「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判15


15:「鎖国」の背景には、海外の紛争から日本を切り離す幕府の政策が存在した

 江戸幕府の対外政策の二つ目の項目は「キリスト教禁止と鎖国」である。この項は、後に「鎖国」と呼ばれてまるで幕府が対外通交を完全に絶ってしまったかのような誤解をうけた政策を、幕府がいかにして取るに至ったかを説明したものである。
 この項の最後で「つくる会」教科書は、鎖国を次ぎのように規定している(P129〜130)。

 しかし、幕府には国を閉ざす意図はなかった。幕府は、キリスト教の流入を防止し、貿易と海外情報の収集を幕府自身が管理することで、諸大名を統制しながら、海外との交流を維持しようとした。そのための制度を、のちの時代の人が鎖国とよんだのである。

(1)「鎖国」の目的をキリスト教禁止だけに求めた偏った記述

 のちに「鎖国」と呼ばれた制度が、けして国を閉ざすものではなく、貿易と海外情報の収集を幕府自身が管理する制度であり、この制度の下でも活発な海外との交流が行われていたことを示唆する優れた記述である。
 しかし教科書のこの記述にも問題点がある。それは「鎖国」政策をとった目的が「キリスト教の流入を防止する」ことだけに限られていることだ。キリスト教流入の防止だけが目的なら、貿易を完全に止めてしまえばよいと普通は考えるであろう。海外との交流を完全に絶ってしまえば、その危険はかなり少なくなる。なのになぜ限定された場所で限定された国だけとはいえ、なぜ海外との交流が継続されるのか。そしてなぜ、海外との交流を幕府が独占しなければならないのか。こういった疑問が沸いてくるはずである。

@貿易を止められない理由は?

 前者の貿易を止められない理由は、海外貿易で輸入された品物が、当時の日本人の生活にとって不可欠の必需品になっていたことを説明すれば充分に理解される。
 輸入生糸は西陣織などの高級絹織物に不可欠の原料であり、高級絹織物は当時の支配階級・大商人にとって不可欠のものである。そして、輸入された絹織物も含めて、これらの絹織物は支配階級・大商人にとってだけではなく庶民層に至るまでかなり消費されていたことは、京都の祗園祭りの山車や能役者の衣装や当時流行した歌舞伎踊りの役者の衣装などに唐渡りの高級絹織物が使われていたことや、当時の絵巻や屏風絵に登場する庶民上層のものまでもが、絹織物をまとっていた事実を示せば説明できる。さらに、武士の日用品に多量の唐渡りの鹿皮や鮫皮が使われ、象牙や鼈甲などでできた装飾品は、髪飾りや根付などとして庶民の間にも流行し、多量の砂糖を使用したお菓子が流行したのもこの時代であったことを考えれば、海外との貿易を止められない理由は判然としている。しかし教科書の「室町の文化」「安土・桃山の文化」の記述にはそういう記述はないし、後の「元禄文化」の記述にもまったく存在しない。

A貿易を幕府が独占した理由は?

 後者の幕府による独占の理由は、「大名を統制しながら」という教科書の記述で多少説明されている。「南蛮貿易」の個所で、輸入されたもの中に武器や火薬が含まれていたことが記述されていた。幕府に従わない大名がいるなかで武器・火薬が大名の手に渡らないようにするのは大事なことだ。教科書はこう説明したいのだろう。従来の学説でもそう説明されてきた。しかしいわゆる「鎖国令」で貿易を統制しはじめるのは、豊臣氏を滅亡させた後の話だ。そして「鎖国」の完成はさらに30年ほどたった1641年。3代家光の治世下で、この時代にも大名の反乱の怖れがあったのだろうか。
 従来は、この時代にもたくさんの大名の取り潰しがあったので、これを幕府による幕府に反抗的な外様大名の意図的な取り潰しと解釈していたから、「鎖国」による貿易の幕府独占を、大名の統制と関連付けて捉えることは可能であった。しかし先の項で示したように、大名改易は従来説のような恣意的なものではなく、やむを得ず取り潰す際にも、幕府は大名、とりわけ有力な外様大名に対して過大とも言える配慮を示し、改易がやむを得ざるものであったことを縷縷説明している。大名改易は、けして恣意的なものではなかったのだ。
 だとすれば、大名を統制するために幕府が海外貿易を独占したという従来の説明は、根拠を失うわけである。では、海外貿易の独占の目的は何か。「つくる会」教科書の記述には、この新たな疑問に答えるヒントはまったく存在しない。
 ただ貿易を幕府が独占したのだから輸入品は幕府(御用商人)を通じてしか国内に販売できなかったのだろうから、これによる差益が幕府の収入になった可能性だけは指摘できる。しかしこれに関る糸割符制度についても教科書はまったく記述していないので、考える手がかりが全くないのだ。

B「鎖国」に至る経過はどう説明されているのか?

 要するに「つくる会」教科書の「鎖国」についての記述は、この教科書の著者たちがキリスト教との関係でしか「鎖国」を捉えていないことを示している。この点は、先の記述の前にある、「鎖国」に至る経過の説明に如実に示されている(P128〜129)。

 幕府は、貿易には熱心であったが、秀吉と同じく、宣教師やキリスト教徒をきびしく弾圧した。17世紀のはじめ、オランダやイギリスの船が来航し、平戸(長崎県)の商館で貿易を開始することが許可された(イギリスはのちに撤退)。この両国はキリスト教の布教には関心がなく、貿易の利益のみを求め、幕府に、スペインやポルトガルがキリスト教を広めて日本を征服しようとしていると密告した。そこで幕府はスペイン船の来航を禁止し、日本船の渡航もしだいに制限を加え、1635(寛永12)年には、日本人の海外渡航・帰国を全面的に禁止した。
 1637年、九州の島原半島で、キリシタンたちが、天草四郎時貞を首領にして、大規模な反乱をおこした(島原の乱)。翌年、幕府はこれをようやく鎮圧した。幕府は、こののちキリスト教の取りしまりを強化し、人々がキリシタンかどうか調べる宗門改めを行った。そして、すべての人を寺の檀家とし、その人が仏教徒であることを寺が証明する制度(寺請制度)を設けた。
 島原の乱で、幕府は海外からのキリスト教の流入をより徹底して防ぐ必要を感じた。そこで、1639(寛永16)年、ポルトガル船の来航を禁止し、その後、オランダ人の商館も長崎に移した。のちに鎖国とよばれる制度は、こうして完成した。

 キリスト教の流入を防ぐためだけに貿易を制限したという説明になっていることがよく分かる。しかし、幕府が当初は貿易を振興するためにキリスト教を黙認したばかりか、布教を保護したことはまったく触れられていない。そして大事なことは、朱印船と中国船、ポルトガル・スペインとオランダ・イギリスとの相互の間で激しい武力衝突が行われ、これとキリスト教の布教が複雑に絡み合って事件を起こし、これが幕府が貿易を制限する原因となったことはまったく触れられていない。

(2)「鎖国」を生み出した真の理由は?

 では幕府が「鎖国」政策を打ち出すにいたった真の理由はなんであったのか。このことを考えるには当時の東アジア・東南アジアをめぐる国際情勢を見ておかなければならない。

@統一権力が存在しない激動の世紀ー17世紀初頭の東・東南アジア

 17世紀初頭の東・東南アジアは、この地域を統べる国際的統一権力が存在しない空白の時期であった。
 成立当初は東南アジアから遠くアフリカにまで朝貢を促す大使節船団を送って積極的に海外との交易に介入した明帝国も、北方や西方からの異民族の侵入や倭寇の侵入の討伐に手を焼く中で次第に内向きの姿勢を明確にし、中国人商人が海外に渡航することを禁止する海禁政策をとるようになっていった。この海禁政策は16世紀後半に東南アジア向けだけは緩和されたが、依然として日本向けは許されず、従ってこの海域における交易は、倭寇の流れを組む中国人・日本人の密貿易商人が担っていた。ここに参入し、その卓越した軍事力を背景にして、貿易の実権を握って行ったのがポルトガルであった。ポルトガルはマカオに居留地を得るや、ここを基点として、長崎との間に定期航路を開設し、東南アジア・中国・日本を中継する貿易の実権を握って行った。
 しかしこのポルトガルの覇権も永くは続かなかった。16世紀の後半にフィリピンのマニラに拠点を据えたスペインは、メキシコとの間に定期航路を開設してアメリカ産の銀を大量に運び入れ、これを武器にしてこの地域の貿易に介入し始めた。そしてその強大な海軍力を背景にして、ポルトガルが支配権を握る香料諸島などの支配権を奪うべく闘争を始めた。さらに16世紀末にジャワのバタビアに商館を設けてこの地域の貿易に参入したオランダは、1609年には平戸にも商館を設けて日本貿易にも参入。次いでイギリスも1613年に平戸に商館を設けて参入した。こうして相次ぐヨーロッパ勢力の参入は、その間に激しい貿易を巡る覇権闘争を生み出し、オランダ・イギリスは連合を組んで、ポルトガル・スペインの覇権を脅かし始めた。
 さらにこのような状況の中で日本の統一権力は先に朱印船貿易の項で見たように、豊臣政権・徳川政権ともに、この地域の貿易に積極的に介入し、東南アジアに渡航する日本船に渡航許可証である朱印状を発行することを通じて、この地域の交易を日本を中心とする交易網に再編する動きに出たのであった。
 この地域の貿易の覇権を巡る争いは、中国人海賊・日本人や日本在住外国人による朱印船、そしてポルトガル・スペインとオランダ・イギリスの勢力が互いに争いあう混乱した状況に入っていったのだ。
 また同時に17世紀は明帝国の衰えが目立ち、明は満州の女真族の侵入に手を焼き、内政の混乱も深まって、この地域に対する統制力を完全に失っていた。そして1644年、明は反乱によって滅ぼされ、その混乱に乗じて明の首都北京を落とし入れて清帝国を築いた女真族も、明の遺臣などを掃討して中国全土に対する統治権を確立するには、なんと1682年までかかったのであった。17世紀という時代は、まさにこの地域を統べていた中国という国際的統一権力が完全に崩壊した、権力空白の世紀だったのだ。したがってこの地域を日本を中心として交易圏に再編しようとした幕府の初期の政策は、地域の混乱をまともに受けとめねばならない状況に、幕府を落とし入れたのであった。

A貿易を巡る覇権闘争

 では実際に貿易を巡ってどのような覇権闘争が生じたのか。具体的に見ておこう。
 朱印船貿易が始まった直後の1608年(慶長13)年の11月には、肥後のキリシタン大名有馬晴信がベトナムのチャンパやカンボジアに派遣した朱印船が帰路マカオに立ち寄った際に、ポルトガル人との間で取引を巡って争いを起こして武力衝突。双方に多数の死傷者が出てたため、マカオ長官のアンドレア・ペッソアが武力でこれを鎮圧した。この事件がきっかけとなって翌1609(慶応14)年5月にペッソアが率いて長崎に貿易のために入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号に対して、有馬晴信は前年の事件の報復として、長崎奉行と結託してデウス号の積荷を没収しようと同船を攻撃(この行動は家康の許可を得ている)。4日間の戦闘の末に、デウス号は自爆し沈没するという事件が引き起こされている。そしてこの事件を契機に、岡本大八による贈収賄事件が起き、これが1613年から1616年にかけて幕府がキリスト教禁教政策に転換する切っ掛けになったのである。
 さらに1620(元和6)年の7月に、マニラ在住のキリシタン日本人商人の平山常陳が日本に帰国するために仕立てたジャンク船を、台湾沖でイギリス船が拿捕。常陳船にスペインン系修道会の宣教師が乗船していたのを見つけて船ごと平戸のオランダ商館に引き渡し、乗組員および宣教師ともに幕府に捕縛されることとなった。
 この事件では平山常陳はイギリス船が海賊行為を仕掛けたと幕府に訴え、幕府において裁判が行われたが、実際にイギリスはオランダと連合して、当時、マカオに向かう中国船に海賊行為を仕掛けて拿捕し、ポルトガルが支配するマカオに中国産の品物が渡らないように妨害を行っていた。この事件が引きがねとなってスペインとの交易が禁止されるいきさつについては、後に述べよう。
 また1621(元和7)年には、長崎湾外を航行していたオランダ船が長崎に向かうマカオのポルトガル船を見つけて、長崎近海まで追跡して発砲するという事件も起きている。そして1623(元和9)年には、長崎の商人荒木の仕立てたチャンパ・カンボジア行きの朱印船が、チャンパ沖でオランダ船に拿捕されて積荷を全て没収され、同様な被害が翌年にかけてトンキンや台湾に渡った朱印船から幕府に訴えが出されている。オランダは中国船やポルトガル船だけではなく、日本の朱印船に対しても攻撃を仕掛けていたのだ。
 この件については、1623(元和9)年にポルトガルから幕府に、オランダは朱印船と他の船の区別なく海外で出会った船を全て捕らえていると訴えがあった。これに対してオランダは朱印船の被害はでっち上げで、しばしば遭難する朱印船がオランダ船の海賊行為をでっち上げているに過ぎないと幕府に弁解をしている。
 さらにオランダと朱印船との争いは、台湾においても激化していた。
 台湾を中継した日本貿易を独占しようとしたオランダは、1624(寛永元)年に台湾南部のタイオワン(現在の台南)にゼーランディア城を築いて貿易を拡大するとともに、台湾に来航する朱印船に対して10%の輸出税を課税しようとはかった。しかしこれを拒否した長崎代官末次平蔵の朱印船は、1626(寛永3)年に台湾で生糸を買い占めオランダ人と紛争を起こした。1627(寛永4)年には、オランダ東インド総督は台湾長官のノイツを紛争解決のための大使として日本に送ったが、彼が国王の信任状を持っていないため幕府はこれとの交渉を拒否した。そして同じ年にタイオワンから帰国した末次船は台湾先住民を多数長崎に伴い、代官末次平蔵はこの先住民を台湾全土を将軍に捧げるための代表と偽って江戸城に送り、将軍の謁見に供し、将軍は彼らに多くの贈り物をした。この先住民が台湾に帰国したところ台湾長官ノイツは彼らを監禁し贈り物を取り上げたことから、長崎代官末次平蔵とオランダ台湾長官ノイツが対立することとなった。
 そして両者の衝突は、翌1628(寛永5)年に勃発した。台湾に来航した末次船が生糸を手に入れられなかったので中国渡航を申し入れたところ、長官にこれを拒否された。これに怒った末次船の船長は長官に襲いかかって、長官以下5人のオランダ人を捕虜として長崎に連行して獄に繋ぎ、幕府は将軍の朱印状が汚されたとの認識で平戸のオランダ商館を閉鎖し、事件を調査・裁判することとなったのである。この事件は後に、事件の当事者の末次平蔵が彼の贈収賄などの犯罪を暴かれて死んだことと、オランダ側が長官ノイツの処分を将軍の裁可に委ねる決断をし、「皇帝陛下の忠実な臣下」としてポルトガルの日本貿易の肩代わりを果たして幕府の要望に応える姿勢を貫いたために、オランダ側の勝訴となり、1632(寛永9)年ノイツは釈放され、翌年平戸におけるオランダとの貿易は再開され、1639(寛永16)年のポルトガル船来航禁止以後は、オランダがヨーロッパ勢力で唯一貿易を許される国となる端緒となった。
 しかし以後200年以上に渡って日本と友好的な関係を続けたオランダも、当初はこのような激しい貿易の覇権争いを、朱印船との間でも繰り広げていたのだ。そしてこれはこの事件だけではなく、1628(寛永5)年には、シャムの山田長政がマラッカに食料を運ぶために派遣したジャンクをオランダ船が捕獲しバタビアまで連行したし、1632(寛永9)年には、長崎奉行のシャム行きの朱印船がオランダ船に拿捕されてジャワのバタビアまで連行されているし、この時期に正規の朱印状も老中の奉書も持たずに朱印船を装って台湾に渡航する中国人商人の船をオランダは次々に拿捕していた。
 さらに、スペイン船と朱印船との間でも紛争は起きていた。
 1628(寛永5)年5月にシャムのアユタヤに現われたスペイン艦隊は、河口の港に停泊していたシャム国王のジャンクを捕獲して積荷を奪ってから撃沈、さらに港内にいた長崎の町年寄高木作左衛門の朱印船の積荷も奪って船を撃沈し、乗組員42人をマニラに連行した。この艦隊は、オランダのマカオ封鎖を解くために大挙してマカオに向かったがオランダ船がすでに立ち去ったため、1624(寛永元)年にアユタヤでスペイン船がシャム国王によって撃沈されたことの報復のためにアユタヤに寄航し、そこに居あわせた高木船まで攻撃したものであった。言いかえれば、海外における紛争が日本に飛び火したわけである。この事件は、事件を知った山田長政が高木船の助かった数名の船員をオランダ船に託して長崎に送って通報したために幕府の知るところとなり、スペインとポルトガルは同じ国王に統治されているとのオランダ人の密告によって、ポルトガルとの貿易が一時停止となる事態を生んでいる。
 このように、幕府が朱印船貿易に乗り出した17世紀初から中頃の東・東南アジアの海域は、この地域の交易の覇権を巡る激しい争いの渦中にあり、貿易の覇権を握ろうとする勢力は互いにライバルに対して海賊行為を行ったり、ライバルを非難中傷する訴えまでしていたのであった。そしてこれらの紛争解決の役割は、すべて幕府に持ちこまれることとなった。 

B鎖国を生み出した諸事件:貿易紛争とキリスト教宣教と日本国内の争いのからみあい

 そして幕府が一連の「鎖国」政策を打ち出して行った経過をつぶさに検討すると、先に見たような貿易の覇権を巡る紛争と、キリスト教会の日本布教の動き、さらには様々な利権をめぐる日本の政権内の争いが複雑に絡み合って、実際の「鎖国」令が出されていることがわかる。
 この点を具体的に見ておこう。

(a)幕府初期のキリシタン政策
 「つくる会」教科書は、「
幕府は、貿易には熱心であったが、秀吉と同じく、宣教師やキリスト教徒をきびしく弾圧した」記述したが、これは後のことであって、成立直後の幕府は、キリスト教の布教を援助すらしていたことは先に、朱印船貿易の項で説明した。
 これは家康・幕府が貿易を振興するとともに、その主導権(価格決定権など)を握るためのことであり、このことは、家康がポルトガル貿易の拠点であった長崎を支配するにあたってイエズス会の勢力を利用したことにもよく示されていた。
 1603(慶長8)年の正月に家康は、秀吉によって任命されていた長崎代官寺沢広高を更迭して、長崎の支配を有力商人村山等安アントニオと他の有力なキリシタン商人4名による共同統治に委ねることとし、同時に、家康が信任するイエズス会修道士ロドリゲスも長崎市の市政に参与させ、主要な問題は、ロドリゲスとイエズス会準管区長とに相談することを求めた。これに応えてイエズス会は長崎へのポルトガル船の誘致に積極的に努めたのだが、家康は翌1604(慶長9)年、旧臣の小笠原一庵を長崎奉行に任じ、長崎貿易を管理せしめるともに長崎市政にも関与させ、さらには九州全域に対する貿易監督権も行使させて九州に来航する唐船をも統括させ、同時にポルトガル船がもたらす生糸の価格統制を目指して糸割符制を導入した。また長崎奉行小笠原はキリシタン大名大村氏が所有していた長崎外町の一部と幕府直轄の浦上の地とを交換させて長崎貿易の権益を大村氏から取り上げ、ポルトガル貿易の権益の幕府独占を進めて行った。こうして家康はイエズス会を保護・利用しつつ、ポルトガル貿易を独占してしまったのである。
 この動きによって貿易の利益を失ったキリシタン大名大村喜前(よしあき)は、イエズス会がこの替地問題に深く関わっていることに怒り、キリシタン信仰を捨てて法華宗に転宗するとともに、宣教師を領内から追放し、キリシタン禁制に動いて行った。
 このように成立当初の幕府は、キリシタン勢力を貿易のために利用しつつも直接的には規制・弾圧することはなかったのだ。

(b)キリシタン禁制への転換の背景は?
 しかしこのような姿勢は長続きしなかった。
 大御所家康は、1612(慶長17)年、幕府直轄の駿府・江戸・京都に禁教令を発令し、同時に駿府の家康直臣の宗門改めを断行して信者10数名をあぶりだし、棄教しなかった直臣・侍女10数名を追放した。そしてこれによって江戸ではフランシスコ会の教会と修道院が破壊され、武士だけではなく庶民もキリシタン信仰を禁止された。さらに京都でも家康の許可なく建てられたイエズス会とフランシスコ会の教会が破壊された。この禁教令は、家康の許可をえた教会の存続は許されるなどまだ対象を限定したものではあったが、以上の措置は全国の大名にも知らされ、大名には全国的な禁制と認識されたようである。
 そしてこの措置は、1616(元和2)年の家康の死と将軍秀忠の親政開始を契機にさらに強化され、8月幕府はキリシタン禁制を全国に広げるとともに百姓にまで徹底し、同時に、中国船以外の外国船の自由貿易を否認して、寄港地を長崎・平戸の2港に限定した。ここに始めてキリシタン禁制と関連して、貿易の規制が始まったのだ。
 従来はこの一連の措置は、大阪の豊臣氏との対立が深まる中で、キリシタン布教に融和的な大阪側に多くのキリシタン大名や浪人が組することを怖れてのものと解釈されてきたが、これも一因ではあろうが、直接的な原因は別にあった。
 1612(慶長17)年に発覚した岡本大八贈収賄事件である。
 ことの発端は、先に示した1609(慶長14)年に起きた長崎でのポルトガル船マードレ・デ・デウス号自爆事件である。
 マカオ長官ペッソア率いるこの商船が積荷を満載して5月に長崎に寄航した際、長崎警備を担当している肥前のキリシタン大名有馬晴信は、前年にマカオで自己の朱印船がポルトガル人と紛争を起こしてペッソアに鎮圧されたことへの報復として、長崎奉行と図って家康の許可を得て、デウス号を攻撃、4日間の戦闘の末、ペッソアは自爆して船は沈んだ。この事件に際して、家康づきの幕府年寄本多正純の与力で、しばしば長崎と往復して両者を取り持っていたキリシタンの岡本大八は、有馬晴信が竜造寺氏に奪われた旧領の回復を悲願としていたのを知って、デウス号事件での手柄を愛でて家康が旧領を返還しようと考えているとの嘘の情報を晴信に与えて多額の金子を騙し取り、旧領回復に関する家康の領地宛行状(あてがいじょう)まで偽造した。しかし、旧領の回復が遅れていることを不信に思った晴信が事態を本多正純に問い合わせたことから、岡本大八の贈収賄が発覚。大八は拘禁され晴信も駿府に召還されて両者対決させられ、大八の虚偽が暴露された。そして家康はただちに直臣の宗門改めを行って前記の処置を行うと共に禁教令を発し、大八は駿府安倍河原で火刑、晴信は所領没収のうえ甲斐に流罪となり、同所で切腹となった次第であった。
 家康が限定的であったがキリシタン禁制に動いたのは、将軍の権限である領地宛行が贈収賄の理由として利用されたことにより将軍権威が侵害されたことと、この件に関った双方が共にキリシタンであり、幕府中枢にまでキリシタン勢力が伸張していたことに危機感を抱いたからであった。キリシタン禁制は、貿易の覇権を巡る争いと幕府内部の統制の緩みとが結合して起きたことだったのだ。
 そして家康の死後親政を始めた秀忠の下でキリシタン禁制が全国に拡大・徹底化され、これとの関係で、宣教師の日本潜入を防ぐために、中国船以外の寄航地が長崎・平戸2港への限定化が進められたのは、秀忠の権力がまだ幕府内部で確立していなかったことと関係があろう。
 家康は将軍を秀忠に譲ってからも、対外関係と対朝廷政策、そして領地宛行に関する権限を行使し続け、将軍秀忠は幕府直轄領である関東を統治するに過ぎなかった。この中で幕閣の中にも将軍を軽視する傾向が生まれ、これを背景に家康に寵愛された5男越後高田城主松平忠輝は将軍秀忠に対して不遜な振る舞いが多かった。家康の死の直後の7月忠輝は改易され、キリシタン禁制が拡大・徹底化され、貿易の規制にも及んだのは、その直後の8月であった。
 将軍権力の確立に努める秀忠は、大御所家康との政策の違いを際立たせるために、家康が黙認してきたキリシタンへの統制を強めたのであろう。

(c)スペイン船来航禁止、日本人マニラ渡航禁止の背景は?
 「つくる会」教科書は、1624(寛永元)年のスペイン船の来航禁止と日本船渡航の制限の背景は、「この両国(オランダ・イギリス)はキリスト教の布教には関心がなく、貿易の利益のみを求め、幕府に、スペインやポルトガルがキリスト教を広めて日本を征服しようとしていると密告した」ことが理由であるかのような書き方をしている。しかしことはそれほど単純ではない。
 事実は、貿易の覇権を巡る争いと日本からの武器・人の輸出、そして宣教師の日本潜入が絡み合って起きたのだ。
 事件の発端は、1620(元和6)年8月に、マニラ在住のキリシタン商人平山常陳の船が台湾沖でイギリス船に拿捕され、同船にスペイン系修道会の宣教師2名が潜伏していることが発覚し、イギリス船は常陳以下の船員と宣教師を捕らえて平戸オランダ商館に引渡し、オランダ商館はさらに彼らを幕府に突き出しことであった。そしてこのとき江戸参府を計画していたオランダ・イギリスの両商館長は将軍あての書簡をしたため、「ポルトガル・スペイン両国はキリスト教を広めて日本を征服しようとしており、日本に宣教師を潜入させるためにマニラ行きの船が利用されている」ことと「われらはポルトガル船・スペイン船が極力平和を乱す行動に出ないよう極力これを阻止する」ことと「マニラへの朱印状の発行の停止」とを申し入れた。
 たしかに修道会の上長が常陳を説得して宣教師を潜伏させたのは事実であったし、こうした船で宣教師が日本潜入を果たしていたのも事実であった。しかし常陳船をイギリス船が拿捕したのは、イギリスとオランダとが同盟を組んで、台湾に来航する中国ジャンクを拿捕することで、この地を経由した貿易の独占をはかるために海賊行為を働いていた最中であった。逮捕・入獄した平山常陳やポルトガル船や中国船や朱印船にも投資していた大名松浦隆信はむしろ、オランダ・イギリス船が中国船やポルトガル船に海賊行為を働いていることを幕府に訴えたのであった。
 事件の審理は翌1621(元和7)年に江戸と平戸で行われ、宣教師の面とおしが、長崎奉行長谷川権六の立会いで進められ、この過程で宣教師と顔見知りの権六はそのそぶりも見せずに審理を長引かせ、ために権六自身がキリシタンではないかと疑われるに至った。事件は結局他の者が宣教師の面とおしをして証明し、翌1622(元和8)年7月に2人の宣教師と常陳は火刑、乗組員12名は斬首となって一件落着した。しかし審理の過程でもう一つ明らかになったことは、オランダ・イギリス船が中国船・朱印船・ポルトガル船に対する海賊行為を行っていたことと、これらの相互の船を通じて海外に日本の武器が大量に輸出されるとともに、多くの日本人が海外に雇われていき、東南アジア各地や外国の商館において傭兵として使われていること、そして今だ長崎においては多数のキリシタンが存在しており、多数の宣教師も潜伏しており、奉行自身や年寄衆の多くもキリシタンではないかと疑われたことであった。
 この結果幕府は、1621(元和7)年5月、日本人売買(これは日本人を海外の勢力が雇うことと解釈されていた)と武器の輸出の禁令を発するとともに、日本近海でのイギリス船の海賊行為を禁止した。そして前記のように常陳事件の関係者を死罪にするとともに、キリシタンではないかと疑われた長崎奉行や年寄は、長崎におけるキリシタン狩りを断行し、1622(元和8)年8月には、宣教師55名を火刑に処すとともに、彼らを泊めた宿主30名を斬首に処し、各地で宣教師・信者の大量処刑と言う処置をとった(元和の大殉教)。
 この措置はさらに1623(元和9)年には徹底化され、日本布教の拠点であったマニラへの日本人渡航の禁止とキリシタンである日本人と在日中国人の海外渡航の禁止、そしてイギリス人オランダ人を除くヨーロッパ人の既婚者の海外追放と日本船がポルトガル人を舵手として雇うことの禁止へと踏み込んで行った。こうして日本から海外に渡航して貿易に従事するにはキリシタン信仰を棄てなければならなくなり、ポルトガル人・スペイン人と日本人との接触は禁止され、マニラから宣教師が日本に潜入することもできなくなった。さらに幕府は翌1624(寛永元)年に、前年に来航して貿易の再開を求めたフィリピン諸島長官使節に対して貿易再開を拒絶し、ここにマニラからのスペイン船来航は禁止されることになったのである。
 しかし相変わらずマカオからのポルトガル船の来航は許されていたし、マニラ以外への朱印船の渡航も許可されていた。マニラに拠点を置いていたキリスト教会は拠点をマカオに移して、ここからの宣教師の日本潜入を図ったが、貿易途絶を恐れたマカオ市当局が教会に対して宣教師渡航の厳禁を申し渡すや、布教拠点を朱印船が多数来航するトンキンや交趾シナなどに移し、この地の日本町の住民に布教して、ここから日本への宣教師の潜入や資金援助をはかることになったのである。
 1623・24年におけるスペイン船来航禁止と日本人海外渡航の制限も、単純にキリスト教流入の阻止だけが目的ではなく、貿易の覇権を求めた闘争の禁止と日本への波及の阻止、そして日本から海外に武器と武人が輸出されることで、海外における武力紛争に日本人が巻き込まれ、それが日本に波及することで、貿易が阻害されたりすることを恐れてのものでもあったのだ。

(d)日本人海外渡航全面禁止の背景は?
 「つくる会」教科書は、1635年における日本人海外渡航の全面禁止もまた、単純にキリスト教流入阻止が目的であったかのような書き方をしている。しかしこれもまた間違いである。事実は、海外における貿易紛争が朱印船貿易にも飛び火したことと、海外貿易に関する利権を巡って長崎奉行や幕府中枢の者の不正が発覚したことであった。
 この事件の発端は、1628(寛永5)年に、スペイン艦隊が大挙して、タイのアユタヤ港を襲撃し、タイ国王のジャンクを多数捕獲して積荷を没収し撃沈したことであった。そしてこのとき港内にいた
長崎の町年寄高木作左衛門の朱印船の積荷も奪われ、船は火をかけられて沈められ、乗組員42人はマニラに連行された。
 この事件は、1624(寛永元)年にアユタヤでスペイン船がシャム国王によって撃沈されたことの報復のためにスペイン艦隊がアユタヤに寄航し、そこに居あわせた高木船まで攻撃したものであった。また先にも記したように、この事件は、アユタヤの日本町の長である山田長政が、高木船の生き残りの船員をオランダ船に乗船させて長崎に通報したことにより、幕府の知るところとなった。オランダ商館は、「ポルトガル人はこの事件を否認できないから、高木船の船員を乗船させて日本に送っても、オランダには益になり損をすることはない」という認識から船員の搬送に協力したという。
 はたしてオランダ商館の読みどうり、幕府は、スペインとポルトガルとが同じ王を戴いていることを理由として、ただちにポルトガル船との貿易を停止した。オランダの強力なライバルが消えたのだ。
 そしてこの事件を切っ掛けとして幕府は、朱印船貿易の進め方を変更した。
 これまでは許可を受けた貿易船は、将軍の朱印状を海外に携帯するものであったが、この事件によって将軍の朱印状の権威が汚されたと判断した幕府は、今後は朱印状が出された旨を老中奉書にして長崎奉行に送付し、老中奉書を受けた長崎奉行が朱印状のかわりに奉行の渡航許可証を出して、これと老中奉書とを海外に携行する形態に変更したのだ。1631(寛永8)年のことである。しかしこの制度変更は、朱印船貿易に関する不正を拡大し、貿易の続行に様々な問題点をつきつけていった。
 それは、朱印状が携帯されなくなったために、朱印船を騙って東南アジア各地に渡航する船が増えたことである。
 偽の朱印船を派遣したのは、主に長崎在住の中国人商人であり、他には、海外在住の日本人商人であった。長崎在住の中国人商人は台湾に渡航し、現地に大量の武器を輸出するとともに、生糸や鹿皮を買い占め、これを日本に持ち込んだ。さらに、海外に在住する日本人商人も東南アジア各地に商船を送ってこの地で取引を行おうとした。
 しかも問題であったのは、この中国人商人の偽朱印船は、長崎奉行の渡航許可書を持っていたことであった。つまり老中奉書が発行されていないにも関らず、長崎奉行が勝手に渡航許可書を発行し、賄賂を受けていたのだ。そしてこの偽朱印船には、長崎奉行自身も多額の投資を行い、さらには幕府老中の中にも投資を行っていたものがいたのだ。朱印状の発行形態の変更が、貿易にからんだ不正を幕府内部の者が行うことを可能にした。そして偽朱印船に関る者の中にもキリシタンが多くいた。
 この偽の朱印船が横行していることと、その中に老中奉書を持たずに長崎奉行の渡航許可書だけを持つものがあることを幕府に通報したのは、台湾や東南アジアの各地のオランダ商館であった。現地のオランダ商館は、偽朱印船を理由にしてこれらの貿易船を捕獲し、積荷を没収した上で、事態を幕府に通報したのだ。
 こうして、何度かにわたって朱印船貿易に対する規制が行われたにもかかわらず、相変わらず武器が海外に輸出され続け、その貿易船にはキリシタン商人が深く関係し、放置しておけば、朱印船自体が相変わらず日本に宣教師を潜入させたり資金を援助したりする手段として利用される事態が継続されることになることが明かとなった。そこで幕府は不正を行った長崎奉行竹中采女正(うねめのしょう)重義を解任・処断し、新たに任命した長崎奉行に、貿易の制限に関する新たな指令を示して長崎に赴任させた。これが一連の「鎖国」令と呼ばれたものである。
 1633(寛永10)年のこの指令では幕府は、奉書船以外の海外渡航をあらためて禁止し、奉書船以外の手段で海外に渡航するものは死罪とした。また、武士が長崎に貿易のために人を派遣することを禁止し、ここに大官(幕府老中や奉行など)が長崎貿易に投資することは止められた。また併せてキリスト教禁令に関して新たな定めがなされ、外国に居住する日本人が帰国することは禁じられ、この禁を犯したものは死罪。さらに在外5年未満の者は取り調べの上で国内居住を許可するが、この者が再度海外渡航をすることは禁じられ、この禁を犯した場合は死罪とされた。
 さらに翌1634(寛永11)年の指令では、武器輸出の禁止が再度確認され、奉書船の台湾への渡航が禁止されるとともに、朱印状には3年という有効期限が新たに設けられ、この期限以内に日本に帰港せず、期限を過ぎて日本に帰港した場合は死罪とすることが定められ、以後実際に期限を過ぎて帰港した京都の有力商人3人が斬首されたという。また1635(寛永12)年の指令では、日本船の海外渡航が禁止され、ここに30有余年続いた朱印船貿易は終わりを告げることとなったのだ。そしてさらに1636(寛永13)年の指令では、中国船の寄航先も長崎・平戸に制限されるとともに、ポルトガル人は新たに長崎に建造された出島に移転させられ、年に1回のマカオからの渡航に際しては出島に居住し、ここで貿易を行うことが定められた(ポルトガルは先の1628年の事件に際して貿易を停止されていたが、ただちに貿易の再開を求めて使節を派遣したマカオ市に対して幕府は、1631年に貿易の再開を許可していた)。
 この一連の老中が新任の長崎奉行に当てた指令は全国的法令ではないが、長崎奉行を通じて九州の大名にも通達されており、全国的な貿易統制令と認識されていた。
 こうして、アユタヤで朱印船がスペイン艦隊によって焼き討ちされた事件と長崎奉行による渡航許可書の偽造と偽朱印船による相変わらずの武器という不正が明らかとなったことをきっかけにして、次々と貿易を制限する法令が出され、結果として日本人の海外渡航はすべて禁止され、いまや貿易を行うのは、中国船とポルトガル船、そしてオランダ船の外国勢力だけになったのだ。しかしこの貿易の制限の過程を見るとき、幕府はけっして貿易を途絶させうようとはしておらず、なんとか様々な危険を回避する中でも貿易を継続しようと努力していたことがわかる。このことは、後に日本にキリスト教を広めようとした罪で貿易を禁止され日本から追放されたポルトガル勢力に対しても、マカオ市が責任をもって貿易船でのキリシタン拡大を阻止することを交換条件にして貿易を許していることにも示されている。
 そして大事なことは、この一連の貿易制限が、キリスト教の拡大の阻止だけを目的に行われていたわけではないことだ。

(e)海外での紛争に巻き込まれることを嫌う幕府
 ここには常に、日本からの武器の輸出と、日本人を傭兵として海外に連れ出すことの禁止という問題が横たわっていた。なぜなら、当時の東南アジア各地の王権、そしてこの地域のヨーロッパ各国の商館は日本人の武力・勇気を高く評価し、戦闘員として日本人を雇い、日本人傭兵隊を組織していたからだ。日本からの武器の輸出と人の渡航は、この日本人傭兵隊を強化するためのものであった。
 またこの日本人傭兵隊は、しばしば東南アジア各地における王権を巡る内紛にも巻き込まれ、その余波が朱印船貿易にも及ぶと共に、幕府が海外における紛争に巻き込まれる危険にも直面していた。
 代表的な例は、シャム(タイ)における王位継承の争いである。
 タイのアユタヤには大規模な日本町があり、タイ王室は日本町の長をその親衛隊長として、日本人傭兵隊を自己の重要な梃子としていた。この傭兵の隊長が、アユタヤに住む商人・山田長政であった。この日本人傭兵隊は、詳細は不明だが、1611(慶長11)年に王位継承の争いに絡んで蜂起している。そしてこれが朱印船貿易に決定的な影響を与えたのは、その長山田長政が1631(寛永8)年に死去したことであった。
 長政はその前年、仕えていた王が死去したことに伴い、新たな王によって遠ざけられ、アユタヤから遠く南に離れたリゴールの太守として赴任した。この時、3000人の日本人傭兵も同道したと伝えられる。そして長政の死は、彼の力を恐れた新国王による毒殺であるとのうわさもたった。国王は日本人傭兵隊が蜂起することを恐れ、アユタヤの日本町を焼き討ちすることを計画し、町にこれを事前通告した。日本町に住む4000人の日本人は戦を避け、100艘のジャンク船に分乗してカンボジアに向かうべくアユタヤを離れ河口に向かった。しかし国王はこのジャンク船に攻撃をしかけて激しい戦いとなり、日本町も焼き討ちを受けて灰燼と帰した。襲われた日本人が必死に戦ったために損害は国王軍の側が多く、日本人の多くはカンボジアに逃げおおせたが、この事態は直ちに現地のオランダ商館を通じて幕府に知らされ、幕府はシャムとの貿易を停止した。
 後に日本町の再建を許可した国王は、新たな貿易船を仕立てて日本に派遣し、日本との貿易再開を願い出たが、幕府は、日本町を焼き討ちしたことは幕府に対する敵対行為だとみなし、さらに新国王は臣下の身から王位を簒奪したものであると認識して、使節に対して貿易の再開を許可しなかった。そしてシャム国王による日本との貿易再開の試みはその後も続けられたのだが(現地の日本町の日本人商人たちの要請もあったし、シャム特産の蘇木や鹿皮などは主に日本向けの商品であったのだから、貿易再開はシャム王室にとっても必要なことであった)、オランダ商館はこの再開を阻害すべく動き、幕府にはシャム王室の日本町への暴虐をことさら言上し、さらにはシャムの高官に対しては、将軍がシャム王の使節に対してシャムを侮辱する言辞を吐いたことなどを告げて互いの感情を悪化させたため、ついにシャムと日本との直接通交は、日本人の海外渡航の禁止とも合わせて途絶することとなった。
 このように幕府は、海外において朱印船が攻撃されたり日本町が攻撃された事態を、幕府に対する敵対行為だと見なし、将軍の権威が犯されたと見なしていたのだ。幕府が東・東南アジア世界を日本を中心とした国際秩序に再編しようとしていたことが、ここにも示されているのだ。この観点からするとき、日本からの武器の輸出と日本人傭兵の輸出は、この地域における武力紛争に日本が巻き込まれ、その中で幕府の権威が犯される危険を生み出すものと認識されていたのだ。

(f)ポルトガルとの貿易禁止・オランダの貿易独占が生まれた背景は?
 しかしことここに至ってもなお、幕府はヨーロッパ勢力との貿易を禁止してはいなかった。ポルトガルは長崎出島に制限され、オランダも平戸と長崎でのみ貿易を許可されていたとはいえ、継続的な貿易は維持されていたのだ。
 しかし1639(寛永16)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、今後日本に寄航した場合には船を破却し乗船者を斬首する旨を伝えた。そして翌1640(寛永17)年に貿易の再開を求めて長崎に寄航したマカオ市の使節に対しては、乗船者のうちの医師と水夫13人を除く大使ら61名を斬首し、船を焼却させた。ここに16世紀の半ばから続いたポルトガルとの貿易は完全に途絶したのだ。また幕府は、1641(寛永18)年に、平戸のオランダ商館が建物の外壁に十字架などのキリシタン関係の事物を掲げていたことを口実にして商館を破却し、ポルトガル人の追放によって空いていた長崎出島に新たにオランダ商館を建設させ、オランダとの貿易も長崎一港に制限したのであった。
 この最終的なヨーロッパとの貿易制限を発令した背景を、「つくる会」教科書は、九州島原におけるキリシタンの一揆である島原の乱の勃発によって、さらにキリシタン禁令を強化するためにキリスト教の流入をより徹底化する必要を感じたからであるかのような説明をしている。もちろんこれも一つの背景であるのだが、実は事態はそれだけではなかったのだ。
 幕府は島原の乱が起き、それをようやくに鎮圧した後でも、ポルトガルとの貿易を途絶することをためらっていたのだ。
 なぜなら、ポルトガル船がマカオからもたらす中国産生糸と絹織物は日本市場にとって不可欠な品物であり、先に朱印船貿易の項で示したように、この時期の日本貿易におけるポルトガルの占める位置は、朱印船貿易とほぼ同等の高い比率を占めていたからであった(朱印船は全輸入額の42%、ポルトガル船が30.7%、中国船が16.2%。後に大きな位置を占めるオランダ船は、11%ほどを占めていたにすぎない)。朱印船貿易を途絶してしまった今や、ポルトガル船の来航を禁止してしまえば、日本にとって必要な中国産の生糸や絹織物が不足することは眼に見えているからであった。だから幕府は躊躇した。
 1639年にポルトガル船の来航禁止に幕府が踏み切ることができたのは、この年に江戸を訪れたオランダ商館長フランソア・カロンが、アジア海域におけるオランダの優越性とポルトガル船が招来していた品物をオランダが完全に肩代わりできることを力説したからでもあった。そしてこれは、幕府老中が執拗に、オランダがポルトガルの肩代わりが出来るのか否かを問いただした結果でも合った。幕府はまだ、オランダの実力を信じていなかったのだ。
 この、オランダがポルトガルと途絶した朱印船の肩代わりを出来た背景には、これまで朱印船貿易やポルトガルとの貿易を支えてきた、現地の中国人商人や日本人商人がオランダに協力することで日本貿易を継続させようとしたからでもあった。
 マカオとの貿易によって得ていた生糸や絹織物は、オランダが拠点としていた台湾に中国人商人が密かに商品を持ち込むことによって確保された。そしてその背景には、倭寇からなり上がって福建省の高官の地位にまで伸上がっていた中国人海商鄭芝龍の力があった。台湾近海の海域の制海権を握る彼が、オランダと友好関係を維持していたからである。そして交趾シナやトンキン、そしてシャムのアユタヤやカンボジアの日本町に住む日本人商人は、これまでと同様に現地の特産物や中国船が持ちこむ生糸・絹織物・陶器などを買い付け、これをオランダ商館に売却したり、または商品を委託して長崎に運び、そこで縁者の日本人商人に引き渡す契約をオランダと結ぶことなどを通じて、日本との貿易を継続したのだ。
 このようにしてオランダは、ポルトガル船・朱印船が果たしていた貿易上の地位を完全に肩代わりし、日本貿易を独占できる状態になったのである(もっとも1661年に鄭芝龍の息子の鄭成功がオランダとの縁を切り台湾を占領してからはオランダの独占は崩壊する。以後、日本貿易の過半を占めたのは中国人商人であり、これは鄭成功勢力が清王朝に屈服して以後も同じであった)。

(3)まとめ:「鎖国」体制成立の意味は?

 以上、すこし長くなったが、いわゆる「鎖国」が成立する過程を、その重要画期となった諸事件を詳しくみることで、その目的を見てきた。
 経過を見ると、幕府はけしてキリスト教の禁止だけが目的で貿易を制限してきたのではない。もちろんこれも大きな要因ではあるが、もう一つ大きな位置を占めていたのが、日本からの武器輸出と日本人傭兵の輸出であった。そしてさらに大きな位置を占めていたのが、貿易の利権獲得を目指す、朱印船・中国船(海賊も含む)・オランダ・イギリス・ポルトガル・スペイン相互の武力紛争や東南アジア各地で現地の紛争に日本町の武力が巻き込まれたことであった。そしてこれらの海外での武力紛争の処理が幕府にもたらされることによって、幕府が海外での紛争に巻き込まれることを幕府は極度に嫌っていた。なぜならば、東・東南アジア海域は、中国・明の海禁政策によって、この地域を統括する統一権力がなく、たえず地域紛争が起きていた地域であったからだ。そしてこの権力の空白を背景として、ポルトガルやスペインのキリスト教布教と領土拡大の野望が常に渦巻いていた。海外における紛争が日本に波及し、幕府がその処理にまきこまれるということは、日本もまたこの国際的流動に巻き込まれ、その中で国家的統一が瓦解する怖れがあったと言えよう。
 島原の乱を幕府が重視したのも、国内における矛盾の噴出が、キリスト教という外来の要因を通じて争乱として勃発した点にあったに違いない。
 いわゆる幕府の「鎖国」令と言われるものは、幕府のこのような懸念に基づき、ときどきに起きた事件に対処するために出された指示である。事件に対処する過程を通じながら幕府は、それでも貿易を徐々に規制しながらも、貿易の維持に努めていた。この幕府の懸念をいち早く察知して、幕府に臣下として協力したのがオランダ商館であった。オランダは自己の権益を拡大するために貿易の拡大に伴う様々な矛盾の存在を幕府に通報するとともに、自らの軍事力を持ってして危険因子を抑圧する行動も示し、オランダが幕府の懸念を認識して、幕府の忠実な僕として行動するとともに、その豊富な海外商館網の存在によって、朱印船貿易やポルトガル貿易の代替を充分に果たせることを幕府に示して行ったのだ。
 このオランダ商館の優れた情報網と幕府が結びつくことで、いわゆる「鎖国」は成立したのだ。
 残念ながら今の多くの教科書は、以上のような観点から「鎖国」を描くことは少なく、「つくる会」教科書もまたその例外ではなかった。すでに学会においても多くの論者がこのことを指摘し、従来の教科書記述の誤りを指摘しているにも関らずである。ここには教科書検定制度がもたらした学問の進展と教育の分離という問題点が横たわっているとともに、「つくる会」教科書執筆陣や出版社など、教科書出版に関る人々の怠慢という問題もまた横たわっている。この点は改めて近代編や現代編において別の機会に論述することとするが、「新たな日本歴史像」を提示すると銘打って登場した「新しい歴史教科書」もまた、従来の教科書の持っている限界の内にあったことをここに指摘しておきたい。

:05年8月刊の新版の記述はいくつか追加的記述がなされただけで、「鎖国」政策の基本はキリスト教の禁止であったという記述の趣旨は旧版とかわらない(p104・105)。旧版に追記された個所は、一つは、「貿易重視からキリスト教禁止へ」の項で、「家康は、キリスト教を統制することよりも、貿易による経済的利益を優先したので、キリスト教信者の数が急増した。幕府にとってこれは脅威となった」という追加である。しかしこれでは、家康がキリスト教の統制どころか布教の援助すらしていたことは削除されているし、キリスト教信者が増えたことがどう幕府にとって脅威なのかすら記述しないことは旧版と同様に問題である。二つ目に追記されたのは、「島原の乱と鎖国」の項の最後で、鎖国の最大の目的は、「外国による侵略の危険の防止と国内の秩序の安定のために」キリスト教を禁止することであったいう記述である。しかしポルトガル・スペインによる侵略が直接的な脅威であったわけではなく、むしろ幕府が東・東南アジアを日本を中心とした地域に組替えようと動いて貿易の振興を図ったことが、国際的な統一権力不在の当時の状況の中で、この地域で起こっている紛争に幕府が巻き込まれることを通じて起きる可能性があったということであり、この点についての認識がないことは旧版と同様に問題である。

【補足】島原の乱と寺請制度について

 「鎖国」に至った理由の検討が本稿の中心となり、島原の乱と寺請制度の問題について全く言及しなかったので、ここに補足として、簡単に検討しておきたい。

(1)島原の乱とは何か−素っ気無い教科書の記述−

 「つくる会」教科書は、とても簡単にこの乱について言及しただけである(p128)。

 1637年、九州の島原半島で、キリシタンたちが、天草四郎時貞を首領にして、大規模な反乱をおこした(島原の乱)。翌年、幕府はこれをようやく鎮圧した。

 実はこの乱については、領主の過酷な年貢取り立てに対する百姓一揆であるという側面と過酷なキリシタン弾圧に対するキリシタン一揆であるという側面とがあると考えられており、乱の性格について、さまざまに論争が行われてきた経緯がある。百姓一揆だとすると、一揆の指導層として旧領主であったキリシタン大名の家臣団が重要な役割を果たしていたことや、一揆がキリスト教王国の設立を旗印にしたことが理解できず、一方、キリシタンの一揆だと考えると、一揆の勃発過程で一揆に参加しない村もあったし、逆に一揆には多数の非キリシタンの百姓が村ごと参加しており、原城の篭城戦の過程で、多数の非キリシタン百姓が投降して命を助けられていることが理解不能であった。
 しかし教科書の上の記述だと、この論争が完全に捨象されており、ただキリシタンが弾圧に抗して一揆をおこなったかのような記述になり、極めて偏ったものとなっている。なぜこんなに偏った素っ気無い記述になったのであろうか。

:05年8月刊の新版の記述は大幅に改善されている。そこでは「1637(寛永14)年、九州の島原半島や天草諸島で、キリスト教徒の百姓など約4万人が、信仰への過酷な取りしまりと領主の重税に反対し、15歳の少年・天草四郎時貞を首領にして、大規模な反乱をおこした。これを島原の乱という。翌年、幕府は、約12万人の大軍を送り、乱をようやく鎮圧した」と、記述を全面的に改めている(p105)。これだとキリシタン以外の者が参加していたことを「など」という表記で示し、一揆に立ちあがった理由に二つの異なる側面があったことが明確に示され、一揆参加者の人数と鎮圧にあたった幕府軍の数が明記されていて、この事件が重大なものであったことがしっかりと記述されており、一揆の性格を考える手がかりを与えてくれている。しかし次ぎに見るように、一揆の直接の原因は飢饉や重税に苦しめられるのは自分たちが信仰を棄てたことにあると人々が考えたことであり、この点はまだ、改訂された記述でも不充分である。

(2)一揆勢が「キリスト教」王国の建設を掲げたわけは

 では何ゆえ、百姓たちが旧領主の家臣団とともにキリスト教王国の建設を旗印に立ちあがったのだろうか。
 いままで謎となっていてこの問題を、中世における信仰と社会の関係の研究に基づいて明かにした見解が、近年公表されている。神田千里の研究である。
 神田は、一揆への参加・不参加が村単位で行われていることと、一揆勃発に際して、一揆に参加した人達の間に「信仰を捨てたから天罰が下った」という観念が広がり、「救い人が現れた」という伝承が伝えられていたことに注目した。そして同時に、一揆に参加しなかったものたちが、「キリシタンは日本教に反する」とその理由を述べていることにも注目し、島原の乱の性格を、従来とは異なった視点から再検討を行った。

(a)現世利益を与える神としての共同体の宗教
 つまり先にキリスト教の伝来の所でも述べたが、この時代に人々の間にキリスト教が広まったのには幾つかの理由があった。多くの人にとって宗教は、大切な現世での生活を守ってくれる現世ご利益のあるもので、人々の暮らしを守る不可欠のものと認識されていた。そしてそれは、人々の暮らしの基本をなしている共同体、村や町という共同体の宗教であり、家の宗教として受容されていた。またこれらの現世の暮らしを大事にする人々の気持ちを基礎にして、国単位での領国の安定化に務めていた戦国大名にとっては、国の安全・平和を守り、領民全体を統合するものとして宗教は大事にされていた。
 多くの場合に、戦国大名や村や町の共同体が国の宗教・共同体の宗教・家の宗教として選んだのは、神道と仏教が不可分のものとして合体した「神国思想」を掲げる宗教であり、これらの宗教を当時の人は、「日本教」と呼んでいたのだ。そしてキリスト教をその国の宗教・共同体の宗教・家の宗教として選んだ人々もまた、神の国としてのキリスト教王国の建設を共同の目標として、それぞれの共同体をまとめようとしていたのであった。
 島原の乱が起きた地方は、弱小大名であった有馬氏や小西氏などが武士・領民こぞってキリスト教に帰依した地域であり、領主による強制も信仰の普及に寄与しており、この地域にも広く浸透していた一向宗や伊勢神道との軋轢も生じていた。しかし幕府による庶民レベルまでのキリスト教禁教政策が実施されるまでに、この地域の信仰はすでに50〜30年の歳月を経ており、領民の間に広く浸透していった。人々は旱魃に際してはデウスに降雨を願う祭礼を催し、魚が取れないときにもデウスに魚の恵を祈る祭礼を催していた。キリシタンにとっても、宗教は、現世での利益を保障し、彼らの共同体を守るものとして観念されていたのだ。

(b)棄教と苦難に直面してのキリスト教への立ちかえり
 しかし1614(慶長18)年に幕府が禁教令を出し、次第に大名もキリスト教を優遇することで貿易の利益を上げる政策から離脱するにいたって事態は急転換した。
 島原の領主である有馬氏に代った松倉氏もキリシタン弾圧に転向し、小西氏に代って天草を領していた寺沢氏もキリシタン弾圧を強化した。その中でキリスト教を共同体の宗教としてきた人々もまた村をあげて棄教し、島原では1628(寛永5)年には、そして天草でも翌1629(寛永6)年頃には多くのキリシタンが棄教し、彼らがキリシタンであった時代の先祖の墓地も放置されるにいたった。蜂起から10年ほど前のことである。
 こうして島原や天草の地域は10年ほどの間は、一見平穏に推移していった。
 この事態に急激な変化をもたらしたのは、1637(寛永14)年にこの地方を襲った飢饉であった。しかも島原の領主である松倉氏の税の取りたては過酷で、人々は飢えに苦しみ、草木の根を食べて命を繋ぐしかないありさまに陥った。
 そしてこの人々を襲った不幸の最中に、この苦難は人々が神の教えを放棄したから起きたことであり、神の怒りにより、この世の終わりがくるとの噂が天草諸島に始まって島原半島にも広がり、この地域を駆け巡った。そして「天人」と呼ばれる神の使者が下されたことと、すぐにキリシタンに立ちかえるならば神の許しを得られるが、キリシタンにならないものは神の罰により地獄へ下されるとの噂も流れ、事実天草地方には、神の使者と名乗る天草四郎が立ち現れたのであった。
 こうして相次ぐ飢饉と重税に苦しんだこの地方の元キリシタンたちは、村を上げてキリシタンに立ちかえり、「キリスト教王国」の建設を掲げていたかつての領主の時代へ立ち戻ろうと一斉に蜂起し、それぞれの今の領主の城を目指して攻め上ったのであった。いわばキリスト教王国の再建を掲げる惣国一揆が勃発したのだ。そしてその過程で、キリシタンではない領民にも、一向宗や神道を共同体の宗教としていた人達にも一揆への同心を強制し、一揆勢の指示に従った多くの領民が加わって、一揆勢は最終的には4万余りもの規模に立ち至ったのであった。
 だがすべての領民が一揆勢に加わったわけではなかった。一揆から逃れて領主の館などに一揆の実情を注進したものもいたし、海を渡って他領の領主に訴えた者もいた。そして一揆勢の振りをして一揆に加わり、一揆が領主の館を攻めている最中に、領主館に忍び込んで一揆の内情を知らせたものすらいたのだ。この人々が申したてたことが「キリシタンは日本教に反するもので、吾らは日本教を信ずるが故に、一揆に味方しなかった」というものであった。

(c)篭城と大軍の包囲をうけての落城
 だが領主の館を攻め落とせず、幕府の討伐軍が発向されたことを受けて、一揆勢は、島原半島の有馬氏の居城であった原城に篭城した。そして到着した幕府の討伐軍はおよそ12万の大軍であった。
 しかし討伐軍が原城に鉄砲を撃ちかけ大砲まで持ち出して砲撃しても、一揆勢はひるまなかった。一揆は旧有馬氏の家臣であった浪人団が率いており、城内には数百挺の鉄砲もあり、百姓の多くも鎧兜・刀・槍・弓矢で武装していた。刀狩の所で見たように、百姓の武装は解除されたわけではなかったからだ。そして原城は背後に海に面した絶壁を抱えて、前面の陸地には幾重にも郭を設けた防備には堅固な城であり、一揆勢は攻め掛けた討伐軍を充分に惹きつけてから鉄砲の一斉射撃を行い、討伐軍がひるんだところへ城を出て追撃するという戦慣れした戦法で、討伐軍を翻弄し、篭城から2ヵ月余りも抵抗を続けた。
 攻め倦んだ討伐軍は城攻めのための櫓を組んで土塁や竹矢来を組んで陣地を固め、大軍で包囲しながら組織的に鉄砲や大砲で攻撃し、一揆軍が疲れ果てるのを待たねばならなくなった。そしてその間、キリスト教の国の応援を頼んでいた一揆軍を切り崩すためにオランダ軍艦による砲撃を行ったり、一揆に参加してもキリシタンでなかったり、キリスト教を棄てて一揆を抜けたものは赦免するなど、一揆勢の投降を誘う工作を続けていった。このような工作を経て、当初4万余りが篭城したと言われた一揆勢も、1638(寛永15)年2月28日の落城時には、総勢2万数千と、多数の脱落者・逃亡者を出し、次第に勢いを失って行った。
 こうして一揆は、2月28日の討伐軍の一斉攻撃によって壊滅した。しかし一揆の抵抗も激しく、討伐軍の被害もまた激しいものであった。討伐軍の死傷者は1万2000人とも言われ、総勢の1割にも届こうと言うありさまだったのだ。そして討伐軍の総攻撃にも関らず、当時篭城した2万数千の一揆勢の全てが殺されたわけではなかった。多数の者が攻撃の最中に逃げおおせていたのである。
 キリスト教王国の建設を掲げて蜂起した一揆はこうして壊滅したのだが、一揆の過程で抜けたものや一揆に加わらなかった者の中にも、まだ多数のキリシタンがいることが予想されたし、百姓が一国の規模で連合して幕府・大名にはむかったことは、幕府・大名に大きな衝撃を与えた。それゆえ幕府や大名が、島原の乱以後、今まで以上にキリシタン摘発に力を入れていったのである。
 島原の乱は、飢饉や重税に苦しんだ百姓たちが、かつて自らの共同体の繁栄を祈って入信したキリスト教に立ちかえり、かつての繁栄をもたらしたキリスト教王国の再建を目指して行った行動であった。統一国家建設の過程で、キリスト教が権力によって嫌われ弾圧されたのは、まさにこの乱が示したように、キリスト教が「日本教」と呼ばれた「神国観念」を中核とした神仏混交の宗教による国家統一に正面からぶつかる性格を持っていたがゆえであったのだ。当時の日本におけるキリスト教受容のされ方や排斥の理由をきちんと示さない中での、キリシタン蜂起とその壊滅という「つくる会」教科書の記述は、この事態の意味するところを汲み取ることがまったくできない、ただキリスト教は排撃されたと述べるだけの意味のない記述である。

(3)家の宗教の成立を利用した寺請制度

 最後に、幕府がキリスト教弾圧の切り札としした寺請制度について論じておこう。「つくる会」教科書は、前にみた個所で、次ぎのように記述していた(p128)。

幕府は、こののちキリスト教の取しまりを強化し、人々がキリシタンかどうかを調べる宗門改めを行った。そして、すべての人を寺の檀家とし、その人が仏教徒であることを寺が証明する制度(寺請制度)を設けた。

 しかし、キリシタン弾圧のために幕府が寺請制度を設けたかのような記述の仕方は間違いである。実際は、キリシタン禁令が進む中で、キリシタンと疑われて密告されたり、不利益を被ったりしないように、自分がキリシタンでないことを、家の宗教として信じて檀家となっていた寺に証明してもらえるように、民の側が選択したのが寺請制度だったのだ。幕府や大名は、それを利用したにすぎない。
 すでに中世編で見たように、村や町が、そして個々の家が、それぞれの共同体の家の宗教として寺と檀家の関係を持つことは、戦国時代に広く行われていることであった。それぞれの共同体の現世における永遠の繁栄を祈念して、人々は一定の宗教と関係を結び、それが一般には仏教寺院であったのだ。その中で様々な必要に応じて、寺院が檀家であることを証明する寺手形を発行することも行われていた。また当時の仏教は神仏混交であり、神国思想も浸透していて、伊勢への参宮もすでに流行していた。
 現在残されている寺請証文の最も古いものは、京都で1614(慶長19)年にキリスト教を棄てた者が、改宗後に寺院と契約して手に入れた証文である。そしてキリシタンであると訴えられて捕縛されたものが、自分はキリシタン禁令が始まる前から伊勢参りも行っておりキリシタンではないとの申し立てが行われ、それが受理された例すらあるのだ。つまり民が決まった寺を家の檀那寺として、先祖の供養や葬送儀礼を行うことが先にあり、また当時の仏教は神道とも混交したものであったために、伊勢参りなどが盛んに行われていた。この寺檀関係の広範な成立や伊勢信仰の広範な広がりが背景となって、寺や神社にキリシタンでないことを証明してもらうことが慣行となったのだ。
 幕府が全国的にキリシタンの検索を命じたのは、1635(寛永12)年のことであり、この時から全国的に宗門改めが行われ、その中で、越前小浜藩では寺請によって宗門改めが行われるべきことが命じられている。またその前年には長崎ではキリシタンでないものにも寺請が実施されていた。
 しかし初期の宗門改めは、必ずしも寺請制度で行われたわけではなかった。
 特に寛永年間の宗門改めは、町年寄や庄屋が書き上げた俗請(ぞくうけ)のかたちをとったものが多く、従来の屋並帳や人数改め帳、そして5人組帳や人畜改め帳が利用されていたのだ。これは村や町という自治の共同体の成員を決める権限が村や町にあり、大名領主が村人や町人に夫役をかける必要から、村や町に、その成員の数とその内訳を帳簿にして提出させていた。これを転用するということも行われていたのだ。そしてこれと並行して、寺院によってその檀家であることをし証明する書類が添付されていた。また地域によっては寺だけではなく、神社がキリシタンでないことを証明する書類を出した例もある。
 つまり宗門改めは、すでに民が村や町で自治を行っており、それぞれの村や町、そしてそれぞれの家が共同体の宗教として寺院や神社と特定の関係を結んでいたという状況を利用しておこなったものだったのだ。だから初期には共同体の証明と寺院や神社の証明が並行して行われた。それが次第に寺院による証明に一本化されていったにすぎないのだ。しかしその際にもキリシタンでないことを証明する請印は寺院とともに村役人・町役人が押すものであり、その保管は村や町であったのだ。証明主体は、自治体としての村や町であり、それと一体となった寺院だったのであり、村や町が自治を行っているという実態に依拠した制度だった。
 寺請制度が、幕府がキリシタン弾圧のために作り上げた制度のように記述してしまう姿勢は、江戸時代といえば幕府による厳しい統治が行われたという、ステレオタイプの認識のなせるわざなのであろう。

:05年8月刊の新版の寺請制度についての記述は変更され(p105)、「人々を寺の宗門改帳に登録させ、旅行や転居のさいにも、仏教徒であってキリスト教徒ではないことを寺が証明する制度を設けた」となっている。しかしこの記述でも、村や町(寺院)がその成員を決めそれを証明する制度が先にあって寺請制度が成立したことは記述されておらず、相変わらず、江戸時代の制度は全て幕府・大名の側が作ったかのような前提で記述されると言う欠点は改められてはいない。

:この項は、五野井隆史著「日本キリスト教史」(1990年吉川弘文館刊)、真栄平房昭著「『鎖国』日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊日本の近世第1巻「世界史の中の近世」所収)、末木文美仕著「日本仏教史−思想史としてのアプローチ」(1992年新潮社刊)、加藤榮一著「出島論」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第12巻近世2所収)、奈倉哲三著「近世人と宗教」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第12巻近世2所収)、市村佑一・大石慎三郎著「鎖国・ゆるやかな情報革命」(1995年講談社現代新書刊)、永積洋子著「朱印船」(2001年吉川弘文館刊)、神田千里著「戦国乱世を生きる力」(2002年中央公論新社刊・「日本の中世11巻」)、神田千里著「島原の乱−キリシタン信仰と武装蜂起」(2005年中央公論新書刊)、日本百科全書(小学館刊)・日本史大辞典(編盆社刊)の該当項目などを参照した。


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