「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判11


11:江戸幕藩体制とは合議に基づく分権的統治体制であった

 「江戸幕府の政治」の2番目の項目は「大名の統制」であり、江戸幕府、幕藩体制と呼ばれるものの性格と仕組みを述べたものである。しかしこの項は、幕府がいかに大名を統制して抑えつけたかということだけが書かれており、幕藩体制全体については、前の項の末尾に、また、その幕府機構そのものの記述はこのあとの「幕府の仕組み」の項に分かれて掲載されると言う、記述の混乱も呈している。
 ここでは、「関ヶ原の戦いと江戸幕府」「大名の統制」「幕府の仕組み」の3ヶ所に分かれて記述されている幕藩体制とは何であるのかについての説明をまとめて検討してみたい。

(1)幕藩体制は分権的体制であった

 教科書は「関ヶ原の戦いと江戸幕府」の記述の末尾で、幕藩体制とは何であるのかについての総論を、簡潔に記述している(p125)。

 江戸幕府の統治は、次ぎのような将軍と大名との主従関係に支えられていた。将軍は大名(1万石以上の武将)の所領を認めて保証する。大名の所領と人民とその行政組織を合わせて、藩とよぶ。大名はそれぞれの藩の統治をまかされて、将軍に忠誠を尽くし軍役の義務をおう。このような主従関係をもとに、幕府と藩とで全国の土地と人民を治める体制を幕藩体制といい、これが江戸時代の統治の基本的な仕組みとなった。

 一点を除き、なかなか正確で、簡にして要を尽くした記述である。
 どこが間違っているかというと、将軍と大名との関係についてである。

@所領は将軍から大名に預けられる

 将軍は大名の所領を認めて保証するのではなく、あくまでも建前は、将軍が大名に所領を預けるのだ。大義名分としては、全国を統治する権限を持っているのは、征夷大将軍として政務を天皇から委任されている将軍であり、将軍は大名に一定の所領を預け、その所領を統治する権限を預けたのである。
 預けたのであるから、将軍の委任に大名が応えないときには、彼に預けた所領を召し返し、大名を解任できるというのが建前である。この建前に基づいて、大名が統治能力を失っていると幕府が判断したときに起こるのが、大名改易である。また大名の側からすると、当該の大名家が所領を統治することが不可能となったと自己判断した場合には、所領を将軍に返上することとなる。数は少ないが、大名に跡継ぎがなかったり、お家騒動で統治能力が減退した場合などがこの例にあたる。この大義名分を忘れ去ってしまうと、後に論じるように、将軍が大名をさまざまな理由で改易(領地没収=召し上げ)することの意味を取り違え、将軍は大名を恣意的に改易したという誤った理解をする結果となる。
 ただ実際には、初期を除いて、将軍は大名の所領を認める形になった。
 徳川氏の覇権確立への路が関ヶ原の戦いによって前進したとき、西軍に属した多くの大名の領地は召し上げられ(全部または一部)、改めて東軍に属した大名や徳川家家臣に預けられ、西軍に属しても所領の一部召し上げや転封で済んだ大名には、旧来の領地が保証または新たな領地が預けられた。このとき、実際に領地を預ける主権者は豊臣秀頼であり、家康はその代理人・家老として執行したに過ぎないのであるが、大規模な戦で大名の再編成があったわけであるから、多くの所領が新たに大名に預けられたのである。
 しかしその後は250年間というもの、大坂の陣を除いて平和が続いたため、軍功によって新たに所領が預けられるということはなく、大名の多くは、旧来の所領を認められ保証されるという形になっていった。例外は、さまざまな理由で大名が改易になった場合や転封となった場合に、これに関連していくつかの大名が動かされた場合である。
 こうして大名は、将軍の代替わりや大名家の家督相続(代替わり)に際して、旧来の所領を将軍によって認められ保証され、その代りに将軍に忠誠をつくして軍役を勤めるという関係に事実上は転換していったのだ。教科書の記述は、平和が続いた中での実態を記述したものであるが、あくまでも所領は将軍から大名に預けられるというものであったことは忘れられてはならない。これが江戸幕藩体制の根幹をなす仕組みだったからである。

A公儀(=政府)として統治権を分有する将軍と大名

 なぜ所領が将軍から大名に預けられるという原則が大事なのか。
 これは、江戸幕府の成り立ちそのものから来ていることである。
 先にも述べたように、江戸幕府は、豊臣秀吉が築いた「豊臣公儀体制」の中から生まれ、それを継承して成立したものである。
 よく知られているように、豊臣秀吉は、全国を統治する権限を持つと考えられてきた天皇の代理人・関白として全国の大名の上に君臨し、「天皇の平和」令に基づいて諸国での大名同士や村同士の争いを辞めさせ、すべての争いを秀吉の裁定によって解決することを命じ、この命に従わないものを討伐してきた。秀吉の全国を統治する政権は、天皇から統治権を委任されるという大義名分で成り立っていたのである。だから秀吉は天皇から委任された統治権を臣下である大名に分け与え、一定の所領を預けてその統治を委任するという形をとっていた。
 このような大義名分によって全国を統治する政権(現代流に言えば政府)を、当時の人は「公儀」と呼び、諸国を統治する大名の政府自身も「公儀」と呼ばれた。これは公儀を主宰する関白や将軍や大名個人とは別個の存在として認識される今日流の政府であり、公儀を主宰するものは代々世襲制であったため、関白家や大名家を「公儀の家」と呼んだのだ。
 この豊臣公儀体制の家老として、徳川家の覇権は出発した。
 家康は征夷大将軍という官につくことによって豊臣公儀体制の実権を握り、やがてその全権を接収して豊臣氏を滅ぼし、幕府を通じた全国統治を確立したのである。
 だから徳川氏の覇権の下でも、全国統治権は天皇から将軍に委任され、その統治権の一部を大名に預けて任せるという形をとったのだ。
 しかもその大事な一歩となった関ヶ原の戦いは、既述のように、徳川譜代の家臣団によって勝利をもぎ取ったのではなく、彼に味方した豊臣家臣団の一部の奮闘で実現したがゆえに、徳川氏の覇権は諸大名を無視した形では実現しえなかった。それゆえ江戸幕藩体制は、公儀として、天皇から委任された全国統治権を将軍家とその家臣としての大名とが分有し、共同して日本を統治するという形をとらざるをえなかったのだ。
 だからこそ将軍が大名に所領を預けるという原則は建前と化し、大名は顕著な落ち度がなければその所領を代々将軍から保証され、当然の権利として統治権を将軍と分有する存在となっていったのだ。
 また将軍と大名とが統治権を分有する背景には、平安時代以降の貴族と武士との主従関係や武士と武士との主従関係のあり方が背景としてある。
 これらの関係は封建的主従関係と呼ばれて、主人が大きな権力をもっていると考えられてきたが、そうではなかった。主従関係における主人と家来の関係は、相互契約関係であり、双務協定であったと言っても過言ではない。そして主人が家臣に与える褒賞(御恩)は、家臣の働き(奉公)に対する正当な対価であり、家臣はその働きを主人が正当に評価しない場合には、異議申立てができるし、場合によっては主従関係を解消することもありえたのである。
 このように封建的主従関係というのは、それぞれの主体的な個人と個人の関係という性格を色濃く持っていたために、将軍と大名の関係にあっても、互いに主体的な個人同士の双務協定という性格を持ったのである。

B藩の統治は大名の自主決定に任されていた 

 江戸幕府の全国統治は、それぞれの藩の所領内に関することであれば、幾つかの例外を除いて、大名が行う統治行為に干渉することはなかった。幕府法においては、大名の所領における刑事裁判・民事裁判は大名の判断に任せることが当初より明記されており、大名の所領内におけるその他の仕置きも、大名の自主決定に任されていたのだ。
 では幕府が大名に任せず、自身で統治権を行使する問題とは何であったのか。
 第1は、他領に関る係争問題。
 一つは大名の所領を超える民事訴訟。大名領の領民が他領(幕府領も含む)民と係争事件を起こして、大名間の調停が失敗した場合、これは幕府に提訴され裁かれる。また二つ目には、大名領間の領地境界紛争。これは特に、近世中期以後に新田開発が盛んになるとともに頻発した。そしてこれに絡んで、新田開発に伴って河川の付け替えや堤防の増強が行われるが、これが大名領地の境の地域で行われる場合には治水の面で紛争が巻き起こるので、幕府は領地紛争を起こしかねない新田開発を規制した。
 第2は、幕府の全国統治にとって重大で大名領国にも関る問題について。
 その一つは、キリシタン禁令・宗門改めの問題である。後に詳しく説明するが、秀吉政権の所で見たように、この問題は日本国統合に関る問題であったので、各大名にも厳しい仕置きを幕府は命じた。しかしどう仕置きするかは各大名独自の判断に任せられていた。二つ目は通貨の問題である。幕府は金銀の通貨を発行していたが、諸藩もまた独自の通貨を持っていた。幕府は鉱山の領有も含めて幕府の一元的管理を当初は志向していて、大名独自の通貨発行や鉱山の領有を規制しようとしていた。しかしこれは成功せず、藩独自の通貨は藩札も含めて容認され、国持ち大名の鉱山領有も容認された。さらに三つ目は、撫民政策についてである。全国的な飢饉が襲った場合などについては、幕府は、飢えた民に対して施米などを行うとともに、倹約令や酒造制限令などを全国的に出して、食用米穀の確保と価格の高騰を防ぐ措置をとっている。しかし米穀の価格調整は、各藩の年貢米の販売にも係わるものなので幕府の一存ではできず、各藩の大阪留守居役組合との合議を行っていた。また大規模な風水害が生じた場合には、田畑の損耗高や被害人馬の数量を幕府に申告させ、風水害を防ぐために、大名領国を超えた国役を広く課して、大規模な河川付け替え工事や堤防の増強などを図っている。しかしこれも後に述べるように、幕府単独では財政的に無理が生じ、お手伝い普請という形で、諸大名の助力を仰ぐこととなった。
 そして第3は、対朝廷政策と外交問題、そして軍事的動員である。これは完全に幕府の専権事項である。
 これ以外の問題は大名の自主決定権に任せ、大名の裁量を超える上記の2つの事項についてのみ、幕府の主導下で大名も動員しながら、大名とも合議しながら統治するというのが江戸幕府の体制だったのだ。
 このように江戸・幕藩体制というものは、従来考えられてきたような中央集権的な体制ではなく、多分に大名個々に決定権が委ねられた分権的な体制だったのだ。この意味で、「つくる会」教科書が、「大名はそれぞれの藩の統治をまかされ」と記述したことは、正しい記述である。

(2)大名は統治権を将軍と分有する存在であった

 しかし、江戸・幕藩体制は単に分権的体制であったのではない。というよりも正しくは、統治権を将軍家・大名家が分有し、共同で全国を治めるという体制であったのだ。対朝廷策と外交を除けば、幕府が専権事項として持っている全国統治に係わる問題でも、先に述べたように、大名の助力を仰ぎ、合議を行っていたのだ。
 だがこの点については、「つくる会」教科書も、従来の否定された学説にまだ依拠した記述をしている。すなわち、次ぎの「大名の統制」と題した項の記述である(p125)。

 幕府は大名たちを、徳川一族である親藩、関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であった譜代、そののち徳川家に従った外様に分け、親藩と譜代を関東周辺や全国の要所において外様を監視できるようにした。さらに幕府は武家諸法度を定めて、無断で城を改築すること、大名家どうしが許可なく結婚することなどを禁じた。そして、武家諸法度への違反などを理由に、大名の所領を没収したり、入れかえたりした。さらに、3代将軍家光のころには、大名たちが1年ごとに所領と江戸を往復する参勤交代の制度を定め、幕府の大名統制に役立てた。また、大名は江戸城の修築や全国の河川の工事を命じられ、多大な費用を負担した。

 この記述の趣は、幕府が新たに臣下となった外様大名を信用せず、親藩・譜代を以って外様を監視し、さらに武家諸法度や参勤交代によって厳しく外様大名を統制し、大規模工事に多額な費用を出させて彼らの力を削いだという主張になっている。
 しかしこの記述は誤りである。

@外様大名は敵視されてはいない

 幕府が監視したのは外様だけではなく、親藩も譜代も同様に幕府の監視下に置かれた。後に述べるように、武家諸法度違反などの罪で改易(所領の没収)されたのは外様だけではなく、親藩も譜代も同様である。また、豊臣氏の滅亡の後においては、将軍家に対抗できる勢力としては、外様大名よりはむしろ御三家を筆頭とする親藩の方が危険な存在であった。なぜならこれらの大名は将軍家に対抗できるだけの所領を持つとともに、将軍家と並ぶ家格を有していたからであった。従って近世初期においては親藩の改易が相次いでいたのだし、有力な親藩の周囲には譜代大名を置いて監視してもいたのだ。
 また、大名を親藩・譜代・外様と分け、関ヶ原の戦い以後に徳川氏に臣従した大名を徳川氏の敵のように遇するのも問題である。
 譜代大名の中には徳川氏の三河以来の家臣もいるが、その後の領国の拡大の中で家臣となった駿河・遠江・甲斐・信濃、そして関東の国人層も数多く存在する。彼らは通常の大名家ならば外様と遇される者である。そして関ヶ原の戦い以後に徳川氏との特別の関係を結んで譜代大名となったものも多い。例えば3代家光の乳母となった春日局の婚家である外様の稲葉家は譜代に列し、老中を拝命している。そしてこの稲葉家の縁戚であった堀田氏も譜代に列し、幕末まで何度も老中を拝命する大名となった。さらに、「願い譜代」と称せられ、将軍家に譜代扱いを願って許された脇坂・相馬・大村・真田などの大名もいるからだ。このように外様から譜代になった大名も多くあり、外様と言っても、国持ち大名は高い家格をと権威を有し、しばしば重要事項については家門大名と同様に幕府の諮問を受けている。外様と言っても、けして敵と遇されていたわけではないのだ。また親藩と後に称された大名は徳川氏の一族(家門)大名であるわけだが、彼らも重要事項については諮問を受けていたし、2代将軍秀忠の兄の結城秀康から始まった越前松平家は、将軍の兄から始まった家として家格も高く、将軍家の統制の効かない外様国持ち大名と同格の別格の大名として遇せられていた。
 また大名所領の分布は、近世初期においては先にも述べたように、徳川氏の支配が及んだのは関東・東海・近畿(一部)地方だけであり、東北・北陸・西国のほとんどは戦国大名の流れを汲む旧族大名か豊臣恩顧の大名、すなわち外様大名であった。幕府の最前線は西では近江・彦根の井伊氏であり、豊臣氏滅亡後は大坂であった。通常どの教科書にも掲載される大名配置図は、17世紀の終わり以後のものであり、多くの大名が改易されたその空白地の要所に譜代を中心に徳川氏の勢力が配置された結果であり、幕府開闢以来の約100年間を通じて徐々に実現されたものであった。
 さらに、教科書の記述では武家諸法度や参勤交代・大規模工事の大名の負担などは、幕府が大名を統制する手段であるかのよう記述がされているが、これも一面的な見方である。

A武家諸法度は統治のための双務協定であった

 武家諸法度は、豊臣氏滅亡後の1615(慶長20・元和元)年7月に、京都伏見城に参集した諸大名に対して初めて伝達された。全部で13ヶ条からなり、第1条で文武弓馬の道をもっぱら嗜むことを定め、第2条で群飲佚遊の禁止と第3条で法度に背いた者を領内に置く事の禁止、さらに第4条で反逆・殺害人の領内からの追放や第5条で他国者を交え置くことの禁止、第6条で城郭の修補の届け出と新城の禁止、第7条では隣国の新儀と徒党の届け出、第8条で私の婚姻の禁止を定めている。そして第9条で参勤の作法、第10条で衣服の制と第11条で乗輿の制を定め、第12条で倹約を命じ、第13条で、諸国国主は政務の器用を選ぶこととして、国主たるものの条件を定めている。
 この法令の中の様々な禁令は幕府独自のものではなく、戦国大名の家法の伝統を引くものであり、大名領国の安全を確保するための法令を全国に及ぼしたという性格を持つ。また、1・2・12条は室町幕府の建武式目の伝統を引き、大名としての嗜みを示すものであり、9・10・11条は、大名家としての格式を示す作法を定めたものに過ぎない。さらに第13条は国主(国持ち大名:一国単位の所領を持ち、室町時代以来の守護の権威と権限を継承した権威ある大名のこと)の能力条件を定めたものであるが、国主の嫡男継承が定着するとともに削除された項目である。
 内容をつぶさに見れば、何も江戸幕府になって初めて定められた禁令ではなく、室町幕府以来の武家の伝統と戦国大名としての領国の安定のための取り組みの伝統を継承し、統治権を分有する大名としてのあるべき姿を示したものであるに過ぎない。「つくる会」教科書が示したのは、このうちの6条と8条であり、大名改易の理由に使われたこの2項目だけを取り上げるのは、恣意的と言えよう。
 そして武家諸法度が制定されるに至った経過を見れば、1611(慶長16)年の3ヶ条誓紙という形で、鎌倉幕府以来の幕府法の遵守と江戸幕府より出される法令の遵守を諸大名が血判・連署して神に誓うという形をとって行われたことに見られるように、幕府の法令は幕府からの一方的な命令ではなく、大名が一味神水して一揆を組み、将軍の出す指示にしたがって天下を治めることを誓ったものなのであった。したがって武家諸法度も誓紙の形式はとられてはいないものの、その内容とも併せてみれば、日本国を統治する将軍と大名との双務協定とも言える性格を持っていると思われる。
 この法令が一方的な大名統制策だと受け取られてきたのは、武家諸法度違反を名目に大名改易がなされてきたからであり、その改易が、外様大名をつぶそうとする幕府の恣意的な施策であると長く信じられてきた結果なのである。

B大名改易は恣意的になされてはいない

 大名で改易されたものは、無嗣断絶の家を除くと、家康の時代(1602〜15)で29家、219.9万石。秀忠の時代(1616〜31)で15家、290.6万石。家光の時代(1632〜50)で20家、229.9万石。最初の3代の将軍の時代だけで64家、740.4万石。全国の総石高の4分の1弱にもおよぶ、膨大な所領の入れ替えが行われたわけである。そして改易されたのは。外様大名42家、譜代大名19家、親藩大名3家。家数だけ見ていると外様が多いように見えるが、これは実数が多いことを考慮すれば、意外と譜代と親藩の占める割合が多いことに気がつく(辻達也編「天皇と将軍」p122の表より作成)。

(a)大名改易の理由は

 そして改易の理由が問題である。
 改易の理由はさまざまあるが、統治能力なしと見られた場合(大名の不行跡や不法行為、そしてお家騒動や藩政の不公正さ、さらに大名の発狂・自殺など)と明確な武家諸法度違反の場合、さらには、将軍家に対する陰謀の嫌疑の三つに別けてみよう。

  改易の理由 外様大名 譜代大名 親藩大名
家康の時代 統治能力なし
武家諸法度違反
陰謀の嫌疑・連座
その他
小計 19 10
秀忠の時代 統治能力なし
武家諸法度違反
陰謀の嫌疑・連座
その他
小計
家光の時代 統治能力なし 11
武家諸法度違反
陰謀の嫌疑・連座
その他
小計 14

 こう分類すると、最も多いのは、統治能力なしと見られた場合である。
 外様大名では42家中の24家。譜代大名では19家中の5家、これは家康の時代では譜代大名の改易理由の半分である。家光の時代の外様が統治能力なしとの理由で改易された中には、島原の乱を引き起こした内政の不手際・過酷さを責められて改易された松倉・寺沢両大名が含まれている。
 もう一つ目に付くのが、陰謀の嫌疑を受けた大名とそれに連座した大名の多さである。外様大名では6家、譜代大名では10家、そして親藩大名では3家である。家康の時代のこれは、豊臣秀頼の1件と譜代の大久保忠隣・長安の件であり、秀忠時代のそれは、大久保忠隣連座と本多正純父子、そして松平忠輝・忠直の件。家光時代のそれは、松平忠長とその連座、さらに肥後加藤家の陰謀の件である(これについては後述)。
 親藩大名の改易の理由の全てがこの陰謀の嫌疑にあたり、松平忠輝・松平忠直・松平忠長という将軍家の弟や将軍家と並ぶ家格を持った大名が、将軍家に対する不遜な態度や取って代ろうと陰謀をめぐらした嫌疑で改易されている。そしてこの徳川家内部の覇権争いに係わって多くの譜代大名や外様大名が改易されている。
 以上のように、改易理由の統治能力なしだけで30家と半数近くを占めており、これにここでは除外した無嗣断絶という数十家を加えれば、大名改易の理由の多くは、当該の大名家に統治能力がないと判断された場合なのだ。そして統治能力なしの30家に将軍家に対する陰謀の嫌疑18家を加えるだけで48家となり、無嗣断絶を除く改易された大名総数64家の大部分を占めているのだ。特徴的なのは、武家諸法度違反に関る改易の数が少ないことである。全部で10家。私婚が2家、不正築城が1家、参勤や大坂城詰などの職務怠慢が4家。あとの3家は相続に関する不正である。
 このように大名の改易理由を具体的に見ると、武家諸法度の明確な違反を理由としたものは少なく、一般的に大名が統治能力を失っていると見られた場合が多いことと、あとは徳川家内部の覇権争いにからむ陰謀事件の例である。武家諸法度違反で大名が取り潰されたかのような常識的理解は、事実ではなかったのだ。

(b)改易を具体的に検証する

 では、以上のような大名の改易は、幕府のでっちあげ的な恣意的なものであったのだろうか。
 この点については、笠谷和比古が、改易に至った経過を個々に詳しく検討しているので、これにそって見ていきたい(笠谷著「大名改易論」、「近世武家社会の政治構造」所収)
 笠谷は大名改易を幕府が恣意的に行った例としてしばしば取り上げられる二つの例をあげ、同時代の一次資料を用いてその実相を明らかにする。
 一つは、1619(元和5)年の安芸広島城主福島正則の改易である。
 正則は豊臣恩顧の大名であり、関ヶ原の戦いを主導し勝利を得た功によってこの地位を得た。その正則が改易された理由は、城の無断改築であり、幕府執政の本多正純に事前に断って実施したのに幕府から突如無断改築だと宣告されて改易されたと言われている。
 しかし笠谷の一次資料にあたった検証によって、城の無断改築は事実であり、それは本丸・二の丸・三の丸から総構え全体にわたって石垣の組みなおしから櫓の立て替えに及ぶ大規模なものであった。そして幕府年寄衆は当初、将軍秀忠が厳罰に処するとしていたのを抑えてこれを穏便に済ますこととし、無断改築は不問に附し、広島城を本丸のみ残してあとは破却することで武家諸法度違反には問わないとした。またこの幕府の方針は福島氏も受け入れたのだが、城の破却に際しては、本丸については壁や櫓・石垣までかなり大規模に撤去したが、他には人手不足を理由にして手をつけなかった。幕府の方針どうりだと広島城が裸城になってしまうのを怖れたのであろう。しかし2度にわたって幕府の指示に従わなかったことが再び将軍の耳に入り、将軍の厳罰の方針を抑え切れなくなった幕府年寄衆が、福島氏の改易を決定したのが事実経過であった。
 もう一つは、1632(寛永9)年、大御所秀忠が死去して将軍家光の親政が開始された直後の、肥後熊本城主加藤忠広の改易事件である。
 肥後加藤氏は豊臣恩顧の大名の中心人物であり、関が原の戦いにおいては、大部分大名が西軍についた九州にあって東軍側で奮闘した加藤清正の子孫である。1619年の福島氏に続いて豊臣恩顧の大藩の大名を改易したこの事件は、幕府老中の土井利勝を首謀者として徳川将軍家の転覆を企てる密書が世間に流され、その密書の発給者が加藤忠弘の嫡子光広であったというもの。これも豊臣恩顧の大名をつぶそうとする幕府の陰謀であったと言われている。
 しかしこれも笠谷が当時の第一次資料に当たったところ、加藤光広が密書を配布したのは事実であり、「将軍が日光社参の不在のおりに老中土井利勝は挙兵すべきであり、その折には荷担するつもりであるから同意すべし」という、老中に謀叛を勧める内容の密書であった。そして光広がこれを書いて配布したのは単なる悪戯であり、加藤家の側もこれを認めて蟄居謹慎したが、家光親政が始まったばかりであり、徳川氏内部には、前将軍秀忠の執政であった老中土井利勝と家光の付和が伝えられ、さらには家光の弟の駿河大納言忠長を家光に代わって将軍に立てようとの動きがあると伝えられている中でのこの密書の流布である。単なる悪戯にしてもことは重大な局面を生み出す怖れ在りとして、加藤氏の改易が決まった。これが事実であった。

(c)改易の理由は公開された

 そしてこの事件で特徴的なのは、幕府は加藤氏を改易する前に、江戸に在府中であった伊達・前田・島津・上杉らの外様大大名を将軍家光の前に集め、件の密書を示して事件の経緯を将軍自ら説明し、改易に処する処断への賛同を求めた後に改易を決定し、江戸城に諸大名を集めて事実経過と処分内容を公表していることである。
 つまり幕府は肥後加藤氏の改易を一方的に押しつけるのではなく、事件が重大であり、しかも加藤氏が豊臣恩顧の外様重鎮であり、改易が幕府の恣意的な外様潰しと受け取られかねない中で、資料を公開するとともに、事実経過を詳しく説明して、諸大名の同意を得ているのである。そしてこの公開の原則は、なにも肥後加藤家の問題に限られなかった。
 資料で確かめられる範囲でも、多くの大名の改易事件に際しては、江戸在府中の大名かその老臣を集めて事実経過の説明と処分内容を説明し、この際に国許に帰っている大名に対しては、江戸留守居役に対して老中から事情説明の奉書を発給して国許に送らせたり、場合によっては、老中が私信で国許にある大名に詳しい事実経過と処分内容を説明するのが通例であった。中には、1633(寛永10)年に無嗣断絶となった出雲堀尾氏の場合では、当主から生前に領地返上の申し出があって断絶となった経過が詳しく説明され、さらに1644(寛永20)年の会津加藤氏の場合では、当主が生前に自分が病気となりあとを任せられる老臣もいないとして所領の返上を申し出、これに対して将軍家光や老中松平信綱は、嫡子がいるのだから嫡子に相続させて隠居するがよいと説得したがこれも断られ、やむなく断絶となった旨が説明されている。無嗣断絶や所領の返上が理由の改易などは説明する必要がないと思われるが、このような例まで、幕府は諸大名に事実経過を説明しているのである。
 先に示した安芸福島氏の改易の場合には諸大名を集めての説明は行われず、個々の大名に老中私信で説明している。この折には福島氏を改易すれば大名10名あまりが徒党を組んで幕府から離脱すると噂される状態であったため、大名を一堂に集めないで、個別での事情説明になったものと思われる。そしてこのとき、城の破却を条件にお咎めなしと決まったときには、在府中の有力大名を召集して事情説明を試みようとした形跡があるが、将軍秀忠が上洛中に城破却条件の無視が明らかとなって急遽改易と決まり、事前の事情説明は見送られたらしい。
 またお家騒動など、幕府の裁定に持ち込まれた場合には、江戸城での将軍親裁での審議の場に諸大名が陪席という形で審議を傍聴しており、お家騒動によって改易となるような場合には、審議過程も公開されていたのである。
 このように大名改易は、その事実経過まで諸大名に明かにされているのであり、密室で幕府が恣意的に行ってきたわけではなく、幕府も統治権を分有する諸大名には、おおいに気を使っていることがわかるのだ。

C1年ごとの参勤交代は、負担の軽減策であった

 また参勤交代の制度も大名を統制するための制度であると捉えられることが多いが、これも間違いである。
 参勤交代の制度そのものは、秀吉政権の時代から存在しており、諸大名は京都または大坂に屋敷をたまわり、家族とともにここに在住した。これは大名の秀吉に対する臣従のさまを示すものであると同時に、秀吉が諸大名の軍事力を一手に集めて掌握していることを天下に示すものでもあった。そして同時にこれは、諸大名が全国統治権を持つ秀吉の下に参向することによって、大名もその統治権に参入していることをも示していた。さらに大名が京都または大坂に居住し領国との間を往復するに際しては、畿内近国に「京都台所分」として領地が与えられており、参勤の費用は支給されていた。
 また、大名屋敷には大名の家族の居住もなされ、許可無くして帰国はできなかったため、これを人質として捉えられて来たが、公的な人質は、大名の老臣の子息などを人質として差し出していたのであり、これらの制度はすべて江戸幕府にも継承されていた。幕府は江戸に参勤してきた大名に対しては切米を支給していたのである。大名が江戸に参勤することは、統治権を分有する大名としては当然の仕事であり、公的な仕事であったからこそ、幕府も費用を支給していたのだ。
 しかし秀吉時代や江戸幕府初期の参勤交代は、時期も年限も決まっておらず、京・大坂や江戸に詰める家臣団の数も戦に備えるという名目であったから膨大なもので、その負担はかなり重いものであった。
 1635(寛永12)年に発布された武家諸法度において参勤交代が制度化され、外様大名は毎年4月を参勤および帰国の交代時と定め、1年在府1年在藩の参勤交代が成文化された。このときは譜代大名は在府が原則であったが、1642(寛永19)年には、譜代大名にも6月ないしは8月の交代と、関東の譜代大名には2月・8月の半年での交代が命じられた。
 こうして時期も年限も決められていなかった参勤交代が制度化されたことで、幕府が恣意的に実施していたものを制度化して定期化したので、負担は多いに軽減されたのである。
 なお1635年の時には、西国・東国にわけて一斉に参勤交代をしていたのだが、1637年の島原の乱の折には、西国大名が全部江戸在府中であったために、乱の初期において迅速な措置が取れなかったことに鑑み、西国・東国の一斉参勤交代を改めて、地域ごとに組みを決め、その中で交代で参勤する方式をとり、地域的な空白が生じないように改められている。

D天下普請は大名が統治権を将軍と分有する証拠

 江戸幕府は、将軍や大御所、そして京・大阪の幕府の城など、大規模な城の普請を課役として大名に課している。また諸国の大河川の付け替え工事や堤防の強化などの工事も大名に分担させ、これらは「天下普請」と総称されていた。この天下普請は、幕府が大名の力を削ぎ、将軍家の支配を強める方策であると考えられることが多かった。
 しかしこの理解も間違いである。
 普請役はもともと、将軍が家臣に課す軍役の一部であった。戦の中で、堀を掘ったり土塁を積んだり、堤防を築いたりの土木工事は、戦を遂行する上で不可欠のものであったからだ。普請役は軍役の一構成要素なのである。
 江戸時代の軍役は、さまざまな活動で構成されていた。
 一つは、純粋な軍役。将軍の行う戦に家臣が所領の石高に応じて定められて軍役人数を引きつれて参戦すること。しかし江戸時代250年間で、純粋に軍事動員がされたのは、大坂の役以後は、島原の乱や蝦夷地での「叛乱」鎮定のための動員を除けば、幕末の「長州征伐」までなかった。従って将軍家臣としての軍役奉公は、純軍事的動員以外のものになったわけだ。
 純粋な軍事動員以外には、一つは、将軍が上洛したり日光へ参ったりするときに大名が供奉すること。これは将軍の警護としての軍事動員である。二つ目は、改易された大名の城の受け取りや新しい城主が着任するまで、その城に在番し警護する役目。これも改易された大名およびその家臣の叛乱が予想されるわけで、軍事的動員の一つであった。さらに三つ目には、長崎警護役や異国警護番役といった対外的な防衛的な軍事動員もあった。そして四つ目には、江戸城の警備や大坂城の警備、さらに将軍家菩提寺の増上寺や寛永寺の警護。これは鎌倉幕府以来の大番役にあたり、家臣が主君を警護する性格を持ったものであった。また五つ目に、他領の検地がある。改易された大名の空き領地の検地を大名が命じられて行うもの。これも城受け取りと同じく抵抗が予想されるために軍事的な動員であった。
 以上の五つは、純粋な軍事動員に次ぐ、軍事的な奉公である。
 そしてその他の軍役として、城郭普請・河川普請・寺社普請があった。
 また、軍役ではないが、大名が義務的に行うこととして、各地の関所の在番や幕府から預けおかれた罪人の管理や幕府領の管理、そして、江戸城への勅使接待役や朝鮮通信使逓送役などの仕事があったのだ。
 以上の大名が将軍に対して行う奉公の内容を見てみると、これらは全て、将軍が公儀の家として全国統治を行うにあたっての業務の一部を諸大名が分担している性格を持ち、これらの奉公を行う事は、大名が将軍の持つ統治権を分有していることを示しているのだ。だからこそ「天下普請」と呼ばれていたわけだ。
 したがって諸大名が動員された城郭普請とは、全国統治権を持つ幕府の城としての性格を持つ城の普請であった。
 江戸城は将軍の御座所。伏見城や駿府城は大御所の御座所。そして二条城は首都京都における幕府の出先機関であり、対朝廷の儀式や全国統治に関る儀式が行われる公的な場。また大坂城は西国全体に睨みを効かせる場。こうした、全国統治に必要な城の普請は、公儀と呼ばれる全国政府を構成する将軍家・大名家の共同の事業だったのである。
 そして同じことは、将軍家菩提寺や東照宮の造営、さらには御所・院御所の造営や有力寺社の造営にも言える。これらは、天皇から全国統治権を委任されている公儀としての幕府の公的な事業であり、統治権を分有する大名にとっても不可欠な権威を維持するための事業なのであった。
 そして戦のない世の中になればなるほど、大名がこれらの普請役に軍役動員の基準に基づいて家臣や人夫を動員して建設作業に当たることは、大名と将軍との主従関係を確認する作業であり、将軍と大名とが共に統治権を分有する存在であることを天下に示す作業となったのだ。また、これらの城郭普請や寺社普請は近世初期に主なものの造営は終わり、以後はその修築があるだけで、普請役の中心は近世中期以後は、河川普請に移行していく。
 この河川普請は、近世初期以後に盛んになった新田開発によって、河川の河道が新田として開拓されて大規模な堤防が建設され、その結果河川が天井川となったことによって河川の氾濫が社会問題となったために頻繁に行われるようになったものである。そして大規模な河川になると弱小な大名や旗本では単独で堤防の修築も出来ないし、しばしば大名領の境界にあたる河川であるために、複数の大名を動員せねばならず、当初はこのような河川の普請は、幕府の専権事項となっていた。しかし大規模水害が頻発して河川普請が繰り返されるに従って幕府財政は悪化し、このため大名に対して「お手伝い」普請と称して、全国的な広域的な治水事業への大名の参加が促されたわけである。
 この最初は、1704(宝永元)年に畿内で行われた大和川の河道付け替え工事である。そして代表的なものは、難工事で多額の出費と人的負担をかけた工事として有名な、1753(宝暦3)年から丸2年を要した、美濃の国の木曽・長良・揖斐川の3河川の堤防改修工事であった。この3河川の治水工事を助役として担当したのが薩摩島津家であったわけだが、薩摩藩は家臣・人夫をおよそ1000名動員してことに当たったが、あまりの水流の激しさに堤防を作るための大石がしばしば流出し、堤防の崩壊を防ぐために陣頭指揮に当たっていた奉行ら80余名を死なせ、当初の予定を大幅に上回る年限と費用を要した工事であった。このためこの工事は、幕府が西国の雄藩である薩摩藩の力を削ぐ為にやらせたものだとしばしば言われているが、予想を上回る難工事であったに過ぎない。そしてこの工事をきっかけとして、以後は「お手伝い」普請は形の上では助役の大名に普請場を割り当ててはいたが、実際の工事は幕府が行い、普請費用のみ大名から納めさせる形に変更されていった。大名の負担が軽減されていったわけだ。
 このように河川普請も、公儀として全国統治を行う幕府の事業を、共に統治権を分有する大名が助けるという性格のものであり、これが多大な出費を伴うものであったがゆえに、幕府による大名の力を削減する大名統制策であったというのは、根本的な誤りなのであった。特にこの大規模河川の治水事業は、幕府の財政悪化の主要な原因であり、近世後期に至ると、幕府も一定額以上の工事とならなければ幕府が工事費を負担しないという形で、事実上治水事業から撤退してしまい、幕府が全国統治を放棄する結果となる、その原因の一つとなったのである。

(3)幕府機構は徳川氏の家政機関であった

 「つくる会」教科書は、最後に「幕府の仕組み」と題した項で、江戸幕府の仕組みを図で示し、これがどのように運営されたかについて記述している(p126)。

 将軍の直属の家臣には、1万石以下の旗本と、より身分の低い御家人がいた。将軍の直轄領(天領)と旗本領などを合わせると約700万石となり、幕府は全国石高の約4分の1を支配した。幕府の統治は、家光のころには、老中を筆頭に若年寄、目付け、各種の奉行などの役職が整い、譜代大名や旗本がその職について、合議をしながら行われた。

 この記述には間違いはない。
 だがあまりに簡潔な記述で、その意味するところが明確に示されていないので、3点だけ補足説明をしておこう。

@幕府は圧倒的な力を持つが、大名の領国支配には直接介入しない

 将軍の直轄領は旗本領などを加えると、全国石高の約4分の1、約700万石を占めていた。これを秀吉の太閤蔵入り地の約250万石と比べみると、はるかに広大であり、幕府の力はさらに強大になったように見える。そしてこれに万石以上の所領を有した243家の大名の中の譜代大名141家の力を加えるとさらに強大となり、これに親藩大名を加えるわけだから、徳川氏の力は、秀吉時代の豊臣氏をはるかに凌駕しているように見える。
 たしかに数字の上の力ではそうである。
 だが将軍の純粋の直轄領は400万石前後に過ぎず、残りの約300万石で養われる将軍直轄軍は全部で2万人程度で、軍団の規模としては、最大の大名である加賀100万石前田氏と同等の数に過ぎない。将軍直轄領の大きさは、将軍家が公儀の家として大名の所領を超える問題を全国的に処理しなければならないという、権限の大きさに比例しているのであって、全国規模で治水工事を負担しなければならないことや、その膨大な数の家臣団を養うこととも合わせて、決して大名を超越した力を持っていたとは言えないことに注意すべきである。
 しかも教科書の記述は、前政権である秀吉政権と幕府政権の全国統治のありかたをきちんと比較していない。
 先にも述べたように、秀吉は、諸国大名の領内に直接奉行衆を送りこんで検地を行い、この過程で大名領国内の経済的・政治的・軍事的に重要な地域に1万石程度の太閤蔵入り地を置き、この管理は奉行衆に委ねられた。そしてこのような大名領国支配への直接管理を指向する中で、豊臣政権に忠誠を誓ってこれに協力した大名家有力家臣を独立した大名に取りたて、この有力家臣と奉行衆の連携によって、大名の領国支配に直接介入しようとした。秀吉が大名に所領の宛がい状を渡すときには、大名家の中で大名に取り立てられた有力家臣の所領およびその石高まで指定されていたという。
 だが江戸幕府は、このような措置をとらなかった。大名の所領は大名の一元的管理下に置かれ、大名の家臣への所領宛がいもまた大名に任されていた。大名への直接介入と言えるのは、将軍の代替わりの時に大名領に派遣される巡察使だけで、これとて大名への処罰権限は持っていなかったのだ。
 江戸幕府は、関ヶ原の戦いの戦後処理を通じて、豊臣恩顧の大名を東山・東海の地方から西国に転封して空いた地域に一族や譜代の家臣を大名に取り立てて配置し、さらに大阪の役やその後の大名の改易を通じて、空いたところにも同じく一族や譜代の家臣を大名に取り立てて配置した。こうして九州や中国・四国、そして東北・北陸にも一族や譜代の大名を配置することで、大名を全国的に監視する体制を取っただけで、大名の領国支配には直接介入しなかった。また先に述べたように、幕府によって監視されたのは外様だけではなく、一族や譜代の大名も同様であった。3代家光の時代になり徳川氏の覇権が確立して以後は、それまで在府が当たり前であった譜代大名にも参勤交代が適用されたことは、譜代も他の大名と同等に扱うようになったことの現われであろう。
 幕府の力を見るのに、その所領の巨大さだけで見るのではなく、幕府がそれぞれの大名の所領の統治権には介入していなかったこととともに、幕府が大名領を超える広域的な諸問題を処理せねばならず、その財政的負担は巨大であったことや、重大な問題については、大名たちとも合議して決定していたことを明記しないと、幕藩体制について誤った認識を生む危険性があると思われる。

A幕政は家臣である譜代大名と旗本・御家人が担った

 また幕府機構は教科書が記述するように、譜代の大名と旗本・御家人が担っていた。幕府機構からは、外様大名だけではなく、徳川氏の一族の大名も排除されたのである。
 このことは、徳川氏が外様大名を幕政から遠ざけ、なるべくこれらの力を排除しようとしていた証であると従来は捉えられることが多かった。
 しかしこのような認識は誤りである。
 幕府は法的には、征夷大将軍の官位についた徳川氏の家政機関である。全国統治権を委任された徳川将軍家の家の仕事を司る機関を幕府と呼んだのだ。だから幕府機構は、徳川将軍家の家臣が担うのが当たり前。これは藩と呼ばれた各大名家の家政機関が、大名家の家臣団で担われたことと同じである。
 そして幕府機構の中で、大老・老中・若年寄・京都所司代・大阪城代・寺社奉行の要職が譜代大名によって担われたことも、幕府が本来、将軍家の家政機関であったことに基づいている。
 将軍家も大名家も、もともとその家の機構は、戦争のための組織であった。そして万石以上の大名家の軍団は、大名の当主直属の軍団と、大名家の中で万石以上の所領を有して独自の軍団を持つ重臣クラスの家臣の複数の軍団とからなっていた。この独自の軍団を持つ重臣クラスの家臣が、戦では戦いの先陣を勤め、敵と激しく切り結ぶのであり、重臣たちは、戦においては、当主の判断とは独立して独自に判断して行動する権利を有していた。そして大名当主の直属軍団は大名当主を護衛する軍団で、防御的な付属的な軍団であった。
 徳川将軍家の家臣団も、このような原則で成り立っていた。従って徳川氏の覇権が拡大・確立する過程で大名に取り立てられたのは、独自の軍団を有する重臣クラスの家臣であった。これが譜代大名なのだ。
 従って幕府機構の中で、特に全国統治に関り、各自の部署で独自の判断を必要とする先の部署が、徳川氏の重臣である譜代大名によって担われたのだ。そして狭義の徳川将軍家の家政である家臣の統制にあたる目付けや支配地の管理にあたる町奉行・勘定奉行などの仕事は、将軍家の直臣で独自の軍団を持たない中小の家臣である旗本や御家人が分担して、その役目を果たしたのである。
 だから幕府機構からは、それぞれ独立した大名である外様や親藩大名は排除されたのだ。しかし、幕府の全国統治に関る重大な問題に際しては、親藩や外様の大名にも幕政への参加が要請されていた。先に見たような、大名改易という事態に際しては、事前に情報公開に基づいて有力大名の了承を求めたり、改易に至る経過を詳しく大名に説明していることが、その実例の一つである。またお家騒動や複数の大名所領に関る審判の場合には、将軍・老中が親裁する親藩の場に、譜代大名だけではなく、外様や親藩大名も陪席という形で参加していたのもこの例である。
 徳川氏は、秀吉と同様に、全国の大名を戦闘によって屈服させたわけではなかった。彼らもまた秀吉と同様に、天皇の権威を背景に、統治権を委任されるという形で、大名をその家臣として統治権を分有する形で統合してきたに過ぎなかった。この幕府の初発の姿が、将軍家が他の大名を大きく凌駕する力を持った後の時代にも継承されたため、江戸幕府の統治の仕組みは、将軍家が他の大名を強力に統制するものではなかったのだ。この点を間違えると、近世江戸時代を充分に理解できないこととなる危険性を有する。
 幕末に外国勢力の侵攻の危険が近づく中で、幕府が諸大名を集めて開国か鎖国かを諮問したが、これは幕末に例外的に行われたことではなく、江戸幕府成立の当初からの姿の延長であったのだ。

B合議を基本とする政治体制

 最後に、「つくる会」教科書がきちんと説明している、幕府機構は合議体制であったという点について説明しておこう。
 例えば幕府の最高の役職である老中であるが、これは4〜5人の定数で、当初は何でも合議制であったが、決定に至る時間が掛かりすぎることから、通常の業務は一月交代の月番制で処理し、重大な問題は老中の合議で決定する形に、後には改められ、老中の内一人を勝手方として財政の処理を行う形に変った。
 なぜ複数の役職者が置かれて合議を行うのかというと、これは古代の律令官制以来の伝統であり、諸機構の中で合議を重ねることによって衆議を決することで、絶対的超越者の出現を規制するという意図があるものと見られる。そして幕府の最高決済権は将軍一人が保持してはいるが、通常の決定は、老中の合議で大筋決まったものを将軍の御前で披露して、将軍の裁許を求めるという形をとり、将軍の強い意向で老中の衆議が修正される場合もあるが、この場合でも、将軍と老中の合議という形態が取られていることは、律令官制における太政官(後の公卿会議)において、天皇と左大臣以下の廷臣の合議によって決定がなされていたことと同じである。
 日本の近世までの官僚機構の特色は、それぞれの部門が独立した権限を有して一定程度の自己決定権を持つと同時に、部門を超えた裁量を要する問題については、下部の部門で一定程度の腹案が作成されて、腹案を立案するに至った経緯とその決定の必要性が上申され、下部の腹案に基づいて、複数の人員からなる最高決定機関において、衆議という合議体制で決定するというものであった。江戸幕府機構もこの例外ではなく、大名の藩機構も同じ方式で運営されていた。

 以上細かく見てきたが、江戸幕藩体制というものは、従来考えられてきたような中央集権的な統一機構を有していなかったのだ。この点についての「つくる会」教科書の記述は、大名を幕府が抑圧してきたという理解は根本的に誤りであったが、他は正しく捉えていた。そして、日本において中央集権的な統一機構としての国家が成立するのは、明治維新であり、だからこそ「維新」と呼ばれたのである。

:05年8月刊の新版の記述は、旧版がさまざまに錯綜していた部分を整理し、内容的にも理解しやすいものになっている。すなわち、「徳川家康と江戸幕府」という最初の項目で、幕府が成立するまでの経過と、大まかな幕府機構のありかたを説明し、幕府は、外交と貨幣鋳造の権限だけを握っていたことを記述した。そのあとに、「将軍と大名の関係」という項目を立てて、ここに幕藩体制下での将軍と大名の関係を統一的に記述し、大名の領地経営には幕府は介入しないことが記述されている(p100・101)。しかし、武家諸法度や参勤交代の制度で、幕府が大名を一方的に統制してきたかのような誤った記述は、旧版そのままに継承されている。さらに幕府が担った事項は、外交と貨幣鋳造だけではなく、大名領を超える広い範囲の問題の処理もになっていたことは明記されておらず、この点で新版の記述も問題の多いものである。

:この項は、藤井譲治著「法度の支配」「平時の軍事力」「幕藩官僚制の形成」・笠谷和比古著「将軍と天皇」(以上は、1991年中央公論社刊「日本の近世」の藤井譲治編「第3巻 支配のしくみ」所収)、辻達也著「公武融和」(1991年中央公論社刊「日本の近世」の辻達也編「第2巻 天皇と将軍」所収)、笠谷和比古著「近世武家社会の政治構造」(1993年吉川弘文館刊)、藤井譲治著「17世紀の日本−武家の国家の形成」(1994年岩波書店刊「岩波講座日本通史」第12巻近世2所収)、笠谷和比古著「武士道と日本型能力主義」(2005年新潮選書刊)、などを参照した。


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