「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判6


6.承久の乱とは何であったのか?−幕府と朝廷の関係

 平安時代末期から鎌倉時代初期にいたる連続した戦乱の最後を飾るものが、「承久の乱」であった。この教科書はこの乱について、1:「乱」の性格・2:「乱」の経過・3:「乱」後の幕府と朝廷の関係の三つに分けて記述している。順次これを検討してみよう。

(1)「北条氏」を討つ目的は?

 「つくる会」教科書は、この「乱」を引き起こした後鳥羽上皇の動きをつぎのように記述している(p85)。

 後鳥羽上皇は、朝廷の勢力を回復するため、1221(承久3)年、北条氏を討つように全国の武士に命令を出した。

 「朝廷の勢力を回復する」とは何を意味した言葉だろうか。これだけを見てもその実態はわからず、「幕府が東国を足がかりに全国的に国を治める権力を掌握しており、それを取り返すため」という意味にとれてしまう。実態はどうだったのだろうか。

@地頭の停止をめぐる上皇と北条氏の対立

 後鳥羽上皇は先にも記したが、彼の祖父の後白河と同じように、朝廷の権力を昔のように回復しようとする傾向の強い王者であった。したがって彼はその線に沿って行動し、「乱」の前に、彼と幕府とが対立していた点は、諸国の公領や荘園に置かれた地頭の問題であった。
 地頭はその公領なり荘園の税を徴収する権限をもっと役人であり、それを幕府が任命するということは、この所領の管理が朝廷や貴族の指揮下にではなく、幕府、そしてその下部の構成員である武士自身に移ってしまう危険のあるものであった。事実幕府や武士は、平氏追討や義経追討に事寄せて、税以外に追討のための軍事費を臨時にかけてそれを徴収していた。つまり税の一部を「逆賊追討」を名目にねこばばしていたのである。これは追討の戦終了とともに停止されるのだが、地頭はしばしばこれを既得権として継続し、税の一部を着服しようとしていたのである。
 したがって上皇は入魂にしていた実朝を通じて幕府に対し、上皇の近臣たちの所領の地頭の停止を申し入れていたのだが、幕府、とりわけ御家人の頂点に立つ北条氏はこれを拒否していた。ここに後鳥羽上皇と北条氏の対立の根本的問題があるのである。

A承久の乱の発火点:将軍宣下と地頭の停止

 そして、承久の乱の直接のきっかけもまた地頭の停止をめぐる問題であった。
 3代将軍実朝の暗殺(これも朝廷の一機関としての幕府を志向する実朝、つまり上皇の意向を受け入れて地頭を順次廃止していくことを容認する実朝を御家人達が危惧し、御家人のトップに立つ北条氏と三浦氏とが共謀して将軍を暗殺したことは先に説明した)後、朝廷と幕府との関係は大きく揺らいだ。
 なぜなら幕府は、名目上はあくまでも朝廷に任命された征夷大将軍の家政機関に過ぎず、各御家人が保有している地頭の職(守護の職も)は、朝廷の公的役職である将軍によって私的関係としての家臣にゆだねられた権限であり、征夷大将軍なしには、幕府の存在も、守護・地頭の権限も法的には存在しないからである。
 したがって幕府(北条氏)は、源氏将軍に代わる親王将軍の任命と東下を朝廷に要請した。しかし上皇はこれを拒否するとともに、寵愛する白拍子亀菊の所領、摂津国長江・倉橋両荘地頭の解任を幕府に要求した。つまりこれは北条氏に対する踏絵であろう。上皇の寵妃の所領の地頭を解任するということは、幕府が(北条氏が)朝廷の指揮下に入るということを意味し、これを認めるのならば、親王を将軍として東下も認めようということである。
 だがこれを認めることは、武士の権限を拡大するために幕府を作ってきた東国御家人たちには決して容認できないことだったのである。幕府は執権義時の弟の時房を軍勢とともに上洛させてこれを拒否。そして朝廷内の親幕府派(朝廷から半ば独立する幕府の存在を認めざるを得ないという人々)を動かして、左大臣九条道家の子で、当時2歳の頼経に将軍宣下を行い、彼が鎌倉に下ることになった。
 つまり後鳥羽と幕府との戦いは、朝廷内の親幕府派の斡旋により、幕府の全面的勝利に終わったのである。ここに上皇の武力倒幕の決意は固まった。

 このように承久の乱の発火点を具体的に探ってみるとそれは、「朝廷の勢力を回復する」というような抽象的なことではなく、公領・荘園の租税徴収権という、土地の実質的支配権を巡る争いである。しかもこの争いは、妥協点がないわけではなく、幕府としても、朝廷が、幕府が公領・荘園に地頭を置き、税の一部なりとも武士が着服することを容認するものであれば、幕府の権威そのものが朝廷に由来しているがゆえに、その存在を犯そうとは思わず、朝廷側が武士の一定の権利を認めれば妥協は可能だったのである。
 しかし後鳥羽と彼を取り巻く廷臣たちにとっては、地頭の存在そのものが朝廷の支配権に対する挑戦と映ったのであり、武士はあくまでも貴族の臣下であり、彼ら貴族の所領の現地監督官にとどまるべきだったのである。承久の乱とは、具体的には、貴族と武士との関係、所領の管理権をめぐる彼らの相互関係のありかたをめぐる争いであったのである。

 「つくる会」教科書は、このあたりをきちんと整理して捕らえていない。彼らは鎌倉幕府をもって「本格的武家政権」の誕生、つまり武士が全国を統治する政権ととらえており、この時期の幕府は、限られた地域の徴税権の一部と軍事警察権を保有するに過ぎなかったという実態が見えていないがゆえに、承久の乱も正しく認識できないのである。

(2)後鳥羽上皇に味方した武士とはどんな人々?

 ではこの「乱」に際して、上皇に味方したのはどのような武士であったのか。それは主に西国の貴族や皇族の所領の地頭(荘官)を務める武士たちであり、その中でも上皇の北面の武士に任命されており、上皇の直属の軍隊をなしていた武士たちである。彼ら自身も幕府の御家人ではある。しかし彼らの主力をなす近畿地方の武士たちにとって、かれらの権利の拡大には、幕府よりも朝廷のほうが大いに役立つと考える武士たちであった。

 たとえば幕府の有力御家人で上皇に味方した近江の佐々木氏を見てみよう。幕府創業は主として東国の武士たちの力によったが、その中で異色なのは、近江の国(滋賀県)佐々木の庄による佐々木氏である。彼らは宇多天皇の子孫である宇多源氏であるが、平安末期の佐々木秀義の代に清和源氏嫡流の源為義の家臣となった。その理由はおそらく、彼らの所領である佐々木の庄が比叡山延暦寺のものであり、その強大な武力に抗して権利を拡大するには、摂関家の有力な御家人であり摂関家の武力を統括する源為義の傘下に入ることが得策だと考えたからであろう。そして近江佐々木氏は、保元・平治の乱においては源氏嫡流をとった源義朝の傘下で戦い、そして義朝死後も近江佐々木の庄を失ってまでも源氏に従い、平氏滅亡後その所領を回復し、近江守護とともに京都守護も務める名門となった。
 しかし彼らが武士の権利を拡大しようとするとぶつかるのはあいかわらず延暦寺であった。幕府成立後もしばしば彼らは延暦寺と衝突し、暴力を働き荘園を奪った罪でしばしば佐々木家当主は遠島の憂き目にあっているのである。当時の幕府の力では延暦寺を抑えることなどできなかったのである。
 「乱」の勃発時において、近江守護や京都守護を務めていた佐々木氏主流は上皇方につき、その武力の核となった。つまり彼らにとって、自己の所領での権利を守る上では遠く東国に拠点を置く幕府ではまだまだ力不足であり、それゆえ彼らは朝廷につきしたがう方向を選択したのであろう(もう一点、彼らが「源氏」であり、幕府というのはあくまでも朝廷の一下部機関であるべきと考えていた可能性はある)。

 一方幕府に従った佐々木氏傍流派は、佐々木秀義と東国武士渋谷氏の娘との間に生まれた子供たちであり、さらには執権北条氏と縁戚関係をもっていたものたちで、彼らの主な所領は東国なのである。つまり西国と東国という地域を支配していた支配権力の差によって、帰属を選択したとは言えないだろうか。

 つまり上皇に味方した武士は、朝廷の全的な支配権が確立していた西国に所領があったか、個人的に上皇に臣下の礼をとっていた武士なのであろう。
 ここにも承久の乱が東国を中心に土地支配権の一部を奪いとりつつあった幕府・御家人勢力と、それを許さないという立場をとった上皇・廷臣たちの争いであったという性格がよく現れていると思う。

 乱に際して全国の武士が幕府に味方したわけではなかったし、同じく全国の武士が上皇に味方したわけではなかった。なぜそうなのかということを考える手がかりすら「つくる会」教科書は与えてくれない。この乱において幕府に味方した武士にとって、この戦いは大義名分のない戦いであった。彼らは今まで朝廷の命令にしたがって逆賊を討つという名目で戦ってきたのである。しかし今回は自分たちが逆賊なのである。にもかかわらず多くの武士が幕府に味方し、すばやく上皇軍を打ち破ったという事実の背景には、土地支配権の拡大を目指す武士たちの葛藤があったということを明記すべきである。そうでなければ、歴史は必然になってしまい、「人々の選択」が歴史であるという「つくる会」教科書の歴史観すら実現できないのではないだろうか。

(3)乱後なぜ朝廷をつぶさなかったのか?

 この疑問は承久の乱を学ぶと必ず出てくる疑問である。圧倒的な武力で上皇軍を破ったのに、じゃまな朝廷をつぶさずに、上皇を島流しにしただけとは?。この疑問にどう答えているのであろうか。教科書は以下のように記述する(p85)。

 承久の乱ののち、幕府は京都に六波羅探題を置いて、朝廷を監視した。また、西日本にも幕府の力が広く及ぶようになった。ここに武家の権力は、大きく拡大したのである。しかし、幕府はその後も、朝廷を国の仕組みの頂点とする形式は変更しなかった。幕府が実力を伸ばしても、国家統治の正統性を保つために、朝廷をないがしろにできなかったからである。

 この教科書は上の疑問にそれなりに答えようとしている。この点は評価できる。そもそも多くの教科書はこの疑問を想定して書かれていない。権力と権威との関係を意識していないからである。
 この教科書はこの疑問を想定している。なぜなら教科書執筆者の思想では、日本の統治権は天皇にあるのがあたりまえであるからである。したがって武家政権といえどもこれをないがしろにはできなかった。そしてこれが歴史的事実であったのであり、この事実に依拠して、日本のあるべき姿として「天皇親政」を空想するからである。

 ではこの「つくる会」教科書の、上の疑問に対する答えは正しいのだろうか。
 半分は正しく、半分は間違っている。
 幕府の存在それ自身にとって、朝廷の存在とそれが任命した将軍のという存在が、幕府の正統性の根幹をなす事項である。それを指摘した点は正しい。
 しかし「国家統治の正統性」を得るためではない。この時代の幕府は、限られた地域の徴税権の一部と軍事警察権を持っているだけである。いわば「国家統治権」の一部に参画しているに過ぎない。幕府というものは、御家人武士にとっては、貴族が支配している土地の管理権や徴税権の一部、そして軍事警察権を彼らが独占し、力関係しだいでは、徴税権や管理権をどんどん侵食して分捕っていく上での隠れ蓑・保護機関である。その幕府の性格からすれば、その存在を保証する朝廷は不可欠である。という意味での限られた範囲での「国家統治の正統性」なのである。

 それを無限定に「国家統治の正統性」と言ってしまうと、その前段の「武家の権力は大きく拡大した」という記述とあいまって、ここで全国支配権を武士が自分のものにした、武士の世が確立したと誤解されてしまう(いや、この教科書の執筆者自身が誤解しているように思える)。

 承久の乱後の処理は、後鳥羽上皇の島流しだけではない。実際には3上皇の島流しであり、上皇の廷臣たちの解官・所領の没収も行われ、この上皇に味方した廷臣たちの荘園に関東御家人が地頭に任命されたのであり、上皇に味方した武士たちの地頭職も解任され、かわりに関東御家人が地頭になった。この実際の乱後の処分を「つくる会」教科書は一切記述しない。一切記述しないでおいて「武家の権力は拡大した」と記述する。なんと観念的な記述であろうか。歴史的実態が捉えられていないのである。
 なぜなら「つくる会」の人々にとって、歴史とは事実の確認ではなく、自己のイデオロギーの正統性の確認だからであろう。

(4)幕府権力と朝廷権力の住みわけを図った御成敗式目

 幕府の「国家支配権」はきわめて限定的であった。依然として全国を統治しているのは都の朝廷である。しかし御家人武士たちは、幕府を梃子として東国を拠点に、御家人武士の権利拡大を図る。といって朝廷方との軋轢もなるべく控えたほうが良い。とくに比叡山延暦寺などの強大な寺社勢力との衝突は避けるべきである。その上で、幕府・御家人武士の既得権益は守る。こういった意図からできた幕府法が御成敗式目であった。この意味でこの式目は当時の幕府と朝廷との関係をよく表している。

 しかし「つくる会」教科書は、この法についての記述でも、この観点は希薄である(p85)。曰く、

 執権になった北条泰時は、1232(貞永元)年、武家社会の慣習に基づいて、初めて独自の法律である御成敗式目(貞永式目)を定めた。これは、御家人に裁判の基準を分かりやすく示すためのもので、のちまで武士の法律の基本となった。

 「武家政治」の世になったのだから武家の慣習に基づく法律をつくるのはあたりまえか、と普通は考えてしまうだろう。しかしその観点からすると御成敗式目は変な法律である。たとえば第3条の守護の職務。ここでは頼朝の時に定められた守護の職務は、「大番役の催促と謀反人や殺害人の逮捕」であるとし、「これ以外の職務はしてはいけない」とわざわざ規定する。ということは、しばしば守護がこれ以外の職務に手を出していたという事実が背景にあるとみなければならない。しばしば守護となった有力御家人によって荘園の権利を犯された貴族が、朝廷を通じて幕府に抗議し、訴訟に持ち込んでいた。この朝廷を通じた抗議に対しても一定の理解を示し、貴族側の権利にも理解を示しながら御家人武士と朝廷との関係についての既得権を確保しようとの意図が透けて見える。この規定などは、「武家社会の慣習」に基づいた法という性格付けでは理解しがたい。当時の御家人武士と朝廷との生きた関係が反映されていると見るべきであろう。

 御成敗式目についての記述も幕府がはじめての武家政権であるという幻想に依拠しているようである。そして多くの教科書もこの観点に立っていることも明記しておこう。
 鎌倉時代という時代の特性はきちんと理解されていないのである。

:05年8月刊の新版における承久の乱と御成敗式目についての記述は、新版とほとんど同じである(p69)。したがって旧版に対する問題点の指摘は、そのまま新版にも当てはまる。ただ一点異なるのは、乱後の幕府と朝廷の関係についてである。新版では「武家の勢力は大きく拡大したが、朝廷の力はまだ強く、幕府は朝廷をないがしろにすることはできなかった」と記述し、旧版にあった「国家統治の正統性」という語句は削除されている。こう記述してしまうと、旧版よりも実態からかけ離れた記述になる。つまり「朝廷の力がまだ強い」ということの意味がわからず、かえってあいまいな記述になるからである。

:この項は、小学館発行「日本大百科全書」の該当の項目、前掲、佐藤進一著「日本の中世国家」などを参照した。


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