「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第2章:中世の日本」批判25
25.“理想型”としての戦国大名像:戦国の社会
「応仁の乱」の次は「戦国の社会」である。「社会」と題しているので、戦国時代と言う中世までの社会構造と近世以降の社会構造の大きな変革期であった戦国時代の社会の変化を記述してあるのかと思うとそうではなく、戦国大名の領国支配のさまを描いたものであった。
教科書は次のように記述する(p105・106)
下克上の世において、幕府に頼らず、独自の権力で一国の支配を行う新しい型の領主があらわれた。これが戦国大名である。戦国大名は、国内のすべての武士を家来に組み入れて、強力な家臣団をつくり、ほかの大名との争いに備えた。 さらに荘園や公領を自分の領地とし、領国を統一して支配権をにぎった。家臣の取りしまりや、農民の支配のために、独自の分国法を定めた例もあった。 領国を豊かにするために、大規模な治水工事をおこし、耕地を広げて農業をさかんにし、鉱山の開発や商工業の保護、交通制度の整備などにも力をそそいだ。 戦国大名は、守りのかたい山や丘に城を築いて、ふもとに屋敷をかまえ、その周囲に家臣団や商工業者を住まわせて、城下町とした。城下町は、領国の政治、経済、文化の中心になった。 (中略) 戦国大名の領国支配は、村の指導層まで家臣に加え、また、地元の生産の向上に力を尽くしたことなどにより、新しい社会の基礎をつくることになった。 |
この記述を読む限りにおいては、戦国大名は、いままでの守護大名とは全く異質な強力な権力をつくりあげたかのような印象を受ける。
第一に、幕府の権力に頼らず独力で領国支配を確立した事。第二にこれまで朝廷や寺社・貴族の支配下にあった荘園・公領まで支配下に置いた事。第三に、村の指導層である地侍もふくめたすべての武士身分を家臣として城下に住まわせ、商工業者も集めたことから、独立的領主である国人武士や惣村・惣町などの自治都市・村まで支配し、社会の隅々まで支配の手を広げたこと。第四に、この国内を統一した権力によって国内の産業の振興にも努めたこと。これらの記述からは、諸国に分立した国を基盤とした強力な統一政権が成立し、近世の織田・豊臣・徳川政権による日本の統一の先駆けが確立したと、この記述からは読めるのである。
(1)現実離れした“理想型”としての戦国大名像
しかしこれは、あまりに戦国大名を統一権力としての理想型で捉えた、現実を無視した記述である。
第一に、戦国大名はけして幕府の権威からは独立してはいなかった。第二に、公領・荘園を領国に組み入れたと言っても、有力な寺社や貴族の特権は容認していたし、その権威をもまた、領国支配の正当性を維持するために戦国大名は利用していた。第三に、戦国大名は国内を統一的に支配しようとは指向していたが、それは未完成であり、国人武士も惣村も自治都市も、それぞれ独立した自治権力を維持しており、大名もそれを承認せざるを得なかった。
先に示したこの教科書の記述の1〜3のポイントそれぞれが、戦国大名の指向した理想型でしかなく、現実はまだそこには至っていなかったのである。そしてそれは、戦国大名の権力が一国または数国を基盤にしたに過ぎず、常に対抗する大名権力との抗争という危機に直面しており、それゆえに国内の自治的勢力を圧伏することはできなかったからである。だからこそその後、戦国大名の権力を超えて全国的に権力を統一することが、各国に割拠する自治的勢力を押さえて、領主の支配を貫徹するために必要とされたのである。戦国大名の権力を完成されたものと捉えてしまっては、その後の織田・豊臣・徳川政権による全国統一権力の創出という営みも意味がわからなくなってしまうのである。
以下、上の三つのポイントに沿って、戦国大名の領国支配の実態について簡単に記述しておくが、その前に戦国時代とはどのような時代であったのかをまず記述しておこう。教科書も最初にこのことを記述しておく必要があったと思われる。
(2)戦国乱世の実像
戦国大名の領国支配について記述する前に、ここには戦国時代とはいかなる時代であったのかということを略述しておく必要があった。「つくる会」教科書はこれを、近世の初頭「ヨーロッパ人の来航と織田信長の台頭」という節の冒頭に「戦国の動乱」と題した一文を掲載しているが、これこそ戦国の社会の前に置くべきものであった。教科書は以下のように記述している(p114)。
応仁の乱以降、足利幕府の権威は失われ、各地で実力を養った戦国大名が、それまでの支配層であった守護大名を圧倒して勢力を伸ばした。こうした、戦国大名がたがいにはげしく争った時代を戦国時代という。 この時代は、古い政治や社会の仕組みが動揺し、新たに商工業が発達した。それにともない、堺や博多のような町が、戦国大名に対抗しながら自治都市として発展していった。朝廷や将軍家のある京都は衰え、中央の文化が地方に伝えられた。 |
この記述が先の「戦国の社会」の冒頭にあればもっと時代の性格を捉えやすいことはおわかりいただけよう。
@時代の性格の見誤り
しかしこの記述にもいくつの誤りがある。幕府の権威は失われてはおらず、戦国大名も幕府の権威や天皇の権威をその支配に利用していた。また京都は衰えたわけではなく堺や博多などと同じ商工業者の自治都市として再生していたし、やはり日本国を治める権威の所在地としての地位は保持しており、日本で最も大規模な商工業都市であり、権威の所在地であり文化の中心であった。だからこそ地方の戦国大名はその文化的権威をも身に着けようとしたため、都から多くの貴族や芸能者が地方に下り、これによって都の文化が全国にひろがっったのである。従来はこれを都では暮らせなくなった零落した貴族が地方に下った結果、都の文化が地方に伝わったと解釈していたのだが、近年の研究によって、その側面が全くないわけではないが、都の持つ権威の大きさが再認識されることによって、京都は戦国時代においても日本の首都であったことが再確認されている。
そして戦国時代はまた「自治の時代」でもあったことは、この教科書が、自治都市が戦国大名と対抗して発展していたことを記述したことにもよく現れている。しかしそれは博多や堺などの主な都市だけのことではなく、全国に散在する地方都市でも同じであったし、惣村と呼ばれる自治村落も、戦国大名と対抗しながら発展していたのである。
「つくる会」教科書の戦国時代の捉え方には以上のような訂正を加える必要がある。
そしてもう1つ、この記述には重大な欠落がある。それは「戦国大名がたがいにはげしく争った」ということの実態がまったく記述されていないことである。戦国乱世は全国的に100年以上続いた戦乱の世であったということであり、だからこそ自治都市・自治村落が成立したのであるし、戦国大名権力が存在したということは、この戦乱の実態の把握なしにはできないことである。
これについては、藤木久志の「雑兵たちの戦場」によって見ておくことにしよう。
A濫妨狼藉の世界
戦国時代の戦場は「濫妨狼藉」の世界であった。
ここで言う「濫妨」とは、村や町を襲って家々に火をつけたり家財や人や牛馬を奪う事をさしている。そして敵地での戦闘の最中や直後にはこれがかならず行われていたのであった。この濫妨狼藉に人を奪い取る目的には2つあった。一つは身代金目当てである。村や町に多くの親族をもっている有力者やその家族であった場合は、親族が身代金と引き換えに奪い取られた人を請戻した。この身代金目当ての「人取り」である。当時の身代金の相場は、一人2貫文であったそうな。そして身代金があてにできないような人々の場合は、「人取り」を行ったものが自家の下人として働かせるか、もしくは戦場の軍兵にかならず付いてきている「奴隷商人」に売り渡して金に替えるかであった。
では奴隷商人に売り渡された人はどうなったのか。戦争後の町において奴隷市が開かれてその場の売買で奴隷がさばかれた場合もあったし、主な港まで連行されて、そこで各地に売りさばかれていく場合もあった。この売り先は日本国内に留まらず、東南アジアや遠くヨーロッパまでの地域が含まれていた。そしてこの奴隷商人には、倭寇と呼ばれた海賊たちも含まれていたし、後にこの倭寇の交易網に参入したポルトガルやスペインの商人であった場合もある。
戦場の濫妨によって奴隷とされることの多かったのは、足の弱い女や子供であった。
また当時の戦場では、濫妨以外にも敵地の村村に押し入って収穫前の畠や田んぼに火をつけて作物を荒らしたり、勝手に収穫して持ち去ったりなどの苅田狼藉が行われることもしばしばであった。
B「生きるため」の戦争
このような濫妨狼藉が行われた背景は幾つかある。
一つはこれが戦争の戦術であったということ。敵地の城を攻め落とすだけではなく、敵地の村や町を襲って濫妨狼藉を働くことは、敵の力を削ぐ事でもあるし、さらに自国の民を守れない大名の統治に対して民の支持を失わせるという効果もあったからである。
二つ目には、当時の軍兵の構成に理由がある。大規模な兵を常時組織するには多大の費用がかかるため、戦の時だけ駆り集められる傭兵が当時は大きな位置を占めていた。傭兵になるのは、飢饉が続いた戦国時代において村や町で食えなくなって、戦場での働きによって食料を得ることを目的とした、村や町のあぶれものたちであり、さらには傭兵を職業として各地の戦場を渡り歩き、戦争の中で濫妨狼藉・苅田狼藉を専門とした「悪党」的職業軍人たちであった。
これらの戦での濫妨狼藉によって生活の糧を得ようとする軍兵が多かったゆえに、戦国大名の戦においてはしばしば「濫妨狼藉」を行うための休息日が設けられたという。つまりこれらの軍兵に対する給与が十分でないことを前提として、戦の最中に濫妨狼藉で稼ぐ時間が確保されたということである。さらに、これらの濫妨狼藉による稼ぎを当てにしている軍兵たちは、しばしばその日の戦争目的を遂行することよりも濫妨狼藉を遂行することの方に目が行き、戦の帰趨を無視して濫妨狼藉に走ると言うことがあった。したがって戦国大名は、傭兵たちの軍律に違反する濫妨狼藉をしばしば禁止せざるを得なかったのである。
C中世全般にわたる濫妨狼藉
しかしこのような戦における濫妨狼藉は、何も戦国時代に限られたことではなかった。古い例では平安中期における平将門の乱においても、相手方の武将の根城である宿を襲って濫妨狼藉を働くことは、将門記にも記録され、将門も初期においては自らの宿を襲われて家々を焼き払われ、将門の妻子すら略奪されているのである。
また鎌倉時代の戦いにおいても源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときにおいて、軍律に反する濫妨狼藉を禁止した例も見られている。つまり当時においても軍律に違反しない限りでの濫妨狼藉は認められていたのであった。だからこそ、この後の時代の戦争において、例えば南北朝の戦乱において、大規模な軍隊の移動のあとには、焼き払われた村や町や田畑が、沿道数キロの範囲にわたって広がるということが、太平記にも記録されたのである。
平安末期の10世紀から600年近くにもわたった中世全般における戦闘とは、こういうものであった。そして全国的に統治権を行使する政治権力が存在せず、しかもしばしば飢饉や災害におそわれた戦国時代における戦闘は、中世の中においてもとりわけ酷く、戦争とは濫妨狼藉の世界になりはて、大きな戦争では、戦死者の数よりも濫妨取りによって奴隷とされた人の数の方が多いのが通例となったのである。一度の戦闘によって数千人の奴隷が売買されたという記録すらあるのである。
そしてこの濫妨狼藉の世界は秀吉の全国統一戦争においても行われ、さらには朝鮮侵略や関が原の戦い・大阪冬の陣・夏の陣でも繰り返されたのであった。
(3)権威に依存した戦国大名
このような「生きる為の戦争」が繰り返された乱世において登場した戦国大名は、その領国を実力だけで統治したわけではなかった。彼らは将軍や天皇の権威をおおいに利用していたのである。このことは、従来既成の権威の破壊者として認識されてきた織田信長ですら、上総介という朝廷の国司2等官を僭称していたことでも明らかであろう。上総の国は律令制の中では大国に位置付けられ、その国司は親王が任官するのが通例である。したがって上総介は事実上上総の国の筆頭国司なのであり、昔から有力貴族が任官していた由緒ある官なのであった。
戦国大名の多くは、幕府からそれぞれの領国の守護職を得ていた。それは将軍が依然として日本国の統治者として認定されており、その将軍から国の統治権を委任された存在としての守護の権威が生きていたからである。そして主家である守護家を押しのけて下から実力でのしあがってきた戦国大名も守護家を抹殺したのではなく、守護の一族を名目的な守護として戴いて、守護被官の有力武士たちの推戴をもって守護領国の執政官として君臨するのが通例であったゆえでもある。
しかし室町将軍家は応仁の乱以降はしだいに畿内の有力守護細川氏の傀儡となり、細川氏内部の争いによってしばしば将軍の改廃が行われ、2人の将軍が存在して双方とも京都を占拠できず、近江や河内に潜伏するという事態が生まれるや、将軍による守護職任命だけでは、戦国大名の統治権の正当性を保持できなくなってきた。そんな時に戦国大名が選んだ権威が天皇であり、戦国大名は将軍を通さずに朝廷に直奏し、領国の国司の官を何がしかの対価を納めて手に入れるようになった。また大名家の家格を高めるためにも、朝廷に内裏の修理費用や即位式などの諸費用などさまざまな寄付を行い、それによって名誉職としての位階や官を手に入れたり、大名の菩提寺を天皇家の勅願寺に認定してもらったりして、天皇の権威を利用していたのである。
また類例は少ないが、領国内の抵抗勢力の討伐を天皇の綸旨によって正当化したり、隣国との争いの調停を「停戦命令」という形で将軍や天皇から命令を頂いて、戦乱を終息するなどの事例も見られる。
戦国大名はけして実力だけで領国を統治していたのではない。それは隣国にも領国内にも常に敵を抱え、戦乱に明け暮れていたがゆえに、大名の上位に属する権威の力に頼ることでできるだけ戦乱を避けるという一種の智恵でもあったからである。これが戦国時代における通例であったが故に、やがて全国的政治権力の統一が課題として浮上してきたときに、将軍や天皇の権威に依拠して、その統一行動がなされることになったのである。
(4)国人武士の独立性に悩まされた戦国大名
戦国大名がけして領国内を一円的統一的に支配してはいなかった例として、家臣となった国人領主の半ば独立性をあげることができる。
たしかに戦国大名は、家臣となった国人領主を自身の城下町に屋敷を構えさせてその領地から切り離そうとはしてきた。しかしこれが実現した場合にも、国人領主の領地はあいかわらず守護不入の地であり、その領地がどれほどの産物を産しておりその収入はどれほどであるのかを確定するための検地もなかなか実施できず、多くは国人領主の自己申告に基づいていたのである。そして国人領主の領地には彼らの館と城が存在し、そこには主人に代って領地を治める代官や城代が置かれ、国人領主の統治権はあいかわらず戦国大名から独立していたのである。
また中小の国人領主たちはしばしば近隣の同輩たちと一揆を組み、相互援助協定を結んでいた。○○衆と呼ばれる国人領主の一揆である。戦国大名は彼らを家臣団に組み入れるときに、この国人領主一揆をそのままにして有力国人領主の与力とするという方法もとっていた。つまり戦国大名の家臣団は、縦系列の指揮系統だけではなく、一揆という横の指揮系統をもその内部に含んでおり、この意味でも国人領主の独立性は維持されていたのである。
戦国大名が家臣となった国人領主の独立権を制限し、その領国に対する直接支配を及ぼす事が出来たのは、領国内における家督相続争いを経て家臣団が再編成された場合や、隣国を攻め取って、隣国の国人領主を新たに家臣団に組みこんだ場合などに限られていたのである。したがって国人領主は大名から独立した力を保持していた。だから、隣国を攻める場合に、その配下の国人領主を調略によって味方につけ、隣国の大名の支配力を解体しておいて攻め取るという方法がしばしば取られたのである。だからこそ戦国大名はしばしばその家法において、国人領主の独立性を制限しようとし、婚姻の大名への届け出制や他国との通信の制限、領国内での城の破却などを定めていたのである。
(5)自治を承認せざるを得なかった戦国大名
また戦国大名は、その領国内の惣村や自治都市、そして有力寺社や貴族の独立した権限をもまた承認していた。
@村請を維持していた惣村
自前の武力と自前の統治機関を持って年貢の村請を実現していた惣村は、戦国大名の治世下においても、大名権力から独立した自治権を保持していた。たしかに戦国大名は、惣村に対して検地を行い、その村の総収入を把握した上で年貢をかけたり軍役を課したりして、惣村をもその領国秩序に組みこんではいた。しかしその検地も惣村の自己申告に依拠しており、惣の鎮守の寺社領地は認めなかったが、村の自己申告に基づいて、堤や水路の補修費用や年貢収納や納入にかかわる諸費用など惣村の運営に必要な費用を年貢免除分として認め、さらには村の指導層である名主の名主としての特権的収入は否認しても、大名の家来となった名主に対しては軍役を負担する報酬としてそれを事実上認め、大名の家来とはならなかった名主に対しても年貢免除分として認めていたのである。つまり惣村の運営費用や指導層である名主の特権的収入は年貢免除とされ、惣村の自治は事実上認められていたのであった。そして大名が課する年貢は、申告された村の総収入(田畑の収入だけではなく、津があれば津の使用料や関銭、そして市があればその市の収入なども合計したもの)から、前記の惣の運営費用と名主の特権的取り分を差し引いて、その残りに対して年貢を課し、さらに軍役を村として負担させたりしたのであった。
A大名の戦闘とは独立した村の武力
また大名はしばしば惣村の武力を大名の軍事力に動員しようとしたが、惣村はすでに名主などがそれぞれ軍役負担をしているし、さらに村としては軍役として人夫を出しているということを理由として、村の構成員をそれ以上には大名の戦力として動員する事は拒否していた。つまり大名の戦力として動員されるのは、大名の家臣となった名主とその下人だけであり、惣村の構成員は、大名の軍隊の人夫以上の役割は拒否しており、惣村の武力は戦国大名権力からは独立したものであった。ここでも村の武力は村の自衛のためのものという原則が貫かれていたのである。
しかし惣村はしばしば大名の命令とは独立して郡や国規模で一揆を起こす事があった。それは他国から侵入した他の戦国大名の軍兵に対してであり、国の安全を守るために、自国の大名に味方しての行動であった。
B保護を求めて大名と駆け引きする惣村
また惣村は戦国大名の命令をただ受け入れるという存在ではなかった。年貢・軍役も、飢饉や水害などの災害を理由としてしばしば減免を要求していたし、他国の大名の軍隊によって国内が荒らされた時などには徳政と称して、未納の年貢や軍役の免除なども当然のことのように要求していた。さらに大名領国の境界線に位置するような惣村はしばしば、双方の大名に年貢の半分ずつを納める契約を取り付け、双方の領国に属する形をとって、大名による戦争から村を守ろうとしていた。また他国の大名の軍隊が侵入してきたときなどは、いち早く敵陣に使いを送って金品を納め、他国の軍隊による村への乱暴・狼藉を禁止する制札などを手に入れ、これに依拠して村へ乱暴・狼藉する軍兵を村の武力によって取り締まったりしたのである。
さらに戦争に巻き込まれそうになるや、村の城に篭城したり、領主の城への避難・篭城を要求し、自らの村の安全の確保にも腐心していたのである。
C自治権を貫いた自治都市
戦国大名はしばしばその城下町に新しい市を設けてそこでの商売を自由にして、近隣の村村にある市の商人を城下町に吸収しようと図った。しかし市町などの自治都市もただ無為無策にそれに吸収されていたわけではない。自治都市の指導層の老衆もしばしば大名の家臣になり、大名に対して軍役を負担することを条件として都市の自治を守ろうとしていた。また、有力な寺社や将軍・天皇の御料地という伝統を持つ自治都市は、それらの権威に依拠して守護不入の地の特権を主張し、大名権力からの独立を維持していたのである。自治都市も惣村と同様に自前の武力を保持し、若衆を中心とした軍隊を持ち、一旦ことあれば町の防衛のために戦う武力を保持していたからでも有る。
戦国大名の法令の中にしばしば見られる「楽市・楽座令」も、こうした自治都市が従来から行っていた楽市・楽座を戦国大名が追認したものだったのである。
D有力寺社・貴族(天皇・将軍)の特権も認められた
同様に、有力寺社や貴族の特権も戦国大名は認めていた。それらの荘園を検地して(といっても荘園の惣村の自己申告によるのだが)領国に組み入れたとはいえ、それらが保持していた荘園を新たに大名が保証するという形をとって、事実上その特権を認めていたのである。
それは大名権力が権力を維持する上でそれらの権威の利用価値が高いということでもあったし、戦国大名と言えども将軍に任命された守護や天皇に任命された国司の権威を背景にして領国を統治していた以上、守護や国司の任務であった寺社・本所領の保護を無視するわけにはいかなかったからである。
E魅力的な自治の武力
そしてとくに有力寺社が持つ武力も、戦国大名の権力にとっては魅力的なものであった。特に有力な戦国大名が育たず、中小の大名権力が相争う畿内地方においては、有力寺社の持つ軍事力は戦国大名の武力を凌ぐ大規模なものであり、これを見方につけることは大事なことであった。特に、加賀一国を事実上統治し、畿内近国の信徒を大規模に動員できる真宗本願寺派は、無視し得ない存在であった。本願寺は畿内近国の諸国の国人武士や地侍衆の多くを信徒として抱え、国人一揆や惣国一揆を動員し、数万にもおよぶ軍兵を動員できたからである(畿内の戦国大名が一度に動員できるのは通常数千)。従って室町将軍やそれをあやつる戦国大名細川氏が分裂している時には、双方はしばしば本願寺の一揆を見方につけて戦いを有利にしようと図ってきた。1532(天文元)年に本願寺が細川晴元の要請をうけて対立する河内守護畠山義宣を攻め滅ぼしたことを契機とした天文の争乱は、対立する管領家と将軍家の双方が、本願寺の一揆や叡山・興福寺の僧兵、そして京都町衆の法華一揆を見方につけて争った戦乱である。そしてその過程で、1532年には山城の山科本願寺が近江守護六角氏の軍兵と京都法華一揆の軍兵によって焼き討ちにあい、1536年には、今度は京都が六角氏の軍兵と本願寺派一揆によって焼き討ちされるなどの事件が起きたのであった。
また先に述べたように、惣村の武力も戦国大名はおおいに期待していた。
このように戦国大名の領国においても、有力寺社・貴族や惣村・自治都市の自治は維持され、それらは大名権力からは相対的に独立した勢力を保持していたのであり、戦国大名は、これらの自治的勢力の軍事力を自己の支配のために動員しようと図ったのである。
(6)戦国大名の権力の基盤は何か?
では、戦国大名が領国内を完全に掌握できていないのならば。戦国大名の領国支配の基盤とは何であったのであろうか。
戦国大名が家臣団や惣村の武力を動員するときにしばしば使う言葉がある。それは「国家安全」というものである。
この国家は大名の領国とそこに生活する大名の家や家臣それぞれの家、そして村や町のそれぞれの住民の家とを一体化した概念であった。つまりこの時代には、それぞれ財産を継承していく家が確立しており、それぞれの家に属する個人の生活は、その家の繁栄・永続に基盤を置くようになっており、家を守る事が家の構成員の責務ともなっていた。そしてそれぞれの家の繁栄・永続は、その家が存在している大名領国の運命と一体でも有り、大名領国の安全が保たれ繁栄する事と、そこに存在するさまざまな家の繁栄とは一体でもあった。
このような情況を背景として、戦国大名は「大名の領国の安全を守る」ことが大名の任務であり、領国の安全を守ってきたという実績を背景として、国の安全を守るための戦いに家臣団や惣村の成員を動員しようとしていたのである。
つまり戦国大名の権力は、大名が自身の領国の安全を保持してきたという事実をその基盤としていたのであり、国の安全を守ることができるからこそ大名として家臣や民から承認もされ、その国の安全は大名だけではなく、家臣や民の家々の安全にも直結するがゆえに、国の安全を守るための戦いに家臣や民を動員できるという関係だったのである。ここには、「国の安全を守ることができる者が大名として認められるのであり、その実力がないものは大名の地位から追放され、国の安全を守る実力がある者が大名になれる」という、下克上の思想そのものが、大名権力の基盤に流れていたのである。
ここに後に、全国的な統一権力として登場した豊臣政権が「国家安全・万民快楽」をスローガンに掲げて、諸国大名の争いの禁止や、村や町の争い禁止、海賊や山賊の禁止や奴隷売買の禁止などを人々に強制していった背景が存在する。
(7)技術革新の時代
最後に、16世紀・戦国時代は技術革新の時代であったことを記して、この項を終えることとしたい。この点については、「つくる会」教科書を含めてほとんどの教科書が記述していないことだが、近世の産業発展の基盤を作ったこととして、特記しておく必要があると思われる。
@繊維産業における技術革新
15世紀を通じて拡大した日朝貿易の主たる輸入品は木綿であった。この木綿の大量の輸入は、防寒着や普段着の衣料として優れた特質をもつ木綿が多くの人々に好まれ、大量に利用される状況を生み出した。この需要の拡大を背景として、おそらく朝鮮から伝わった綿の栽培が16世紀になると盛んになり、三河・相模三浦などの関東各地や駿河・摂津小妻などでの木綿の栽培と商品化が資料でも確認できるようになった。そして各地で綿布が織られ、冬の防寒具に、さらには船の帆に、そして後には鉄砲の火縄などにも利用され、戦国時代から近世の人々の生活に大きな変化をもたらしたのである。
さらに15世紀において盛んになった日明貿易における主な輸入品の1つに、中国製の高級絹織物(綾織)があり、貴族階層だけではなく、勢力を強めつつあった守護大名や在地の武士、そして有力な商人層などに、高級絹織物の需要が拡大した。この需要の拡大を基礎として、中国製絹織物の輸入先である博多・山口・堺において中国人織工によってもたらされた新たな織機と織布技術が根付いて、国産の高級絹織物である博多織・山口紋織・堺絹織が生まれた。そして応仁の乱の時期に京都から多数の町人や織工が避難していたことから堺絹織の技術が京都にも伝えられ、それに新たな工夫が施されて、16世紀には西陣織が生まれた。そして西陣の技術はさらに近世18世紀になると各地に伝えられ、桐生高崎などでも高級絹織物が作られることとなったのである。
A製陶業における技術革新
日明貿易や日朝貿易の主な輸入品の一つに、朝鮮や中国製の色絵陶器・磁器がある。そしてこれらの高級陶器・磁器は貴族階層や守護大名などの武士、そして有力商人などの間に大きな需要を生み出し、彼らの間に新たに広まった文化であるお茶やお花の趣味の中で、これらの外国製色絵陶器・磁器がおおいに珍重されたのであった。
この需要の拡大を背景として、北九州において朝鮮や中国の陶工から伝えられた色絵の技術が根付き、これらの地方で様々な釉薬を使用した色絵陶器が作られ、国内の需要の増大に対応していった。残念ながらこの時期には、磁器生産に不可欠な陶石が発見されていないので磁器生産は始まらなかったが、色絵技術と高温での焼成が可能な登り窯の技術とが定着したことにより、後の秀吉による朝鮮侵略戦争における多数の朝鮮陶工の拉致による、北九州における陶石の発見と磁器生産の開始の基礎が、すでに16世紀において作り出されていたのである。
B冶金技術における技術革新
日朝貿易や日明貿易において日本は外国に輸出する有力な品物をもたなかった。しかし16世紀初頭に朝鮮から灰吹法といわれる新たな精錬技術がもたらされ、これが各地の銀山に導入されるや日本における銀の産出料は飛躍的に拡大し、この時代における世界の銀生産量の実に三分の一を占めるまでに拡大した。このため中国や朝鮮の商人たちは競って日本の銀を求めて来航し、中国産の高級絹織物や陶器・磁器を日本に大量にもたらし、かわりに日本産の銀を中国や朝鮮に持ちかえるという動きが拡大した。その結果従来は博多や堺に限られていた唐船の来航が日本各地に拡大し、薩摩や遠く相模の小田原にまで唐船がやってきて、その地に唐人町まで造られて行った。そして貿易における決済手段としては国際的にも銀が使用されるようになり、日本国内における貨幣も銅銭から銀貨・金貨へと移行していくのである。
また鉄生産においても大きな技術革新がなされたのが16世紀であった。後にのべる鉄砲の伝来とその国産化の拡大の中で大量の鉄が必要とされることにより、鉄の生産方法に技術革新がなされたのである。1つは砂鉄の採取方法で、山頂に貯水池をつくり途中の花崗岩採掘場へ水路を作って水を大量に流してその中に砕いた花崗岩を流し込み、流水の勢いで花崗岩を粉砕して途中に設けられた堰で砂鉄を大量に採取するという鉄穴流し(かんなながし)と呼ばれる方法の採用であった。これにより一度に大量の砂鉄が取れるようになったのである。そして2つ目は、鉄穴流しによって大量の砂鉄が確保されることにより、それまで砂鉄を求めて移動していた「野ダタラ」から、産鉄場に恒久的な炉を構える「永代ダタラ」へと変化したことである。こうして大量の鉄の需要に応える事が可能になり、近世において戦乱が収まった後に、この大量の産鉄を背景として多くの農機具・工具が生産され、諸産業発展の基礎となったのである。
C木工技術・土木技術の発展
さらに、木工技術においては15世紀に登場した大鋸によって、大量の板材・角材が生産できるようになり、大規模建築や大船の建造も可能になったが、これが16世紀を通じて全国的普及していった。また戦国大名による治水や鉱山開発の進展に伴って土木技術も発展し、これが近世における城下町の建設や河川の付け替え、そして大規模な干拓地の造成による農業や製塩の発展の基礎を作ったのである。
※
中世という時代は、近世以後今日にまでわたる日本社会の基本が作られた時代であった。そしてとりわけ戦国時代は、その要素が社会の表面に現われた時代であり、戦国時代は統一権力の不在という特殊条件により各所で自力による争いが絶えず、それぞれの社会集団が武装して相対立するという違いはあったにせよ、近世社会の姿が立ち現われた時代であった。そして今日に続くさまざまな文化や技術が確立した時代でもあった。このことをもっと強調すべきであるし、丁寧に社会の変化を辿る事が必要であろう。
注:05年8月刊の新版の「戦国大名の出現」(p86・87)の項の記述は、旧版の「戦国の社会」の記述を少し簡略化しただけで大きな違いはなく、旧版とおなじ誤りを含んだままである。しかし新版において新たに出現した誤りが2つある。
1つは戦国大名の登場のくだりで、「実力のある家臣や地侍は独自の力で守護大名をたおし、一国の支配を行う領主となった」という記述。戦国大名がすべて守護大名を下から実力で倒して出現したと受け取られかねない点がまず間違いである。九州の島津・菊池・大友、中国の大内、畿内の細川、東海の今川や武田など、守護大名が戦国大名に転化した例も多い事を無視した記述である。そして地侍から戦国大名が出現したという記述は、まったくの誤解に基づくものであろう。地侍とは、惣村の指導層であった名主たちのことであり、彼らの多くが大名の家臣となったとは言え、実力で大名にとってかわったことはない。大名にとって代った在地の武士は、「国人領主」と呼ばれる武士たちであった。彼らこそが守護の有力な家臣であり、農村に館を築いて惣村とも緊密な関係を築いていた武士たちである。教科書の地侍は国人武士の誤りであろう。
2つ目の誤りは、「農民から直接年貢を集めた」という記述である。本文でも詳しく述べたが、戦国大名も個々の農民から直接年貢を集めてはいない。この時代も(近世においても)年貢は村請(惣請)であり、大名は村村に対する検地すら実施できなかったのだ。
注:この項は、前掲、藤木久志著「雑兵たちの戦場ー中世の傭兵と奴隷狩り」、「戦国の作法」、「戦国の村」、坂田聡・榎原雅治・稲葉継陽著「村の戦争と平和」、神田千里著「戦国乱世を生きる力」、今谷明著「戦国大名と天皇」、脇田晴子著「室町時代」、今谷明著「天文法華の乱ー武装する町衆」(平凡社1989年刊)、佐々木銀弥著「技術の伝播と日本」(1993年東大出版会刊「アジアの中の日本史Y文化と技術」所収)、勝俣鎮夫著「15−16世紀の日本ー戦国の争乱」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第10巻中世4」所収)、葉山禎作著「近世の生産技術の特質」・「タタラ製鉄業の発展」(1992年中央公論社刊「日本の近世第4巻生産の技術」所収)などを参照した。