「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判12


12:徳川将軍家は天皇家との一体化を図った

 「江戸幕府の政治」の三つ目の項目「幕府の仕組み」の後半には、幕府と朝廷の関係について記述している(P126)。

 江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号であった。そこで、幕府は朝廷をうやまいながら同時に統制しようと努め、朝廷を財政的に支援し、大嘗祭の復興を助けたりする一方で、禁中並公家諸法度を定めて、朝廷や公家にさまざまな規制を加えた。そのため幕府と朝廷との関係はするどく緊張することがあった。

 この記述は、「つくる会」教科書独特のものである。通常の教科書は、「幕府は朝廷を統制しようとした」とだけ記述し、幕府が朝廷をうやまったということは記述しない。この教科書は日本という国は天皇を不可欠の存在としているという認識から、天皇のありかたについて詳しく記述する傾向が強い。そしてこの認識からすれば、江戸幕府の支配の根拠が朝廷から統治権を委任されていたということを明記するのは当然であろう。
 また江戸幕府にとって全国統治の権限の背景に、朝廷から統治権を委任されているというのは事実であり、これはこれまでの記述の中でも詳しく説明してきたことである。
 このことをきちんと教科書に明記すること自体は正しい。
 ただ、「うやまいながら同時に統制しようと努め」と記述しただけでは、このような相反する対応が出てきた背景を理解することができず、最後に記述した「幕府と朝廷との関係はするどく緊張することがあった」の背景も具体像も浮かび上がってはこない。せっかく幕府と朝廷との関係を単なる幕府による朝廷の統制という関係だけではないと、幕府のありかたの裏側を垣間見せる記述をしておきながら、その意味がきちんと把握できない不充分な記述になっている。

(1)幕府の基盤の弱さが生んだ朝廷に対する相反する対応

 ではなぜ幕府は、朝廷をうやまいつつ統制するという、相反する対応を取ったのだろうか。

@幕府の権力基盤の弱さ

 この問題は、これまで述べてきたような、1601年の江戸幕府の成立を持ってしても、徳川の覇権は確立されておらず、公儀の家としては、豊臣家と徳川家が並存していたという状況と照らし合わせてみればその意味は明らかとなる。
 関ヶ原の戦いは、豊臣の覇権の下での臣下の主導権争いという体裁をとったし、同時に東軍の勝利の原動力が豊臣恩顧の大名であったために、戦の後に徳川氏の優勢な状態が生まれてはいたが、家康の地位は豊臣5大老の筆頭の地位を出るものではなかった。大阪の豊臣秀頼は依然として公儀を主宰する立場を維持しており、西国には、豊臣に臣従を誓った豊臣恩顧の国持ち大名と、毛利・島津などの旧族大名が跋扈し、西国には徳川氏の覇権はまったく及んでいなかったのだ。
 したがって徳川の覇権に権威を与える背景は、公儀の家として全国統治権を総覧する豊臣家の政務委任であり、その豊臣家に全国統治権を委ねた朝廷の権威であった。そして1601年の家康の征夷大将軍任官によって次第に豊臣の統治権を幕府が実質的に奪いとりはじめても、この構造は変らなかったのだ。
 だから徳川氏・幕府は、自らがもっとも忠実な朝廷の守護者であることを内外に示す必要があった。これが幕府が朝廷をうやまう行動をとった背景である。

A朝廷との融和に努めた幕府

 幕府はその成立以来、朝廷の権威の高揚に努めている。

(a)御所・仙洞御所の造営と御料・公家所領の宛がい
 家康もこれまでの天下人がやってきたように御所および上皇の居所である仙洞御所の造営を行い、これは1607(慶長12)年までにはほぼ工事を完了している。また後陽成天皇に秀吉が寄進した約3000石の禁裏御料や諸親王の知行地についてもこれを保証して、摂家を始めとした多くの公家に対しても、それぞれの家格と家職に応じた所領を宛がってきた。
 さらに、1634(寛永11)年の将軍家光の上洛の折には、後水尾上皇に対して故後陽成院の旧領3000石に新たに仙洞領として7000石を加えて献上し、皇室御料を一挙に3倍の1万石あまりへと増加させている。そして前関白九条幸家の子に1000俵給して松殿家を再興させて6摂家としたり、さらに諸公卿の子で、無禄で禁裏や仙洞に勤めている者に対して部屋住み料として30石から100石をその家格に応じて給している。
 こうして朝廷・公家は幕府からその経済基盤を保証され、禁裏御料の1万石を別格として、1000石以上を給された5摂家以下、多くの公家が幕府からその所領を給された。

(b)朝廷諸行事の復興
 また幕府は、朝廷の諸行事を復活している。
 これはそもそもは、秀吉政権時における関白秀次の発案になるものであり、彼の時代には、諸公家の家に伝わる諸文書から、廃絶された宮廷諸行事の有職故実を調べる作業が活発に行われ、統一政権の基礎をなす権威としての朝廷の復活が図られようとしていた。この状況の中で後陽成天皇もまた、宮廷の有職故実を活発に検証していた。
 しかしこれは、豊臣政権の廃絶をめぐるさまざまな争いの中で徳川氏の覇権の確立に時間がかかり、すぐには実現しなかった。幕府は全国統治体制の整備に集中し、皇室御料などの確保や御殿の造営しかできなかったのだ。
 この過程で宮廷諸行事の復活に意を注いだのは、後水尾天皇であった。
 彼の時代に再興された行事は、正月16日の年始の祝詞を歌い舞うのを天皇が見る行事である踏歌節会や同じく正月に宮中の真言院で天皇の安穏・国家国民の安寧・護国豊穣などを祈念する後7日法、さらに諸司を任命する除目の儀も再興し、五節の行事のあとなどに天皇臨席の下で殿上人が酒宴を行い歌舞歓楽する行事である殿上淵酔も再興した。しかしその他の費用の掛かる行事は費用の負担を幕府に求めざるをえず、幕府の了解なしには実施できなかったので、再興は行われなかった。
 彼は上皇となって後に、「当時年中行事」と題する書物を編み、当時実際に行われていた宮中の行事やさまざまな作法について記し、これを後光明天皇を始めとした子息たちに渡し、「歴代の天下人の努力によって皇室御料も回復され朝廷の威光も復活しつつあるが、なお様々な宮廷行事が廃絶したままで、その様は後花園天皇の時代にもまだ及ばない」と述べて、古の朝廷の威光の復活を子孫に託した。後花園天皇は室町時代足利義教の時代に伏見宮家から皇位を継いだ天皇であるが、時代はまさに応仁の乱に至る時代であり、朝廷の様々な権限は幕府に接収され、これ以後朝廷の儀式は衰退の一途を辿っている。せめて応仁の乱以前の後花園天皇の時代における朝廷の在り方ぐらいまでには、戻したいという意向であろう。
 幕府が朝廷の儀式の再興に取り組むようになったのは、豊臣氏も滅ぼし、3代家光の親政も安定し、徳川の覇権が安定期を迎えた後であった。これは天皇家で言えば霊元天皇の時代、将軍家では第5代綱吉の時代で、17世紀の後半である。

B幕府とは独立して政治的に行動する朝廷

 しかしこの当時の朝廷は、けして幕府の傀儡であったわけではない。
 むしろ積極的に政治に介入していたと言ったほうが正しい。このことは、関ヶ原の戦いにおいて、後陽成天皇を筆頭にして朝廷が東軍と西軍の講和を目指して介入したことや、大坂の陣においても、豊臣氏と徳川氏の講和の実現にむけて、後水尾天皇が動いたことにも示されている。結局、関ヶ原の戦いにおける勅命講和は実現せず、この動きが戦いの抑制に成功したのは、丹後田辺城に立て篭もる細川幽斎への西軍の攻撃を止めさせただけで、大津城に立て篭もる京極高次への西軍の攻撃中止もならず、関ヶ原の戦いの中止もならなかった。また、大坂の陣での朝廷の講和の動きも家康によって完全に無視されて実効性はなかった。
 だがこうやって天下分け目の戦の最中に朝廷が「天下静謐」を名目に講和に動いていること自体が、朝廷が豊臣氏からも将軍・徳川氏からも相対的に自立した権威を持って、自立した動きを行える政治的主体であったということを示している。室町時代に足利義満によってその政治的権能のほとんど全てを奪われて、幕府の政治的お飾りの地位に落とし込められてしまった朝廷は、その後の戦国の争乱と織田・豊臣による天下統一の戦いを通じて、その政治的地位をかなり回復させていたのだ。
 そしてこの朝廷の独自の動きは、幕府にとって危険な側面を持っていた。
 それは幕府成立以後も朝廷は、武家の頭として全国統治権を総覧する家として豊臣氏を認め、毎年の年賀の拝礼を行うために、諸親王・関白以下の公家衆が、大坂まで参向していることに示されている。この動きは、1615年の豊臣氏滅亡の年まで続いていたのだ。つまり朝廷は、幕府が全国統治権を総覧するものとは考えていなかった。
 これは幕府にとって、極めて危険な動きであった。なぜならば、大坂城を根拠地として、今だに各地に存在する太閤蔵入り地の収入を背景として諸大名に対する統制権をも手にしている豊臣氏と、多くの西国や北国の豊臣恩顧の大名と旧族大名が連合して幕府と対抗し、この動きに朝廷が錦の御旗を与えてしまえば、幕府は存亡の危機に瀕するからである。だから幕府は、その成立以後、朝廷をうやまうと同時に、それを統制し、できれば朝廷と幕府とを一体化しようと図ったのだ。

C朝廷を統制しようとする幕府の動き

(a)公家の乱れた生活を粛清
 幕府が朝廷の内部に干渉した最初は、1609(慶長14)年である。この年の7月に後陽成天皇の寵愛する女官らと公家らの密会い・密通事件が発覚した。このときの天皇の意向は、当該の女官と公家全員を極刑にというものであったが、幕府は穏便な処置を主張して天皇の意向を無視し、女官と公家の遠島への配流と手引きした町人身分の者2名の斬罪で決着させた。この事件は、当時の公家衆の生活が戦国の遺風を受けた「かぶき者」の影響を受けており、宮中でも女かぶきが興行され、宮中で昼間から酒宴や双六・カルタなどの賭け事も行われ、公家達が誘い合わせてかぶき興行を見に行ったり、派手な格好をして酒場に出入りしたりしていた中で起きたことであった。関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、戦国の遺風がまだまだ強い中で、職を失う危険のある若い武家奉公人の間に、「かぶき者」という戦国の遺風を色濃く残した派手な装束・行動で町を闊歩し、喧嘩・争論が絶えないという状況であったが、これが公家衆にも広がっていたのである。幕府は、この頃から、溢れる失業者と彼らの間に広がる戦国の遺風の排除に苦労する。この事件もそうした流れに属するものであった。

(b)公家衆法度と勅許紫衣法度の発布
 そして幕府は、1613(慶長18)年6月、公家衆法度と勅許紫衣法度を駿府で発布した。
 公家衆法度は、その第1条で、「公家衆、家々の学問、昼夜油断なき様仰せ付けらるべき事」と定め、公家が公儀政体に権威を与える朝廷に相応しい学問と格式を備えるべきことを規定した。そして宮廷における昼夜の御番を滞り無く勤め、勤務時における衣服も正しく、参内する時刻なども旧来の伝統に乗っ取って正しく行うことを義務づけた。つまり長い戦国の世による朝廷・公家の実権の低下に伴い、宮中儀式はきちんと行われなくなっていたし、これを担うべき公家衆も充分な知識は無く、また先に見たような派手な格好をして遊び歩く者も後を経たなかった事態の改善に幕府が乗り出したわけである。そしてこの法度では、昼夜の町の徘徊や私の酒宴や勝負事を禁止し、これらの法度を守らない公家衆は流罪に処することが定められたのだ。
 また勅許紫衣法度は、高僧達に与えられる名誉である紫衣着用の勅許は、室町時代以後は将軍の推挙を経てなされるものであったが、これが守られていない事態に鑑みて、これを昔の慣例どうりに戻すことを定めたものであった。
 幕府はこうして、公儀としての自己を飾る権威である朝廷の在り方に介入し、そのあるべき姿を示すとともに、幕府こそ、朝廷の権威の守護者であることを内外に示したのであった。

(c)皇族と徳川家子女との婚姻による一体化
 またこの動きと並行して、徳川家の子女を皇族に輿入れして、婚姻による天皇家と徳川家の一体化もはかられていた。徳川の血をうけた天皇を創出し、その天皇に継続的に徳川の子女を輿入れすることで天皇家と徳川家を一体化するという、朝廷の究極的な統制である。
 徳川秀忠の娘の和子(まさこ)の天皇家への入内は、かなり早い時期から決まっていた。和子の後陽成天皇の皇太子政仁(ことひと)親王(後の後水尾天皇)への輿入れの話しは、すでに1608(慶長13)年には話題に上り、1614(慶長19)年には勅使が駿府へ下って、和子を女御として入内させる旨が家康に伝えられている。天皇家と徳川家を婚姻によって結び、両者を一体のものにしようという方策は、家康の下で進められていたのだ。ただ様々な事件が起こって入内は延期され、実現されたのは1620(元和6)年のことであった。
 徳川和子の入内が遅れた原因の一つには、天皇には幾人も妻妾がおり、その妻妾との間に皇子も生まれていたことであった。1618(元和4)年に官女四辻氏が天皇の皇女と皇子を出産していたことが幕府に知れた事件である。幕府は天皇側近の公家たちを生活の乱れの罪で流罪として、以後、徳川和子以外の天皇の妻妾が生んだ皇子女は全て、京都所司代によって闇に葬られることとなった。徳川氏の血を受けた皇子以外には位を継がせないという姿勢を幕府は示したのである。
 そして1624(寛永元)年には和子は女一宮(興子内親王)を出産して中宮となり、後水尾天皇との間に2男5女を儲けた。この5女の中の女一宮(興子内親王)が1629(寛永6)年に即位し、明正天皇となったのだ。初の徳川の血筋を受けた天皇である。
 また徳川秀忠の養女・亀姫(実父は松平忠直)は、後水尾天皇の弟・高松宮好仁親王に輿入れしている。そして2人の間に生まれた明子女王は、後水尾天皇の第7皇子花町宮良仁(ながひと)親王に輿入れし、彼は明正の次ぎに皇位を継いだ後光明天皇の急死のあとを受けて即位している(後西天皇)。こうして天皇家と徳川氏は縁戚となっていたのだ。

D朝廷統制策の失敗

 しかし幕府による朝廷統制策はなかなか進まなかった。
 たしかに公家衆に対して法度を定めて、公家としてのありかたを定めるなどということは、室町幕府も行わない前代未聞のことであった。しかしこの公家衆法度は、先に見たように、朝廷の伝統の復興という観点とそれに相応しくない公家衆の暮らしぶりの統制という範囲に留まっていたし、勅許紫衣法度それ自体も、室町幕府の衰微以後に朝廷が幕府の推挙を経ずに高僧を任命していたのを、室町幕府の旧例に戻せというものでしかなかった。しかもこの勅許紫衣法度は、1613年の制定以後もほとんど無視され続けたのだ。秀吉の朝廷推戴政策によって権威の高揚した朝廷の内部には、「武家なにするものぞ」の武家蔑視意識が頭をもたげ、この意識は、将軍家を始めとする多くの大名衆が、公家衆に比べればはるかに低い身分からの出自であって武力で成りあがったものであったという事実によっても裏付けられていた。そして幕府は、朝廷側が法度を守らないことに対して、強硬な措置はとれなかった。
 なぜならば幕府にとって朝廷は、その全国統治権に根拠を与える権威であり、大坂に幕府に対抗できる豊臣氏が存在する以上、朝廷と幕府との間を険悪なものにすることはできなかったのだ。そしてこの状況は、1615年の豊臣氏の滅亡以後も続いた。
 幕府は、豊臣氏の滅亡をうけて新たに禁中並公家諸法度を1615(元和元)7月に発布して幕府の存在とその朝廷対策の指針を再確認し、さらに諸寺院法度も発布して、僧侶の出世に関する規定や上人号や法衣に関する規定も定めたのだ。
 しかしこれも1613年の法令の再確認にすぎず、法令違反も追及されなかった。

E禁中並公家諸法度は統制のためのものではない

 禁中並公家諸法度は、その内容をその歴史的背景も含めて詳しく考察してみれば、けっして朝廷を統制しようとするものではないことがわかる。江戸幕府がやったことは、室町幕府以来の幕府と朝廷の関係を継承して、いかにして相互関係を円滑にしつつ共存するかということだったのだ。

(a)禁中並公家諸法度の内容
 1615(元和元)年に出された禁中並公家諸法度は、17ヶ条からなっている。
 第1条は、天皇についての規定であり、天子の励むべき諸芸能の第1は学問、第2は和歌、第3は朝廷の儀式や祭りごとが滞り無く行われるように有職故実を学ぶべきと定めている。これは、この諸法度に先駆けて、1613(慶長18)年に定められた公家衆法度の第1条で、公家衆は家々の学問に励むことと定めたことを天皇にも及ぼし、天皇家の「家業」の在り方を示したものである。
 また、第2・3条では、朝廷内における親王や大臣の座席順を定めたもので、第4条では、公家はそれぞれの家格に準じて官に着くものであるが、それに相応しい器量を持ったものでなければならないと定め、続く第5条で、大臣・関白でそれに相応しい器量を持ったものであるならば老齢に達しても辞任する必要はなく、また一度辞任したあとでも再任は可能であることを定めている。 さらに第6条は公家の家督相続に関するもので、養子を迎える場合には、同姓つまり男系の親族を選ぶべきことを定め、公家の家の継承の在り方を定めている。
 また第7条は、武家の官位は公家の官位とは別個に任命することを定めたもので、幕府創設以来、朝廷に要請していたことを再規定した。
 そして8条では改元の基準を示し、9条は天皇の衣服および諸臣下の衣服を規定し、第10条は諸家昇進の次第を規定し、それぞれの家の旧例を遵守すべきことが定められ、しかし才あるものは旧例にとらわれることなく昇任させることも定めた。
 さらに11・12条は処罰規定で、朝廷を管理・統制・運営する関白・武家伝奏・諸奉行の申し渡しに公家たちは従うべきことを定めた。
 また13条以下は、僧侶の問題を定めたもので、13条は門跡の席次、14条は最高の僧侶である僧正任官の基準、15条もその他の僧官についての任官の基準を定めたものである。そして16条は以後問題になった項目だが、寺院のうちで紫衣の勅許を得るような名刹の住持職任命の基準を定めたもので、紫衣の勅許にはそれに相応しい人物を選ぶべきことを定めて、その修行年限などを具体的に定めた。
 最後の17条は、知徳を備えた僧侶には朝廷は上人の号を与えてきたが、これも相応しい人物が選ばれるべきものとして、その基準を具体的に示した。

(b)先例に基づいて朝廷の在り方を示したもの
 禁中並公家諸法度の内容は以上の通りであるが、この法度にはどのような意味があるのだろうか。
 第1条の天皇の行いを定めた条文は、従来は天皇を政治から遠ざけるためのものと解釈されてきたが、この文章は、鎌倉時代の順徳天皇が子孫への訓戒として認めた「禁秘抄」の内容を踏まえたものであり、唐の太宗皇帝が政道の得失を論じた「貞観政要」などに書かれたことを参考にしたもので、君主として身につけておくべき政治的教養を定めたものと解されるようになった。要するに在るべき天皇の姿を伝統に乗っ取って定めたものと言えよう。
 また、続く2〜5条は公家の席次と任命の基準を規定したもので、この中で官職に相応しい器量の持ち主を選ぶべきと定めたのは、先の公家衆法度で「公家は家の学問に励め」と定め、そして今回の法度で天皇の「器量」を定めたと同様なことを、公家衆にも定めたに過ぎず、武家諸法度で国主の条件を定めたのと同様に、あるべき公家の姿を規定したものにすぎない。
 そして11・12の処罰規定とも合わせてみれば、朝廷における総括責任者が関白と3大臣であり、これに武家伝奏と諸奉行を合わせた役職で朝廷を運営するものであることを定めたと言えよう。
 さらに、16条と17条の僧侶の任命についての事項は、朝廷の権限を幕府が侵すものであると従来は認識されてきたが、この紫衣の勅許や上人号の勅許の際にそれに相応しい人物を朝廷に推挙する権限は、室町幕府以後は将軍の権限に属しており、近年はその将軍の推挙なしにこれらの僧侶に関する勅許が出されていることを戒めたもので、室町幕府以来の朝廷と幕府のあるべき関係に戻すべきことを定めたにすぎないと理解されるようになってきている。
 以上、少し細かくなったが具体的に禁中並公家諸法度の規定を詳しく見てきた。この法度は従来は幕府が朝廷を統制するものと認識されてきたが、この法度で定めたことは、朝廷や天皇・公家のありかたを先例に沿った形で定めたもので、けしてこれを統制しようとするものではない。むしろ幕府からすれば、当時の朝廷の在り方が先例に違反したもので、これを先例に沿った相応しいものに改めるために、朝廷の守護者として、その基準を示したということなのであろう。
 たしかに幕府が朝廷のありかたを法度として定めたのは、これが歴史上最初である。その分だけ公家衆の反発はあったであろうが、朝廷・公家衆・寺社の経済基盤まで提供している大檀那としての幕府が、自身を朝廷の最高責任者である関白・3大臣の上に置いて、この立場から、朝廷・公家・有力寺社の在り方と朝廷・幕府の関係まで定めたものと言えよう。

(2)幕府の対朝廷強攻策とその破綻

 こうして幕府は、朝廷をその統制下に置こうとして、さまざまな方策を講じて法令を発布したが、朝廷の統制はなかなか思うにまかせなかった。しかし1615年に豊臣氏を滅ぼしたことで徳川氏の覇権はようやく安定化に向い、将軍秀忠は、1623(元和9)年2月に、将軍家に対してとかく不遜な態度を示した越前松平家の松平忠直を改易に処したあと、7月には征夷大将軍職を嫡子の家光に譲った。そして1626(寛永3)年には、朝廷と幕府とが一体であることを示す、一大行事を挙行した。

@二条城行幸

 1626(寛永3)年9月の、後水尾天皇の二条城行幸である。
 この行幸に先だって二条城は大規模に増改築がなされ、御殿・庭園が一新されるとともに本丸が築造され、行幸御殿をはじめとして、おびただしい数の御付きの女官たちの長局などが新築・増築された。そして二条城に天皇を始めとして中宮・女院・女一宮を始めとする皇族や女房衆、公家衆を迎えて、行幸の儀は盛大に5日間にわたって行われた。この儀式には諸大名が参列し、諸大名の前で大御所秀忠と将軍家光は、天皇の前に臣下の礼をとったのである。
 この行幸は徳川氏と天皇家とが一体であり、徳川氏の覇権は天皇の権威の下にあることを天下に示す行事として、かの豊臣秀吉が行った後陽成天皇の聚楽第行幸に比すべき出来事であった。

A突然の対朝廷強攻策−紫衣事件

 こうして朝廷と幕府との一体化は進み、朝幕関係は安定したかに見えたのだが、幕府は翌年、突然朝廷に対する強硬な対応に転じた。
 1627(寛永4)年、幕府は勅許紫衣法度・諸寺出世法度の規定違反の問題を取り上げた。そして1615年以後に勅許を持って授けられた五山十刹の住持職(紫衣)および浄土宗の上人号はすべてその効力を停止された。
 ただこの決定は従来考えられてきたような、一方的な勅許の無効宣言ではない。住持職を得て紫衣の着用許可を受けたり上人号を授かったりしたもののうち、1615年以後の者で幕府の推挙によらないものはすべてその資格を一時停止し、本人の器量も再吟味した上で天皇の裁可を得て、再度任命するというものであった。言いかえれば、幕府の推挙を経た上でという、手続き上のことを問題にしたに過ぎなかった。しかし幕府のこの動きは、朝廷の権限と言えども幕府の裁可を経ずして執行できないものであることの再確認を迫り、朝廷の動きを、幕府の統制下に置こうというものではあった。突然の態度豹変である。1613年の最初の法度発布以来問題にされなかったことを、今更のように蒸し返したのはなぜであったのか。
 しかし寺院の側の対応は、幕府が期待したものではなかった。有力寺院の内部は2つに割れ、幕府の意向に添う者と反対する強硬派とに分かれ、容易に幕府の意向に従おうとはしなかった。困った幕府は、翌1628(寛永5)年になると、住持職を停止されたもののうちで、推挙条件の30年の修行に満たないものでも寺院の正式の手続きで出世したものや50歳を過ぎて出世したものには住持職を許し、以後は寺院法度を守ると言う誓約書を出させることで、事態を収めようとした。しかし強硬派は、幕府が定めた仏僧の器量という推挙の条件自体の是非を問題にして、決定の撤回を求める抗弁書を連名で幕府に提出したのであった。
 ここに至って幕府は困惑した。なぜなら幕府が定めた法度そのものの有効性を問題にされたからであり、これは幕府の権威を否定されたに等しいものだったからである。この抗弁書の提出は、「上様と公事をしそうろう様なり」と受け取られ、1629(寛永6)年2月には、抗弁書に連署した沢庵・玉室・東源の3高僧はそれぞれ配流となり、1615年以後に幕府の許可を経ずして紫衣を着たものは全てみな剥奪されることとなり、その勅許が全て廃棄される事態となったのだ。
 幕府の権威を確立しようとして強硬に抵抗された結果、幕府は勅許の廃棄という、朝廷の権威を傷つける措置を取らざるをえない所に追いこまれたと言えよう。そしてこれが、後水尾天皇と幕府との軋轢を生み出し、その結果、徳川氏の血をうけた天皇の創出という、幕府草創以来の朝廷と幕府の一体化政策まで、破綻に追いこんでしまったのだ。

B後水尾天皇の突然の譲位事件

 1620(元和6)年に後水尾天皇の元に入内した徳川和子は、二条城行幸によって幕府と朝廷とが一体であることが天下に示された1626(寛永3)年の11月、皇子を産んだ。そしてこの皇子は、誕生からわずか12日後には親王宣下が行われ高仁(すけひと)と名付けられ、後水尾天皇の次ぎの皇位継承者に擬せられたのである。
 この皇子の誕生は、幕府草創いらい徳川氏が待ち望んだものであり、朝廷の側でも高仁親王の即位は天皇家と徳川家の融和が成り立つものとして歓迎されていた。皇子誕生の翌年、1627(寛永4)年4月には、天皇の若宮への譲位の意思が幕府に伝えられ、若宮が数え年で4歳になったおりには、若宮への譲位が実現する運びとなった。しかし高仁親王は数え年3歳の、1628(寛永5)年6月に病のために死去してしまった。そして同じ年の9月に中宮和子が再び皇子を出産したのだが、この皇子は10日と持たずに死去してしまった。こうして相次いで徳川の血を受けた皇子が死去したことで、徳川の血を受けた天皇を創出する企ては、頓挫してしまった。
 だが天皇も中宮もまだ若いので、皇子の誕生は引き続き期待されていた。
 この期待を決定的に打ち砕いてしまったのは、1629(寛永6)年11月の、後水尾天皇の女一宮興子内親王への譲位と明正天皇の即位であった。
 この譲位と女一宮の即位とは、幕府にはまったく知らされていない突然のものであり、朝廷においても事前に知っていたのは、天皇側近の数名の公家だけであった。事態を知らされた幕府はおおいに慌て、むりやり明正天皇を退位させて後水尾天皇を復位させることも検討されたのではあるが、翌月には進行した事態を追認して、新帝の即位の儀式は、翌1630(寛永7)年9月に執り行われた。幕府は、事態を強制的に突破することはできなかったのだ。
 幕府にも事前に知らされないでの譲位・即位が行われた背景には、幕府が朝廷を自己の統制下に置こうとする動きに対する天皇の不快感があった。
 それは一つには、さきの紫衣事件における幕府の強硬な措置であった。抗弁をした3高僧が流罪に処せられ、一度に勅許が70枚ほども反故にされたことは、朝廷権威の重大な失墜と受けとめられたのである。しかもこの事件の裁定の渦中では、後水尾天皇自らが幕府に対して穏便な処置を求めていたのに、これすら幕府が無視したのであるから、天皇の怒りはかなりのものであったろう。
 そしてもう一つは、徳川の血をうけた天皇を創出するために幕府がとった強硬な措置であった。1618(元和4)年の官女四辻氏事件以後、徳川和子以外の天皇の妻妾が生んだ皇子女は全て、京都所司代によって闇に葬られることとなった。徳川氏の血を受けた皇子以外には位を継がせないという姿勢を幕府は示したのである。だから高仁親王の死去以後も、再三病気治療を理由に、そのうちに和子との間に生まれるであろう皇子に、女一宮のあとに皇位を継がせることを条件にして女一宮への譲位を表明した天皇の意思も、何度も無視されたのであった。こうした幕府の行動を、朝廷・天皇の権威無視と受け取った後水尾天皇は、幕府に無断で女一宮への譲位を強行したのであった。そして女帝は生涯独身を貫くものと観念されていたゆえに、明正天皇の即位は、徳川氏の血を受けた天皇の継続という幕府の政策の頓挫を意味した。
 この後退位した後水尾上皇は、多くの妻妾との間に多数の子女をもうけ、その一人である第4皇子の紹仁(つぐひと)親王が10歳になると、1643(寛永20)年、皇位は彼に譲られた(後光明天皇)。そして1654(承応3)年9月に後光明天皇が22歳の若さで疱瘡で死去すると、後水尾上皇の第7皇子の良仁(ながひと)親王に継承され(後西天皇)、さらに1663(寛文3)年に後水尾上皇の第19皇子の識仁(さとひと)親王に譲られた(霊元天皇)。こうして、徳川氏の血を受けた天皇を創出し、徳川氏と天皇家を一体化することで、朝廷と幕府の一体化を図ろうとする幕府の方策は頓挫したのであった。

(3)朝廷との融和に努めたその後の幕府

 後水尾天皇の突然の譲位を認めるしかなかった幕府は、その後朝廷との融和に努める形に対応を転換した。
 1630(寛永7)年9月、上京した老中と京都所司代は、摂政一条家を訪れて、禁中の管理も公家の家学・法度の励行監督も本来関東に属するものだが、今後は摂家の責任において実行することを申し渡した。これは摂家よりも将軍家が上位にあることを再確認してはいるが、朝廷の管理監督を摂家に委ねたことを意味し、幕府が朝廷を直接統制する政策を転換したことを意味している。そしてこれは、1632(寛永9)年1月の大御所秀忠の死去と将軍家光の親政の開始によってさらに加速された。
 幕府は、1632(寛永9)年7月には、先の紫衣事件で流罪となった沢庵ら3高僧を赦免し、その後彼らの主張に耳を傾けた家光は、1635(寛永12)年には、住持職推挙の条件などを変更し、朝廷・寺院の側の主張に歩み寄った。
 そして家光は、1634(寛永11)年6月、明正天皇即位の祝賀を名目にして総勢30万7000人あまりの大軍勢を率いて上洛した。この上洛において家光は、先に述べたように皇室御料を一挙に3倍に増額するなど公家衆にも所領の大盤振る舞いをし、さらには京都の町人にも銀12万枚を与え、約3万5000戸の各家あたり銀3枚余りという大金を振舞った。また、大阪・堺・奈良の町人に対しても地子銀を免除するなど、上方衆には、上は朝廷から下は庶民に至るまで気前よく振舞ったのであった。
 幕府はその圧倒的な力を見せ付けて朝廷の独自の動きを牽制するとともに、幕府は朝廷の権威を認め、これを守護する存在であることを改めて示したものと言えよう。
 この旅の直後の9月には、家光は日光東照社社参の旅に出て、ただちに東照社の大造営に着手し、この工事は翌々年1636(寛永13)年春までに、金56万両余りの大金を投じて完成した。そしてこの日光東照社に対しては、1645(正保2)年に朝廷から宮号が勅許されて日光東照宮となった。1616(元和2)年に死去した徳川家康の遺骸は翌1617年に日光に移され、朝廷から家康に東照大権現の称号と正一位が送られていたが、こうしてその御霊をまつる社が日光東照宮とされ、さらにその翌年1646(正保3)年4月からは毎年家康の祭日に奉幣の勅使が派遣されるようになり(日光例幣使)、日光東照宮は同じく毎年奉幣使が派遣される伊勢神宮と並ぶ、高い社格を誇る武家の神宮ともいうべき存在となっていった。この時代以後家康は、「東照神君」「権現様」と呼ばれ、幕府は神君の権威の下に諸大名・武士の統合を図るようになる。
 この東照社を東照宮と改める宣命には「公武繁栄」の基は東照大権現のお恵みであるという文言が載せられ、こ朝廷と幕府とは融和・共存する存在となっていったことを示している。
 そして幕府と朝廷の融和は、5代綱吉の時代になるとさらに進み、多くの宮廷行事が復活された。
 この時代に復興された宮廷諸行事は多いが、主なものをあげれば、1679(延宝7)年8月の石清水放生会、1694(元禄7)年4月の賀茂祭(葵祭)、1687(貞享4)年の大嘗祭。そしてこれらの行事の費用は幕府が負担した。賀茂祭は米1330石で以後毎年幕府はこの費用を負担している。また1687年の大嘗祭の復興は、本来は米3545石程度掛かるものを、幕府が再興にあたっては特別予算を計上するのではなく、儀式を簡略化して譲位・即位の費用の中から支弁することという条件をつけたため、費用は譲位・即位費用の7202石の中から1934石を当てて、かなり儀式を簡略化して実施している。
 この大嘗祭の再興に見られるように、幕府は朝廷の意向にそってすぐさま朝廷儀式の再興に同意したわけではなかった。それぞれの儀式には膨大な経費がかかり、それは全て幕府が負担したからである。そして宮廷儀式が活発に再興された将軍綱吉の時代にはすでに幕府財政は苦しくなっていた。だからこそ、儀式の復活にはさまざまな条件が付けられたのである。幕府が積極的に財政支出も行って宮廷儀式の復興にあたったのは、18世紀になってから。8代将軍吉宗の時代以後で、幕府財政が改革によって一時的に改善されたことと、動揺する幕藩体制の権威を高めるために、朝廷の権威を高め、これと一体になった幕府の権威を高める必要が認識された時代であった。
 このように宮廷諸行事の復興は、幕府の意向次第であったが、ともかくも応仁の乱以後の長い中断を経て、ようやく少しずつ復興していったのだ。
 また天皇家と徳川家の一体化の動きも、幕府草創当初の形とは逆の動きとなって進んで行った。すなわち、天皇の娘を徳川将軍家の正室に迎え、これによって将軍家の権威を高めようという動きだ。その最初は、1715(宝永5)年の将軍家継・6歳と霊元天皇の皇女八十宮吉子(よしこ)内親王・2歳の婚約である。この婚約は翌年家継死去したため実現しなかったが、幕府財政の悪化による治水などの全国統治からの撤退や将軍継嗣の不在などで揺れた幕府の権威を、天皇家との一体化によって補おうという動きである。
 「つくる会」教科書が、「朝廷をうやまい、大嘗祭の復興などを助けた」と記述したのは、幕府草創期のことではなく、5代綱吉から8代吉宗に至る、江戸中期のことであった。
 こうして朝廷を統制しようとする幕府の政策は破綻し、幕府はその全国統治権に権威を与える存在として朝廷をうやまい、その儀式の復興なども通じて、朝廷の権威の高揚を図るものへと幕府政策は変化して行ったのだ。

(4)まとめ:幕府と朝廷−徳川家と天皇家との一体化が失敗したわけは−

 初期の幕府は朝廷を統制し、それを乗り越えようとしていたふしが見られる。朝廷・公家・寺社の動きを統制する様々な法度を打ち出し、徳川氏の血をうけた天皇を創出しようとする動きなどには、その片鱗が垣間見られる。そして1616年に徳川家康が死去したときに朝廷から家康に神号を賜って、家康を鎮護国家の神として祭ろうという動きにも、同じ狙いが見られる。
 しかし幕府が朝廷を統制し、これを乗り越えようと言う方策は失敗した。
 この背景には、徳川の血をうけた皇子が夭折するという偶発的な要素が絡んでいるとはいえ、この真実の基盤は、徳川氏の覇権の基盤のぜい弱さである。徳川氏の覇権確立の出発点となった関ヶ原の戦いが豊臣恩顧の大名の力で勝利を得たもので、この結果として徳川氏の覇権の及ばない西国が生み出され、これは豊臣氏の滅亡によっても変らなかった。それゆえ幕府は、諸大名を軍事力で圧伏したわけではなく、幕府に全国統治権を付与する権威である朝廷の力に依拠しながら、大名たちの力も借りながら公儀として日本を統治していくしか方策はなかったのである。
 この現実が、統制しようとした朝廷・公家衆の抵抗を打ち破ることを不可能にし、摂家を頂点とした朝廷機構との協調によって国政を運営していく道を幕府に選ばせたのだ。これは大名との協調によって幕府が全国統治を行ったことと対をなしている。
 江戸幕府が、従来考えられてきたような中央集権的な絶対的な権力ではなく、多分に分権的な権力であったことが、朝廷をして、それから半ばは自立した権威として存続する基盤を与えたのだ。そして江戸中期以降の幕藩体制の危機の局面において幕府は、今まで以上に朝廷の権威に頼ることで全国統治権を維持しようと試みる。これが幕末における朝廷の政治的発言権の強化と明治維新を生み出した源泉ともなるのだ。

:05年8月刊の新版の幕府と朝廷に関する記述は、旧版とほとんど文言も変らない。ただ、「幕府と朝廷との関係がするどく緊張することがあった」という記述は削除され、「朝廷をうやまいつつ統制する」という矛盾に満ちた対応であったことを伺わせる記述はなくなってしまった。さらに「大嘗祭の復興を助けた」ことも削除され、記述はきわめておとなしい平板なものになっている。

: この項は、辻達也著「徳川政権確立過程の公武関係」「公武融和」、米田雄介著「朝議の再興」(1991年中央公論社刊・辻達也編「日本の近世第2巻 天皇と将軍」所収)、今谷明著「武家と天皇−王権をめぐる相剋−」(1993年岩波新書刊)、笠谷和比古著「禁裏と二条城−徳川家康の対朝廷政策」「高仁親王即位問題と紫衣事件」(2000年思文閣出版刊「関ヶ原合戦と近世の国政」所収)、高埜利彦著「江戸幕府と朝廷」(2001年山川出版社刊日本史リブレット36)などを参照した。


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