「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判30・補遺2


 

30補遺2:完全に欠落した女性史の視点

 「つくる会」教科書の新版(05年8月刊)には、古代と近代のところに「人物コラム」としてそれぞれの時代に活躍した女性を主人公とした記述が設けられている。そのうちの古代の「紫式部と女流文学」と題するコラムが平安時代において宮廷女房たちによる「文学」が花開いた社会的背景、すなわち、古代における女性の社会的地位を明かにするという視点もなく、多くの間違いに満ちたものであったことは、古代の項においてすでに批判した。「つくる会」教科書は、古代における代表的な女流文学者を取り上げながらも、その時代における女性の社会的地位を問題にするという女性史の視点をまったくもっていなかったのである。

 この傾向は、中世においても同様である。
 「第2章:中世の日本」の記述には、女性を主人公にした「人物コラム」すら置かれていない。では、中世においては社会的に活動した女性はいなかったのか?。
 たしかに「文学」という面では、女房文学が南北朝時代をもって終焉したように、鎌倉期までで女性が活躍した時代は終わっている。しかし宮廷女房が単に後宮での育児だけを職掌としてはおらず、本来は宮廷における神事を司るという極めて政治的な役割を担っており、女房文学それ自身も、貴族社会における女房の政治的立場を表明しているものであったように、中世でも、政治の場面で活躍した女性も数多くいる。

 著名な所では、尼将軍と呼ばれ、頼朝死後の鎌倉幕府の要の地位を保持した北条政子、そして承久の乱に至る政治状況の中で王朝国家において政治的に大きな発言力を持った亀菊(伊賀局・後鳥羽上皇の愛妾である)、さらには室町幕府の8代将軍足利義政の正室であり次期将軍足利義尚の母である日野富子など、時の権力者の妻として政治的に大きな発言権を有した人々がいた。
 「中世においては何故、妻(または次期権力者の母)が大きな発言権を持つのか」という問いが、ここでは成り立ち、彼女たちを主人公にした「人物コラム」を置き、中世における女性の社会的地位について述べることは充分可能なのである。しかし「つくる会」教科書は、旧版においても新版においても、中世で名を挙げられた女性は「北条政子」ただ一人であり、しかも彼女が尼将軍として頼朝亡き後の幕府政治において大きな発言権を有していた事実は伏せられ、「頼朝の正室政子の縁で北条氏が幕府の実権を握った」としか記述されていない。

 「つくる会」教科書は、中世においても女性史の視点はまったくないのである。では、中世という時代は、女性はどのような社会的状態に置かれていたのか?。

(1)家の確立と女性

 中世は「家」の確立した時期である。「家」とは、家督を相続した家父長を中心とした婚姻によって成り立った血縁家族のことである。

 この「家」の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、貴族層・武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、さらに庶民層においては、南北朝時代から室町時代であった。それぞれの画期の前の時代においては夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、女性が親から財産を相続するのは当たり前であった。そしてそれぞれの画期の後の時代になると、夫婦は共に家の名としての姓を名乗るようになっていることから、それぞれの時代に「家」が成立したことが分かるのである。この意味で、全ての社会階層において「家」が成立するのは、南北朝時代以後ということであり、「家」が全社会的に確立されたのは、戦国時代であった。中世の最末期である戦国時代は、今日まで続く日本社会の基層である「家」の確立した時期なのであった。

 では家父長を中心とした「家」社会における女性の地位はいかなるものであったのか。「家」が確立した後の時代においては、明治期の民法に規定されたごとくに、財産は夫婦別財から夫の財産になり、財産の継承は男子継承になったのか?。はたまた「家」における諸権限は夫の専権事項になったのであろうか。

(2)女性の財産相続権の継承

 実は「家」が確立された後においても女性の財産相続権は継承されていた。
 武家の法である鎌倉幕府の貞永式目では、所領の女子への相続も認められており、地頭として所領を管理した女性たちも数多くいた。また公家の世界でも、女性の親から相伝の所領の保持も認められており、宮廷女房などの職を果たしながら、相伝の所領の経営に携わったり、女房としての功績により新たに所領を賜った女性もいたのである。すでに「家」が確立しつつあった公家・武家の階層においても、女性の財産相続権は認められていたのである。さらに庶民の階層においては、「家」の形成が確立していなかった中世前期においては、名主職などの耕作権を、女性がその父母から相続していた例は多いし、「家」が確立してきた中世後期においても、名主職を継承する女性の例は多い。

 しかし、次第に女性の財産相続権が限定されてきたことは確かである。
 それまでは女性が財産を相続する場合でも「永代相続」であって、女性はさらにその子孫に財産を相続させることができていた。しかし中世の時期を通じて、この「永代相続」が次第に「1代限り」に変化し、相続した女性が死亡した後には、その財産はその父母または父母の家を相続した者に返却されるようになっていった。やがて「1代相続」は維持されながらも、女性に相続される財産の量が制限されるようになり、「化粧料」という名目での「持参金・持参の財産」へと、量的には制限されていったのである。

 だが中世を通じて女性の財産相続そのものを否定する論理は生まれず、女性も親から財産相続を受け続けていたし、夫婦は別財であって、妻も夫の所有する財産とは別に、自分の財産を持ち、それによって独自に付け届けをしたり、遊興に使ったりできたのであった。
 この意味で、財産所有の問題において女性はいまだ男性と対等であったといえよう。

(3)2人の「家長」からなる「家」

 中世の「家」においては、夫と妻の役割は分担されていた。夫は「家」の対外的な活動を分担し、妻は「家」の中の活動を分担するという形であった。
 例えば公家の「家」においては、宮廷における様々な職を帯びて宮廷の仕事を果たし、それによって様々な収入を得て、その収入の使い道を差配するのは夫であった。そして妻は家政の分として差配された収入をやりくりして、夫の対外的活動を支えたり、育児・家事全般の家政を差配した。これは武家においても同様であり、地頭職など対外的な官職を帯びて収入の道を確保するのは夫、妻はその収入によって家政全般を司るのであり、庶民においても、名主職などの対外的職を帯びて租税を負担し収入の道を確保するのは夫で、家政は妻という形に、分担されていた。

 しかし妻の地位は、近代のそれとは違って大きなものがあった。中世の「家」における「家長」は、夫と妻という2本柱によって成り立っていたのである。

 対外的な活動を夫が分担するといっても、それは妻の支えなしにはできないものである。公家の宮廷での職種によっては、妻の支えと助力なしには職責を果たし得ないものもあり、これは武家においても同様である。また戦に赴くことの多い武家においては、夫の不在時における地頭職の遂行は妻の任務であり、場合によっては妻は夫に代って家臣や百姓を動員して自ら武装し、荘園を襲う悪党などと戦う場面も多かった。ましてや農・漁業や商工業などに従事する庶民においては、家内労働が常態であった当時においては、夫婦が力を合わせて仕事に従事せねば、仕事そのものが成り立たなかったのは当然である。農民の田畑が夫婦それぞれがその父母から相続したものであったとしても、それぞれの田畑を夫婦が協力して耕作したのである。
 したがって夫婦はさまざまなことについて談合を行った。二人で共同して仕事をこなすための話し合いである。
 例えば武家において夫が戦陣に赴く場合には、もし夫が戦死した場合の家督の相続などについて、戦に赴く前に夫婦が談合し、合意した事項については夫が証文として書きとめ、証文に書けないさまざまな事項については妻の専権事項として決めるということが証文に書かれていたのであった。また庶民においても、「惣」における様々な頭役を務めるにあたっては事前の妻の同意とその頭役を務めるための様々な準備についての談合が不可欠であったことなどは、この時代の狂言などの台本に書かれている。

 対外的な活動において夫婦は共同して事にあたったのである。それゆえ「家」の中の活動である、育児・家事についても責任は妻の方にあっても夫と妻の談合が不可欠であり、例えば子どもに対する親の権利は夫と妻の双方が平等に持っていた。それぞれが親としての務めがあったのである。

 したがって中世の「家」の「家長」は、夫婦2人であったと言っても過言ではない。

 だから一方の家長である夫が死したあとは、家長を息子が継承していない限りにおいては、後家となった妻は唯一の家長として「家」の対外的対内的活動の全般に責任を負ったし、家長を息子が継承した場合でも唯一の親権者としてさまざまな責任をおったのである。

(4)妻・母としての権限の大きさ

 このため中世において政治権力を担った公家や武家の家において、女性が妻として母として大きな権限を行使した例が多い。

 著名な所では、鎌倉幕府将軍御台所として御家人に対する処分権すら振るい、夫頼朝の死後は「尼将軍」として2代将軍・3代将軍の後見人として活動した北条政子、後鳥羽上皇の愛妾として朝政にも大きな発言権をもった伊賀局、さらには室町幕府将軍御台所としてさらには次期将軍義尚の母として幕政を動かした日野富子。これらの女性たちが政治の場面で大きな発言権を有したのは、彼女たちの「家」が、公家・武家において最高の政治権力を保持する「家」であり、彼女たちがそれぞれの「家」において夫とともに並び立つ「家長」であったが故なのである。

 そしてこのような例は、将軍・上皇の家以外でも数多くあげることができる。公家の家から守護大名今川家に嫁いで夫の死後、幼い氏輝の後見人「女守護大名」として活動した寿桂尼、戦国大名毛利隆元の妻として夫の死後、幼い輝元を養育しつつ後家として毛利家の要として動いた小侍従の局など、妻・母として「家」の活動を担い、政治に関った女性は数多くいたのである。

 これは古代において女性がそれ自身が持っている聖性と財政的基盤を基礎に『王』として君臨した例とは異なり、「妻・母」として「夫・息子」の「家長権」を代行した形での政治への関りであり、この意味で女性の社会的地位の低下は見られるとしても、近代以後の「家」における女性の権限のなさとは異なる様相を示したものである。

(5)商業や芸能における女性の活躍

 もう一点、中世において女性がめざましい活動を示していたのが、商業や芸能という分野であった。

 16世紀初頭に成立した「71番職人歌合」には142人の職人が登場するが、そのうち34人が女性である。内訳は、職人(物作り)が4人、紺掻・機織・縫物師・組師である。どれも衣服に関する職人であることが注目に値する。さらに商人は21人、酒作・餅売・小原女・扇売・帯売・白物売・魚売・挽入売・饅頭売・紅粉解・米売・豆売・豆腐売・素麺売・麹売・すあい(薬・扇・帯などさまざまな小間物を売る行商人)・畳紙売・白布売・綿売・薫物売・心太売である。どれも食品や衣服にかかわる商人であることが注目される。つまり、女性の家における仕事がそのまま社会的な仕事になっている。あとは芸能民が9人、女盲・立君・図子君・白拍子・曲舞々・持者・巫・比丘尼・尼衆である。遊女や芸人そして神下ろしをする人々である。どれも古代においては神に仕えるものであり、女性が神に仕える者であったことに由来するのであろうか。実際にも、当時流行した猿楽能は、本来の猿楽に観阿弥が曲舞いの要素を組み入れてつくったものであり、猿楽師には女性の一座もあり、観世座と競って演目を張っていたことも記録に残されている。

 このうちの物作りと商人であるが、実際の形としては、商品の製造は夫で販売は妻という形が多く見られ、中世における夫と妻の分業の成立と同じ形をとっていることが注目される。しかし商品を売る「販女(ひさぎめ)」は平安時代初頭に成立した「倭名類聚抄」にも既に見えているので、商品を女性が売る形は中世に始まったわけではなく、夫と妻の分業が成立するより以前からのものと言える。
 おそらくこれは、市が現世と他界とをつなぐ場、つまり神が現れる場において開かれたことに見られるように、ものの商いが聖なる行為として始まったことに由来するのであろう。そして女性こそ、神を現世に下ろすもの(=巫・かんなぎ)であり、それ自身が神聖性を帯びた存在であったことによるのであろう。この意味で、先にみた女性の仕事としての芸能がみな神に仕えるものに由来していたことの意味がわかる。

 またこの「職人歌合」には見られないが、中世における高利貸しに女性が数多く見られたことも事実である。これも金貸しの初源が、寺社に集まった「初穂」を貸し付けることにあったことに見られるように、金貸しが神のものを下す行為であったことに由来するのではないだろうか。家の中の金目のものをしまう倉庫であり夫婦の寝所であった「納戸」が、家の中で最も聖なる場所であり、納戸の支配権は妻に属したことにも、金銭と神と女性との密接な関係が見て取れるのである。

 さらに「職人歌合」に載せられた職業の多くが京都周辺のものであり、その職業は「座」によって運営されていた。「座」の特権それ自身が神との結合に由来することからも、商業と神との親近性が見て取れる。そして上に上げられた女性の職業において、その座を統括する地位に多くの女性がついていたことも資料から明らかである。扇座を取り仕切ったおとな衆の中心である布袋屋の主人は代々女性であり、扇座に属する商人の多くも女性であった。同じ事は、帯座でも、綿売の座である祗園社の綿座でも同様であった。

 このように、商業や芸能が神との密接な結びつきを失っていなかった中世という時代において、女性はこれらの分野で大いに活動していたのである。これは、「家」において女性の占める位置が大きく、女性の財産相続権が広く認められていたこととも関係するであろう。つまり、氏や家の神を祭ることができるのは古来以来女性であり、このことは、家の竈の神が宿る竈の火を受け継ぐのは女性であったことに中世でも受け継がれていた。つまり女性が帯びていた神聖性は、いまだ消えてはいないのである。だからこそ、女性の家における位置は大きいし、財産権という、本来は神に属する分野でも女性を排除することはできなかった。
 中世という時代は、しだいに神の神聖性が薄れていった時代である。しかし、後の近世や近代以降とは違って、神の力はまだまだ大きなものとして認識され、人々の暮らしから神を排除することは出来ない時代であった。このことと女性の社会的地位の高さは繋がるに違いない。神聖性を有した女性という存在は、神の没落とともにその社会的地位を没落させ、近代という神が死んだ時代において、その権利は剥奪された。中世はその過渡期なのである。

 中世という時代をかくとらえれば、中世の章の最後に、この時代に活躍した女性を取り上げて「人物コラム」とし、この時代における女性の社会的地位を論ずることはかなり有効な手立てである。しかし「つくる会」教科書は、それをしなかった。
 しなかった理由は、女性といえば「文学者」にその例を限ったことが一つの理由であったろう。日本の歴史の中で「文学」で女性が活躍したのは、古代(中世との過渡期である鎌倉・南北朝期も含めて)と近代(その前史としての近世後期も含めて)であり、中世にはほとんど見られない。

 「人物コラム」として女性を通史的に捉えるのであれば、古代いらい一貫して「政治」の面で活躍した女性をとり上げてみると、通史として成立したのではないだろうか。古代であれば「女性天皇」、中世では妻として母として政治をおこなった北条政子や日野富子、彼女たちは「武家の首長」の妻であったのだから、中世という時代を描くには格好の存在であろう。そして商業と女性の密接な関係を考えると、日野富子が最適である。彼女は応仁の乱の最中でも西軍・東軍の諸将に多額の金銭を貸し付けており、乱の収拾を期待されて多額の礼金を受け取ってもいたのである。また、京の七つの入口の関を設けて巨額の通行税を手に入れ、これで不足していた幕府御用金をまかなったのである。日野家は将軍御台所を出す家柄として勢力を伸ばした中流貴族であったが、所領が武士に横領される中で、当主をはじめとして家司・内者・被官という家来まで、他家や土倉にまで金を貸していたことが知られており、日野家の家臣には商人もいた。日野家は商工業の発展という時代にうまく対応し、台頭してきた高利貸し資本を家の内部に取り込んで力をつけていたのである。このような家風の公家の家に生まれた娘であったゆえに、日野富子は将軍御台所として権勢を振るうと共に、高利貸しとしても名をはせることになったのであろう。
 「つくる会」教科書が、「人物コラム」として女性をとりあげるという意欲的試みをしていながら、それを通じてそれぞれの時代における女性の社会的地位の問題を通史的に取り上げる意図を持ち得なかったことは根源的には女性の社会的役割を「文学者」や「妻」としての範囲に限定するという女性蔑視の思想に由来するとはいえ、きわめて残念なことである。

:この項は、坂田聡著「中世の家と女性」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第8巻中世2」所収)、藤木久志著「戦国史を見る目」(1995年校倉書房刊)、田畑泰子著「中世前期における女性の財産権ー家庭・村落の中で」(1996年藤原書店刊「女と男の時空ー日本女性史最高第2巻:おんな・おとこの誕生ー古代から中世へ」所収)、久留島典子著「婚姻と女性の財産権」・後藤みち子著「『家』における女性の日常と役割ー中世後期の各階層をめぐって」・鈴木敦子著「女商人の活動と女性の地位」・細川涼一著「中世の旅する女性ー宗教・芸能・交易」(以上・1996年藤原書店刊「女と男の時空ー日本女性史再考第3巻:女と男の乱ー中世」所収)、笹本正治著「異郷を結ぶ商人と職人」(2002年中央公論新社刊「日本の中世3」)、田端泰子・細川涼一著「女人、老人、子ども」(2002年中央公論新社刊「日本の中世4」)などを参照した。


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