「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判10
10:江戸幕府は豊臣の公儀と並立していた
近世の第2節は「江戸幕府の政治」である。その最初の項目は「徳川家康と江戸幕府」で、幕府成立の経緯とその仕組みを説明している。
その第一項は、「関ヶ原の戦いと江戸幕府」であり、江戸幕府成立の経緯を詳しく述べている(この項の最後には「幕藩体制」の大枠が説明されているが、これは次の「大名の統制」と一緒に論じたほうがわかりやすいので、あとにまわす)。
(1)秀吉政権内の諸矛盾の解消としての関ヶ原合戦
@細かいだけで意味をなさない教科書の記述
教科書は最初に関ヶ原の戦いに至る経緯を次のように記述する(p124)。
徳川家康は、はじめ織田信長を支え、その後は、豊臣秀吉と対立したが和睦し、秀吉によって三河(愛知県東部)から関東に領地を移された。家康は250万石もある広大な領地の経営に努め、実力を養った。秀吉の死後、直属の家臣の中で、石田三成・小西行長らの文治(徳や法で治める政治)派の官僚と福島正則・加藤清正らの武断(武力で威圧する政治)派の大名が対立する形勢となったが、家康は福島正則らの側を支持し、その盟主とあおがれるようになった。 石田三成は、秀吉の遺児である秀頼を盛り立てて、毛利氏などと結んで家康に対抗した。こうして、戦国大名は二つの勢力に分かれて、対立を深めていった。1600(慶長5)年、双方の軍勢は東西両軍に分かれ、関ヶ原(岐阜県)で激突し、徳川家康の東軍が勝利をおさめた(関ヶ原の戦い)。石田三成や小西行長はとらえられ処刑された。 |
くわしい説明であるが、誤りも多く、内容的にも意味のない記述である。
まず第1に、秀吉死後の豊臣政権において家康がいかなる地位と位置を占めていたかがよくわからない。彼の領地は「250万石もある広大な領地」とあるが、他の大名、そして豊臣秀頼直轄領との対比がまったくなされていないので、徳川家康の政治的地位についてまったく記述されていないこととあいまって、内容のない記述となっている。また第2に、豊臣政権の内部に争いが生じたとされているがその原因や背景がまったく説明されず、徳川家康が一方の側に味方しその盟主と仰がれた意味もわからない。要するに秀吉死後の豊臣政権の内部にどのような矛盾があり、それとの関係でどのような対立が生まれたのかという観点がまったくないために、教科書の記述はきわめて表面的なものになっているのである。
注:「つくる会」教科書は、この対立する2派を「文治派」の官僚と「武断派」の大名と記述しているが、これはおそらく誤りであろう。石田三成らの秀吉近臣で豊臣政権の実務を担っていた大名たちは、官僚としての職務を通じて出世したので「吏僚派」または「文吏派」と呼ばれていたし、福島・加藤らは多くの戦いにおける軍功を通じて大名に出世していたので「武功派」と呼ばれていた。「文治派」「武断派」とは呼ばれておらず、江戸時代の様々な時期に「文治政治」「武断政治」という対立が見られたことを誤ってここに記したものであろうか。
さらに第3に、教科書は「石田三成は豊臣秀頼を盛り立てて、毛利氏などの大名と結んで家康に対抗した」と書かれているが、豊臣秀頼を盛り立てていたのは徳川家康も同様であり、家康は幼いながらも豊臣政権当主として諸大名の上に君臨する秀頼の代行者としての五大老筆頭であり、彼の命は豊臣政権の最高執行権者としてのものであったことを誤解している。豊臣秀頼は秀吉死後の豊臣政権の当主である。そして政権の内部では、誰がその主導権を握るのかと言う五大老など有力大名の対立と、今後の政権運営の在り方を巡る五奉行と諸大名の対立、さらにこれに、吏僚派・武功派の秀吉によって取りたてられた豊臣恩顧の大名内の対立などが複雑に絡んでいた。単純に三成が秀頼を盛り立てて、これを追い落とそうとする家康を毛利氏などと結んで阻止しようとしていたと言うものではなく、これも徳川家康が秀吉死後に豊臣政権をつぶそうとして起きたのが関ヶ原の戦いであるという、秀吉死後の豊臣政権の構造をしっかりと理解しない説に依拠してなされた記述であろう。
注:「つくる会」教科書は、「戦国大名は二つの勢力に分かれて」と記述した。豊臣政権下での天皇の代行者としての関白から領地を預かり、その関白の全国統治に与力する義務としての軍役をかけられ、そのために太閤検地によって領国をくまなく調査されて領国の削減や国替えをされた大名を、戦国大名と呼ぶのは誤りである。豊臣政権下の大名はすでに戦国時代の独立性をかなり失い、公儀として全国統治を行う豊臣政権の下部機構としての大名に変質させられつつあった。ここはただ「大名」と記しておくべきであったろう。
要するに「つくる会」教科書の記述内容では、なぜ豊臣政権を構成する諸大名が2派に分かれて戦うはめになったのかという、関ヶ原の戦いに至る経過の意味がまったくわからないのだ。
A豊臣政権の内部矛盾と政権の2分解の危機
では、秀吉死後の豊臣政権にはどのような内部矛盾が孕まれていたのか。そしてこの中で徳川家康はどのような位置を占め、どう動こうとしていたのか。この点については、笠谷和比古が「関ヶ原合戦−家康の戦略と幕藩体制」などにおいて詳しく分析しているので、これに依拠して論述しよう。
秀吉死後の豊臣政権は五大老と五奉行を中心とした執行体制をとっていた。
豊臣政権は有力大名をつぶして全国統一を成し遂げたわけではなかったので、有力大名に全国統治を分担させる傾向が強かった。このことは、東国および奥州の仕置きは徳川家康に任されていたことなどによく示されている。そしてこの傾向は、秀吉の死の前後に制度化され、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の5有力大名が合議して重要な政務事項を決済することとなり、同じ頃には秀吉近臣で政務の実行に従事していた奉行層を制度化し、石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以の五奉行が作られ、政務の執行にあたった。また、豊臣政権の基盤である太閤蔵入り地の算用は前田・徳川の2大老に委ねられていた。しかしこれらの大名たちの合議制に基づく豊臣政権には3つの矛盾が内包されていた。
一つは、秀吉によって大名に登用された豊臣恩顧の大名内部の対立である。これが前述の吏僚派と武功派の対立であるが、その対立の切っ掛けは朝鮮侵略戦争における戦略・戦術における対立に端を発しており、とくに第2次侵略戦争のおりの、蔚山籠城戦とその後の戦線縮小問題をめぐる論功行賞において、臆病な勝手な振る舞いをしたとされて処罰された武功派諸将と奉行衆との対立が決定的な要素となっている。
さらに二つ目の矛盾は、豊臣政権の全国統治のありかたをめぐるものである。
すでに前の節で述べたように、豊臣政権は朝鮮侵略戦争の渦中において諸大名の領地に対して「畿内なみ」の厳しい検地を実施し、諸大名の領国内の重要な地域に1万石程度の太閤蔵入り地を設けて、その直轄支配(差配は奉行衆)を拡大していた。そしてこの実施を巡っては、大名家臣団内部に秀吉・奉行衆と結びつく有力家臣と秀吉・奉行衆の介入に反対する有力家臣との対立を生み出し、この対立に際しては奉行衆は秀吉の意を挺して、自らと結ぶ有力家臣を重用して大名に取りたて、大名領国に対する介入を強化していた。また戦争の過程で臆病など軍律違反と目された大名に対しては容赦なく領地を没収し(改易するという)、その領地を太閤蔵入り地に編入していたのであった。従ってこのような全国統治政策は諸大名との軋轢をはらみ、秀吉死後においては、大名家臣団内部の対立と奉行衆と大名との軋轢は激化していたのである。
最後の三つ目の矛盾は、秀吉死後における有力大名間の主導権争いである。
豊臣秀吉は軍事力で他の大名を圧倒してつぶして全国を統一したわけではなかったので、諸大名から卓越した力をもっていたわけではなかった。秀吉の直轄領は太閤蔵入り地と呼ばれ、その石高は秀吉が死んだ1598(慶長3)年においては、220万石余りであった。この太閤蔵入り地は畿内・近国が中心で、山城(京都府)・大和(奈良県)・摂津・河内・和泉(大阪府)のいわゆる五畿内では総検地高141万石の約50%を占め、他は秀吉近臣の中小大名の所領にあてられていた。そして播磨・淡路(兵庫県)・紀伊(和歌山県)・讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)の諸国では蔵入り地の割合は約30%、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)・伊勢(三重県)の諸国では20%を占め、これらの地域も秀吉近臣の中小大名が数多く封じられており、豊臣政権の中枢は畿内・近国であった(他に旧大友領国の豊前・豊後[大分県]も蔵入り地が約50%を占めていた)。この太閤蔵入り地はそれぞれの地方の経済の中心地を占め、全国的な商業網を網羅していたとはいえ、有力諸大名をはるかに凌駕するものではなかった。関東8ヶ国に領国を有した徳川氏は250万石を数え、力の上では豊臣氏に充分対抗できるものであり、だからこそこれを牽制するために、会津(福島県)に転封され北から徳川氏の抑えとされた120万石の上杉氏や、北陸加賀(石川県)を中心に83万石を領する秀吉盟友としての前田氏と備前(岡山県)を中心に57万石を領した秀吉の猶子となった宇喜多氏、さらには安芸広島(広島県)を中心として10ヶ国120万石を領する毛利氏を大老に据えて、合議によって政務を裁断させたわけである。しかし秀吉の死の直後に大坂城にあって秀頼の後見を務めて伏見城で政務をとって徳川家康を牽制してきた前田利家が死去したことで五大老間の政治バランスは崩れ、以後、有力大名間の主導権争いが激化したのであった。
このような状況の中で徳川家康はどのような行動をとったのか。
家康は朝鮮侵略戦争の論功行賞を再吟味し、蔚山籠城戦における臆病な行動を取ったとの評価で譴責され、領地の一部没収にあった蜂須賀・黒田の両大名を許して没収した領地を返還させ、併せて彼らを誣告した福原らの軍目付けの加増所領を没収して、これも処罰され領地を減らされた早川・竹中らの軍目付けに返還している。そして秀吉の死後に秀吉の大名領国への干渉の強化とその所領の太閤蔵入り地への編入方針への反発が起きたときにも、家康は反発した大名の方を支持している。すなわち、島津家当主の忠恒は、島津領の検地に際して奉行衆に協力して日向都城に8万石の領地を賜った島津家家老の伊集院忠棟に対して反感をもち、1599(慶長4)年3月に、伏見屋敷において伊集院忠棟を誅殺している。この際に石田三成は島津氏を問責しようとしたが、家康は島津氏を擁護するとともに、忠棟の息子の伊集院忠真が国許で叛乱を起こした事件でも、家臣を派遣して平和的解決に努めている。そして島津領内における太閤蔵入り地を解除しているのである。
つまり徳川家康は、石田三成らが進めようとしていた中央集権的国家政策に対して反対の立場に立ち、大名の自立的支配権を容認した多元的国家政策を持っていたといえるわけだ。従って、奉行衆が進める中央集権的政策に反発する諸大名の家康に対する信頼は高まり、その奉行衆らの吏領派に対立する武功派の豊臣恩顧の大名が家康の下に結集することとなった。ここに豊臣政権が抱える3つの矛盾に基づく内部対立が次第に収束し、吏領派・三大老の反家康派・中央集権派・豊臣政権支持派が結集し、これに対して武功派・徳川氏の地方分権派グループが対立し、多くの、徳川家康に信頼を寄せる反吏領派・反中央集権派の諸大名がこの中間に残されるという状況になったのであった。豊臣政権は2分解する危機に直面したわけだ。
注:秀吉死後の豊臣政権の内部矛盾として家の相続を巡って北政所と淀殿との間で確執があり、これに大名間の武功派と吏領派との対立が絡んで関ヶ原の戦いにおける豊臣大名の分裂が起きたと、笠谷は分析している。しかし北政所と淀殿との対立という言説は、徳川幕府の天下において流布されたもので、当時の資料に現われた二人の動きはこれとは異なっていた。北政所と淀殿は共に豊臣家の女主人であり、秀吉の死後二人は協力して家の存続を図るように動き、北政所は京都にあって豊臣家の外交を司り、淀殿は大阪城にあって秀頼の養育と後見にあたるという形で、家長としての業務を分担していた。関ヶ原の合戦においても二人は緊密に連携し、大津城に篭った京極高次と京極龍子の救出にはそれぞれの侍女の孝蔵主と饗庭局を派遣していた。したがって武功派と吏領派に豊臣大名が分裂した原因は、豊臣の家の相続を巡る争いではなく、侵略戦争時の軍評価と大名政策をめぐるものであったろう。この点については、福田千鶴著「淀殿」(2007年ミネルヴァ書房刊)によって訂正した。
B危機の爆発としての関ヶ原合戦
この危機の状況に火をつけたのは、前田利家が死去した1599(慶長4)年3月3日の直後に起きた、豊臣7将による石田三成襲撃事件であった。
かねてより蔚山籠城戦などについての石田三成の処置に反感を持っていた加藤清正・浅野幸長・蜂須賀政家・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興・福島正則の7武将が、石田三成を討つべく大坂で兵を挙げる計画を練った。これを3月4日に察知した石田三成は、かねてから懇意にしていた佐竹氏の援助を得て大坂を抜け出し、伏見城内の屋敷に逃げ込んだ。そして、3月9日には決起した7将の軍が伏見城を包囲して石田方と睨みあうという状態になった。この事件に際して毛利輝元と奉行衆の和議斡旋を受けて乗り出した家康は、7将に鉾を収めさせるとともに石田三成を隠居させて中央政界から追放したのである。
家康と奉行衆との対立は、秀吉の死後、家康が秀吉の法度に叛いて伊達・福島・蜂須賀の諸大名と婚儀を約束したことを切っ掛けとして激化していた。奉行衆と4大老は伏見の家康の所に糾問使を送りこみ、両者はすわ戦かという状況になっていた。このときは前記の7将や黒田如水・池田輝政・森忠政・加藤嘉明・京極高次ら武功派諸大名が家康の伏見屋敷を防衛するために兵を動かし、家康の譜代家臣が伏見に兵を率いて急行するなど家康側が奉行・大老側を圧倒することとなって、家康の法度違反の件は不問に付された。そしてさらに石田三成らは大坂城内での家康の暗殺計画を立てるなど、対立は激化していたが、事態は膠着状態となっていた。しかし7将の三成襲撃事件を契機として、徳川家康は政敵石田三成を追放して豊臣政権の実権を握り、自身は伏見城に住んで政務を専断することとなったのだ。
家康は7月になると朝鮮侵略戦争に参加した宇喜多・毛利・加藤・細川・黒田らの諸将に帰国を命じ、また上杉も会津への転封直後で国の仕置きが行き届かないことを理由に帰国し、さらには前田利長も家督相続後の国の仕置きを名目にして帰国した。こうして五大老のうちで大坂に残ったのは家康一人となり、豊臣政権は家康の独裁状態になっていった。そして家康は9月、家康暗殺が前田・浅野・大野・土方らの手で計画されているとの奉行増田長盛の密告を契機として前田氏を屈服させ、嫌疑を受けた多くの大名から人質をとり、大坂城西の丸に天守閣を築いてそこに移り住むなど独裁色を強めて、反家康派の決起を誘発したのであった。
こうして家康に挑発された反家康派は家康討伐の計画を練り、会津に帰国した上杉が城の改修や武器を集めるなどの戦闘の準備に入るとともに、翌年の正月の参賀を断って上杉討伐の口実を作り、家康が上杉討伐に動き出したら毛利などの西国大名を味方に引き入れて家康を東西から挟み撃ちにする計画を立てて行った。そしてこの計画を察知した家康は、今だ態度を明かにしない諸大名に調略の手を進めるとともに、1600(慶長5)年6月、自ら兵を率いて上杉討伐に乗り出したのであった。
ここに秀吉死後において激化した豊臣政権の内部矛盾は、大名たちが2派に分かれて軍事的に決着をつける方向に動いて行った。この帰結が関ヶ原合戦であったのだ。
(2)徳川の覇権を確立できなかった関ヶ原の戦い
こうして豊臣秀頼を盟主としながらも、その下での豊臣政権における主導権争いは、関ヶ原の戦いにおける武力による決着に行きついた。
「つくる会」教科書は、関ヶ原の戦い以後の情勢を次ぎのように記述している(p124・125)。
最強の武将となった家康は、1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられて、江戸(東京)に幕府を開いた(江戸幕府)。 しかし、巨大な大阪城には豊臣秀頼がいて、豊臣方にひそかに心を寄せる大名や武将たちもいた。そこで、家康は、1614(慶長19)〜1615(元和元)年、機会をとらえて大阪城を攻め、豊臣氏をほろぼし、徳川家の支配を確立した(大阪冬の陣・夏の陣)。 |
しかしこの戦いは、従来の定説で理解されてきたような、徳川による覇権を確立しはしなかったのである。そうでなければ、関ヶ原の戦いの10年以上も後になって、武力で豊臣氏を討ち滅ぼすことの必要性を理解しがたい。
@存続した豊臣公儀体制
従来は関ヶ原合戦に勝利した家康が諸大名に卓越した力を持ち、戦いの3年後には征夷大将軍について幕府を開き、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉3ヶ国65万石余りの一大名に転落したと捉えられて来た。しかし笠谷和比古などの研究によって、この理解は誤りであり、豊臣秀頼は将軍家としての諸大名とは別格の全国統治権を持つ「公儀の家」としての家格と実力を有しており、秀頼の成人のあかつきには彼が関白につき再び豊臣の世が復活するものと、当時の人々には考えられていたということが証明されてきている。だからこそ大坂冬の陣・夏の陣によって、軍事的に豊臣氏を排除する必要があったのだ。
豊臣氏が徳川家と並ぶ「公儀の家」として諸大名の上に君臨していたと見なせる証拠は、幾つもある。
その一つは、1603(慶長8)年の幕府開闢以後も、諸大名が大坂の秀頼のもとに伺候し、年賀の礼などを継続していたこと。そして諸大名が秀頼のもとに伺候することは幕府も認めており、むしろ大坂に伺候することを催促したりしていた。この傾向は次第に弱まり大坂に伺候しなくなる大名がだんだんと増えてくるのだが、豊臣氏滅亡の年まで続いている。
二つ目は、勅使や公家衆が大坂の秀頼のもとに参向していたこと。幕府開闢以後においてもこれは続けられ、正月には勅使や各宮家・摂関などの公家たちが大坂に参向し、年賀の祝いを述べている。これは朝廷が依然として豊臣家を武家の頂点に立つものと見なしており、これも豊臣家滅亡の年まで継続している。
三つ目は、1603(慶長8)年の家康将軍任官の直後に、家康の孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたことである。これは秀頼が家康の孫婿になったわけであり、家康は豊臣家を諸大名とは別格としてあつかっており、むしろ縁戚関係を強化することで、豊臣家をも将軍を頂点とする公儀の体制に一体融合化しようとしていたことを示している。
さらに四つ目に、徳川氏は諸大名に自己の居城の普請を命じているが、この際には秀頼に普請役を命じていない。さらに1606(慶長11)年の江戸城普請に際しては、秀頼の家臣が大御所家康・将軍秀忠の家臣と並んで普請奉行に任じられており、このことは、秀頼は将軍や大御所と並んで諸大名に天下普請を命じる立場にあり、豊臣家が公儀の家としての家格を有していたことを直接的に証明するものでもある。
また五つ目に、1605(慶長10)年頃に作成された伊勢の国(三重県)絵図において、諸大名の領主名と並んで秀頼の家臣が数名領主としてその名を記載されており、秀頼が依然として伊勢の国に設定されていた太閤蔵入り地の支配を継続している可能性が示されている。そして1604(慶長9)年に讃岐(香川県)の生駒領内にある太閤蔵入り地についての算用書が残されており、ここを差配していたのが秀頼近臣の片桐且元であることを考え合わせると、秀頼が65万石の一大名ではなく、全国に多くの太閤蔵入り地を保有していた可能性も示されている。
このような証拠を並べて見ると、豊臣秀頼は秀吉が築いた豊臣公儀体制の頂点に今だ君臨しており、将軍家康は豊臣公儀体制の大老筆頭として政務に当たっていたと見なされるのだ。
そしてこのことはさらに2つの事例で裏付けられる。
その一つは、1611(慶長16)年3月の京都二条城における家康と秀頼の会見のありさまである。家康は二条城に到着した秀頼を庭に降りて迎え入れ、御成りの間という二条城御殿の最高の場に案内している。そしてその後の会見の儀礼においては家康が両者対等の儀礼で行うことを提案したが秀頼がこれを固辞し、家康に御成りの間を譲ってこれに拝礼した。これは家康が朝廷の官位でいえば従一位で秀頼が正ニ位であり、秀頼が家康の孫婿であったことに基づいた秀頼の判断であり、家康が両者対等の礼遇を提案したのに対する謙譲の作法であった。そして家康は秀頼の二条城退出にあたっては玄関まで見送っている。まさしくこの時点においても、豊臣家と徳川家は対等の存在であったのだ。
またもう一つ、豊臣秀頼が諸大名とは別格の存在であったことを示す証拠がある。
それは、この1611(慶長16)年の4月に幕府が出した、「頼朝以後の代々の将軍家が出した法度は守らねばならず、あわせて江戸より出された法度も守られねばならない」とした3ヶ条の誓紙の問題である。このとき、天皇の代替わりを祝賀するために二条城に集まっていた西国大名のうちの主だった22名がこの誓紙に連署し、さらに翌年の正月には東国大名が同じ文面の誓紙を出している。この3ヶ条の誓紙は神に誓うという形をとってはいるが、江戸幕府が出す法令に諸大名が服することを初めて定めたものであり、徳川氏の覇権を示すものと受けとめられている。しかしこの誓紙に豊臣秀頼は連署しておらず、これを求められた事実もない。ということは、秀頼は徳川氏と同じく諸大名の上に君臨する存在であることが示されているのだ。
こうして関ヶ原の戦いや幕府開闢以後においても、朝廷の権威の下で全国の統治権を総覧する存在としての「公儀」とそれを構成する「公儀の家」という近世政治秩序の頂点に豊臣氏は依然として君臨し、将軍家である徳川氏はそれを補佐ないしは代行する存在であったことがわかる。そして統治権に関る様々な儀礼が、京都の二条城か伏見城で行われていることは、この時期の政治の中心地は依然として京都であり、豊臣の世は依然として続いていたことを示している。
A豊臣公儀体制内部の覇権闘争であった関ヶ原の戦い
ではなぜ、関ヶ原の合戦の勝利の後でも、豊臣の世は継続し、徳川はその補佐・代行者に過ぎなかったのだろうか。
これは、関ヶ原の戦いの性格そのものの帰結であった。
関ヶ原の戦いは、年賀の礼に大坂に伺候することも拒否して城を補修し兵備を蓄える上杉氏の行動を、豊臣氏への謀叛と捉えた「上杉討伐」に端を発した戦いであった。つまり上杉攻めにおける徳川家康の命令は公儀の家の主催者としての秀頼の命であり、豊臣政権五大老筆頭としての行動であった。
だから大坂から会津(福島県)に至る道筋に領地を有する諸大名はすべて家康に従って進軍する義務があり、道筋にあたる東海道・中仙道・北国街道沿いの各地には豊臣恩顧の大名が数多く封じられていたので、家康を総大将とする総勢8万余りの軍勢の大半は豊臣恩顧の大名だったのだ。またこの軍勢の中には、会津に至る道筋に領国を有しない豊臣大名、すなわち、加藤(伊予・愛媛県)・細川(丹後宮津・京都府)・黒田(豊前中津・大分県)・藤堂(伊予板島・愛媛県)・生駒(讃岐高松・香川県)・蜂須賀(阿波徳島・徳島県)・寺沢(肥前唐津・佐賀県)らの西国大名が従軍している。彼らは、家康が関東に下向すれば必ず起こるであろう石田三成の挙兵に際しても、家康に味方する心積もりで従軍しているとはいえ、彼らの大義名分もまた、三成が豊臣家の政治を私しているというものであった。そして進軍途中で石田三成挙兵の報に対処するために開かれた下野小山での評定における三成討伐の大義名分もまた、豊臣家の政治を私しようとする三成を討つというものであり、豊臣家をつぶすと言う名目は掲げられなかったのだ。
一方、対する反徳川派の大義名分も、7月に出された「家康ちがいの条々」という13ヶ条の家康弾劾状に見られるように、「太閤様御置目に叛いて秀頼様を見捨てた」というもので、東西に分かれて戦った合戦そのものの双方の大義名分が「公儀の家としての豊臣家」守護にあったのだ。
もちろん兵を返して大坂を目指して進軍する徳川方・東軍に対して、対立する三成・上杉方が、他の大老だけでなく秀頼自身を西軍の大将として担ぎ出せば、関ヶ原の戦いにおいてこれらを全て撃破し、豊臣の世を葬り去ることが家康の狙ったことであったかもしれない。しかし秀頼を擁しての総大将毛利輝元の関ヶ原出馬は、家康と通じた奉行の増田長盛が大阪を占拠するとの噂が流れて実現せず、豊臣政権そのものをつぶすことはできなかった。
またもし秀頼が出馬してしまうと、秀頼を盛り立てるために政治を私している三成を除くという大義名分で家康に従ってきた、福島正則などの豊臣恩顧の大名の総勢5万余りが家康に敵対してしまう可能性も強かった。そうなれば西軍10万余りにこれが加わり、総勢6万余の徳川軍は東の上杉・佐竹・最上らの反徳川勢力との挟み撃ちにあう危険はかなり高かったと言えよう。
関ヶ原の合戦で豊臣の世をつぶすことは、そもそも無理であったのだ。この戦いは、豊臣公儀体制内部での覇権闘争であったという所以である。
B豊臣恩顧の大名の力で勝った東軍
そして関ヶ原の戦い自体も、徳川の独力で勝利を手にしたわけではなかった。いや、徳川の力はほとんど発動されなかったのが実情であり、西軍を破った原動力は、家康に従ってきた豊臣恩顧の大名の力であり、戦いの最中に西軍を裏切った小早川などの豊臣恩顧の大名の力であったのだ。
良く知られているように、徳川の主力軍3万は将軍秀忠によって率いられて中山道を西上し、途中信州上田の真田氏の討伐にも手を焼いて関ヶ原の合戦には参加できなかった。
そもそも家康は、石田との決戦をもう少し先のことと考えていたふしがある。中仙道を西上した秀忠軍の任務は、中山道沿いに存在する真田などの西軍方大名を大軍を擁して従えて、これらの勢力が上杉と協力して関東を突く事態を防ぐことが第1の任務であった。そしてこの処置をとったあと、美濃・尾張において、先行した豊臣恩顧の大名軍5万と合流して石田方の西軍と雌雄を決する予定であった。家康は関東に残って、上杉・佐竹らに備える予定であった可能性がある。しかし、先行した豊臣恩顧の大名たちの戦意は高く、予定よりも早く美濃・尾張の西軍方の諸城を攻め落とし、難攻不落と思われた美濃岐阜城を3日で攻め落とし、東下してきた西軍が拠点とした美濃大垣城の目の前にまで進出してしまったのだ。決戦の時は予定より早まり、このままでは徳川軍不参加のままで決戦の火蓋が切られてしまい、たとえ東軍が勝っても、徳川の覇権は成立しない危険性が出てきたのだ。
情勢を見るに機敏な家康は、急遽江戸に置いておいた旗本勢を引き連れて西上して、豊臣恩顧の大名たちと合流した。しかし情勢の急激な変化に対応できなかった秀忠軍の到着は遅れ、このままでは続々と西軍が増強されて決戦の時期を失ってしまう。家康は、徳川主力軍を欠いたままで決戦に臨む決断をしたのだった。
このとき家康が引きつれていた旗本2万余には、ほとんど独立した軍団を構成できる10万石クラスの譜代大名はおらず、小身の旗本衆で構成されており、家康本陣を守護するのが本来の任務であった。したがって関ヶ原に参集した8万余りの西軍に対して激戦を演じたのは5万余の豊臣恩顧の大名であり、この戦場に投入された徳川精鋭軍は井伊直政・松平忠吉率いるわずか6000だったのだ。
そして西軍の側もまた、10万を越えたと言われる全勢力を関ヶ原の戦いに投入することはできなかった。西軍最強の武将である立花宗茂(筑後柳川・福岡県)率いる4000の部隊を中核とした15000の軍は、近江大津(滋賀県)に2000の軍で蘢城する東軍方の京極高次を攻めあぐね、決戦の日に間に合わなかった。また、関ヶ原に参集できた8万余の西軍の中でも、戦いに投入できたのは、その3分の2程度であった。家康に通じていた小早川秀秋の8000余の軍勢は動かず、毛利・長宗我部らの数万の軍勢も、その先鋒であった吉川広家軍が家康に通じて動かなかったために戦場に向かって動くことができず、実際に戦場で戦ったのは、東軍先鋒の豊臣恩顧の大名とほぼ同数でしかなかった。したがって戦いはなかなか決着がつかない激戦となり、最後に西軍を裏切って、西軍大谷隊の横から突撃してこれを壊滅させ西軍本陣に迫った小早川の動きによって東軍優勢となり、さらに西軍の中から裏切りも数多く出て、東軍圧勝で終わったのである。また関ヶ原にわずか1000余の軍勢で登場した島津勢もまったく戦場に乗り出さず、東軍優勢で戦いが決着つきかける中で、包囲する東軍の囲みを突破し、総勢1000余が80余を残すまでの激戦を演じながら伊勢を目指して逃亡してしまうありさまであった。これは島津勢が当初は伏見城の守備を家康から命じられて小勢を率いて参加し、成り行き上で西軍に参加したものの、伊集院忠棟の1件や太閤蔵入り地の件で、島津氏が家康に恩義を感じていたゆえであるとも言われている。西軍は一枚岩ではなかったのだ。
したがって合戦のあとで没収された西軍方の88大名の領国の大部分は、豊臣恩顧の大名たちに分配された。
この戦いのあと、石田・宇喜多・小西・長宗我部などの88の大名の領国416万石が没収され、さらに毛利・上杉・佐竹ら5大名は領地削減(減封)され、この総額216万石を合わせて没収された総額は632万石余りとなり、当時の総石高1800万石の3分の1を越えていた。この没収高の80%にあたる520万石が豊臣恩顧の大名に分配され、彼らの多くは一国単位で領国を有する国持ち大名となった。そして彼らの領国は、肥後(熊本県・加藤)・豊前(大分県・細川)・筑後(福岡県・田中)・筑前(福岡県・黒田)・土佐(高知県・山内)・阿波(徳島県・蜂須賀)・讃岐(香川県・生駒)・伊予(愛媛県・藤堂・加藤)・安芸備後(広島県・福島)・備前美作(岡山県・小早川)・播磨(兵庫県・池田)・出雲隠岐(島根県・堀尾)・伯耆(鳥取県・中村)・丹後(京都府・京極)・紀伊(和歌山県・浅野)・若狭(福井県・京極)・加賀能登越中(石川県・富山県・前田)・越後(新潟県・堀)・陸奥会津(福島県・蒲生)と20ヶ国以上におよび、西国はほとんど豊臣恩顧の大名が領することとなったのであった。
C並存する豊臣・徳川の公儀体制
そしてこの大規模な大名の転封における領地宛がい状は存在せず、徳川家康の口頭での命令の伝達によって執行された。当時の大名たちは、この新たな領地を宛がった政治的主体は豊臣秀頼であると認識しており、したがって関ヶ原の戦い以後において、先に述べたように豊臣・徳川の両家は、ともに公儀を主催する公儀の家として存続したのであった。
西国は先に述べたようにほとんど豊臣恩顧の大名で占められ、この間に、毛利・島津・鍋島などの旧族大名が展開し、ここには徳川と強く結びついた藤堂などの少数の外様大名がいたとはいえ、徳川譜代・一門の大名はまったくいなかった。徳川が圧倒的な力を示していたのは、関東と東海地方であり、その西方の事実上の最前線は近江彦根(滋賀県)の井伊氏であり、徳川は西国・奥州ともに支配していなかったのだ。徳川氏は豊臣公儀体制の中で、関東・東海を支配する最有力の大名に過ぎず、依然として豊臣の大老としての地位を占めているに過ぎなかった。このままでは、秀頼の成人後、いや老齢に達していた家康が死んだ後ではただちに、豊臣の世が復活する。なんとかしてこの優勢な状態を永続させ、できれば豊臣をもまたその体制下に包摂してしまいたい。関ヶ原合戦のあとの状況はこうだったのだ。
江戸幕府がつくられることで、徳川家の覇権は確立されたわけではない。それは大坂冬の陣・夏の陣での豊臣氏の滅亡によってなのだ。この点については、「つくる会」教科書の記述は正しい。だがその記述において、「豊臣方にひそかに心を寄せる大名や武将たちもいた」と記したことは、近年の笠谷和比古らの研究の深化を無視した、従来説を踏襲したままの誤った記述である。「ひそかに」ではなく、公然と豊臣こそが政府としての公儀を主宰する「公儀の家」と認識され、徳川氏もこれを承認するしかなかったのである。
(3)いかにして徳川の覇権は確立されたのか?
@豊臣公儀体制を簒奪する枠組みとしての将軍任官
この状況を突破するために考案されたのが徳川家康の征夷大将軍任官であり、将軍位を嫡子秀忠に譲ることで征夷大将軍を徳川家が世襲する体制づくりであった。
征夷大将軍は、武家の棟梁がつく最高の官職であり、じつは豊臣政権はその内部に、この官職を内包していた。
徳川家康は豊臣公儀体制の下で、事実上の武家の棟梁の地位についていた。それは1587(天正15)年の12月8日のことである。このとき家康は従来の従二位権大納言の官職にあわせて左近衛大将および左馬寮御監の地位についた。この官職は一般の大名がつくものではなく、征夷大将軍とほぼ同格の右近衛大将の一つ上の官職であり、征夷大将軍が兼ねることの多い右馬寮御監の一つ上の官職である。ということは、関白秀吉の下で諸大名が後陽成天皇の前で秀吉に臣従を誓ったその同じ年に、奥羽・関東の仕置きを任されている徳川家康が、豊臣公儀体制の中で武家の棟梁の地位についたものと解釈できるし、事実上の征夷大将軍とも言える地位にあったことを示している。つまり豊臣公儀体制はその内部に、武家の棟梁としての将軍の地位までも包摂するものであったということだ。
家康はこの事実を逆手にとってさらに官職を進め、1603(慶長8)年2月に征夷大将軍に任命されるとともに、従1位・右大臣・源氏長者の地位についた。この地位は、従来の鎌倉幕府・室町幕府の将軍がついた地位であり、武家関白が存在しない中では、彼は名実ともに武家の棟梁・武家の最高位についたのだ。これは最大・最強の大名である家康にふさわしい地位であり、この名を持って諸大名に命令を下せるものであった。しかも豊臣秀頼はこれとは別の関白に将来はつくものと考えられており、関白は将軍より上の地位であることから、秀頼の将来の地位を脅かすことなく、これとは別個の権威をもって全国に命令していける地位でもあった。
そして家康はこの地位を利用して、江戸幕府に次々と従来の幕府が帯びてきた権威と権力とを付与して行く。
まず1605(慶長10)年に将軍位を嫡子の秀忠に譲って将軍を徳川氏が世襲するものであることを明かにした。そして翌1606(慶長11)年には幕府の推挙なしに武家に官位を与えないことを朝廷に堅く申し入れ、室町幕府も、そして秀吉も保持していた朝廷の官位によって大名の序列化を図る権限を手中に収めた。さらに1609(慶長14)年には諸大名からの人質を駿府から江戸に移して大名に対する将軍の支配権を強化し、その上で先に述べたように、1611・12(慶長16・17)年に諸大名に対して江戸幕府が出す法例を従来の幕府の法例と同様に遵守するという3ヶ条の誓紙を示してこれに連署させ、初めて諸大名を幕府の法の統治の下に置いた。またこの間、諸外国との通交を求め、朝鮮や明との国交の回復交渉などを進めて、江戸幕府が事実上の日本政府であり、将軍が天皇を補佐して外交を総覧する事実上の日本国王であるということを諸外国に認知させていった。そして将軍秀忠の娘和子の入内が進められ、1614(慶長19)年3月には勅使をもって入内を受け入れる旨が家康に伝達された。徳川の血をうける天皇が即位し、朝廷と幕府が一体となる可能性すら生まれたのである。
こうして家康は、豊臣秀頼を豊臣公儀体制の頂点に置きながらも、その諸権限を事実上幕府の下に簒奪し、豊臣公儀体制を事実上、徳川による公儀体制へと作り変えてしまったのだ。だがこの中で豊臣秀頼はこの公儀体制から排除はされておらず、先の3ヶ条の誓紙には連署を求められず、二条城での家康との会見は対等なものであったように、秀頼は名目に化してしまった豊臣公儀体制の頂点に立ってはいたのであった。
A武力による豊臣氏の排除はなぜ進められたのか?
この1611・12(慶長16・17)年の時点においては、家康はまだ豊臣公儀体制を軍事力によって解体することは考えていなかったように見うけられる。家康は秀頼を孫婿として対等に遇し、両者はさまざまな軋轢はあったとはいえ、平和裏に共存していたのである。
しかし家康は、1614(慶長19)年には突然態度を豹変させ、秀頼が太閤の供養のために建てた方広寺の鐘の銘文に難癖をつけて大仏の開眼供養を中止させ、さまざまな難題を豊臣氏につきつけ、これを拒んだ豊臣氏を軍事的に討つ行動に出て行った。大阪冬の陣・夏の陣である。そして幕府が総力を結集したこの軍事作戦によって豊臣氏を滅ぼし、豊臣公儀体制を軍事的に葬り去り、徳川氏の覇権を完成させたのである。
なにゆえ家康は態度を豹変させたのか。このことを示す直接的な資料は残されていない。
1611(慶長16)年の二条城での秀頼との会見において、家康は成人した秀頼を見て「なかなかに賢い、立派に天下の政務をとりうる人物だ。とても他人の支配を受けるような地位に下るべき人物ではない」と側近に語り、以後豊臣氏を滅ぼす陰謀をめぐらしたという話が伝えられている。これは江戸時代の中頃になって作られた話なのでそのままでは信用できるものではない。しかし家康が対等の礼でと提案したのを謙譲の礼をとって家康を拝礼した秀頼の見識の高さは、たしかにこの話が伝えている家康の感慨の背景を示してくれる。そして家康による秀頼暗殺を恐れて二条城出仕を渋ってきた豊臣の側を説得し、この会見を無事に挙行させた裏には、豊臣恩顧の大名の筆頭格である加藤清正と浅野幸長らの動きがあった。会見に臨んだ秀頼の傍らには終始2人が付き添い、途中から同じく豊臣恩顧の大名である池田輝政と藤堂高虎が加わって秀頼を警護していたのである。会見の最中において清正は秀頼に何かあれば家康と刺し違えようと懐中に刀を忍ばせていたし、浅野幸長もまた終始四方に目を配っていたとも伝えられている。
この会見において、秀頼の暗殺計画があったかは定かではない。しかしこれを豊臣の側が常に警戒していたことはたしかであろう。秀忠が将軍に任官したおりにも秀頼に上京して会見することが命じられているが、豊臣はこれに応じていない。将来関白につく秀頼の方が上であるから会見に出向くいわれはないというのが名目であろうが、この時も暗殺を恐れていたのかもしれない。
だがこの話で大事なことは、秀頼の安全を守るべく豊臣恩顧の大名が老骨に鞭打って同席し警護したということではなかろうか。加藤も浅野も池田も藤堂も、早くから家康に臣従し、関ヶ原の戦いに至る過程でもその後でも、積極的に徳川の覇権確立に寄与した大名である。その彼らも豊臣公儀体制を徳川が武力で倒すことを警戒し、秀頼の安全を身を賭して守ろうとしている。このことに家康は、自分の死後の徳川家・幕府の行く末の前に立ちふさがる暗雲を見たのではなかろうか。
この時すでに豊臣恩顧の大名の中では、黒田如水は1604(慶長9)年に59歳で没し、細川幽斎も前年1610(慶長15)年に77歳で没していた。また福島正則は病に伏し、家督を嫡男正勝に譲ろうとしており、次第に豊臣恩顧の大名も代替わりしつつある。しかしこの会見に見られる様に、彼らは徳川将軍家の権威に服し、その法による支配に服しながらも豊臣氏を守ろうとしている。そして先に見たように天皇・関白を始めとした朝廷もまた、秀頼を事実上の武家の頂点に立つ存在として認めている。はたして家康の死後においても諸大名・朝廷は徳川氏の覇権を支えつづけるのだろうか。このような思いが家康の脳裏をよぎったのではなかろうか。
そしてこの二条城会見の直後の4月に浅野長政が65歳で死没し、あとを追うようにして加藤清正も6月に50歳で没している。また1613(慶長18)年1月には池田輝政が50歳で没し、さらには浅野幸長までも8月に38歳で死んでいく。自分より若いこの諸将が先にこの世を去って行くのを見たとき、家康もまた自分の死の近いことを感じたであろう。そして次々に豊臣恩顧の大名の当主が死没し代替わりをしていくにしても、まだまだ豊臣家を守ろうとする大名は、福島正則や黒田長政、そして加藤嘉明や蜂須賀家政ら、西国大名には数多くいるし、東国にも仙台の伊達政宗など秀頼の安泰を願う大名がいる。彼らが朝廷を担いで秀頼に荷担して秀頼を関白につけ、結束して徳川打倒に乗り出したらどうなるのか。
以上は状況証拠による想像に過ぎないのではあるが、当たらずともいえど遠からじだと思う。 大坂の陣は、家康の老いの迷いが生み出したのかもしれない。
こうして豊臣氏を武力でつぶす戦いは幕を切って落とされたのである。
B豊臣氏の滅亡
1614(慶長19)年7月。家康は秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘の銘に難癖をつけ、大仏の開眼供養の延期を命令した。
問題になったのは銘文の中の「国家安康 君臣豊楽」の文字。これを家康の名を真っ二つに切って徳川家を呪い、あわせて豊臣家の繁栄を祈るものであると決めつけたのだ。そしてそのような意趣はない旨を申し入れた豊臣方に対して家康は、3か条の要求をたたきつけた。「秀頼が江戸に参勤する」「淀殿が人質として江戸に来る」「大坂を退城し他国に移る」のどれか一つを履行しろというのだ。
この要求は、豊臣家が自己を公儀体制の頂点にある「公儀の家」と認識し、徳川家はその家臣に過ぎないという立場に固執する限りでは受け入れ不可能な要求であった。家康はこの要求で豊臣家に対して、公儀の家としての徳川将軍家の一臣下の大名として家を存続させるか、それともあくまで「公儀の家」の立場に固執して滅亡への道を歩むかの二者択一を迫ったと言えよう。豊臣家とそれに従う家臣団が、江戸開府以降、豊臣家の公儀としての実権がほとんど徳川家に奪われ、ほとんどの大名がこれに臣従しているという現実を見据えるならば、この要求は受け入れ可能であったろう。
しかし10月。豊臣の側はこれを拒否し、要求を受け入れることを強く主張した家老格の片桐且元を大坂城から追い出し、家康はただちに大坂征討の命令を発した。
東北諸大名には軍勢を率いて江戸城を守護させ、畿内近国の大名には淀・瀬田に、北国の大名には大津・坂本・樫田に、さらに西国の大名には西宮・兵庫に陣を張らせ、四国の大名には和泉の沿岸に船で軍団を停泊させることを、幕府は矢継ぎ早に命令した。そして11月。家康・将軍秀忠はそれぞれ軍を率いて二条城・伏見城に入り、その後、全軍20万の幕府軍は大坂城を包囲した。対する大坂方は10万。関ヶ原の戦いによって取り潰された諸大名などの浪人が集まっただけで、豊臣恩顧の大名など現役の大名は一人も馳せ参じなかった。この時点で勝負はすでについていたと言えよう。
福島正則・加藤嘉明・黒田長政・平野長泰の4有力豊臣恩顧の大名は江戸に残留させられ、彼らやその他の豊臣恩顧の大名は、大坂からの参戦の要請をことわったのである。
結局この大坂冬の陣は、幕府方の圧倒的な兵力による2ヵ月の包囲戦の後に和議が結ばれて、戦闘は一旦終結した。和議の条件は、「ろう城の浪人には咎めだてしない」「秀頼の所領は今までどおり」「淀殿の江戸参府は必要ない」「大坂を立ち退くならどこでも望みしだい」「双方とも今後はいささかも不信な行動はしない」というもので、これに付帯して、大坂城は本丸のみ残して、ニの丸・三の丸や惣構えを全て破却し堀も埋めたてるというものであった。ただし、惣構えの破却は幕府方が行い、ニの丸・三の丸の破却は大坂方が行うという取り決めで、しかも和議の誓紙には破却の具体的条項は書かれていないので、惣構え以外の物は残される可能性があった。しかし、幕府はこの取り決めを一方的に無視して、一月あまりかけて一気に二の丸・三の丸・惣構えを全て破却し去ったのである。
また注目すべきは、この和議交渉の過程で朝廷が和議を結ぶ仲介をしようとしたのを家康が断っていることだ。これは朝廷が依然として両者の和解と並存を考えているのに対して、家康は、天下統治を委ねられているのは徳川であり、これは「公儀の家」としての徳川が行う天下の仕置きであるという立場をとっていることを意味し、断固自己の主導権の下で事態の決着を図ろうとしていると言えよう。
ここで大坂方がこの現実を直視し、丸裸になった大坂城で一大名として存続するか他国に移って存続する道を選べば、家を存続させる道は開かれていたわけである。しかし一方的な和議協約を破棄したとも言える動きに怒った大坂方は、翌1615(慶長20)年3月には埋められた堀の掘り返しなどの戦争準備を開始した。4月、幕府はただちに再征を命じ、幕府軍20万は、大坂城を出て南に陣地を構えて野戦での決着を図る大坂方を討つべく河内路・大和路から二軍に分かれて南方から進軍し、5月6日、ついに大阪夏の陣の火蓋は開かれた。
そして幕府方の圧倒的な兵力が物を言い、戦闘はわずか2日で決着。5月8日に淀殿・秀頼と約30名の家臣は大坂城で自刃。ここに豊臣氏は滅亡したのであった。
C変らぬ「公儀体制」の下での大名の共同統治
大坂城の領国は一時、徳川氏の親族松平の一族に引き継がれたが、結局は幕府直轄と変った。しかしこの戦でつぶされた大名は豊臣氏だけである。幕府・徳川方の最前線が近江・彦根から河内・大坂に進んだだけで、西国における旧族大名と豊臣恩顧の大名の優勢の状況には変化は無く、幕府は、その直轄領と親藩・譜代大名の領国を合わせても関東から東海地方と大坂付近を抑えるに過ぎなかった。そしてその所領は、諸大名に比べれば圧倒的とは言え、親藩・譜代まで入れても全石高の4分の1程度。全国的には、旧族大名と豊臣恩顧の大名の優勢の状況には変化はなかった。「公儀の家」として朝廷からも認められ、同じく「公儀の家」としての徳川家に対抗できる豊臣家が滅亡したとはいえ、徳川家が諸大名を軍事力によって圧伏したわけではなく、天皇を頂点とした「公儀体制」の中枢を徳川家が握ることで、諸大名を臣従させたにすぎないという状況には、大坂の陣を経ても、いさかかも変更されなかったのである。
たしかにこの戦いによって、徳川の覇権は確立した。
この戦の後、幕府は武家諸法度という大名を統制できる法令を、今度は大名の誓紙という形式によらずして、将軍が一方的に諸大名に対して命令するという形式で出している。このことは、諸大名を超越した徳川家の覇権の確立を示すものである。しかし次ぎの項で詳しく述べるが、江戸幕府による全国統治は、従来考えられてきたような中央集権的なものではなく、軍事・外交以外は極力諸大名の自主的統治権を尊重するものであり、大名を様々な理由で処分・改易(領地没収)する際にも、諸大名への理由の懇切丁寧な説明を行って了承を求めるという形が取られているように、分権的・多元的国家支配形態だったのだ。
それは、これまで少し長くなったが縷縷述べてきたように、関ヶ原の戦い・大坂の陣という2つの天下分け目の戦いを経ても、徳川氏が諸大名を軍事的に圧伏したわけではなく、天皇を頂点とした「公儀体制」の下で、大名とも共同で天下を統治するという状況が続いていたという事実を背景とするものであった。
「つくる会」教科書をはじめとした多くの教科書は、江戸幕府の支配、幕藩体制というものを、幕府が超越的な力をもって諸大名を圧倒し、法令や陰謀まで駆使して諸大名の力を削いでいった中央集権的な絶対主義的な国家体制であったかのように捉えている。この傾向は、「つくる会」教科書においても、次ぎの「大名の統制」の項の記述に顕著であるのだが、これは大いなる思い違いなのだ。
注:05年8月の新版における記述は大規模に変更されている(P100〜101)。全体の項目名を「江戸幕府の成立」と改め、小項目として「徳川家康と江戸幕府」と「将軍と大名の関係」に記述を再編成した。関ヶ原の戦いと大坂の陣についての記述は「徳川家康と江戸幕府」の項に記述されているが、内容は大きく変更されている。すなわち、関ヶ原の戦いにいたる豊臣政権内部の分裂と家康が取った立場についての記述は完全に削除され、さらに、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼさねばならなかった事情についての記述も完全に削除されている。つまり、本稿で論述した旧版の不充分な記述・歴史認識に関る問題は、記述の全面削除という形で回避されている。旧版に比べて整理された簡潔な記述になったことで、豊臣政権が滅びた背景を考える手がかりは失われてしまったし、幕藩体制を中央集権的で幕府が諸大名に強権を振るっていたという従来の歴史認識は踏襲され、まったく改められていない。かえってl記述が後退したと言えよう。この点については、旧版の次ぎの項「大名の統制」と「幕府の仕組み」の所で詳しく批判したい。
注:この項の記述は、岡本良一著「大坂冬の陣夏の陣」(1964年筑摩書房刊、1972年創元新書再刊)、辻達也著「江戸開府」(1966年中央公論社刊「日本の歴史第13巻」)、前掲、藤木久志著「天下統一と朝鮮侵略−織田・豊臣政権の実像」、藤井譲治著「法度の支配」(1991年中央公論社刊藤井譲治編「日本の近世第3巻・支配の仕組み」所収)、前掲、脇田修著「秀吉の経済感覚−経済を武器にした天下人」、笠谷和比古著「関ヶ原合戦−家康の戦略と幕藩体制」(1994年、講談社メチエ刊)、笠谷和比古著「関ヶ原合戦四百年の謎」(2000年、新人物往来社刊)、笠谷和比古著「関ヶ原合戦と近世の国制」(2000年、思文閣出版刊)、福田千鶴著「淀殿」(2007年ミネルヴァ書房刊)、などを参照した。