「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判28


28.嘘で固めた「コラム・天皇と武家の関係」

  「第2章 中世の日本」の最後に、「源頼朝と足利義満―天皇と武家の関係」と題した「人物コラム」が掲載されている。「室町幕府」の所でも述べたが、このコラムは、教科書としては異色のもので、武家にとって天皇とはなんであったのかという問題があつかわれ、天皇に対する武家の姿勢として対極にあるように見える源頼朝と足利義満を対比させて論じている。

(1)武家が朝廷をうやまうのは当たり前か?

 まず「つくる会」教科書は、このコラムの冒頭において、武家にとって天皇の権威は不可欠なものであるというテーゼを以下のように提示する(p108)。

 武家は政権をにぎるさい、天皇から征夷大将軍に任命され、幕府を開いて、これを権力の基盤とした。そうでない場合は、朝廷の高い地位を占めて政権をつかんだ。どちらにしても天皇の権威を頼りにしている。それが武家の権力の限界だった。

 ここでは「政権をにぎる」という語句の意味を深く問わないで置く。その上で歴史を通覧すると、最初に「武家」として征夷大将軍に任命されたのは源頼朝で以後鎌倉将軍家は3代続いた。つぎに征夷大将軍に任じられて幕府を開いたのは足利尊氏。そしてその政権は15代続いた。つぎに征夷大将軍に任じられて幕府を開いたのは徳川家康。これも15代続いた。これが武家で天皇から征夷大将軍に任じられて幕府を開いて「政権を握った」「武家」の全てである。
 そして「朝廷の高い地位を占めて政権をつかんだ」最初の「武家」は、平清盛であろう。清盛は太政大臣にまで登って、それを引退した後も政治の実権を握った。さらにこの形で「政権を握った」のは豊臣秀吉。彼は摂関家の一つの近衛家の猶子として関白に登り、長い戦乱を治めた全国政権の主として君臨した。これが「朝廷の高い地位を占めて政権をつかんだ武家」の全てである。

 「つくる会」教科書は、これらの例から、朝廷をうやまった「正常な例」として源頼朝を、そして朝廷の権威を超えようとした「異常な例」として足利義満をあげ、それぞれの例について個別に論じ、頼朝の例が長く天皇と武家との関係の基本と成ったが、武家の中で天皇の権威に挑戦した数少ない例として足利義満はあり、義満がこれに失敗すると、室町幕府の代々の将軍の中には、義満の例に習おうとするものはいなかったとし、これがあってはならないものであるかのように記述する。

 だが本当にそうなのであろうか。それぞれには個別の事情があって、一方は朝廷を敬い、他方は天皇の権威に挑戦して敗れ、その子孫がその真似をしなかったのにも、それぞれの事情があるのではないだろうか。教科書のように片方を典型例、他方を異常な例として一般化するのは間違いだと思う。

 では、この教科書があげた「正常な例」としての源頼朝の場合と「異常な例」としての足利義満の場合は、それぞれどのような事情があったのであろうか。以下に個別に検討してみよう。

(2)武士と源頼朝の関係

 「つくる会」教科書は、源頼朝について、以下のように記述している(p108)。

 源頼朝(1147〜1199)は、武家で初めて征夷大将軍に任じられた人物である。平氏に敗れた源義朝の子で、伊豆(静岡県)に流されていた。ところが平清盛が後白河上皇と対立して、全国の武士の間に反平氏の機運がまきおこったとき、兵をおこして、平氏をほろぼし、武家の頭の地位を手に入れた。
 頼朝が全国の武士から頭として心服された背景には、頼朝自身の指導者としての力量のほかに、清和天皇の血統を受け継いだ源氏の出身という要素も影響していた。

 この記述には事実誤認が極めて多い。

@反平氏になったのは全国の武士ではない

 まず、平氏と後白河が対立した時、「全国の武士の間に反平氏の機運がまきおこった」とあるが、これは完全な事実誤認か、そうでなければ、ためにする記述である。
 反平氏の機運が巻き起こったのは、ごく限られた地方でしかなかったことは、頼朝の旗揚げ前後の事情や平氏との戦いの経過を見れば明かである。以仁王の令旨にしたがって兵を挙げた源氏の諸将のうち、一定の地歩を獲得したのは、関東の頼朝と甲斐(山梨)の武田一族、そして信濃(長野)の源義仲ぐらいである。それより西の地方、美濃(岐阜)や近江(滋賀)・河内(大阪)の清和源氏は、兵を挙げたものの支持する武士が少なく、敗死。源頼朝の弟の希義は、配流先の土佐(高知)で兵を挙げたが、あっけなく討ち取られた。
 頼朝自身も、兵を挙げた伊豆では、北条氏など100人ぐらいしか兵が集まらず、平氏の追討をうければ壊滅する危機にあり、それを打開するために、父祖以来の地盤である関東に移ろうとして平氏についた相模(神奈川)の武士たちに石橋山の戦いで敗れ、命からがら安房(千葉)に脱出したことは有名である。関東以西の地域が彼に靡いたのは、平氏との戦いが有利に進んでいく過程で、正しくは、当初は源頼朝を疑っていた後白河が彼に頼った(おそらく平氏追討の院宣を出した)あとのこと。それでも京に進んだ、義経・範頼以下の軍勢が、瀬戸内地方・九州を攻め倦んだのは、この地方の武士たちが、最後まで平氏についていたからである。

A頼朝は全国の武士から頭に推戴されたわけではない

 もう一つ大きな事実誤認は、「頼朝が全国の武士から頭として心服された」という記述。
 彼を頭に頂いたのは、当初は関東だけ。それもなかなか全てとはいかず、ライバルの清和源氏佐竹氏を屈服させて以後の話。奥州は、平泉藤原氏の下にあり、ここを靡かせたのは1189年の奥州平定によって。そして、彼が征夷大将軍になっても、彼の下に御家人として馳せ参じた武士は、奥州・関東が主であり、それより西の地方には、散在するだけ。幕府の影響力が、西国に及び始めたのは、1221年の承久の乱以後。
 頼朝が全国の武士から頭として推戴されたというのは、全くの嘘である。

B武士が頼朝を必要としたのは、彼の指導力ではない

 さらにもう一つ、事実誤認(いや、これは明白な嘘)がある。それは「頼朝に武士が心服した理由」として、教科書が、「彼の指導者としての力量」と「清和天皇の血統を受け継いだ源氏の出」と、二つ理由を挙げていることだ。

 そもそも頼朝が属した清和源氏の一族は、生まれながらにして「武士の頭」として推戴された一族である。そしてそれは、桓武平氏も同じであるし、藤原氏流の武士もまた、同じであった。
 それは「武士の頭」と呼ばれる者が、都の高位の貴族の一部として、軍事的部門を家の仕事として継承してきた「武門貴族」だったからである。朝廷の権威の下で、各地で征服戦争を指揮してきたものたち。彼らがその過程で、地方の有力者を傘下に抱えて、その武力を背景に朝廷に奉仕した。だから頼朝は、生まれながらに武士の頭であったのだ。それは教科書が「清和天皇の血を引いている」と記述した血の論理であったことなのだが、主として頼朝を頭として推戴した関東の武士団が彼を推戴したのは、彼の指導力うんぬんであるより、彼の「高級貴族」としての「血の論理」であり、「高級貴族」としての特権(例えば知行国という形で、一地方を私物化できる)を隠れ蓑にして、彼ら武士が朝廷から半ば独立するために、頼朝を利用したのだ。
 関東の武士団にとって、頭は頼朝でなければならないというわけではなかった。

 だから彼が関東で覇権を確立するには、同族の佐竹氏が邪魔だったし、同じ事は、以後、兄弟の義経・範頼を除いたことや、頼朝と関東の武士との間で対朝廷策で対立があったことや、彼の不審な死、さらには、彼の死後の、源氏将軍と御家人との対立や、頼朝家以外の源氏を将軍に頂いた数々の「謀反」の存在などが、頼朝以外でも頭はよかったことの証である。

 このように「つくる会」教科書の源頼朝についての記述には、事実誤認が多い。いや事実誤認というよりも、彼をして武士全体が心服した頭として造形することにより、彼の対朝廷姿勢こそが、武士と朝廷の関係において、ありうべき姿勢として論ずるためのトリックと言ったほうが正しいと思う。

(2)頼朝が朝廷をうやまった理由

 そしてこの嘘は、彼と朝廷との関係についての以下の記述のなかに、さらに明白となる(p108)。

 後白河上皇と対立した平氏を討つために、上皇の皇子・以仁王のよびかけに応じ、兵を挙げた頼朝は、平氏が落ちのびるときに奉じた安徳天皇の身の上を心配し、武士たちにその安全をはかるよう指示した。鎌倉に幕府を開いてからも、京都の朝廷をうやまい、天皇を重んじる姿勢を変えなかった。自分の娘を天皇にとつがせ、朝廷と幕府の安定した関係を築こうとの願いももっていた。
 頼朝のこうした態度は、のちの武家の権力者にも影響を与え、朝廷と幕府の関係の基本となるあり方を、長く規定した。

 この記述は、表面的には事実である。しかし頼朝の行動の意図を描かないことによって、その意味を異なった方向に導こうとする記述である。

@以仁王の令旨を奉じたわけ

 これは、この時代の戦乱が、天皇家内の、皇位をめぐる争いを背景にしていたからである。武士が動員されるのは、分裂した天皇家の一方の命令を奉じた結果である。以仁王の令旨を奉じて「反平氏」で立ちあがった武士は、朝廷を尊崇していたからではない。自らの利権を拡大する上で、その錦の御旗が役に立つからである。これは在地の武士にとってもそうだし、頼朝など、清和源氏の諸将にとっても同じである。

 :以仁王の令旨が後白河の意向を踏まえてのことではなく、後白河・高倉・安徳とつづく皇統に対立した、鳥羽・近衛・二条流の皇統からの指令であったことについては、前に詳しく述べたとおりである。また在地の武士がこの令旨を掲げた清和源氏を頭に頂いて戦いに望んだ理由も、鎌倉幕府の項や執権政治の項で詳しく述べた。

 源頼朝が以仁王の令旨を奉じたのは、そして最後には後白河の院宣を奉じて、平氏と戦い、さらには院宣もないまま、奥州に攻め込んで平泉の藤原氏を打ち滅ぼし、事後承認として院宣を得たのは、朝廷を尊崇するというより、王家の一員である「武門貴族」として、天皇・上皇と直接に結びつくことで、朝廷における自らの位置を確保し、その権力を確立するためだと思われる。

A頼朝と朝廷との関係

 頼朝は、それまでの清和源氏の一族とは異なった方法で、自らの権力を獲得しようとしたのではないか。

 清和源氏は、王家の一員として、同じく王家を支える摂関家などと組んで、皇位継承の争いに介入してきた。しかし源義家が支持した皇統が戦いに敗北し、彼が敵対した白河王朝が、源氏の力を削ぐ為に平氏を重用して以後、清和源氏は、その軍事力で、摂関家に家人として奉仕する形で、朝廷内の勢力を拡大しようとしてきた。その帰結が保元の乱・平治の乱であった。
 しかし頼朝の父・義朝は戦いに敗れ、敗死した。
 頼朝は、この一連の戦いの敗北と平氏の勝利から学んだのだと思う。父義朝が負けたのは、一つには、彼の基盤が関東であり、戦いの場である都には、はるばる関東から兵を動員せざるをえず、近畿・西国に基盤をもつ平氏の動員力との間には、雲泥の差があったこと。だから戦いにおいては基盤とする地方から動かないことが大切だと彼は考えた。
 そして同時に、朝廷の意向はめまぐるしく変わること。特に皇統が分裂したままでは、いつ自分が朝敵になるやもしれないこと。さらには、朝廷の貴族として奉仕するのでは、院や摂関家の意向には逆らえないこと。こういうことを平氏の栄華と没落の中で学んだに違いない。

 彼が関東から動かず、弟や有力な御家人に兵を預けて戦いに赴かせ、自身は鎌倉にあって、武士を強固に統合する仕組み作りに専念したのは、摂関家の家人としての位置で武士を組織してきた父祖のやりかたでは、都の権力闘争の結末いかんでは、部下の武士の動向もさだかではないことに気づいたからであろう。
 彼は天皇・上皇直属の軍政府を自らの基盤の関東に築き、天皇・上皇と直接結んで、彼らに自らの軍事力で奉仕し、天皇や院の意向を、直接左右することを意図したのではないか(そしてこれは、後白河と対立して以後の平氏が、事実上の軍政府を都に築いたことがヒントになっているし、平泉の藤原氏もまた、奥州に軍政府を築いていたのだから、それに倣ったと考えられる)。

 だから彼は、安徳天皇の身を気遣ったのではないか。

 安徳はすでに廃位された天皇である。しかし彼は、後白河直系の皇子であることにかわりはない。彼を鎌倉に迎え入れれば、鎌倉の軍政府は、親王を頂く、天皇・院直属の、半ば独立した軍事政権になれる。

 :これは平氏が安徳を奉じて西海に下り、都の後鳥羽を奉じる勢力から独立しようとした動きにすでに現われているし、後に鎌倉御家人が、親王将軍を頂いた事例、さらには、幕府滅亡以後の争乱において、親王を頂いた軍政府が各地に作られたことに繋がっていると思われる。これは頼朝の意図でもあったし、関東の鎌倉御家人の意図でもあったのではないだろうか。

 さらに安徳が西海に沈んで後は、頼朝は、自分の娘を時の天皇後鳥羽に嫁がせ、その子(親王)を皇位につけるか、その子を鎌倉に迎えて親王として頂き、自らはそれを補佐する者として動くことで、権力を維持しようと考えたのではないか。

 頼朝が朝廷を敬う行動に出たのは、武門貴族としての彼の権力を拡大する行動だし、彼を奉じた関東御家人たちの、半ば朝廷から独立した軍政府の樹立という目標と、頼朝の目標が一致していたからなのだと思う。だから頼朝の死後、源氏将軍たちが直接天皇との結びつきを強め、幕府の権限を削減しようと図ったとき、関東の御家人たちは、自らの手で将軍をしまつし、朝廷との関係を、半ば独立した形にしたのだ。

 これは武士が朝廷・天皇を尊崇しての行動ではなく(もちろん尊崇する観念の存在が前提であるが)、自らの権力拡大のための利用行動なのである。

 そして以後の武家の頭が同じような行動をとったのは、武家の頭が源氏・平氏という王家の一族の末裔から出ていることや、それぞれが自らの権力を確立するために、朝廷・天皇の存在が「利用すべき権威」として存在していたからにすぎない。

 この行動の裏側の意味を明らかにせず、武士というものは朝廷・天皇を尊崇すべきものだと頼朝を例として示すこの教科書の記述は、天皇こそ日本という国にとって永遠に不可欠な権威だという観念を広めようとする、政治的目的に沿って書かれたものに違いない。

(3)義満はなぜ天皇の権威に挑戦したのか?

 では「つくる会」教科書が、「武家の中で数少ない、天皇の権威に挑戦した」例として描いた、足利義満の場合はどうだったのだろうか。教科書は、以下のように記述している(p109)。

 このように、政治家としてきわだった力をもっていた義満は、それまでの武家の権力者が行わなかった、天皇の権威への挑戦を試みた。
 義満は将軍を超えた地位を望み、将軍の職を息子の義持にゆずって、天皇の臣下として朝廷でもっとも高い地位の太政大臣についた。さらに、その太政大臣もさっさとやめて、前の将軍で、その上、前の太政大臣でもあるという、これまでに例のない立場から、武家と公家の両方に、思いのままに権力をふるおうとした。やがて上皇に匹敵する権威と権力をかね備えることを目指していたとみられる。
 しかし、急な病気にかかって、むなしく世を去る。その後、代々の将軍から義満のまねをしようとする者はあらわれなかった。

 この教科書の義満についての記述は、なかなか正確なものである。よくもここまで書いたものであるが、やはり事の詳細を書くことは憚られたのか、肝心のことが抜けている。

@どのように上皇に匹敵する権威を得ようとしたか

 ここが肝心な所である。

 彼は時の治天の君である後円融天皇が在位の時から、朝廷の人事に介入し、時の摂関に対して自分の推す人物を告げ、それを天皇の意思として公卿会議にかけるようにしたものだから、後円融天皇は、へそをまげて人事案の文書を書かなくなってしまった。そして公卿たちは、義満に昇進を願い出て、それがかなうと義満の館にお礼にまいるというありさま。さらに義満は、後円融が上皇となり、その長子(後小松天皇)が即位する日取りや段取りまで、後円融にはからずに決めてしまうという動きに出た。

 すでにこの時から義満は、天皇の権限を事実上奪いとってしまったのだ。そして後円融が死去したあとは、後小松天皇に天皇家の家長としての院の裁断権を渡さず、事実上の院として権力を振るい、彼が北山に造成した北山第(今の金閣)は、事実上の院の御所、朝廷の政務を司る役所と化していたのであった。

 最後に義満は、天皇・上皇の権限の事実上の簒奪から、事実としてもその地位を奪おうとする動きに出た。まず後小松天皇の生母、崇賢門院が亡くなると、少し前に亡くなった後円融の物忌みと合わせ、一代の間に2度の物忌みは不吉だという口実を設けて、応永14(1407)年二月に彼の妻を天皇の准母に立て、その夫である義満も天皇の父に準じた地位におしあげる。その上で、彼は彼の子息で僧になっていた14歳の義嗣を還俗させて内裏に参内させ、後小松天皇に対面。そして翌三月には後小松天皇を北山第に御幸させ、天皇に対面。その時の儀式の様は、天皇が院の御所を尋ねる形式をとり、御座所で天皇と対面した義満の席は、上皇か天皇しかつかわない繧繝縁の畳だった。まさに彼は天下に、自身を上皇として認知させたのである。そして実子義嗣は天皇から杓を手ずから賜り舞をまい、その姿を並み居る貴族たちが、庭に蹲踞して見守ると言う異例の儀式だったと言う。そしてさらに義嗣を翌四月には内裏で元服させ、義嗣と名乗らせたが、その儀式の様は、親王が元服する様式にならったものであった。この一連の動きは、足利義嗣を後小松天皇の猶子として立太子させ、やがては義嗣を天皇にしようとはかった動きと解釈されている。
 そうなれが彼は事実としても天皇の父である。即位はしていないが、引退した天皇としての太上天皇の称号を手に入れることも可能である。

 こうやって義満は上皇に匹敵する権威を手に入れたし、あとは事実として上皇になるだけであった。これは天皇家そのものの簒奪である。しかし義満は義嗣元服の三日後に病の床につき、翌月5月には死去してしまった。こうして彼の天皇家簒奪の企ては中途挫折したのである。

A義満の企てを可能にした条件

 この企てが、後世の歴史家の勝手な解釈ではないことは、義満の死後、朝廷から「太政天皇」の尊号が送られようとした事実が裏付けている。つまり義満の子が天皇を継ぎ、義満が上皇に等しい地位につくことは、朝廷も認めていたのである。

 ではなぜ、こんなことが可能となったのか。これこそが問題とされねばならない。

 「つくる会」教科書は、この点については、どう記述しているのだろうか。先にあげた文の前に、義満を形容して、以下のように記述する(p109)。

 義満は、長く続いた南北朝の争いを終わらせ、鹿苑寺金閣を建立した人物として、よく知られている。また、明の皇帝に服従する形をとって日明の貿易をさかんにし、幕府の財政を豊かにしたことも有名である。

 「このように政治家としてきわだった力を持っていた義満」が、「それまでの武家の権力者が行わなかった、天皇の権威への挑戦を試みた」と、この教科書は述べているのである。

 ということは、義満の「きわだった力」が、天皇の権威への挑戦を試みた背景だと、この教科書の著者たちは言いたいのだろう。

(a)義満のきわだった力とは?

 だが、「南北朝の争いを終わらせ、金閣を建立した」ことや、「日明貿易をさかんにした」ことが、どう「きわだった力」を持つことになるのか。このあたりのことは、まったく具体的に触れられていない。また、この点について、本文の「室町幕府」の項に、参考になる記述がないかと探してみると、それは、「地方の有力な守護をおさえ、幕府の支配を安定させた」ということと、「このころの室町幕府は朝廷の権限の多くを吸収し、全国的な統一政権の性格を強めた」という記述が目に付く。

 著者たちが義満の「きわだった力」というのは、この事を指しているのだろう。

 たしかにこれは従来にない力である。しかしこう考えると理解できない問題がある。それは、義満死後の幕府体制には、義満在世中とは何も変わったところはないのに、将軍足利義持は、義満に対する太上天皇の称号の贈与を断り、義満が望んだであろう義嗣の立太子・即位の道も絶ってしまった。しかし将軍義持は、相変わらず、朝廷の人事権には介入を続けたし、公家の側も義持の意向を汲もうと動いた。また、年号の決定権なども幕府が事実上握っており、義満在世中と同じく、朝廷の実権は天皇にはなく、将軍・幕府が握るという状態は続いたのである。

 ということは、義満が天皇家の簒奪と、上皇に等しい権力を獲得しようと画策し、そしてそれが成功しかかった背景には、彼が首班となっていた室町幕府の強さだけではない、他の事情があったはずである。

(b)義満=上皇を望んだのは公家の方

 これを考えるときに参考になる事実は、義満が上皇になることを強く望み、その実現のために奔走したのが、当時の有力公家達であったということである。公家達の多くは、積極的に義満の意を汲むことに汲々とし、彼が天皇を超える権威を得るための様々な方策を彼に建策したのも、上級公家達であった。公家達の筆頭ともいうべき左大臣などが、義満の推薦のお陰で任官するや、北山第に参って、任官のお礼の儀式を行うしまつであったのであり、義満が比叡山に参るときに、天皇・上皇しか乗らない八瀬童子が担ぐ輿に乗っていけるように手配したのも、彼ら公家であった。

 ではなぜ公家達の多くが、義満による天皇家簒奪に賛成し、荷担しようとしたのであろうか。

 これは当時の朝廷の実力を考えれば理解できる。諸国の税の徴収権は守護に奪い取られ、公家達の所領の多くは、皇族・摂関家・有力寺社を除いて守護たちに取られてしまい、中下級公家は、皇族や摂関家の家人になって奉仕し、その俸禄で生きるしかなくなっていたのである。そして朝廷が持っていた裁判権も幕府に取られ、朝廷の大事な財産であった首都・平安京の商業活動に対する徴税権も、このころ幕府に奪い取られていた。
 武家・幕府の勢力の伸張に抗して、公家・朝廷の実権を守り抜こうとした公家は、一方は後醍醐天皇に従って幕府と対立し、幕府と対立する守護や武家、そして悪党と呼ばれた武士たちの支持を得て幕府を倒し、公家・朝廷の既得権益を守り抜こうとした。しかしこの道は、徴税権を守護に与えて勢力の伸張を許した幕府の政策により、ほとんどの守護が幕府に帰順することによって潰え、1392年、ついに南朝は幕府の軍門に下ったのであった。
 そして公家のもう一方の派、幕府に依存し、北朝の天皇によって幕府に権威を与える事で永らえようとした道も、先に述べたように、朝廷のほとんどの権限と所領も奪われ、朝廷に残っていたのは、形式としての官位任命権と僧侶任命権、そして形式としての祭祀権ぐらいなもの。長く続いた朝廷も、すでに風前の灯火であったのである。

 天皇を頂点とする公家・朝廷の権威も、武家の勢力伸張の前にはすでに風前の灯火。南北朝合体も朝廷に図ることなく、義満の独断でことは進んでいたので、天皇の地位すらも、幕府に握られたも同然であった。

 このような状態にあったとき、後小松天皇の嫡子実仁親王は生来病弱(後の称徳天皇、1412年に12歳で即位し、1428年、後継ぎがないまま死去)であり、天皇家の断絶の危機すら噂されていたのである。

(c)天皇になる条件を備えていた義満

 そして義満は、彼ら公家達が、天皇・上皇に戴くにふさわしい条件を持っていたのである。

 義満は、時の治天の君である後円融上皇とは、従兄弟の間柄である。彼の生母と上皇の生母とは姉妹同士なのだ。そして同時に、この姉妹の母・通玄寺開山の尼善通の祖父は、順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王であった。つまり足利義満は「順徳天皇五代の子孫」なのである。
 「○○天皇五代の子孫」が天皇になった例は、「応神天皇五代の子孫」を名乗って若狭から兵をあげ、大和の天皇家を討ち滅ぼして天皇位についた継体天皇がある。そしてこれを先例として、かの平将門が「新皇」を名乗り、都の天皇に対するもう一人の天皇として東国で動いた時、「我も桓武天皇五代の子孫」とその条件を語った。義満は、その「五代の子孫」なのである。

(d)天皇家断絶の説話の存在

 そしてこの時代。天皇家が100代で絶えてしまうという説話が伝えられ、人口に膾炙していたことだ。
 それは、かの奈良時代の官僚・吉備真備が唐から持ちかえったと伝えられた「邪馬台詩」。これ自身は後世の偽作であろうが、すでに平安時代から、この詩の存在は知られており、かの天台座主慈円も、愚管抄の中で言及しており、その当時の天皇である順徳天皇をさして「当代はすでに84代。あと16代を数えるのみ」と指摘していた。

 その順徳を84代とすると、後円融はちょうど100代(北朝を正統とした時、南朝を正統とすると100代は後小松だが、この時代は北朝正統だから後円融となる)目にあたる。

 義満はしばしば公家達に、この「百王」の話しの由来を尋ねているから、後円融時代の朝廷の現状とも考え合わせ、暗に義満への天皇譲位を公家に迫っていたと言える。

B将軍=張子の虎:義満が天皇家簒奪を企てたわけ

 こう考察してみると、天皇・朝廷の力が衰微し、それ自身が武家の支えなくして存在し得ない状態になっていることを背景として、義満の天皇家簒奪計画はなりたっていることがわかる。

 この状況に依拠し、生まれた時から天皇家に対して血の劣等意識を持たない義満が、「実力のあるものが王になるのは当然」という論理で自らの血統に天皇を継がせ、天皇家を簒奪し、公武ともに支配する絶対的権力を持とうと意図したと、考えられるのである。 

 しかしその目的はなんであろうか。なんのための絶対的権力なのだろうか。このあたりが今一つ判然としない。

 ここから先は私の推理である。

 後に、義満・義持・義量のあとを継いで、幕府6代将軍となった義教(義満の子)は、合体した南朝の天皇の子孫を根絶やしにしようとした。理由は、実力はなくなったとはいえ、幕府に逆らう勢力(たとえば鎌倉府による関東公方や有力守護大名)はしばしば、幕府に権威を与える北朝の天皇に対して、南朝の天皇の子孫を担いで、幕府に対して反抗した。幕府・将軍の実力は、実態としては、その直属軍団も直轄領の規模も、一個の守護大名にも劣るものであるので、鎌倉府と守護大名が手を組んで南朝天皇を担いで反抗されると、その鎮圧には手を焼く。最悪の場合には、北朝天皇に「逆賊を討て」という綸旨を発行してもらって相手を朝敵にして、やっと鎮圧する始末である。
 このような将軍・幕府の実力を考えると、将軍とは、守護大名の連合体によって支えられる存在であることは、そもそもの幕府草創の段階からそうであったし、天下を統一したかに見えた義満の時代であっても、有力守護の支持が不可欠であった。まして義満死後に有力守護の支持によって足利家の家督を継いだ義持以後の将軍は、守護大名に抗えない。神前のくじ引きで将軍になり、守護大名家の家督相続に相次いで介入して、守護大名の力を削ごうとした6代将軍義教も、守護大名赤松氏の凶刃に倒れた。

 室町将軍は、張子の虎である。

 直属の軍隊と政治力によって有力守護大名家の家督争いに介入してその勢力を削ぎ、巨大な権力を手にした義満は、自身が張子の虎であることを心底知っていたのではないだろうか。そして守護大名家への介入にも限度がある。何か他に、彼らが手の届かないほどの権威を身につける方法はないか。その権威さえあれば、室町将軍は守護大名の上に、永遠に君臨できる。

 彼はそう考えたからこそ、日本国王源道義と名乗って明王朝に貢献し、明国皇帝の家臣として、日本国王の称号を得たのだし、天皇家の簒奪に手を染めたのではなかったのか。

 義満が天皇家簒奪を企てた理由は、その権力の脆弱さにあったのだと思う。

 だからこそ、義満が急死したあと、彼の生前には、彼に逆らう事で逆襲を受ける事を避けようと、義満に従ってきたふりをした有力守護大名と、義満の嫡男であり将軍を継いでいながら、事実上の部屋住みに押しやられ、父義満への反感に凝り固まっていた4代将軍義持が手を組んで、義満の企てを全て水泡に帰する行動に出たのだろう。
 守護大名達にとって、室町将軍家が、自分達が手の届かない権威を手に入れることは、自己の存続を危うくする危険があったのである。彼らは現在の自己の地位を永続させ、長く子孫にも伝えたいと思った。この意味では、伝来の権威である天皇家を、その血筋によって維持させる事は、「家職の伝統」を維持して、守護職を家に伝来させる上でも、そして室町将軍家の権威を相対化する意味でも、必要なことだったのである。

(4)天皇の権威に挑戦したものは他にもいる

  以上のように、源頼朝・足利義満のそれぞれの場合を検討してみると、武士にとって天皇の権威とは、その権力を維持するのに利用できる権威という以上のものではないことがわかる。

 強大な権力を握った武家にとって、天皇は、必ずしも不可欠の権威ではないのだ。彼らが権力を拡大する上で、その対向者を抑えつけるのに天皇の権威はかなり有効である。しかしひとたび武家の権力が確立された時、その便利な権威はまた、彼の対向者にとっても便利な権威に転化する可能性が生じる。ならば、いっそのこと、天皇などという権威は廃絶してしまえ。

 このように武家が考える可能性はあるのだ。

 こう考えてくると、武家の中で、天皇の権威に挑戦したものは、足利義満だけではないことに気がつく。南朝を根絶やしにしようとした6代将軍義教もその一人と考えて良いだろう。そしてまだまだ、いるのだ。

 この教科書の記述は、天皇家の権威に挑戦した「武家」として著名な二人が抜けていることに気がつく。

 それは東国の諸国の国衙を陥れて「新皇」を名乗って国司を任命した、承平・天慶の乱の主役、平将門であり、さらに戦国の世を事実上平定し、兵農分離を図って、「法の下のおける平和」を実現しようとした織田信長である。

 平将門は「新皇」を名乗った。これは臣下の息子から皇族に復帰して即位したという異例の経歴をもち、必ずしも朝廷内において絶対の権威を確立したとは言えない醍醐天皇の治世下で、天皇に世継がなかなか生まれず、ようやく出来た朱雀天皇が病弱で、次の皇位継承が危ぶまれて、朝廷の中で、皇位継承をめぐる争いが起きた時のことである。桓武天皇5世の孫である平将門は、応神天皇5世の孫で大和天皇家から皇位を奪って即位した継体天皇の故事に習って、都の朱雀天皇に対抗する「新皇」として即位し、東国の「武家」を基盤に、東国に独立政権を立てようとしたわけだ。彼は「天皇から征夷大将軍に任命される」のではなく、自身が天皇になろうとしたのであった。

 では織田信長はどうであったのか。のちに詳しく述べるが、彼は朝廷から任じられた右大臣・右近衛大将の官を辞して、左大臣や征夷大将軍に任じようという朝廷の意思を固辞し、時の正親町天皇の嫡男、誠仁親王のための二条第を築くなどの財政的援助をして、さらに誠仁親王の子を信長の猶子とした。その意図は、正親町天皇から誠仁親王に譲位させ、新しい天皇を皇太子とともに安土城に御幸させ、安土城の天主に作った清涼殿に住まわせ、さらに誠仁親王から子の親王に譲位させることで自分は天皇の父である「院」と同等の地位について、武家・公家の双方の上に位する位置から、天下に号令しようとしたのだ。

 この平将門と織田信長の例を見てみると、「武家」にとって政権を握る上で、天皇の権威は必要ではあるが、場合によっては、それを乗り越える必要があるし、乗り越えることも可能であったということがわかるのである。

 さらに、後に詳しく述べるが、江戸幕府を草創した徳川家康も同じことをしようとしたふしがある。

 天皇から征夷大将軍に任じられて幕府を開いた場合も、それぞれの場合を詳細に検討してみると、彼らが天皇の権威を必要とし、征夷大将軍についたのは、それぞれに固有の理由があることがわかる。それぞれの事情を詳しく論じる事を避けて、一般的に「武家が政権を握るとき天皇の権威は不可欠である」かのように論じる、この教科書の説明は、ためにする議論である。

:05年8月刊行の新版ではこのコラムは改変された。義満についてのコラムは全面的に削除されて頼朝のみのコラムとなり、鎌倉時代の最後に掲載された(p72)。源頼朝についての記事は、すこし詳しくなったが、要点は同じである。これは天皇の権威に挑戦した例を挙げたことは、かえって天皇の権威に疑問を持たせ、それを相対化してしまう危険があることに「つくる会」が気づいたからであろう。

:この項は、前掲、佐藤進一著「日本の中世国家」、河内祥輔著「頼朝の時代」、今谷明著「室町の王権」・「14−15世紀の日本」、村井章介著「分裂する王権と社会」などを参照した。


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