「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判4


4.「武家政治」という虚妄=まつりごとは貴族の特権だ

 「鎌倉幕府」の第4項目は、「鎌倉幕府の成立である。この扶桑社の教科書は、以下のように記述する(p84)。

 平氏滅亡ののち、頼朝は朝廷の承認を受けて、地方の国ごとに守護を、荘園や公領には地頭を置いた。守護は、その国の武士を指揮して、軍事・警察の仕事につき、地方の政治にも関与した。地頭は、年貢の取り立てや、土地の管理などを行った。また頼朝は、対立するようになった義経が奥州の藤原氏のもとにのがれると、その勢力を攻めほろぼして、東北地方も支配下に入れた。
 1192年、後白河上皇の没後、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命された。(中略)頼朝は鎌倉で簡素で実際的な武家政治の拠点を築いた。これを鎌倉幕府とよび、鎌倉に幕府が置かれた約140年間を、鎌倉時代という。

 この記述では、まるで頼朝が全国を朝廷にかわって支配し、武士がまつりごと=政治全般を行ったかのように読み取れ、天皇を頂点とした都の貴族たちが全国を治める体制は、終結したかのような印象を受けしまう。この端的な表現が、「武家政治」という言葉である。

 この教科書の著者たちは、「武家政治」とか「幕府」とかいう言葉に、後の江戸時代の「江戸幕府」のイメージを重ね合わせているかのようである。

(1)全国を支配していたのは天皇・貴族の朝廷である

 鎌倉に幕府が出来たといっても、それは将軍である頼朝の私的な機関にすぎない。全国はあいかわらず朝廷の指揮下にあったのである。私が授業で使っていた清水書院の教科書は、以下のように記述している。

 1185年、頼朝は朝廷に強くせまって国ごとに守護を、平氏が支配していた荘園や公領ごとに地頭をおくことを許された。守護は、国内の御家人をあつめて京都や鎌倉の警備をしたり、犯罪のとりしまりをし、地頭は、荘園・公領の土地の管理や治安維持の役目をもち、年貢の取りたてもするようになった。
 その後、頼朝は、対立していた義経をかくまったことを理由に、奥州の藤原氏を攻め亡ぼし、その荘園・公領にも地頭を置いた。守護や地頭には御家人が任じられたので、軍事・警察面での頼朝の支配は、全国におよぶようになった。しかし諸国には国司、荘園や公領には寺社や貴族の勢力もあった。

 そう、1185年に地頭が置かれたのは、「平氏が支配していた荘園や公領」だったのであり、それ以外の天皇・院・皇族・貴族が支配していた荘園や公領には、頼朝が任命した地頭は置かれなかったのである。しかもこれさえも、天皇・朝廷からの不満や圧力がかかり、1186年10月には頼朝自らが、「現在の謀反人の領地以外での地頭は停止」と宣言せざるをえなかったのである。
 1186年10月の時点の謀反人とは、1185年の11月に謀反人として追討の宣旨が出された源義経と源行家であり、したがって平氏の旧領の地頭は、この時点では頼朝が任命することすらできなくなったのである。
 そして奥州藤原氏の滅亡した1189年以後では、奥州藤原氏が支配した荘園と公領に頼朝の任命の地頭が新たに置かれたのであり、全国の村村を支配することは、朝廷は認めなかったのである。

 頼朝勢力が軍事・警察・裁判・徴税権をもって政治支配を行ったのは、治承・寿永の戦乱の中で事実上横領し、貴族である頼朝御料地として、後には将軍御料地として、頼朝が知行国守となった関八州と奥州に過ぎなかった。この地域には国司は置かれず、諸国は守護が統括し、総ての荘園や公領には頼朝任命の地頭が置かれていたのである。
 これ以外の西国では守護は置かれたものの、それは軍事・警察権を持つに過ぎず、国々の裁判は国司が、そして荘園の徴税権はそれぞれを所領とする貴族が任命する荘官が、そして公領の徴税権は国司が行っていたのである。

 日本には箱根以東を支配する頼朝勢力と、それ以西の西日本を支配する、都の朝廷という形で、いわば二つの政府があったというべきか。

 だが、荘園や公領を支配する地頭の職掌を仔細に見ればわかるとおり、彼らは警察権は行使するが、徴税権は文字どおりに「税を集める」権利にすぎず、集めた税は、荘園ならそれを所領とする都の天皇・院・皇族・貴族や寺院や神社に、公領であれば、都の朝廷に納めるのであって、村村を管理し税を集めたことによる一定の取り分を除いては、けして地頭のものにはならないのである。また将軍御料地といっても、それはあくまでも貴族としての将軍が朝廷から与えられた知行国の範囲であり、将軍を任命した朝廷の承認の下でのことだったのである。
 この意味で鎌倉の「幕府」が全国に及ぼせたのは、諸国守護の軍事・警察権のみであり、関八州以外では、裁判権すらなかったのである。

 したがって「鎌倉時代」といっても、全国を支配していたのは都の朝廷であり、後白河上皇の死後は、後鳥羽天皇を頂点とした都の貴族集団だったのである。鎌倉の「幕府」はあくまでも、将軍の家政を司る私的な機関に過ぎず、それが実効的に権力を及ぼせるのは、将軍御料地としての関八州と奥州だけだったのである。

(2)臨時の職分として置かれた「守護」「地頭」

 鎌倉幕府の政治機構というと、中央に置かれた三つの役所以外では、「守護」「地頭」ということになる。だがこの二つの職分は上に述べたように、その管轄する国や村を政治支配するものではない。守護は軍事・警察の治安維持を、地頭も治安維持の仕事と徴税の仕事を受け持ったにすぎない。そしてこの二つの職分が置かれるにいたった経過をみれば、頼朝勢力としてはこれを恒久的な職分としておこうとしたふしはあるが、朝廷としては、これはあくまでも臨時の職分として認めたに過ぎず、これが恒久的なものになるかどうかは、双方の力関係にかかっていたのである。

 守護・地頭が最初に置かれたのは、1185年の11月。これはその前の月に、源義経が頼朝に反乱し、朝廷が彼に頼朝追討の宣旨を与えたことへの、頼朝側の反応である。頼朝追討の宣旨があったにもかかわらず、諸国の兵は動かず、義経らは西国に落ち延びようとして船が難破し、その後行方不明になったときである。頼朝らは、頼朝追討の宣旨を出し、頼朝らを朝敵としてあつかったことの責任を厳しく追及するとともに、諸国に守護・地頭を置く事を朝廷に迫り、これを認めさせたのであった。

 だがこれらは、あくまでも臨時の職である。

 守護は、追討の宣旨を出されて朝敵となった義経・行家らを諸国において追及し捕えることを任務としており、当然朝廷としては、それまでの臨時の職として認可したものである。そして地頭は、平家が荘園領主や知行国守として荘官や地頭(すでに地頭は置かれていた)を置いていた地域で、、治承・寿永の戦乱の中で頼朝勢力によって占領され、平家が任命した荘官や地頭が廃止されたところに、その代わりとして徴税などを実行するために新たに頼朝任命の地頭を一律に置くと言う、限られた任務をもつものであった。

 守護と言う職は、これまでにも置かれた。治承・寿永の戦乱の中で、後白河によって朝廷を支え朝敵となった平氏を追討する勢力として認定された頼朝勢力は、各国に総追捕使を置く事を認められ、諸国の兵を動員して、平氏方を撃つ事と、平氏の所領を没収し、朝廷へと返還させる仕事をすることを認められた。しかしこれは昔からの朝廷の朝敵となったものをとりしまるための臨時の職であり、これが置かれた範囲は、東海・東山・北陸の、いわゆる東国に限定されており、1185年2月の平氏滅亡とともに、廃止されたのであった。

 守護は、義経らを追討するために畿内近国に置かれたものであり、当時も総追捕使とも呼ばれている。臨時の職であれば今までも置かれたのであるから、守護を認めることには問題がない。問題になったのは、地頭の方である。荘園領主権は複雑に入り組んでいる。平氏の所領といっても、平氏が本家として税の免除などの特権を保証したものは少なく、多くは領家として現地を預かりその家人を預所である荘官に任命して年貢を集め、一番上級の荘園領主=本家である上級貴族に、その年貢を納めるという形をとっていたのである。1185年に地頭が置かれたのは、平家が領家として荘園を管理していた土地で、戦乱の中で頼朝勢力によって占領され、平家方が任命した荘官や地頭が廃止されていた所である。
 荘園を実際に管理するものを頼朝が任命するというのである。

 だが平氏が領家であった土地に限定されているとはいえ、これは本家としての荘園領主権の重大な侵害である。貴族層は抵抗したが、これも平氏一族と縁戚関係をもった義経らを追討するためと言われ、頼朝追討宣旨を出した責任を追及されることにより、しぶしぶ認めたものであった。そしてこの時の地頭と守護の重要な任務は、この戦いの戦費として、平家の所領に限定されず、諸国の荘園・公領すべてから一反あたり五升を徴収する兵糧米を集める事であった。これも臨時のものであったが、この権限を認めさせたことを切っ掛けにして、頼朝勢力は、諸国の諸税のうち、未納のものを免除するよう朝廷に働きかけ、これをも認めさせてしまった。

 要するに守護・地頭とは、義経らを追討するための臨時の職にすぎないのであるが、これを口実にして、諸国の諸税を横領し、かつ諸国の兵を動員するためのものなのであった。そして1186年の5月に行家が和泉の国で撃たれ、義経が頼みにした奥州藤原氏も1186年の4月には頼朝に服属を誓ったので、もはや義経・行家の勢力はとるにたらないものになったにもかかわらず守護を廃止しようとはせず、1186年の12月にはさらに「鎮西奉行人」という形で、まだ勢力の及んでいなかった九州地方の平家領と平家方の武士の所領の没収を任務とする職をおいたのである。ここにいたって守護職は事実上全国に及ぼされ、同時に地頭職についても、「謀反人所領」という形で、平家と義経方の所領という制限はつきながらも、頼朝方に地頭の任命権を確保し、守護・地頭職を事実上、常設のものにしてしまったのである。そして1189年の奥州藤原氏の滅亡により、その勢力は奥州にも伸び、頼朝勢力は都の朝廷の指揮下という形式的側面は残しながらも、それとはなかば独立したものとして存在するようになったのである。

(3)王朝と「幕府」の融和に努めた頼朝と後白河

 王朝国家と「幕府」とは互いに勢力を侵食し合う対立した性格を持ちながらも、頼朝と後白河の存命中には、決定的な対立には到らなかった。それは頼朝という武人の性格と、戦乱の世を生きぬいてきた後白河という天皇の性格とによるものであろう。

 頼朝は関東武士の棟梁として彼らの多くを家人として従え、鎌倉にあって彼らの利益を、朝廷との関係で保護し続けてきた。この意味で彼は、勃興しつつある「武士」階級の頭として、意識的に行動してきたといえよう。だがしかし彼は同時に、清和源氏河内流という王族の武門貴族でもあった。
 頼朝は幼少から都で育ったのであり、彼の母は高い位の貴族の娘であり、この点で、坂東の武士の娘を母とし、坂東で育った兄・義平とはまったくその性格を異にしていた。彼は都の貴族の一員として育ったのであり、彼らの考え方は自身が幼い時から身につけてきたものでもあった。そして彼が長じて以仁王の宣旨を奉じて、皇位継承の争いの一方の勢力に加わり、坂東の武者たちを基盤にその勢力を伸ばし、後白河にもその存在を認めさせ、後白河王朝を確立する柱石として認めさせるに及ぶや、頼朝の周りには、都の貴族たちが寄り集い、彼の腹心として朝廷との折衝にも当たったのである。政所長官を務めた大江広元や問注所執事をつとめた三善康信などはその例である。
 そして頼朝は後白河直属の軍事組織の長としてふるまい、朝廷と折衝するときはすべて後白河と直に折衝し、貴族たちの牙城である太政官をこえて独立したものとして行動した。だが頼朝は常に貴族の上層部とも交渉をもち、その意向をくみつつも、自己の意向を彼らを通じて朝廷の決定に反映させようとしていたのである。後に摂政となった九条兼実との関係などもその一例である。
 頼朝はあくまでも王朝国家の長である後白河に直属のものとして行動したのであって、けしてそれから独立したものとして動いたのではない。彼は長きにわたった戦乱が収束した1190年、後白河の招きに応じて上洛し、後白河法皇・後鳥羽天皇に拝謁し、右近衛大将という、文字通り天皇直属の武力組織の長の地位についた。

 一方の後白河にしても、頼朝決起の当初こそ「謀反人」としてあつかったものの、それが独立した大きな勢力となるや、平家の支持する高倉・安徳の王朝に対抗して自己の王朝を確立するための支えとなると判断し、これとの融和につとめている。頼朝勢力と朝廷との交渉のパイプ役は、後白河自身が直接務めたのであり、頼朝の動きは常に後白河との合意に基づいてなされたと言えよう。
 先にも述べたが、後白河は本来皇位には縁のない皇族であった。もし彼の異母弟の近衛天皇が若くして死ななければ、そしてその皇統を継ぐべき次代の天皇として彼の息子の二条が選ばれなかったら、彼は天皇位につくこともなかったであろう。彼の母は、父鳥羽上皇に疎まれていた侍賢門院璋子であり、彼の同母兄は、同じく父に疎まれていた崇徳天皇だったからである。
 しかし鳥羽と崇徳の皇位継承の争いは、結局の所武力でよってのみ決着がつけられ、彼は中継ぎの天皇として在位続けた。そして彼が鳥羽派の天皇としてその皇統を継ごうとした二条に対抗して自身の王朝の確立に動けたのは、武門平氏の清盛の勢力と結びついたからであり、その支えを背景に、後白河・高倉という自己の皇統をつくることができたのである。
 その高倉と対立し、彼の意思に反して高倉・安徳の王朝が成立し、それを支える平氏に幽閉された後白河が復活できたは、頼朝を頂点とする坂東の武士たちの力を背景としたからこそである。
 戦乱の世の中で、自身の意思とは無関係に政治の表舞台に引っ張り出された後白河は、自己の地位が、武門勢力との関係なしには存在し得ないことを熟知していたであろう。だからこそ彼は、頼朝の無理難題ともいえる要求の多くを飲んできたのである。自己の皇統を維持するという目的一点のために。

 したがって朝廷と「幕府」との関係が緊張に満ちたものになるのは、1192年3月の後白河の死後である。だが頼朝が生きているうちは、朝幕の関係は破綻には向かわなかった。右近衛大将をすでに辞し、朝廷とはなかば独立した立場を堅持していた頼朝は、1192年7月に征夷大将軍となって、もじどおりに朝廷の臣下として朝敵を亡ぼすための武門の長としての地位についた。そして1195年には、妻と娘と息子とを伴って再び上洛し、息子の頼家を次の将軍として披露し、娘大姫を後鳥羽の后にはかることで、朝廷と「幕府」との関係を今後も対立したものにはならないように配慮した。しかしこれは大姫の死去によって実現せず、1199年の頼朝自身の突然の死去により、頓挫してしまった。
 朝廷と「幕府」との間が緊張に満ちたものになるのは、これ以後のことである。朝廷・幕府の双方の内部に、朝廷と幕府の関係のありかたについて対立した見解が現われ、それが双方の内部で内部抗争として進行し、最後に爆発点となって噴出したのが、1221年の承久の乱である。

 この承久の乱の勝利をもって初めて「幕府」は実質的に朝廷をもうわまわる勢力として君臨しはじめるのであって、1185年の守護・地頭の設置や1192年の頼朝の征夷大将軍任官によっても、全国を実質的に治めているのは朝廷であり、「幕府」は徐々に朝廷の勢力を侵食し、独立した地歩を固めつつあったにすぎないのである。この意味でも、1192年の時点を「武家政治」の始まりとする、扶桑社の教科書を初めとする多くの教科書の記述は間違いなのである。

 いわゆる鎌倉時代は、「貴族の政治」と「武士の政治」の過渡期なのであり、この過渡期としての性格は、のちの室町時代にも続き、「武士の政治」が確立したのは、実に江戸時代なのである。(以上の批判は、河内祥輔「頼朝の時代・1180年代内乱史」平凡社刊による)

(4)封建領主としての貴族

 もう1点、教科書の記述に気になるところがある。それは封建制度についてである。扶桑社の教科書は以下のように記述している(p84)。

 鎌倉幕府は、将軍とその家来である御家人の主従関係によって、成り立っていた。御家人は将軍から伝来の領地を保護されたり、新しい領地を与えられるなどの御恩を受け、そのかわり将軍に忠誠をちかい、戦のときには命をかけて戦って、奉公にはげんだ。このように、領地をなかだちに主従関係を結んだ武士が、農民を支配する社会の仕組みを、封建制度という。

 どの教科書も同じように記述している所である。

 しかしこう書いてしまうと間違いである。これでは封建的主従関係は武士の専売特許となってしまうからである。

 事実はこうである。将軍と御家人の関係は、貴族として朝廷から一定の地域の管理と政治を任された将軍が、その支配地域の実際的管理をその家人となったものに委ね、家人は、自身が管理する土地からの税(年貢)を将軍(その土地が貴族としての将軍の御料地であれば)やその他の荘園領主である貴族(その土地が将軍以外の貴族のものであるときは)に上納し、一定の取り分を取得する。そしてこの家人は代々主人に仕え、主人のために働き、その勲功によってはさらに多くの土地の管理権を与えられるという関係だったのである。

 これは武士に特有な社会関係ではない。もともと荘園領主として土地の私有化を図ってきた貴族と、その保護下に自己の権利の伸張を図ってきた武士との間の社会関係なのである。武士は荘園領主としての貴族の家人となることで、自己の土地を貴族の荘園として、国家による徴税や警察・裁判権の行使から逃れる手段とし、貴族のほうも、彼らを家人として保護する事を通じて、自己の支配地の実際的管理と徴税とを委ね、富を蓄積してきたのである。この意味で封建制度は荘園制の成立とともに始まったのであり、貴族こそが封建領主だったのである。

 幕府における将軍と御家人との関係は、貴族とその家人との関係に等しく、違う点といえば、将軍が保護するのが、貴族としての自己の荘園の管理をする武士たちだけではなく、家人となった、他の貴族の土地を管理する武士たちの利益をも、朝廷や当の貴族らに抗しても、保護するという関係にあった点だけなのである。

 この意味で貴族と武士との抗争は、封建的支配層内部の争いであり、土地を巡るより上層の支配者とより下層の支配者との、土地の実効支配権をめぐる争いであったというべきである。

(5)「貴族政治」への偏見

 最後に蛇足だが、1点付け加えておきたい。それは扶桑社の教科書の「簡素で実際的な武家政治」という、幕府政治に対する評価に孕まれた問題点についてである。これは逆説的にいいかえれば、「貴族の政治」は「華美で形式的な政治」という評価と一対のものである。

 なぜここでこんな評価がなされたのか。

 それは、この教科書の著者たちが「貴族」に対する偏見に満ちており、それと同時に戦争を司る暴力集団に過ぎなかった「武士」に対する過度の評価を持っていることの裏返しだったからである。そしてこれは平安時代にたいする誤解と偏見に起因しているのであり、著者たちがなんら科学的な裏づけもなく、ただ従来の通説の、しかも偏った価値観による理解に依拠したままこの教科書を書いたということの証拠でもある。

 平安時代の荘園制とそれにともなって起きた官司請負制によって、都の中央貴族たちは、政治の実務面と土地支配の実務面から解放され、我世の春を誇った。政治の実務面は下級貴族たちに家職として相伝され、土地支配の実務面は、武士たちに同じく家職として相伝された。よって上級貴族たちの関心は、いかに自己の王家との関係を維持・強化し、王朝国家において、自己の勢力を伸張させるかに向かった。そして王権の実質的支配地域が首都京都を中心とした都市部に限定されるや、全国の富の集中を背景として、彼らの生活は華やかとなり、歌舞音曲や詩歌を中心とした文化が栄え、彼らの日常生活や政治生活もそれに彩られるようになった。そして彼ら貴族の支配が安定するにしたがい、朝廷における彼らの行動も前例にしたがった保守的なものとなり、有職故実と言う過去の先例を重視した、その意味で華美で形式的なものになったのである。

 貴族の政治が「華美で形式的」なのは、彼らが政治的には全国的な支配者であり、天下の富が彼らに集中しているからこそであったのであり、逆に武士の「政治」が「簡素で実際的」なのは、彼らが全国を政治的に支配してはおらず、天下の富も支配しておらず、支配者としての貴族の下で、その政治の実行的側面をになっていた、実務官僚だからこその色彩なのである。

 この教科書の著者たちは、この武士と貴族の当時における相互の関係を無視し、一方的に貴族を断罪し武士を賞揚する。ここにもこの教科書の著者たちが、なんら科学的な認識に依拠するのではなく、偏見に基づいて記述している側面が透けて見えている。

:05年8月刊の新版の「鎌倉幕府の成立」の記述(p68)、ほとんど旧版と同じである。したがってここに示した旧版の問題点に対する批判は、そのまま新版にも当てはまる。

:この項は、前掲、佐藤進一著「日本の中世国家」、河内祥輔著「頼朝の時代」、川合康著「源平合戦の虚像を剥ぐー治承・寿永内乱史研究」(1996年講談社刊)などを参照した。


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