「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判9


9.通俗的・表層的歴史観ー「鎌倉幕府の衰え」の記述の特徴

(1)元寇は鎌倉幕府を「唯一の国家権力」に押し上げた 

 さきに元寇は、「幕府」と「朝廷」の並存という状況に大きな変化を与えた事件であったと書いたが、「つくる会」教科書は、元寇の与えた影響をどのように記述しているのだろうか(p89)。

 元寇は、幕府を支える御家人に、多くの犠牲を払わせた、しかし、外国との戦いだったために、新しい土地を没収したわけではなく、幕府は充分な恩賞を与えることができなかった。それによって幕府は、御家人たちの信頼を失うことになった。

 これが「つくる会」教科書の元寇の与えた影響についての記述の全てである。この記述から導き出される結論は、元寇によって幕府の力は衰えたというものになり、その原因は苦しい戦いにもかかわらず、幕府が御家人に恩賞の土地を与えられなかったからという理解になる。
 そしてさらにこの教科書は、土地の兄弟分割相続と貨幣経済の浸透による土地の質入などで困窮する御家人が増え、それを阻止するために出した永仁の徳政令も逆効果で、これらの理由により幕府の支配力は低下したと記述している。

 しかしこの記述は事実と全く逆のものとなる。事実は、幕府は大きな権力を手に入れ、天皇の皇位継承も幕府の承認なくしてはなにもできず、朝廷の影響下にある地域の境界争いや争論の裁定すら幕府が乗り出さないと収まらない事態が現出し、さらには幕府は、朝廷の影響下の地域の武士たちも次々と御家人化して、日本には「幕府」という唯一の国家権力しか存在しないかのような様相を呈していたのである。

 なぜこのような事実と逆の記述が出来あがったのだろうか?。

(2)恩賞を求める武士の実像:争論の中での旧領安堵を求める武士たち

 思うにこれは、元寇後に恩賞を求める武士が鎌倉に殺到し、幕府が対応できなくなったという事態を誤って理解したことからおきたのではないだろうか。そしてこの理解は、長い間通説的理解となっていたものである。
 たとえば「つくる会」教科書とは違って、元寇後に幕府が大きな力を得ていたことや、幕府内部の矛盾が蓄積していたことをきちんと記述してある清水書院の教科書でも、次のようなよく似た記述があるのである。

 元寇ののち、元の再来の備えて、幕府は権力をいっそう強め、九州などではあらたに御家人となる武士も多かった。いっぽう御家人は、多くの負担をしいられたにもかかわらず、国内での戦いとはちがい、恩賞の領地をえることが、ほとんどできなかった。

 この「恩賞」に関する記述は、その影響に関する評価の有無を別にすれば、「つくる会」教科書とまったく同じである。

 では「恩賞」を求めて鎌倉に殺到した武士たちを幕府がさばききれなかったのはなぜだろうか。
 先の「元寇」の項でも述べたが、幕府が元の襲来に際して動員したのは主として九州の武士たちであった(もちろん士気を高め、幕府の統制を利かせる為に守護クラスの関東武士を動員はしたが、戦力の中心は九州の武士であった)。九州は幕府の力がもっとも及んでいない地域である。したがって幕府が九州の武士を動員するには、朝廷の影響下にある地域にも動員令を出す権限を朝廷から委譲され、それを背景に、九州の非御家人武士たちに「恩賞」を餌に戦いに動員したのであった。
 またこの幕府の動員令に九州の非御家人が応じたのは、応じざるを得ない理由があったからである。それは、幕府が承久の乱以後各所に鎌倉御家人を地頭として送りこみ、多くの荘園や公領の総地頭に任命し、新たに御家人となった九州の在地の小領主たちや非御家人武士たちの所領や権限をさまざまな理由をつけて削減したり奪ったりしていたからであった。幕府権力を背景にした暴力から所領を守ることに困難を感じていた九州の小領主である御家人や非御家人武士たちは、幕府の動員に応じることで幕府のお墨付きを手に入れ、それによって自らの所領を安堵してもらおうと思ったのである。
 したがって元の2度の襲来が終わったあと、九州のおける所領争いは、動員に応じて幕府の所領安堵のお墨付きを得た在地の武士と、幕府任命の総地頭の権力を振るってこれらの小領主の所領を削減・剥奪しようとする有力御家人の争いになったのであり、それゆえこの争いは鎌倉に直接持ちこまれることになったのであった。

 この「恩賞」をめぐる武士の動きの所で必ずあげられる、竹崎季長の場合も同様であった。

@独立した旗を立てようとした弱小武士

 「蒙古襲来絵詞」で文永の役のとき竹崎季長が大将の太宰の小弐景資が陣を固めている前を通り過ぎて一人モンゴルの軍に突っ込んでいくときに景資に語った言葉で、「本訴がうまくいかないので、若党も従わず、わずが五騎だけです。この五騎で大将の御前の合戦で敵をやっつけて手柄をお目にかけることはできません。兵を進めて手柄をお目にかけるよりほかには思いつきません。私たち五騎が先駆をした旨を将軍にご報告ください。」というものがある。つまり季長は自分の本領を誰かに奪われて、しかもそれを取り戻すための訴訟もうまく行かないので、領地がなく、主従五騎で軍に臨んでいたというわけであった。
 さらに軍の後も恩賞のさたがないので鎌倉に上り、恩賞奉行の安達泰盛と面会した時の言葉には、「本領の訴訟がうまくいかず、所領がなく無足の身であるので、帰るべき場所がどこにあるともわかりません。『自分の家臣になるならば面倒をみましょう』といってくれる身近な人はいますが、なまじ『ころはた』(自分の旗)を指そうとしているので、自分の面倒を見てくれる人はおりません」とある。つまり所領を失った季長に「家臣になれ」と言ってくる人はいるが、小なりとも自分の旗を立てられる独立した武士として動きたいと季長は思っていた。だから無謀なのをも省みず、多勢のモンゴル軍に主従五騎で突っ込んでいき負傷したということである。

 このような所領を失った武士など弱小武士たちが多くモンゴルとの戦いに参戦したのである。彼らの目的はこの戦いで手柄を立てて、本領を安堵してもらったり、あらたに所領を恩賞として下され、一個の自立した武士として自らの家を確立することであった。しかし彼ら弱小武士の主張はなかなか取り上げてもらえない。だから彼らは直接鎌倉に赴いて自らの戦功を申し立て恩賞を願い出るのである。しかしあまりに多くの訴訟人が押しかけたので、幕府の訴訟を司る役人たちは、なかなた弱小武士の言を聞いてくれない。竹崎季長の場合も、鎌倉にきて2ヶ月というもの、何度足を運んでも事態は進まなかったのである。ようやく恩賞奉行の安達泰盛に会えたのは、泰盛が季長のいる肥後の国の守護という縁であったのだろう。

A恩賞として与えられた土地は=本所一円地

 ではこれらの武士たちに恩賞として与えられたのはどのような土地だったのだろうか。竹崎季長の場合を見てみよう。彼が恩賞としてもらったのは、肥後の国の海東郷の地頭職であった。この海東郷というのは、肥後の国の二ノ宮である甲佐大明神の神領であり、季長が鎌倉に立つときに、訴訟の成功を祈願した社の所領であった。つまり竹崎季長は肥後の国有力神社の所領の一部である海東郷の地頭になったのであった。

 多くの手柄を立てた御家人や非御家人に対して幕府は最初は九州の関東御領を細分化してそこに新たに地頭職を設けて、手柄を立てた武士たちの恩賞とした。しかしそれだけではたりなかったのである。そこで幕府が目をつけたのは、地頭が置かれていない土地、つまり朝廷の御領であったり有力貴族の荘園であったり、有力寺社の荘園であったりした土地に地頭を置くことをした。モンゴルとの戦いの前に幕府は朝廷に掛け合って、朝廷の影響下にある土地=本所一円地に対しても軍役の動員をかけることと兵糧米を負荷することの権限を得て、もしこれらの所領の主たちがこれに応じない場合には、地頭を新たに置いたり、場合によっては関東御領にするとも脅していた。これを適用した場合もあったであろうし、そうでない場合もさまざまな理由をくっつけてこれらの朝廷の影響下にある地域に地頭を置いて、これらの地域に対する支配権を拡大したのである。
 時はまさに「対外戦争」が継続している「国難」の時代である。次のモンゴル襲来に備えたり、場合によっては機先を制してその手先になっている高麗を攻めるために軍船をよういしたり石塁を築いたり、そのための食料や人夫を徴発したりするために、その指揮官としての地頭を置くことは、朝廷や寺社勢力としても断ることはできなかったのである。

B頻発する土地争論

 したがって「元寇恩賞地」として朝廷の影響下にある土地に新たに地頭が設けられたことにより、これらの地域の徴税権と裁判権・土地管理権が御家人のものになり幕府の影響下に置かれた。これにより、これらの土地における新たに御家人となった地頭たちと在来の小領主たちとの所領をめぐる争いは頻発するし、地頭と荘園領主との間の土地争論も頻発する。

 モンゴルの襲来の以前から各地で土地争論は激化していた。それは鎌倉に訴訟として持ち込まれる場合もあるし、現地で実力による土地争奪の争いとして紛争が起こる場合もあった。そして訴訟などに頼らず実力で土地を奪い取ったり、収穫物を掠め取ったりする武士(=これを幕府は悪党の呼んだ)たちも現れ、幕府はこれらの土地争論に大いに手を焼いていたのであった。
 そこにモンゴルの襲来が起こり、幕府はやむなく全国の武士を、御家人だろうが非御家人であろうが区別なく全て指揮下に置き、結果として恩賞地として朝廷の影響下の土地をもこれらのもの達に与えざるをえなくなった。その結果は上に述べたような土地争論の新たな増加であった。

(3)強引に法秩序を維持しようとした幕府

 この事態に対して幕府はどのように対処したのであろうか。

@訴訟の禁止令

 この対処の一環として有名な永仁の徳政令があったのである。
 「つくる会」教科書は次のように記述している(p89)。

 また、御家人たちは、兄弟による分割相続のくり返しで、領地がしだいにせまくなり、生活の基盤が弱まっていた。その上、商工業の発達とともに、武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなって、いっそう貧しくなり、領地を質に入れたり、売ったりする者もあらわれた。
 幕府は、御家人を救うために、徳政令を出して、領地をただで取り戻させようとした。しかしそうなると、御家人に金を貸す者がいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になった。また経済が混乱し、幕府の信用も低下した。

 この記述だと幕府は御家人を救うために徳政令を出したことになる。しかしそれは経済の法則に逆らっているために失敗して、かえって幕府の信用は失墜したとこの教科書は述べているのである。

 しかしこの徳政令の眼目は、御家人がすでに売ってしまった領地をただで取り戻すことにあったのではない。永仁の徳政令は三つの条文からなっている。

 第一条は「越訴」の禁止である。つまり御家人の所領に関する裁判で、一度裁判で決着がついたものを再度蒸し返して裁判に持ち込むことは今後禁止すると定めている。ただし本所(荘園領主)の場合は一度だけ「越訴」することは認めるとしている。
 教科書で引用されているのはその第二条。しかもその第二項である。第二条の第一項には、所領の質入売買を禁止するということが明確に示され、これがこの法律の眼目であることが示されている。今後は所領の質入売買は禁止する。だから、その前提として御家人がすでに質入売買してしまった領地についてに無償で取り替えさせると第二項で定め、さらに第3項で幕府の売買契約承認する安堵状をもっているものや20年を経過したものは取り返しの対象からはずすと規定し、次に第四項で買取人が「非御家人や凡下」(御家人でない武士や庶民)であったばあいは、第3項の特例もなしとすると定めたのである。言いかえれば御家人が御家人の領地を買った場合にはそれを保護するということだ。
 そして最後の第3条。これは「甲乙の輩」つまり庶民が金の貸し借りに伴う裁判を幕府に申し出ても幕府はこれを受け付けないと定めている。
 ただしこの法令を簡略化した別の法令では第二条第一項のくだりは、禁止のあとに「今後は沙汰におよばず」とあって違反者への罰則はないので、所領の売買質入にかかわる争論は今後一切幕府はとりあつかわないという意味になる。

 こうやって見るとき、この法令は御家人の土地を取り戻させることに眼目があるのではなく、幕府の持ちこまれてきたさまざまな裁判を今後「うけつけない」と宣言したことに眼目があるのである。ここで特例を除いて質入売買された御家人の所領はただでもとの持ち主に戻させる。ただし今後、所領の質入売買に関する訴訟は受け付けない。なぜなら所領の質入売買は禁止したからである。さらに御家人の所領に関する裁判は一度裁定が下った場合はそれで確定である。再度の裁判請求は受け付けない。また庶民が持ちこむ金の貸し借りに関する訴訟は今後受け付けない。これが永仁の徳政令の眼目なのである。
 御家人の保護というより、実際に起きている争いに今後幕府は「禁止令」に名を借りて、一切かかわらないと宣言したにも等しい法令なのである。

 これでは幕府に対する御家人や非御家人武士、そして荘園貴族や庶民、ようするに全ての人々が幕府のありかたに不満を持つのは当然である。「幕府が定めた法律に文句を言うな!」と秩序維持を盾にして、世の中の矛盾に幕府が立ち向かうことを放棄したに等しいからである。

A「悪党」と決め付け強引に討伐

 さらに幕府の強権的対応は別の面にも見られている。それは「悪党」に関してである。
 悪党については「つくる会」教科書は以下のように記述する(p89)。

【悪党】鎌倉後期、荘園を襲った領主や貴族に反抗するものは悪党と呼ばれた。その中には領地を失った御家人もいた。

 この「悪党」に関する記述は一面的である。悪党が襲ったのは荘園に限られない。公領であろうと荘園であろうと、また将軍直轄の荘園である関東御領であろうと関係ない。彼らは各所を襲い、金品を強奪したり年貢を掠め取っていたのである。
 またそもそもこの「悪党」という用語は、幕府が法令の中で性格付けしたものであり、当初は「夜討ち・強盗・謀反人」などの国家的犯罪を行うものを指していたが、元寇前後から用法が変化した。幕府は「異国警備」を諸国守護に命じると同じに、国内の「悪党」を鎮圧することを頻繁に命じるようになる。そして諸国で「悪党」を隠し置いたりしないという誓約を神前において御家人や非御家人、そして庶民にいたるまで村に住む人々を集めて誓約をさせ、「悪党」を密告鎮圧することを誓わせたのであった。

 この時「悪党」として断罪された人々の罪状は何であったのか。それは、1:「窃盗・強盗・殺害・放火・夜田刈り・他人の女とり・巫女殺し」などの重罪、そして2:「山賊・市の押し売り・押し買い・賭博」などの経済活動において実力で金を取ろうとする行為、さらに、3:「所領、所職を奪う・年貢などの未進・神田の横領・神木の伐採・神鹿殺し・陵墓荒らし」などの権力や権威に対する侵犯行為であった。1が本来の「悪党」とされた罪状であった。これに2・3が加わったのである。
 2は、商工業が発展する中での商行為にかかわる犯罪、3は権力や権威を物ともせず、それに反攻する行為である。元寇のころ「悪党」とされたのは、2・3の行為をした人々であった。いうなれば、幕府や朝廷や寺社の権力・権威に反抗する人々、その命に従わない人々が「悪党」とされたのであった。

 そしてさらに幕府は対外戦争が続く中で、悪党を隠し置くことは重罪であるとし、これをなしたものは神罰が下るとした誓約を多くの人々にさせた。「悪党」とは「非国民」あつかいなのであった。さらに畿内近国の例であるが、悪党が跋扈し、それを取り締まることが出来なかった大和の国の一国荘園領主である興福寺に対して、「悪党」鎮圧を名目にその所領である大和の国の各所に地頭を置き、幕府の支配権を拡大したり、土地境界争論をくりかえし、実際に武力をもって争奪をしていた隣接した寺社領地に対しては、双方を召し上げて関東御領とするという強引な決定すらしているのであった。

 また各所で捕らえられた「悪党」は、九州のモンゴルとの戦いの最前線に送られた。九州各所の御家人の所には、捕らえられた「悪党」が送られて監禁され、いざ軍となったときには、御家人の所従の一人として参戦させられたのであった。

(3)求められていたのは強力な統一政権

 つまりモンゴルの襲来を前後する時期において日本の社会は激動を体験し、外敵に対処するためにも、また国内の秩序を維持するためにも、従来の朝廷のような間接的に支配をおよぼく政権ではなく、また従来の幕府のように、限られた地域の限られた人々に対する権力の行使ではない、全国的通津浦浦にわたる全ての土地、全ての人々に対して権力を行使し、社会の秩序を維持する権限と権力をもった統一政権が求められていたのである。

 幕府の対応もこの課題に答えようとするものであったといえよう。

 弘安の役の直後に、1284(弘安7)年五月、幕府は諸国の守護に対して、一宮・国分寺の由緒、管理者、免田など所領の知行状況について調査することを命じ、ついで新しい式目38ヶ条を制定した。この式目のうち18ヶ条は将軍の私的な問題や関東内部の政治問題に関する規定に充てられ、残り20ヶ条は、対朝廷の問題を含む国家的課題に関する規定であった。この後半の式目に規定した内容は、本来は朝廷の権限であったはずの諸国に「徳政」を命じることや、寺社の新造や所領に関することや所領の争いの裁定をすることなどを規定し、特に九州の寺社領における自力争論を禁止し、その争いを幕府が裁定することなどを定めていた。
 要するに外敵の侵入・戦いという非常時において朝廷から一時的に委譲された権限を恒久的なものとして国家法として定めたのであった。そしてこの新しい政治の担い手として「将軍」を前面に立て、将軍権力の下に、日本全国を統治することを幕府は宣言したのであった。さらにその年の内に幕府は、裁判制度を改革し、公正を期するともに、有力御家人を九州博多に派遣し、この地方の訴訟に当たらせることにした(後の鎮西探題)。

 幕府も統一政権確立に向けて確実に動いていたのである。

 しかし幕府には大きな矛盾があった。
 その第一は権力を集中すべき将軍がお飾りであり、実権は執権北条氏に握られていたこと。そして第二に執権北条氏は伊豆の国の在庁役人に発する弱小武士団であり、東国の源氏や平氏や藤原氏の流れを組む有力御家人に比して、その出自における血の権威の劣勢は致命的であり、北条氏の同族的広がりも結びつきも弱く内部につねに権力争いを内包しており、幕府を率いる中心として権威に欠けていた。それゆえ第三に幕府内部には権力を拡大する北条宗家に対する不満が鬱積し、その不満が将軍とそして北条宗家の権力争いに結びついて、有力御家人を巻き込んだ権力闘争を引き起こしてしまうことであった。

 それゆえ幕府、とりわけ執権北条氏は将軍をますますお飾りとしてそこへの権力の集中を避けようとする。そのため三代将軍実朝死後の摂関家・親王将軍はほとんどすべて20年を区切りとして廃位され、都に送り返されていたのであった。そしてそれを前後する時期に必ずといってよいほど幕府内部の大規模な権力闘争が現れる。その最後を画する事件が1285(弘安8)年11月の霜月騒動であった。その前年に死去した執権時宗の舅であり、この時の執権貞時の祖父にあたる安達泰盛を中心とする幕府有力御家人500人が、安達氏から将軍をたて執権北条氏の権力を奪おうとしたという咎で打ち滅ぼされたのであった。そしてこのとき滅ぼされた人々こそ、前年から始まる将軍を頂点とする統一政権としての幕府を打ち出した新しい政治の担い手だったのであり、この事件により新しい政治は大きく後退することになったのである。

 幕府はその構造そのもののゆえにその政治は安定しなかった。なのに幕府は全国的に統一した統治能力を要望され、望まなくてもさまざまな問題への対処を余儀なくされた。しかもその実質的権力者である北条宗家は、身分としても一御家人に過ぎないわけで、それが天皇や貴族や有力寺社や有力御家人や御家人・非御家人、そして庶民まで、日本国におけるすべての人々の生き死にに関する全ての権限を担うことになってしまったのである。彼らにはそれをなすにふさわしい権威がないにもかかわらずである。

 こうして元寇をきっかけとして幕府を唯一の統一権力の地位に押し上げてしまった社会の変化は、幕府の統治者である北条宗家はそれにふさわしくないという不満を、上は天皇から下は庶民にいたるまで、多くの人々に抱かせるにいたたったのである。
 幕府の権力は飛躍的に増大した。しかし幕府にはそれを担う権威が存在しなかったし、その職務を継続的に遂行する安定性にも欠けていたのである。
 これが後に後醍醐天皇によって幕府の討伐・天皇親政を決意させ、そこに多くの貴族や寺社・御家人や悪党まで研修させた背景であり、一方では足利尊氏に新たな武家政権を作ることを決意させた背景でもあったのである。

 「つくる会」教科書は、このような日本社会を覆っていた激動の波を総体として捉え、それとのつながりの中で政治史をとらえる視点も一切もちあわせてはいない。その記述は、学問的検討の成果をほとんど取り入れていない、通説的俗説的記述であり、しかも断片的で一面的なのである。

:05年8月刊の新版の「鎌倉幕府の衰え」の記述は(p71)、旧版のものとほとんど同じである。

:この項、佐藤進一著「日本の中世国家」(岩波書店、1983年刊)、石井進著「鎌倉武士の実像」(平凡社、1987年刊)、笠松宏至著「徳政令−中世の法と慣習−」(岩波文庫、1983年刊)、海津一朗著「蒙古襲来−対外戦争の社会史」(吉川弘文館、1998年刊)、日本の絵巻13「蒙古襲来絵詞」の小松茂美著の解説(中央公論社、1988年刊)などを参照。


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