「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判8


8.「元寇」−「一国主義」に陥った「神風史観」−

 「幕府」と「朝廷」が並び立ち、一方は東国に他方は西国にそれぞれ基盤を置き、幕府は徴税権と軍事警察権の一部を担うが、全般的な国の統治は「朝廷」が行うという、いわば権力の棲み分け状態が承久の乱後成立した、この時代の特徴であった。この棲み分け状況に大きな変化を与えるきっかけとなったのが「元寇」である。この時代を画す事件について「つくる会」教科書は、どのように記述しているのであろうか。

 一読して気がつくことは、この記述が次のような特徴を持っていることだ。

(1)戦いの経過を詳しく記述する。特に日本の武士が頑張ったさまを。頑張ったから勝ったというように。

(2)「幕府」と「朝廷」の一致した対処したということをしきりに強調する。それが勝利の原因であるかのように。

(3)「元寇」の世界史的背景があまり記述されていない。それゆえ日本勝利の原因も主観的になっている。

 以下、詳しく見ていこう。

(1)「元寇」の世界史的背景の欠如

 この教科書の記述は、モンゴル帝国というものがどのようなもので、なぜ日本を攻めたのかということがほとんど記述されていない。
 まずモンゴル帝国については次のように記述する(p86)。

 13世紀のはじめ、チンギス・ハンによってモンゴル高原に建国されたモンゴル帝国は、不敗の騎馬軍団を各地に侵攻させ、またたくまにユーラシア大陸の東西にまたがる空前の広大な領土をもつにいたった。チンギス・ハンは国をほろぼすこと40、人を殺すこと数百万にもおよんだという。この帝国の勢力拡大はヨーロッパにも聞こえ、人々はモンゴル人をおそれた。

 ここにはモンゴルがいかに強大で残虐であるかという記述しかない。そしてこの記述のあるページの上のほうに、ユーラシア大陸の地図を載せ、その多くがモンゴルに征服されたことを示してあるので、それともあわせて「この強大で残虐なモンゴルに勝った日本はすごい」という感想が引き出されるだけであろう。
 この記述には、モンゴル人が遊牧民族であったということすら書かれていない。そして彼らは遊牧で手に入れた羊の毛や乳や肉などを農耕の民の農作物と交換することで、生活に必要な物資を手に入れているのであって、その存在のしかたそのものの故に、交易に依拠して生活せざるを得ないことも記述されていない。さらに掲載されている地図には、モンゴルの版図がユーラシア大陸の東西をむすぶ交易路にそって広がっていることや、その交易路全体を支配することを目的にするかのようにモンゴルの版図が広がった様も示してはいない。
 つまりこの記述の仕方では、モンゴルによるユーラシア大陸の統一が、かっての大唐帝国の滅亡以来400年ほどにわたってこの地には多くの王国が割拠し戦いを繰り返していたために、唐の時代のような活発な東西交易が不可能であったということ。そしてにもかかわらず、東西交易は続けられ拡大されており、交易路に沿った地域が政治的に統合されることの必要性が高まっており、統合すれば統合した国家に莫大な財貨が入ることは必定であったこと。こういった背景がまったくわからないのである。

 「つくる会」教科書は、モンゴル帝国と東西交易の関係についてつぎのようにあっさりと記述するのみである(p86)。

 ただし、モンゴル帝国が東と西にそれぞれ栄えていた文明を支配下に入れたことで、東西の文化が交流する舞台をつくったことは見のがせない。

 これでは「結果として交易が盛んになり東西の文化が交流した」という評価になってしまう。むしろモンゴル帝国の各ハーンは、交易の拡大がおよぼす利益を良く理解しており、支配下においた地域の交易路には、食料や馬や宿舎を備えた駅舎を一定の距離をおいて設けさせ、その駅や交易路を守備するための守備隊をも置いたのであった。
 モンゴルの「世界征服」は、広範囲の地域を統合することによって交易を一層盛んにし、そこからの利益を吸い上げるということがその目的であったといえるほどである。このことを理解しておかないと、元軍の日本遠征も単なる征服欲のなせる技ということになってしまうのである。

(2)元軍来寇時の東アジア情勢の欠如

 @文永の役(1274年)は避けることができた!

 同じように、元軍が来寇したときの東アジア情勢も、この教科書は全く記述しない。
 1度目の文永の役(1274年)の時には、東西交易路の東の基点である中国がまだモンゴルの支配化には入っていない。モンゴルは中国北部に割拠していた満州族の国家「金」を滅ぼし、淮河(わいが)以北の中国を占領し(1234)てはいたが、今の
杭州に都する「南宋」を打ち破ることはできていなかった。その中で「南宋」と通交している日本を切り離すことで、「南宋」を孤立させ打ち滅ぼすことを目的にして、征服下においた高麗を通じて1266年から1271年にかけて6度も日本に国書送り、モンゴルに服属することを持ちかけたのであった。

 :それを「征服」のための前触れだと解釈したのは、日本の側である。特に幕府はモンゴルの国書を「日本を見下したもので、言うとおりにしないと、武力をもって征服する」と言っていると解釈し、平和的な通交の道を自ら拒絶してしまったのである。「つくる会」教科書が記載する「そのときの手紙の内容は、日本を見くだし、『もし言うとおりにしなければ、武力を用いることになろう』と脅すものだった」という記述は、幕府側の勝手な解釈を載せたにすぎない。

 だからこの時はまだ「交渉」の余地はあったし、「服属」といっても今まで日本が中国の皇帝に対して臣下の礼をとっていたのと同じことであり、毎年貢物を持っていけばよかったのである。それを「征服」と解釈して交渉を拒絶し、結局戦争になるはめに陥ったのは、幕府の対応であった。
 幕府はモンゴル帝国の実力を見くびっていたということであろう。だから九州の御家人に出動を命じただけで何も準備をしなかったのである。

 そしてもうひとつ、1266年から71年の交渉の過程において、モンゴルの高麗支配は万全ではなかった。高麗王朝がモンゴルに対する抵抗を止めてからも、その軍隊の一部であり、高麗王朝の最精鋭の部隊である三別抄は抵抗をやめず、民衆の抵抗運動とも結びついて朝鮮南部の海岸地帯を支配し、モンゴルの侵入を阻止しつづけたのである。この三別抄からは1271(文永8)年に日本の朝廷に対して同盟の申し出と救援兵を送って欲しいことや兵糧米の購入の依頼などがあったが、朝廷も幕府も事態を理解しないまま交渉を拒否、対モンゴルでの日韓の連携の道はたたれてしまった。もしこの連携が出来ていたら、事態はもう少し違った形になったことであろう。
 文永の役は、この三別抄を、その前年の1273年に、モンゴル・高麗連合軍で、その拠点である済州(さいしゆう)島を陥れて全滅させ、後顧の憂いを絶ってから行われたのである。
 しかし水軍の中核をなす高麗の人々はモンゴルに完全に従ったわけではなかった。だから高麗・モンゴルの混成軍である遠征軍も内部に不一致を抱えていたのである。さらにモンゴルの支配とそれに臣従する高麗王室に不満をもつ民衆は抵抗を続け、日本征討のための戦艦造りの過程において、船の強度に手抜き工事を施すなどの抵抗をしたとも伝えられている。

 しかし、これらのことを「つくる会」教科書はまったく記述しない。はじめから戦ありきなのである。

 A諸般の事情で時期が遅れた第二次征討=弘安の役(1281年)

 二度目のモンゴルの侵攻は、文永の役の直後にすぐに計画された。1275年2月に皇帝フビライは、日本に対して高麗経由で再度使節を送ると共に、高麗に対して再度戦艦の修造と軍器の製造を命じ、再度の日本征討を準備した。それが6年後になったのは、さまざまな事情があった。
 一つはモンゴルはこのとき南宋の征討作戦を展開中で、南京を落として、南宋の首都の杭州に軍を進めつつあった。そして今後の南宋の抵抗が激しくなることを予測して、1276年正月に、高麗に対して日本征討の延期を通告したのであった。だから第二次の征討が文永の役の直後という事態は避けられたのである。
 しかしフビライの予想に反して南宋の抵抗は激しくなく、日本征討中止を決めた直後に、首都は陥落し、南宋は滅んだ。このときただちに日本征討が発せられなかった理由の一つは、臣下に対して「日本征討の可否」を問うた時に、有力な家臣たちが、積年の戦争による民の疲れを進言したことにより、フビライが征討を中止としたことである。さらに征服した南宋の遺臣たちが各地で蜂起し、それらを完全に制圧するのには、1279年まで要したこと。そして日本征討の前進基地である高麗において内紛が起こり、これを処理するのにも時間を要したことである。

 もし翌年または翌々年にモンゴルが攻めてきたら、果たして博多湾岸の石塁を中心とする防御体制は万全であっただろうか。博多湾岸の石塁の建設は、1276年のことである。前年1275年の12月に幕府は翌年3月に異国征伐(モンゴルの尖兵になっている高麗に対して先制攻撃をしかけることにより制海権を確保しようという企て)を行うことを決定し、翌年三月には九州一円の武士に対して高麗出兵または博多湾岸での石塁建設の人夫を率いて博多に出頭することを命じている。つまり1276年になってようやく、反攻・防御の準備がスタートしたのであり、フビライが当初計画したように、1276年初頭に再度の征討が行われていたならば、防御すら不可能であった可能性が高いのである。

 しかしこれらモンゴルの第二次征討において日本の武士たちが善戦できる条件を生み出したアジア情勢について、「つくる会」教科書は、まったく記述しないのである。

(3)第三次征討を阻止したアジア情勢

 モンゴルの日本征討は、良く知られている二度の戦いだけではなかった。皇帝フビライは三度目の征討を計画したし、彼の死後も、その後継者は引き続き征討を計画している。あきらめたのは二度目の征討から実に20年の月日がたってからであった。そしてその過程でもサハリンやアイヌ、そして琉球に対して何度もモンゴルの軍隊が来襲し、かの地の占領を企てている。だからこそ幕府も臨戦体制を緩めず、「異国番役」をかけつづけ、次の戦いに備えていたのである。

 では三度目の日本征討をモンゴルにあきらめさせた要因は何であったのか。

 三度目の征討が実際に計画・準備されたのは、1283年正月である。そのための役所が作られ、戦艦の建造と兵士の徴発が、高麗と旧南宋に対して発令された。しかし両国の民はこの命令を拒否した。高麗では兵士徴発に対して兵役拒否の逃亡があいつぐという形で抵抗運動が進んだ。さらに南宋の故地では、抵抗は反乱にまで発展し、モンゴル兵を動員して抑えざるをえなくなった。この反乱は皇帝フビライに日本征討を思いとどまらせたのである。
 この高麗と中国の民たちの抵抗がなかったならば第三次征討は、1283年8月に実施されていただろう。
 しかしフビライはあきらめず、1283年8月になると再び戦艦の建造に着手し、海南島の人々を徴発して水夫として訓練し、第三次征討の準備を開始した。しかしそのとき中国南部で、元王朝の討滅と宋王朝の復興を掲げた大規模な民衆反乱がおき、その鎮圧のために、日本征討のために編成された軍隊を転用せざるをえなくなった。そして中国南部では反乱は繰り返して置き、そのため再度三度目の日本征討は中止されたのである。
 さらに時をおなじくしてベトナムでも反乱が起き、モンゴルは日本征討用に編成した水軍をもベトナムに派遣せざるをえなくなり、しかもこの時の戦いは、暴風雨にあって甚大な被害を受け、モンゴルの大敗北となった。
 こうして三度目の日本征討は中止せざるをえなくなったのである。1284年5月、フビライは日本征討のための役所を解散したのであった。

 三度目の日本征討は、中国とベトナムの反乱により、そして高麗の民の抵抗によって中止に追い込まれたのである。しかしフビライはあきらめず、その後も何度も日本征討を企画し、役所の再建と戦艦の建造・兵の徴発を試みた。しかしそれも征討基地である中国と高麗の民の抵抗によって潰えた。特に中国の民は、1284年以降何度も繰り返されたベトナムへの征討のために多くの兵士を徴発され苦しんだ。それゆえ抵抗は一層激しくなったのである。
 それに加えてモンゴル帝国内部の内紛も作用した。ハーンの地位を巡る一族内部の争いが激発したのである。そして1294年、皇帝フビライは80歳で死去する。彼の死去とともにモンゴル帝国は日本征討を止めたのであった。

 三度目の日本征討は、モンゴルに征服されたアジアの諸民族の不満が爆発する中で延期され続け、最後にフビライの死去によって終止符と打った。

 しかし「つくる会」教科書は、以上の事実についても口をつぐんで語らない。まるで日本は独力で強大なモンゴルの侵攻を阻止したと言いたげに。

(4)日本武士の健闘の背景は

@どちらも騎兵と歩兵の混成旅団

 たしかに日本の武士はモンゴル軍に対してよく戦った。文永の役においては博多を焼かれ、武士団は大宰府まで交代せざるをえなかったとはいえ、モンゴルの集団戦法に戸惑いながらも敵にかなりの打撃を与え、この戦いでモンゴルの副司令官も負傷。それゆえモンゴル軍は大宰府占領を一旦あきらめ、船に帰ったのである。
 なにゆえ、モンゴルの二万8000にも及ぶ大軍に善戦できたのか。それはこの軍隊がモンゴル人・満州人(女真)・中国人・高麗人の混成部隊だったことによる。蒙古襲来絵詞にもよく描かれているが、モンゴル軍といっても、騎馬集団は数が少なく、多数の歩兵と少数の騎兵の混成旅団であった。これなら鎌倉武士団も歩兵と騎兵の混成旅団であり、戦法の違いに慣れれば、かなり戦える。またモンゴルの弓は短く、接近戦ならかなり有効だが、遠距離になると効果は半減する。その点日本の武士団の弓は短弓と長弓の中間で、騎馬での接近戦にも使えるし、遠矢でもかなりの威力がある。だから緒戦こそモンゴルの集団戦法に慌てたとはいえ、鎌倉武士団も守護などの指揮の下で集団で戦えば、充分に対抗可能なのであった。弘安の役に置いては前回の失敗に学び、最初から鎌倉武士団も集団戦法をとったのである。

Aモンゴル軍を水際に留めた石塁の威力

 弘安の役において大きな役割を果たしたのは石塁である。これは単なる防御のための防塁ではなく、要所要所には警護の役所が設けられ、兵船や盾や武具を備えており、いざとなれば兵が出撃して敵を迎え撃つ要害であった。これが総延長20kmにわたって築かれていたのである。
 したがって最初に到着し上陸しようとした4万の高麗・モンゴル軍は博多に直接上陸することは出来なかったのである。

 モンゴル軍は石塁の前に直接上陸するのを避けて、手薄な志賀島や能古島を占領し、隙を見て上陸する戦法をとった。したがって鎌倉武士団も船をつかってしばしばモンゴル軍を襲い火をかけたりして悩ました。
 しかし主戦場はモンゴルの主力が占領した志賀島と博多とを結ぶ「海の中道」であった。この細い砂州を利用してモンゴル軍は博多に侵攻しようとする。それを阻止すべく鎌倉武士団も「海の中道」に殺到し、激戦が繰り広げられた。狭い砂州での戦いで、お互い歩兵と騎兵の混成旅団である。この攻防は6月6日から13日まで続いたが、ついにモンゴル軍は「海の中道」を占領できず、中国江南から出向した10万の江南軍との合流の日である6月15日も近づいたので、先着の東路軍は単独での占領をあきらめ、壱岐へ退いた。
 だが江南軍は約束の日時には現れず、その間に武士団の攻撃も受け、しだいに船の破損や食料不足、そして疫病にも悩まされたのであった。

 弘安の役において、博多湾の石塁は大きな役割を果たしたと言えよう。そしてこの石塁を築き上げるだけの時間を日本に与えたのは、先に述べたように、高麗や中国の民たちの抵抗であったのだ。

B攻撃の遅れがモンゴル敗北を生んだ

 しかしこれらの鎌倉武士団の善戦も、中国南宋の遺臣からなる10万の江南軍が予定どおり6月15日に到着し、東路軍と合流していたら、ほとんど意味のないものになっていただろう。圧倒的な数の差の前に志賀島・海の中道は占領され、一気に博多を占領されていた可能性が高い。

 実際に江南軍が到着したのは6月の末であった。しかも諸般の状況を考え、壱岐から博多湾岸を攻めるよりは平戸島を占領し、ここから海岸づたいに攻めていくほうが有効だと考え、予定を変更して平戸島へ現れた。そして予定変更を知らされた東路軍が壱岐から平戸島に到着したのは、7月はじめ、そして約一ヶ月の期間を置いた後、7月27日に東進して鷹島を占領。以後、ここを根城にして九州北部に軍を展開し、博多侵攻の機会を狙った。鎌倉武士団は昼夜を問わず、鷹島のモンゴル軍を襲ったが、衆寡敵せず、撃退されてしまった。

 翌7月30日にここを台風が通過し、モンゴルの船団に大損害を与えなければ、14万を超え、兵船の数でも4400を超えた大軍団の力の前に、鎌倉武士団は徐々に後退し、モンゴル軍は海岸づたいに博多に進出占領したであろう。ここまで大軍団を展開できればあとは平野沿いに大宰府に侵攻するだけである。そうなれば万事休す。

 結局弘安の役において日本が勝ったのは、江南軍が予定より10日以上も到着が遅れたことと、その後一ヶ月もこれが動かなかったことにより、季節がまさに台風の時期になってしまったことによると言っても過言ではない。

 なぜ東路軍と江南軍の合流は遅れたのだろうか。それはひとつに東路軍が予定より先に出航し、先に博多湾岸に到着して、日本占領の戦果を独り占めにしようとしたからであろう。その理由はわからないが、なんとかしてモンゴルの支配を弱めようとしていた高麗王とモンゴルの勢威を背景に高麗において自己の権力を強めようとしていた高麗人のモンゴル将軍の確執が背景にあったかもしれない。
 さらに江南軍が遅れた理由はこれは偶然である。総司令官が病気になり、司令官交代のために出発が遅れたことが主因である。
 またなぜ二つの征討軍が合流したのちにただちに攻撃に移らなかったのか。これはおそらくひとつには江南からの船旅の性ではないだろうか。朝鮮半島南部から出航した東路軍と違って、中国南部から出航した江南軍は東シナ海のはげしい風雨をついた長旅である。兵の疲れは相当のものであろう。そしてまた先に戦闘を交えた東路軍の損害を回復するという目的もあったかもしれない。さらにはモンゴル・高麗・中国の諸将の間の不一致や先陣争いなどもあったかもしれない。ともあれ一ヶ月も攻撃を開始しなかった理由は定かではないが、これが致命傷になってしまった。

 14万もの大軍を擁しながら、攻撃を迅速に進められなかったことが、結果として台風の襲来という最悪の結果を招き、それゆえ大被害を蒙って抵抗力の弱ったモンゴルの大軍を、鎌倉武士団が掃討することを可能にしたのである。だが「つくる会」教科書は、これらの複雑な事情が絡んで戦闘が行われたことには一切口を噤んでいるのである。

(5)まとめ:一国主義的・拝外主義的「神風史観」

 「つくる会」教科書は、日本勝利の理由をどうまとめているのだろうか。この点を以下のように記述している(p88)。

 では強大な元の襲来が、2度とも失敗したのはなぜか。元は海を渡っての戦いになれておらず、大軍の中には、高麗や宋の兵も多く混じっていて、内部に不統一をかかえていた。またこの危機に朝廷と幕府が協力して対処し、特に幕府の統制のもとで武士が勇敢に戦った。さらに2度にわたる暴風雨は、日本を勝利に導き、その後も、神の力による神風と信じられた。

 戦闘についての詳しい記述とあわせてこのまとめを読んでみると、要するに朝幕が一致した戦いの陣形を組む中で、幕府の統制の下で武士が良く戦った。しかしモンゴル軍に壊滅的打撃を与えたのは、2度の暴風雨であるということになる。総じてこの教科書は、モンゴルの日本侵攻という事態に対して、日本の鎌倉武士がよく戦ったという、博多湾岸での局所的戦闘の描写に偏っている。そこでは、日本侵攻の尖兵を勤めさせられるにあたって長い間抵抗しつづけた高麗や中国の人々の戦いの姿は視野には入っていない。この高麗や中国、そしてベトナムの人々の戦いが、モンゴルの日本侵攻を送らせ、それゆえ幕府に迎え撃つ準備をする時間的余裕を与えたことや、三度目の侵攻計画を挫折させたのも、これらのアジアの諸民族の戦いであったという事実も見ようとしていない。したがって局所的な日本での戦いのみ見ている限り、強大なモンゴルの侵略を日本が阻止し得たのは、まさに武士の頑張りと二度の暴風雨という神風になってしまうのである。

 これでは鎌倉時代の朝廷や幕府を動かしてきた人々の認識となんら異なる所はない。この認識に立つ限り、モンゴルに屈して日本侵攻の尖兵をつとめた高麗や中国の人々はふがいない、敵ともいうべき人々と見えてくる。それは鎌倉幕府が文永の役以後、「異国征伐」と称して高麗出兵を再三にわたって計画した時に、西国の人々の間に、「コクリ・ムクリ」は恐ろしいものという、元寇によって広がった観念を利用した時の、その認識とも同質である。そしてまた後年、日本が聖戦をかかげてアジアを侵略するときに朝鮮・中国の人々に対する敵愾心をあおる上で元寇のモンゴル軍の主力が高麗・宋の兵であったという事実を利用した時の認識とも同質である。

 「つくる会」教科書はなぜ中国・朝鮮、そしてベトナムの人々の抵抗をモンゴルの日本侵攻を阻止した根本的要因として描かないのか。ここには彼らがこれらの国々を蔑視し、現在の日本政府がアジアの国々に謝罪してまわっていることを嫌う傾向が、そのまま現れているのであろう。この意味で「つくる会」の元寇に対する認識は、「一国主義」であり「拝外主義」であり、かっての「神風史観」とほとんど異なる所はないのである。

(補遺)朝廷と幕府は一致して戦ったのではない!

 最後にひとつ大きな誤りがこの教科書の記述にはあることを指摘しておきたい。それは「朝廷と幕府が協力して対処した」という記述である。

 事実はまったく逆である。朝廷と幕府はいがみ合い牽制しあっていたのである。
 そもそも最初に高麗からモンゴル国書が届けられたときから、朝廷は「やっかいごと」と言う認識であり、その国書にある「蒙古」という国号が、中国のどの古典籍に照らしても存在しないが故に判断を停止し、すべての処断を幕府に任せてしまったのである。そして朝廷が当初やったことは畿内近国の社寺に「異国調伏」の祈祷を命じただけであった。さらに、以後その命を受けて「異国調伏」の祈祷をやった有力社寺の思惑は、それによって勝利を得て、恩賞をもらうことだったのである。また、西国においても武士の多くも戦いに真剣ではなかった。よく知らない外国との戦いに物資や人を消費するなどということは無駄だと思われたのである。
 この真剣に戦おうとしない人々を叱咤激励して、モンゴル帝国の侵攻という危機に対して、真剣に対処したのは幕府であったのだ。幕府は東国御家人で西国に所領をもつものには直ちに西国に移住し危機に対処すべきことを強制した。そして西国の武士たちに対しては、幕府の御家人ではなくとも戦いで手柄を立てれば恩賞を保証することを餌にして彼らを動員すると共に、この軍に加わらないものに対しては所領没収の処置をすることすら匂わせて強制的に動員したのであった。さらに幕府は朝廷に強要して、幕府御家人の所領ではなく、朝廷・貴族の所領にも人員の動員や物資の徴発をかける権限を幕府に与えることを認めさせ、さらには全国の社寺に「異国調伏」の命令を発する権限も幕府が掌握した。幕府は、その権力を全国にくまなく行き渡らせることを通じて、総力戦を企画し実行したのである。

 しかしこの幕府の動きも単に「国の危機」を憂えてのものではなかった。むしろ「国の危機」を貴貨として、「戦時体制」という名目の下で、主として東国と西国の御家人領に限られていた幕府の権限、それも徴税権と警察権に限られていた権限を拡大しようともくろんでいたのである。詳しくは次の項に譲るが、幕府は「国の危機」を契機にして、全国的に人員の動員や物資の徴発の権限を手に入れ、さらにはこれに従わないものへの懲罰権と手柄を立てたものへの褒賞権も手に入れた。そして動員された武士や民を幕府の一元的統制下に置いて、軍事行動を組織したのであった。
 いわば「国の危機」下での総動員体制をしくことで、幕府を全国的な軍事政権として確立したのである。そして2度のモンゴル侵攻を退けたあと、朝廷は「異国征伐」は終わったものとして、これまでの総動員体制をつくるために幕府に臨時的に与えていた権限を停止しようとはかった。しかし幕府はこれを拒否。モンゴルの日本侵攻はまだまだ続くという認識(これは事実として正しい認識ではあるが)に基づいて再三再四「異国征伐」を企画して全国動員をかけ、さらに西国武士に対しては以後も「異国警護」を命じて、朝廷の指揮下にある土地に対しても幕府の統制権を行使しつづけたのである。そして「国の危機」に際して、本来は朝廷の権限であった外交権も幕府のものになった。
 まさに幕府は「国の危機」を利用して、自らの権力を拡大していったのである。ここには朝廷と幕府とが一致して国難にあたったという「つくる会」教科書の記述とはまったく相反する事実があったのである。

 「つくる会」教科書はここでも、事実を無視して、自己の価値観を歴史に投影している。それが日本は再三の外国の侵略を阻止して独立を守ったのは、武士を中心とした戦う姿勢をもっていたからであるという価値観。そしてこれは、その武士を中心とする軍事政権も天皇を頂点とする朝廷の指揮下にあったから国民的統合ができたのだという価値観でもある。この価値観は幕末の所でよりどぎつく教科書の記述に反映されるのだが、ここ鎌倉時代でも反映されていたのである。

:この項、旗田巍著「元寇」(1965年中央公論新書)、角川書店1990年刊「歴史誕生3:解読された謎の国書−蒙古襲来の真相」、海津一朗著「蒙古襲来−対外戦争の社会史」吉川弘文館1998年刊などを参照。

:05年夏に出版された改訂版は記述に変更が加えられ、詳しい戦闘の様子は「歴史の名場面」という形で本文からははずされた(p71)。しかし全体の記述の特徴や欠陥はこの批判に使用した01年版と同じである。


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