「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判7


7.「武士の暮らし」「農民の暮らし」の排除

(1)「武士とは何者」の問いに答えない記述

 中世の日本の章の最初のページの扉絵には、この時代の武士の暮らしを描いた絵巻「男衾三郎絵詞」の一部が掲載され、そこに次のような問いが書き連ねられている(p81)。

 上の絵では、武士が武芸の訓練を行っている。この章で学ぶ中世は、武士が力を伸ばした時代である。武士とはどんな人々で、貴族とどう違っていたのだろう。また、武士はどのように世の中を支配したのだろう。

 ここには中世とはどのような時代なのかという時代認識が現れている。そしてそれは、中世は武士の世であり、鎌倉幕府ができたことで武士が全国を統治したというものであり、だからこそ、上のような設問がなされたのである。

 では「つくる会」の教科書は、この問いにどのように答えているのであろうか。

 それは以下の二箇所の記述でなされている。一つは鎌倉幕府の成立の項のところで、封建制度を説明して次のように記述する(p84)。

 鎌倉幕府は、将軍とその家来である御家人の主従関係によって成り立っていた。御家人は将軍から伝来の領地を保護されたり、新しい領地を与えられるなどの御恩を受け、そのかわり将軍に忠誠をちかい、戦のときには命をかけて戦って、奉公にはげんだ。このように、領地をなかだちに主従関係を結んだ武士が、農民を支配する社会のしくみを、封建制度という。

 しかしこの記述は、御家人武士と将軍との関係を示したにすぎず、武士とは何か、武士と貴族との違いとはという問いに対する説明にはなっていない。

 :この封建制度は武士の社会に特有のものではなく、貴族と武士との関係を特徴付けるものであり、将軍と御家人との関係は、中央貴族と武士との関係そのものであり、中央貴族である将軍の家臣として、その領地の管理をする御家人という関係であり、武士は貴族の領地の現地管理官に過ぎず、徴税権(税をとって都に送る)・警察権・土地管理権をもつ下役人に過ぎなかったことはすでに「中世の批判4」で行ったので、ここでは述べない)。

 その説明は、次のページ、執権政治と承久の乱の最後に、わずか4行、おなさけのようなスペースで、【武士の暮らし】と題してなされている(p85)。曰く

 鎌倉時代の武士は、ふだん自分の領地に住み、荘官や地頭となって農民を支配した。堀や土塀をめぐらした屋敷をかまえ、つねに弓矢や乗馬などの武芸の調練にはげんで、質素に暮らした。

 この記述自身は短いが含蓄の多い記述である。

 :「荘官や地頭となって」という記述は、幕府が全国のすべての地域を支配したのではなく、朝廷や貴族が直接支配していた所では、武士は貴族の家臣で荘園を管理する役人としての「荘官」の役についていた、という、朝廷と幕府とのいわば二つの政府が対立していた状況を反映したものである。だが記述した者はこの意味には気づいていない。また、わざわざ「質素に暮らした」と記述するのは、「貴族との違い」を意識したものに違いない。だがこれは貴族の中の上級・中級・下級の違いを示すに過ぎず、多くの武士はこの下級貴族よりも下で、彼らの「侍」に過ぎなかったのだから、生活が「質素」になるのも当たり前である。しかもこれすら農民たちに比べるとかなり「豪華」な暮らしであることは、一遍上人絵伝の館の絵などで良くわかることである。「質素」という言葉は、「贅沢・華美」という貴族に伏せられたマイナスのイメージの対となっている「武士は質実剛健」という価値観の反映であろう。

 しかしこの程度の説明で、先の「武士とは何か・貴族とはどう違うのか」という問いに対する答えが出てくるものであろうか。ここには平安時代の貴族の寝殿造りの家の復元模型(「平安の文化」の項に載せてある)に対比させるべき武士の館の図面や史料も載せられてはいない。さきほどの章の扉絵が絵巻の一部で、笠懸の場面や弓の弦を張る場面であったので、これとこの教科書の説明をつなげて、「武士とは貴族と違って地方の村に住み、常に戦に備えていた人々である」という程度のイメージがでてくるだけである。

(2)武士は「農民」であり「商人」であり「戦人」であった

 私が授業で使ってきた清水書院の教科書は次のように記述している。【武士の生活】と項を起こして1ページとり、最初の部分で封建社会の説明を行ない、つぎに武士の暮らしを武士の屋敷を示す絵巻、「一遍上人絵伝」の一部を掲載して、次のように説明する。

 武士は、荘園や公領の交通や水利の便のよい場所に、堀や塀でかこんだ屋敷を設けて住んでいた。自分の田や畑は下人や近くの農民を使って耕作させ、近くに設けた馬場などでふだんから弓馬の訓練に励んでいた。

 武士の館の様子が絵巻でおさえられ、それにこの説明がなされることで、武士が貴族と違って領地の現地に住み、つねに戦に備えていたことが理解される。その上、武士自身も田畑を所有する「農民」であったことがしっかりと描かれ、武士=「戦人」だけではないことが示されている。
 さらにこれに加えて、武士の館が荘園や公領の「交通や水利の便のよい場所」を選んで作られていることが説明されている。この記述は、「なぜ武士は交通や水利の便のよい場所」に館を作っていたのだろうという問いを発することで、武士とはどのような者かを深く考えさせるきっかけをも与えている。
 「戦人」であるというイメージからは、「戦に赴くに便利なように、交通や水利の良いところに館をそなえた」とかいう答えも出てくるであろう。さらに彼らが「税の徴税と運搬」を担っていたというイメージからは、「道路や川を使って税を集めるにも便利だし、さらに都に税を送るにも便利だ」という答えも返ってくるだろう。要するに、荘園や公領を支配・管理するには便利な場所であるということから、武士がこれらの地域の現地管理官であるという性格が見事に浮き上がってくるのである。

 ただしこれは近年の研究によるとそれだけの理由ではないようである。荘園や公領の交通や水利の便の良い場所にある武士の館(しかも荘官や地頭である武士の館)の門前は、当時は定期的に市が開かれていた場所である。そこではさまざまな生活に必要な物資が売られると同時に、農民も収穫の余りを売って金銭を稼いで、道具や足りない食料を手に入れていたし、武士も税の余剰分をこの市に売り出すことによって彼らも金銭を稼ぎ、道具や食料を得ていたこともわかっている。さらにこの市が「定期市」として発展してくれば、その市に税をかけ、さらには市に向けて道路を通行してくる商人に税をかけることも可能である。

 さらに、近年の研究によると、武士=侍身分とは、さまざまな人々を束ねる長として現地に住み、その長としての役割を朝廷から委任されている身分であることもわかってきている。

 荘園の荘官や地頭が、荘園や公領に住む人々を統括し、その管理および税の調達を請け負っている「荘園・公領の長」であることは説明を要しないだろう。しかしこの荘園や公領は田畑であるとは限らない。中には海や川や湖などの地域も含み、ここで水産物を獲ることを生業とした人々や、水運を生業とした人々で成り立っている荘園や公領もある。この場合は武士は、漁労民の長であったり、水運業者の長であったりするのだ。代表的な例としては、摂津の国の渡邊の津を拠点として、この地域の漁労民や水運業者を束ねていた武士団、渡邊党がある。彼らはこの地だけではなく、全国の浦浦を活動の拠点として、各地の浦や津に一字名源氏としての渡辺氏が土着していた事は資料でもわかる。この渡邊党を統括していた長が摂津源氏であり、平安末期の武人としては源頼政である。
 そして分業の進んでいない当時としては、漁労民もその海産物を商う商人を兼ねていた。したがって彼らを束ねる武士はまた、商人の長でもあったのだ。

 さらに日吉社や北陸の気比社の神人(神に仕える奴隷)として、金融業(神社の収められた初穂を神に代って貸しつける商い)や廻船業をいとなんでいた人々は官位をもった侍身分であったこともわかっている。例えば1214年に越前守護によって内裏大番役の催促を受けた敦賀郡に住む中原政康は、自分は代々気比社・日吉社神人として神事に従事してきたが(御家人役)である大番役についたことはないと、大番役を拒否している。つまり神人として金融業や廻船業に従事していた侍身分のものは御家人に比するほどの武力をもった武士であったということである。

 また武士は神社の神主などを統括する長でもあった。良く知られる例でいうと、一遍上人絵伝で、一遍が備前の国の吉備津宮の神主の息子の妻を出家させたことを怒って福岡の市まで追ってきて一遍を切ろうとした神主の息子はまさに武士であった。

 このように見てくるときに、武士とは単なる「戦人」ではなく、彼ら自身が「農民」であり「商人」でもあり、「運送業者」でもあったことがわかるのである。そしれこれは武士の発生自身が、東国では9世紀末〜10世紀に東海道足柄峠や東山道碓氷峠で駄により運送に従事した富豪集団であり、朝廷から盗賊と呼ばれた蹴馬之党【しゅうばのとう】およびそれを討伐すべく編成された土豪の武装集団に端を発していたことと関連し、武士とはもともと「運送業者」などの「商人」だったのではないかという論すら生まれてくるのである。

 「つくる会」教科書の武士像=「戦人」は、あまりに限定されたものなのであるが、それすらきちんと描かれていないといえよう。

(3)「泣く子と地頭には勝てない」のは?

 さらにもうひとつ問題なのは、「つくる会」教科書では武士と農民との関係がほとんど描かれていないということである。そこではただ「農民を支配した」としか記述されていない。では清水書院の教科書はどう描いているのだろうか。【農民の生活】という項を起こして1ページとり、(「つくる会」教科書にはこの項目がない)、以下のように記述する。

 農民は、荘園では荘園領主に、公領では国司に年貢や公事を納めた。そのほかに、地頭分の年貢や労役がかけられることもあった。年貢などを納めることができない場合、下人になってつぐなわされる者もいた。

 つまり地頭はしばしば、荘園領主や国司に納める税以外にも「地頭分」という税や労役を農民にかけてきたというのである。これは税の二重取りであるし、場合によっては荘園領主や国司に納められ、都に送られるべき税の一部を地頭が懐にいれ、都に送られる税が減らされるという事態が起きていたということである。そのとき武士は幕府の力と自らの武力を盾にして横暴を働くのである(だから「泣く子と地頭には勝てない」という)。これは、農民にとっても大変な事態だし、貴族にとっても大変な事態である。
 だから貴族は武士の力をなんとか削ごうとしてきたし、この延長上にに承久の乱があるのだし、有名な下地中分という荘園を「地頭の取り分」と「荘園領主の取り分」という形で二分するという取り決めがなされたということの意味が、この記述でわかるようになっている。

 さらにこの記述に続けて、鎌倉時代における暮らしの変化と武士と農民の関係の変化についても以下のように記述する。

 しかし、牛馬にすきをひかせて田畑を深く耕し、草木の灰を肥料として使うようになると、生産は高まった。畿内などでは米の裏作に麦をつくる二毛作もはじまった。そして、農村には鍛冶屋などの手工業者が住みつき、年貢の集散地や寺社の門前には、月に3度の定期市も開かれた。このころ日本では貨幣がつくられなかったので、売買には、中国(宋)から輸入された宋銭が使われた。
 生産が高まるにつれて、農民の力も強くなり、地頭の横暴をやめさせるよう、団結して荘園領主に訴えをおこす動きもあらわれた。

 生産が発展する中で農民たちも力をつけ、地頭の横暴に対して戦うようになったというわけである。

 :この生産の発展については「つくる会」教科書は室町時代の記述にすべて統合してしまっている。そのため武士と農民の関係がどう変化したかもわからなくなったし、いくつか後の項の商工業の発展の中で御家人が土地を失い・・・徳政令が出されたという事実の背景すら理解できなくなっているのである。

 そして史料として「法然上人絵伝」をあげて、馬を利用した耕作の様子や豊作を祈願した田楽の様子を紹介し、さらには、紀伊の国の阿弖河の荘の農民の訴え状を載せて、地頭の横暴の様と、それと戦う農民の姿を描いている。

 「つくる会」教科書は、「武士の暮らし」や「農民の暮らし」を具体的に記述することを避けているため、中世という時代を生き生きと描くことに失敗しているのである。この教科書は、こうした「社会史」的観点が極めて弱い。それはおそらくこの教科書が、政治史とそれに従属した文化史に重点を置いていることから来ているのであろう。

 :05年8月に発売された新版の教科書は、この項については幾分工夫がなされている。「読み物コラム」という形で【武士の生活】という項を立てて1ページとっている(p73)。そしてここに一遍上人絵伝の九州の武士の館での場面を挿入し、武士のくらしを具体的に示そうとしている。そしてその絵の説明で、館の傍にある「門畠」をとりあげ「武士のもつ畠で使用人に耕させた。田の場合は門田という」と記述し、武士もまた田畑を所有する「農民」でもあったことに気づかせる記述になっている。
 これは旧版に比べれば一歩前進である。しかし農民との関係はあいかわらず「武士は農村に住み、土地や農民を支配した」と記述する。あいかわらずの政治史重視、社会史軽視の執筆態度ではある。

:この項は、網野善彦著「中世前期の都市と職能民」(中央公論新社2003年刊「日本の中世6 都市と職能民の活動」所収)、石井進著「鎌倉武士の実像」(平凡社1987年刊)、石井進著「中世のかたち」(中央公論新社2002年刊「日本の中世1」)などを参照した。


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