「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第2章:中世の日本」批判31・補遺3
31補遺3:中世も続く渡来人の来航
「つくる会」教科書は、日本人の形成において朝鮮や中国からの渡来人が大きな役割をはたしたことについては全く口を閉ざしていた。このことについては、古代の弥生文化の形成の項で指摘しておいたが、さらに中世の日本文化の形成においても渡来人が大きな役割を果たしていた事について全く口を閉ざしている事も忘れてはならない。
すなわち、中世において多数の渡来人が来航し、それが日本文化に大きな影響を与えていたことは、鎌倉初期における禅宗の定着や東大寺の再建など著名な例があるにも関わらず、「つくる会」教科書はこの事実を完全に伏してしまっているのである。そして中世における渡来人の来航と日本への定着はこれだけには限らないのである。
(1)禅宗の招来に果たした来日僧の役割
禅宗については教科書は次ぎのように記述する(p90)
宋に渡った栄西や道元は禅宗を伝え、栄西は日本の臨済宗を、道元は曹洞宗を開いた。 |
たしかに彼らのように宋に渡って禅を学んだ日本僧も日本に禅宗を定着する上で大きな役割をはたした。しかし同時に鎌倉幕府が宋から招いた禅宗の高僧たちもまた、日本に禅宗を定着させる上で大きな役割を果たしたのであり、彼ら渡来僧はまた、中国における士大夫層出身であるがゆえに、中国の古典に対する豊かな教養を持ち、その知識を背景にして、幕府の外交顧問となっていたのであり、彼ら中国渡来僧の門下からも優れた後継者を出していた。
すなわち、鎌倉建長寺の開山となった蘭渓道隆(1213‐78)、そして同じく鎌倉円覚寺開山となった無学祖元(1226‐86)、さらには京都南禅寺3世となった一山一寧(1247―1317)など。彼らは中国においても禅宗の高僧であり、戦乱を避けて日本に渡来し、多くの弟子達を育てたのであった。そして蘭渓道隆と無学祖元は、執権北条時宗の外交顧問としても活躍し、一山一寧は南禅寺において後進の指導に励み、一山一寧の弟子達の中からは、五山文学の担い手や、室町幕府の外交顧問・遣明使となったものが多数でたのである。
以上のものたちは臨済宗の僧であるが、道元が伝えた曹洞宗においても、東明慧日・東陵永らが、曹洞禅を伝え、日本で後進の指導を行っていたのである。
日本における禅宗の定着と発展において、中国からの渡来僧の役割は無視することはできない。
(2)宋の技術者によって再建された東大寺
治承・寿永の内乱の中で焼かれた東大寺が再建されたのは、鎌倉時代に入ってからのことであった。「つくる会」教科書は、これについては以下のように簡単に触れている(p92)
源平の戦いで、平氏の焼き討ちにあった奈良の大きな寺院では、建築や仏像の復興が進められた。東大寺の南大門は、宋から入った新しい様式を用いて再建され、両脇に巨大な金剛力士像が安置された。宋の建築様式は禅宗寺院にも取り入れられた。 |
戦災による東大寺の被害は、大規模なものであった。被害が及んだ伽藍は、大仏殿、講堂・食堂・四面回廊・三面僧坊・戒壇・尊勝院・安楽院・真言院・薬師堂・東南院・八幡社・気比社・気多社など多数にのぼった。そして火災を受けた大仏の被害状況は、大仏の首は後ろに折れ、手も折れて横手前にあり、灰は積もって火山のようになっていた。大仏の体は大丈夫であったが、全身は焼け爛れて、大修理が必要であったのだ。
この東大寺の再建を託された大勧進の重源が九条兼実に語ったところによると、「大仏鋳造が成就するのはまったく、唐の鋳物師の意巧によるものである」ということであった。大仏の鋳造には、当時の日本の鋳物師の技術だけではできなかったのである。
この時再建された東大寺の大仏の頭部は、宋の陳和卿によって鋳造されたことは有名である。彼は商人として日本に寿永元(1182)年に渡来して鎮西にあったが、船が破損して帰国できないでいたところを重源の要請で呼ばれたという。その後彼は鎌倉に下向し,源実朝の命で渡宋の大船を建造したことでもわかるように、大工や鋳物師、そして石工などの工人集団を統括できる商人であった。そして彼が率いる鋳物師らが、戦災で焼け落ちてしまった大仏の頭部を鋳造したのである。
また陳和卿とともに多くの石工が渡来した事もたしかで、彼らは「伊」を姓としており、彼らの子孫が鎌倉時代を通じて多くの石造品を残しており、この伊姓の唐人石工は新義律宗を起こした叡尊らと密接に結びついて活動していた。
さらに多くの禅宗寺院が作られ、そこにおいて宋の建築様式が取りいれられたということは、数多くの宋の大工たちが来航していることを前提にしないと理解できないし、そうであれば、東大寺南大門が宋の建築様式によってできているということは、東大寺再建において宋の工人たちが担ったのは大仏の頭の鋳造だけではないと考えられるのである。
「つくる会」教科書は、文化が渡ってきたということは、それを担う人が渡ってきているという当然のことを無視しているのである。
(3)遣唐使中止以後も続く海外とのネットワーク
しかし、禅宗の定着や東大寺再建に多くの中国・宋からの渡来人が関わったことは、それぞれ孤立した事象ではないのである。この背景には、平安時代中期に遣唐使が中止されて以後も、中国や朝鮮などとを結ぶ海外貿易ネットワークが健在であり、その貿易を担う中国などからの渡来人が多数日本に来航して定住し、貿易だけではなく、さまざまな商工業にも従事していたという事実が背景にあることを忘れてはならない。先にも触れたように、大仏の頭部を鋳造した陳和卿自身が宋と日本との貿易を担っていた商人だったのであり、東大寺再建を担った重源自身もまた、このネットワークを背景として、三度に渡って宋に渡った僧侶であったのである。
唐の滅亡前後、特に10世紀以降には、宋からやってきた商人たちが九州・山陰・北陸の地にしばしば現われたが、彼らも「唐人」と呼び習わされた。そして大宰府や博多、そして越前の敦賀には唐人が住みつき、博多には大唐街という唐人の町があったと言われている。
こうしたネットワークを背景として平安時代から鎌倉時代においては、日宋貿易が盛んに行われていた。
鳥羽院政期に醍醐に作られた八角二階の大蔵卿堂の建築様式は、後の禅宗様式に近く、それに近接して立てられた方形堂は後の大仏様式に近いといい、この時代にすでに宋の建築様式が取り入れられている。すなわち、宋の技術者たちがすでに来航していたのだ。さらに、先にも記したが、高名な学者でもあった藤原頼長は中国から書物を輸入するために宋の商人に書物の入手リストを作って手渡し、そのために陸奥の国にある荘園の年貢の増額を求めていた。また同時期の藤原信西は、遣唐使に任じられることを考えて中国語を習っていたと伝えられており、博多に所領を有する神崎庄を知行している事から、ここを通じて貿易にも関わっていた。
同じく神崎庄を知行していた平忠盛・清盛父子が、そこを通じた貿易に対する大宰府の統制を、院宣と称して跳ね除けていたことは有名であるし、太宰大弐となった清盛は、博多が手狭なことから、宋の商船を直接都の近くに引き入れようと、播磨の大和田の泊りを修築したこともよく知られている。
このように平安時代においても中国との貿易ネットワークは維持され、それは主に宋人の商人によって担われ、彼らの多くは日本に定住して日本人の妻を娶っていたのであった。
この傾向はそのまま鎌倉時代・室町時代と継続し、元とは戦いを交えたとはいえ、民間の貿易は、日本に在住する中国の商人によって担われていたのであった。このことは1976年に韓国の近海で発見された室町時代初期の沈没船によって証明される。全長28m、最大幅9.3mのこの船は、典型的なジャンク船の特徴を持ち、おそらく船主は中国人の商人であろう。そして積荷としては陶磁器18600余点、銅銭28トン(800万枚)、紫檀材1000余本などがあり、中国の港・ニンポウから日本に向かう途中で沈没したものと見られている。また荷札と見られる木簡の中には「東福寺」の文字も見られ、この積荷の一部の利益が東福寺再建の費用に当てられるものであったことも推測できる。
そして日明貿易の発展とともに室町時代から戦国時代にかけて日本の各地に中国商人は来航し、戦国時代には各地に唐人町が形成された。それは九州の豊後臼杵・府内・日向都城・薩摩・大隈の各地・肥後熊本・伊倉・博多・豊前小倉・平戸・五島・島原の口之津などであるが、唐人町の存在は、その他に、山口・松山・小田原・川越にも存在が確認されている。このうちの小田原の唐人町は、永禄9(1566)年に三崎浦に着船した唐人たちのうちで帰国しなかったものが住んだ所である事が判明している。
これら各地の唐人町は日本人との雑居であり、居住中国人の移転も多く、さらに彼らは日本人女性を妻として、2世の代になると日本名を名乗る事から、多くは東南アジアのような華僑社会は形成せず、後に江戸幕府による通商制限によって後続の渡来が絶たれるとともに、日本人社会の中に溶け込んでいったものと見られている。
(4)多数渡来した商人や工人
このようなネットワークを背景として中国から多数の人々が日本にやってきており、彼らの中には日本に定住して商工業を商うものも多数いた。
博多に住んできた唐人の中には、石清水八幡宮の末社である箱崎八幡に属して寄人となり、免田や給田を与えられたものもかなりいた。またこれらの唐人の中で、延暦寺につらなり、その末寺の大山寺の神人となったものがおり、その一人の張光安というものが殺されて、比叡山の山僧が強訴を行ったと言う記録が鎌倉時代の初期にある。
さらに、鎌倉時代後期の蔵人所の牒に、櫛や薬を諸国をめぐりながら売り歩いている唐人を商売の特権を犯したと訴えた記述も見られ、唐人の中には、日本で遍歴しながら商売をしていたものもいたことは確実である。また、越前北の庄に拠点を置いて絹や薬を商う橘屋という商人が、越前の朝倉氏や織田信長から商売の特権を保護する判物をもらっていたが、この橘屋は唐人座(薬を商う)と軽物座(絹を商う)を統括しており、この特権の由来を説いた嘉吉元(1441)年の偽綸旨には「唐商人はからいたるものなり」とあるので、橘屋自身が唐人商人の後裔であったものと思われる。
このように各地で唐人の商人が活動していたが、日本に移り住んで活動していたのは商人だけではなかった。それは先に示した陳和卿とともに鋳物師や石工が渡ってきて活動していたことにも示されるように、多くの工人集団や、さらには様々な知識をもった知識人たちも、多数渡来していたのである。
工人集団については確実な史料が少なく、史料的に確かめられる先の石工以外には、絹織物の織工や製陶技術者が渡来していたことは確かめられている。そしてこれ以外にも、建築技術・鉱山技術・銀吹き法・瓦焼き・漆喰技術・花火・線香・饅頭や飴などさまざまな技術面において、中国から多くの工人が渡来していたと考えねば理解できない技術面の飛躍があったことから傍証される。
そして知識人については、元の滅亡後、元朝の礼部員外郎の官にあった陳宗敬が来日し、その子孫が京都で医業に従って広めた薬透頂香(とうちんこう)を外郎(ういろう)と呼んで珍重されたことにも示されるように、医学や薬・漢学の素養をもったものたちが多数来航し、彼らは戦国大名にも家臣としてつかえ、登用されていたのであった。船二隻、乗組員100人、馬5匹を率いて平戸に漂着した張忠は、大内義隆に召し出されて山口に邸宅を構え、医術をもって大内氏に使え、その子孫は毛利氏にも使えた。張忠は軍事にも明るくしばしば明の兵法を説いたといい、彼の子の六左衛門は1595年に2800石を賜っている。また、1574年には、佐竹義重に寓する明人が出羽米沢の伊達輝宗に謁見しており、1589年には伊達政宗が明人の花火の曲芸を見ている。
このように多くのものが中国から日本に渡来し、日本の技術や知識の向上にも寄与していたのである。
(5)拉致されてきた多数の人々
もう一つ、この時代に中国や朝鮮から来た人々の中で忘れてはならない人々がいる。それは、倭寇によって拉致され、奴隷として売られて日本で暮らしていた人々である。この時代の貿易の主要な商品の一つが奴隷であったわけであり、多くの日本人が海外に奴隷として売られていたが、その一方で朝鮮や中国で倭寇に拉致され、日本に奴隷として売られていた人々も多数いたのである。
室町時代に朝鮮や明が日本との通交を図った背景には、これらの拉致された人々の返還を求めることもあったのである。
例えば1420年に朝鮮の正使として来日した宋希mは瀬戸内海で、中国の江州で捕虜とされ日本人の奴隷となっていた者が使節に買われて帰国する事を願い出た場面に遭遇している。また彼らとの通訳にあたった魏天という中国人は、子どものころに中国で捕虜となり、日本→朝鮮→日本→明→日本と転売され、足利義満の保護を受けて京都に落ち着いたという。さらに、16世紀半ばの薩摩の高須には、二・三百人の被虜が、日本風に髪を結い、裸足でぼろをまとい、食事もろくに与えられずに農耕に使役され、逃亡すれば直ちに殺されたという。
このように倭寇によって拉致された人々が多数日本に居住していたのである。そしてこのことの延長上に、秀吉による朝鮮侵略があり、多数の朝鮮人が拉致、日本に奴隷として連行されるという出来事が起きたのだ。
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以上にように、平安時代における遣唐使中止以後も継続して中国との交易は行われており、日本にはその貿易拠点も築かれて、多くの中国人が日本に居住していた。この事実を背景として、禅宗の高僧や知識人・商人・工人が日本に来航し、日本文化の発展にも寄与していたのである。「つくる会」教科書は、この東アジア規模でのネット・ワークの存在をほとんど無視しているが、これに伴って、以上に示した多くの人々の渡来という事実も無視されている。ここにも「つくる会」が、日本の歴史と朝鮮・中国との相互に密接な関係を無視しようとしている姿勢が、よく現われている。
注:05年8月の新版も、中世における渡来人の存在を無視した点においては、旧版とまったく同じである。
注:この項は、網野善彦著「日本中世の民衆像ー平民と職人」(1980年岩波新書刊)、五味文彦著「大仏再建ー中世民衆の熱狂」(1995年講談社メチエ刊)、前掲・笹本正治著「異郷を結ぶ商人と職人」、村井章介著「中世における東アジア諸地域との交通」、荒野泰典著「日本型華夷秩序の形成」(1987年岩波書店刊「日本の社会史代巻・列島内外の交通と国家」所収)、高橋公明著「異民族の人身売買ーヒトの流通」(1992年東京大学出版会刊「アジアの中の日本史V・海上の道」所収)、などを参照した。