泉・河内の守護所が置かれその統治下にあった堺も同様な経過を辿って市とその守護神を中心とした中世都市に変貌したと考えられている。

 中世都市そのものが「神聖な」場であったのである。

B「神聖」な権威との結合

 神聖な場であった市町は、律令国家の衰退と武家権力の形成と発展の過程で「自治都市」としての形態を発展させていった。

 市町を基礎として発展した都市は、それ自身が神聖な場であり世俗の権力に属さない場であった。それゆえ都市を領有したのは、それ自身が「神聖さ」を兼ね備えた朝廷や寺社、そして幕府であり、「領有」すると言ってもそれは直接的支配ではなくて諸々の税を免除し、都市に住む商工業者の「座」の自治に委ね、それから種種の公事を徴収するという程度のものであった。
 このため世俗の権力である地頭や守護は都市に介入する事や地頭・守護の家臣が都市に住む事も許されず、都市は早くから都市住民の自治によって統治されていたのである。早いものでは平安時代末期に、そして遅くとも鎌倉時代には、諸国の都市において住民の「座」的結合が見られ、これらの「古代的」な権威と結びつき、住民の「座」によって統治された都市は、新たに勢力を広めつつあった武家の権力、地頭や守護などの介入を阻止できたのである。そしてこの時、都市に住む商工業者の多くは朝廷や有力寺社の供御人・神人や寄人となってその権威を背景として商工業の独占を図る特権を手に入れ、武家権力とも対抗していたのであった(住民の座といっても様々な形があった。都市を領する「古代的権力」が直接統治できない地方の都市では、住民の有力者は自治的な村と同様に「侍」を名乗り「殿原衆」と呼ばれて多くの下人を抱え、中には御家人であった例すら見られる。都市を直接強大な権力が統治していた博多・京都・鎌倉・堺などの都市では、このような「侍」層は見られず、「町人」と呼ばれる商工業者であり、自治都市の成立は室町時代から戦国時代と、他に比べれば比較的遅かった)。

 都市はそれを領有する権力そのものが「神聖な」性格を帯びており、都市を動かす住民の「座」組織もそれ自身が「一味同心」であり「神聖な」ものだったのである。この都市が持つ神聖さがその財力とともに「自治」の基盤でもあったのである。

 したがってこの中世都市の神聖な性格と自前の富みと武力を背景として、室町時代から戦国時代にかけて「楽市楽座」を掲げて市場税も座の特権も認めず、朝廷や有力寺社からも自立した「自治都市」が各地に出現したのであった。

(2)差別を内包した都市

 「自治都市」というと、京都の祇園祭りのような都市住民自身が自治的に運営する場の華やかさとともに、華やかな先進的な色彩を帯びている。

 しかし都市における自治も村の自治と同様に、自治に携われるのは住民の中の限られた層であった。
 都市の住民構成は村と同様に、名主・凡下・下人、そしてそれ以外の非人と呼ばれた被差別民とからなっていた。そしてこの名主・凡下が商工業の場である「家」を持つ「家持」であり、彼らだけが都市の運営に携われるという形であった。地方の都市ではこの名主層が「侍」を自称して武装して多くの下人を抱え、同じく武装した凡下たちを従えていたのである。また博多や京都、そして守護所が置かれていた堺などの都市では名主層は「町人」とか「町衆」とか呼ばれており、彼らもまた武装して多くの下人を抱え、同じく武装した凡下の商工業者を従えていたのである。

 したがって中世における都市の自治のかたちも村の自治と同じかたちであり、「神聖な」権威や権力によって守られていたとはいえ、中世という乱世の中で、自力の武力でその自治を守っていた事には変わりはなかったのである(後に述べる「一向一揆」も従来説とは違って浄土真宗本願寺派の寺院を中核として形成された「寺内町」の一揆としての性格をもつ武装した都市の一揆であった)。

 さらに都市には多くの被差別民がいた。小さな都市でも数百の家屋を抱え、大きなものになると家屋の数だけで万を数える都市は、村以上にこれらの被差別民の活動に依存していた。たとえば都市における牛馬の死体や死人の処理や様々な汚物の清掃。これは「清目」と呼ばれる清掃業者に託され、彼らも非人であった。また都市においては多くの祭礼も行われ、これらの祭礼に携わる巫女や猿楽・田楽・白拍子などの芸能者もたくさんおり、彼らもまた「河原者」と呼ばれる非人であった。そして都市には多くの邸宅や寺院が作られたわけであるが、これらの邸宅や寺院の庭をつくる造園家が必要であったわけで、彼らもまた「御庭者」と呼ばれた非人であった。
 これらの被差別の民も都市に集住して「町」をなしていたわけであるが、これらの被差別民の町は、自治を行う「町人」が集住する「町」とは区別され、自治からは排除されていたのである(都市はたいがい幾つかの「町」の集合体であり、町ごとに自治の仕組みがつくられていて、その町が幾つかあつまって「惣町」という都市の自治組織を作っていた。この教科書が「当時の京都では
裕福な商工業者である町衆が、地域ごとに自治の仕組みをつくっていた」と記述したのは、応仁の乱の前の京都では、まだ「惣町」がいくつか出来ている段階で、応仁の乱後のように、「上京」「下京」という形で「惣町」がいくつも結合して巨大な自治都市が出来上がっていた情況とは異なることを意味している)

 教科書の「都市の自治」の描きかたは「農村の自治」とは異なった内容になっているが、その内実はほとんど同じであり、区別する必要も見られない。

 すなわち都市の自治の要件は

 1つは都市の家屋や商売にかけられた諸公事の町請。
 2つは、それを実現できる町としての強制力の保持(掟・武力)。
 3つは、町の物的基盤となる町有財産の保有(鎮守の寺社地と惣構えなどの防御施設)。
 4つは、町の意思を決定して執行する組織、町人の寄合と執行部としての宮座の存在。

であって村と同じである。異なるのは、自治の組織を村では「惣」とよび都市では「町」と呼ぶだけ。そして当時の都市は近世のように農村と分離しておらず、都市の内部に田地が存在し、そこには農業に従事する百姓が村をなしていたということも忘れてはならない。これは惣村がその内部に市場や港という都市的な場を内包していたのと同じで、農・工商が分離された近世都市と中世都市とは異なっているのである。

:05年8月刊の新版では、「農村の自治」と「都市の自治」とを合体して「都市と農村の自治」と題して記述しているが(p81)、「都市の自治」の記述は、旧版と同じであり、同じ誤りをしたままである。

:この項は、前掲、脇田晴子著「室町時代」、藤木久志著「戦国の村を行く」、浅尾直弘著「惣村から町へ」、神田千里著「戦国乱世を生きる力」、網野善彦著「日本中世都市の世界」(1996年筑摩書房刊)、五味文彦編「都市の中世」(1992年吉川弘文館刊)、などを参照した。


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