「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判22


22.事項の羅列に堕した文化論:北山文化と東山文化

  室町時代の政治の流れと経済・社会の変化を記したあと、教科書は「室町の文化」と題して、室町時代の文化史を記述する。その最初が「北山文化と東山文化」である。教科書はつぎのように記述している(p102)

 室町時代には、幕府が京都に置かれたこともあって、武家文化と貴族文化がまじりあった。これに禅宗の影響や、勘合貿易によって伝わった中国の文化などが加わって、新たな文化がおこった。3代将軍足利義満が京都の北山に建てた金閣は、さまざまな文化が融合したこの時代の特徴をよく示している。また義満の保護を受けて、観阿弥と世阿弥の父子は、平安時代から民間の娯楽として親しまれた猿楽・田楽を、能楽として大成した。能や、狂言(能のあいまに演じられる軽妙なせりふ劇)は、武家や庶民の間に浸透していった。義満のころの文化を北山文化とよんでいる。
 8代将軍義政は、東山に銀閣を建てて、風雅な生活を送った。このころの、わび、さびとよばれる落ち着いた雰囲気をもった文化を、東山文化とよぶ。建築では、畳や床の間、違い棚などを備えた書院造が発達し、禅宗寺院で、枯山水とよばれる石を用いた庭園がつくられた。茶の湯や生花もこのころ生まれた。
 また、宋・元の作品に学んで、水墨画が描かれた。水墨画は色彩を否定し、墨一色で表現する絵画である。禅僧の雪舟は、明に渡って水墨の技法を学び、帰国後、山口で筆をふるった。「山水長巻」や「秋冬山水図」は力作で、雪舟は日本の山水画の確立者となった。こののちは、水墨画に大和絵の技法を取り入れた狩野派が、画壇を支配していく。

 この記述を読んでみるとさまざまな疑問が沸いてくる。

 第一の大きな疑問は、北山文化と東山文化の性格の違いはどこにあるのかが一向にわからないことである。東山文化は「わび・さびを基調とした落ち着いた雰囲気」の文化であると記述されているが、北山文化は「さまざまな文化が融合した」とのみ記述され、その文化の性格も東山文化の性格との違いもまったく記述されていない。しかも北山文化の時代に大成されたという能の性格も一般には「風雅」を重んじたものと理解されているから、東山文化の将軍義政の「風雅な生活」との関係で混乱する。

 そして二つの文化がどのような経緯で生まれ、相互の関係はどうなっているのかがまったく説明されていない。

 多くの教科書において文化史の記述はこのように羅列的であり、かつその文化が栄えた時代との関係が不分明なのであるが、「つくる会」教科書もその例に漏れないのである。

 では実際にはどうだったのか。そこを以下に述べてみよう。

(1)「バサラ」と「風流」

 実は北山文化とそれを準備した鎌倉後期から南北朝期の文化の特徴は「バサラ」である。 バサラとは古代インドのサンスクリット語では、ダイヤモンド(金剛石)を意味する言葉であり、真言密教ではその法具である金剛杵を意味していた。しかし鎌倉末期から派手な目立つ行動が文化面で顕著になり、従来の「過差」という語では収まり切らなくなった時、「バサラ」の語それ自身が転じて、「派手な目立つこと」を意味して鎌倉末期・南北朝期につかわれるようになったものである。そしてこの「バサラ」とほぼ同じ「派手で目立つこと」をあらわした語に「風流」がある。鎌倉後期から南北朝期の文化的特徴は、この「バサラ」と「風流」なのであった。

@外来文化・密教文化とバサラ

 平安時代後期から南北朝期にかけては、国としての正式の付き合いはなかったとはいえ、中国との間の交易は密接であり、宋・元との文化交流も盛んであった。従って貴族層(公家も武家)もこぞって新来の外来文化を受容し、その生活において派手な唐物なしにはすごせないような状況を生み出した。
 そしてバサラが本来真言密教の法具を指していたことからもわかるように、このような動きは真言密教の呪術的傾向への人々の関心の深まりと対になっているのであり、真言密教を取り入れた神道が、「皇太神はバサラをもって中心とする」と述べ、伊勢皇太神と宇宙の中心である大梵天王とは同体であり大梵天王自身をさす金剛杵がその信仰の中心であると宣言していたことからもわかるように、元の来寇などで高まっていた危機感と一体の「神国思想」とも対になっていたものであった。

 バサラとはそのような時代背景をもって唐物で身体を飾り、人目をひく行動をなすことをさしていたのである。そしてこれは鎌倉御家人の間に特に著しく、幕府滅亡後は、後醍醐天皇の下に集った足利尊氏の勢力にそれは引き継がれ、後に建武の新制崩壊後の室町幕府においても、建武式目においてそのような行動は禁止の対象となったのである。しかし公家や武家の間にバサラは広がった。

 かの吉田兼好の徒然草は、このような唐物に埋め尽くされた華美な行動=バサラ的行動を、摂関期・院政期の貴族の生活を理想とする雅という理念と幽玄という理念をもとに批判したものでもあったのである。

A「心のままに」とバサラ

 しかしバサラという行動形態と思想は、このような外来の文物との関係だけで生じたのではなかった。
 末法の世という末世に生きた人々の間から、末世は末世として認識しながらも、その中で現世をできるだけ楽しむ思想が生まれていたのである。そしてこの思想は「心のままに」ということをキーワードとして、様々な文化活動に表現されていた。

 これは一つは連歌に見られるような、言葉遊びの瞬間の美しさ面白さを競う文芸の中に表現されていたし、和歌の世界でも、新古今派に代表される摂関期・院政期の貴族の生活を理想とし(=雅)、その風情を強調することなくそこはかとなくかもし出す(=幽玄・優艶)傾向を是とする動きに対して、その時々に感じたことを形式に囚われずに表現する事を是とする傾向として存在していた。

 この「心のままに」という傾向を如実に表現し、このような自由な文芸を興隆させた背景には、一遍上人に始まる時宗の思想も介在していた。一遍は念仏踊りと阿弥陀の名号を記した札配りを結合させて人々に浄土への往生と念仏への帰依を広めていた。その念仏踊りの様は、念仏に一心に浸る事がそのまま往生に繋がると言う思想を広めるとともに、人々に心のままにその感情を表現することによって仏に帰依しながらも現世を楽しむ思想を広めていたのである。

 またこの「心のままに」という思想は、当時人々の間に広がり始めていた禅の思想にも通じるものであった。
 禅は修業そのものが悟りであるとし、修行によって宇宙の根本に合一する事を理想としている。したがって一遍の念仏=往生と通じるものがあり、仏に帰依してさえいれば「心のまま」に現世を生きることがすなわち悟りに通じると言う思想をも生み出していた。

 このようにバサラとは、末世の中でもこの世を楽しもうとする傾向をも表していたのである。

Bバサラの諸表現:風流踊り・闘茶・立花・立石

 バサラの傾向をもっともよくあらわしていたのが踊りである。派手な服装で人目をひく所作を連続的に行う踊り。一遍の念仏踊りに始まるこの傾向は、禅宗にも影響を与え、自然居士などの放下の禅師とよばれた歌い踊る事によって禅の精神を布教する活動なども生まれ、風流踊りや田楽舞い・猿楽舞いとしても発展していった。
 後に観阿弥・世阿弥によって「幽玄」を旨とした芸術的な舞いである能につながる猿楽舞いは、初期には派手な衣装で人目をひく所作をする「バサラ」な踊りだったのである。

 また後に侘び茶として今日につながるお茶も、この時代には「バサラ」を表現するものであった。鎌倉後期から南北朝・室町初期にかけてのお茶は中国伝来のものであり、人々が多数唐風の建物に集まって、唐風の屏風や絵、そして唐物の花瓶などに囲まれた空間で、集団で椅子に座ってお茶を飲むものであった。そして特に人々に好まれたのが「闘茶」と呼ばれる、さまざまな種類・産地のお茶の銘柄を匂いと味だけを頼りにして当てることを競うゲームであり、ここではさまざまな唐渡りの文物を含む財宝がゲームの商品として賭けられていたのであった。

 さらに後に侘び茶と対になって発展した生花も、この時代にはもっと華美なバサラ的なものであり当時は「立花」と呼ばれた。
 立花の由来は鎌倉後期・南北朝期にバサラ大名の異名をとった佐々木導誉が、七夕に自宅に七ヶ所の花で飾った段を設けて70服の闘茶の会を催したことである。この中国式の派手な茶席が七ヶ所も設けられたことに刺激を受けた将軍足利義満は、新築の北山第にて大規模な七夕花合を開く。ここでは50人の参加者にそれぞれ7つの花瓶を持ち寄らせ、350の花瓶に沢山の花々が咲き誇るという豪華なものであった。
 このような動きが盛んになるにしたがって大きな花瓶に豪華に花を立て合わせる立花が盛んとなったのである。

 またこの時代は禅宗寺院に見られるように人工的な庭を造ることによって、海や湖・山々と言う広大な自然を写す「立石」と呼ばれる庭造りが盛んになった時代でもある。この「立石」という作庭方法は、大小の自然石を庭に立て、そのまわりに山を築いたり池を築いたりし、様々な木々や花々を植えて、人口の庭の中に広大な自然を再現するものであった。義満の北山第の庭の池と山などがその典型である。

 南北朝期から室町初期の義満の時代は、将軍邸や御所にも「会所」という人々が集う施設が設けられてここに舶来の宝物が多数陳列され、この場で連歌の会や闘茶の会、そして花合の会や猿楽舞いを楽しむ会などが開かれていたのである。そしてこの会所を彩ったさまざまな芸能が代表していたのが「バサラ」なのであった。義満の建てた北山第は上皇の院の御所の機能をもった邸宅として建てられ、その中心は王者として和様・禅宗様・唐様を統合した持仏堂としての金閣と、掛け橋でこれと結ばれた2階建ての会所であり、この会所で、さまざまな「バサラ」な饗宴が行われていたのである。

(2)「風雅」の時代へ

 このように鎌倉末期から南北朝期・室町初期の文化は、現世を楽しむ「心のままに」の傾向を背景として、自由な雰囲気の文化が生まれていった。そしてこれは権力が一元化されていない時代の傾向と、隆盛を誇った外国との興隆とを背景として、庶民や武家・公家のさまざまな文化が都を中心とする世界で融合していったのであった。

@「バサラ」と「雅」の結合

 しかし都の貴族の美意識は依然として前代からの「雅」、つまり摂関期から院政期の貴族の生活と美意識を理想とし、しかもそれをそこはかとなく漂わせる表現(=幽玄)を理想とするものであり、これとは対極に有る「バサラ」「風流」の美は、これとしだいに融合していかざるを得なくなった。そしてこの動きは時代の精神として人々の間に広く受け入れられるようになった禅の精神の簡潔をもとめる傾向ともあいまって、表現形式がしだいに抑制され、「わび」とか「さび」とか言われる抑制された静かな表現の中にほのかに醸し出される美をたっとぶ精神を生み出すこととなる。
 このような傾向が強まるとともに、かつては「バサラ」と同じく「派手でめだつこと」を意味していた「風流」の語の意味が変化し、「静かな表現の中で雅を楽しむこと」という新たなものに変わっていったのであった。

 このような変化が顕著になったのが、義満の子で4代将軍足利義持の時代から、義満の孫で8代義政の時代であったのだ。

A都市の中の草庵の文化

 そしてこのような変化の背景に、鎌倉末期から次第に台頭してきた隠遁をもとめる思想、つまり俗世間の騒音から身を引き剥がして精神の純粋さを求める傾向の発展を忘れることはできない。またこの思想は、禅の思想とも密接な関係をもっており、鎌倉期の出家遁世して諸国流浪の生活を選ぶ傾向から、都市近郊の山之辺に立てられた草庵に生活の居を構え修行や遊芸三昧の生活にふける中で精神の純粋さを求める傾向へと移っていった。鎌倉末期から南北朝期の兼好法師に代表されるような暮らしである。

 このような遁世者が連歌や立花、そして猿楽能などの芸能を主に担った人達であり、この草庵の文化を経るなかで、「バサラ」の文化と「雅」の文化が結合し、あらたな「風雅」の時代、静かな生活静かな表現の中でもそこはかとなく漂う雅の美を楽しむ時代を生んでいったのである。この大きな転換を担った場を提供したものの一人として、高名な禅僧であり後小松天皇の落胤でもあった一休禅師の草庵があった。

B風雅の諸表現:幽玄能・生花・侘び茶・枯山水・水墨画 

 この「風雅」の傾向が生まれるとともに、前代の「バサラ」を代表していた能や立花・闘茶などの諸芸能にも大きな変化が現われる。

 世阿弥の晩年には、今までの派手な所作からなる猿楽能とは違って、幽玄能とよばれる所作の省略された動きの少ない能がはじまった。これは少ない動きの中から醸し出される美に重きを置いたものであり、やがて世阿弥は演者の意図しないなにげない動きの中に美が存在すると考えるようになり、この幽玄能は、世阿弥の娘婿である金春禅竹のころに完成された。

 同様に派手な唐物の花瓶にたくさんの花々を派手に立てる「立花」として始まった生花は、このころになると様式が簡略化され、花瓶の中心に据えられた立木である真木を中心にして花々が構成されるようになり、何本かの花々で広大な自然や宇宙を表現するものとなったのである。
 さらに唐様の建物の中で膨大な唐物に囲まれて茶の銘柄を当てる闘茶として始まったお茶は、やがて書院造りの部屋が会所の主流となるとともに、座敷に正座して別の部屋でたてられたお茶を運んで楽しむようにかわり、15世紀も末になると、豪華な書院に対して「都の隠れ家」と呼ばれた四畳半の草庵で数人でお茶をたてることを楽しむ侘び茶が生まれた。

 このように今までは派手な装いを直接出す傾向が好まれていたのに対して、静かなたたずまいの中にほのかに醸し出される美を堪能する方向に、さまざまな芸能が変化していったのである。そしてこの動きは能や立花・お茶だけのものではなく、派手な立石による石組みと築山・築池で成り立っていた作庭でも、枯山水のような立石と白砂の組み合わせだけで自然の様々な姿を写すような動きも現われ、絵画の世界では華麗な大和絵の中から、色彩を極端に省略した水墨画が生まれてきたのである。また文学でも前代から盛んになっていた連歌の傾向も、奇抜な人目を引く言葉遣いを楽しむものから、和歌の古典的表現を下敷きにした幽玄とよばれる表現方法が主流となっていったのである。

 「わび」「さび」とは、少し足りない表現、華美なものを抑制して物寂しい静かな風情の中にそこはかとなく漂う美しさを愛でる傾向であり、「風雅」「幽玄」も、ほぼ同じ傾向を指すものであった。
 足利義政が立てた慈恩寺・銀閣は、「風雅」の傾向を代表した、将軍の隠居所としての草庵だったのであり、その東求堂同仁斎は、最古の四畳半書院で、後の草庵茶室の先駆けとなっている。

 だが「バサラ」から「風雅」への動きは直線的なものではなく、バサラから禅と草庵での文化をへて生み出された風雅の傾向と、前代以来続くバサラの傾向は、同時並行的に進んでいたのである。「風雅」の傾向は都の公家・武家の貴族層とそれを取り巻く文化人の間で楽しまれたが、都の庶民や地方の人々の間には、「バサラ」の傾向が依然として喜ばれたのである。それは都の町衆の祭りである「祗園会」が「バサラ」を代表しつづけたことにもよく示されている。

:05年8月刊の新版の「北山文化と東山文化」は(p82)、旧版のものとほとんど同じである。

:この項は、前掲、小西甚一著「中世の文芸」、松岡心平著「室町の芸能」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第9巻中世3」所収)、五味文彦・佐野みどり・松岡心平著「中世文化の美と力」(2002年中央公論新社刊「日本の中世7」所収)などを参照した。


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