「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判26


26.”つけたし”でしかない「東アジア貿易網」

  中世の最後、「戦国の社会」のあとに、「東アジアとのつながり」という項がある。内容を見ると、三つの部分から成り立っている事に気がつく。

  一つは、倭寇のその後。二つ目は、日明貿易のその後、最後は、日朝関係・日明貿易についての記述である。そしてそのあとに項を改めて、「琉球王国」の記述がある。
 これは琉球王国の記述も含めて、前の「日明貿易」の項と一体化し、全体として、中世における日本と東アジア全体との関わりを示す記述にするべきものであるのに、なぜかこの教科書では、バラバラになって掲載されている。そして次に詳しく見るように、個々の記述も、「日明貿易」の項の記述がそうであったように、日本と東アジア全体とのつながりが、相互に不可分の関係になっていることが不明確な、きわめて不充分な記述になっている。

 では、三つの構成要素にわけて、それぞれの記述を検討してみよう(「琉球王国」については、次に「中世の日本批判27」として、項を改めて検討する)

(1)”東アジアの中の倭寇”を無視した記述

 倭寇のその後について、教科書は、以下のように記述している(p106)。

 足利義満の死後、明との勘合貿易が中断されると、再び倭寇の活動がさかんになったが、構成員のほとんどが中国人だった。それも16世紀後半には衰えた。

  わずかこれだけの短い記述であるが、あまりに不充分な記述のため、多くの誤解を生むし、記述を読んで生まれる疑問にも、まったく答える事の出来ないものである。

@勘合貿易の中断は倭寇復活の原因の一つに過ぎない

 この記述では、日明貿易の開始と室町幕府による倭寇禁圧で一旦下火になった倭寇の活動が再びさかんになった原因が、勘合貿易の中断であるかのように受け取られる。

 たしかに足利義満の死後、将軍義持が明と断交したことに対する明国皇帝の国書では、日本からの朝貢が行われないとたちまち倭寇が現われたことを記述している。
 勘合貿易の貿易船=朝貢船が派遣されるときには、幕府から、渡唐船警護の幕府の命令を、対馬の宗氏、北九州の松浦氏・大友氏など、そして瀬戸内海沿岸の守護に出している。つまり幕府の貿易船は、これらの地域の海賊たちに警護されて航海するのであり、その船の船頭や水夫も、これらの海賊からだすのであるから、幕府の貿易船が頻繁に出されれば、数少ない明からの舶載品の貿易は幕府が独占することともあいまって、倭寇が活動する余地はないのである。だから明は幕府による朝貢の中止に抗議したのだ。

 この意味で勘合貿易の中断が倭寇の活動開始の一つの原因になったことは確かである。

 しかし室町幕府は、6代将軍義教の代になると、明への朝貢を復活させ、朝貢船=貿易船を派遣した。すなわち、義満時代の8度にわたる派遣の最後である、応永17(1410)年の派遣から22年の間をおいた永享4(1432)年、将軍義教は、明への貿易船を派遣し、二年後の永享6(1436)年にも再び派遣したのである。そして再び20年近い中断の後、宝徳3(1451)年、8代将軍義政の時に明への朝貢を復活。その後は、文正元(1466)年、文明8(1476)年など、ほぼ10年おきに明に朝貢船が派遣され、これは天文16(1547)年の最後の派遣まで、連綿と続いているのである。
 そしてまさにこの15世紀後半から16世紀が、再び倭寇の活動が活発化した時期にあたっているのである。

 義満時代のほぼ毎年のように明に幕府の貿易船が出される時代には、たしかに倭寇の活動はほとんどなくなった。これは倭寇となっていた日本の北九州の海賊たちが、幕府の下に統制され、幕府の貿易船を担う勢力になったことによって実現したことである。だから、この動きが中断し、さらに再開されても、前のように頻繁に行われないのであれば、倭寇の活動が復活するのは当然である。
 だが、ほんとうにこれだけが倭寇復活の原因であろうか。

A幕府の衰えも背景の一つ

 倭寇復活と日明貿易の衰えの背景には、室町幕府の全国統制力の衰えがある。
 義満死後の4代将軍義持の代には、各地で幕府に対する反乱が盛んに起きている。一つは1414年の伊勢国司北畠満雅の反乱がある。これは、1412年に、後小松天皇の子が即位(称光天皇)したことに対して、旧南朝天皇から、南北朝合一の条件である交互の即位を踏みにじった行為であるとの抗議が出され、南朝の後亀山天皇の子が京都を出奔して伊勢国司を頼ったことを背景としている。そしてこの行動の裏には、幕府から独立した動きを強めていた鎌倉府の鎌倉公方の動きがあった。そしてこの幕府と鎌倉府との対立は、1416年に、関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方に反乱を起こし、鎌倉を占領して公方を追放するという騒ぎに発展。幕府はこれを鎮圧したものの、この時追放された鎌倉公方足利持氏はこの事件に多くの幕府に近い関東武士が関わっていたとの疑いをかけ、次々と反対派を討伐。ついに幕府は鎌倉公方を討伐。
 この関東での争乱は、九州にも連動し、少弐氏が九州探題を攻めるや、旧南朝派の守護らが蜂起し、これを大内氏によって鎮圧した。

 こうした全国にわたる反乱は一旦は和睦が成立して収まったものの、晩年の義持が、再び守護家の家督相続に介入するや各地で戦乱が起き、その中で義持が後継ぎを決めないまま1428年に死去。後継者は義満の息子達が、石清水八幡宮の社殿で籤をひいて決めるというありさま。この時を狙って再び伊勢国司北畠満雅が旧南朝の皇子小倉宮を奉じて蜂起。
 そして神の意志による籤で将軍となった6代足利義教は専制化を強め、義満と同じように守護家の家督争いに介入して守護大名の力を削ごうとし、その結果1441年、守護大名赤松氏の凶刃に倒れ、以後の将軍は、守護大名の推薦に頼って存在する状態になっていった。

 このようにして室町幕府権力は、将軍と守護大名の間の権力抗争を通じて弱体化し、その統治権は全国に及ばなくなったのである。将軍はますます自己の最大の基盤である京都に依拠するだけとなり、幕府の明への貿易船も、将軍と京都の大寺社と大内氏などの大守護との共同の仕立てとなり、それを担うものも、実質的には、京都・堺、そして博多の商人になっていったのである。つまり幕府による日明貿易の独占体制は崩れたのだ。

 この室町幕府の衰えが、日明貿易の衰退の一つの原因であり、だから倭寇が復活したのである。

B明の衰えが背景にある

 復活された日明貿易が前のように盛んではなくなった理由には、朝貢を受ける側の明の国力の衰えもある。
 明は倭寇の禁圧の実をあげるために、朝貢船のみの来航を許し、中国人の海外渡航を禁止した。しかし朝貢船は、明の港に滞在中の費用や、朝貢使が明皇帝に謁見するための旅行の費用を明側が負担し、さらに朝貢した「蛮族」の王への下賜品は全面的に明の負担であったため、朝貢が増えるにつれてその財政的負担は増大。このため朝貢船の数と年数を制限する結果となった。

 そして室町幕府の朝貢船の再開は、明国をして倭寇の禁圧に益ありと喜ばせたが、幕府の実力の低下のため、倭寇は収まらず、明が日本と貿易する目的は達成されなかった。そのため再開後、日本だけは特例としていた毎年の派遣や船の数などの特権が廃止され、ついには10年に一度にまで減らされたのである。
 こうなると倭寇が日本の朝貢船に関わって貿易の実をあげることはできなくなり、倭寇が再開されることとなった。

 また明の国力全般が、あいつぐ国内反乱や、北方民族の侵入などによって衰えた事も背景にはある。

 1448年には、小作料をめぐる反地主闘争が頻発し、さらには翌1449年、モンゴルのオイラート部の侵入を受け、征討に向かった皇帝が捕虜となるしまつ。皇帝はのちに送還されたがオイラートの侵入は続き、明は、万里の長城を修復して多数の兵を置き、継続的に北方からの侵入に備える事となった。
 しかし16世紀初頭になると、今度は西方中央アジアからの侵入をうけ、1528年のトルファン王の侵入、1542年と1567年の侵入に代表されるアルタン汗の侵入は30年間も続く。そして明王朝内部の腐敗とあいまって、明の国力は落ち、国全体に対する統治能力は低下の一途を辿った。そしてこれは最後的には、17世紀初頭からの満州女真族の反乱となり、1644年の明滅亡にいたるのである。

 この過程で、明の海禁政策もほころびを見せ始め、海外貿易を志す人々は、台湾や琉球、そして東南アジアへ移住し、これらの人々が、明の地方官吏との結託の下で、海岸部の島々での密貿易に従事し、これを取り締まろうとする明の官憲から自衛するために武装した。これが後期倭寇とよばれる、中国人主体の倭寇となったのである。

C東アジア・東南アジア全体にわたる華僑のネットワーク

 こうして再び倭寇の活動が起こったのだが、そもそも倭寇の活動や、日本と明と朝鮮、そして琉球・東南アジアとの貿易活動の裏には、これらの地域に唐・宋時代から移住した、中国人商人の存在があった。彼らは日本・琉球・東南アジアの各地に居住し、それらの国々と中国との間の貿易の水先案内人や貿易商として活動していたのである。

 したがって、明がとった海禁政策は、これらの外国に定住し貿易に従事する中国人商人の活動を阻害することとなった。それゆえこれらの中国人商人は、日本や琉球、そして東南アジア諸国の遣明船の船主や通事、あるいは正使として貿易に従事する形で彼らの貿易活動を続けたのであるが、明が朝貢船の数をどんどん制限するにしたがって、正規の貿易ルートは先細りになってしまった。
 このため海外に住む中国人商人たちは、明の海禁政策に反対して中国を抜け出してくる人々を受け入れて、各地に中国人の町を形成すると共に、明の政策に反してでも利益をあげようとする明の地方官憲などと結んで密貿易をはじめ、これが倭寇となったのであった。

 後期倭寇の活動もまた、こうした東アジア全体の流動と一体のものとして起きたのである。

 そしてこの倭寇が16世紀後半に衰えたのは、明が1567年に海禁政策を緩和し、中国人の東南アジアへの渡航を許可したためで、これらの地域の海外在留中国人との貿易は、正規のルートに乗ったのである。しかし明は相変わらず日本への渡航は認めなかった。そして明の正貨である銀の産出が明で減ったのに対して、日本では16世紀の初めに銀の採掘方法の革新により銀の産出が増え、世界的な銀産地になったことで、日本からの銀輸入の需要が増えた事と、日本では相変わらず中国産の生糸の輸入需要が膨大であったため、日本との密貿易は、その後も続いたのである。

 倭寇の活動が、日本との関係も含めて衰えた背景には、この貿易網にポルトガルやスペイン。そして後にはオランダやイギリスが参入し、東南アジアや台湾などの倭寇の拠点を攻め落とし、そこを彼らの貿易拠点としたためであった。東南アジアや日本との貿易の実権は、徐々に倭寇から西洋人にとってかわられたのである。

 16世紀後半以後の倭寇の衰えは、ヨーロッパ勢力の伸張という、世界史的流動の一環だったのである。

 倭寇についての記述は、ここまで含めたアジア規模での視野で捉えるべきであろう。

(2)その後の日明貿易

 その後の日明貿易について、教科書は以下の様に記述している(p106)。

 勘合貿易は再開したものの、やがて戦国大名の大内氏が独占するようになり、16世紀の中ごろ、大内氏の滅亡により停止した。しかし、他の商人たちによる日明貿易は続いた。

 この記述もあまりに短すぎて要領を得ない。
 たとえば、勘合貿易が義満の死後中断した理由は、「明に服属する形をとったことを嫌った」と、日明貿易の項に記述があるのである程度理解はできる。しかしそれが再開された理由については、まったく記述されずヒントもないので、まるでわからない。そして再開された勘合貿易が幕府の手を離れて大内氏の独占に移る理由は、応仁の乱を経て、幕府権力が衰退した結果であると一応は理解できるが、大内氏滅亡のあとも、「他の商人たちによる日明貿易は続いた」という記述は意味不明である。「他の商人たち」とは一体誰なのか?。そもそも日明貿易は幕府直営ではなかったかなどの疑問が沸いてくるが、それに応えるすべも用意されていない。

@高まる唐渡りの品への需要

 勘合貿易が義満の死後に中断したのは、「明に服属する形を嫌った」のが一つの理由である。
 一つのとしたのは、これが、中世後半には成立していた「神国日本」の観念から来たものであり、天皇・公家たちの神国観からすると義満のやり方は神国に対する侮蔑と受け取られていたからであり、将軍義持が明との通交を断る表向きの理由となったことによる。真の理由は、先にも述べたように、「日本国王」としての明との通交が、天皇家の乗っ取りを含めた義満の王権簒奪計画の一環であり、室町将軍がこのようにして天皇をも凌ぐ権威を持つことを嫌った守護大名達の動きだったのだ。

 ではその守護大名達の考えは変わらず、公家たちの神国観念も変わらないなかでの勘合貿易=朝貢貿易の再開は、どのような動機があったのであろうか。

 一つの理由は、絹織物や陶磁器・書画骨董などの唐渡りの高級品への高まる需要である。
 この教科書はまったく記述していないのだが、先にも述べたように、この時代の公家や上級武家たちは、唐渡りの品々に囲まれて暮らす事を、彼らの社会的地位を示すものとして追求していた。
 また各地の遺跡からたくさんの中国磁器が出土することは、室町時代になると、都の公家や上級武家だけではなく、地方の武士層や上層商人なども中国磁器を愛好していたことを示している。したがって幕府が朝貢を止めてしまうとこれらのものは品薄となり、明からの幕府による輸入要求が高まる結果となる。
 これを反映して、6代将軍義教が勘合貿易を再開したのである。彼の代の2度にわたる朝貢船の構成を見ると、永享4(1432)年の船は、幕府船・細川船・山名船・大名寺院など13家の合同の船、そして御堂修理の費用を捻出しようとする三十三間堂(蓮華王院)の船の、計5隻であった。13家のうちわけは、5つの寺院と石清水八幡宮、そして公家の三条家と大名の斯波・畠山・細川・一色・赤松である。そして永享6(1434)年のものは、幕府船・相国寺船・大乗院船・山名船の各一隻と、三十三間堂船二隻である。
 まさしく、幕府と有力寺社・公家・大名家の相乗り。当時の貿易は、嵐に会うことなく行き来できれば、その利益は経費の4・5倍と言われている。その貿易の利益を求めて再開されたことは確実である。

 二つ目は、6代将軍義教の特異な存在である。彼は4代義持が将軍を譲った嫡子義量の早世により後継ぎもないまま死去したあと、石清水八幡宮の神籤によって、義満の子息の中から選ばれた。守護大名達も勢力争いの中で後継候補を一本化できない中での事態であった。それゆえ義教は、「神に選ばれたもの」という意識があり、父義満の事跡を継ごうという意思が強烈に見られる。就任当初は管領を初めとする守護大名たちに従っていた義教であるが、後には守護大名家の家督争いに介入し、その力を削ごうとし始める。その権力意識が「日本国王」としての明への朝貢という選択に表れた可能性はある。

A将軍権力の衰退と守護・商人の勃興

 その後8代義政が一度明に使いを送っただけで、幕府による直接の遣使は途絶える。これはまさしく応仁の乱に象徴される将軍権力の衰退と軌を一つにしている。そして以後は有力守護、細川氏と大内氏がその主導権を争って明に朝貢船を派遣したが、1523年(大永3)にはついに寧波(ニンポー)で両者が衝突、焼討ち、殺傷事件を起こし(寧波の乱)、以後は大内氏の独占となったのである。

 しかしそもそも日明貿易は開始したその時から、京都や堺、そして博多の商人がその計画から実施の主体だったのである。
 足利義満の明との通交は、博多の商人・肥富の勧めであったと言われ、肥富は、1401年の最初の遣明使節の一員であった。そして遣明船が着く兵庫の港にあった義満の倉庫は、日野家に縁の連なる京都の商人が管理していた。さらに、遣明船の荷主となっているものを調べると、幕府船では、京都の商人や兵庫の商人、そして博多の商人が多い。また、細川船では堺商人が、大内船では博多商人が多い。遣明船を出す将軍や大名・公家、そして有力寺社は、それぞれの領地の有力商人に依拠して明との通交をしていたのである。

 したがって幕府権力が弱まってくると、遣明船の実権は細川・大内という有力守護に移り、実際の貿易船の運営は、堺商人と博多商人に移り、さらに実権が大内氏に移れば博多商人が行うことになる。

 では大内氏滅亡の後は、「他の商人たちによる日明貿易は続いた」という記述の、他の商人たちとは誰を指すのだろうか。
 これは博多商人を中心として、それと繋がった兵庫・堺・京都の商人のことを指すのであろう。彼らは、大内氏滅亡の時期、すなわち16世紀・戦国時代になると、次第に大名からも独立した動きを始めていた。つまり彼らは、東南アジアから中国・台湾・琉球・日本へと至る海域の制海権を握り、これらの地域相互の間の密貿易を事実上支配していた中国人倭寇らと繋がり、彼らを援助することで、実質的に明との貿易を行っていたのだ。だからこそ日本各地のこれらの商人が支配する港には、中国人の商人が定住し、そこには倭寇的勢力も一定の地歩を占めていたのである。

 こうして日明貿易は、幕府から、しだいに大名へと実権がうつり、最後には国境を超えた商人たちのネットワークの手に委ねられていったのである。
 後にこのネットワークに西洋人が加わり、しだいにその実権を倭寇から奪い取るや、このネットワークは、西欧・東南アジア・中国の物産を相互に流通させる「南蛮貿易」のネットワークに変身したのである。

 こういった国境を超えた東アジア・東南アジア規模での動きの中で日明貿易を捉えれば、これらの地域が国の範囲を超えて相互に深く結びついていたことが明確につかめるはずである。しかし、「つくる会」教科書には、このような規模での国際的視点はまったくない。

(3)歪められた日朝関係・日朝貿易

 この項の記述の三つ目は、この時期の朝鮮と日本との関係についてのものである。教科書は、以下のように記述している(p107)。

 朝鮮半島では李成桂が14世紀末に高麗を倒し、李氏朝鮮を建国した。朝鮮も明と同じく日本に倭寇の禁止と通交を求めてきた。幕府がこれに応じた結果、日朝貿易がはじまった。15世紀のはじめには、朝鮮が200隻の船と1万7000人の兵士をもって対馬をおそう事件がおこった。しかし、これは倭寇の撃退が目的だったので、貿易は一時の中断ののち再開した。朝鮮は15世紀中ごろに、対馬の宗氏と条約を結び、宗氏を介さない通交は認めないことにした。しかし、16世紀のはじめに、朝鮮の港に定住した日本人が、役人の扱いに反発して暴動をおこし、鎮圧される事件がおこった。このあと、朝鮮との貿易はふるわなくなった。

 この記述も不思議な記述である。記述が中途半端でさまざまな疑問が沸いてくるのに、それに対するヒントもないのである。
 一つは、なぜ幕府が倭寇の禁止の求めに応じて日朝貿易が始まった後になって、朝鮮が倭寇の撃退に対馬まで遠征しなければならなかったのか。この背景がまったく記述されていない。そして二つ目は、なぜ15世紀中ごろに対馬の宗氏を介さない通交を認めないとしたのか。つまり宗氏を介さない通交が多かったということなのだろうが、なぜこれが困るのかもまるでわからない記述である。さらに三つ目。「朝鮮の港に定住した日本人」とは何か?。なぜ朝鮮に日本人が定住したのか。そしてその日本人が暴動を起こすきっかけになった「朝鮮の役人の扱い」とは何か?。16世紀のはじめ以後、朝鮮との貿易がふるわなくなったということに関わる疑問である。
 しかしもっと大きな疑問がある。この記述では、日朝貿易の貿易内容がまったく書かれていないことである。このページの上部に「東アジアの貿易」と題する図があってその中に朝鮮から日本への輸出品が「木綿・人参」とあり、日本から朝鮮への輸出品が「銅・硫黄・香木」とあるので、一応内容はわかるのだが、その品が、とりわけ日本への招来品が日本にとってどのような意味を持つのか全く記述されていないので(日明貿易と同様に)、日朝貿易の位置付けがまったく不明になっていることである。

 日朝貿易の記述も、日明貿易の記述と同様に、よくわからないあいまいなものである。

 では事実はどうであったのか。

@日明貿易の中断・幕府の内紛を背景とする倭寇の活発化

 15世紀の初めに朝鮮軍が対馬を襲った事件(応永の外寇とよばれる)は、1419年に起きた。この時期は、どのような時期であったのか。ここがこの事件の背景を解くかぎである。

 1419年と言えば、足利義満が1408年に没し、幕府が日明貿易を止めた直後のことである。つまり、日明貿易と言う国家間貿易を始める事で、倭寇という形での私貿易・掠奪が行えないようにするという海賊統制策が、義満の死によって放棄され、1432年の再開まで長い間中断された時期のことである。それでも幕府は1409年に朝鮮に使節を送り、義満の死と義持の将軍職継承を通告し、倭寇の制禁を約束して大蔵経を求めている。つまり幕府は、朝貢貿易の形をとった日明貿易は中止したが、対等な関係である日朝貿易は続けるということを朝鮮に告げ、従来どおり倭寇の禁止策は続けると約束したのである。
 しかし実際には、倭寇は復活した。なぜなら最大の実入りである中国との貿易が途絶えたからである。

 そしてこの時期、幕府の全国統治能力は低下した。1416年の上杉禅秀の乱、つまり幕府と鎌倉府との対立に端を発した、関東管領上杉氏と鎌倉公方足利持氏との対立は、上杉禅秀の反乱という形に至り、この乱は幕府軍によって鎮圧されたものの、足利持氏が関東の武士たちの鎌倉府への忠節を疑ってつぎつぎと処罰を繰り返したために関東各地での武士の反乱が相次ぎ、幕府はこれの鎮圧に手を焼くこととなる。そして鎌倉公方足利持氏の反幕府の動きに、旧南朝派の伊勢国司北畠氏や、同じく旧南朝派の九州有力守護の菊池氏の反乱が連動し、こののち1420年代には、全国にわたる争乱が再び起きるしまつであった。

 1419年の朝鮮軍による対馬襲撃は、日朝貿易の開始にも関わらず、一向になくならない倭寇被害に痺れをきらした朝鮮政府が、自らの軍事力を使って倭寇の根城を襲撃し、倭寇の船を捕獲・焼却するという動きに出た事件だったのである。いわばこれは日本側に責任があるのである。

 この事実を記すことなく、朝鮮が対馬を襲撃したという事実だけ記述する態度は、一体何だろうか。これは、倭寇が朝鮮にもたらした被害の様はまったく記述せず、近代史においても日本の植民地支配の実態をきちんと描かないと言う、偏った記述の裏で、「朝鮮だって日本を襲った」とでも言いたげな物言いである。

 この事件の原因は日本側の統治能力の低下による倭寇復活である。だから事件後、正規の日朝貿易が途絶えると、ただちに日本側の方から貿易再開を求める動きが始まり、まもなく貿易は再開された。
 これは正規の貿易がなくなってこまるのは日本側(つまり倭寇として動く側)だからである。

A日朝貿易は朝鮮にとって負担だった

 では、15世紀の中ごろ、朝鮮が対馬の宗氏と条約を結び、宗氏を介さない通交を認めないとしたのは何故だったのか。
 実は朝鮮に対する倭寇の被害は、14世紀の末頃の徹底した討伐によって減少しはしたが、なくなりはしなかった。そして幕府の統制力の弱体化とともに倭寇が復活した事で1419年、朝鮮は対馬を襲撃し、倭寇を壊滅させようとした。しかしそれでも倭寇はなくならなかったのである。
 なぜなら倭寇と平和裏に貿易を行う日本人は一体のものであったから、状況の変化によって倭寇ともなり平和な通交者となったので、区別する事は難しかったからである。
 1419年の事件のあと一時朝鮮と日本との通交は絶えたがすぐ復活した。そして朝鮮側は、倭寇の被害を減らすために、「日本国王」の使節以外にも通交を認めるようになったため、数多くの通交者が朝鮮を訪れるようになった。そして朝鮮はこれらをすべて正式の使節と同様にあつかったものだから、朝鮮の港に滞在中の費用や、国王との謁見のための旅行の費用まで朝鮮が負担することなり、さらには通交者が要求する絹や木綿の量が膨大となり、しばしば国内でこれらの品物が不足するようにもなっていった。また、日本からの通交者がもたらす銅や香木の量も半端ではなく、それを都まで運搬する街道沿いの民の負担も並大抵ではなかった。そこで朝鮮では日本からの通交者が来航する港を制限し始め、1426年までには、富山浦(今の釜山)・薺浦・塩浦の3ヶ所に制限され、それでも通交者が減らないので、ついに1443年に対馬の宗氏と条約を結び、宗氏を介さない通交を許さないこととしたのである。この時の条約では、宗氏は年に50隻まで許可され、さらに必要に応じて臨時の通交は認められていた。

 つまり宗氏を介する以外の通交を認めなくなったのは、日本との貿易が負担となっていたからである。

B「おしかけ倭人の脅威」と三浦の乱

 そしてこの過程で、日本からの通交者が停泊する港として指定された三つの浦(三浦と称される)になんやかやと理由をつけて「倭人」が住みつくようになる。その数は1434年には、薺浦だけで600名あまり。富山浦もほぼ同様となった。この事態に危機感を感じた朝鮮王朝は、1436年、対馬の宗氏に倭人の送還を命じ、宗氏は自分の配下の60名を除いて送還する事を認めた。そして宗氏の協力の下で、三浦から合計378人の倭人を対馬に送還したが、206人はとどまる事を嘆願して許可された。

 こうして三浦の日本人を制限する事ができたのだが、逆に60人の居留は合法的に認められる事となり、のちにこれは60戸と解釈されて、三浦居留の日本人の数は再び増えていった。その後の人数は、1466年には1650人余り、1475年には2200人余り、さらに1394年には3100人余りと急増し、三浦は倭人居住の港湾都市の様相を呈していた。そしてやがて三浦の検断権(警察・裁判権)は対馬の宗氏のものとなり、三浦に住む倭人に対する田租や営業税も免除され、三浦は朝鮮における外国租界の様相を見せ始める。そして三浦の倭人は貿易での利益を元にして金貸し業にも手を染め、倭人の金貸しから金を借りて返せなくなった朝鮮人の田畑が倭人のものとなる事態も生まれたのである。そしてこれは周辺の都市へも拡大し、やがて三浦の倭人に賄賂をもらい、彼らの活動に便宜をはかる朝鮮高官すら出てきたのである。そのためせっかく通交者を制限して貿易の負担を減らそうとしたのに、かえって貿易量は増え、朝鮮の負担は増していったのである。

 このような状態により、三浦に住む倭人に対する朝鮮王朝の警戒感は高まったのだが、その中で、1470年代から再び朝鮮沿岸で海賊による被害が多発し始め、各地で人が殺される事態にもなった。
 朝鮮王朝はこの海賊を三浦に居住する倭人だと疑い、たびたび三浦の倭人の長を尋問したが要領を得ず、追及できなかった。
 そして1508年、こんどは薺浦から目と鼻の先で海賊が現われ、朝鮮の民を殺し、その船の積荷を奪っていった。朝鮮王朝はこれを三浦の倭人による海賊行為と認定して、三浦の倭人の長を尋問。こうして三浦の検断権は再び朝鮮王朝側に取り戻され、三浦に居住する倭人に対する課税も強化され、三浦の倭人居留区の特権は剥奪されようとしていた。

 そして1509年に海賊が捕らえられた時には、その首は三浦にさらされ、海賊は三浦の倭人だというきめ付けがなされた。このような朝鮮王朝の側の締め付けに対して、三浦の倭人は集団での抗議行動に訴え、両者の緊張はさらに高まった。その最中の翌1510年、巨済島で三浦に住む4人の倭人が海賊として捕らえられ切られたが、それは魚の漁に向かう倭人を海賊と誤認したもので、ついに三浦の倭人は憤激し、4月4日、対馬からの援軍もえて武装蜂起。しかし朝鮮軍の追討をうけて敗北し、倭軍は295名の戦死者を出して、三浦を撤退し、対馬に逃げ帰った。

 これが16世紀初頭の三浦の乱の顛末である。

 たしかに朝鮮の役人の対応にも間違いはある。しかし朝鮮王朝の倭人への警戒感はもとはといえば、倭人自らが行った倭寇と言う海賊行為にあり、それを軽減するために朝鮮王朝がとった融和策としての貿易に乗って、朝鮮を疲弊させ、さらには後の西欧の国々がやったのと同じような、治外法権を持った外国租界とでもいうべき地域すら作り上げ、朝鮮の富を吸い上げようとした事に遠因はあるのである。

C衰えたが止まぬ日本との貿易

 しかしこの乱で、日本と朝鮮との貿易がなくなったわけではない。乱後の1512年に対馬の宗氏との間で結ばれた条約によって、宗氏が送れる船は年に25隻までと制限され、港も薺浦一ヶ所に限られた。だが日本人たちは、あの手この手で、朝鮮との貿易を増やそうとし、公式には廃止されていない「日本国王」使を利用して、「国王」の使いを詐称するなどして、数多くの貿易船を送りつづけたのである。

D日朝貿易のうまみ

 なぜそれまでして朝鮮との貿易を続けようとしたのか。これは朝鮮との貿易の中味を考えてみればわかることである。倭人が日本に持ちかえった品は、主なものは「木綿と人参」である。
 木綿は軽くて通気性に富み、なおかつ重ね着をすれば防寒着としても大変貴重である。
 当時の日本では、まだ綿の栽培は限られた地方でしかなく、人々は冬になっても今のような綿の入った布団や着物を着ることはできず、何枚も薄い着物を重ねて着るか、紙でできた着物を重ねて着るかしかできなかった。このような状態の日本にとって朝鮮産の木綿は大変貴重なもので、高く売れたのである。
 人参は朝鮮人参であり、高価な薬として珍重されていた事は説明を要しないであろう。

 さらに朝鮮からの招来品として重要なものが、朝鮮で印刷された、大蔵経である。日本は東アジアの中でも特異なほど仏教が盛んになった国である。したがって仏教経典が多数使われ、主な寺には経典の全てを網羅した大蔵経が所蔵されていた。しかし当時の日本では印刷技術は未発達で、すべて外国から手に入れるしかなかった。
 大蔵経の印刷をはじめて敢行したのは中国・宋であり、日本も朝鮮も宋版の大蔵経を手に入れ珍重していたが、数が限られていた。朝鮮では高麗の時代にこの宋版の大蔵経を元にして自国で印刷できるようにし、これが多数日本にもたらされたのである。しかしこの大蔵経は国家の管理下にあるため、朝鮮国王に頼んで分けてもらうしかなかったのである。室町幕府が日本国王の使いとして朝鮮と通交したのには、この大蔵経を手に入れるという目的もあった。

 そして16世紀になると、日朝の貿易に変化が訪れる。それまでの日本から朝鮮への招来品は、この教科書が記述しているように、「銅・硫黄・香木」であった。この内の前の二つは、当時の日本を代表する鉱産物であったが、16世紀になるとこれに銀が加わる。そしてこれは朝鮮の商人もこぞって買い求める品であった。なぜなら当時の中国・明王朝は銀本位制度をとっており、基準通貨は銀であったので、国際貿易も銀で決済していたからである。しかし当時中国の銀は枯渇し不足する事態が起きていた。そしてその頃、朝鮮で行われていた灰吹法という画期的な銀の精錬法が日本にもたらされ、さらに戦国大名によって各地で銀鉱山が次々に開発された事とも相俟って、日本は東アジア一、いや世界一の銀産国になったのである。安い日本の銀を朝鮮や中国に運べば何倍ものもうけが得られるようになったのだ。
 したがって朝鮮の商人も争って日本から銀を輸入しようとする。
 こういうわけで、日本との貿易は、朝鮮政府がいくら制限しようとしても、なかなか制限できず、制限すればするほど、裏での密貿易が盛んになるという構造だったのである。

 日朝貿易は、当時の東アジアの国々にとっても重要な交易であったし、日本にとっても同様であった。これは日明貿易も同じなのであるが、「つくる会」教科書は、この東アジアの国々との間の交易については、ほんの付けたり程度にしか記述していないのである。

 この点に、この教科書がいかに日本一国主義的に日本の歴史を理解しているかの良い例が見られる。

:05年8月の新版では、この「東アジアとのつながり」は大幅に書き改められた。すなわち「その後の倭寇」と「その後の日明貿易」については、日明貿易の記述と合体され、さらに記述が簡略化された(p79)。そして「日朝貿易」についての記述は、次の「琉球王国」の記述と合体され、そこにおいては、1419年の朝鮮による対馬襲撃や、1510年の三浦の乱についての記述は全面的に削除され、「16世紀に入ると、日朝間の摩擦がおき、朝鮮との貿易はふるわなくなった」という簡略化した記述になっている(p87)。しかし、どちらの記述も、旧版と同様に、東アジアの諸国との貿易が相互にどのような意味を持っていたのかということについては、まったく記述されず、相変わらずの、日本一国主義的な歴史叙述は変わっていない。

注:この項は、前掲、村井章介著「中世倭人伝」と、脇田晴子著「室町時代」、そして村井章介著「中世における東アジア諸地域との交通」(岩波書店1987年刊:「日本の社会史」第1巻・列島内外の交通と国家所収)などを主に参照した。


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