「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判2
2:ポルトガル・スペインは世界を分割できなかった
「つくる会」教科書の「近世の日本」の第1節「戦国時代から天下統一へ」の2番目の記述は、「トルデシリャス条約」と題して、「ポルトガル・スペイン両国が世界を分割した」かのような記述である。まず、教科書の記述を見よう(p113)
ポルトガル国王は、アフリカ南端をめぐって東回りでインドにいたる航海の途上で、到達したすべての陸地を、永久に所領とする許可を、カトリックの大本山であるローマ教皇庁から与えられた。 一方、スペイン国王も、コロンブスが北アメリカ大陸への到達に成功すると、領有の承認を教皇に求めた。 1494年、大西洋上に南北に走る一本の直線が引かれた。線から東方で発見されるものはすべてポルトガル王に属し、西方で発見されるものはすべてスペイン王に属するというトルデシリャス条約が、両国の間で結ばれた。 この条約によって決められた史上初のこの大胆な領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。当時のヨーロッパ人は、まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し、それを自分たちの領土とみなしたのだった。 |
ヨーロッパ人による「大航海時代」と「地理上の発見」が、カトリックによる異教徒の圧伏を一つの動機として行われており、その結果として、ヨーロッパを文明と見て他国を野蛮と見る差別意識を作りだしたことや、その支配の不当性を指摘することは正しい。しかしその意図は正しいとしても、「つくる会」教科書の上の記述には、多くの誤解があり、さらに決定的な欠落が存在する。
(1)事実の一面のみ強調した歪んだ記述
「つくる会」教科書の記述の誤りは、一つは、ローマ教皇庁が両国に与えた特権は、単に領土の領有権ではなかったということ。それは両国が「発見した」地域で「異教徒の王によって統治された」地域について、@そこへ至る航路の独占と、Aそこにおける交易権の独占、そしてBその地域の領有権の独占、さらにCその地域におけるカトリックの布教保護権に基づく布教事業の独占をその骨子としていた。教科書の記述は、そのうちのBのみを強調しており、その背景であったCの問題と、海外進出の主な動機でもあった@Aの問題を完全に削除してしまっている。これを削除したことで、両国の海外進出の動機が「領土の拡張」だけにあったかのような間違った印象を与えている。
二つ目は、トルデシリャス条約による「領土分割」線は、大西洋上にだけ引かれたのに、教科書ではまるで、地球の反対側の太平洋上にも引かれて、「地球が分割された」かのような記述をしていることの誤り。この条約締結の目的は「地球の分割」にあるのではなく、ポルトガルがすでに獲得しているアフリカ沿岸における特権を保護し、さらに東回りでのインド・香料諸島・日本への到達の道を確保することと、スペインが新たに開拓した西回りでのインド・香料諸島・日本への到達の道の確保とそこにおける特権の獲得という、相反する利害の調整にあった。したがって大西洋上に分割線が引かれたのは、アフリカと新大陸での双方の特権の調整に目的があったのであり、それがそのまま地球の裏側にまで延長されるという問題意識は、当時においてはなかった。このことは同条約には地球の裏側についての規定がまったくなく、そこの帰趨は、今後の争奪戦に任されていたのである。このことが全く誤解されている。
さらに三つ目として、「つくる会」教科書は、トルデシリャス条約で地球上に「分割線」を引いたことが、単にスペインとポルトガル両国の間での確認にすぎず、もう少し拡大しても、この認識はカトリック世界の範囲内に留まる認識であったことを忘れている。この条約は2国間条約なのであり、それを保障したのはローマ教皇庁の権威と両国が同地域を領有しているという現実に過ぎない。したがって「分割」された地域の人々・国家がこれを承認しないのは当然として、ヨーロッパにおける非カトリック勢力にとっても、この条約は承認されるものでもない。のちに見るように、オランダ・イギリスのプロテスタント諸国は、スペインとポルトガルの海外交易・領土における独占権を侵食し形骸化させることを大きな目的として、やがてアジア・アフリカ・アメリカへの進出を図って行く。この事実を無視して、「ヨーロッパ人は地球を分割し、それを自分の領土とみなした」と一般化することは、大きな誤解を生む。そしてのちに日本に置ける交易権を巡ってポルトガル・スペインとオランダ・イギリスの間に対立が起こり、後者が徳川幕府と結びつくことで前者を排除したことについての十分な理解を妨げることになる。
「つくる会」教科書の記述には、以上の三つの誤解がまず存在する。そしてこの誤解は、この教科書の著者たちが、ヨーロッパ諸国が「世界を支配」したことを非難しようというある意味で正当な動機に由来してる。しかし非難することにのみ急であり、そこにヨーロッパ人の自国を文明として他国を野蛮とする「世界支配」を正当化した高慢な考え方を馬鹿にする意図が加わったことにより、ヨーロッパ諸国の「世界支配」の実態を正確に捉える努力を怠った結果であろう。その結果、ヨーロッパ人が海外に進出した動機を「領土拡張要求」に切り縮め、この動機の裏に自己を「文明」とし他者を「野蛮」とする高慢な、それでいてイスラムに対する「恐怖」に駈られた行動であったと、ヨーロッパ諸国をあざ笑う記述になってしまった。しかしこう理解してしまうと、歴史の一面だけを強調した歪んだものになる。
さらに、「つくる会」教科書の上の記述の最大の欠落点は、ポルトガル・スペイン両国が意図した「世界分割」の結末がまったく記述されていないことである。この「世界支配」がどこまで実現しどこまでは実現しなかったのかを記述しないと、その後の日本を取り巻く世界の実像をきちんと把握できない。
では、実際はどうであったのか。以下に順番に記すことにする。
(2)カトリック世界の拡大としての海外進出
ポルトガルとスペイン両国の海外進出と、あとから遅れて参加したオランダ・イギリスの海外進出には、決定的な違いがある。それは前者が強大な国家権力・国王の権力に依拠した「領土拡張運動」としての海外進出であり、後者は国家の支援を得てはいるが、その経営は「東インド会社」という独占企業体による純然たる経済活動であった(もちろん「領土的拡張」も含まれるが、交易利益の拡大という第1目的に従属しての話である)ということである。そしてポルトガル・スペイン両国は、海外進出と領土拡張とをローマ教皇庁の権威を後ろ盾にした、「異教徒の世界の圧伏」=「十字軍の拡大」として行ったのに対して、オランダ・イギリス両国は、純然たる交易の利益の拡大を目的にして行われたことであった。
ポルトガル・スペイン両国王がローマ教皇庁から得た特権は、先に述べたように、領土支配権だけではなく、航路の独占権・交易の独占権、そして布教保護権に基づく布教事業の独占であった。これはあくまでも両国の海外進出の名目が「カトリック世界の拡大=異教徒の圧伏」にあったからである。キリスト教勢力の及ばない「異教徒の地域」にカトリックの信仰を広めるのであるから、とうぜんそこでは、異教徒の組織的な抵抗を受けるはずである。そしてこのことは、レコンキスタの過程で、そして十字軍の過程ですでに経験済みのことである。だからこそ、カトリック世界の拡大は、強大な国家権力を確立していたポルトガル・スペインの2国の王権によって庇護されねばならなかった。
したがって両国の国王が得た四つの特権の内、もっとも重要なのがCの「その地域におけるカトリックの布教保護権に基づく布教事業の独占」にあった。
カトリック教会は西欧世界に教線を拡大していく過程で、各地に成立した王権と結びつき、その王権に権威を与えることを通じて、王権の下にある民への布教を行ってきた。そして王権の庇護下で教会を建設し、王はその教会に教会財産としての教会建物と教会領を寄進し、こうしてカトリック教会自身が、西欧世界において封建領主として勢力を伸ばしてきた。王権の伸張とカトリック教会の拡大はもちつもたれつの関係にあった。こういう経過から生まれたのが、「布教保護権」という考え方であり、カトリックの布教事業そのものを王権の保護下に置くことで布教そのものをやりやすくし、かつ布教事業そのものもその財政の執行から人事の決定に至るまでの全てを保護権を与えた王権に独占させることで、ローマ教皇庁そのものが何もせずに、教線を拡大できるという妙案であった。そして布教保護権を与えられた王権にとっても、これは利益のあるものであった。それはカトリックの布教活動そのものを国王が保護することを通じて、当該の地域に対する国王の支配権がローマ教皇庁から承認されるからだ。言いかえれば神による承認。「布教保護権」という考えかたはこうして出来たものである。
ポルトガル・スペイン両国王による海外遠征は、この布教保護権の下で行われた。カトリックの布教を国王が保護することの見かえりとして、ローマ教皇庁は国王に、@その地に到達する航路の独占権Aその地での交易の独占権Bその地の領有権を認めたのであった。
したがって両国の海外遠征においては、@からCの特権は一体のものである。どれか一つを切り離して行うことはできない。そしてこれは、両国の海外遠征を行う上での強さであるとともに、逆に弱点でもあった。
カトリックの布教が順調に進み、当該地の国王や住民がカトリックに改宗して行けば、その地での貿易もスムーズになるし、貿易の利益を目的として、当該地の国王が両国に接近しカトリックに改宗するということも起こりうる。どちらにしても当該地の国王・民がカトリックに改宗すれば、かの地における両国の権益は、当該地の国王の権威と権力とによって防衛され、両国の貿易の独占権の保持に要する費用は、かなり減少する。ある意味で交易の独占を図るために、その地の領土面での併合は必要がなくなる。布教と貿易とが一体となったこの形は、このような強さを持っていた。しかし一方で、当該地のカトリックへの布教が進まない場合には、これはかえって貿易の利益拡大への障害物に転化する。なぜなら異なる宗教の布教は、当該地の民族的統合を壊す危険を持ち、このことを理由として当該地の国王が布教を妨害すれば、それはそのままカトリックの布教を進める両国との政治的敵対へと転化し、布教権を保護するためにも、当該の国を征服し、自国の領土とする必要が生じてしまう。そうなれば当該地で貿易を行うことは当面困難になり、その実現のためには巨額の費用を要してしまうのだ。そしてもう一つの弱点が、両国の海外遠征が全て王室財産に基づいて行われ、それは国王の指示を元にしてなされていたことである。したがって王室の奢侈がはなはだしくなるとともに海外遠征にかけられる費用そのものが枯渇し、費用が枯渇すれば、カトリック宣教活動に当てる費用も、宣教・貿易拠点の防衛に当てる費用も枯渇することとなる。そしてしばしば、海外遠征の方針そのものが国王の恣意に翻弄される危険もあるわけだ。特に国王がカトリック教以外の宗教への不寛容の精神に凝り固まっていた場合には、現地での布教活動が現地の人々の宗教を無視し圧殺する方向に進みやすく、これはそのまま現地での宗教対立に至り、政治的・軍事的衝突に至ってしまう。
この長所と弱点の双方が見事に現われたのが、インド以東での両国の活動であり、日本でも同様であった。
ポルトガル・スペイン両国のアジアにおける海外進出の実態は、その地における古来からの交易網に参入したに過ぎないのに、名目的にはその地の領有権を主張することとなる。名目と実態とが乖離していたのだ。そしてインド・中国ではカトリックの布教は思うようには進まず(これは当初は急速に信徒が拡大した日本でも、しだいに困難に直面した)、その上、中国では朝貢貿易の壁に阻まれて貿易も拡大しない。この状況の中で、ポルトガル・スペイン両国の中に、布教の拡大のためや貿易の拡大のために、当該国を武力で征服しようとする動きが起こり、それがかえって日本では、カトリックの布教と一体化した両国の動きに対する疑念を生むこととなった。その結果が東アジア地域からのカトリック(ポルトガル・スペイン両国)の追放となったのだ。
ポルトガル・スペイン両国の海外遠征はカトリックの布教活動と貿易の拡大が一体となっており、しかもそれが王権の指揮の下で行われてきた。そしてその実際の展開を見ると、その長所よりも弱点が多く現われており、このことが後に、オランダ・イギリスによって海外貿易の大部分を奪われる結果となったのであった。
ポルトガル・スペイン両国の海外進出とカトリックの布教とが一体であったことを記述しておかないと、東アジアでのこれらの国々の失敗の理由が理解できなくなる。
注:貿易の利益を求めてポルトガル・スペイン両王国がアジアへの直接進出を企てたときに、ローマ教皇庁のお墨付きを得ようとしたのには、歴史的な背景がある。ローマ教皇庁は西ローマ帝国崩壊を引き起こした西欧での社会的混乱とゲルマン人の侵入が一段落して、西欧各地に王国が再建される過程で、その王権の正統制を保障する権威として君臨し勢力を拡大した。そして11世紀にセルジュークトルコの侵入に怯えた東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の救援要請を受けたローマ教皇庁が十字軍の発向を指示する中で、ローマ教皇庁の権威はさらに増大した(もちろんこれに挑戦しようとする国王もあったが、教皇庁はこれを破門に付すことで国王配下の諸侯の反乱にお墨付きを与え、国王の挑戦を退けてきた)。そして十字軍の課程を通じてローマ教皇庁は、この中で発展して行ったアジア貿易において異教徒との貿易を禁じる布告を出すことにより、小アジア・シリア地方に拠点を築いたキリスト教国の諸侯に、アジア貿易の独占権を与えて行った。このためアジア貿易にさらに深く参入しようとしていたイタリア諸都市は直接イスラム商人と取引することができなくなり、シルクロードの地中海東岸域における中継地を占拠してアジア交易を独占するキリスト教諸侯と結びつく以外に、貿易の利益をあげる道はなくなってしまった。さらに、この小アジア・シリアのキリスト教国全てが、エジプトに拠点を置いたアイユーブ朝・マムルーク朝のイスラム勢力によって打倒されたときには、イタリア商人はローマ教皇庁の禁令に従う限りアジアとの交易が不可能となったのである。この危機に際して、ベネチアは禁令を破ってマムルーク朝との癒着でアジア交易の独占を図り、競争に敗れたジェノバは、イスラム教徒の仲介を排して直接アジアへ向かうべく地中海を西進し、アフリカを迂回してアジアへの道を辿ろうとしたのである。のちにアジア貿易に参入しようとしたポルトガル・スペイン両王国がぶつかった第1の壁が、ローマ教皇庁による異教徒との貿易の禁止令とベネチアのアジア貿易の独占であった。だから両国はローマ教皇庁の禁令を遵守しさらにカトリックの世界を異教徒の世界に広げる任務を積極的に負うことで、ローマ教皇庁の権威の下でアジアとの直接交易を独占しようとしたのだ。
(3)太平洋での分割は16世紀初頭
では、1494年のトルデシリャス条約によっては確定されていなかった太平洋上の「領土分割」はいつなされたのか。それは東回りでアジアへ進出したポルトガルと西回りでアジアへ進出したスペインの利害が地球の反対側で衝突するに至ったときである。地球の反対側で両国の利害が衝突し、両国の間に新たな「領土分割線」が引かれたのは、1529年のサラゴサ条約で、香料諸島(モルッカ諸島)の東で「分割線」を引き、香料諸島がポルトガルに帰属することが定められた。
ポルトガルは、当初は現地の政治勢力との協調によって現地の貿易の中継地に商館を築いて貿易を進める形をとってきた。しかし突然南アジア・東南アジアの交易ルートに参入してきて、しかも卓越した軍事力を背景として交易の独占を図ろうとしたポルトガルに対して、この地域のイスラム商人や各地の国王たちは反発し、やがて激しい争いとなっていった。この中でポルトガルのアジア政策は大きく変化し、交易の拠点となる地域を軍事的に占領し、そこを拠点として交易圏の海域も独占支配する方向へと変化した。1507年にはペルシア湾の入り口であるホルムズを占領し、さらに1510年にはインドのゴアを占領。そして1511年には、マレー半島の南端にあったマラッカ王国を占領して、アジア支配の拠点を各地に置き、その統治の中心としてゴアの町と要塞を建設した。そしてさらに、東の香料諸島(モルッカ諸島)の国々との協定によって各地に要塞を建設したのである。しかし、各地でのポルトガルの支配に対する抵抗はやまず、そんなさなかにポルトガル人マゼランが指揮するスペイン船隊が南米の南端を回って1521年、香料諸島の北にあるフィリピンに到達。こうして東南アジアでのポルトガルとスペインの「領土争奪戦」が激化した。
こうして1529年に両国は新たに条約を結び、香料諸島の東17度線で南北に一線を引き、その西はポルトガル、東はスペインに帰属することを確認した。これはポルトガルにとっては香料諸島を確保し、スペインにとっては南米からアジアに至る航路を確保する事が狙いであり、これとてもアジアにおける両国の争奪戦の終わりではなかった。そしてやがて1571年、この分割線の西側のフィリピンのマニラに拠点をおいたスペインは徐々に香料諸島へと進出を始め、1580年にスペイン国王がポルトガル国王を兼ねると、スペインも香料諸島に進出した。しかしこのころになるとオランダの海外進出も活発となり、1598年には、オランダ船隊が始めて香料諸島にも出現。以後約1世紀にもわたるオランダや現地イスラム勢力も含めた争奪戦が始まり、結局アジアにおけるポルトガルとスペインの支配は、いくつかの交易拠点に要塞を築き、そこを航行する船舶に通交権を与えることを見かえりとして諸税を徴収する形にと変化し、アジア交易そのものからポルトガル・スペイン両国は撤退する方向に動いて行った。
1494年のトルデシリャス条約における、ポルトガル・スペインの「世界分割」なるものの実態は、その時点における係争地の帰属を巡る一時的妥協に過ぎず、両国の争奪戦の場が移るに従って新たに結び直されていたのである。
そしてこれらの条約はポルトガル・スペイン2国間の条約にすぎず、当該国にとってもその時々の勢力関係で破られるものであったが、ローマ教皇庁の権威に依拠した独善的な「分割」は、あとから進出したオランダ・イギリスにとっては承認できるものではなかった。特に、ネーデルランドにおけるスペインの支配に対して独立戦争を持って対抗し、自立した国家として成立したプロテスタント国オランダにとっては、ポルトガル・スペイン両国の「世界支配」を解体することは、その貿易立国としての存在の基盤を確立するためにも不可欠であった。したがってオランダはしばしば、軍事力をも用いて、さらには現地の政治勢力とも結びついて、ポルトガル・スペイン両国の「世界支配」を解体する、強硬な態度に出たのである。そしてこのことは遅れて参入したイギリスにも言え、両国の攻撃と現地政治勢力の抵抗によって、ポルトガル・スペインのアジアにおける「世界支配」は事実上頓挫し、インドのゴア、東南アジアのマラッカとジャワ(ここはのちにオランダの拠点となる)、そして中国のマカオとフィリピンのマニラ(ここがスペインの拠点)という、いくつかの孤立した拠点を支配するだけに終ったのが実態であった。
注:ポルトガル・スペインのアジア交易独占は、そのご国力にまさるオランダに取って代わられ、さらにイギリスに取って代わられた。そしてオランダ・イギリスはこの地域における国際交易を独占するだけで、アジアの領土的支配には至らなかった。両国および遅れて参入したフランスがアジアの領土的支配に踏み込むのは、産業革命・市民革命を経た18世紀後半以後のことである。
ポルトガル・スペイン2国間協定による「世界分割」の実態をきちんと描かないと、それが結末においては破綻したことのわけをきちんと把握できないことになるのだ。
(4)ポルトガル・スペインの世界支配はどこまでいったのか?
このようにアジアにおけるポルトガル・スペインの「世界支配」は失敗に終った。
では、その他の地域における「世界支配」はどうなったのであろうか。そしてその結果は両国に、そして西ヨーロッパにどのような影響を与えたのであろうか。このことは、西ヨーロッパ諸国による「世界支配」の世界史的意味を把握する意味でも大切なことであるので、以下に大まかに見ておこう。
@西ヨーロッパ勢力がアジアに介入できた背景は?
そもそもポルトガルが海路アジアでの貿易に直接参入できた理由の一つは、イスラム世界の分裂によって、海のシルクロードに対する国家的統制が緩んだことに原因があった。
8・9世紀のイスラム帝国の成立発展によって統一されたこの地域は、アッバース朝の没落以後、各地に異なる政治勢力が分立し、対立する時代に入っていった。この流れは、13世紀にモンゴルによってこの地域が一時的に統一された時期を除いて継続した。そしてポルトガル・スペイン両国がアフリカの南端を経由してアジアに現われたとき、イスラム世界の分裂は、さらに激しくなっていた。
モンゴルによっても征服されなかったエジプトのマムルーク朝は、紅海経由の海のシルクロードの活動を保護育成することによってイスラム世界の盟主となり、その首都カイロは、イスラム世界の中心であり、なおかつ海のシルクロードの最大の中継地となっていた。マムルーク朝の支配が強力であった時代には、紅海からインドに至る航路は、この王朝によって航海の安全が保障されていた。しかし15世紀にはいって勢力を拡大したオスマントルコがビザンチン帝国を滅ぼして東地中海地域を征服すると、マムルーク朝は、これとの戦いに忙殺されて行った。ポルトガルがインドに現われ、そしてこの海域と沿岸諸国の領土的支配に突入して行った15世紀後半から16世紀前半は、まさにこの時期であった。
ポルトガルは16世紀前半にゴアやホルムズを陥落させて、この海域での交易を独占する過程で、1506年と1509年の2度にわたり、マムルーク朝と激突した。1506年の戦いは、紅海の入り口に位置するソコトラ島を占領したポルトガルに対してマムルーク朝がその海軍の総力を挙げて反撃し、ポルトガルを破った。しかしポルトガルは反撃し、1509年のディウ(アジア交易の中心地の一つである西北インドのグジャラートの沖合い)戦いでは、マムルーク・ディウ・カリカットの連合艦隊を撃破し、この海域の制海権を握ったのである。そしてマムルーク朝は、その後の1516年・1517年のオスマン・トルコとの戦いに敗れて滅亡し、以後、海のシルクロードの幹線である紅海地域は、オスマン・トルコに握られた。しかしオスマン・トルコにとってはその支配の中心地域は、紅海からは遠く離れた小アジア(アナトリア)地域であり、さらにはその北方の黒海沿岸に広がる小麦地帯の確保が、この帝国の生命線であった。マムルーク朝が、エジプトの小麦とヨーロッパの金属・毛織物やイスラム商人がもたらす香料などとの交易をその生命線とし、東地中海の海域と紅海・インド洋をその支配の中核地域としていたのとは、大きな違いであった。オスマン・トルコは、マムルーク朝とは異なって、内陸国家であった。
もっともオスマン・トルコ帝国も、紅海からインドに至る海のシルクロードがポルトガル勢力によって制圧されることを座して見ていたわけではなかった。紅海ルートは重要な交易路であるので、スエズ地峡の紅海岸にオスマントルコの艦隊が配置されてもいた。そして16世紀初頭には、北インドにイスラム勢力であるムガール帝国が成立し、イスラムの勢力は中部・南部インドやマレー半島・インドネシア・香料諸島にも広がっていた。このイスラム勢力からオスマン・トルコに対しては、ポルトガルの勢力拡大に対する救援要請がなされた。1538年、インド西岸のグジャラートの太守の救援要請を受けてオスマントルコ艦隊はインドに出撃し、ディウにあるポルトガルの要塞を攻囲した。しかしはかばかしい戦果をあげることができないまま、オスマン・トルコ海軍は帰還した。この遠征でオスマン・トルコは紅海入り口にあたるイエメンを征服したが、海のシルクロードの北側に位置するペルシャのサファービー朝とはしばしば戦火を交えており、さらにオスマントルコの皇帝の関心は、しばしば西方のヨーロッパ世界に介入する事や東北方の黒海沿岸への遠征に向けられており、ポルトガルの海のシルクロード支配に対する有効な反撃を組むことはできなかった。こうしてポルトガルに対抗できる勢力は、16世紀のインド洋世界には存在しなかったのである。
もう一つの理由は、地中海とは違って、インド洋におけるアジア交易システムは、大きな一つの政治勢力によって沿岸地域全体が統一されることもなく、つねに小さな政治勢力が割拠している状態なので、交易の主導権は政治権力を握っている人々にはなく、それぞれの地域の商人たちだった。そしてこの地域の交易は多様な民族・国籍の商人がになっていた。それは、アラブ人・ペルシャ人・エジプト人などのイスラム教徒と、北西インドや南西インドや東南インドのイスラム教徒やヒンズー教徒。それにスリランカの仏教徒。さらにはタイやマレー半島の仏教徒やインドネシアのジャワ島の仏教徒やイスラム教徒。そして東南アジアに住む中国人商人など、多数の異なる民族・国籍・宗教の人々が参入していた。
彼らの間には、互いの船を襲って積荷を略奪しないという暗黙の協定がしだいに結ばれていた。もちろんそれを破るものはいたので、それを避ける為に互いに献納したり税をはらったりという方法も行われてはいた。しかし地中海とはことなって、商船が軍艦によって守られて航行し、他国の商船を見つけると軍艦をつかって略奪するという慣行は、インド洋地域にはなかったのである。
この平和な海に、卓越した火器によって武装された軍艦に守られたポルトガル商人が参入し、彼らは軍事力にものを言わせてキリスト教徒以外の船を略奪し、港を占拠して安い価格での交易を強制し、さらには海を通行する異教徒の船には高額の代価を要する通行許可証と税を課した。ポルトガル人のルールは、インド洋交易に参加していた人々にとってはあまりに異質な暴力的なものであり、それゆえ彼らはポルトガル人を海賊の一種だと認識した。だがこの地域にはポルトガルに対抗できる強力な海軍をもった国は存在しなかったために、マムルーク朝やオスマントルコ海軍の敗北によって、ポルトガルに対抗する勢力は存在しなくなったのである(この点において東南アジアの海は異なる事情をもっていた。これについては後述する)。
これがポルトガルが紅海・インド洋経由の海のシルクロードを、アフリカ東海岸やインド西海岸地域の領土的支配と、これに囲まれた海域からのイスラム商船の軍事的排除によって支配できた背景であった。しかしだからといって、この地域の永続的支配は容易ではなかった。
Aポルトガルのアジア支配が失敗したわけ
なぜなら一つには、ポルトガルが独占支配しようとした香料貿易は、この地域の人々にとっては、生活必需品を交易によって手に入れる重要な手段であり、これをポルトガルに独占支配されることは、彼らの死活問題であったためである。
ジャワやインド・セイロン、そして香料諸島に産する様々なスパイスは、それぞれの地域の主な産物であり、この地域には産しない米や綿織物や様々な金属製品を交易によって手に入れるための交換手段だった。そしてこれらの産物を交換する仕事は、この地域一帯に根を張っていたイスラム商人が主な担い手であり、彼らは中継ぎ貿易によって利益を得ていた。イスラム商人は、インド産の綿布を仕入れてマラッカや中国に至り、そこで香料や中国産の絹や陶磁器を手に入れ、さらにそれを紅海経由でカイロに運び、そこで西ヨーロッパ産の銀や毛織物を手に入れ、この利益でインドの綿布を仕入れるという形で、海のシルクロード全体の交易を中継していた。そしてこの交易は一つの地域のイスラム商人がすべてを中継するのではなく、マラッカのイスラム商人は、中国・タイ・香料諸島・ジャワとの交易を行い、インドのイスラム商人がマラッカ・インド間の交易を、さらには、インド・紅海地域の交易は、紅海入り口やアラビア半島のイスラム商人が行い、アラビア半島から先は、紅海を通じた海路またはアラビア半島のオアシスを経由した陸路という二つの経路を使って、それぞれの地のイスラム商人が交易を行うという、複雑に絡み合った交易網であった。そしてこの交易は、ここに示したような奢侈品や高級品だけではなく、米などの食料や日用雑貨の交易も含まれていた。
このように海のシルクロードはなにも香料だけの貿易路ではなく、この地域の人々の生活に必要な品々の交易ルートであり、香料は、それらの流通を媒介する交易品の一つに過ぎなかった。この香料貿易をポルトガルが軍事力を背景にして独占支配する。これによって、海のシルクロードの多様な交易は阻まれ、各地のイスラム商人の交易利益は激減し、各地の人々にとっても必要な品物が入ってこない事態が生まれる。だからこそ、この地域のイスラム商人や各地の王たちが、ポルトガルの支配に対して根強く抵抗したのだ。その抵抗はけして統一したものではなかったが、イスラム商人たちは、海のシルクロードを通っての香料貿易にはポルトガルが重い税をかけたためこれを嫌い、インドからアフガニスタン・イランを経由させて地中海に至る陸のシルクロードをつかって香料を運んだ。したがってポルトガルは香料貿易を独占できず、ポルトガル船が東南アジアとポルトガルとを往復させられる船は年に3隻に過ぎず、この程度の積載料では、ヨーロッパの香料需要を満たすこともできなかった。この抵抗によって、ポルトガルのインディア領の支配はあまりに高くつきすぎ、ポルトガル王室の財政を悪化させ、最終的には、この地域の領土的支配を諦め、拠点における軍事力を背景に、すべての商人の交易の保護を背景とした利権の徴収および、ポルトガル商人自身の中継貿易への参入と言う形に収束したのである。
二つ目には、ポルトガルやスペインが軍事力で貿易の独占を狙い、さらにこれがうまくいかないと当該地の軍事的征服を企てたことは、各地の支配者の反発を呼び、彼らの貿易網からの排除に繋がった。これはとりわけ中国と日本において顕著である。
中国・明王朝は、海外貿易を制限し、それを皇帝への朝貢貿易の枠内に留めようとし、中国商人が広く海外に渡航して交易することを厳しく禁止してきた。この政策に反発した中国人商人が海外に移住した中国人商人や特に日本の商人と組んで行ったのが後期倭寇の活動であった。ポルトガルの中国における貿易は、王による皇帝への朝貢貿易しか認められず、したがってポルトガルのこの地域での貿易への参入は、倭寇による密貿易網への参入となり、倭寇勢力との激しい争奪戦となった。そして中国貿易の拡大を狙ってカトリック宣教活動を拡大しようとしたが、これもポルトガル・スペイン両国王に支援される双方の宣教団の対立によって中国皇帝による禁教令の発令に繋がり、かえって貿易は頓挫してしまった。一方当初は順調に拡大した日本との貿易も、日本に統一権力が出現し、これに後発のオランダ・イギリスが結びついて、ポルトガルやスペインが不可避的に持つ「領土拡張運動」としての貿易活動の矛盾をついてくるや、統一権力のキリスト教禁教令の発令とともにしだいに衰微し、最終的には、出島における管理貿易体制からも排除されてしまったことは良く知られた事実である。
ポルトガルやスペインの貿易活動が、カトリックの布教と一体であったことによる弱点が、中国・日本における統一権力との激突を招き、かえって貿易体制からの排除に繋がったのである。そして同様なことは、インドや東南アジアでも起こっていた。
結局、15〜16世紀のアジアにおいてはアフリカとは異なり、各地に強力な統一権力が存在するか形成過程であった。したがってポルトガルやスペインの貿易活動の安定にとってその地の領土的支配が不可欠な要素であったことが、これらの統一権力との軋轢を生み、貿易からの両国の排除となったのである。両国が拠点を置けたのは、統一権力が形成されていない、フィリピンや南インドなどの限られた地域と中国のマカオの商館であり、そこを拠点とした貿易活動も、しだいに後発のオランダ・イギリスに奪われて行ったのである。
最後にアジア支配がうまくいかなかった三つ目の理由は、両国の海外進出が王室の独占支配下で行われ、その財政基盤は王室財政であり、その活動の究極的な目標が王室財産の拡大にあったことである。したがって当初は貿易の独占や、金・銀などの大量の流入により王室財産は潤ったのであるが、王たちの奢侈を極めた生活による浪費と、海のシルクロードの地域の広域的領土支配から生じる多額の軍事的出費により、両国の王室の財政はしだいに悪化していった。しかも両国のアジアにおける活動は、イエズス会やドミニコ会というカトリック宣教団の活動費用をも王室が負担するものであり、ここにも多額の費用を要していた。こうしてポルトガル・スペイン両国の王室の財政は、16世紀中頃にはすでにその絶頂期を過ぎ、インディア支配のための諸経費の捻出に苦しむようになっていったのである。
こうして、ポルトガル・スペイン両国によるアジア支配は頓挫した。
Bアフリカにおける支配の実態
ポルトガルの「アフリカ支配」の実態も、アジアと似た状態であった。そもそもアフリカは、サハラ以南に産するという金を除けば、インド・香料諸島に至る中継地にすぎなかった。したがってポルトガルの「アフリカ支配」も、実態としては、従来からあった現地の交易上の拠点に商館を築き、現地の交易に参入したり、その地を経由してアジアへ向かうポルトガル船への援助と、他国の船が「ポルトガルの支配域」に闖入してこないように警戒することが主な活動であった。主な交易活動としては、ギニアで産する金や黒人奴隷・アザラシの皮などをヨーロッパの毛織物などの商品と交換し、ヨーロッパに運ぶことであった。
ただし、アフリカ東海岸は違った。ここには8世紀以来、アラブ人が移住して多くの都市が形成されていた。この地域はアラブ人によってザンジと呼ばれ、そこには、ラム、マリンディ、モンバサ、ペンバ、ザンジバル、キルワ、モザンビーク、ソファラに都市が建設され、インド洋交易によって繁栄した。アラブ人はザンジの産物である金、鉄、象牙、奴隷を、遠く中国や東南アジア、インドに運び、逆にインド産の布類やビーズ、中国製の陶磁器を東海岸にもたらした。ポルトガル人は、このインド洋貿易のアフリカにおける拠点に侵入し、軍事力によって各都市を脅してポルトガルに臣従させ、そこに商館を築いた。やがてインディアの武力征服と領土的支配を目的とするようになると、ポルトガルがこの地を征服し、アジア貿易の拠点として行った。
このゆるい支配体制が大きく変化して行ったのは、アメリカ大陸の発見とその地の植民地化、そしてそこでの鉱山開発と、サトウキビ、タバコ、インジゴ(染料)などのプランテーション農業が進むにつれて、労働力としてのアフリカ人奴隷の価値が高まってからのことであった。ポルトガルだけではなくスペイン・オランダ・フランス・イギリスなどが奴隷貿易に参入し、西インド諸島への奴隷の輸出、西インド諸島からヨーロッパへの熱帯産品の輸出、それを受け入れ加工した製品をアフリカに運び、奴隷と交換する、いわゆる三角貿易が発展した。しかしこれはずっと後の18世紀のことである。
最近の研究によると、奴隷貿易のピークは18世紀で、4世紀半にわたる奴隷貿易の規模は956万6100人。その時代別輸出数は、1451〜1600年27万4900人、1601〜1700年134万1100人、1701〜1810年605万1700人、1811〜1870年189万8400人で、最盛期は18世紀である。輸出先としては、全期間を通じて最大は南アメリカで470万人、ついでカリブ海諸島の404万人、北・中央アメリカの65万1000人、ヨーロッパの17万5000人となり、国別ではブラジル、ハイチ、ジャマイカ、キューバが多かった。また輸出側の西アフリカでは、セネガンビアから穀物海岸、象牙海岸に至る上ギニアは奴隷輸出が比較的少なく、ゴールド・コーストからカメルーンに至る下ギニア、とくにニジェール川河口周辺が圧倒的に多かったことが明らかにされた。そして奴隷の捕獲には、ヨーロッパ人が海岸部の部族に武器と火薬を援助して内陸部の国々に戦争をしかけさせ、その捕虜を奴隷として交換して手に入れていた。その奴隷との交換には、ヨーロッパのさまざまな商品、とくに銃、火薬、酒類、布類が主要な取引商品として利用された(以上、日本大百科全書:林 晃史著「アフリカ史」による)。
様々な鉱産資源や工業原料を産するアフリカがヨーロッパ諸国の植民地となったのは、奴隷貿易が終わりヨーロッパで産業革命が進行して以後の19世紀のことである。
Cアメリカ・西インド諸島の植民地支配と財貨のヨーロッパへの流入
ポルトガル・スペインを先頭とした西ヨーロッパ諸国の世界進出が最も大きな成果をあげたのは、アメリカと西インド諸島であった。
1494年のトルデシリャス条約により、この地域の大部分はスペインの領土となり、南米のブラジルのみポルトガルの領土となった。この地域にはインディオ(ここがインドおよびその近くだと信じたコロンブスによって現地の人々は「インド人」を意味する「インディオ」と呼ばれた)の各部族が農耕を主体とした文明を起こし、各地に都市を建設して暮らしていたが、すべての地域において、スペイン・ポルトガルによって軍事的に制圧され、植民地とされた。
すなわち中央アメリカのメキシコに栄えていたアステカ王国は、1519年にコルテスの率いるスペイン軍の侵入を受け、1522年には滅亡。さらに南アメリカの高原地帯に栄えていたインカ帝国も、内乱が起きていたその最中の1532年、ピサロ率いるスペイン軍の侵入を受けて崩壊。その遺臣による抵抗は1571年まで山中で続いたがスペイン軍によって制圧された。そして中央アメリカのマヤの国々もスペインのフランシスコ・デ・モンテホ父子らによって1646年までに制圧された。
中央・南アメリカの山岳地帯は世界有数の金銀などの鉱産資源の豊かな土地であった。特に銀は豊富であり、1545年に発見されたペルー(現在はボリビア)のポトシ銀山は世界的な銀鉱山であり、1574年に導入された水銀精錬法とインディオの奴隷労働の導入により生産は拡大し、植民地からヨーロッパに移入された貴金属の99%が銀で占められるようになった。しかし、インディオは過酷な奴隷労働によって酷使され、しだいにその人口を減少させていった。
注:メキシコのインディオの人口は、1519年の1100万人からしだいに減少し、1540年には650万人、1565年には450万人、1600年には250万人へと激減し、1650年には150万人になったといわれている。
また貴金属の少ないブラジルや西インド諸島・エスパニョーラ島や、北アメリカの植民地では、砂糖や染料そして綿などを栽培する大規模なプランテーションが行われ、ヨーロッパに輸出された。やがてプランテーションによる過酷な労働でインディオの多くが死に絶えるに従って、この地に西アフリカからの奴隷が大規模に導入されたことは、すでに記したとおりである。
注:エスパニョーラ島では、1492年のコロンブスの到達時に数十万人いたインディオは、その後の植民地支配における砂金採掘や農園労働の苛酷さや、ヨーロッパから持ちこまれた疫病の蔓延によって、約50年間で絶滅させられたと言われている。
このアメリカにおいて産出された大量の金銀がヨーロッパに流入したことは、後のヨーロッパの発展にとって大きな影響を与えた。
1521年から1660年にかけて、アメリカ大陸からスペイン王国に運び込まれた金銀は、銀1万8000トン、金200トンに達したといわれている。これに加えて、インディオを酷使して手に入れたサトウキビ生産・蔗糖生産や、鉱山経営、そしてこのために必要とされた黒人奴隷貿易にうよって得た富も加わり、膨大な額の富がスペイン・ポルトガルに流れ込んだ。こうして不当にも得た莫大な富が、やがてヨーロッパ地域を世界を支配する中心へと押し上げたのだが、直接にこの富を得たスペインやポルトガルの発展にはつながらなかった。
なぜならこれらの地域との貿易を管理していた両国の王室財政は、イタリアのジェノバ商人に支配されており、さらにのちにはヨーロッパ金融市場の中心となったアントワープの商人たちによって支配されていたからである。両国に流入した膨大な金銀はそのままアントワープに運ばれ、そこで植民地経営に必要な北欧産の木材・タール・船舶・穀物などに交換され、さらには、オランダ・ドイツ・イギリス・フランスが産する亜麻布や毛織物などに交換されたのであった。ポルトガルやスペインの産業構造は、植民地から得た膨大な富を産業に投資し、国力を高める構造にはなっていなかったのである。
したがってスペインやポルトガルに流入した植民地からの膨大な富は、オランダやイギリス、そしてフランスなどにおける商工業の急速な発展の基盤を生み出し、のちにこれらの国において産業革命を伴う資本主義の勃興の礎となったのである(以上、小林多加士著「海のアジア史」による)
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「大航海時代」におけるポルトガル・スペイン両国の世界進出は、両国による世界の分割支配に帰結したわけではなかった。たしかにアメリカ大陸は両国の植民地となり多くの金銀や熱帯農産物をもたらし両国に膨大な富をもたらした。また、アフリカの沿岸諸国における両国の(そしてオランダ・イギリス・フランス)の奴隷貿易もまたヨーロッパに莫大な富をもたらした。だがアフリカがヨーロッパの植民地として分割されたのは18世紀後半以降のことである。そしてアジアにおける両国の「世界支配」は、アジア各地における強大な統一国家の存在ゆえに阻まれ、両国はいくつかの孤立した場所に拠点を設けて、アジア地域に古くから存在し続けた国際交易の網に、その参加者の一つとして参入したに留まったのである。
とりわけ日本における歴史を考えるとき、両国のアジア支配が各地域の統一国家に阻まれ、この地における交易網に一参加者として参入したに過ぎないという視点はとても重要である。16世紀の当時においてこの交易網を支配していたのは倭寇と呼ばれる中国人海商と日本人商人の合体した勢力であった。
16世紀にこの交易網に参入したポルトガルとスペインは倭寇勢力と、中国や朝鮮・日本の統一権力との激しい闘争の中に投げ込まれたのであり、この闘争の過程で、この地域に文化的・宗教的・経済的・政治的な影響を与えたのである。しかし「つくる会」教科書の次の「ヨーロッパ人の来航」の記述には、この視点は希薄である。したがってヨーロッパ人の来航が日本の歴史にもたらした影響も、東アジアという大きな範囲での出来事としては捉えられず、日本一国に限定されたきわめて一面的なものになっている(この点後述)。
これも「つくる会」教科書の世界史的視点の欠如のなせる技である。
注:05年8月刊の新版の記述は表題が「ポルトガルとスペインによる地球分割計画」と変更されただけで、その内容は旧版とほとんどかわらない。したがって以上に示した批判は、そのまま新版にも当てはまる。
注:この項は、前掲、青木康征著「海の道と東西の出会い」、長澤和俊著「海のシルクロード―四千年の東西交易」、長澤和俊著「シルクロード」、鈴木董著「オスマン帝国―イスラム世界の柔らかい専制」、鈴木董著「オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家」、小林多加士著「海のアジア史」、イマニュエル・ウォーラーステイン著「近代世界システムT・U」、ジャネット・L・アブー=ルゴド著「ヨーロッパ覇権以前ーもうひとつの世界システム」上下、加藤栄一著「ヨーロッパ勢力の東漸」(1992年東京大学出版会刊「アジアのなかの日本史U:外交と戦争」所収)、小学館刊「日本大百科全書」の、アフリカ史・アメリカ史、アメリカ各国史の各項目の記述などを参照した。