「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判1


 

1:「大航海時代」の背景は?−世界史を把握しない間違いだらけの記述

 「つくる会」教科書の「近世の日本」の第1節「戦国時代から天下統一へ」の最初の記述は、「ヨーロッパ人の世界進出」であり、最初の項は「大航海時代の背景」と題して、16世紀に西ヨーロッパの諸国がアメリカ・アフリカ・アジアへと「進出」した背景を説明している。近世日本の最初に、近世日本のあり方を規定することとなった西ヨーロッパ諸国のアジア「進出」の背景を置いた事は、記述のあり方としては、妥当である。しかし、その「大航海時代の背景」の記述には多くの事実誤認と思いこみが含まれている。

 「つくる会」教科書は、以下のように記述する(p112〜113)

 15世紀ごろ、ヨーロッパのイベリア半島ではポルトガルとスペインの両国が半島を制圧した。両国は、アジアにおけるキリスト教の布教と交易をもとめて、新航路の開発にしのぎをけずった。
 1450年代にポルトガルが、アフリカの西海岸を南下する航海事業にまず手をつけた。それより少し遅れて、1492年、スペインがコロンブスを派遣し、大西洋をどこまでも西へ向かわせた。インドや日本を目指すのならば、当然、東の陸路をたどるはずだが、両国は地中海経由の道をさけざるをえなかった。
 なぜなら、8世紀以降、地中海は、ほぼ全域にわたってイスラム教徒におさえられていたからである。西ヨーロッパの諸民族は、勢力をひろげようとしても、約800年間、南と東へ進出する可能性を失っていた。当時、イスラム勢力は学問・芸術においても、軍事力においても、中世ヨーロッパを圧倒していた。スペインもポルトガルも、イベリア半島のイスラム勢力をやっとの思いで追い出して、国土の統一を果たしたのである。
 のちにヨーロッパ人は、この時代の世界進出を「大航海時代」とよんで自画自賛したが、実際には壁のように立ちはだかるイスラム教徒の力への恐怖を前提としていた。

 この記述には大きな欠落が見うけられる。

 それは、「アジアにおけるキリスト教の布教」を求めた背景・理由と「交易」を求めたというその交易の内容がまったく記述されていないことである。そしてこれは、「大航海時代」の歴史的背景そのものなのだ。

(1)キリスト教布教の背景は?

 最初の問題は、ヨーロッパにおける宗教改革の進展とそれに対抗するカトリック勢力、そしてカトリックの中心としてヨーロッパに君臨しようとしたスペイン王家の問題を記述すれば充分に理解できる。しかし「つくる会」教科書は、ヨーロッパにおけるこの動きの記述をまったく行っていないので、ポルトガル・スペイン両国がアジアへのキリスト教布教を求めた背景がまったくわからなくなっている。またローマ教皇庁が認めた布教圏は、何もアジアに限られるものではなく、ポルトガル・スペイン両国が新たに見つけた航路に沿った地域全体へのキリスト教の布教を目的にしていた。そしてカトリックがヨーロッパ以外の地域へとキリスト教を布教しようとした意図を記述しなかったことは、この両国に対抗したオランダ・イギリスの両国が「キリスト教の布教」に全く関心を持たずもっぱら貿易に専念したことの背景も理解できなくなっているのである。

注:05年8月刊の新版では、この点は改善されている。P91のコラムに「大航海時代の背景ー宗教改革」と題して次のような説明が挿入されている。

 ヨーロッパでは16世紀初めに、ドイツのルターらが、それまでのキリスト教(カトリック)のあり方に異を唱え、宗教改革が始まった。新しい教えに従った人々はプロテスタント(抗議する者の意)とよばれた。いっぽうローマ教皇を中心とするカトリック側は、巻き返しをねらって、積極的に海外への布教を行った。なかでもイエズス会は、多くの宣教師をアジアやアメリカに派遣した。ザビエルの来日も、イエズス会の活動の一環である。

 このように説明すれば問題はかなり解決される。だがここでも説明はまだ不充分である。ルターらが異を唱えたという旧来のキリスト教のあり方とはどのようなものか。またルターらは、旧来のキリスト教に代ってどのような新しい教えを立てたのか。そしてカトリック側の巻き返しとはどのようなことか。とりわけその海外布教の中心となったイエズス会とはどのようなものなのか。こういった疑問が次々と出てきてしまうという不充分さである。
 ルターらが批判したことはカトリック勢力が諸侯そのものとして諸国を封建的に支配するとともに、ドイツにおいては神聖ローマ皇帝の任命ということを通じて各諸侯を凌駕する権威をローマ教皇庁が行使する事、そして信仰の面では、免罪符などという神に直接帰依すれば許される事を金銭の寄付によってなすことや、神父の贅を尽くした戒律を無視した生活というキリスト教の堕落だった。そしてプロテスタントは教会が諸侯として国を支配する事も、神父が神と人間とを仲介する権限を独占することをも否定し、極言すれば、神と人間とを媒介するのは聖書それだけであり、信仰だけがその核にあるとしたのであった。またイエズス会は、この「堕落批判」に対して、神に仕える者は本来の信仰生活に戻り人々の救済に尽くす事を目的に作られたものだ。そしてイエズス会を組織した人々は、キリスト教絶対主義を掲げて「国土回復」運動を続けてきたスペインの貴族からなっていた。さらにプロテスタントの勢力は拡大し、ドイツやフランスはこの影響下に置かれ、カトリックの勢力は西ヨーロッパでは低下していた。ここまで説明すれば、「キリスト教の海外布教」の背景と、それをポルトガル・スペインが担った背景は理解できる。これくらいの説明は必要であったろう。
 そして新版の記述でもまた、なぜポルトガル・スペインがカトリックの庇護者となったのかという問題は、完全に無視されている。ここにはイベリア半島におけるイスラムからの国土回復運動が、キリスト教至上主義思想と結びつく事で、ローマ教皇庁と結びつき、それゆえポルトガル・スペインがカトリックの庇護者となったことを記すだけで理解は深まるのだ。どうして「つくる会」の記述は、旧版も新版も共に、世界史の記述が中途半端なのか。これは「つくる会」教科書が、完全に世界史の視点をもっておらず、世界史の記述をほとんど削除してしたという欠陥に起因している。だがこれは「つくる会」教科書の固有の問題ではなく、文部省の学習指導要領が一国史観に偏ってしまった結果でも有る
(この点はこの章の最後の補遺2で論じる)

(2)アジア交易の目的は?

 そして第2の「交易」の問題であるが、ここもシルクロードを通じた東西交易の歴史的変化の問題を時系列的に各章で記述しておけば、ここでいちいち細かく説明するまでもないのだが、「つくる会」教科書は世界史の記述をほとんど削ってしまい、シルクロードについての記述は、第1章「古代の日本」の律令国家の成立の所で(p49)地図を示して説明しているだけなので、歴史的に東西交易を捉える事はできない。しかもこの個所での説明でも、交易の中身については一言も触れていないために、ポルトガル・スペイン両国がアジアを目指した目的を具体的に理解するすべがまったくなくなっている。それゆえ「インドと日本をめざす」といきなり記述した時(これもとても唐突な記述だ。「アジア」での交易と言っておきながら、なぜ「インド」「日本」なのか。どうしてそこには「中国」がそして「ペルシア」がないのか)、インドと日本を目指してそこで何をしようとしたのかもまったくわからなくなるのだ。

注:05年8月刊の新版では、この点も改善された。本文の中にアジア交易の目的を次のように記述している(P90)

 ヨーロッパで肉の保存料として必需品だった胡椒などの香辛料を、特産地の東南アジアに出かけて直接手に入れることだった。

 本文にこう記述し、かつ付属資料として「ヨーロッパ人が求めた香辛料」として、胡椒・丁字・ナツメグ・シナモンを図入りで説明している。このように記述した事で旧版の問題点はかなり解決する。
 しかし交易の目的が香辛料の直接的買い付けだったことを明記したことによって、新たな疑問が出てきてしまう。なぜならその産地は東南アジアだというのに、目指したのはインドだというのだから。ここに欠けているのは、海のシルクロードを通じて古来から(紀元前のローマ帝国の時代から)インドを中継地として東南アジアの香辛料がヨーロッパにもたらされていたという、東西交易の実態がまったく把握されていない事である。そして正しくは胡椒の産地はインド・スマトラ・ジャワ、シナモンはセイロン、ナツメグと丁字は香料諸島の産であった。
 また新版では目的地の一つの日本が削除されてしまった。これは交易の目的を香辛料に限定してしまった結果であろう。日本は香辛料を産しないし、その交易の中継拠点でもないからである。ここに欠けているのは、ヨーロッパ人がイスラムの地域を避けて直接アジアへ向かおうとした動機の一つに、金の獲得があったことの認識である。
 ヨーロッパ人がイスラム商人の中継貿易を経てアジアの香辛料を買おうとするとき、その支払いにあてられたのが金であった。ヨーロッパには香辛料と交換するにたり、かつ東方へ運びうる適当な商品がなかったからである。そしてこの金は、ヨーロッパ産のものではなく、アフリカはスーダンの奥地に産するといわれる金であった。そしてシルクロードを通じたヨーロッパの交易は常にヨーロッパ側の入超であり、ヨーロッパ商人がアフリカ北岸でアフリカの商人と毛織物や武器などと交換にして手に入れたスーダンの金は全てイスラム商人との香辛料や絹織物・陶磁器との交易に使われてヨーロッパには入ってこなかったのである。このスーダンの金を、直接スーダンの奥地に入って手に入れたいという欲求も、ヨーロッパ人がアフリカの西海岸を南下する動機の一つだった。そして西海岸を制圧することによってかえってスーダンの金が西海岸にもたらされる事がなくなると、その欲求は、さらに東方にあり、宮殿の屋根まで金で葺かれているという、マルコ・ポーロが「東方見聞録」に書いた黄金の国ジパンングを目指そうと言う事に向けられる。大西洋を西に向かったコロンブスが意図したものは、アジアの東のはてにあるというジパンングとその南西にあるという東南アジアの香料諸島(ジャワ・スマトラ島の東にあるモルッカ諸島)を直接に目指すと言う形で、ヨーロッパ人のアジア「進出」の目的そのものを明確に示していた。
 さらに西ヨーロッパ人が「海外へ進出」した動機の一つに、域内の通貨としても利用され、さらにはイスラム商人への支払いの一部として利用されていた銀の不足という問題も挙げられる。この銀は、バルカン半島での銀産に依存していたのだが、オスマン・トルコ帝国がバルカン半島を制圧するにつれて、西ヨーロッパへ入ってくる銀は激減した。この銀を求めるうごきも「大航海時代」の背景の一つであった。
 このように東西交易の歴史的背景をきちんと把握しないと、16世紀の「大航海時代」におけるポルトガル・スペインの動きの意味・目的を理解する事はできない。

 このように近世の始まりにおいてせっかくヨーロッパ勢力のアジアへの「進出」を記述しながら、その内実がまったくわからないというひどい記述になっている。

 そしてさらにこの記述には、大いなる誤解・思いこみが多々ある。

(3)シルクロードの主役は海のシルクロード

 一つは、東西交易といえば、「陸路」だと著者たちが思いこんでいる事である。

 「インドや日本をめざすのならば、当然、東の陸路をたどるはずだが・・」と記述している。しかし後年シルクロードとして認識された東西交易路は陸路だけではなかった。もちろん中心は、中央アジアの砂漠地帯のオアシス都市を経由した陸路であり、さらにその北方の草原地帯を通ったもう一本の陸路も重要であった。しかしこの二つの陸路とそれぞれを結ぶ多くの陸路全体が一つの国家によって統治されたことはモンゴル帝国の一時期を除いてはなく、いくつもの国家が分立しており、その国家間の対立によって交易が滞ることがあった。このことも一つの理由で、常に絶えることなく東西の交易が行われたルートとして海路があったことを「つくる会」教科書の著者たちは失念しているのである(そういえば、p49に掲載されたシルクロードの地図にも海のシルクロードは載っていない)。そしてこの海路こそは、東西貿易の中心的商品の一つであった重く嵩張る陶磁器と西ヨーロッパの食生活に不可欠なインド・東南アジア産のスパイスが西方に運ばれる主な交通路であったのだ。
 ポルトガルとスペインが海路でしかも大西洋を経由して直接アジアを目指したのは、この海のシルクロード(中国から海路でインド、ペルシャと寄航して紅海を経てエジプトに入り、地中海の航路をつかってヨーロッパに至る経路)が、オスマン・トルコ帝国によって占領され、その交易特権が、オスマン・トルコと結ぶイタリアのベネチアに独占されたことに起因しているのである(この点のちに詳しく述べる)。地中海経由の道は、草原の道とオアシスの道に繋がっていただけではなく、紅海経由の海の道に繋がっていたのである。

注:05年8月刊の新版でも、この問題点は解決されていない。それどころかシルクロードの認識がさらに狭くなり、海のシルクロードだけではなく、草原のシルクロードすら認識の外に置かれてしまった。P23に掲載されたシルクロードの地図は、なんとオアシスの道だけになっているのだ。

(4)地中海が「イスラムの海」となったのは近年の話しだ

 二つ目は、「800年にわたって地中海はほぼ全域がイスラム教徒によって支配されていた」という思いこみ。これはおそらくイスラム帝国が成立し、地中海世界の南半部とオリエントを支配したのが7〜8世紀だから、それ以後の800年間ずっとこの地方がイスラムによって支配されてきたという誤解に基づくのであろう。
 しかしイスラム帝国が出現したとき、地中海の北半部には東ローマ帝国が厳然として存在し、15世紀に至るまで、地中海の東半分の地域を統治し続けた。したがってシルクロードのうちの草原のシルクロードの終点であるコンスタンチノープルは東ローマ帝国=ビザンチン帝国の首都でありつづけた。
 また13世紀にシルクロードの地域をほとんど占領したモンゴル帝国も、地中海を征服することは出来なかった。海のシルクロードの終点の1つであるアレクサンドリアは、この地を支配するマムルーク朝との戦闘でモンゴルが敗退した故に占領できなかった(海のシルクロードの中心であったホルムズ海峡を通ってペルシャ湾に入り、バクダッド・シリアのダマスカスへの陸路で至る道はモンゴルの占領下に置かれた。それゆえマムルーク朝は、紅海経由の海路の開発に力を入れ、以後この経路が海のシルクロードの中心となる)。
 地中海は「イスラム帝国」の成立によっても「イスラムの海」にはならなかったのである。
 地中海はそれこそ、どこの勢力にも属さない自由な公海
(だがその沿岸は異なった政治勢力が支配していたため、通行権の争奪がしばしば演じられ、商船は軍艦の護衛なしには通行できなかったのだが)。だからこそ、イタリアのジェノバやベネチアなどの強力な海軍を擁する海洋都市国家の商船が自由に航行し、コンスタンチノープルやダマスカス、そしてアレクサンドリア・カイロへ航行して、その地でイスラム商人と交易を行い、ここを通じて、アジアの香辛料・絹織物・陶磁器などをヨーロッパにもたらしていたのであった。そしてまた地中海が自由な公海であったからこそ、11世紀から始まる十字軍の遠征もまた可能であったのだ。
 この十字軍の遠征の初期の目的は、セルジューク・トルコ帝国の攻撃を単独で支えきれなくなった東ローマ帝国=ビザンチン帝国救援であったが、この遠征の過程で地中海東岸に拠点を得た西ヨーロッパ側には東西交易への注目が増し、中期になると十字軍の背後には、ローマ教皇と結んで地中海東岸のシルクロードの終点の地域を支配しようともくらんだベネチアの意図があったとも言われている。だからこそ13世紀に行われた第4回十字軍はコンスタンチノープルを占領して一時的にラテン帝国を建設し、シルクロード、特に草原の道の交易を独占しようとしたのである。また次の第5回十字軍が、パレスチナに向かわずにエジプトを攻撃したのも、海のシルクロード交易を独占しようとしたものであった。
 地中海は13世紀になっても「イスラムの海」ではなかったのだ。

 そしてこのような状況を一変させたのが、オスマン・トルコ帝国の成立であった。小アジア半島の一土豪から身を起こしたオスマン帝国は、1366年にはバルカン半島にも領域を広げ、東ローマ帝国の領域の多くを奪い取った。さらに1453年にはコンスタンチノープルを攻略して東ローマ帝国を滅亡させ、1517年にはマムルーク朝を打ち破って地中海東域・エジプトを制圧。草原の道・オアシスの道・海の道の全てを制圧してしまった。そしてオスマン・トルコ帝国はさらに領域を西に広げて行く。バルカン半島全域を制圧したあと1529年には長駆してウイーンを包囲するに至る。この攻撃はウイーンの冬の寒さに阻まれて占領にはいたらなかったがヨーロッパには大きな衝撃を与えた。ウイーンはカトリックの守護神であった神聖ローマ帝国(オーストリアを拠点としたハプスブルグ家)の拠点であったからである。ドイツ各地域においてプロテスタントと結ぶ諸侯を抑圧してきたハプスブルグ家は東からのトルコの脅威に以後力を集中させざるをえず、プロテスタント諸侯と妥協し、以後ヨーロッパにおいてプロテスタント勢力が拡大する端緒を開いた。さらにオスマン帝国は地中海を西に向かい、1534年にはチュニスを占領。そして1538年にはローマ教皇と神聖ローマ皇帝との協働で結成されたキリスト教側の連合艦隊をプレヴェザで破り、1551年にはリビアを占領。1565年にはマルタ島をも攻撃した。
 こうして16世紀後半には地中海は「イスラムの海」と化し、地中海南岸のアフリカ北部と地中海北岸の東部バルカン半島・小アジア半島・シリア・エジプトからペルシャ湾岸から紅海沿岸までの地域がオスマン・トルコ帝国の領域下に入ったのである。そして地中海地域における「イスラムの優位」の状況は、1571年のアドリア海でのレパントの海戦におけるオスマン海軍の敗北にもかかわらず継続され、18世紀初頭まで続いたのである。

 このように「つくる会」教科書が「8世紀以降800年間地中海は、ほぼ全域にわたってイスラム教徒に押さえられていた」と記述したことは、まったくの事実誤認なのである。事実は14世紀から16世紀にかけてのオスマン・トルコ帝国の発展の過程で地中海が「イスラムの海」と化し、草原の道・オアシスの道・海の道のシルクロードの全ての道がイスラム教徒のネットワークの下に置かれたことが、ヨーロッパ勢力が直接アジアへと向かわせた直接的な原因の一つだったのである。ちなみにオスマントルコの発展の過程とヨーロッパ勢力のアジアへの「進出」を年表にしてみると、あまりにも両者が対になっていることに驚く。

オスマン・トルコの動き ヨーロッパのアジアへの動き

1330年頃 小アジアの征服が進む
1352年  小アジアの東ローマ領をほぼ全域支配する
1361年  バルカン半島に進出
1389年  コソヴォでハンガリー軍を破る
1396年  十字軍を破る
1400年  コンスタンティノープルを包囲


1453年  コンスタンティノープル占領・東ローマの滅亡
1462年  バルカン半島全域を占領
1475年  黒海北岸を占領




1517年  エジプトを占領
1529年  ウイーンを包囲する
1538年  キリスト教連合艦隊を破る

1551年  リビアを占領
1565年  マルタ島を攻撃
1312年 ジェノバ人がカナリア諸島に到達






1415年 ポルトガルがジブラルタル対岸を占領
1441年 ポルトガルがギニアに到達



1487年 バートロミューディアス喜望峰到達
1492年 コロンブスが西インド諸島に到達
1498年 バスコ・ダ・ガマがインドカリカットに到達





 この表の最初のジェノバ人のカナリア諸島への到達の動きの背後には、当時東地中海から紅海経由のアジア貿易路を支配していたマムルーク朝がしだいに交易の国家独占を強化し、イタリア商人の利益が減少したことがあった。地中海東部が基盤のベネチアはマムルーク朝国家とのさらなる癒着で利益を確保しようとし、地中海西部が基盤のジェノバはアフリカ南端を回ってインド洋に出る事で利益を確保しようとした。この意味で、マムルーク朝がイタリア商人がアジア貿易に直接参入することの壁になっていたのは事実だが、このことは地中海が「イスラムの海」となっていたことを意味しない。したがって地中海全域が「イスラムの海」となったのは、16世紀、まさにポルトガル・スペイン両国によるアジア進出が現実化していくその時期におけるオスマン・トルコ帝国の発展の過程であったのだ。

注:05年8月刊の新版でも、「イスラムの海」についての旧版の誤りは正されていない。ただ本文の8世紀以降地中海がほぼ全域イスラム勢力によっておさえられていたという記述のあとに(P90)、「とくに、13世紀の末にオスマン・トルコ帝国が成立すると、西ヨーロッパのキリスト教徒はこの地域を通ることができず」と、オスマン・トルコ帝国の成立を特筆した。しかしここでも、オスマン・トルコによる地中海の「イスラムの海」化以前にも地中海がイスラムの支配下にあったかのような記述は改められてはおらず、さらに次の項で指摘するように、そもそも西ヨーロッパの商人が地中海東部・ペルシアの地域を通って直接インドや東南アジア・中国に行く事はなく、昔から他の地域の商人との中継貿易によって東西交易は行われていたという事実を無視した記述になっていることは問題である。西ヨーロッパの商人や王侯の使節が直接陸路を通って東方に達したのは、モンゴル帝国の成立期が唯一であり、それより以前では、紀元前にローマ帝国の使節が海路を経て中国に到達しているだけである。

(5)ヨーロッパがアジアへの「進出」を求めたのは近年の話しだ

 三つ目の誤りは、「西ヨーロッパの諸民族は、勢力を広げようとしても、800年間、南と東へ進出する可能性を失っていた」と記述し、西ヨーロッパ勢力が以前から東方に進出しようとする欲望を持っていたかのような記述をしたことである。はたして西ヨーロッパの諸民族はそんなに昔から、世界に進出する野望をもっていたのだろうか。
 この記述の背景はおそらく、11世紀から13世紀まで続けられた十字軍の運動と、イベリア半島で行われ続けた「国土回復運動=レコンキスタ」とを、「つくる会」教科書の著者たちが誤解して理解したことに起因しているのではないだろうか。

 十字軍は先にも述べてように、最初のきっかけはセルジューク・トルコによって東から圧迫され小アジア半島の多くを失い、独力では支え切れなくなった東ローマ帝国=ビザンチン帝国からの救援要請であった。そしてこのキリスト教世界の防衛と拡大の要請に応えるだけの内的欲求が当時のヨーロッパには存在した。それは人口の急激な増大と、しだいに不足する食料の問題でもあった。十字軍の時期は、ヨーロッパ各地において森林や沼沢の開墾が進み、さらには東ヨーロッパへの植民運動が進められた時期であった。人口の増大に対応した食料の増産が進むと同時に、余った人口を域外に植民する動きであった。このような内外の要請に応えて十字軍による地中海東部への繰り返された軍事侵攻と植民があったのだ。そしてエルサレムの回復と植民とが、イスラム勢力の反撃によって頓挫した後の十字軍は、ベネチアの東方貿易独占意欲に依拠して行われたのだ。
 またレコンキスタという運動は、イベリア半島におけるキリスト教勢力とイスラム教勢力の相克の歴史である。711年にイスラム勢力の侵入によってその支配下に置かれたイベリア半島のキリスト教勢力は、山岳地帯の続くこの地域で各地に分散した小拠点で生き延びた。そしてキリスト教勢力が反撃に出たのは、11世紀になってからのことである。1031年のウマイヤ朝の崩壊によりイベリア半島のイスラム勢力は分散化し、これを背景としてキリスト教世界にアラゴン・カスティーリヤの2王国の成立により、イベリア半島をイスラム勢力から取り戻し、そこに再植民する運動が実質的に始まった。そしてこの戦いは13世紀の中頃までにはほぼ決着が付き、ポルトガルは1250年にレコンキスタを完了し、イスラム勢力はカスティーリヤの半ば属国となった半島南端のグラナダ王国のみとなったのである(これを滅ぼしたのはアラゴンとカスティーリヤが統一されてスペインとなって以後の1492年である)。
 この運動もまた十字軍と同じ時期に戦われたものであり、十字軍の背景にあった西ヨーロッパにおける人口の急増と食料の不足とを背景にしていたと思われる。

 この十字軍とレコンキスタの二つの運動は、イデオロギーとしては反イスラムのキリスト教至上主義を標榜しており、この意味で16世紀のポルトガル・スペインの世界進出とは軌を同じくしている。しかしだからといって11世紀から16世紀まで西ヨーロッパ諸民族が東方への進出欲求を持っていたとはけして言えない。11世紀から13世紀の動きは、その時期に特有の現象である人口の急激な増大と食料の不足と言う事態を背景していたのであり、16世紀の動きは、それとは別の現象を背景としていたのである。

 では16世紀の運動の背景はなんであったのか。一つは先に述べたように、オスマン・トルコ帝国の成立と拡大によって三つのシルクロードを通じた東方貿易をイスラム勢力に独占されたことである。三つの道がそれぞれ異なった王国によって支配されておれば、そこを通じた東西交易を独占することは不可能である。しかしその三つの交易路が一つの王国によって統一されたことで、その独占が可能となる。
 しかしこれは何もイスラム勢力が東西貿易を独占したということを意味しない。古代以来、シルクロードを通じた東西交易は、全ルートを一つの勢力が担ったわけではなかった。ルートがいくつもの国家や経済圏に分かれているため、東西交易は複数の商人集団による中継ぎ貿易によって行われてきたのである。この中ではヨーロッパの商人が活動する範囲は、シルクロードの西の終点であるエジプトのアレクサンドリア(またはカイロ)・シリアのダマスカス・さらにはビザンチン帝国のコンスタンチノープルまで出かけて(そこに支店を設けて)、そこのバザールでイスラム商人と取引して、香辛料や絹織物や陶磁器を買いつけ、それを西ヨーロッパに運んで売りさばくことであった。そしてオスマン・トルコのイスラム商人もまた直接インド・東南アジア・中国へ出向くのではなく、中央アジアやペルシア・インド・東南アジアの商人のネットワークを通じて次々と中継貿易を経て運ばれてきた東方からの品物を商い、それを西ヨーロッパの商人に転売するのであった。そしてこのユーラシア大陸中央部に広がったイスラムの世界においてはバザールにおける商売は自由であり、商人宿への宿泊やバザールでの商売は誰でも一定の税を払えば自由であり、そこにおいてはイスラム商人であろうとヨーロッパ商人であろうと自由であったのだ。
 しかし11世紀から13世紀の十字軍運動を通じて、東方との貿易は、西ヨーロッパキリスト教世界においては、イタリアの海洋都市国家ベネチアやジェノバの特権と化していた。そしてそれを許可し、それと結託することによって巨利を得ていたのがローマ教皇庁だったのである。しかしイスラム世界が幾つかに分裂している状況の中では、イタリア商人が取引する相手国は複数となり、完全な独占は成立しなかった。
 したがってシルクロードの三つの路がオスマン・トルコ帝国によって統一されたことにより、東西貿易をイタリアの二つの都市国家が独占することが可能になったのである。そしてこうなったことにより、さらにベネチアとジェノバとの間で、貿易をめぐる利権争いが始まる。この争いにローマ教皇庁と結託して勝利したベネチアに対して、敗れたジェノバは、教皇庁と結託しそれを支える勢力でもあるスペインとも対立し、かつ地中海西部から西ヨーロッパ北部までの交易の中継点でありその交易路を独占するポルトガルに近づき、その海軍力の増強に力を貸すとともに、膨大な資本援助を行って、ポルトガルによるアフリカ西岸を南下して直接アジアへと至る動きを援助することとなったのである。
 こうしてジェノバとベネチアによる東方貿易独占の争いに、スペイン・ポルトガルの争いが絡んで、西ヨーロッパ勢力による、アジアへの直接進出が始まったのである。

 またこのアジアへの直接進出は、前に示したような、香辛料と金や銀だけが狙いであったわけではない。16世紀にもまた、この地域に特有の問題が背景にあったのだ。
 それは15世紀ごろから続く商工業の発展と農民の勢力の伸張によって穀物価格が異常に値上がりしていたことでもあった。都市の拡大によって商工業で生きる者たちの増大により穀物需要は拡大する。しかし同時に農民の権利伸張によって農民から諸侯へと納入される穀物の量には限りがあり、農民から納入された穀物の余剰分を都市で販売して利益を挙げていた諸侯たちの収入は頭打ちになり、かつ都市への穀物の流入が制限されたために、穀物価格は上昇していた。穀物価格の上昇は工業労働者の賃金の上昇に繋がり、それはまた毛織物や武具などの製品価格の上昇に繋がり、東西交易の重要な商品でもあるこれらの売れ行きの低下にも繋がってくる。さらにこれは諸物価の上昇に繋がり衣料品などの値上がりともなってはねかえってくる。
 さらに都市の発展は住宅需要の拡大を促し、住宅の材料である木材の不足もきたし、木材価格も跳ね上がっていた。
 西ヨーロッパにおける商工業のさらなる発展のためには、安価な穀物と衣料と木材の導入が欠かせなかったのである。

 16世紀のポルトガル・スペインの海外進出は、このような様々な要因が複合的に重なって起きた事であり、けして西ヨーロッパ諸民族が常に東方への拡大の野望を持っていたことに起因するのではない。むしろ継続的にアジアへの直接進出を図っていたのは、イタリア商人、とりわけその覇者であるベネチアとジェノバであった。
 この都市国家の支配的な商人集団は十字軍の時から、直接紅海に進出して、アジアへの交易に直接参入しようと図った。しかし彼らの壁となったのが、モンゴルをも打ち破ったトルコ系奴隷軍人の立てたマムルーク朝・エジプトであった。モンゴルの脅威と十字軍の脅威に対抗してできたこの軍事国家がエジプト周辺と紅海とを軍事的にしっかりと防衛し、ここへのイタリア人の進出を阻み、アジアとの交易を、アレクサンドリアでの国家管理貿易の枠内にしっかりと閉じ込めてしまった。したがってイタリア商人には、マムルーク朝と癒着して利益をはかるか、マムルーク朝支配地域を迂回してアジアへ直接向かうしかなかった。しかしエジプトの東のペルシアにも強力なイスラム国家が存在していたゆえに、アジアへ直接行く道は、アフリカの南端を回る道しか残されていなかった。だからベネチアはマムルーク朝と癒着する道を選択し、ジェノバは西に向かった。このジェノバの選択を後世に引き継いだのがポルトガルであった。
 そしてマムルーク朝・エジプトが結果としてアジア貿易の衰退をもたらすことになる貿易の国家独占政策の背後には、
15世紀においてシルクロード東端の重要な交易品の提供地域である中国において、その港からの外国商人の排除と貿易の国家的独占の強化による貿易自体の縮小が背景の一つにあった。14世紀末期に成立した明王朝は、それ以前の唐王朝・宋王朝・元王朝と続いた交易の拡大路線に反して、しだいに海外交易を国家管理下において外国商人を締め出す、後の海禁政策をとっていった。それゆえエジプトカイロにもたらされるアジアの商品の中の中国の磁器と絹が激減した。これに中東地域における14世紀中頃のペストの流行による熟練の商人や熟練の農夫の激減による税収入の激減を原因として、征服王朝であり征服地の富を収奪することによってのみ成り立つマムルーク朝は、唯一の収入源となったアジア貿易を強力に国家管理し始めたのである。そしてこの体制は、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国でも継続された。これが、イタリア商人をして直接アジアへと向かわせた直接の契機であったのだ(この点は、ジャネット・L・アブー=ルゴド著「ヨーロッパ覇権以前―もう一つの世界システム」上下に詳しい)。

 この意味で東方・アジアへの直接進出を狙ったヨーロッパ人とは、初期にはイタリア諸都市国家に拠る商人であり、後には強力な国民国家に拠るポルトガル・スペイン、さらにはオランダ・イギリス・フランスの商人であったのだ。だがこのことは一般的にヨーロッパ人が東方への進出を継続的に意図していたと結論付けることではない。しかし「つくる会」教科書の著者たちは、このへんの事情を誤解し、先に示したような間違った記述をなしたものと思われる。

注:05年8月刊の新版では、旧版のこの点についての誤りはまったく正されていない。

注:【西ヨーロッパと中国との違い:西ヨーロッパと日本との親近性】
 15・16世紀におけるポルトガル・スペインを先頭にした西ヨーロッパの海外進出には、この両国に顕著に見られた「異教徒の地域の文明化=カトリック化」という精神的動機やレコンキスタの延長としての海外領土拡張という動機以外に、さまざまな経済的な動機があったことは先に示した。15・16世紀の西ヨーロッパには、海外進出を企てる内在的動機があったということだ。この点については、同じ時期に大規模な海外遠征を何度も行いながら、一時的な朝貢貿易の活性化・拡大を図っただけで、以後は全く海外への遠征が忘れ去られた中国・明王朝の場合と比べてみると、その違いは明白である。明は15世紀前半に、鄭和を総督とする南海大遠征を7度も行っている。この遠征は、宝船と呼ばれ皇帝からの各地の王への下賜品や各地の王から皇帝への朝貢の品を運ぶための軍船で長さ150m・幅60mもの巨大船5・60隻と中小の船100隻からなる大船団で、総勢27000人。この遠征隊は、東シナ海・インド洋・アラビア海・ペルシア湾・紅海を航行し、ジャワ・スマトラ・マラッカ・セイロン・カリカット・ホルムズなどを巡り、現地の政権と交渉をもって朝貢を進めたり、果てはメッカにも巡礼を行っている。しかし、このような航海は、この7度だけで、1434年に鄭和が没すると遠征は中止され、1479年になって再度南海遠征に興味をもった役人が、鄭和の記録の閲覧と航海の計画を上奏したが却下され、鄭和の偉業は2度と省みられなかった。ではなぜ明王朝は、海外遠征をくり返し、西ヨーロッパの諸王国のように、海外進出を試みなかったのか。多くの学者がこの問題に挑んだが、結論的には、中国にはそのような海外進出を試みる内的動機がなかったのだという。そもそも鄭和の遠征の目的は、明帝国の力を内外に誇示することが目的であり、南方の蛮族に明王朝の勢威を知らしめて朝貢を促す事にあったという。そして明皇帝の関心は、その後は北方民族の侵入と倭寇対策に集中されて、南方には向けられなかった。さらに西ヨーロッパの場合は、増大する人口と都市の発展に対応する食料と木材の不足などを補うことを目的として海外遠征がなされてもいたのだが、中国での人口の増大と都市の発展に起因する食料や木材の不足は、国内における特に南部の稲作地帯の拡大と南部もしくは東北部の森林開発に向かっており、ヨーロッパの場合では外に向けられたエネルギーが、中国では内に向かって向けられ、そこで完結したのだという。この問題を「近代世界システム」という膨大な論考の中で検討したウォーラーステインもこの両者の違いについては、西ヨーロッパの封建制と資本主義の関係と、中国の非封建的な官僚社会と資本主義の関係にのみ目が行っている。つまり西ヨーロッパの封建制社会は資本主義の発展を制限する性格を持ったゆえにそのエネルギーが外に向かい、結果として封建制の解体と資本主義の急速な発展に向かった。それに対して中国の官僚制社会は、資本主義の発展を一定程度内在化させる柔軟性を持っていたがゆえ、そのエネルギーは外には向かわず、内に留められ、結果として官僚制社会は解体に向かわず、資本主義の急速な発展はなかったという見方であった。しかし、この西ヨーロッパと中国との違いは、それぞれの地域の「世界・経済」の性格の違いに起因するのだと思われる。ヨーロッパの「世界・経済」はギリシア・ローマの時代から、海外との交易をその不可欠の構成要素としていた。すなわち山がちで大規模な平地が不足し、なおかつ、寒冷な地方や降水量の少ない地方の多いヨーロッパの農耕の水準は、近代にいたるまでもなお、増大する人口を養うには足らなかった。だからギリシア・ローマの時代から、ヨーロッパは不足する食料を、ぶどう酒や毛皮・毛織物、そして貴金属や金属製品などとの交換によって海外から手に入れていた。ヨーロッパ「世界・経済」は、そもそもが自己完結できないシステムであり、多分に海外交易を必要とする海洋性の文化・経済圏であった。ヨーロッパ「世界・経済」は、その東方に存在し、多分に自己完結性を有する豊かな文明中枢である中東・ペルシアの「世界・経済」の西の辺境であった。しかし中国を中心とする東アジア「世界・経済」の中枢たる中国は、その広大な国土と多様な豊かな気候ゆえに、多分に自己完結できるシステムであった。だからこそ中国は、朝貢貿易という形でしか海外貿易を行う必要がなく、生活必需品を海外からの輸入に頼る必要もなかった。このような、西ヨーロッパと中国という二つの文明・「世界・経済」の持つ性格の違いの結果として、15・16世紀の両者の海外遠征・海外進出に関する関与のし方の違いをとらえてみる必要があるだろう。そして、この視点からは、東アジア「世界・経済」の辺境地帯である日本が、15・16世紀において海外進出を拡大し、江戸時代の「鎖国体制」になってもなお、世界経済との有機的な関係を維持し続け、海外貿易をその不可欠の要素として組みこみ、かなり高度な商工業システムを発展させて行ったことの背景を明らかにする。すなわち日本もまた西ヨーロッパと同様に、その狭い国土ゆえに、ヨーロッパほどではなかったにせよ、海外からの生活必需品の輸入を不可欠とした海洋性の文化・経済圏であった。だからこのことを背景として日本が、東アジアにおいて唯一海外に雄飛し、高度に商工業を発展させた要因であったといえよう。

(6)歴史を無視して作られた「イスラムの脅威」

 以上のような認識はさらに、「つくる会」教科書が、「大航海時代」の背景だとする「イスラム教徒の力への恐怖」なるものの実態も明らかにする。
 教科書の記述は、この「恐怖」なるものが8世紀以降800年間続いたかのように記述しているが、その実態は、「オスマン帝国への恐怖=トルコへの恐怖」なのだ。

@「イスラムの脅威」の三つの波

 たしかに西欧世界は何度もイスラム世界の脅威にさらされてきた。第一の波は、7〜8世紀におけるアッバース朝によるイスラム帝国の成立。この時イスラム勢力はイベリア半島を席巻し、フランスにまで侵入した。以後13世紀までイベリア地方ではイスラム勢力に対する「国土回復」の戦いが継続する。イスラムの脅威の第二の波は、11世紀のセルジューク朝トルコによる小アジア侵入と東ローマ帝国の敗北。この過程で、東ローマ帝国の救援要請に応えて十字軍の遠征が行われた。この「トルコの脅威」はモンゴル帝国の発展と拡大によって取り除かれたが、1241年、ポーランドに侵入したモンゴル軍はドイツ・ポーランド連合軍を大破し西ヨーロッパ世界を震撼させた。また、この「モンゴルの脅威」は、モンゴルのハーンの急死によって取り除かれたが、自身がイスラムではなかったので「イスラムの脅威」としては受け取られず、さらにモンゴルがイスラム帝国を東から圧迫しており、西ヨーロッパには昔からオリエントのさらに東に存在するネストリウス派キリスト教を信奉する東方の王(=プレスター・ジョン)の伝説の存在により、モンゴルの王をその伝説の王と同一視しイスラムを東西から挟撃する動きが生じた。ローマ教皇やフランス王は、はるばるモンゴルにまで使者を遣わし、東西の直接交流が実現するという副産物をも生んだ。そして第三のイスラムの脅威の波が、15世紀から16世紀におけるオスマン・トルコ帝国の発展であり、その画期としての1453年のビザンチン帝国の滅亡と1529年の神聖ローマ帝国の首都ウイーン包囲であった。

A東方からの文明の流入

 こうやって並べてみると、西欧世界は7世紀から16世紀まで継続して「イスラムの脅威」にさらされていたと考えがちであるが、実際には8世紀から国土回復運動と十字軍が始まるまでの11世紀までの約300年間とモンゴルの侵入からオスマン・帝国の拡大までの約200年間の「平和」が存在している。
 また「イスラムの脅威」の第2波に呼応しておきた3世紀にもわたって断続的に行われた十字軍の運動の背景には、先に示した人口の膨張・食料の不足による「領土拡張」もその背景の一つであったが、11・12世紀において長い間続いた北方ゲルマンの侵入がほぼ終息し西ヨーロッパ社会が安定期に向かう中で、その模範を古典・古代の文明に求めた事にも背景はある。しかし西ヨーロッパにはその古典・古代の文明の精華の蓄積はほとんどなされておらず、それゆえ、それが蓄積されている東ローマ帝国やイスラム帝国への関心が高まり、これと前記の「領土拡張」要求や東ローマ帝国による救援要請が重なって、十字軍の遠征は始まったのである。そしてこの時期を通じて地中海を通じた東西交易は活発になり、この過程で東ローマ帝国=ビザンチン帝国やイスラムに蓄積・発展された古代オリエント文明の精華が西ヨーロッパに流入し、多くのアラビア語文献が筆写され、ビザンチン・イスラムの文明の研究が進んだ。
 これは次の約200年間にわたる「平和」の時期を通じて拡大した。この後者の約200年間の「平和」は、「モンゴルの平和」として認識されており、東西交易路のシルクロードのほぼ全域がモンゴル帝国によって統一されたため、東西交易・交流が極めて活発になり、東方の情報もかなり豊かなものがもたらされるようになった。マルコ・ポーロの「東方見聞録」は、その一つであった。
ただし南の海上の道は、モンゴルがペルシア・イラクを征服し、交易の中心地のバクダッドを破壊したためにペルシア海経由の道は衰え、カイロ・紅海経由の海の道がこれに替わって栄えたのであるが。そしてこの間に流入したオリエント文明の精華が西ヨーロッパに大きな文明的影響を与え、この中で西ヨーロッパはイスラム文明の中で保存・発展させられてきた古代オリエント文明の精華としての古代ギリシア・ローマ文明を再発見してそれに学び、西ヨーロッパでは科学・学問・芸術などの分野における急速な発展が見られたのである。この12世紀から16世紀にわたる東方文明への関心と東方文明の流入による西ヨーロッパにおける文明の発展は、後に西ヨーロッパの近代化の基礎としてのルネサンスとして認識されたものである。

 さらにこの時期に盛んになったアジア交易を通じて、中東・イスラムの地域に古来から発展していた商業システムがイタリアに流入し、のちにヨーロッパ全域に広がって、のちの資本主義システムの基礎となったことも忘れてはならない。銀行業務や為替手形の発行、そして複式簿記による会計システムや多様な人々が資本や労働を出しあって、共同契約による会社組織をつくる方法など、のちの資本主義システムの中核を占めた商業システムは、ヨーロッパに先だって、8世紀のイスラム帝国の成立時期にはすでに成立していたのである。イスラム教の始祖マホメットもそのような商業システムにおいて共同契約で海外交易を行っていた有力な商人の代理人を務めていたのだ。資本主義的商業システムもまた、先進地域である中東から、アジア貿易をへて、イタリア・ヨーロッパにもたらされた。

B「トルコの脅威」としてのオスマン帝国

 そして西ヨーロッパ世界の中枢にまで「イスラム勢力」が侵入してきて西ヨーロッパ世界全体に「イスラムの脅威」を実感させたのは、1529年のウイーン包囲が最初なのであった。
 イスラム勢力は「学問・芸術・軍事力において中世ヨーロッパを圧倒していた」のは事実である。しかしそれは中世に限らず、古代においてもそうであったし、近代に入っても18世紀後半に入って西欧が産業革命と市民革命の成果を背景にしてイスラム世界の植民地化に手をつけ始めるまで、この状態は続いていた。これは、イスラム世界こそが古代オリエント文明の精華を引き継いだ世界の文明の中枢であって、西ヨーロッパはその西の果てに連なる辺境地帯であったことに起因している。そして中世の西ヨーロッパは先に述べたように、ビザンチン・イスラム文明を学ぶことによってかなり近代化し、文明も発達し、火砲などの軍事力も飛躍的に発展した。
 しかしその西欧が中枢たるイスラム世界の脅威を直接に受けたのは、オスマン・トルコ帝国の拡大と発展の過程が、歴史的に最初の事件だったのである。
 一つは1453年に、西ヨーロッパの人々が古典・古代文明の伝統そのものとして認識してきたビザンチン帝国がオスマン帝国の攻撃にあって首都コンスタンチノープルを陥落され滅亡した事は、西ヨーロッパに大きな衝撃を与えた。しかしこれは直接西ヨーロッパがオスマン帝国の脅威にさらされたわけではなかった。もっと大きな衝撃が襲ったのは、1529年のオスマン帝国によるウイーン包囲であった。この包囲に至る過程でオスマン帝国は、長い間占領できずにいたベオグラードを1521年に陥落させ、ハンガリーからオーストリアへと、西ヨーロッパ中枢へと軍を進める路を切り開いたのであった。このオスマン帝国軍の強さは、この時期、オスマン帝国の軍隊が従来の騎兵集団中心の軍隊から、大量の鉄砲と火砲を装備した大規模な歩兵常備軍を中心とした軍団に変化していたことであった。1527年のオスマン帝国の常備軍は、約8000名の歩兵と約2000名の砲兵・工兵、さらには約5000名の騎兵からなっていた。合計約15000の常備軍。しかも歩兵と騎兵の全ては鉄砲で武装され、大型の大砲を砲車で移動できる砲兵と合わせて、指揮官の指令の下に一糸乱れぬ集団行動をとれる常備軍であった。イスラムにならって鉄砲と火砲を導入しはじめていた西ヨーロッパの軍隊は、まだまだ諸侯・騎士の連合軍の性格から脱しきれず、これほどの規模の常備軍を備えている王国はまだ存在しなかった。そして1529年のウイーン包囲の時にオスマン帝国が動員した兵員は地方からの騎兵軍もあわせて12万にも達し、300門の火砲も備えていた。これに対してウイーンに篭った神聖ローマ帝国軍は約5万。この力の差は歴然としていたのである。
 オスマン帝国によるウイーン包囲は、その時期が冬に入ってしまったため装備や食料などの不足のためにと中で包囲が解かれて危機は回避されたのだが、オリエント文明を学んで科学も軍事力も発展させ、各地に強力な王制が敷かれて発展の路を辿ってきた西ヨーロッパに大きな衝撃を与えた。しかもオスマン帝国の拡大はこれでとまらず、やがて地中海全域の制海権も握られて、地中海は「オスマンの海=イスラムの海」と化してしまったのである。そしてオスマン帝国軍の拡大はさらに続く。16世紀の初めに15000を数えた常備軍はさらに拡大し、1609年には、歩兵37000余り、騎兵21000余り、砲兵・工兵8000余りで、総数66000人もの大軍団になっていった。

 こうしてオスマン帝国は当時の西ヨーロッパの各王国が及ばないほどの軍事力を抱え、それを支える広大な領土と交易路からあがる莫大な税を基礎に、組織だった国家組織をもって、西ヨーロッパの東にそびえる巨大な壁となっていった。「つくる会」教科書が言う「イスラム教徒の力への恐怖」とは、正しくはこのオスマン帝国への恐怖であり、これは「トルコの脅威」として認識されたものだったのである。
 以後西ヨーロッパでは国家体制や軍事制度の整備が進み、軍隊も巨大な常備軍の形成と鉄砲・火砲を備えたしかも工兵によって野戦陣地を作るかたちの戦闘へと、オスマン帝国にならった国家制度・軍事組織の整備が進み、オスマン帝国の領域を避けてアジアへと向かえる巨大な船の建造が進められ、交易の利と安価な食料・衣料・木材を求めての「海外渡航」が繰り広げられたのである。
 イスラムこそが文明の中心であり、西ヨーロッパはその西の端に存在する辺境であった。文明の流れはイスラムから西ヨーロッパに流れていたのであり、西ヨーロッパはイスラムを中心としたオリエントの経済・文明圏の一環に過ぎなかったのである。しかし両者の関係はけして敵対関係にあったのではなく、むしろ長い平和と一時期の戦争を繰り返す中で文化交流が行われてきたのが実態であった。それが一転して「イスラムの脅威」を西ヨーロッパの人々が感じるようになったのは、オスマン帝国の発展の過程においてであり、「イスラムの脅威」の実態は「トルコの脅威」だったのだ。しかしこの「トルコの脅威」だけが、西ヨーロッパをして「大航海時代」に突入させた要因ではなかったことは、すでに述べた。

 「つくる会」教科書が、地中海は800年間「イスラムの海」であり、ヨーロッパ人は「イスラム教徒の力の恐怖」に怯えていたとしたのは、このような事実誤認に基づいていたのであり、言葉を変えれば、この教科書の著者達の心の内に内在するヨーロッパへの反感がヨーロッパを馬鹿にする感情となってあらわれ、このような事実誤認を生んでしまったのだと思われる。

注:05年8月刊の新版でも、この「イスラムの脅威」への誤った認識は改められていない。

注:この項は、青木康征著「海の道と東西の出会い」(1998年山川出版社刊「世界史リブレット25」)、長澤和俊著「海のシルクロード―四千年の東西交易」(1989年中央公論新書刊)、長澤和俊著「シルクロード」(1993年講談社現代文庫刊)、鈴木董著「オスマン帝国―イスラム世界の柔らかい専制」(1992年講談社新書刊)、鈴木董著「オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家」(2000年ちくま新書刊)、小林多加士著「海のアジア史」(1997年藤原書店刊)、イマニュエル・ウォーラーステイン著「近代世界システムT・U」(1981年岩波書店刊)、ジャネット・L・アブー=ルゴド著「ヨーロッパ覇権以前―もう一つの世界システム」上下(2001年岩波書店刊)、小学館刊「日本大百科全書」の、ルネサンス・12世紀ルネサンス・カロリングルネサンス・十字軍・レコンキスタの各項目の記述などを参照した。


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