「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判24


24.時代の性格を見誤る:応仁の乱

  「中世の日本」の最後は「応仁の乱と東アジア」という項目である。その最初は「応仁の乱」。乱世の時代の極となった戦国時代の始まりを告げた「応仁の乱」とその影響を述べたところである。

 教科書は、以下のように記述している(p104)

 室町幕府の3代将軍足利義満の死後、しだいに幕府の権力は守護大名に移っていく。中でも大きな勢力をもつ細川氏と山名氏は、幕府の実権を争っていた。
 8代将軍義政のとき、将軍と管領の跡継ぎをめぐり、細川勝元と山名持豊(宗全)が対立し、1467(応仁元)年、応仁の乱が始まった。全国の武士が細川の東軍と、山名の西軍に分かれ、京都をおもな戦場として、11年間も戦いが続いた。その結果、京都は荒れ果て、大半が焼け野原になってしまった。
 応仁の乱をきっかけに、将軍の権威は衰えた。守護大名の権力も家臣にうばわれるようになった。このこと、社会全体に、身分が下の者が実力で上の者に勝つ下克上の風潮がみられるようになる。民衆が団結して守護大名を倒し、自治を行うこともおこり、山城国(京都府)南部では地侍を中心とした自治が8年間続き(山城国一揆)、加賀国(石川県)でも一向宗の信徒が一向一揆をおこして、100年近く自治を行った。
 日本はこののち、武将がたがいに力を争う戦国の乱世に入った。

 しかしこの記述には、5つの間違いや欠落がある。

 その一つは、「幕府権力がしだいに守護大名に移って行き、その対立の結果応仁の乱が起きた」という認識の間違いである。正しくは、室町幕府の歴史は将軍専制と有力守護大名の合議とのせめぎあいであり、応仁の乱も将軍専制を強め守護大名家の弱体化を図ろうとした将軍義政と有力守護大名の争いが背景にあり、その結果次の将軍を巡って、将軍と有力守護大名とが対立したのが乱の直接のきっかけであった。教科書はこのことを見落としている。
 さらに二つ目、「応仁の乱の結果、京都は大半が焼け荒れ果ててしまった」という記述の誤りである。たしかに大半は焼けたわけだが、下京古京を中心とした商人町は焼け残り、応仁の乱の結果として京都は武装した商工業者の自治都市として再生したことが忘れさられている。
 また次に三つ目は、乱の影響と山城国一揆や加賀一向一揆との関係があいまいであり、京都でも戦乱が終わっても地方では守護同士の勢力争いが続き、その争いの結果として国の百姓たちの安全が無視されたことに対する自衛行動として2つの有名な一揆=「百姓の持ちたる国」の成立があったということが忘れ去られている。
 四つ目は、これと関連するが、「下克上」という思想の捉え方が支配者の側から見た一面的なものであり、乱世の中で国の民・百姓の安全を守れない権力者は退陣せよという民の側からの要求を背景としたものであったことが見落とされている。
 最後に五つ目であるが、教科書の記述は将軍の権威をも含めてあらゆる権威が没落したかのようなものであり、天皇を初めとした「聖なる権威」は、この時代も健在であり、応仁の乱の直接の引き金は、天皇による治罰の綸旨が出されたことによることなど、乱世と権威の関係を一面的に捉えてしまっている。

 この結果、「つくる会」教科書の応仁の乱と戦国乱世についての記述は、近年の歴史研究の深化をほとんど反映していない、通俗的で表面的な記述になってしまっているのである。以下に、5つの問題点を少し詳しく見ながら、この教科書の間違いと欠落点について述べていこう。

(1)応仁の乱の原因

 応仁の乱の原因は、将軍家と管領家の跡継ぎをめぐる守護大名同士の争いであったかのように従来は認識されてきたが、そうではない。その根本的原因は将軍専制と守護大名とのせめぎあいにあったのであり、室町幕府とはそもそもそういうものであったことが見落とされている。

@将軍専制と守護大名とのせめぎあい

 室町幕府の歴史は、将軍専制と守護大名の合議体制とのせめぎあいの歴史である。12・13世紀を通じて武家の間にも「家」が確立し、「家」はその構成員とそれに臣従するする人々の安全を確保するための運命共同体となっていった。そして武家の「家」の運営はその当主だけではなく、一族および主だった家臣の合議によって行われるようになっており、「主人」と「家臣団」のせめぎあいが各所で起きていた。この社会的な流れが室町幕府成立の当初から反映されていたのである。

(a)南北朝の戦乱を招いた幕府内の対立

 1338年に足利尊氏が幕府を創設し後醍醐天皇の親政を推進する一派を吉野に追ったあとも幕府の支配が安定せず、60年にもおよぶ南北朝の戦乱が続いたのは、当主の尊氏の権威を背景として将軍専制を確立しようとした足利家の執事・高師直と、一族と有力家臣団の意思を背景として合議による幕府運営を確立しようとした足利直義との対立が原因であった。そしてこの争いが頂点に達して幕府が尊氏派と直義派に分裂して相互が南朝・北朝を担ぎあって相争った観応の擾乱(1350〜52年)は、潰れかけていた南朝を復活させ、南北朝の戦乱を拡大させてしまったのである。

(b)3代将軍義満の専制

 この将軍専制と守護大名の合議とのせめぎあいは、南北朝の戦乱をおさめた3代将軍義満の代にも起きたことである。義満は将軍の権力と幕府奉公衆の武力とを背景として有力守護大名家の家督相続に介入し、しばしば宗家と対立した庶子を家督につけ、家督相続を巡って守護家内に争いが起こると幕府奉公衆の武力を背景にこれに介入。守護領国の没収や分割などの処置をとって有力守護大名の力を削減しようとした。このため幕府内には将軍専制に対する反対勢力が生まれ、これと足利家家督を狙う鎌倉公方や有力守護が結びついて幕府への反乱となった。その最大の事件が1399(応永6)年に起きた有力守護大名大内義弘の乱(応永の乱)であった。これを制圧した義満の政治は以後さらに専制度を増し、息子を天皇の養子として皇位を継がせ自らは太上天皇となって公家・武家を超越した存在となって幕府の上に君臨しようとした。この計画は彼の突然の死によって頓挫したのだが、この事件の背景にも幕府内における将軍専制と守護大名とのせめぎあいがあったのである。

(c)6代将軍義教の専制

 5代将軍の死去によって跡継ぎを失った4代将軍義持は、後事を幕府の宿老会議(有力守護大名の合議体)に託した。しかし内部争いによって後継将軍を決められなかった宿老会議は、3代義満の子息たちのくじ引きで後継を決めた。石清水八幡宮の神前で行われたくじ引きによって6代将軍は決まったのであった。
 しかしこの6代義教も次第に専制化し、彼もまた将軍権力を背景として守護家の家督相続に介入し従わない守護大名に対しては討伐軍を発向させ打ち殺していった。彼の専制下で守護大名は分裂しやがて疑心暗鬼となった播磨(兵庫県)守護赤松満祐によって将軍義教は1441年、赤松亭にて謀殺された。この後赤松氏討伐と後継将軍の選任を巡って有力守護の対立が深まり、赤松討伐の為に幕府軍主力が播磨に下向している隙を狙って一部の守護が京都近郊のあぶれ者の土民を家来に組織させて京都を襲わせ、酒屋・土倉を襲撃し幕府に代替わりの徳政を要求させるという事件(嘉吉の土一揆)まで起きた。

(d)8代将軍義政専制の解体

 宿老会議によって擁立された7代義勝が早世したことで将軍となった義政もまた、次第に専制度を強めていった。関東の古河公方足利成氏を討伐するとともに守護大名家の家督相続に干渉したり、守護の家臣たちに対する将軍の直接指揮命令を浸透させるなどの専制化を進めていた。この動きを支えたのが幕府執事伊勢貞親などの将軍近臣であった。1466(文正元)年、義政と将軍近臣たちが管領斯波氏の家督を有力守護山名宗全の娘を妻としていた斯波義廉から一族の斯波義敏に交代させようとし、あわせて9代将軍に目されていた義政の弟・足利義視の暗殺をはかろうとした。これに対して有力守護の細川氏と山名氏などが連合して対抗し、将軍近臣を追放して将軍権力の独裁化を阻止した(文正の変)。これが応仁の乱の原因となる守護大名同士の争いを幕府政治の表面に浮上させた。

A守護同士の争いとしての乱の勃発

 翌1467年管領細川氏の跡継ぎ問題と同じく管領畠山氏の跡継ぎ問題を巡って有力守護・細川勝元と山名宗全の対立が激化し、山名宗全に支えられるようになった将軍義政は細川派の管領畠山政長を罷免して山名派の斯波義廉を管領に任命し、畠山氏の家督を争っていた畠山義就に畠山氏の家督を移し、さらには、畠山義就や山名宗全の軍勢によって将軍邸室町第を占拠。追われた畠山政長は室町第の北にある上御霊社に陣を敷いてにらみ合い戦闘になった。これが応仁の乱の始まりであった。そして緒戦は天皇の治罰の綸旨を得た山名派が圧倒して畠山政長を追いやったが、その後細川方は将軍邸室町第を奪還して陣を敷き、そこに院・天皇も移転させて東軍は院・天皇・将軍を擁する「官軍」の体裁を取った。これに対抗した山名派は室町第の西側堀河を隔てた地に陣を敷き、将軍の弟義視を将軍に戴き、最後には南朝天皇の遺児を戴いて、ここに東西両軍が天皇・将軍をともに戴くという激しい争いが勃発したのであった。

 したがって応仁の乱は、8代将軍義政の将軍専制が守護大名の反転攻勢で頓挫し将軍権力が無力化されたことによって、それまで将軍専制に共同して戦ってきた守護大名内部の争いが政治の表面に飛び出し、将軍もそれを押さえられないことで起きたのである。そしてこの戦乱によって将軍権力の及ぶ範囲は事実上京都だけになってしまい、しかもその将軍は有力守護大名の争いによって次々と首が挿げ替えられる存在にまでなったのである。将軍の権力が守護大名に移っていったのは、応仁の乱を通じてなのであった。

(2)町衆の自治の町に生まれ変わった京都

 京都は10年にもおよぶ京都の町を戦場とした戦乱によって手痛い打撃を受けた。しかししばしば資料として引用される「応仁記」の「都は荒れ果て狐の住みかとなってしまった」という記述には誇張がある。

 そもそも中世の京都は平安時代初頭につくられた平安京とは別物である。平安京はその都市計画にも関わらず、右京の大部分は湿地帯であったために市街地は形成されず、右京の北部地域と左京とでなる都市であった。そして律令国家の衰退とともに、京都は次第に商工業の町に変化し、庶民の信仰を集めた北野天満宮や祇園八坂神社や六角堂・釈迦堂・阿弥陀堂・革堂などの寺社の回りに商工業者が集住して新しい市街地が形成され、それと左京北部に集まっていた貴族の邸宅と内裏や幕府の役所などが結合する中世都市となっていった。

 応仁の乱の主な戦場となったのは、京の北の部分、上京と呼ばれた地域であり、将軍邸室町第を中心として東軍が陣を構えた所に総構えと称する土塁や堀が作られ、その内部に将軍・院・天皇・主だった貴族や町人が仮住居を構え、これに対して室町第の西側に堀河を挟んだ所に西軍が陣を構えて同じく総構えを構築し、この2つの陣地を根拠地にして東西両軍が戦争を繰り広げたのであった。
 そして戦争は、この地域で主に行われ、戦争のさなかに公家の屋敷や寺社が放火され、室町第や御所をのぞいて上京の大部分が焼け野原になってしまった。このように戦争によって建物が放火された理由は、この時代の戦争の主力は「足軽」と呼ばれる歩兵集団で、彼らは都周辺の村や町で生活が出来なくなってあぶれた者たちでなっていたためである。彼らにとって戦争とは、その中で生活の糧となる財貨や奴隷を手に入れるものであった。また戦争は相手方に甚大な損害を与えて相手方の戦力を削ぐ事を目的としていたため、東西両軍はそれぞれに属する公家や寺社・武家の館やそれに付随する町屋に放火し財物を奪い取る事を戦術として採用していたために戦場での乱暴狼藉が横行し、さらにこれらの行為を足軽に対する戦費給付に当てていたため、これらの足軽による略奪・放火・人さらいの乱暴狼藉は戦争の常態と化していたのであった。

 もちろん周辺の寺社への放火も行われたし、商工業者の町である下京にも戦火は及んだ。しかし下京ではこの地域の酒屋・土倉や富裕な商工業者を中心として都市民が武装して町を守り、町を戦火から守るために、都市民によって町を囲む総構えが構築された。したがって応仁の乱の京都における戦闘が終結した時、焼け野原となった京都の中で、上京の西陣にあった西軍の総構えと室町第を中心とした東軍の総構え、そしてこの南に一条通りの堀をはさんで下京の総構えが残ったのである(「つくる会」教科書は、「応仁の乱の被災地」という図を掲載し、そこには下京の一部が被災したと記述し、さらに「下京の被災は上京同様広範囲におよんだと思われる」と注記した。これはどのような根拠に基づくものであろうか。下京が焼失したのはのちの1536(天文5)年の天文法華の乱において守護六角氏と叡山衆徒によって京都町衆の拠点である法華宗寺院が襲撃を受けてのことであった。)

 しかし応仁の乱の戦闘が収まったからと言って京都が平和になったわけではなかった。応仁の乱の兵として動員されたあぶれ者はそのまま多数放置されたままなのであるから、これらの者が「徳政」と称して一揆を結び、京都の酒屋・土倉を襲う事は、乱が収まったあとも続いたのである。それに乱が収まっても守護同士の争いがなくなったわけではなく、幕府内部の主導権争いが続いていたがゆえに、幕府主導権を握ろうと守護が土一揆を組織して京都を襲わせることはしばしばあったのである。そして京都をとりまく山城国における守護の戦闘は終わったわけではなかった。
 こうして京都が戦に巻き込まれる怖れは継続し、このことが原因となって、乱の中で形成された町の自治はさらに強化され、町自体が武装し身構える状態は乱後も継続したに違いない。これが乱後20数年を経て京都は町衆の自治都市としてよみがえる背景であろう。

 戦乱の中で戦火によって鉾などを焼かれて絶えていた祇園社の祭りは、町衆によって鉾が寄進されて1500年には再興された。したがってこの頃には京都の復興は成っていたと思われる。

 上京・下京にはそれぞれ各地域の自治組織である町が連合して惣町が作られ、その上京と下京の惣町が連合して京都全体の町衆による自治が行われるようになった。そして戦乱の中でこれら町衆が深く信仰していた日蓮宗(法華宗)の寺院が数多く作られ、町衆の自治はこれらの法華寺院の信徒集団を中心として行われていたのである。またこの惣町は、町の住民による自前の軍事力を持っていた。町民の若衆を中心として町民は武装し、一旦ことあれば一揆を結んで立ち上がったのである。

 ただし忘れてはならないことは、この自治都市京都を治める権限を有していたのは依然として室町幕府であり、将軍が町衆の自治を統括する位置にいたことである。それは祇園社の祭礼を行う日取りや法華一揆の発動の可否が室町将軍の裁可に委ねられていたことにもあらわれている。京都の町衆の自治もまた、将軍の聖なる権威を後ろ盾にしていたのである。
 ともかく京都はこうして自治の町としてよみがえり、これを基礎として将軍・天皇の所在する首都としての位置をあいかわらず保持していたのである。

(3)応仁の乱と国一揆の関係

 応仁の乱は京都で戦争が行われただけではなかった。東西両軍に守護大名が分かれて戦ったために、その領国でも戦争が行われたのである。それは、室町幕府の守護抑制政策のために、畿内各国には一人の守護ではなく複数の守護が置かれ(半国守護という)たために、守護権の独占のためにこれらが東西両軍に分かれて戦い、守護は京都に在陣しているため領国では守護被官の武士たちが代って戦争を繰り広げたのである。

 したがって京都での戦乱が政治的妥協によって終結しても、守護領国における領地争いはやまなかったのである。

@守護軍の横暴を排除する山城国一揆

 1485(文明17)年に山城の国南部の国人と百姓が一揆を結んで、対立する守護の軍隊を国外に追い出して、以後山城国南部を国人と百姓の一揆が管理する体制を敷いた。この山城国一揆は、このような守護同士の争いにおいて繰り返された乱暴狼藉を排除し、国の百姓たちの安全を確保するための行動だったのである。

 畠山氏が守護権をもつ山城国では、守護家督を争う畠山義就と畠山政長の双方の軍勢が山城南部に陣取って対立抗争を続けた。その中で双方に属する守護被官の武士たちが寝返りをくり返し、そのたびに戦闘が激しく行われ、戦場となった南山城の村村や寺院に対して放火・狼藉・乱捕り(住民を生け捕って奴隷として売る)が繰り返され、ほとんどの所が荒らされるに至った。
 1485(文明17)年7月に、畠山義就が南山城の水主城に入れた斎藤氏が畠山政長方に寝返って、南山城支配権が政長方に移ろうとした。これに対抗した義就方は、10月に配下の河内や大和の守護被官を動員し、両軍はそのまま2ヶ月間もにらみ合いを続けた。
 12月11日。南山城の国人(村村に住む武士たち)が全員で集会を開き、これに南山城の百姓たちも加わって、両軍に南山城からの退去勧告を行い、勧告に従わない時には一揆の軍勢をもって攻撃することが決められた。この時一揆は、守護軍勢の南山城からの退去を要求するとともに、「寺社本所領を元の持ち主に返還すること」「大和など他国の国人を荘園の代官に用いないこと」「荘園住民の年貢の滞納をさせないこと」「新たに設けられた関所を廃止すること」などを決定した。
 両畠山軍はこの要求を受け入れて南山城から退去し、以後山城の国は国人と百姓の一揆によって1493(明応2)年まで8年間統治されたのである。

 寺社本所領とは有力な寺社や貴族の荘園であるが、この時代にはこれらの荘園を保全する権限は室町将軍にあり、守護は本来、将軍の命をうけてこれらの荘園を保全するのが職務であった。しかし守護権限の争奪戦の中でこの職務は放棄され、しばしば寺社本所の荘園は守護によって横領されていたのである。そしてその過程で各所に新たな関所が設けられ、通交する商工業者や百姓から関料を奪いとっていたのである。
 つまり南山城の国の国人と百姓の一揆の要求は、守護本来の任務を果たし寺社本所領を守り南山城の平安を守るという職務を守護勢が果たせないのなら国から退去し、守護の権限を一揆が代行するという性格を持っていたのである。国一揆が、惣村が持っている自治の力と武力を背景とした村の平和の実現という目的を、より大きな勢力に対抗して実現するために一国・郡単位で惣が結合し、それに国人の一揆も加わって出来たものであると言う性格を、この山城国一揆はよく示しているのである。

 そしてこの「百姓の持ちたる国」は1493年まで8年間続いた。その間幕府は山城守護に将軍近臣の伊勢貞陸を任命したが、彼はすぐさま山城国に入って統治することはできなかった。やがて山城の国人内部に山城国全体を将軍御料所として献上することで山城の平安を守ろうという動きが出て国人多数派がこの線でまとまり、1493年、伊勢貞陸は初めて守護として山城に入った。この過程で賛成派と反対派の国人の間に合戦が行われて反対派が一掃されたのであるが、守護入国の後も、山城の国の国人一揆や惣村の郡一揆は健在であり、守護の統治を監視したのであった。

A守護を攻め滅ぼした加賀一向一揆

 同じことは、1488(長享2)年に守護一族の富樫泰高を擁立して守護の富樫政親を城もろとも攻め滅ぼした加賀国一向一揆についても言える。

 応仁の乱以来加賀の国では、西軍についた守護富樫幸千代は東軍についた一族の富樫政親と抗争をくり返し、幸千代派を支持した真宗高田派の一揆は真宗本願寺派の門徒の村や町を襲い、殺害・放火を繰り返し、本願寺派を邪教として守護富樫幸千代に訴えたので、本願寺派の門徒は守護と対立するに至った。そして劣勢だった東軍富樫政親派は越前に追い落とされたのだが、このことによって越前・加賀国境地帯の郡に基盤を置いており東軍を支持していた本願寺派は富樫政親と同盟を組むことと成った。1474(文明6)年7月、富樫幸千代・高田派と富樫政親・本願寺派とは衝突し、加賀の国を二分する内戦となった。この戦いは政親派に加賀の大寺院白山権現の衆徒が味方したこともあって政親派が勝利し、富樫政親は加賀守護に返り咲き、これを支えた本願寺宗徒の一揆もまた幕府から加賀を支配するものとして承認される事となった。

 本願寺の信徒の一揆は、加賀の4つの郡ごとに組織された郡一揆の形をとっていた。つまり郡ごとの国人武士の一揆と惣村の一揆との連合であり、一揆に加わった国人と百姓とが真宗本願寺派の信徒であり、加賀の国の本願寺末寺や道場を中心として組織されていたという点の違いはあれ、山城国一揆などの郡一揆・国一揆と同じものだったのである。

 そして守護富樫政親は1487(長享2)年に9代将軍足利義尚が寺社本所領の回復を名目として近江(滋賀県)南部の半国守護である六角氏討伐の軍を起こしたときこれに参戦し、その軍費を加賀国内に課したことから、国内の諸勢力と対立した。本願寺門徒をはじめとした加賀の諸勢力は守護一族の富樫泰高を擁立して、高尾城(金沢市)に篭城した守護富樫政親を城ごと攻め滅ぼし、富樫泰高を加賀守護に擁立し、幕府もこれを認めたのであった。また当初は守護として擁立された富樫泰高の勢力は次第に低下し、1531(享禄4)年に起きた本願寺門徒の大一揆派と小一揆派の内部抗争では、小一揆派の一員として国外に追放されたのである。こうして加賀の国は、本願寺門徒の国一揆によって統治される「百姓の持ちたる国」となり、1580(天正8)年に織田信長の武将・柴田勝家が加賀を制圧するまで続いたのである。

 加賀一向一揆が加賀の国を制圧・統治するようになったのも、応仁の乱の中での守護勢力の内部抗争が原因であり、その下の戦乱での乱暴・狼藉を阻止し、国の平和を確保する行動だったと言えよう。1518(永正15)年、本願寺は加賀の一揆の面々に3箇条の掟を発した。その第1は「武力を行使した私闘の禁止」であり、第2は「ひいきのない公正な裁判の実施」、第3は「領主に対する年貢・公事を滞納しないこと」であった。当時の加賀の国には有力公家や寺社の荘園や将軍御料地や直臣の所領がたくさん存在した。本願寺は、これらの領主の支配権を保障し年貢・公事を滞納しないようにするとともに、加賀国内での私の闘争を禁止して国の平和を確保し、さらに一揆が公正な裁判を行う事を要求したのである。つまり加賀一向一揆の支配も、本来あるべき守護の職務を代行し、国の平和を獲得する手段だったのである。

 応仁の乱を通じて守護同士の抗争が激化することによって、国々の平和が乱されたことに対して「守護失格」の烙印を押して守護に代って国を統治する、これが山城・加賀の国一揆だったのである。

(4)「国の平和」を維持するための「下克上」

 このように応仁の乱の後に、国人武士や百姓が団結して守護を追い出したり攻め滅ぼしたのは、彼ら守護の抗争によって「国の平和」が守られなかったゆえであった。このような下の者が実力で上の者に代ることを当時の支配者たちは「下克上」と呼んだわけであったが、「下克上」が容認されたのは、それによって「国の平和」が獲得されたからであった。

 「下克上」の思想は、14・15世紀を通じて形成されたものであり、将軍家や守護家などの有力武家の家において、主人を選定する権利が、一族と家臣団の合議に委ねられていったことと一体のものであった。そしてこれは同時に、村村や都市において、村人や町民の家の代表が集まって合議して村や町を運営することとも一体のものである。
 なぜならこの時代は乱世である。それぞれの武家の家の安泰やそれぞれの村や都市の安泰は、その指導者の力量に左右される。指導者が戦乱に際して身の処しかたを誤れば家や村・都市の安全は脅かされ、それぞれの家・村・都市に所属する人々の生活も命も脅かされることになる。したがって家・村・都市の指導者の一存にその安全を任せるわけにはいかなかったのである。
 だからこの時代、武家の家においては誰が家督を相続するかや、家督が決定した方針を容認するか否かについて、その家に属する一族や家臣がその決定権を握っていったのである。武家にとってはその家の繁栄は、守護家ならば守護としての職務を全うして国の安全を守る事と直結する。したがって守護としての職務をまっとうできない当主であれば、それは当主として相応しくないということになり、一族や家臣団によって当主の交代や追放が図られ、それは「家の安全」「国の安全」の確保という大義名分によって正当化された。
 同じことは守護の家臣である守護代やその家臣の小守護代、さらにはその家臣の奉行の地位を保持する武家の家でも同様であった(武家の頭領である将軍家でも同じであろう)。だからこの時代、武家の家の家督を巡って一族・家臣の抗争が頻発し、実力を持った一族の者が一族・家臣の支持によって主家の家督をつぐ事態を生みだし、さらには実力をもった家臣が一族や家臣団の支持を受けて主家の一族を頭に戴いて主家の主導権を握るという「下克上」の行動が相次いだのである。
 また村や都市の自治集団が主だった者の合議をもとに武装して武家勢力と抗争したのも、これも村や都市の安全を守るためだったのであり、1つの村や都市単独の力でこれが維持されないのならば、郡や国単位の惣村の連合一揆や、町の連合体である惣町の一揆の力で、実力で領主を追い出す行動が組織され、それが容認されたのであった。

 この「安全」「平和」を確保するために実力行動をし、場合によっては「下克上」もするということを見落としては、この時代の乱世の性格をつかむことはできないし、後に戦国大名や、織田・豊臣・徳川政権によって「下克上」が禁止されそれを人々が容認するにいたる理由も理解できないのである。そして「国の安全」を守る責務が履行されないのならば、下の者が実力で上の者を排除、もしくは交代させて「国の安全」を守るという思想が戦国の世の人々に合意されていたということは、フランス革命において定式化された「人民の革命権」に比すべき思想が日本でも生まれていたということを意味し、注目に値する。

(5)不死鳥のように再生する天皇・将軍の権威

 では、乱世において天皇や将軍の権威はどうなっていたのか。

@「日本国の統治者」としての将軍の権威

 「つくる会」教科書は、「応仁の乱をきっかけに、将軍の権威は衰えた」と記述した。しかしこれは間違いである。衰えたのは将軍の権力である。
 室町将軍の支配権は、鎌倉府・関東公方が統治する奥州・関東と九州探題が統治する九州を除いた地方であったが、応仁の乱を通じて将軍の命を奉じて動く地域は、畿内の山城国一国に限定された。その山城も当初は幕府執事の伊勢氏を守護に任じたが、応仁の乱を通じて勢力を増した管領細川氏の勢力が山城国に浸透し、やがて山城・河内・和泉・阿波は全て細川氏の領国となっていった。したがって最終的に将軍の権力が及んだのは、京都だけになっていったのである。

 しかし将軍の権威は健在であった。将軍の地位は有力守護に左右され、しばしば守護の対立の中で廃立され、果ては将軍が家臣に殺されるところまで行ってしまった。しかし室町将軍は足利家から選ばれ続けた。これは「日本国の統治者」としての将軍の権威は、それが天皇家に繋がる王族としての源氏将軍家の血筋に由来していたがゆえである。そして「日本国の統治者」としての室町将軍の権威は、その権力が低下の一途を辿っても健在であった。
 諸国の村村や都市が将軍御料所や直属の家臣奉公衆の領地の権威を背景にして、守護などの武家権力の介入を阻止してきたことはすでに述べた。また、室町将軍の権威を背景として寺社本所領が同じく守護などの武家権力の介入を阻止してきたことも指摘した。
 将軍の権威はこれだけではない、やがて戦国乱世ともなると、将軍は相争う戦国大名に対してしばしば停戦命令を出しており、これが出されると大名も従った。ここにも「日本国の統治者」としての将軍の権威が生きているのである。だからこそ戦国乱世を終わらせようとした織田信長も足利将軍家血筋の足利義昭を奉じて上洛し彼を15代将軍につけ、彼の権威を背景として彼に敵対する戦国大名に対していったのである。

A「日本国主」としての天皇の権威

 これに対して天皇はどうであったのだろうか。「つくる会」教科書は「室町幕府」の項で「朝廷の権限は室町幕府によってほとんど吸収されたが、将軍が天皇から任命されると言う原則は変らなかった」(p97)と記述して以後、天皇についてはまったく記述していない。しかしこの記述は、「日本国の統治者」としての源氏将軍を任命する「日本国主」としての天皇の権威は依然として健在であったことを示しているのである。

 では室町時代、そして続く戦国時代において天皇の権威はどのように発揮されていたのであろうか(戦国時代については次の「戦国時代の社会」で詳述する)。

 これは1つには、室町将軍御料所や彼が管轄する「寺社本所領」の神聖不可侵さということに天皇の権威が反映しており、同じことが、天皇御料所や天皇に様々な物資を献上する場所・地域が守護などの武家不介入の背景となっていたことにも現われており、これが多くの港町の自治の背景となっていたことはすでに述べた。

 もう1つは、武家の合戦に対する天皇の命令の効力である。

 南北朝の争乱を通じて天皇の権威の大きさに直面した室町将軍は将軍に敵対する勢力の錦の御旗となる危険性を案じて南朝天皇の子孫を根絶やしにしようとし、その動きの極点に3代将軍義満による皇位簒奪計画があった。
 しかし北朝天皇のもつ権限の多くを幕府に接収し、天皇の実権をほとんど奪いとって政治的に天皇を封じこめてしまった足利将軍家は自身の手で、天皇の政治への介入の道を開いてしまったのである。

 天皇は朝敵の討伐を命じることが出来、天皇の書記官である弁官の公家が綸旨または院宣という形でこれを諸国に命じた。これを「治罰の綸旨(院宣)」と呼ぶ。これが出されるや朝敵となった者を討つことは国家公認の行いとなり、「反逆者」に味方したものも雲散霧消したり逆に反逆して「反乱」は鎮圧されるのが常であった(唯一の例外は1221年の承久の乱における北条義時討伐の綸旨である。これは「綸旨」を執行する強力な権力が「討伐される幕府」以外に存在しなかったからである。また南北朝の争乱の時の南北両朝が出した「治罰の綸旨」の有効性が減じたのは朝廷が2つに割れ、同じく「綸旨」を執行する強力な権力がなかったゆえである)。
 しかしこの綸旨は1378(永和4)年に和泉・紀伊での南朝方の蜂起に対して出されたものを最後に出されなくなった。これは1379(康歴元)年に親政を始めた3代将軍足利義満の意向であった。彼の治世下でも多くの戦乱が起こり、とくに有力守護大内氏が反逆した1399(応永6)年の応永の乱でも綸旨を求めず、独力で鎮圧したのであった。これは「治罰の綸旨」を出させないことで、天皇が持つ軍事指揮権をも将軍が接収し、政治の武家による一元化を狙ったものである。

 しかしこの「治罰の綸旨」は室町将軍家自身の手で復活されてしまった。

 1438(永享10)年8月、6代将軍義教は密かに後花園天皇に交渉し、「治罰の綸旨」を出してもらい、「錦の御旗」を下賜してもらった。理由は、大和の有力国人越智氏と箸尾氏が幕府に叛き、そこに首領として将軍の弟の大覚寺門跡義昭が合流し、さらには錦の御旗として南朝天皇の皇子が推戴され、大和の多武峰の衆徒がそれに加わると言う深刻な反乱が起きていたからである。そして同時期に関東では関東公方の足利持氏が同じく幕府に叛いて兵をあげ、幕府は東西の兵乱の鎮圧に窮していたからである。この時の「治罰の綸旨」発給はしばらく秘密にされ錦の御旗も使われなかったが、反乱の鎮圧に手間取る中で公表され、反乱は翌年2月、関東管領上杉憲実が鎌倉を制圧して持氏を自殺させ、3月には幕府が大和の越智氏を倒して終息するに至った。
 この事件以後幕府は、幕府の主導権をめぐる争いの中でしばしば「治罰の綸旨」を朝廷に要請し、その時々に幕府の主導権をもつ者が対立者を「治罰の綸旨」を用いて朝敵として討つという構造ができあがってしまった。そしてその極点が、管領家家督をめぐる争いの中で出された1460(長禄4)年の畠山義就追討の綸旨、1467(応仁元)年の畠山政長追討の綸旨であり、激化した守護大名の抗争と将軍独裁を守護大名の連合勢力が粉砕した動きとが結合して、1467年から10年間続く応仁の乱の口火を切ってしまったのである。

 そして乱の勃発を招いてしまったことへの反省から綸旨(院宣)の発給を渋る後花園上皇に強要してまで「治罰の綸旨(院宣)」は出し続けられ、応仁の乱の戦乱は拡大していった。また乱の終結後も、幕府内の抗争に「綸旨」が利用される構造は続き、戦国時代初頭の1501(文亀元)年、追放されていた10代将軍足利義材を匿った罪で大内義興追討の綸旨が出されたのを最後に「治罰の綸旨」は出されなくなった。これは6年後の1507年に大内義興が大軍を率いて京都を占領し、11代将軍足利義澄を追放して足利義材を将軍に戻し、「治罰の綸旨」を出した朝廷の責任を追及される危険が生じたからであろう。
 「治罰の綸旨」は軍勢指揮権が最終的に天皇に帰属することを示すものではあるが、それを執行する強力な権力が存在しない場合には、朝廷をも追求する諸刃の刃となって帰ってくるものでもある。このことの危険性が認識されたからこそ、諸勢力が割拠する戦国の世において朝廷はこの綸旨を使わなくなり、また対立する武家勢力もその発行を要請しなくなったのであろう。

 ともあれ、天皇の権威は乱世においても、いや乱世だからこそ健在であったのである。

 しかしこれは天皇や将軍の権威が「日本国を統治する聖なる家系」に属すると言う血の論理だけに基づいているのではないことを忘れては成らない。
 「日本国主」としての天皇の権威は、古代における長い戦乱を収めて統一国家を作ったという事実に基づき、その下で作られた国家法としての律令において国家=天皇とされ、人間の住む国土も人間以外の者(神・霊・獣)が住む国土のすべては天皇のものであり、ここに住むものは全て天皇の人民と定められ、この法の下で長い間国土が統治されてきたという事実に基づいたものであった。そして「日本国を統治するもの」としての将軍の権威も、鎌倉幕府の成立以後、武家の権力が次第に天皇・朝廷の持つ支配権限を吸収しながら日本国の統治者として君臨していったという事実に基づいている。そして武家が支配権を拡大していく過程で、将軍の権威は朝廷の権威に対抗する盾であった。だからこそ武家は将軍の権威を承認してきたのだし、その将軍の権力が衰え、「国の安全」や自己の利益の保全が図られないとなれば、将軍の権威に代ってそれの上位にある権威である天皇の権威が持ち出されたのである。
 ある意味で天皇の権威と将軍の権威とは相互依存関係にある。そしてどちらもそれを必要とし、その命令を実行する力を持ったものがその権威を帯びて行動してこそ、権威としての意味があることは、「治罰の綸旨」の実際的効力の問題や、村や都市の自力の自治権を背景としてこれらの場所を守る権威として天皇や将軍が利用されてきたという事実、そして天皇の地位が主な公家の合意に依拠し将軍の地位も主な守護大名の合意に依拠していた事実が物語っている。
 権威はそれを必要とする人々がいて初めて有効であり、その権威を実行する力を持った人々がいてこそ有効なのである。ここには日本国憲法において天皇の地位が「日本国民の総意に基づく」と規定されたのと同じ質の問題が横たわっている。「つくる会」教科書は、その記述の諸所において「天皇の権威の不可侵性」を賞賛するが、この権威が成り立っている構造そのものを見ようとはしていない。この傾向の現われとして、「応仁の乱」・戦国乱世の記述において実力だけが注目されて権威の問題が見落とされていることがあるのだと思われる。

(6)戦国の世の始まり

 最後に戦国時代がいつから始まったのかということを学会がどう捉えているかを記して、この項を終えることとしたい。

 応仁の乱は、幕府を支えていた有力守護の合議体を解体してしまった。それは、乱の中で各守護家内部における家督争いが激化し、守護も京都で幕府を支えるのではなく、領国に住み直接家臣団を組織しなければ存続しえなくなったからである。こうして幕府を支えるのは、畿内近国をその領国としてきた細川氏だけになり、その細川氏の内紛が直接幕府の存在を規定するようになったのである。

 1493(明応2)年4月、管領細川政元は河内に出陣中の10代将軍足利義材を廃し、堀越公方(関東公方に対抗して将軍義政が自身の末弟を送りこんだが、伊豆堀越に入ることしかできなかった。従来の関東公方は鎌倉を捨て、古河に居を移していた)足利政知の子を11代将軍に擁立し(足利義澄)、将軍足利義材は支持者を求めて流浪し、果ては周防の大内氏を頼って勢力の挽回を期した。これは政元が養子にした九条政基の子澄之と義澄とが従兄弟であり、同時に堀越公方のもう一人の子であり義澄の兄弟であった潤童子を堀越公方に擁立し、幕府体制全体を細川政元が牛耳ろうとした計画の一端であった(潤童子は異母兄足利茶々丸によって殺害され、彼の堀越公方擁立は失敗した)。
 そして同じ年、駿河・遠江の守護である今川氏親の叔父で後見人であった伊勢長氏(後の北条早雲)は伊豆の堀越御所を急襲、公方足利茶々丸は逃亡(5年後、堀越公方は自害)。ここに関東を統治するべく派遣された堀越公方は滅亡した(北関東の古河に依拠する古河公方足利成氏がいたが、これもすでに関東を統治する実権は失っていた)。

 こうして1493年、奥羽・関東を統治すべき鎌倉府・鎌倉公方は滅び、九州を除く地方を統治すべきとされた室町将軍家も事実上の細川氏の傀儡と化す事で、室町幕府体制は解体した。室町将軍家・古河公方家は存続はしていたが、もやは統治の実権はなく、室町将軍家は以後細川政元の跡目相続を巡る紛争の中で10代義材系と11代義澄系とが対立し、それぞれを擁立する細川氏分家・家臣団とこれと結合する守護大名によって将軍の地位を巡る争闘が続き、将軍の廃立や殺害が行われ、将軍の統治権は事実上失われていった。日本は各地に割拠する武家勢力=戦国大名によって統治され、その勢力争いが果てしなく続く時代(戦国時代)になっていったのである。

:05年8月刊の新版における「応仁の乱」の記述は、いくつかの語句の修正を除いて、旧版とほとんど同じであり、旧版の誤りはまったく修正されていない(p86)。

:この項は、勝俣鎮夫著「15−16世紀の日本ー戦国の争乱」(1994年岩波書店刊、「岩波日本通史第10巻:中世4」所収)、前掲、神田千里著「戦国乱世を生きる力」、前掲、脇田晴子著「室町時代」、今谷明著「戦国大名と天皇ー室町幕府の解体と王権の逆襲」(1992年福武書店刊)、京都市歴史資料館ホームページ(http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/)、などを参照した。


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