「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判27


27.「国史」の外に置かれた琉球

  中世の最後に置かれた「東アジアとのつながり」の項の後ろに、まるでつけたしのように「琉球王国」の項がある。きわめて短いので、その全文を載せてみよう(107)。

 沖縄では15世紀の前半、尚氏が三つの勢力を統一して、琉球王国をつくりあげた。首里を都とし、日本や明と国交を結んだほか、遠く東南アジアへも船を出し、中継ぎ貿易に活躍し、繁栄した。

 この教科書で琉球に関する記述はこれが初めてで、次に出てくるのは、第3章「近世の日本」の「鎖国下の対外関係」で薩摩による琉球征服の記述の所である。
 「つくる会」教科書は、現在日本に含まれているが古代・中世においては異国であった琉球や蝦夷ヶ島(そして奥州)についての関心が極めて弱くほとんど記述されていないのが実情である。これはこの教科書の執筆者が日本の歴史を考える時に、その「日本」とは、大和を中心とした列島中心部を意味しており、後にそこに征服・統合された「辺境」の民は「日本人」として意識されていない事を示している。

 したがって琉球がどのような歴史を辿ってきたのかは、上の記述だけでは殆どわからない。また日本との関係も「国交を結んだ」とあるだけで、その内実も不明である。

 現在日本に統合されているとはいえ、長い間「異国」として、日本とは異なった歴史を辿ってきた琉球と、さらにはその琉球と日本との関係について、きちんと記述することは、今日に日本における沖縄が置かれた特殊な状況を考える上でも、とても大切なことであろう。
 私が授業で使用してきた清水書院の教科書(平成8・1996年検定済)は、文部省の学習指導要領で「世界史は日本史との関係で必要な最小限度に抑える」と歴史叙述の方針を転換する前のものであるが、日本史を東アジアの流れの中に位置付けて見るという視点をもっており、その中で、周辺にも目配りをきちんとしている。たとえば琉球についての最初の記述は、以下のようになっている。

 沖縄本島では、稲作がはじまると各地に豪族が生まれ、明が成立したころには3つの王国にまとまっていて、それぞれが明の皇帝に使いをおくり、鉄などを輸入した。15世紀のはじめに、尚氏が3つの王国を統一して、首里を都とした琉球王国をつくり、明や東南アジア・日本・朝鮮をむすぶ中継貿易をさかんにおこすようになった。琉球の船が、博多(福岡県)や堺(大阪府)・兵庫の港に数多くるようになったのもこのころからで、日本から明や朝鮮に輸出したこしょうや染料の一部は、琉球船がもたらしたものである。

 はるかに詳しい記述であり、簡潔だが琉球の発展の過程と日本などとの関係がきちんとつかめる。そして次のページに「深める歴史5:明・朝鮮・琉球と日本」と題したコラムを置いてその相互関係を説明し、その中の地図には倭寇の侵略地域とともに琉球船の交易路が図示され、さらにはそれに続いて「中世日本の主な港」と題する図が掲載され、そこには主な航路も記入されているので、上の本文で説明された国々の相互関係が、空間的に認識されるように記述が組まれているのである。

 少なくともこの程度には、琉球のことや、琉球と周辺の国との相互関係について記述すべきである。

 では詳しくはどうだったのか。

(1)独自の路を辿った「異国」

 琉球はそこに住む人々の民族的身体特徴やその言語の特徴から考えて、日本列島の一部をなす地域であることはたしかである。住民の大半は、日本でいう縄文人的身体的特質を備えており、その言語は単語も文法構造も日本語そのものである。ただしその語法には、日本ではすでに失われてしまった奈良・平安時代の特徴を示しており、この時代以後、別の国としての発展の道を辿ったものと思われる。

 文化面で言えば、縄文文化の影響は沖縄本島までであり、その南の宮古・八重山諸島には縄文文化がおよんでいない(宮古・八重山諸島は、フィリピンから南につらなる地域の文化圏の北の端である)。しかし縄文時代に、奄美・沖縄諸島にしか生息しないオオツタノハガイという貝が遠く北海道にまで運ばれていたことは、北海道の貝塚遺跡で確認され、さらにはゴウフラやイモガイ・ヤコウガイなども北部九州にも運ばれており、すでにこの時代において、日本列島各地との交易が行われていたことを示している。
 また稲作農耕がさかんに行われはじめたのは12世紀頃であり(稲作の伝来そのものはさらに遡る)、この時代になると鉄器が大量に使用されると共に、須恵器的形質をもった「陶器」が広範に使われ、中国陶磁もたくさん使用されるようになった。そして各地にグスクとよばれる城砦が出現し、琉球地域において国家的抗争と統合が開始されたこと、そして日本・中国・東南アジアを含めた交易が行われていたことを示している。

 琉球は国家の歴史としては、日本とは独自の路を辿った「異国」なのである。このことはきちんと強調すべきであろう。

(2)対明貿易における破格の待遇

 この国家的統合と交易の発展は、14世紀の末、中国では明が成立したころには三つの王国に統合されて明との間で朝貢貿易を行い、さらに15世紀の初めに尚氏が統一して琉球王国となるや、琉球は、東アジア交易ネットワークの結節点とも言うべき最大の拠点となったのである。

 特に明帝国は琉球からの朝貢を極めて優遇し、他の諸国とは異なった破格の待遇を与えた。
 すなわち、琉球からの朝貢船は毎年しかも年に2回の来航が許され、しかもたびたび明から、朝貢のための大船を下賜されていたのである。これは、朝鮮の3年に一度、日本の10年に一度、ベトナムやタイの3年に一度の朝貢と比べてみれば、琉球が他の国にくらべて破格の優遇がされていることは明らかである。
 この理由は幾つか考えられる。その一つは、初期の琉球からの献納品や輸出品として大量の馬があったことが理由である。建国間もなしで、北方に元を初めとする騎馬民族の敵国を抱える明は、軍馬を大量に用意する必要があった。そのための馬の供給地として琉球を考えたのが、琉球優遇策の一つの理由である。
 二つ目の理由は、倭寇対策である。特に15世紀から16世紀にかけての中国人主体の後期倭寇の時期においても琉球の破格の待遇が変わらなかったことから、琉球との貿易を優遇する事で、倭寇ともなっていく海外の中国人商人たちが琉球貿易の担い手になることによって、倭寇の被害を少しでも和らげようとしたのではないかということである。事実、琉球の対明貿易は琉球王の独占であったのだが、その具体的な担い手は、中国人であった。琉球の都である首里の郊外にある久米村は、中国系住民が主に住む場所であり、この地に住む中国系住民は代々琉球王朝の外交文書の起草者や外交使節を担い、船頭や水夫にも多数登用されていた(もちろん琉球は古来から交易の盛んな所であるから、琉球人の船頭や水夫も多数いたであろうが)。当時の東アジア外交・交易において主として使われる言語は中国語であったのだし、東シナ海・南シナ海の沿岸各地に住む中国系住民のネットワークを通じて東アジアの交易は行われていたことも背景にあろう。この東シナ海・南シナ海沿岸の中国人商人こそが、明が海禁政策をとり、海外貿易を制限する中で、それに反して貿易活動に従事し、時として非合法の密貿易、すなわち倭寇に変身したものたちであったのである。

 それゆえ、16世紀の後半に明が海禁政策を緩和し、中国人の東南アジアへの渡航を許可し、東南アジアの中国人との直接交易が盛んになると、琉球からの朝貢は減少し、朝貢船に変わって、琉球製の小船での私貿易が盛んになっていく。対明貿易において琉球が優遇されていた理由が海外の中国人ネットワークをこれに引き付ける事で倭寇を減らそうと言う目的であった所以である。

(3)東アジア交易ネットワークの結節点

 しかしそれでも琉球貿易は消滅したわけではない。
 なぜなら琉球貿易は、東南アジア・中国・朝鮮・日本のそれぞれを対象とする中継ぎ貿易で成り立っていたからである。

 それは琉球の各国との貿易品に良く示されている。
 明への献納・輸出品は、馬・銅・硫黄・象牙・こしょう・香木、そして刀剣や扇である。このうち琉球の産物は馬だけで、あとはすべて交易を通じて琉球にもたらされたものである。銅・硫黄・刀剣・扇は日本から、象牙・こしょう・香木は東南アジアからのもの。そして明から琉球にもたらされたものは、鉄・銅銭・陶磁器である。
 この明から得た銅銭・陶磁器は、琉球が東南アジアに運んで象牙や香木・こしょうと交換するものであり、日本に運んで、銅や硫黄・刀剣・扇と交換するものでもあった。さらに朝鮮に対しては、香木やこしょう、そして中国の陶磁器を運び、かわりに朝鮮から木綿・朝鮮人参を得、これを日本に運んでさらに利益をあげ、日本の産物と交換するというものであった。

 まさに琉球は、東アジア交易ネットワークの結節点であったのだ。
 だから明が海禁政策を緩和したことで、東南アジアとの交易は中国人海商(倭寇でもあったが)に主導権を奪われたとはいえ、琉球自身が明との朝貢貿易や私貿易で中国産品を得るだけではなく、これらの東南アジア産品を手に入れ、これらを朝鮮や日本に運ぶ役割はなお続いたのである。

 日本への琉球船の来航もさかんであった。たとえば1420年に朝鮮から使節が日本に送られたが、その時の使節の記録「老松堂日本行録」に、琉球船のことが出てくる。朝鮮からの船が瀬戸内海を航海する途中で港にたちよるとたくさんの見物人が押し寄せる。その中にあやしげな僧侶がおり、彼は朝鮮使節に下船して自分の家に来て喫茶しないかと誘った。あやしいので下人に探らせると彼れは海賊の頭目の一人で、「朝鮮の船は銭物がない。あとからやってくる琉球船は宝物を多く積んでいる。もしその船が来たら奪取しよう」と話しているのを聞きつけ、朝鮮使節は下船を思いとどまったという記事がある。
 つまり瀬戸内海の海賊が標的とするほど多数、多くの積荷を積んだ琉球船が行き来していたということである。もちろん琉球船も朝鮮からの船のように、瀬戸内海を西から東に航行するときには、西の海賊に銭を払って一人を船に乗せ、東から西に航行する時には、東の海族に銭を払って同様にし、海賊の襲撃から身を守っていたであろうが。

(4)琉球と諸国との関係

 最後に琉球と諸国との関係に触れておこう。
 明に対しては琉球王はそれに服属し朝貢を行う関係であった。これは最後まで変わらない。また日本や朝鮮に対しては最初は、これに服属する国として貢物を送るという対応であったが、1409年以降、この対応に変化が起きる。朝鮮に対しては、共に明に朝貢する対等な国として、対等な役所同士がやりとりする文書形式で通交を始めた。また日本に対しては文書形式としては室町幕府を格上のものとしてのものであったが、琉球国王としてではなく、「琉球世の主」という独自の伝統に基づく王名で文書をやりとりするようになる。つまり日本に対しては、へりくだりながらも、日本とは違う異国であるという姿勢であり、室町幕府が琉球を臣下とみなしていたのとは大違いである。
 そしてこの関係は、戦国時代の終わり豊臣秀吉の時代になると日本の対応にも変化が現われ、秀吉は琉球を朝鮮と同等な外国としてあつかうようになる。
 それだけ琉球が東アジア交易を通じて、独自の地位を築いていたということであろう。

 なお東南アジアの国々に対しては最初から、共に明への朝貢国としての対等な関係であった。

 中世は東アジア交易が極めて盛んになり、前代にもまして東アジアの国々が一つに繋がり、その政治的動向や文化的動向も一体化した時代である。
 そのため日本の歴史を叙述するにも、東アジア全体の流れの中に位置付け、それと一体の関係にあるものとして叙述する視点が必要である。倭寇・日明貿易・日朝貿易はそれを如実に示す部分であり、琉球との貿易もそうである。中国・朝鮮・琉球の動きとそれぞれと日本との関係も、東アジア全体の中に位置付けて詳しく展開されるべきであろう。
 この意味で中世の最後または室町時代の初めのところに、東アジアの国々のそれぞれの動きと相互関係を示す記述を一項目起こし、説明しておく事は大切である。したがってこの「琉球王国」の項は、前の「東アジアとのつながり」「日明貿易」の項と一体化し、その中に、中国(明)・朝鮮・琉球のそれぞれの国の発展過程を詳述し、あわせて東アジア交易ネットワークの全体像とその推移を叙述することは、東アジアを一体なものとして認識する基点となる。

 「つくる会」教科書は、この国際的視点に欠け、「日本一国主義」に陥っており、日本内部でも周辺部への関心に欠け大和中心主義でもあるのだが、この欠点が顕著に表れた部分として、この「琉球王国」の記述があるのである。

:この項は、入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉、南の琉球」(中央公論新社2002年刊「日本の中世5」)と、高良倉吉著「琉球・沖縄の歴史と日本社会」(岩波書店1987年刊、「日本の社会史・第1巻・列島内外の交通と国家」所収)、前掲佐伯弘次著「海賊論」などを参照した。

:05年8月の新版では「琉球王国」の項は廃止され、「朝鮮と琉球」という新たな項目に統合され記述はさらに簡略化され、内容的にも本稿で記述した問題点をもったままである(p87)。またこの項目の注として新たに蝦夷ヶ島の記述が挿入されている。すなわち「いっぽう、蝦夷地(北海道)には、アイヌ民族が古くから居住し、狩りや漁労、交易を行っていた」という記述である。これは東アジアの叙述を一体にとの批判に応えたものであろうが、蝦夷地の交易の実態も日本におけるその役割もなんら記述されていない点はきわめて不充分である(奥州・蝦夷ヶ島についてはこのあとの「補遺」を参照のこと)。


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