「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判14
14:善隣友好は日本を中心とする華夷秩序の構築を目的としていた:江戸幕府初期の外交政策の意味
江戸幕府の政治の二つ目の節は、「江戸幕府の対外政策」である。「つくる会」教科書は幕府の対外政策を、「朱印船と日本町」「キリスト教禁止と鎖国」「鎖国下の対外関係」の三つにわけて論述している。
最初の「朱印船と日本町」では、つぎのように江戸幕府初期の対外政策について記している(P128)。
16世紀末から、大名や大商人たちが貿易のために、東南アジア方面にさかんに船を出すようになっていた。1604(慶長9)年、江戸幕府は日本船の信用を高めるため、国として認めたことを示す朱印状を船に与えるようにした。この船は朱印船とよばれ、その数は、この後ほぼ30年の間に350隻にのぼった。それにともない、日本から台湾・マカオ・東南アジア各地に渡り、兵士となったり、日本との貿易にかかわって暮らす人々が増えた。17世紀前半には、各地に日本町が誕生し、合計7000人から1万人の日本人が住んでいた。中には山田長政のように、シャム(現在のタイ)の高官になた者もいた。 またスペイン領のメキシコとの貿易も試みられ、仙台藩主伊達政宗は西欧視察をかねて、支倉常長を使節としてヨーロッパに送った。支倉常長らはローマ教皇に会見し、歓迎された。 |
(1)欠陥の多い教科書の記述
@初期外交政策の全体像の欠落
本来ここは、江戸幕府の初期の外交政策を述べるべきところである。幕府は積極的に周辺諸国との友好関係の樹立と貿易の振興を図っていた。なぜならばそれは、幕府が日本の統一政権であることを対外的にも認証させることだったからである。そしてその過程では、貿易は振興させるが外からのキリスト教の流入は極力抑制し、かつすでに国内にいる宣教師などの活動については、貿易の振興のために黙認するという、秀吉政権が内包していたのと同様の矛盾を抱えていた。そしてこの矛盾が、東アジア・東南アジアでの激しい貿易競争の過程で露呈し、結果として「鎖国」という形で、海外との通交を制限することとなったのだ。
したがって江戸幕府の対外政策を記述するのであれば、その最初には、その初期の姿全体を載せるべきである。
しかしこの観点から「つくる会」教科書の先に示した記述を検討すると、あまりに不充分な記述であり、かつ誤りの多いものであることに気がつく。
どこが不充分かというと、記述が朱印船貿易と日本町の形成に偏っていて、幕府の外交政策の全体像が全く見えないことである。周辺諸国との友好関係樹立に積極的に動き、スペインやポルトガル、そして新たに参入してきたオランダやイギリスとも友好関係を築き貿易の振興につとめたことや、朝鮮との国交回復や中国との勘合貿易復活の努力をはかったこともまったく記述されていない。このような全体の流れの中で朱印船貿易は位置付けられる必要があるのにだ。そして貿易の振興とキリスト教の広がりの矛盾については一言も触れられていない。
また誤りも多い。
A朱印船貿易のはじまりは
一つは朱印船貿易の始まりの時期。
教科書は1604年としているが、正しくは1601(慶長6)年である。この年の10月に家康の命にしたがい、長崎代官の寺沢広高がルソンの長官に書簡を送り、渡航免許保持船の入港を依頼している。そしてこれを歓迎する旨の返書は、翌1602(慶長7)年にルソン長官からあり、朱印状の尊重および関東への年1回の貿易船の派遣とキリスト教布教への支援の申し入れがあった(家康はこれに対して、キリスト教を持ちこむ事は国法で禁止されていると答えている)。家康が幕府を開く前から朱印船貿易の制度は始まっていたのだ。
これは秀吉の時代にすでに朱印船貿易の制度が始まっていたことを受けての措置である。秀吉はすでに、1593(文禄2)年のルソンとの通商交渉の中で朱印船貿易を提案しており、現物は残されてはいないが、「豊臣」の朱印を押した渡航許可証が発行されていたらしい。1601年の長崎代官の措置は、徳川家康が豊臣公儀政権の執行人となったことをうけての措置であろう。1604(慶長9)年というのは、幕府政権下で外交文書の起草にあたった京都の金地院崇伝の朱印状発行控えのもっとも古い物が1604年のものであるに過ぎない。実際に家康の印のある朱印状の現物でもっとも古いものは、1602(慶長7)年発行のものである。
Bすでに広がっていた日本人の海外在住
また二つ目に、朱印船貿易の開始に伴って東南アジアへの日本人の渡航が進み、各地に日本町ができたという記述も誤りである。
教科書も記述しているように、すでに16世紀末には、大名や大商人が海外との貿易に乗り出していた。また日本に来航したポルトガル船は多くの日本人奴隷を東南アジア地域に売りさばいたし、戦国の世が収まりつつあって戦働きが出来にくくなった武家奉公人の中には、ポルトガルなどの傭兵として海外に進出していた。
1670年にスペイン艦隊がマニラを砲撃した際に、砲撃中止を求める町の代表がスペイン艦隊の司令官を訪れたが、それはマニラにすむ40人の中国人と20人の日本人の代表であったのだ。そしてこれらの中国人と日本人は現地人とともにスペイン人と戦った。すでに16世紀の末には東南アジアの各地に日本人が渡航し、かの地で貿易に身を投じたり、現地政権やヨーロッパ人の傭兵としても活動していた。
だからこそ日本とルソンなど東南アジアの諸国との貿易の振興が問題となり、倭寇などの海賊と区別するためにも国家による渡航許可証としての朱印状が秀吉政権の時から問題となったのだ。日本人の海外渡航と海外在住が進行し、日本との貿易が盛んになったからこそ朱印船貿易が必要になったのだ。その逆ではない。もちろん朱印船貿易が盛んになることによって日本人の海外渡航が保障され、海外に在住する日本人が増えたことは確かではあるが。
C貿易の統制を幕府は始めていた
また三つ目に、教科書の記述では幕府は貿易に積極的だったという側面しか描かれていないが、幕府は同時に、その統制にも乗り出していた。1604(慶長9)年に創設された糸割符(いとわっぷ)制度である。
この年幕府は、糸割符制度を導入し、ポルトガルが日本に輸入する生糸については、京都・堺・長崎の大商人で幕府から糸割符を割り振られた商人がまず買いつけ、他の商人は、これらの「御用商人」からしか生糸を買えないようにした。この制度の狙いは、一括購入方式によって生糸の価格決定権を日本側が握り、これによって国内の生糸価格を操作できるようにすることであった。この制度は最初はポルトガルだけに適用されたが、後には中国船にも、さらにポルトガルとの貿易が断絶した後にはオランダにも適用されていった。
幕府は単に貿易の振興を図っただけではなく、その統制も図っていたのだ。これは朱印船制度にも言えることである。教科書は「日本船の信用を高めるため」と倭寇ではなく国家が認めた貿易船であることを示す側面しか言及していないが、海外への貿易船の派遣が幕府の許可制となったということは、貿易の実情を把握し、それを管理するということである。朱印船制度についても、幕府による貿易統制の側面を正しく把握しておく必要があるだろう。
(2)江戸幕府初期の外交政策
では、江戸幕府の創設期における外交政策はどのようなものであり、その中で日本から海外に渡航する貿易船に渡航許可証としての朱印を与えたということは、どのような意味を持つのだろうか。この点について詳しく見ておこう。
@積極的に通交関係を結ぶ
まず第1に、徳川家康は幕府創設以前から、外国と積極的に通交関係を結ぼうと動いており、これは幕府創設以後も続けられた姿勢であった。
当時の日本をめぐる国際情勢は、秀吉の朝鮮侵略によって日本は国際的に孤立した状況となっていた。朝鮮や明は日本の再度の侵略を恐れ、明軍は1600(慶長5)年まで朝鮮に駐留し、日本と朝鮮・明両国との通交は途絶えてしまった。また1596(慶長元)年に土佐に漂流したスペイン船サン・フェリーペ号の積荷を秀吉が没収したことからスペイン船の来航はとまっており、スペインのマニラ政庁では、日本に引き上げて活動の場を失った10万余の軍隊をつかって日本がフィリピンを攻略するのではないかと恐れ、このためもあってマニラとの通交も止まっていた。これでは日本が必要とする中国産の生糸や絹織物などの舶載品がまったく入ってこない。
秀吉死後の豊臣政権の五大老筆頭となり、関ヶ原の戦いの勝利によって政権の事実上の執行者となった徳川家康にとって、このような状況を打開することは、自己の政権を国際的に承認させるためにも、また国内外の商業活動を復興させるためにも必要なことであった。しかし中国・明との通交を回復させるための接点を失っていた状況においては、朝鮮やフィリピン、そして東南アジア諸国や西洋諸国との通交を再会させ、これを通じて明との接点を回復して行くしかなかったのである。
A朝鮮との通交の回復
朝鮮との通交の回復の試みは、日本軍撤退の直後から対馬の宗氏によって行われていた。すなわち、1598(慶長3)年・1599(慶長4)年・1600(慶長5)年と、対馬から日本に連れ去られた朝鮮の俘虜が多数送り返され、通交の回復の下地が作られて行った。そして1601(慶長6)年には宗氏は、家臣の柳川調信(しげのぶ)を送って通信使の派遣を要請し、翌1602(慶長7)年にも家臣の井手智正(としまさ)を送り通信使の派遣を要請した。これは、家康の意向を受けて、宗氏が行ったことでもあった。
この要請に対して朝鮮王朝内部では激しい意見の相違があったが、1604(慶長9)年6月には日本の情勢を探る目的で日本に知己の多い僧侶に通訳や交渉官をつけて対馬に派遣し、宗氏はこの使節を直ちに京都に伴い、伏見城での家康との対面を実現した。このとき家康は使節に対して、「先の朝鮮侵略のときには家康は関東にあって兵事にはあずからなかった。したがって朝鮮には遺恨はないのだから和好を請う」と発言し、あわせて「このことを明朝へ通報することを要請する」と述べたという。
この使節の報告をうけて1605(慶長10)年には朝鮮王朝内で対日通交回復を巡る激しい議論が行われ、「侵略の謝罪と通信使派遣を要請する」日本将軍の信書と侵略戦争の最中に王墓を暴いた犯人の引渡しを条件として対馬に対日通交回復の使者が送られた。対馬宗氏は謝罪と通信使派遣要請の「日本国王家康」名の国書を偽造するとともに、島内の死刑囚2名に言い含めて陵墓あばきの犯人として朝鮮側に送致した。朝鮮側はどちらも偽物だと後に見破ったが、「隣国との友好は不可欠」との判断から、家康の信書への返答と朝鮮俘虜の返還を表向きの目的とした使節を派遣することと決定し、1607(慶長12)年に「回答兼刷還使」と称する総勢504名の第1回の通信使を送ったのであった。
こうして朝鮮との通交は再会され、その後1609(慶長14)年には対馬宗氏との間で条約が結ばれて、釜山での貿易も再開された。
B明との通交回復の試み
しかし明との通交回復は実現しなかった。直接交渉する手だてがなったのだ。
そんなおりに、1610(慶長15)年に「海上賊船」のことを訴えて福建省の海商が10年ぶりに長崎に来航した。幕府はこの商人に明国福建総督に本多正純の信書を托し、通交の再開を要請した。
信書の内容は、文禄役後の通交途絶を惜しみ、その後家康によって日本全国が統一されて国内は平和になり、朝鮮・東南アジア・ヨーロッパ人までが日本に来航していることを告げ、たまたま商人が来航したので信書を託す旨を述べている。そして、「福建船の長崎への来航と自由貿易の許可」「明皇帝から勘合符が下賜されれば日本からも遣使し、それには朱印状をもたせること」「朱印船が中国に漂着したときには薪水給与などの保護」などを要請した。要するに勘合貿易の復活を要請したものであった。
だが明からは返書はなく中国との直接の交渉・貿易は実現せず、明の海禁政策を破って来航する密貿易船との貿易や、朱印船が台湾や東南アジアへ渡航し、その地に来航する中国船との出会い貿易を行うしなかったのであった。
C周辺諸国との通交の試み
また幕府は東南アジア諸国との通交も試みている。
1601(慶長6)年に長崎代官からルソン長官に朱印船貿易の開始を通告した際に、同じ通告が、安南(ベトナム)の阮氏にも送られている。これはベトナム中・南部を支配する阮氏が安南国都元帥瑞国公として徳川家康に国書を送ったことへの返書であった。このベトナム中・南部は交趾シナと呼ばれ、朱印船がもっとも多く寄航した地域である。
Dフィリピン・メキシコとの通交
途絶していたスペインとの通交の再開はどのようにしてなされたのだろうか。
家康は密かに入国して伊勢に潜伏していたフランシスコ会の宣教師を秀吉の死後すぐに召しだし、彼の江戸滞在と一般市民への宣教を許可した。これは家康が、フィリピン・メキシコとの貿易関係を結び、関東にスペイン船を寄航させて江戸の近辺に外国貿易の拠点を築こうとしていたからである。
1598(慶長3)年末にはこの宣教師の推薦状を持参した商人を使者としてフィリピン総督のもとへ遣わし、関東への貿易船の来航と造船技師・鉱山技師などの派遣を要請した。そして翌1599(慶長4)年にはその宣教師も家康の意を受けてマニラに渡航し、フィリピン総督との交渉にあたり、1601(慶長6)年には日本に帰国し、総督の書簡と贈り物を家康にもたらした。そして家康はフィリピン総督に書簡を送り、メキシコとの貿易関係の樹立を要請したのである。
しかし1602(慶長7)年に届いた総督の返書は、朱印船の保護を約束し関東に貿易船を派遣することを承諾し、メキシコ貿易実現のために尽力することを伝えたが、宣教師に対する援助を要請したものであった。家康は、同年の9月に土佐清水に漂着し日本船と戦って捕虜となったイスペイン船エスピリト・サント号の乗組員を送還するにあたってマニラ総督に朱印状を交付し、この中でスペイン船の来航の自由と貿易の自由ならびに彼らの日本居住の自由を保障したが、キリスト教の布教のために宣教師を送ることについては拒否した。こうしてフィリピンとの通交は実現したがメキシコとの通交はなかなか実現しなかった。
家康のメキシコとの通交実現への努力は続いた。
1609(慶長14)年に、前マニラ臨時総督のスペイン人ビベロらが上総に漂着すると家康は彼らを引見し、メキシコとの貿易と鉱山技師の派遣をメキシコ総督に要請するように依頼し、彼との間で仮協定を調印した。翌1610(慶長15)年ビベロは、三浦按針が建造した船に京都の商人田中勝助ら22名の日本人を伴って浦賀よりメキシコに向かった。そして田中勝助はメキシコ総督の返書をもった使者ビスカイノを伴って1611(慶長16)年に帰港し、使者は貿易の許可を求めたが、この使節は同時に当時交戦状態にあったオランダと日本との貿易の禁止を求めたので、家康はメキシコとの交易を始められなかった。家康はビスカイノに再びメキシコ総督あてに信書を託し、ビスカイノは1612(慶長17)年出航したが渡航できず日本に戻った。これによってメキシコとの貿易は実現しなかったのである。
1613(慶長18)年に、仙台藩士支倉常長(はせくらつねなが)が藩主伊達政宗の命を受けてメキシコに出帆し、1615(元和元)年にスペイン国王フェリペ3世に謁見したのは、ヨーロッパ事情の探索とともに、メキシコとの通交を実現することが目的であり、幕府の意を受けた伊達政宗がスペイン・メキシコとの直接交渉に乗り出したものと考えられる。なぜなら政宗に遣欧使節を提案したのは1603(慶長8)年にマニラ総督の信書をもって来日したフランシスコ会のソテロであり、彼は家康から日本での布教を認められるとともに、さきのビベロとの仮通商協定締結にあたっての通訳を務めていたからである。また常長の船には、先のメキシコ副王使節のビスカイノも乗船してメキシコへの帰国を果たしており、メキシコとの通交を求める家康の信書が総督に手渡されたはずである。そして当時仙台藩には洋式外航船を建造する技術は無く、幕府が三浦按針によって養成された技術者を仙台に派遣することなくして船の建造は実現しなかったからである。しかし1611(慶長16)年に幕府はすでに禁教令を発して厳しいキリシタン弾圧を始めており、このことと政宗が一大名であって日本を代表するものではないとの理由でスペイン国王の対応は冷淡であり、メキシコ貿易は実現しなかった。
Eオランダ・イギリスとの通交
また家康は、あらたに来航したオランダやイギリスとの貿易も許可した。
1600(慶長5)年4月にオランダ船リーフデ号が豊後に漂着すると、家康はイギリス人航海士ウィリアム・アダムスを大坂城に召し出して、彼を外航顧問として優遇し始めた。そして家康は、リーフデ号の乗り組み員に日本渡航に関する朱印状を交付したので、これが契機となってオランダ船が平戸に入港するようになった。そしてポルトガル船に代る外国船としてこれを優遇した領主の松浦氏の援助を得て、1609(慶長14)年にオランダは平戸に商館を建設し、本格的に東アジア貿易に参入した。
このオランダ平戸商館は単なる出先機関ではなく、オランダのアジアにおける戦略拠点であり、初期に平戸に陸揚げされた貨物の多くは日本では売却されず、インドネシアやモルッカ諸島に再輸出され、オランダ連合東インド会社の戦略物資として転用されたという。そしてオランダは以後、中国人商人やポルトガルとも競って中国の生糸貿易にも参入し、日本の鎖国体制が確立する中でこの市場を独占し大きな利益をあげるようになっていく。
さらに1613(慶長18)年には、イギリス人ジョン・セーリスが家康に謁見してイギリス国王ジョージ1世の書簡を提出し、家康から日本渡航の朱印状を交付されて平戸に商館を開いた。
Fポルトガル・キリスト教会との関係
家康はポルトガルが独占する生糸貿易に介入すべく、初期においては、ポルトガル商人との中継ぎを独占するイエズス会を保護せざるを得なかった。
イエズス会は秀吉の死後1599(慶長4)年には早くも、長い間秀吉の通詞を勤めてきたジョアン・ロドリゲス神父を窓口にして家康に接近し、貿易の振興と布教の自由を獲得しようと動いていた。
しかし家康がイエズス会保護の姿勢を明らかにしたのは、関ヶ原の戦いの直後であった。ロドリゲス神父に長崎・京都・大阪における居住許可書を交付し、1601(慶長6)年には伏見に修道院の建設を許可し、さらに有馬・大村氏に対してその信仰を保障した。家康は、フランシスコ会を通じてマニラやメキシコとの直接通交を意図していたがなかなかうまくいかず、マニラ・長崎間の生糸貿易を独占するポルトガルに接近するためにはイエズス会を保護するしかないと考えたからであろう。そして1606(慶長11)年には日本におけるキリスト教会の頂点に立つ司教を謁見し、さらに以後、イエズス会やフランシスコ会・ドミニコ会の上長を謁見して、キリスト教保護の姿勢を明らかにしたのであった。
これによって秀吉の禁教令以後逼塞していたキリシタン勢力は復興し、1603(慶長8)年には信者30万、教会の数は190と往時の隆盛を再現した。日本市場にとって不可欠な、幕府の年寄をはじめとする多くの大名も投資していた生糸貿易を独占していたポルトガルとの関係を維持するためには、キリスト教を保護せざるを得なかったのであった。
しかし先に見たように家康は、1604(慶長9)年に糸割符制度を創設してポルトガルの生糸貿易を管理しようとしていたし、朝鮮・中国との通交回復につとめるとともに、スペイン・オランダ・イギリスなどとの通交関係を樹立し、さらに日本に渡航してくる中国の密貿易商人や海外に貿易船を派遣しようとする日本人商人にも日本渡航・海外渡航の朱印状を与えて、ポルトガルの生糸貿易独占状態を打破しようともしていたのだ。
先に見たように、この貿易回路の多角化戦略は1610(慶長15)年前後に次々と実を結び、生糸貿易のポルトガル独占状態は崩れて行った。ここにキリスト教禁令の強化と貿易と宣教を不可欠なものとして一体化するポルトガル(スペイン)を排除できる基盤が生まれていたのだ。
(3)朱印船貿易の意味と実態
以上のように江戸幕府初期の外交政策全体を通観してみると、その積極的な善隣友好政策の眼目は、政治的には徳川政権の対外的承認による豊臣の公儀の乗っ取りの既成事実化であるとともに、経済的に重要な位置を占める生糸貿易におけるポルトガルの独占状態を打破することを目的にしていたように思われる。
この観点から最後に朱印船貿易の意味を、その実態とともに考察しておこう。
@朱印船貿易とは?
幕府の発行した朱印状の数は教科書も記述したように、約30年の間におよそ350通にのぼっている。
(a)朱印船貿易の企業家
そして、この朱印状の交付を受けた者は多岐にわたっている。
大名では、島津陸奥守忠恒、松浦肥前守鎮信(しげのぶ)、加藤肥後守清正、有馬修理大夫晴信、鍋島加賀守直茂(なおしげ)、五島淡路守玄雅(はるまさ)、亀井武蔵守茲矩(しげのり)など。そして、船本弥七郎、田辺屋又左衛門、平野孫左衛門、木屋弥三右衛門、大賀九郎衛門、後藤宗印、角倉了以、茶屋四郎次郎、末次平蔵などの日本の大商人。さらに日本在住の中国人の灰吹屋林三官、李旦や、ヤン・ヨーステン、三浦按針(ウイリアム・アダムズ)などの在住外国人やオランダ・イギリス商館。そしてルソンに在住する西類子(ルイス)やシャムに在住する与右衛門、山田長政などの海外在住の日本人商人。このような多様な人々が幕府の渡航許可証である朱印状を手に入れている。
しかしこの人々の全てが実際に海外に渡航する船を用意し、これに必要な人員や資金となる資本を集めて何度も海外に朱印船を送ったわけではない。永積洋子はこのような朱印船貿易家とよべるのは、10回以上朱印船を派遣した、角倉了以、茶屋四郎次郎、船本弥七郎、木屋弥三右衛門、末次平蔵の日本の大商人と、在住外国人である、ヤン・ヨーステン、三浦按針、李旦に限られるとしている。つまり彼らは朱印船貿易の元締めであり、他の人々は彼らに朱印状の名義を貸したり資本を提供したり船頭となって船を操ったりした朱印船貿易の関係者だと。そして、彼らを幕府に紹介したのは、家康の筆頭年寄の本多正純や長崎奉行・長崎代官であった。また朱印船が出航するためには多くの投資家が資金と人員を提供して出来るのだが、その投資家には、幕府の年寄や多くの大名も含まれていたのだ。
(b)どの地域に渡航したのか?
この人々が朱印状を携えて貿易船を派遣した地域は、東アジア・東南アジアの大部分に広がっている。
30数年間にわたる朱印船貿易の全期間を通じてもっとも多数の朱印船が渡航したのは、交趾シナ、今のベトナム中部地方のツーランやフェフォである。続いてシャム、今のタイやカンボジア。さらにルソン、今のフィリピン。そして、トンキン、今のベトナム北部のハノイであるケチョウ。そして高砂と呼ばれた今の台湾であった。朱印状が発行された行き先は20ヶ所ほどあるが、多くは1回きりだったり、朱印状の発行が地域毎に毎年数が限られていたので、目的地の周辺の地名で申請したものであった。朱印船の目的地は先に挙げた6つにほぼ限られていたのだ。
注:なお、「つくる会」教科書や他の教科書にも朱印船航路という渡航先を明示した地図が掲載されている。しかし永積によればこの地図には根拠がなく、研究資料を誤読して地図上に記入したものだという。地図では朱印船が行ったとされているジャワ島のバタビアやセレベス島や香料諸島には朱印船は全く渡航していない。なぜならこの地域では、朱印船が求めた生糸などの産物を手に入れることはできなかったし、さらに当時この地域は、オランダとポルトガルが激しい覇権争いを行っており、日本人や中国人はこの地域に行くことさえ嫌っていたからである。
(c)何を交易したのか?
では朱印船はこの地域に渡航して、何をどのようにして手に入れていたのか。
朱印船で日本に持ちかえった主な商品の交易場所は、上記の6つのうちの4ヶ所であった。
交趾シナは、この地域特産の質の良い生糸やこの地域でしか産出しない黄糸の産地である。朱印船はこの地に渡航してこれらの産物を銀や銅銭と交換して手に入れる。さらにこの地域は中国からたくさんの船が公の許可を受けて渡航し、中国産の白糸・縮緬・白紗綾・白繻子・赤繻子・緞子・陶器などをもたらしていた。朱印船はこれをも銀または銅銭で購入していたのだ。
シャムは、日本人が欲しがっていた鹿皮・蘇木・鮫皮の産地であった。鹿皮は武士の常用品である革羽織や革袴・革足袋の材料であり、さらに甲冑の装飾や袋物にも用いられていた。この鹿皮は貿易の初期にはルソンから手に入れていたが、幕府がルソンにはキリシタン政策の関係で朱印状を出さなくなると、鹿皮の主な輸入先はシャムとなった(一部は台湾)。また赤い染料の原料である蘇木の煮汁で染めた蘇芳色は当時とても好まれた色であり、シャムは蘇木の特産地であり、国王は輸出用に蘇木(鹿皮も)を租税として徴収していたくらいである。さらにシャムは、当時の日本人の日用品の装飾に使われた鮫皮・象牙、そして孔雀や豹皮などの産地でも有り、さらに化粧品の材料である鉛や錫の産地でもあり、この地にも中国船が多数来航するので、交趾シナと同様な中国産の糸・織物・陶器など多数手に入れることができた。これらの産物を手に入れるために朱印船がもたらすものは、銀・銅・銅銭であり、さらには刀・槍などの武器であった。
トンキンも上質の生糸と絹織物の産地である。ここにも朱印船は銀・銅銭を運んでこれらの品物を手に入れていた。
以上が、朱印船貿易の主な交易品とその交易場所である。
先に示した主な渡航先のうちの、ルソン(フィリピン)と高砂(台湾)は、これらの交易品、とくに中国産の生糸や絹織物・陶器そして砂糖の中継基地であった。そしてルソンはキリシタン禁教令が強化された元和年間以後はほとんど朱印船は渡航せず、代って頻繁に中国から密貿易船が来航し、これらの密貿易商人とオランダが連携して中国産品の中継基地となった高砂(台湾)が朱印船の主な渡航先となった。
朱印船貿易とは、日本が当時世界でもっとも多く産していた銀と銅を輸出して、東南アジアの各地から生糸・絹織物を中心にして、さまざまな日用品の装飾に使われた材料などを手に入れるものであったのだ。
(d)どのような船で渡航したのか?
「つくる会」教科書や多くの教科書は、朱印船の代表例のようにして、長崎に伝来した絵馬に描かれた「荒木船」の画像を掲載している。
この船は、中国の航洋ジャンクを元にして、ヨーロッパのガレオン船の技術と日本の軍船の技術を取り入れた和洋中折衷の船だ。船尾の構造・舵・船尾楼・船尾の回廊はガレオン船そのもので、船首楼は日本の軍船に似て、船体より幅広で、ここに櫓をすえて港の出入りの時などに櫓で航行することができるように工夫されている。帆は折衷式で、中央と前の帆柱には中国式の網代帆がつけられ、船首部分には西洋式の斜の帆柱があって、ここと他の帆柱の最上部には西洋式の横帆が張られている。そしてこれは長崎で建造された船で、朱印船貿易家の末次平蔵や長崎商人の荒木宗太郎が使用した朱印船である。
しかし、このような和洋中折衷の船が朱印船の主流であったかどうかはわからない。当時の記録によると朱印船として典型的とされていたのは中国式のジャンクであり、中にはシャムで日本向けに建造された中国と西洋の型を折衷したジャンクもあったという。
これらの船の大きさは通常200〜300トン程度。中には先に見た荒木船や末次船、そしてシャム製のジャンクは、600〜800トンの大型船であった。そして乗り組み員は通常100人程度であり、これに資本を貸した商人などが乗りこみ、最大で400人近く乗りこんでいた例もあるという。
つまり朱印船は当時としてはかなりの大型船で、この大型船を建造したり購入したりする多額の資金と、多数の乗組員を雇い、航海に必要な物資を購入する多額の資金がなければ運用できないものであった。
A日本を中心とした世界秩序の確立
では、このような朱印船貿易とは、当時においてどのような位置を持ったものであったのだろうか。
(a)日本貿易の過半を占めた朱印船貿易
永積洋子はその著書に、カルフォルニア大のフォン・グランの論文を引用して、1604(慶長9)年から1639(寛永16)年の日本貿易の輸出入額とこれに占める朱印船貿易の割合を示している(永積著「朱印船」による)。これによると、日本の輸入額は銀で換算すると705853貫目。朱印船による輸入額は298000貫目で、全輸入額の42%を占めている(ポルトガル船が30.7%、中国船が16.2%。後に大きな位置を占めるオランダ船は、11%ほどを占めていたにすぎない)。また日本からの総輸出額は銀換算で2583195貫目、朱印船による輸出額は1053750貫目で、総輸出額の40.8%(ポルトガル船が31.5%、中国船が16.3%、オランダ船が12%余り)であった。
朱印船貿易は、当時の東アジア・東南アジア交易の中心を占めた日本貿易の過半を担うという大きな位置を持っていたのであった。
(b)日本を中心とした東アジア・東南アジア通交圏の確立
そしてこの日本貿易において大きな位置をもった朱印船は、それ自身が日本統一国家による渡航証明書を持つ、倭寇などの海賊・密貿易者とは異なる国家が認めた公の貿易船として、東アジア・東南アジアの海を駆け巡っていたのだ。
当時のこの地域の貿易は、中国明王朝が海禁政策をとっていたために地域全体としての海洋貿易の安全を保障する地域権力は存在せず、倭寇(中国の密貿易商人と日本の商人の結合体)という海賊とポルトガル・スペインそしてオランダ・イギリスによる激しい覇権争いが繰り広げられた地域であった。そしてこれらの船はお互いに、競争相手の船を見つけると武力をもって海賊行為を行い、互いの勢力を削ごうと争いあっていた。つまり東アジア・東南アジアの海は安全に航行できる状態にはなかったし、この地域で海賊の被害にあっても、その被害に対して保障したり海賊を討伐したりする地域権力が存在しない地域であった。
このような不穏な海に日本の統一権力の渡航許可証を持った船が航行するということは、どのような意味があったのだろうか。
日本統一権力としての江戸幕府が朱印状を発行したのは、前に記した朱印船貿易家だけではなく、日本に拠点商館を要するオランダやイギリス、そして日本に来航するポルトガル船やスペイン船、さらに中国船に対してであった。ということはつまり、日本の統一権力である江戸幕府が、東アジア・東南アジアの海を航行してこれらの地域と日本とを結ぶ貿易に従事する船に対して航行の安全を保障するということであり、これは日本を中心とする東アジア・東南アジア通交圏を確立することを意味していたのである。
豊臣秀吉は朝鮮・中国に出兵してここを従属させ、さらに台湾やフィリピンにも遠征を企てていた。彼のこの企ては、従来の中国を中心とした東アジア・東南アジアの世界秩序に対して、これを日本を中心とした世界秩序に組替えることを意味していた。そしてこの企ての中で彼が日本貿易の独占を意図していたことを考え合わせると、この新たな世界秩序の形成は、東アジア・東南アジアの通交圏を日本を中心に再構成するということを意味していたのだ。
豊臣政権に代って日本を統治するようになった徳川家康は、秀吉とは異なって周辺諸国を侵略するのではなく、周辺諸国との友好を旨とした善隣外交を展開した。そしてこの善隣外交と並行して家康は、日本と東アジア・東南アジアとの貿易に従事する人々に対して積極的に渡航許可書・朱印状を発行して、これらの貿易船を保護しようとした。まさに善隣外交そのものが、この地域における貿易の振興と保護を目的としていたのだ。
しかしその善隣外交の目的には秀吉が意図したのと同じく、東アジア・東南アジア通交圏を日本を中心としたものに組みかえることも含まれていた可能性が高い。
後に述べるように、徳川将軍が朝鮮からの通信使を蛮族が日本の王に臣従の礼を尽くしたと解釈したり、琉球を侵略しその支配下に置くことを島津氏に許可したり、蝦夷ヶ島との貿易の支配権を松前氏に与えたりし、琉球や蝦夷の使節を江戸城で謁見して中華としての日本の王に蛮族が臣従の礼を取ったと内外に宣伝したことに見られるように、日本を中心とした華夷秩序を構築しようとしていた。これと、積極的に東アジア・東南アジア交易を振興・保護しようとしていたことを一体のものと考えれば、これらの政策も、東アジア・東南アジアを日本を中心とした世界に組みかえることを意図していたものと考えて間違いはないと思われる。
B朱印船貿易が引き起こした問題点
しかし、東アジア・東南アジアの交易を振興させこれを保護しようとしたことは、江戸幕府にとって、とても重い課題を背負わせる結果となった。
それは一つには、日本におけるキリシタンの増加とキリスト教勢力の伸張であった。
貿易を保護されたポルトガル・スペインは、その貿易船をもって日本に多数の宣教師を潜入させて各地に信者を増やし教会を建設した。そして貿易を通じて得た利益の一部を、これらの布教活動や教会運営資金として、日本のキリスト教勢力を援助した。さらにこの過程で、キリシタン大名を中心とした人々が貿易とも結びついて大きな力を持ち、この勢力は貿易を通じて幕府の中枢にまで及んでいたのだ。
また朱印船によってもキリスト教宣教師の日本潜入はなされていたし、海外からのキリシタンに対する資金援助も行われていた。なぜなら朱印船貿易家の多くはキリシタンだったからだ。そして日本の朱印船貿易家と提携して東南アジア各地の日本町に定住して現地で商品を買いつけていた日本人商人の多くもキリシタンだった。だから幕府が後に禁教令を強化して、宣教師と信者のマニラへの海外追放を行っても、そのマニラと日本を結ぶ朱印船貿易によって、マニラを拠点とした日本へのキリスト教布教は継続された。そして朱印船のマニラへの渡航が禁止された後には、マニラのキリスト教勢力はその拠点を朱印船の主な渡航先であった交趾シナやトンキンの日本町に移転させ、ここを拠点に日本布教を継続させたのであった。幕府が貿易を積極的に振興したことが、日本におけるキリスト教勢力の伸張の基盤となってしまったのである。
幕府の貿易振興策が招いた重い課題の二つ目は、幕府が東アジア・東南アジアの海域における海賊行為取締りの責任を負い、この地域における武力紛争が日本に飛び火しかねない状態を招いたことであった。
先にも述べたように、この地域は倭寇、ポルトガル・スペイン、オランダ・イギリスによる覇権闘争の場であった。そして朱印状を持ってこの地域に乗り出した朱印船貿易家の多くは倭寇に繋がる海賊商人の流れを組んだものであった。したがって朱印船と倭寇、ポルトガル・スペイン、オランダ・イギリスは互いにこの地域の貿易の覇権を巡って互いに武力衝突を繰り返した。互いの貿易船が各地で武力紛争を引き起こしたのである。そしてこの武力紛争は海賊行為として被害者加害者の双方から幕府に調停が持ちこまれ、これにそれらのそれぞれと密接に結びついた幕閣内部の勢力争いが絡み合って、海外における武力紛争が日本における権力闘争に直接結びついていく危険性すら生み出されたのだ。
さらに東南アジア各国の政権は、シャムの山田長政の例のように、日本人の武力を高く評価し、日本人からなる国王直属の軍隊を備えていた。そしてこの日本人傭兵隊に武器を供給したのも朱印船であった。このため各地の王権をめぐる内紛に日本人傭兵隊がまきこまれ、政変にともなう混乱が朱印船貿易を通じて日本に持ち込まれ、場合によっては、明王朝の滅亡に際して、江戸幕府に明の遺臣を武力援助して清王朝との戦いに介入することが要請されたように、東南アジア各国の武力紛争に、日本が直接巻き込まれる危険すら抱えたのであった。
以上の紛争のありさまは次ぎの項で詳しく述べるが、幕府が日本を中心とした世界に東アジア・東南アジアを組替えようとしたことは、これらの地域における武力紛争にも幕府が責任を持つということを意味したのだ。
こうして江戸幕府初期の善隣友好政策は、かえって大きな問題点を幕府に背負わせることとなった。実はこれが、鎖国政策を幕府がとっていく原因であったのだ。
「つくる会」教科書の江戸幕府初期の外交政策についての記述は、朱印船貿易が行われた歴史的意味をまったく記さず、そのことによって蓄えられた矛盾が後の鎖国に繋がったことも記述していない、きわめて表面的なものだったのだ。そしてこれはおそらく、鎖国政策がキリスト教対策だけの目的でなされたというすでに否定されつつある従来の通説を鵜のみにしたからに違いない。
注:05年8月刊の新版における「朱印船と日本町」の記述は、多少表現の変更はあるが、ほとんど旧版のままである(P104)。掲載された「朱印船の航路と日本町」の地図も旧版と同じであり、01年で永積洋子が著書「朱印船」でこの図の誤りを指摘してるのにまったく正されないままである。朱印船の画像は、愛知県情妙寺蔵のものに変更された。これは中国のジャンクの形式に西洋型の横帆をつけた折衷型で、おそらくシャムで日本向けに建造されたジャンクであろう。しかしこれとて朱印船の主流であったかどうかわからないのだが、その旨の注記はまったくなされていない。
注:この項は、荒野泰典著「日本型華夷秩序の形成」(1987年岩波書店刊日本の社会史第1巻「列島内外の交通と国家」所収)、五野井隆史著「日本キリスト教史」(1990年吉川弘文館刊)、真栄平房昭著「『鎖国』日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊日本の近世第1巻「世界史の中の近世」所収)、川勝守著「『華夷変態』下の東アジアと日本」(1992年中央公論社刊日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、三宅英利著「近世の日本と朝鮮」(1993年朝日新聞社刊「近世アジアの日本と朝鮮」、朴春日著「朝鮮通信使史話」(1994年雄山閣刊、2006年改題の上、講談社学術文庫で再刊)、加藤榮一著「出島論」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第12巻近世2所収)、市村佑一・大石慎三郎著「鎖国・ゆるやかな情報革命」(1995年講談社現代新書刊)、永積洋子著「朱印船」(2001年吉川弘文館刊)、などを参照した。