「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第2章:中世の日本」批判29・補遺
29補遺:完全に無視された奥州・蝦夷ヶ島
最後に、東アジア交易ネットワークを考える時、日本列島における東(北)の先端の位置を占める、奥州と蝦夷ヶ島の記述が完全に無視されていることを指摘しておきたい。とくに蝦夷ヶ島は後の「北海道」であるわけだが、中世においても(のちの近世においても)日本国に属する地域ではなく、異国であった。
このように、現在日本国の中に含まれてはいるが、長い間異国であった地域(蝦夷ヶ島と琉球、そして奥州もそうであった)の発展の歴史と日本との関わりを記述する事は、その地域が近代以降日本の内国植民地と化し、その地域に住む人々に対する差別が発生し、それが現在も続いているという観点から、そのことを理解するためにも不可欠なことである。しかし「つくる会」教科書はこの視点が希薄である(琉球については28で述べた)。
この教科書は、奥州と蝦夷ヶ島については、ほんのわずかしか記述していない。古代の「律令政治の展開」の項で、「東北の蝦夷が大和朝廷に服属しなかった」と述べたのが最初で、次は、「律令制の拡大」の項で、「東北の蝦夷の反乱にたいしては軍勢をおくり、これをしずめた」とだけ記述する。その次は、「武士の登場」の項で、前九年の役・後三年の役について記述するが、これは「源氏の勢力が大きくなった」ことの関係のみ記述する。さらに中世では、「鎌倉幕府の成立」の項で、「義経が奥州の藤原氏のもとにのがれると、その勢力を攻め滅ぼして、東北地方も支配下に入れた」と記述しただけ。次に出てくるのは近世の「鎖国下の対外関係」の項で、「松前藩がアイヌとの交易を支配した」と記述。いきなりここでアイヌが登場し、アイヌと日本との交易がでてくる始末である。そして次に近代の「北方の領土の確定」の項で、いきなり蝦夷地が北海道と改称されたと記述し、蝦夷ヶ島がいつ日本に併合されたのかすら記述しないというありさまなのである。さらに最後の記述は現代でいきなり「アイヌ人に対する差別ななくさねばならない」と記述される。
はたしてこれでアイヌの問題が歴史的に正確に認識されるであろうか。
すくなくとも中世の章においては、琉球とともに東アジアのネットワークの中に位置付け、蝦夷ヶ島の歴史と奥州を通じた日本との繋がり・交易のさまぐらいは、きちんと記述しておいてほしいものである。
(1)他の教科書でも不充分な奥州・蝦夷ヶ島の記述
しかしこの欠点は、何も「つくる会」教科書だけのものではなく、他の多くの教科書も共通してもつ欠点である。例えば私が授業で使用してきた清水書院の教科書は、「つくる会」教科書よりはその記述は詳しいものの、平安初期の律令国家の展開の中での「蝦夷征討」について触れた後は、中世で一ヶ所記し、次は近世の松前支配へ飛ぶと言う、きわめて不充分な記述である。参考のために、中世の所の記述を例示しておこう。ここでは鎌倉幕府の成立のあとに「深める歴史4:古代・中世の東北、北海道」と題したコラムを載せ、そこに生徒が調べたこととして、以下のように記述する。
「義経が逃げていったころの東北・北海道はどんなようすだったか」 北海道では縄文文化をうけついだ続縄文文化の時代がつづいていた。9世紀のころから鉄器の使用がひろまり、擦文文化といわれる時代になり、この文化の時代が500年ほどつづいている。 |
この記述は北海道の歴史と東北地方の「征服の歴史」との繋がりや、北海道に鉄器が出てくる事と東北との繋がりもまったく記述されていないし、続縄文文化・擦文文化の内容も記述されない。さらにその後の日本との繋がりも全く記述されないし、奥州藤原政権と北海道の擦文文化の関係もまったく記述されない。これでは近世のアイヌとの交易もアイヌを松前藩が支配したことともまったくつながらず、東北・北海道に対する歴史認識が育つはずもないのである。
ではそのあたり事実はどうなっていたのか。詳しくは1章「古代の日本」批判の最後に「補足」として記述しておいたので、ここでは平泉藤原政権の滅亡とそれ以後のことに限って記述しておこう。
(2)北方世界との窓口としての奥州
奥州平泉の藤原政権が、奥州の「俘囚」と言われたかっての蝦夷の人々を束ね支配する役割を朝廷から担わせられていただけではなく、奥州の北に広がる「蝦夷ヶ島」や、さらに北のサハリンやカムチャッカ・アリューシャン、そしてサハリンの対岸の東シベリアの地方の人々をも統括(ただしくはそれとの交易を統括)する役割を担っていたことは、すでに第1章「古代の日本」批判の末尾で述べておいた。
したがって奥州は、それ自身として豊かな米産地であり、多量の布を産する大国であっただけではなく、この地に産する金・鉄、そして馬の産地として、さらにはその北に広がる異国との交易によって得た、鷹の羽・アザラシの皮、さらには中国北方の民族との交易で手に入れた絹織物(いわゆる蝦夷錦)を日本各地に供給する重要な地帯であった。奥州平泉の藤原政権は、これらの産物を朝廷を初めとして日本各地に供給する事によってその富みを得、その在地権力を確立していたのである。
この奥州藤原氏の富と権力は3代藤原秀衛の時に頂点に達し、彼の代の平泉は、先代までの館を廃してその菩提を弔う寺院(観自在王院)を建立し、その北に新たな館(平泉政庁)と秀衛の御所(伽羅の御所)と持仏堂(無量光院=宇治平等院の拡大コピー)が建設され、中尊寺を中心として、その南の都市平泉とその北の都市衣河を一体のものとした、中世奥州最大の都市へと発展していた事は近年の発掘で明らかになりつつある。
しかし12世紀において在地勢力としては初めて鎮守府将軍・陸奥守の地位に上り、「御館(みたち)」や「御所様」と呼ばれて半ば朝廷から独立した権力を持っていた奥州平泉の藤原政権は、その富を独占し、その富みに依拠して朝廷から独立した勢力を持とうとした源頼朝と鎌倉政権によって滅ぼされた。そして以後、北方世界との窓口としての奥州の役割は鎌倉幕府の支配下において営まれ、奥州守護(蝦夷管領)となった北条氏の下で、その家臣・代官となった安藤氏によって担われたのである。安藤氏はその名が示すように、「俘囚の上頭(=俘囚・蝦夷を統括する朝廷の役人)」を称した安倍氏・藤原氏を継いだ者で、彼ら自身は俘囚でも蝦夷でもない。その安藤氏の根拠地が日本最北の地である津軽西が浜につくられた十三港であり、この港は13世紀から15世紀にかけて北方世界との窓口として栄えた。
鎌倉後期の1300年代には、「関東御免津軽船」すなわち幕府により免税特権を付与された大船20艘が越前から津軽の海域を航行して、鮭や小袖などを商っていた。またこの頃には、陸上の奥大道経由の交易よりも日本海の海上交通が盛んになり、応永30(1423)年には、安藤陸奥守が室町将軍に、馬20匹・雉5000羽・鵞眼2万匹・ラッコ皮30枚・昆布500把を献上したとの記録もある。十三港は、日本海から十三湖に進入する砂州に港と町がつくられ、安藤氏の館や多くの寺院が建っていた。そしてその遺跡からは、中国青磁や越前や常滑からの陶器、さらに大量の宋銭や日常雑器が多数発掘され、往時の繁栄を偲ばせる。
やがて戦国時代において安藤氏はしだいにその勢力範囲を南部氏によって侵食され、根拠地を北に移動させ、北方世界との窓口も十三港から、下北半島の田名部港へ移動し、さらに北方貿易の支配権が安藤氏からその家臣であった蛎崎氏、そしてその一族の松前氏に移るに従って、北方世界の窓口は、蝦夷ヶ島南部の渡島半島の松前にと移っていったのである。
(3)北方世界を勇躍するアイヌの民
では、この奥州平泉藤原氏や十三港安藤氏を介して日本と通交していた蝦夷の人々とはどのような文化をもった人々であったのだろうか。
彼らが奥州において「蝦夷」と呼ばれた人々とほぼ同じ文化を持つ人々であり、擦文文化と呼ばれる9世紀の時代にはすでに、従来の狩猟・採集・漁労の生活に加えて、鉄器を使用し、あわやひえなどの雑穀の栽培を開始ししていたことは、第1章「古代の日本」批判の末尾で、すでに述べておいた。そしてこの文化に特徴的な擦文土器と呼ばれるものは、古代日本の土師器の影響を受けたものであり、鉄器の使用や畑作農耕の開始も、奥州の「日本人」との交流を通じて広がったものである可能性についてもすでに述べた。
さらにこの擦文文化の広がりは、今の北海道東南部から西南部、そして東北北部に広がっており、この文化を担う人々が、蝦夷とよばれ大和朝廷から討伐の対象となっていた人々、そして征服後は俘囚と呼ばれた人々との頻繁な交流をもっていたことを物語っていたこともすでに述べた。またこの擦文文化の北側、オホーツク海沿岸には、文化の特徴としてはサハリンや東シベリアの民族の影響を強くうけ、それとの交易で成り立っていたが、鉄器の使用・畑作農耕の開始など擦文文化とほぼ同じ生活様式をもったオホーツク文化が存在していた。この二つの文化がやがて統合された13〜14世紀頃に、現在アイヌと呼ばれる民族とその文化が成立したと考えられている(オホーツク文化が衰微し擦文文化に統合された背景には、13世紀にモンゴル=元によって東シベリアの地方が征服され、この地からの交易品=主として鉄器が入ってこなくなったことがあると推定されている。そして擦文文化を担った蝦夷=後のアイヌはこのモンゴル帝国に服属・朝貢を初め、蝦夷=アイヌはモンゴルの支配下に入り、その文物が大量に入ってきた。この動きが蝦夷=アイヌの「日本」からの自立の動きとなり、これに津軽安藤氏のお家騒動が重なって1320年代の「蝦夷反乱」となり、この「反乱」を鎌倉幕府が討伐軍を送っても静められなかったことが、幕府滅亡の原因の一つになったと推定されている)。
蝦夷=アイヌの人々は北方アジアとの交流の中で生きていたのである。そしてそれは平和な交易の時代もあったし、強大な中国王朝の支配が伸びてくるやその支配下にある北方アジアの諸民族との抗争・戦争の時代もあった。このような歴史的背景を通じてアイヌ民族が形成されてきた過程を描いた叙事詩がユーカラであり、とりわけ英雄ユーカラであると考えられている。ユーカラに出てくるしばしば戦いとなった異国の人(レプウンクル)とは、日本人のことではなく、北方アジアのサハリンやアムール河口の東シベリアの諸民族を指しているものと考えられている。
このアイヌの人々は畑作農耕を取り入れた後も主として海の民であった。彼らは大船をあやつって、北は蝦夷ヶ島各地やサハリンや東シベリア、そしてアリューシャン・カムチャッカまでの海域から南は奥州の十三港までの海域を行き交い、それぞれの地の産物を商っていたのである。そして彼らは北方交易に従事する度合いが強まれば強まるほど、彼らの生活において畑作農耕の占める位置は小さくなり、やがて穀物などの食料すら交易によって手に入れるようになったのである。
北海道の地勢や気候が農耕にはあまり向かないこと、そして豊かな海産物、さらには北方交易の中継地点でもあったことによって、彼らは交易に重点を置いた暮らしをするようになったのである。これが近世アイヌの中世における姿であった。
したがってこの時代のアイヌの首長の館跡からは、漆塗りの器類や朝鮮系などの大陸製のキセル、そして西日本産・中国産の陶磁器が大量に出土する。さらには日本産の小刀・鏃・針や小袖がもたらされることによって、今日知られるアイヌの文化が形作られたことをうかがわせる物も出土している。
彼らアイヌは、北方世界から手に入る、蝦夷錦やラッコ皮、そして彼ら自身が産する鮭や昆布などを南の日本へ運び、そこで鉄器や陶磁器や布、そして米や麦などの食料を手に入れ、それを自分達の生活に供するとともに、さらに北方の世界に運んでかの地の産物と商うことで生活していたのである。
このような交易によって得た富の力、そして中国王朝の権威を背景に、彼らアイヌは「日本人」の勢力、すなわち奥州平泉の藤原氏や十三港安藤氏、そして田名部港に拠点を置いた安藤氏や松前に拠点を置いた蛎崎氏・松前氏などからは政治的にも独立した勢力を保持し、まさに中世の蝦夷ヶ島は異国なのであった。そして蛎崎氏や松前氏が館を築いた蝦夷ヶ島南部の渡島半島においても日本人の勢力は弱く、アイヌ人の国の中に少数の日本人が館を拠点に雑居するというのが実態であり、交易の主導権はアイヌが握り、アイヌの首長の館の沖をとおる交易船は皆帆をおろして服属の挨拶をする慣わしであった。
近世アイヌ、特に南部のアイヌが、北方交易をしだいに松前藩に独占されることによってその独立性を失い、ほそぼそと狩猟・採集・漁労そして僅かばかりの畑作で生活の糧を得、松前藩の海産物産出飯場での季節労働者になっていったのは、中世アイヌが北方世界をまたにかけた交易に従事する事で富を得、生活の糧を得ている民であったゆえなのである(アイヌが次第に「日本人」蛎崎氏・松前氏の支配下に屈していった背景には、アイヌに独立した権威を与えていた元・明王朝の衰退が背景にあることが近年指摘されている)。
中世アイヌの交易に従事する姿を描く事なしに、近世アイヌ、そして近代以降のアイヌの日本に隷属した生活が生じた背景を理解することは不可能なのである。
注:05年8月の新版では、中世の最後の「朝鮮と琉球」の項の注として、「いっぽう蝦夷地(北海道)には、アイヌ民族が古くから居住し、狩りや漁労、交易を行っていた」という記述が挿入された(p87)。ここでアイヌ民族の存在と彼らが交易に従事した民であったことに触れたことは旧版に比べれば改善された点であるが、この記述はあまりに唐突であり、蝦夷とアイヌの関係、アイヌが行った交易の内容と日本との関係などがまったく記述されておらず、あまりに不充分である。
注:この項は、榎森進著「『蝦夷地』の歴史と日本社会」(岩波書店1987年刊日本の社会史第1巻「列島内外の交通と国家」所収)、斉藤利男著「平泉 よみがえる中世都市」(岩波新書1992年刊)、佐々木史郎著「北海の交易―大陸の情勢と中世蝦夷の動向」(岩波書店1994年刊岩波講座日本通史第10巻中世4所収)、前掲入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉、南の琉球」などを参照した。