「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判5


5.将軍形骸化は何のため?―執権政治とは何か―

  鎌倉幕府といえば源氏将軍は3代で絶え、以後は実権を剥奪された公家または皇族将軍が置かれ、執権となった北条氏が幕府の実権を握ったとされている。ではなぜ将軍は形骸化されねばならなかったのか。そして執権と成った北条氏が幕府を簒奪したように見えるが、御家人はこのことをどうとらえていたのか。つまり言いかえれば、執権政治とは誰のための政治形態だったのか。このような鎌倉時代の謎について、この教科書はどのように記述しているだろうか。以下に見ていこう(p85)。

 頼朝の死後、幕府の主導権をめぐる争いで有力な御家人が次々にほろび、頼朝の妻政子の生家である北条氏が実権をにぎった。源氏の将軍は、3代目の実朝が暗殺されてとだえ、そののちは、京都から藤原氏や皇族などを迎え、名ばかりの将軍にした。北条氏は家がらが一御家人にすぎなかったために将軍にはなれず、将軍を補佐する執権という地位について、幕府の政治を動かした。(執権政治)

 これが執権政治についてのこの教科書の説明のすべてである。

 この記述は一般の教科書に比べていくつか優れた点がある。
 その1つは、幕府の内部に幕府の主導権をめぐる争いがあって多くの有力な御家人が滅びたことを記述したこと。2つ目は、源氏将軍が滅びたあとでも藤原氏や皇族の将軍を幕府の長として戴きつづけたことを記述したことである。

 多くの教科書は、源氏将軍を暗殺したのは北条氏で、従って北条氏は幕府の実権を陰謀によって奪ったのであるかのような書き方をしている。しかしこの教科書の記述だと、北条氏が幕府の実権を握ったのは、有力御家人との間の幕府の主導権争いの結果であることがきちんと記述されており、『何のための主導権争い?』という、ことの本質に迫る問いが出てくるようになっている。また第2の点の、名ばかりの将軍にしろ、将軍があくまでも幕府の長であったという事実の記述は、『将軍とは何だろう。何のために名ばかりの将軍を置くのだろう。そもそも御家人たちは、何のために源氏の将軍を担いだのだろう?。』という、これもかなり鎌倉幕府の性格にかかわる本質的な問いを生み出す記述になっている。この2点において、この教科書は、他の教科書より優れている。

 しかし詳細に見るならば、この長所もその短所によってすぐに帳消しとなっていることが分かる。

 この教科書の短所の1つは、記述が事実の羅列になっていて、事実と事実の関係やその意味をきちんと示したり、それを考えさせるようには記述されていないことにある。

 この執権政治についてみると、どうだろうか。
 まず最大の欠点は、
源氏将軍は、御家人たちによって殺されたという決定的な事実を記述していないことである。幕府の内部に主導権争いがあって多くの有力御家人が滅んだことと、3代将軍実朝が暗殺されたこと。この二つの事実がまった無関係に並べられている。そして暗殺されたのは2代将軍の頼家も同じであることや、彼らの暗殺は北条氏を中心とする御家人の合議の結果であったことも、完全に伏せられている。そしてこの事実を伏せてしまったために、せっかく将軍が名ばかりのものになっても存続した事実を記述しても、この記述が前記の幕府の主導権争いとは有機的に結びつかず、かえって、北条氏が幕府の実権を握るために次々と有力御家人をほろぼし、さらに源氏将軍をも暗殺して、名ばかりの将軍を置いたという通俗的な通説を、つよく印象づけてしまう結果になっているのである。

 個々の記述では、多くの教科書より詳しい部分はあるが、全体として記述が羅列的で散漫であるために、歴史の通俗的理解にとどまってしまい、「新しい歴史教科書」と銘打っているわりには、天皇の歴史的位置の過度の強調以外は、かえってとても古い内容のないものであるという、この教科書の一般的性格が、ここでも良く出ている。

 では、執権政治とは何であったのだろうか。

(1)王朝の一機関か、それとも東国で独立するか?

 鎌倉時代の諸事件の基本的性格の1つは、常に幕府内部に権力抗争が起きていることである。それは、頼朝が生きている間にも何度も起きていたし、北条氏が実権を握ってからも、何度も起こっており、その帰結が、幕府の滅亡となったといっても過言ではないほどである。その権力抗争のテーマとは、『幕府は王朝の一機関として存続するのか、それとも東国で独立するのか』というものであった。

 この対立が最初に表面化するのは、頼朝が駿河の富士川の戦いで、平氏軍に勝ったときが最初である。
 頼朝は勝利の余勢をかって、都の後白河と連絡をとったうえで、平氏を朝敵として討とうとした。しかし関東の有力御家人とりわけ、下総・上総の有力御家人の上総の介常胤や北条時政はこぞってこれに反対し、背後の常陸の佐竹氏を帰服させることが先決であると主張し、結局このときは関東御家人の意見が通ったのである。
 つまりこのときは、
王朝の一機関(侍大将)として動こうとしたのは頼朝であり、それに反対し、関東に独自の勢力を立てることを主張したのが、関東御家人だったのである。だが、この対立は、頼朝が生きている間には、とくに内部抗争として表面化することはなかった。

 この内部に孕まれた対立が表面化したのは、頼朝の死の直後である。
 頼朝が死んだ1199年の10月に、頼朝の側近であった梶原景時が、有力御家人である小山朝光たちが将軍頼家を廃位し、弟(後の実朝)を擁立しようとしていると頼家に訴え、それが根も葉もないウソであるとされて景時は追放され、一族を率いて都に上る途中、駿河で幕府軍に討たれた。
 しかしこの景時の訴えは根も葉もあったのであり、その4年後に頼家は強制的に隠居させられ、将軍は弟の実朝のものとなった。
 幕府の記録である吾妻鏡を見ると、頼家が将軍になって以後、彼と御家人たちとの対立は強まっていた。
 最初は、彼が将軍となってわずか3ヶ月後に、将軍が訴訟を裁決することが禁じられ、北条義時・泰時・大江広元・三浦義澄らの宿老の合議となって、将軍権力が制限されたこと。そしてさらに、景時の事件の直後に、頼家が、幕府創業以来御家人に安堵された所領のうち、500町以上のものを削って、所領の少ない将軍の近習に与えようとして、有力御家人に反対された事件。ようするに、
将軍権力を強めようとする将軍と、それを弱めようとする御家人との対立なのである。

 梶原景時は頼朝の側近であり、幕府の御家人を監視する立場にあった。したがって彼がもたらした頼家廃位の情報は正確であり、彼を追放したことで頼家は逆に、自らの柱石を失ったとの「愚管抄」での慈円の評価の方が、真実を捉えていよう。
 また、訴訟における将軍の親裁権剥奪が頼朝の死後すぐであったことを考慮し、その頼朝はしばしば後白河や王朝に対して、後白河の皇子を関東に下向させ、幕府の権威上の長にしようとはかっていたことや、後白河の孫の後鳥羽に自らの娘を入内させ、その所生の皇子の一人を関東に下向させようとはかったらしいこと。このような事実と組み合わせて考えると、頼朝の時代からすでに、王朝国家の一機関としての幕府を指向する頼朝と彼に同調する御家人たちと、これに反対し、将軍の力を弱め、王朝との関係を弱めて幕府をそれとは独立した機関にしようとする関東の御家人の対立が、幕府政治の底流に孕まれていたと見たほうが正確ではないだろうか。景時が一族を率いて都に向かったということは、王朝の援護を彼が頼んだし、それが可能な状況にあったということではないか。

 この対立はさらに続き、1203年には、頼家の舅である比企能員一族の滅亡と頼家の伊豆幽囚となり、頼家の暗殺となる。
 この比企能員は、検非違使の判官に任ぜられており、後に彼の子の能本が、承久の乱で佐渡に流された順徳上皇に従ったとの伝承を考慮に入れれば、頼家・比企能員の背後には、王朝の後鳥羽があったかもしれない。

 さらに1205年の頼朝の甥の平賀朝雅京都で殺された事件がある。
 これは北条時政が、将軍実朝を廃位して、自分の娘婿であり源氏一族である朝雅を将軍にしようとして失敗し、朝雅は殺され、時政は伊豆に隠居させられた事件と言われている。しかし朝雅が京都で後鳥羽の信任が厚かったことや、この事件の複線として、武蔵の有力豪族である畠山重忠が、武蔵国司であった平賀朝雅と対立して、その朝雅が時政に対して、重忠が幕府転覆を図っていると讒訴し、畠山重忠が北条時政に討たれるという事件があったことを考慮すれば、この事件も、将軍実朝をかついで東国に独立勢力をつくろうとする御家人たちと、都の朝廷と結びついて、幕府を王朝の一機関にしようとする勢力との抗争であった可能性があるのである。

 王朝の一機関としてあるのか、独立勢力としてあるのかという問題が、すぐれて第1級の問題であり、これをめぐって幕府内の御家人の抗争があったというのが真相であろう(この項は、佐藤進一著「日本の中世国家」による)。

(2)将軍の持つ二面的性格

 幕府の内部で「王朝の一機関としてあるか、独立した勢力としてあるか」という対立が常にあったということは、幕府自体、そしてその長である将軍自体が二面的性格をもっていたということである。

@朝廷にとっての将軍

 都の朝廷にとって、源頼朝の下の「幕府」は、あくまでも地方の軍事指揮権を持つ、王朝の臨時的一機関としてしか認められない。それは王朝の二統分裂という非常事態の中で、高倉=安徳の王朝を確立しようとする平家と、鳥羽=二条=以仁王=北陸の宮の鳥羽王朝を確立しようとする源義仲という、二つの敵対勢力を倒し、自己の王統を確立しようとした後白河が、自らを支える勢力として源頼朝旗下の勢力を認定した結果でしかない。いわば必要悪である。
 だから後白河は決して源頼朝の勢力に認めた「守護・地頭」も、臨時の職である「総追捕使」の権限以上の物とは認めなかったし、したがってその設置範囲も、あくまでも当面の戦いに必要な範囲に留めようとした。そして源頼朝の征夷大将軍任官要求も認めず、近衛右大将という王朝の一武官の地位しか認めなかったのである。
 したがって後白河の死後も、臨時の職を恒久化し、幕府の長の征夷大将軍任官を実現させ、全国的に軍事指揮権を行使しようとする幕府に対しては、朝廷の内部に強力な反対意見が存在したし、幕府をあくまでも朝廷の一機関に留めるために、その長である将軍を王朝の中に取り込もうとする動きが続いたのである(この件については、次項の「承久の乱」の所で詳述する)。

A関東御家人にとっての将軍

 一方源頼朝を頭に頂いた関東御家人にとって将軍とは、そして幕府とは何であったのだろうか。
 前の「鎌倉幕府」の項でも触れたが、将軍と御家人との関係は、基本的に、荘園領主である貴族とその家人との関係と同じである。それは実際の土地使用権・利用権の主である武士を特権貴族たる荘園領主が王朝国家の搾取から保護するとともに、その見返りとして、何がしかの貢物(だから年貢と呼ぶ)を要求するという関係である。
 ただ将軍―御家人との関係が、一般の貴族ー家人との関係と違うことは、貴族は自己の荘園となった地域だけにこの関係を持ちこめるのであるのにたいして、将軍は自己の荘園の範囲を超えた一定の地方の全ての公領や荘園に対してこの関係を持ちこみ、他の貴族の荘園であろうが、王朝が支配する公領であろうがかまわず、そこの実際の支配権をもつ武士に保護を与えた。

 その保護とは、最初は「兵糧米」という戦費の徴収であり、戦乱を口実にした諸税の横領であり、土地を管理する地頭への任命であった。そして戦費としての兵糧米が戦乱の収束によって廃止された後は、既得権としての土地の管理者・徴税者としての地頭の権限を最大限に使って、税を多く掠め取ったり、果ては、土地の支配権を荘園領主から半分取り上げるという行動にまで出ていったのである。

 御家人にとって将軍とは、まず第1に王朝の支配から自己を保護する盾であり、さらには王朝―貴族の支配する地域の税を、そしてその地域そのものを掠め取る後ろ盾でもあったのである。
 だから、源氏三代の将軍が滅びても、王朝国家から自己の利益を守ろうとする御家人にとって、将軍という盾は絶対に必要だったのである。ただし政治的決定権は持たず、常に御家人の統制下に置かれた傀儡としての将軍である。

B源氏総領家にとっての将軍

 では源氏総領家にとって将軍とは何であったのか。源頼朝があくまでもこだわった征夷大将軍という職の意味するところを考えてみよう。
 この職は文字どおりに「夷=東方の蛮族」を征服し王朝の支配に服させるための軍事的・行政的指揮権をもった職であり、平安時代の中ごろまで王朝の支配に完全には服さなかった、東北地方の蝦夷を征服するために設けられた職である。
 源頼朝がこの職にこだわったのは、父祖いらい源氏総領家が荘園として自己の勢力基盤にしようとはかってきた東北地方を我が物にしたいという欲望のためであったろう。東北地方は、日本随一の金と鉄の産地であるとともに、軍馬の産地でもあり、さらには日本海や太平洋を通じた、北はカムチャッカから南は琉球・東南アジアにいたる交易の拠点であり、この地を支配するということは、富と軍事力とを独占するということであったからである。
 王朝国家は、奈良・平安の時代を通じて、この地を征服し、この地の富と軍事力を独占しようとしてきた。そして天皇家の一分流である源氏総領家は、王朝の内部で自己に有利な王統が成立するよう画策するためにも、東北の富と軍事力を必要としてきたのである。
 源頼朝はおそらく、この父祖以来の伝統に則って、東北地方を我が手に収め、王朝国家内において、自己の支持する王統を確立し、その支配権を強化するためにこそ、征夷大将軍の地位を望み、彼を支持した関東御家人の軍事力を、このために使おうとしたのであろう。

 この意味で、源氏総領家にとっての将軍ー幕府の位置付けと王朝国家にとっての位置付けはかなり重なり、だからこそ将軍―王朝の連携が成立したし、これと対立して将軍を王朝から独立するための盾にしようとする関東御家人の動きが生まれたのである。

(3)関東御家人の利益を保護した執権の存在

 最後に、北条氏による執権制について考えてみよう。

 執権は、幕府の二大機構である政所と侍所の双方を兼ねる職である。政所は当初は源頼朝の個人的な家政機関であったが、幕府機構が整備されると共に、幕府の政治の実際を決定する機関にと変化し、事実上将軍の権限を代行するものとなった。
 例えば御家人に対する所領安堵の証明は、当初は源頼朝の花押が押された書面によってなされていたが、後には政所下文という形をとり、源頼朝の花押はなくなり、将軍ではなく、幕府機構としての政所が御家人の所領を安堵する形となっていった。したがってこの政所の別当という最高責任者をするということは、将軍の代わりとして政治的決定をなすということであり、幕府政治の事実上の最高責任者となる。
 また侍所は幕府機構として当初より、御家人を束ね、幕府の軍事面を統括する機構であった。従って侍所の別当という責任者をするということは、幕府の軍事面の最高責任者となる。

 北条氏は和田義盛の死後侍所の別当を我が手に収め、後に政所別当であった大江広元が死去すると、政所別当も兼ねるようになり、幕府機構の枢要を動かす立場になったのである。

 だがこの執権と呼ばれる政所と侍所の別当を兼ねる職は、後の時代ほど独裁的なものではなかった。政所も侍所も別当は複数おり、その決定は複数の別当による合議制をとっていたからであり、両機構の別当には御家人の有力者が任ぜられていたから、幕府は、有力御家人の合議制でなりたっていたと言える。
 だからこそ、初代将軍頼朝の死後、それまで将軍親裁の権限であった裁判を、侍所別当の北条義時と、政所別当の大江広元、そして裁判事務をあつかう問注所別当の三好康信以下の有力御家人の合議制に変えたことが、将軍権力の制限につながり、二代将軍頼家と御家人との争いにもなったのである。
 
それゆえ執権とは、少なくとも鎌倉幕府の初期においては、独裁的な権力を振るうものではなく、有力御家人の筆頭(頭人)として、その利益を代表すべき位置にいたのである。

 ではなぜ伊豆の国の一土豪に過ぎなかった北条氏がこの御家人の筆頭の地位につき得たのか。
 もちろん北条氏の出である政子が、将軍の妻であり、二代・三代将軍の母であったという有利な位置があったことは否めない。だが肝心なのは、北条氏、とりわけ初めて政所と侍所の別当を兼ねた北条義時が、幕府権力のあり方をめぐる争いの中で、どのように動いたかということである。
 先に述べた将軍と御家人の争いの中で、北条氏の占める位置は常に、御家人の側にあり、将軍権力を弱める側に位置して動いていたことが想起されるべきである。とりわけ、将軍頼朝の信頼を得ていた関東の有力御家人である桓武平氏の畠山や大場・梶原や和田・三浦などが、つねに将軍権力の強化の側にたって動いていたのと比べ、この動きは好対照である。
 頼朝死後の頼家・実朝との争いの中で、北条義時のとった動きは、裁判を有力御家人の合議制にして将軍親裁を止めるとともに、有力御家人の所領を削って近習に与えようとした将軍頼家を引退させ、弟の実朝に交代させた。そしてその過程で、将軍権力を強化しようとした関東の有力御家人の多数を亡ぼした。
 さらに、その実朝が自ら望んで王朝に接近し、後鳥羽を和歌の師と仰ぐとともに、後鳥羽の寵臣坊門信清の娘を妻とするとともに、後鳥羽の腹心である文章博士を政所別当の頭人に据え、さらに王朝国家内の貴族として右大臣となり、幕府権力を王朝の一機関へと変身させようとしたときには、三浦氏とはかって、将軍実朝を暗殺。さらには、その後、後鳥羽上皇が、自身の寵妃の荘園の地頭を廃止させようとしたときもこれを拒否。
 初代執権ともいうべき北条義時の動きは常に、王朝の一機関として動こうとした将軍権力と戦い、王朝から独立した動きをしようとした御家人の利益を守り、このために行動したのである。

 北条氏による執権制度は、少なくともその初期においては、幕府の王朝の一機関に止め、武士が王朝国家―貴族の支配を侵食することを阻止しようとする王朝の動きを阻止し、貴族の支配から脱しようとする御家人武士の利益を守る働きをしていたといえよう。

:05年8月刊の新版の執権政治についての記述(p68〜69)は、旧版とまったく同じである。したがって旧版の問題点についての先の指摘は、そのまま新版にもあてはまる。

:この項は、前掲、佐藤進一著「日本の中世国家」、五味文彦著「源実朝ー将軍親裁の崩壊」「鎌倉前期の幕府法廷」「執事・執権・得宗ー安堵と理非」(1990年吉川弘文館刊「吾妻鏡の方法ー事実と神話にみる中世」所収)、「将軍暗殺ー鎌倉武士団王殺しの謎」(1991年角川書店刊「歴史誕生5」所収)などを参照した。


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