「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判23


23.時代の深部を捉えられない文化論:今日に伝わる生活文化

  「室町の文化」の2つ目の項目は、「今日に伝わる生活文化」で、室町時代には地方にも文化が栄え、今日とほぼ同じ生活文化が芽生えた事を記述している(p103)

 民衆の間でも、集団で楽しむ文化がおこった。能や狂言、茶の湯が親しまれ、和歌の上の句と下の句を別々の人がつくってまとめていく連歌が、村の寄合などで流行した。また、お伽草子とよばれる絵本がつくられ、「浦島太郎」や「一寸法師」の物語が、武家や民衆の人気を博した。
 戦乱をのがれた公家や僧によって、地方に文化が広められたのも、この時代の特色である。雪舟のいた大内氏の山口など、各地の城下町が栄え、栃木の足利学校は学問の中心となった。各地の寺院では、武家や庶民の子どもの教育も始まった。
 このように民衆や地方への文化の広まりを受けて、室町時代には、今日に直接通じる、文化や衣食住の生活習慣がおこった。村祭りや盆踊りといった年中行事、一日三食の習慣、味噌やしょう油の使用なども、すべてこのころ始まったものである。

 この記述自身には間違いはない。戦国時代も含む室町時代は、庶民と貴族との文化交流が盛んであり、相互の文化が受容・発展され、階層を超えた文化の均質化が行われた時代である。連歌・能・狂言、そして茶の湯や生花。これらの文化は公家や武家などの貴族だけではなく、都市の商工業者や村の百姓(商工業者と農民・漁民)などの庶民の上層部の文化でもあったのだ。そして村祭りや盆踊りもまた彼らに共通した楽しみとなり、地方にも都の文化が次々と伝えられていった。

 しかし「つくる会」教科書のこの記述の欠点は、なぜこのような階層を超えた文化の均質化がおこったのかということと、今日にも通じる生活文化が形成されたのはなぜかということについて、考える糸口さえ提供されていない事である。これまでの教科書の記述から推測できることは、諸産業の発展によって農村や都市の庶民の生活が豊かになったことがまずあげられよう。そしてこのページの記述に「戦乱をさけて都の公家や僧が地方に下って都の文化を伝えた」こともその理由の一つである事はわかる。
 だが、一番肝腎なこと。つまり「なぜ民衆の間でも集団で楽しむ文化が起きたのか」という問いには全く答えられていない。連歌・能と狂言・茶の湯・村祭りや盆踊り。これらの文化は全て集団で楽しむ文化である。これが貴族の間に栄えたのと同時に庶民にも栄えた理由は、庶民の生活が豊かになっただけでは説明がつかない。またこのページの記述に、都の文化が地方に伝えられたのは「都が戦火にみまわれ公家や僧が地方に避難した」ことが示されているが、これは次ぎの応仁の乱・戦国時代の所でも述べたが、ことの一面のみの記述であり、地方の人々(大名や庶民)が都の文化を求めた理由まで踏み込んで捉える必要があると思う。

 「つくる会」教科書のこのような欠点は、結論的に言えば、この教科書が社会史の視点がきわめて弱いことと関係している。では具体的にはどうなのか。以下に示しておこう。

(1)家の成立

 この時代の特色は、都の公家や武士だけではなく庶民の間でも、今日では「家」と呼ばれている、親族集団に囲まれた単婚家族が成立したことである。中世(平安時代中期から戦国時代)において公家の間に「家」が成立し、それぞれの家が継承する「家職」としての伝統ができたことはすでに各所において述べておいた。公家の間に、摂政関白を代々継承する家が出来たり、大臣の職を継承する家や、王朝国家の役所の頭人を継承する家、そして管弦や和歌や漢詩や、さらに医学や易学などの諸々の学問を継承する家。そうした様々な「職」を担う家が公家の間で成立したのがこの時代であった。
 これは武家でも同様である。武家の頭として諸国の武家を統べる家。そして各地の国府の武官を継承したり、様々職を継承する家。さらには各所の荘園や公領の管理の職を継承する地頭職をもつ家や守護職をもつ家。またそれらの武家の家臣として、さまざまな職を継承する家。武家の間でもさまざまな職を継承する家が形成されていった。
 同じことは庶民の間でも同様であった。長者として職人集団や商人集団を統括する職を継承する家。田畑を耕す農民の間でも、ある耕地を耕す「職」を継承した家が形成され、さらにはその家から耕地を借りて耕作する「作職」を継承する家など。さまざまな職能集団の間で、それぞれの仕事を家職として継承する家が形成されていたのである。

 「家」は、一組の夫婦を核として、その子どもやさらにその子どもなどの直系の子孫とその家族からなっていた。それだけではなく、中には「家」に従う下人とその家族も含まれる場合が多かったことであろう。そしてこの「家」は周辺に血縁や婚姻で結ばれた親族の家々も存在し、家はこうした親族集団で囲まれていたのであった。

 「家」が成立すれば、その「家」が長く栄えることが「家」に属する構成員にとってもっとも大事なことになる。だからこそ、「家」の繁栄を願う宗教的行事が盛んになるのである。盂蘭盆会という先祖の供養をするとともに子孫の反映を願う行事が盛んになり、富裕な家であれば、家の寺院をもつということになるのであった。戦国大名による菩提寺の建立は、この流れの中にある。

(2)一揆の時代

 しかし個々の家は、家単独で存在できたわけではない。この時代は長い戦乱の時代である。そして統一した権力が存在しない時代でもあった。
 それぞれの家は家職を守り、家の存続と繁栄を図るためには、親族の家々のネットワークを形成して集団的に動くだけではなく、地縁的な繋がりを形成した家々とも集団的に協力しあう必要があった時代であった。

 この「家」を超えた人々の協同をなす集団を「一揆」と呼んだ。中世は一揆の時代でもあったのである。
 一揆というとすぐに一向一揆や国一揆などの百姓の一揆を想像する。これらの一揆は、惣村を形成する中で、幾つかの村が共同で村の人々の生存と繁栄をはかるために協同してつくったものであったことは、すでに農村の自治の項で説明した。この惣村という一揆は、それによって個々の村の家々の家職を守るためのものでもあった。
 しかし一揆を組んでいたのは百姓だけではない。都市民もまた一揆を組んでおり、それは惣町と呼ばれる組織であった事は都市の自治の項で説明した。
 さらに武家も公家も一揆を組んでいたのだ。

 中世の政治は、寄合という一揆でなされるのが通例である。それは王朝国家においてもそうであったし、幕府においてもそうである(惣村でも惣町でも寄合が決定機関であり、これは寺社でも同様である)。一揆とは神の前で一味同心を誓うことで形成された集団であり、こうすることで集団の意思という個人や個々の家を超えた権威を形成し、それによって物事を解決していくしくみであった。神前での一味同心が「法」を形成していたと言い換えても良い。
 王朝国家でも幕府でも様々な寄合が形成され、それで政務が処理されていたのである。

 この寄合という一揆を形成し、その構成員の繋がりをより強める場は宴である。そしてこの宴の場の余興として盛んに取り入れられたのが連歌であり、さらには猿楽・田楽やそこから発展した能や狂言なのであったし、茶の湯や生花も同様であった。一揆の構成員の集団としての共同作業で成立する芸能。この共同作業が構成員の意識を形成し高めたのである。そして村祭りや盆踊りは、これらの集団全体が共同意識をもって、それぞれの祖先の供養と子孫の繁栄を願って行われるものであった。だからこそ村や町にも、惣村は惣町が費用を負担する鎮守の社や寺が造られたのであるし、これらの神々は、村なら農業の町なら商工業の繁栄を祈る神事を行う場であった。したがってこの共同の神事にも共同の余興が伴う。

 当時の盆踊りは「風流踊り」と呼ばれ、人々は派手な衣装をして派手な音楽を背景にして数百人が派手な所作で踊り狂うものであった。現代の阿波踊りをもっと派手にしたものと考えれば良いであろう。そしてこの風流踊りは踊り単独で行われたのではなく、行列の先頭や末尾には「花笠」と呼ばれる大きな飾り傘が立てられ、しばしばそれは頭に様々な人形を乗せたり車に載せられ、祇園祭の山車のような形態をも持っていたのである。またこの風流踊りは盂蘭盆会だけではなく正月の行事や悪霊払の神事や収穫を祝う村祭りにも行われ、それぞれの部落ごとに踊り部隊が形成されて、村の鎮守や惣堂および領主の館に、入れ替わり立ち代り踊り入れるという、集団喧騒の興奮の場であった。

 またこの風流踊りが村や町の鎮守や惣堂で行われるだけではなくて領主(公家の場合もあるし武家の場合もある)の館にも押しかけるということは、この遊びが庶民と領主の共通の遊びになっていたことを示しており、集団で楽しみ遊びが、階層を超えたものであったことをも示している。事実連歌や茶の湯、そして生花や能・狂言の場は、身分を越えた饗宴の場であった。だからこそ、これらの饗宴の場を主催する芸能師が、これらの身分を越えた人々の間をとりもつ政治的役割を果たす事にもなるのである。

 村や町で能や狂言が催されるのも、村祭りや鎮守の社や惣堂の行事においてであった。これも神事のあとの余興なのである。そして惣村や惣町という一揆の場で集団で神につかえ遊ぶことで、一揆集団の一体性を高めるものであった。

 中世、とりわけ室町から戦国期に貴族だけではなく庶民の間に集団的で楽しむ文化が栄えたのは、家の形成と、家々の共同体としての一揆の成立と言う社会的な変化が、背景にあったのである。

(3)芸能の需要と供給

 このような家の形成と一揆の形成とが、全国の町や村において様々な集団的芸能を繁栄させた背景であった。
 つまり個々の家や一揆集団の繁栄を祈る神事に芸能が欠かせなくなったことが、これらの芸能を専業的に行う人々の活動の場をも広げたのであった。これによってこれまでは寺社や貴族に隷属していた芸能民が独立して活動し、それぞれが芸能の座を形成していったのである。
 だから惣村や惣町は、それぞれの一揆の神事に欠かせない芸能を行う座と契約を結び、それぞれの年度の神事の余興をあらかじめ予約していくのである。もちろん契約であるからそれは金銭の授受を伴う。
 さらには惣村や惣町の構成員は、専業的芸能民に依頼するだけではなく、それらの専業的芸能民にそれぞれの芸能を教わり、村や町の構成員自身がその芸能を演じるということが盛んになっていく。つまりそれが、芸能民にとっては、芸能の教授という新たな稼ぎの場を生み出す事となったのである。

 このような地方の庶民による芸能の受容という新たな享受層の出現。これが芸能そのものに影響を与えないわけはない。狂言という言葉あそびの芸能において、武家や公家を風刺する劇が多いのはその結果でもあろう。

 これは庶民の間だけではなく、次第に権力を握りつつあった武家の側でも同様であった。
 武家の支配権はそれぞれの実力に依存していたとは言え、その支配の正統性を与えるのは都の将軍であり朝廷であった。従って彼らは自身の支配権を確立するためにも、都の貴族が保持する文化を受容し、その文化の持つ権威をも身に帯びたいと願うようになったのである。ここに芸能を家職とする貴族たちにとっての新たな稼ぎの場が生まれる。
 応仁の乱を前後する時代から都の貴族や僧が地方に赴き、中にはそこで一生を終えるものまで出た背景には、都の戦乱と貴族・僧たちの生活苦という彼らの主体的な条件があった。都は武家たちの争闘の場となり、武家の勢力の慎重は、公家や寺社の領地を不断に侵食していく。彼らの生活を糧をえる場は、次第に縮小していたのである。そこに地方における新たな権力者達が都の文化を受容し、その権威を帯びたいと願いようになる。都の文化を家職として継承する公家たちとそれを受容したい地方の武家たち。彼らの間に文化の需要と供給の関係が生まれる。
 こうして都の公家や僧たちが次々と地方に下り、都の文化が地方に広がることとなったのである。

(4)交通の発達

 こうして都の文化が地方にも広まったのだが、この背景には交通の発達と言う要因も見逃せない。
 古代の律令国家が全国的な交通網の整備に力を注いだ事はこれまでも知られていた。しかし律令国家の衰退以後は交通網は衰微し、戦国時代から近世にかけてようやくそれが再整備されたと従来は信じられてきた。

@旅の安全を支えた全国交通網の整備

 しかし近年の研究の深化によって、全国的な交通網の整備は、律令国家衰退以後も主体が替っても続けられたことを明らかにしている。
 平安時代中期以後においても諸国の街道沿いには宿とよばれる宿泊の場と馬などの運送手段を提供する問屋の機能を併せ持った町が整備されていた。そして国府と国府などの役所を繋ぐ場においては、宿を中心として伝馬の制度が一貫して維持され、全国的な通信手段が整備されていたのである。またこれは問屋を経由して物資が全国的に流通していたことを意味していた。

 このような制度は、鎌倉に幕府が置かれてからも維持され、幕府・守護は全国的交通網の整備に尽力したし、室町幕府の成立以後も、幕府・守護によって継続されていた。さらには律令国家の衰微以後は、武家だけではなく寺社も独自の交通網を整備し維持していた。特に中世は、全国的に聖地巡礼が盛んになった時代である。聖地として認識されていた寺社は、聖地までの旅を保障するためにその交通路沿いに末社・末寺を置き(著名なのは熊野社の王子である)、交通の要衝には、巡礼者が宿泊する専用の宿まで備えていた。このような寺社専用の宿のことを「たんが」(旦過とか丹川と書く)と呼んでいた。

 だからこそすでに平安末期から鎌倉初期にかけて寺社参詣が盛んになりえたのだし、西行や一遍などの諸国流浪の宗教者も活動しえたのだ。

 この交通網の整備は、室町時代にはすでに、近世江戸時代の宿駅と同様な規模と広さにまで達していたようである。街道沿いの一定の距離ごとに宿が設けられ、それぞれの宿の宿屋では一定の価格で宿泊や食事ができ、一定の価格で馬や輿を調達することも出来たのである。そして旅に必要な路銀も銭金を持たずとも「為替」という方法で金を調達できたことは、手工業・商業の発達の項ですでに述べておいた。
 旅は一定の行路を経て、安全に行えたのである。室町時代において大和の法隆寺からその領地である播磨の国の斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)までは4日の行程、戦国時代において京都から駿河府中(静岡)までは12日の行程、京都から伊勢山田までは4日の行程。芸能民も公家や僧たちも、安心して地方と都とを行き来できたのである。

 また先に、この時代においては各地に有力者の菩提寺や惣村・惣町の惣堂が出来た事を記した。つまり中世という時代は全国的に仏教寺院が造られ、庶民層に至るまで仏教が広がった時代でもあった。この仏教の広がりを支えたのも交通網の発達である。

 地方の寺院の僧侶は都の著名な僧侶が住持として赴くこともあったし、地方の有力者の師弟が都に上って僧侶としての修行を積んで、故郷に戻って住持となることもあった。これらの宗教者の移動を支えたのも、整備された交通網であった。

A仏法興隆を支えた朝鮮活字版大蔵経の招来

 また大規模な寺院ともなると、基本的な仏教経典を保持している事も大事である。いわゆる大蔵経である。しかし中世において大蔵経は日本では作られることはなかった。すべて中国や朝鮮からの輸入である。
 とりわけ日本に印刷版の大蔵経を供給したのは、李氏朝鮮であった。中国の宋の時代に盛んになった木版印刷技術は朝鮮に伝えられ、高麗・李氏朝鮮の時代を通じて発展した。特に李氏朝鮮の時代には優秀な活字印刷術が発展して、多くの古典籍が印刷され、その白眉をなしたのが大蔵経であり、大型の優美な活字で印刷されたそれの需要は高かった。室町時代の日朝貿易における最大の貿易品が朝鮮の木版もしくは活版印刷の大蔵経であったのである。そして各地の貿易港を通じて輸入された大蔵経は、各地の大寺院にもたらされたのである。だからこそ後の秀吉による朝鮮侵略において、多くの印刷本が掠奪されるとともに、朝鮮活字とその印刷機・印刷工が掠奪され、江戸初期の出版文化興隆の背景ともなったのである。

 こうして室町時代における地方での文化発展の背景には、国際貿易をも含む交通網の発展が背後に存在したのである。

補遺:室町時代の宗教

 この「室町時代の文化」の節の「北山文化と東山文化」「今日に伝わる生活文化」のそれぞれの記述を見ていくと、不思議なことが1つある。それは、ここには禅の思想が文化に与えた影響以外には、室町時代の宗教の問題が一言も触れられていないということである。

 中世は宗教の時代、とりわけ仏教の時代である。真言・天台の二宗が平安時代初めて伝えられ、この2つの仏教会派はそれまでの哲学的仏教会派とは異なって、鎮護国家だけではなく、加持祈祷を通じた個人の生活に深くかかわる仏教として徐々に人々に浸透していった。そしてその過程でそれは浄土教を生みだし、天台宗からは浄土宗・浄土真宗・時宗の新仏教が発展し、さらには日蓮宗も形成される。また、これらの新仏教の勃興と時を同じくして国家仏教であった奈良仏教からも庶民の救済を求める新義律宗が生み出された。そしてさらには禅宗が伝えられ、中世は仏教が広く庶民の間にまで広がった時代であった。

 「つくる会」教科書はこのことを記述していない。
 あるいはそれは、このような仏教の広がりは鎌倉時代のことだからそれですでに事足りていると考えたのだろうか。たしかに先に記した新仏教は「鎌倉新仏教」と学問の世界では呼ばれてきたのだから。

 しかしここに間違いの元があったのである。

(1)人々の生活に宗教(仏教など)が深く関わった時代

 鎌倉新仏教と呼ばれてきた仏教の新宗派は、それが生み出されたのは平安時代の末から鎌倉時代の初めであった。そして中国からの新来の仏教である禅宗も、それは同じ時代に招来された。

 だがこれらの新しい仏教が広く人々の間に浸透し、各地にそれぞれの教団の寺院が立てられて、多くの人々の生活に深く関わっていったのは、鎌倉時代の末から室町時代であったのである。そして同じく鎌倉時代の末から室町時代にかけて広く人々に浸透していったのが真言密教であった。

 そもそも奈良時代の仏教は教団組織を持たなかった。それはこれらの仏教が国家が建設した官立の寺院に住んで修行・学問を続ける国家公務員たる「官僧」からなっていたからである。彼ら(彼女も。しかし尼僧は官僧の間では早くに廃れていた)は、国家が経営する寺院に入って修行し、国家の実施する試験に合格して初めて僧侶として認められ(定員制であった)、彼らは国家によって衣服も食事も住居も提供され養われていたからであった。ここには教団という僧侶と信徒からなる団体は必要がなかったのである。

 だが鎌倉新仏教といわれる仏教は、官僧を遁世して、個々の人々の魂の救済を目的としたが故に、僧侶は国家によって養われることはない。それゆえ、僧侶が生きていくためにも修行を続けていくためにも、そして人々を救う活動を続けていくためにも、さらには信徒となった人々の精神の深化を図るためにも、彼ら彼女たち(新仏教は女性も救済の対象としていたため、尼僧がここで復活し、尼寺が再興された)という専業の僧侶を支える教団が生み出されたのである。そして同じ傾向は、国家護持仏教として出発した真言宗においても進行した。

 鎌倉時代末から室町時代にかけて、真言宗・浄土宗・日蓮宗・新義律宗の教団が各地に形成され、各所に寺院が次々と設けられていったのである。そしてそれは室町時代ともなると、それぞれの村や町の鎮守としての寺院としての役割や、各地の武士や貴族たちの氏寺としての役割をもつようになり、仏教は人々の間に広く浸透し、多くの人々の精神生活を支え、日常生活を支える精神的支柱となっていったのである(時宗は遊行の集団であったために、教団は早くから形成されたが、寺院が造られたのは比較的あとの時代であった。また浄土真宗は、鎌倉時代には関東の教団と九州の教団とが限られた地域に展開していたにすぎず、勢力としては微々たるものがあった。浄土真宗が一大宗派として発展したのは、室町時代も戦国時代に近い時期に、親鸞の子孫が代々住持をつとめる本願寺に教主として蓮如が現われた時代であった。蓮如の下の本願寺教団は、室町将軍家や都の貴族との連携を背景として、地方の国人領主や地侍ともつながって急速に教団を拡大し、戦国時代には、真宗の関東と九州の教団を凌いで、戦国大名をも超える力を持った他の宗派をも超える一大教団となったのである。禅宗は、これらとはことなった展開を遂げた。鎌倉・室町幕府に保護され、禅宗は武家政権の精神的支えとなって発展した。そして幕府の庇護の下で幕府御家人衆出身の僧侶と御家人集団およびその周辺の人々で構成される、特異な教団となったのである)。

(2)家の宗教

 これらの仏教教団が人々の生活に浸透したのは、それぞれの宗派の教えへの共感というより、加持祈祷や祖先礼拝・葬送儀礼などを通じた人々の精神生活への介在を通じた宗派の教えの浸透という過程を経てのものであった。これは、この時代(中世全体)が、それぞれの階層を通じて「家」という血縁集団が形成されたことと直接的な繋がりがある。中世の人々は、それぞれの生活の基盤となっている生産活動・商業活動・精神活動(統治面や儀礼・芸能など)を「職」として継承する血縁家族集団=家を核として生活するようになっていった。したがってこの時代の人々にとって、個人の生活の安定や繁栄は、それぞれが基盤としている家の存続と発展に直接繋がっていた。
 だからこそ、家の基盤を形成した祖先を祭る行為や祖先の葬送儀礼が家の存続にとって大事なものとなり、さらには子孫の繁栄を願う行為(子孫の誕生祈願や病気平癒の祈願、そしてそのための加持祈祷など)が大切なものとして認識される。そして彼らの生業の意味を与えてくれる価値観の確立も不可欠となる。

 これらの家の存続と継承を保障する様々な活動や価値観の提供。これを担ったのが仏教だったのである。そしてこの中世における仏教は、祖先崇拝としての神祇信仰と合体し、神々は本地としての仏が人々を救済するために姿を変えて現われたものであるという本地垂迹説が唱えられ、神社と寺院とは一体となっていたから、仏教の拡大はそれ自身として祖先崇拝の神祇信仰の拡大でもあったからである(神社と寺院とが一体と言っても、寺院が優先されていた。寺院に守護神としての神社が付属するという形である)。

 したがって個々の家は、家の宗教としての寺を持ち、そこにおいて家の繁栄を願って様々な宗教活動を行ったのである。つまりここには、近世における檀那寺の形成があったわけである。

 そして中世は、一揆の時代でもあった。
 それぞれの家の繁栄を保障するためにも、血縁的つながりだけではなく地縁的繋がりを形成して共同することが各所で行われた。その地縁的結合体が、惣村であり惣町であった。だから家の集合体としての惣村の安定と繁栄を祈念する場としての惣堂が各所において成立する(祖先崇拝としての神道も仏教と一体になりながらこの時代に確立していく。それゆえ惣村・惣町の鎮守の社も各所に成立する)。そしてその惣堂や惣社が一揆の誓いの場として集団意識形成の場として発展したのである。
 同じことは、武家や公家の家でも進んでいた。血縁や婚姻を通じた広い意味での親族集団がここでも形成され、さらにこの主家に従属して、主家の活動を支える家臣の家が数多く結合していった。つまり武家や公家の家は、多くの家の連合体でもあったのである。この意味で一揆としての家連合である。この家連合にも主家の氏寺や氏の神社がこの結束の中核として重きをなした。

 これも家の宗教としての発展であった。

(3)人間主義=現世肯定の思想

 そして中世において仏教が発展した背景には、これらの宗派がそれぞれの形をとってではあるが、あの世や神仏の世界とは相対的に自立した、人間が生をおくっている場としての現世を肯定し、現世における生活の安定をはかることを宗教活動の主な目的とするようになったこともあげられよう。それは先に述べたように、祖先崇拝としての神祇信仰と仏教が一体となっていたこととも関連がある。

 中世の宗教の世界に大きな影響を与えた思想の1つが、密教であった。
 密教は仏の教えというよりも、仏の教えが古代インドの祖先崇拝信仰であるバラモン教と一体化してできたものである。それゆえ密教自身が人間を超えた宇宙の真理を尊崇し、現世を肯定したうえで、その現世の安定・繁栄を願って様々な祖先崇拝や災難を除くための加持祈祷を行うものであった。したがって家の宗教が確立していく過程で大きな影響を与えたのが密教であり、密教的な考え方は、鎌倉新仏教と呼ばれる諸宗派にも大きな影響を与えていたし、鎌倉時代後期から室町時代にかけて発展した神道の理論にも強い影響を与えていた。

 例えば浄土教系の阿弥陀信仰は、この信仰を持つ人自身の浄土への往生を願うとともに、家の祖先の浄土への往生と子孫の繁栄をも願うものでもあった。つまり来世への期待は、現世の安楽に通じていたのである。したがって浄土系の新宗派でも、祖先崇拝としての神祇信仰は継承されたし、家の祭祀としての葬送も、新仏教が主として行った活動でもあった(親鸞は神祇信仰を拒否した人物として特異な存在では有るが、真宗教団が教団として成立し拡大していく過程で神祇信仰を重視していくものへと変質した。したがって一向一揆として知られた真宗教団の教団の危機への信徒の武装蜂起による帰依という行動も、浄土への往生を現世において保障する仏としての本願寺教主への帰依を通じて、自身の往生と家の未来永劫への繁栄を祈念するという現世肯定的な側面を持ってもいたのである)。時宗の念仏踊りなどは、浄土への往生を願う熱狂の中で、それに参加した人々の現世での様々な憂さを晴らすと言う意味で、憂さからの離脱によって現世を安楽にする働きをもっていた。

 禅宗は先にも述べたが、禅という行法自身が行を行う事によって自己の精神や身体を鍛練することによって仏の境地に到達するという側面を持っていたが故に、仏の世界を相対化し、仏法に帰依する個人自身の精神的肉体的ありかたをより高いレベルのものに昇華するという性格を持っていた。それゆえ禅の思想は、人間主義的であり、現世における個人の生きかたを問うものでもあったのである。この禅宗の性格が、禅宗をして幕府の公式の宗派として幕府政治の政治哲学を提供し、さらには武家の精神生活を支える支柱としたのであった。そしてこの現世肯定・精神の鍛錬の性格が、この時代の政治的主役である武家階級とその武家とも一体化した公家階級の精神生活の基盤となるとともに、彼らが発展させた文化の性格をも規定したのである。

 さらに中世の宗教の人間主義的性格は、仏教と一体となっていた神祇信仰においてより顕著なものとなっていく。
 神祇信仰は本地垂迹説によって従来は仏法によって保護された神祇信仰という体裁をとっていた。しかし鎌倉時代後期から室町時代にかけて発展した伊勢神道やこれに影響されて発展した吉田神道では、仏と神との関係が逆転して、神が本地であり仏が垂迹であるという形に、神が主体となっていった。この神祇信仰における神とは、宇宙の根本とか人間を超えた超越的存在としての神であるよりは人間の祖先神としての性格が濃厚である。それゆえ神が仏に優越したということは、超越的存在としての仏の権威が低下し、人間主義的性格を強めたということを意味している。そして神道における人間主義的性格は、人々の信仰を集めてきた土俗的信仰である熊野信仰における神の性格をも変化させた。
 従来の熊野信仰では神は仏の化身とされ、熊野三山の神はそれぞれ阿弥陀如来・観音菩薩・薬師如来の化身とされていた。それがこの時代においては、阿弥陀如来はインドのマガダ国の大王が生まれ変わったものであり、観音菩薩は死してもなお子どもに乳を与え続けたという母性愛の権化である大王の后の五衰殿の女御の生まれ変わり、そして薬師如来はその母に育てられた王子の生まれ変わりと信じられるように変っていった。すなわち人間が神になるという思想へと変化したのである。

 中世の宗教は極めて人間主義的である。それは人々が現世を楽しみ、現世の安楽が永遠に続くことを祈念するようになったことの反映である。中世は数百年も続いた戦乱の世ではあるが、現世は末法の世でどうにもならないと諦めつつも、人々が家や一揆という集団を形作る中で、戦乱から身を守り家の安泰を図る中で、神よりも人を大事にするように精神構造が変っていったことの反映でもあったのである。そしてこの過程は商品経済の発展を背景にして自らの力で現実を変えられるという自信が芽生えたことの裏返しでもあった。
 中世の文化、とりわけ室町時代の文化を考えるときには、人々が人間主義的に変っていたことを捉えておく必要があるだろうし、その社会的背景を認識しておく必要がある。そうでなければ、近世江戸時代の長く続いた平和の中で、現世を捉える言葉が「憂世」から「浮世」へと変化したことの意味とその背景をも理解できない事となる。
 現世を「浮世」と捉えて、極めて人間主義的な華やかな文化が栄えた近世という時代。西洋のルネッサンスにも比較される人間主義的な時代を生んだ背景には、中世における宗教が徐々に人間主義的に変化していたことが背景にあったのである。

 

:05年8月刊の新版における「今日に伝わる生活文化」の記述(p83)は、旧版の記述とほとんど同じである。

:この項は、勝俣鎮夫著「一揆」(1982年岩波新書刊)、横井清著「室町時代の一皇族の生涯:看聞日記の世界」(1979年そしえて刊:2002年講談社学術文庫再刊)、今谷明著「戦国時代の貴族:言継卿日記が描く京都」(1980年そしえて刊:2002年講談社学術文庫再刊)、前掲・坂田聡、榎原雅治、稲葉継陽著「村の戦争と平和」、村井章介著「中世における東アジア諸地域との交通」、藤本幸夫著「印刷文化の比較史」(1993年東大出版会刊:「アジアの中の日本史Y文化と技術」所収)、前掲、末木文美士著「日本仏教史」、神田千里著「戦国乱世を生きる力」などを参照した。


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