「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判16


16:江戸時代の対外認識では、世界は日本=中華とする華夷秩序と観念されていた

 江戸幕府の対外政策の3項目目は、「鎖国下の対外関係」と題して、日本が通商関係を有した国々や従属国の立場に組み入れた国々との関係について記述している。この項は、「幕府は国をとざす意図はなかった」とした「鎖国」政策の下での対外関係について比較的詳しく記述しているところである。
 しかし、ここの記述にも多々問題点がある。
 一つは、外国との関係を全体として、幕府はどのような世界観を持って対処していたのかということがまったく記述されていないこと。二つ目は、これと関係するが、オランダ・中国・朝鮮・琉球・蝦夷ヶ島のそれぞれとの関係についての記述に全体の中での位置付けが欠けていることと、嘘とも言えるような大きな間違いが幾つもあること。三つ目には、貿易が日本の産業にどのような影響を与えどのような位置を占めていたのかがまったく記述されていないことである。
 では「つくる会」教科書はいかに記述し、そこにどのような問題点があるのか。それぞれの国との関係について、一つ一つ見ておこう。

(1)オランダとの関係

 オランダとの関係について、教科書は以下のように記している(P130)。

 長崎の出島では、オランダ船が中国産の生糸、綿織物、漢籍(中国の書物)、またヨーロッパの時計、書物をもたらし、日本からは、はじめのころは銀や銅が、のちには伊万里焼などが輸出された。幕府は、オランダ商館長に「オランダ風説書」(オランダ船が毎年、江戸幕府に伝えた海外ニュース)を提出させ、海外の情報を得た。

 簡単な記述であるが、ここにも幾つかの間違いや、不充分な記述がある。

@日本人の生活に深く関わったオランダ貿易

 オランダ貿易は、当時の日本人の生活にとって不可欠となっていた海外産品をもたらす重要な役割を持っていた。そしてこれは、「鎖国」によって禁止されたポルトガル船と朱印船がもたらしていた海外産品をオランダが替わって供給するという性格をもっていた。さらに江戸時代を通じてヨーロッパ文化が吸収されるに従って、ヨーロッパの文物や情報をもたらす重要な回路となったものである。
 しかし教科書のオランダ貿易の記述は、以上のようなオランダ貿易の性格を充分に示すものとはなっていない。
 一つはオランダ船がもたらす輸入品の品目である。
 中国産の生糸が重要な輸入品であったことは、国産生糸が市場を制覇する18世紀末まではそのとおりである。中国産生糸が、西陣織などの高級絹織物の材料であったからだ。しかし国産生糸が伸張するに従って、輸入生糸の割合は低下していく。そして中国産の高級絹織物もまた重要な輸入品であり、これは江戸期を通じてそうであったのだが、この点はまったく無視されている。そして教科書には「綿織物」が記載されているが、これには注釈が必要であろう。なぜなら当時日本は綿を自給し、自前の綿織物を持っていたのに、なぜここで外国産の綿織物が必要なのかということだ。これは輸入された綿織物が、インドや東南アジア産の更紗や中国蘇州産の唐木綿であったことを付記すれば理解できる。更紗は、木綿布に手書きや型付技法で美しい花鳥模様を染め上げた布であり、当時の日本人の中の大名や町衆などは好んで外国産更紗を求めたもので、やがてこの風潮が大都市民にも広がり、更紗は一大流行を見た。幕末から明治にかけて和更紗が生み出されたのは、江戸時代における外国産更紗の流行が背景にあるわけだ。
 さらにもう一つ大事な輸入品が抜け落ちている。
 それは砂糖だ。砂糖は初期には中国船によって供給されたが、後にはオランダ船も大量に扱うようになる。当時の日本では砂糖が流行し、たくさんの砂糖菓子が作られたからであった。オランダがもたらした砂糖は、オランダが植民地としたインドネシアの農民に作らせたものでもあった。
 またオランダ船がもたらした外国産品には、鮫皮・象牙・牛皮などの装飾品原料や、蘇木などの染料、そして錫や鉛などの金属、さらには各種の薬種となる品物がある。これらは朱印船が東南アジアからもたらしていたもので、どれも日本人の生活に欠かせないものであった。
 なぜ教科書の記述は、これらの輸入品について記さないのだろうか。
 また教科書がオランダ船がもたらしたヨーロッパ産品として「時計と書籍」を挙げているが、なぜ時計と書籍だけを載せたのだろうか。
 これらのヨーロッパ産品の輸入が増えたのはヨーロッパ文化の吸収が進んだ江戸中期以後なのだが、そこには時計だけではなく、望遠鏡やメガネや虫眼鏡までも含まれ、さらに重要な位置を占めたものが、医薬品や医療器具、さらに紺青などの絵の具、そしてコップやテーブルセット・ティーセット・菓子入れなどのガラス製品やヨーロッパ陶器という、異国情緒が味わえる品物も大量に輸入されていた。これらは大名や長崎奉行、そして長崎町年寄などの注文品として輸入されており、彼らの贈答品や配下の医師や画家たちから頼まれた品物であったであろう。当時の日本人は、多くのヨーロッパ産品を輸入し使用していたのだ。
 またヨーロッパの書物が輸入されるのは、享保の改革以後の話しで、積極的にヨーロッパ情報の摂取の必要が認識されたときのことで、輸入された書物には、世界地図や地誌、そして外交文書や百科辞典などが含まれ、これらは積極的に翻訳された(漢籍が輸入品として挙げられているが、これは中国船によって主にもたらされたものである)。
 オランダ船がもたらす品物には時代の推移によって変化があったし、また江戸時代を通じて日本人に愛用された多くの外国産品があったのだ。このような特徴を、簡潔に記しておくことは、江戸時代が「鎖国」と言っても、海外情報や海外産品に囲まれた時代であったことを示すうえで、とても大切なことであると思う。
 一方日本からの輸出品は、たしかに銀と銅である。ただここには、銀と銅の輸出は、輸入品に対する見かえりであり、常に輸出超過であって、そのために国内で通貨として必要なこれらの金属が不足し、ために幕府は貨幣を悪貨に改鋳して物価騰貴を招いている。輸出超過で貴金属が不足したことは記しておく必要があろう。
 そしてまた、後に伊万里焼などの陶磁器が海外に送られたのも、銀・銅の海外流出を減らす意図があったことも記しておく必要があろう。ただ伊万里焼などの陶磁器の輸出は、17世紀の中頃の中国において明朝から清朝へ交代する時期の混乱によって中国産陶磁器の輸出量が激減したことに対応している。従って輸出品に占める日本産陶磁器の割合が高いのは、この時期に限られた減少であることは付記すべきであろう。むしろ以後の輸出において重要な位置を占めたのは、俵物3品とよばれる煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)と昆布であり、これらは蝦夷地の開発・乱獲によって得たものであったこともきちんと記すべきであろう。
 さらにまた、オランダを通じて持ち出された銀や銅(初期は銀が主であったが後に銅中心となった)は、海外において大きな比重を占めた。中国の正貨として使用された銅の主な供給源は日本からの銅であったし、ヨーロッパに運ばれた日本産の銅は、ヨーロッパ最大の銅の産地であるスウェーデンの銅価格を押し下げ、ヨーロッパ中に流通し、武器の原料として使用された。
 そしてオランダ貿易は最初はオランダ船がもたらす生糸は糸割符制によって幕府の御用商人しか買い入れなかったが、やがて相対の自由売買に変更された。しかしやがて18世紀の始めになると、船の数も年に2隻に制限され、貿易額も金5万両・銅150万斤に制限される。この意味で、貿易が出島内に制限されていたことともあいまって、長崎出島におけるオランダ貿易は、幕府の管理下における管理貿易であって自由貿易ではなかったということも明記しておく必要があろう。
 またオランダ貿易の位置もあまり大きく見ないほうが良い。その貿易規模は長崎における中国船の半分程度だったのだ。そして中国産の絹織物や生糸に関しては、長崎における輸入量よりも朝鮮・琉球経由の方が多かったのだから、日本の海外貿易におけるオランダの位置は、それほど大きかったとは言えない。
 「つくる会」教科書の、オランダ貿易の記述は、あまりに時代の姿を写さないものである。

A将軍の臣下として海外情報をもたらしたオランダ

 幕府はオランダ商館に継続的に貿易を許す替わりに、海外情報を定期的に幕府に提出するように求めた。そして毎年提出されたのが、「オランダ風説書」であった。そしてその内容は、当初は「キリスト教徒やポルトガル船の動向」というキリスト教流入に関する情報が主なものであったが次第に拡大整備され、「ヨーロッパ諸国の情報」「バタビアならびに近国の情報」「中国の情報」と言った具合に、世界情勢全般に広がって行った。これを毎年バタビアから長崎に寄航するオランダ船がオランダ商館にもたらし、ただちに日本語に翻訳されて江戸の老中に送られたのだ。
 幕府は、このオランダ風説書の情報を基本にして、外国に対して行くこととなる。
 しかし教科書は、オランダ風説書について大事なことを書き落としている。
 それは、この情報をオランダが幕府に提供することを、オランダはそして幕府はどのように位置付けていたかということだ。
 オランダ側はこれを、「皇帝陛下に対する我らのなし得る最大奉仕」と位置つけていた。つまりオランダは、幕府将軍の忠実な臣下として海外情報を提供する替わりとして、長崎での貿易を許可されるという関係だったのだ。そしてオランダ商館長は毎年江戸に参府し、将軍に拝謁したり老中と面談したが、この全166回にわたる商館長の江戸参府は、幕府将軍の忠実な臣下であるオランダ人の代表が将軍を表敬訪問するものであり、言いかえればこれは、中華である日本の国王の統治を代行する将軍(大君)に対して、服属する南蛮人のオランダ人が貢物を持ってやってくるという位置付けだったのだ。
 この南蛮人としてのオランダ、臣下としてのオランダという位置付けは、きちっと記しておく必要があるだろう。

B唯一の直接ヨーロッパ情報発信基地として重んじられた出島オランダ人

 しかしこの唯一貿易を許されたオランダ人と日本人との接触も、厳しく制限されていた。
 オランダ商館が置かれた長崎の出島には、商館長以下9〜12・3人のオランダ人が住んでいたが、出島は総面積が4000坪に満たない人工の小島であり、ここは長崎の町とはただ1本の橋で繋がれており、オランダ人が無断で外に出ることは禁じられていた。また、出島に入れる日本人は、長崎奉行所役人・長崎町年寄・オランダ通詞・町年寄配下の出島乙名以下の下役人と、許可を得た商人だけであった。
 幕府は、オランダ人と日本人との自由な接触を嫌ったのだ。
 だが、これもやがて揺るんでゆく。
 オランダを通じた海外情報の重要さが増すに連れて、オランダ風説書は老中だけではなく、諸大名や学者など、広く関心のある人々に非公式の回路を通じて広まってゆき、蘭学の興隆とともに、オランダ通詞を通じての出島オランダ人と日本人学者との接触も広がって行った。またオランダ経由のヨーロッパの学術・文化が積極的に翻訳・受容されて行き、その果てに、出島医師シーボルトによる鳴滝での医学塾の開設がある。
 制限されていたとはいえ、出島のオランダ人は、唯一の直接的なヨーロッパ情報・文化の発信地として、日本人に重んじられたのだ。
 こういう、その後の日本の歴史に果たした出島オランダ文化の役割も理解できるような記述が欲しいものである。

:05年8月刊の新版におけるオランダとの関係についての記述(p106)は、旧版と全く同じであり、その不充分な所は全く修正されていない。

:この項は、真栄平房昭著「『鎖国』日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊日本の近世第1巻「世界史の中の近世」所収)、片桐一男著「オランダからの『風説書』と舶載品」(1992年中央公論社刊日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、市村佑一・大石慎三郎著「鎖国=ゆるやかな情報革命」(1995年講談社現代新書刊)、片桐一男著「開かれた鎖国」(1997年講談社現代新書刊)、などを参照した。

(2)中国との関係

 中国との関係については、教科書は以下のように記している(P130)。

 長崎には中国船も来航して交易を行い、国際情勢について記した「唐船風説書」を幕府に提出した。
 なお、幕府は明と国交を結ぼうとしたが、明は幕府に朝貢を求めた。しかし、幕府にはその意思がなかったので、明との国交は実現しなかった。やがて満州人の王朝である清が登場すると、幕府はかつての元寇を思い出し、清に抵抗する明の武将たちを支援することを検討した。しかし、日本が支援する前に、明の武将たちの抵抗は失敗し、日本は清との国交がないまま、長崎での貿易の関係だけを続けた。

 この記述にも、いくつかの間違いと欠落が見られる。

@幕府は明に朝貢を求めた

 この記述でもっとも大きな間違いは、明との国交が実現できなかった理由についての説明である。教科書は、「明が幕府に朝貢を求め、幕府にその意思がなかった」から明との国交が実現しなかったと記述している。しかし、これは間違いだ。
 江戸幕府は結局は、明朝と直接的に交渉する道筋を得ることはできなかった。なぜなら、明朝は日本の再度の侵略を恐れており、秀吉の侵略によって、その外交ルートは断絶していたからだ。だから明朝が幕府に朝貢を求め、幕府がそれを拒否したという事実はない。
 先に朱印船貿易の項でも記述したが、幕府は、たまたま1610(慶長15)年に来航した福建の海商周性如に托して、明に対して「勘合貿易の復活」を要請する明国福建総督あての本多正純の信書を送っている。
 信書の内容は、文禄役後の通交途絶を惜しみ、その後家康によって日本全国が統一されて国内は平和になり、朝鮮・東南アジア・ヨーロッパ人までが日本に来航していることを告げ、たまたま商人が来航したので信書を託す旨を述べている。そして、「福建船の長崎への来航と自由貿易の許可」「明皇帝から勘合符が下賜されれば日本からも遣使し、それには朱印状をもたせること」「朱印船が中国に漂着したときには薪水給与などの保護」などを要請した。要するに勘合貿易の復活を要請したものであった。

 しかしこの信書に対する返事はなく、明との国交の回復は実現しなかったのだ。
 この信書の内容を検討すると、幕府は勘合貿易と言う朝貢形式で国交を結ぼうとはしていたが、勘合符に朱印状を添付するという姿勢には、中国からの冊封関係から相対的に自立し対等な関係を持ちたいという幕府の姿勢が読み取れ、「幕府は明に朝貢する意思がない」とも考えられる。しかし当時の国際関係において、中国と国交を結ぶ場合は、中国の王朝は全て中国への当該国の服属・朝貢であるとみなし、この条件を履行することなくして国交はありえなかった。幕府が、そして当時の日本の為政者がどんなに中国を中心とする冊封関係・華夷秩序から離脱しようとしても、中国の王朝はこれを認めなかった。だから幕府としても、朝貢貿易である勘合貿易の再開を求めるしか方法はなかったのだ。
 また後に琉球の項で述べるが、幕府は1614(慶長19)年にも、琉球の使節を通じて、明との直接交易か琉球の進貢貿易を明に要請している。これも信書の受け取りを明に拒否されて、交渉は成立しなかった。
 したがって、幕府が明に朝貢する意思がなかったとした教科書の記述は間違いである。
 ただし、清王朝との関係においては、幕府はたしかに朝貢する意思は持たなかったに違いない。なぜならば清王朝は、日本と同じく中国からは蛮族と見られていた満州の女真族がたてた国であり、中華である中国を蛮族が征服してできた王朝であった。したがって、同じ蛮族である清王室に対して朝貢するいわれはないと、幕府の首脳が考えたとしても不思議ではない。そして事実、幕府から清王朝に対して国交を要請することはついになかったのだ。

A幕府は海外の紛争に巻き込まれることを嫌った

 さらに教科書の明の滅亡と清の建国に関する記述では、まるで幕府が明の遺臣を助けて明王朝の回復を助けようとしたかのように読み取れてしまう。幕府は支援しようとしたが、その前に、明の遺臣たちが清王朝に屈服させられ、明王朝回復のための幕府の支援は実現しなかったという記述の仕方である。
 しかし、これは間違いだ。幕府は、支援要請を明確に拒否している。
 明は1644年3月、李自成の反乱軍によって首都北京を落としいれられ、明国皇帝は自殺した。そしてこの反乱軍を鎮圧すべく、明の将軍呉三桂は清国皇帝と同盟を結んで直ちに北京を攻め、李自成の軍は北京を追い出された。清国皇帝が北京に入場したのは、1644年5月であった。こうして満州の女真族が建国した清王朝が明王朝に替わって、中国を支配するようになった。
 だが清の中国全土に対する支配は、すぐには実現しなかった。明の諸王族が南方の各地で自立し、それぞれに王朝を建てたからである。南京には福王弘光帝が、福州には唐王隆武帝、そして広東には永明王永暦帝。他にも、魯王・益王がそれぞれ自立した。これらの明王族はそれぞれ、各地の豪族や北から逃れてきた明朝官僚によって推戴されていた。
 だが1645年5月、清軍は南京を陥落させ福王を捕虜とし、これにより明朝の回復運動は、福州に依る唐王が中心となった。この政権を支えたのが、鄭芝龍・周鶴芝などの海賊あがりの密貿易商人たちであった。
 この福王政権の水軍都督として杭州の沖の舟山諸島に駐屯していた周鶴芝が、貿易を通じて親しい関係にあった薩摩島津氏に対して唐王援軍を要請したのが、明朝回復のために日本に援軍を要請した最初である。1645(正保2)年の10月であった。しかし幕府は、翌年の正月に、ただちにこの要請を長崎奉行を通じて拒否している。ただし、幕府内部に唐王救援の出兵を計画する意見もあったことは確かである。
 そして翌1646(正保3)年8月に、鄭芝龍が再び日本に対して援兵を要請し、この時には島津氏が先陣を受け賜りたいと要請している。しかし幕府は、すでに8月に福州が清軍によって陥落したという報告を10月に長崎奉行から受けると、諸大名に対して中国出兵計画の中止を正式に表明している。「福州が陥落したのだから」が表向きの理由である。
 たしかに「つくる会」教科書が記述したように、幕府の内部では明朝復興のために援軍を送ることが一度は検討された。しかし福州陥落の前に幕府は、一度は明確に援軍の派遣を拒否しているのだ。そして幕府内部に援軍を送れとする意見があったことは確かであるが、最終的に幕府はこれの中止を表明した。
 この理由は、明朝復興の拠点である福州の陥落が表向きの理由とはなっているが、実際にはこれ以後も明朝復興の戦いは継続しているわけで、事実、これ以後も、翌1647(正保4)年には鄭芝龍の息子の鄭成功が、さらに1648(慶安元)年には鄭彩・馮京第・黄斌郷が、そして1663(寛文3)年や1674(延宝2)年にも鄭成功の息子の鄭経が援軍を要請している。1646(正保3)年の福州陥落で、明朝回復の戦いが終わったわけではないのだ。1661(寛文元)年に台湾を占領してオランダ人を追い出した鄭成功一族を中心として、抵抗は1680年頃まで続いている。幕府が明朝復興のために援軍を出すつもりであれば、機会はいくらでもあった。しかし幕府は以後も援軍要請を断り続けている。
 幕府の行動は、日本が海外の紛争に巻き込まれることを嫌った故であろう。
 こうして、明朝復興のために日本が中国に派兵することはなかった。
 しかし日本に対して援兵を要請した人々は、中国と日本との密貿易で財を成した人々であり、日本との密貿易を通じて明朝回復の資金を得た人々でもあった。そして日本は中国産の生糸や絹織物、そして砂糖を多量に消費する国であり、中国との貿易の拡大を望んでいた。このための両者の思惑が一致したために、中国との密貿易は長崎を拠点として繁栄することとなり、これは明朝復興の運動が収束してからも続いたのだ。

B舶載品の主な流入路であった中国貿易

 この中国からの密貿易船との貿易は、どのような物であったか。残念ながら教科書は、その貿易の内容については全く記述していない。
 中国船が日本にもたらした品物は、主として中国産の生糸・絹織物、そして砂糖であった。生糸が西陣織などの高級絹織物の原料として珍重され、中国産の高級絹織物とあいまって、日本の大名衆や町衆などの上層階層に好まれた高級消費財であったことはよく知られている。そして中国南部で取れる砂糖は、江戸時代になって流行した砂糖菓子の主な原料であった。さらに中国船がもたらす品物には、薬種・鼈甲・象牙などがあり、漢方薬の原料として、そして体を飾る装飾品の原料として珍重されるものであった。また中国船がもたらした重要な品物として漢籍がある。
 また日本からの見返りの品は、オランダ貿易と同じである。当初は銀が中心であったが、後には銅と中華料理の食材となる海産物が主な品物であった。蝦夷ヶ島はまさに、近世日本の商業的発展を支えた後背地だったのだ。
 さらに中国船との交易の規模は、オランダ貿易のほぼ倍であり、貿易額を制限した1715(正徳5)年の正徳の新例でも、年間30艘・銀6000貫目・銅300万斤であった。中国船との貿易が、近世日本の海外貿易の中心だったのだ。

C海外情報収集路としての中国貿易

 長崎に来航する中国人もまた、オランダ人と同様に、日本人との接触は厳しく制限された。
 来航した中国人は、港のそばに建設された唐人屋敷に留め置かれ、唐人屋敷は、8000坪ほどの面積を有し、2階建ての長屋形式の建物が19棟建てられ、最大で2000人は収容できた。貿易もこの屋敷内で、幕府の許可書を得た商人だけに限って行われ、屋敷内に立ちいれるのは、長崎奉行所の役人や長崎町年寄とその配下、そして唐通詞だけであった。
 また幕府は、長崎に来航する中国人商人もまた、日本に朝貢する蛮族と位置付けていた。中国商人らは長崎で、家康が江戸城に始めて入った旧暦の8月1日を記念して行う祝賀儀礼である八朔(はっさく)の礼を行わされた。
 さらに幕府は、長崎に来航する唐船からも海外情報を聞きとって唐船風説書というものを作らせ、これによって中国に関する情報を手に入れた。しかし長崎に来航する唐船は密貿易商人の船であって、オランダ船のように国家的情報網によって手に入れた情報を整理したものとは異なって、商人が私的に知り得た情報であり、その精度は低かった。
 海外情報収集路としての中国貿易の役割は、風説書よりも、それがもたらす漢籍にあった。
 初期のころに輸入された漢籍は、中国の古典や歴史・地理書、そして明代の法律についての注釈書などが主であったが、8代吉宗の時代になると傾向が異なった。この時代になると、清朝の官制や租税の徴収制度など統治機構に関する書物が増え、さらには農学や医学書、百科辞典なども増加し、飢饉や凶作などへの対応策や新種の作物や肥料・農具などの研究に役立てられた。吉宗の時代には、社会の急激な変化に対応した行政の有り方が模索されたわけだが、その知的基盤として、中国のありかたが研究されたわけである。
 清朝の最盛期である18世紀は、中国の科学や文化がヨーロッパ科学・文化の流入の影響を受けて興隆し、その集大成が試みられた時代であった。その最先端の知識が、長崎に来航する唐船によってもたらされた漢籍によって日本に流入したわけである。そしてこの漢籍の中には、オランダ貿易における洋書の輸入と同様に、幕府や大名による注文で取り寄せられた書物も多数あったのだ。
 この意味で長崎における中国貿易は、海外の情報・知識の収集路として、とても重要な位置を占めていた。
 だが残念ながら「つくる会」教科書の記述は、この側面については全く記述していない。

:05年8月刊の新版の中国貿易についての記述は、大幅に削除され、「長崎には中国船も来航して交易を行った」という、極めて簡略なものに改められている(P106)。この記述は、旧版にあった幕府と明、そして明滅亡後のその復興をめぐる動きや新王朝・清との関係に関する記述が全面的に削除されるとともに、唐船風説書についての記述までも削除されたものである。これでは、中国との関係について何もわからなくなるし、長崎における中国貿易の占めた重要な役割については完全に無視したものとなり、きわめて問題が多い。

:この項は、荒野泰典著「日本型華夷秩序の形成」(1987年岩波書店刊・日本の社会史第1巻「列島内外の交通と国家」所収)、真栄平房昭著「『鎖国』日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊・日本の近世第1巻「世界史の中の近世」所収)、川勝守著「『華夷変態』下の東アジアと日本」(1992年中央公論社刊・日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、などを参照した。

(3)朝鮮との関係

 朝鮮との関係については、教科書は以下のように記している(P131)。

 幕府は、家康のとき、対馬の宗氏をとおして、秀吉の出兵で断絶していた朝鮮との国交を回復した。両国は対等の関係を維持し、朝鮮からは将軍の代がわりのたびに通信使とよばれる使節が江戸を訪れ、各地で歓迎された。また、朝鮮の釜山には宗氏の倭館が設置され、約400〜500人の日本人が住んで、貿易や情報収集にたずさわった。

 この記述にも、倭館の存在など詳しい記述がなされている反面、多くの不充分さがある。

@本当に対等なの?:両国の不思議な関係

 幕府は秀吉の朝鮮侵略によって途絶した朝鮮との関係を、家康は侵略には荷担していないとの論理を使って回復したことについては、先に朱印船貿易の項で記述した。幕府は明朝との勘合貿易の復活を目論んでいたため、朝鮮との国交の回復は、そのための重要な手段だったのだ。そして朝鮮からは1607年以後、12回にわたって通信使と呼ばれる国王使節が江戸を訪問し、日本は朝鮮と平和な関係を続けた。
 しかし、教科書は日本と朝鮮との関係を「対等な関係」と記述しているが、両国の関係は、それほど単純ではない。
 なぜなら両国の関係は、朝鮮は朝鮮国王が、日本は将軍が大君との名称で信書の交換をしているが、幕府は朝鮮が日本国王号を使用して名目的に対等の関係にしようと要求したのに対して、「日本は明朝に朝貢していないからそのような称号を使用しない」ということと、「日本の君主は天皇であって将軍はその執政である」ということを理由として、日本国王号の使用を拒否していた。つまり両国の関係は、朝鮮国王と、国際的には日本国王と目される天皇の臣下に過ぎない将軍との関係であり、大義名分的には対等ではなかったのだ。
 だから朝鮮国政府の内部には常に、臣下である将軍に対等の礼で接するのを屈辱として交流を拒否しようとの動きが存在した。それでも朝鮮が日本との通交を250年間維持したのは、秀吉の朝鮮侵略の事実に鑑みて、隣国との友好は、朝鮮の安全にとって不可欠だと判断したからであった。
 そして先の称号の問題については、幕府が朝鮮とはけして対等な関係ではなく、朝鮮通信使の到来を、朝鮮国が将軍に臣従を誓う朝貢使を送ったと見なすと言う、日本を中華とし、朝鮮をその属国とする意識があったことを示している。幕府は中国(明・清)に朝貢しないことで中国を中心とした華夷秩序から離脱し、世界を日本を中心とした世界に組替えようという意識があったことは、先に朱印船貿易の項でも示したところである。そして朝鮮を日本の伝統的な属国であるとみなして、通信使を朝貢の使いであると見なそうとしたのだ。
 このことは幕府の様々な対応に見て取れる。
 一つは、通信使に対して幕府は一度も答礼の使節を直接派遣していないことだ。
 通信使の多くは、幕府の将軍代替わりに際して、幕府の方から対馬藩経由で朝鮮に要請して派遣されたものだ。しかし幕府はこれに答礼使を送らず、そして朝鮮国王の代替わりに際しても使節を送らなかった。また二つ目には、通信使が将軍に拝礼する際の作法は、四礼拝と言って、服属する姿勢を示すものであり、使節がこれを拒否しても強制的にやらせていた。さらに初回・2度目の通信使を京都の耳塚に案内して日本の武威を示すなど、しばしば高圧的な態度も示していた。
 幕府の公的な姿勢としては、将軍の威令が外国にまで届いている証明として朝鮮通信使を捉えているのであり、将軍家光などは、使節の到来を「神徳・国威のおよぶところ」と喜んでいたのだ。そして使節に対して神君家康の霊廟である日光東照宮拝礼を強制し、まるで朝鮮国王が将軍の臣下であるかのような形にしていたのであった。
 この朝鮮蔑視の姿勢は、ヨーロッパ列強の船が数多く来航し、アジア植民地化の危険が高まる中で強まり、1811(文化8)年の第11回めの通信使は江戸ではなく、対馬の藩主館で行われた。これは時の老中松平定信が、蛮族は国都に入れるのではなく、僻遠の地で拝礼させるべきだという考えを持っており、これを実行したものであった。
 また朝鮮の側においてもまた、朝鮮と日本との関係を対等のものとの認識は公的には弱かった。なぜなら先に述べたように、国王使節に対して一度も答礼の使節も派遣しない幕府の姿勢が問題視され、日本は礼儀を知らない蛮族の国と認識されたからである。
 このように日本と朝鮮との関係は、けして対等な関係ではなかったのである。
 そしてこのようないびつな関係が持続したのは、朝鮮が常に外敵に囲まれていたから、隣国との友好関係の維持を大事にしたからであった。朝鮮は常に日本の再度の侵略を恐れていた。そして17世紀初頭に成立した中国・清朝は、朝鮮が蛮族と認識していた満州の女真族が建てた王朝であり、清王朝は明朝を屈服させる以前に朝鮮の首都を攻め落とし、朝鮮をその属国としていたのだ。朝鮮は長いあいだ明王朝復興のための援助をなそうとし、清の再度の侵略も恐れていた。このような東アジアにおける国際関係が、いびつな両国の関係を持続させた要因である。

A重要な舶載品・情報の窓としての朝貢貿易

 当時の日本と朝鮮との貿易関係は、対馬の大名宗氏と朝鮮王朝との間で行われた。そしてその場が、釜山に置かれた倭館であった。
 しかし宗氏と朝鮮王朝との関係は対等なものではなかった。宗氏は朝鮮国王の臣下として貢物を差出し、その返礼として倭館で貿易を許されていたのだ。これは朝貢貿易であった。だから総面積10万坪にもおよび常時500人規模の日本人が居住した倭館は、朝鮮における日本人居留地ともいうべきもので、日本人の居住はこの中だけに限られ、しかも宗氏の渡航許可書を持った役人や商人に限られ、貿易も倭館内に限られていたのだ。
 しかし朝鮮との朝貢貿易で得られた品物は、日本にとって、とても重要なものであった。
 朝鮮からの主な輸入品は、中国産の生糸と絹織物で、これは西陣織などの高級絹織物の原料や高級呉服の原料として売買され、ときとして供給量が不安定な長崎での生糸・絹織物の輸入量を上回る時もあった。しかし生糸の国産化によってこれの輸入が衰えた後において重要な位置を占めた品物は、朝鮮産の各種の綿織物と米、さらには「どんな病気でも治す高級な薬」として珍重された朝鮮人参などの薬種であった。特に輸入量が年に1万石にも達した米は、対馬島民の年間米消費量の3分の1にも相当し、1万石程度しか米を産しない対馬の武士・住民を養うには不可欠のものであった。
 これに対して日本から輸出された品物は、支払い手段としての銀と銅。さらには東南アジアから輸入した丹木・水牛の角・胡椒などであった。対馬を経由して朝鮮に流入した銀や銅は、朝鮮から中国に送られた朝貢使節によって中国にもたらされ、中国の基本貨幣として流通した。
 このように釜山での貿易は、日本にとってかなり重要なものであった。
 そしてもう一つ釜山での貿易によって得られたものは、中国経由の世界に関する情報であった。倭館に在住する対馬藩の役人の重要な仕事の一つが、朝鮮の中国への朝貢使節を通じて得られた「北京筋の風説」であった。これは、長崎の中国商人から得た「唐風説書」が非公式の情報であったのに対して、朝鮮国と中国との政府間の交流によって得た情報であり、情報伝達の早さにおいては劣ったが、かなり正確なものであった。
 釜山における貿易と情報の収集は、日本にとってかなり重要なものだったのだ。しかし教科書はその内容を記述していない。理解に苦しむところである。

B豊富な学術・文化交流の場:朝鮮通信使

 教科書は、朝鮮通信使が各地で歓迎されたと記述し、その使節のありさまを示す絵画資料を掲載している。しかし、なぜ使節が歓迎されたのかは記していない。
 朝鮮通信使は、総勢400人あまり。日本での行程は、対馬に入り、それから北九州・瀬戸内海を経由して大阪まで船で行き、そこから川を遡って京都に入る。そして以後は東海道を陸路で江戸に至る経路であった。その間約2ヵ月。諸所の宿泊や途中での休憩所での接待、そして道中の警護は、対馬藩だけではなく沿道の他の諸藩に対しても幕府から命じられ、多くの武士が通信使一行と触れ合う機会があったのだ。
 この通信使の宿や休憩所には、多数の武士や学者が訪れ、使節の上級官人と論談している。当時の日本で流行した学問は儒学の朱子学派であったわけだが、日本の朱子学は、秀吉の朝鮮侵略の折に日本に拉致されてきた朝鮮儒学者に学んで発展した側面が大であった。そして使節には専門の学者が同道していたし、上級官人は皆、科挙の試験に合格して儒学を奥深く学んだものたちでもあった。だから日本の儒学者や儒学を学んだ武士たちは、この機会を利用して使節たちに学問上の疑問点を質したり論争したのであった。また朝鮮は中国の進んだ科学・文化を直接学んだ国でもあるので、一行に付き添った医師たちと日本の医師との交流も盛んであった。さらに江戸時代の日本人にとっては中国は憧れの文化の国であったが、それとの直接交流が適わない以上、中国から直接文化を学んでいる朝鮮の人々と交流することを通じて、中国文化に直接触れたいと願う人もまた多かった。
 このため、通信使の宿や休憩所には、学問論争や科学・文化・芸術を学ぼうとする武士や学者や町人が多数訪れ交流したのだ。通信使を尋ねて論争した著名な儒学者としては、林羅山・貝原益軒・雨森芳洲・新井白石らがあった。
 また江戸時代を通じて、朝鮮通信使の行列は、オランダ商館長・琉球使節の行列と並んで、異国の人が日本を通交する稀な例であり、庶民にとっても異国文化に触れる貴重な機会でもあった。だから通信使が通る沿道には、近在の庶民が多数集まって、その行列の様を眺めたのであった。
 このような事情で、通信使一行は各地で盛大な歓迎を受けたのであった。江戸時代は朝鮮蔑視観が社会の上層部に広がった時代ではあったが、依然として朝鮮は文化的に優位に立っており、そこから日本が学ぶべきことは多かったのである。
 教科書は使節が各地で盛大な歓迎をうけたことを記述し、使節の行列の様と人々が多数見学に訪れた様を示す絵画資料を掲載している。しかしながら、このことが示す意味を全く記述していない。これはなぜであろうか。
 「つくる会」教科書の朝鮮との通交に関する記述は、他の教科書よりも踏みこんだ記述をしている面があるが、以上に指摘したように多くの点で不充分なものであった。

:05年8月刊の新版での朝鮮との通交に関する記述(p106)は、旧版とほとんど同じである。従って上に指摘した記述の不充分さは、新版でも改善されていない。

:この項は、真栄平房昭著「『鎖国』日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊・日本の近世第1巻「世界史の中の近世」所収)、田代和生著「日朝交流と倭館」(1992年中央公論社刊・日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、三宅英利著「近世の日本と朝鮮」(1993年朝日新聞社刊・2006年講談社学術文庫から改題して再刊)、朴春日著「朝鮮通信使史話」(1993年雄山閣出版刊)、などを参照した。

(4)琉球との関係

 琉球との関係については、教科書は以下のように記している(P131)。

 17世紀のはじめ、薩摩藩は兵を送って琉球の王朝である尚氏を屈服させた。琉球は薩摩藩をとおして、幕府に臣下として従うこととなった。その一方で、琉球は新しく中国に成立した清にも朝貢したが、幕府は情報収集や、琉球を仲介とする清との貿易の利益に着目して、これを黙認した。

 琉球について「つくる会」教科書が記述するのは、ここが2ヶ所目。この前は中世の章の最後に、「琉球王国」と題して、「中継ぎ貿易に活躍、繁栄した」ということだけが記述されていた。
 先の中世の章での記述もあまりに不充分であったことは、中世編の27「東アジア交易ネットワークの結節点としての琉球」で批判したところだが、近世の琉球についての記述もあまりに不充分である。
 どこが不充分かというと、一つは、薩摩が琉球を屈服させた理由とこれへ幕府がどの程度関与したのかということ。二つ目には、幕府に臣下として従うことの内容。幕府は琉球の服属をどのように捉えていたのかわからないし、薩摩の琉球支配の実態も見えない。さらに三つ目には、琉球と中国との貿易の実態と、琉球経由の中国貿易が、日本の外国貿易における位置や、日本の諸産業とどのような繋がりをもっていたのかということ。要するに近世における琉球の位置が、ほとんど記述されていないことだ。近世の章で琉球について記述したのはここだけなのだから、もう少しきちんと記述しておきたいものである。
 では、以上の疑問点に即して、近世における琉球の位置について述べておこう。

@東アジア交易網の活性化と琉球中継ぎ貿易の地盤沈下

 17世紀の始めに琉球が薩摩に支配されるに至った背景には、琉球王国の存在の基盤であった、東アジア交易ネットワークの結節点という存在の意味そのものが地盤沈下したことにあった。
 15世紀の琉球貿易は、東南アジア(シャム・マラッカ・ジャワ・スマトラ・安南など)・中国・朝鮮・日本のそれぞれを対象とする中継ぎ貿易で成り立っていた

 明への献納・輸出品は、馬・銅・硫黄・象牙・こしょう・香木、そして刀剣や扇などである。このうち琉球の産物は馬と硫黄だけで、あとはすべて交易を通じて琉球にもたらされたものである。銅・刀剣・扇は日本から、象牙・こしょう・香木は東南アジアからのもの。そして明から琉球にもたらされたものは、鉄・銅銭・陶磁器である。
 この明から得た銅銭・陶磁器は、琉球が東南アジアに運んで象牙や香木・こしょうと交換するものであり、日本に運んで、銅や硫黄・刀剣・扇と交換するものでもあった。さらに朝鮮に対しては、香木やこしょう、そして中国の陶磁器を運び、かわりに朝鮮から木綿・朝鮮人参を得、これを日本に運んでさらに利益をあげ、日本の産物と交換するというものであった。
 まさに琉球は、東アジア交易ネットワークの結節点であったのだ。
 琉球の首都・首里の外港である那覇は、これらの諸国を行き来する琉球船の拠点であり、これらの諸国からの貿易船も多数来航する、国際貿易港だったのだ。
 だが、16世紀から17世紀にかけて、琉球の中継ぎ貿易は大きな岐路に差し掛かり、しだいに衰えて行った。この背景には、東アジア交易ネットワークの中継ぎ貿易に、中国の密貿易商人が大挙して参入したことと、さらにはポルトガルやスペイン、オランダなどの西洋諸国が参入し、西洋諸国は東南アジアの各地をその支配下に置いて、域内の中継ぎ貿易を独占しようとしたことがあった。そして16世紀後半からは、日本の朱印船もこの貿易に大挙して参入し、東アジア交易網はおおいに活況を呈するとともに、貿易の独占権を巡って、諸勢力の激しい闘争が行われるようになっていった。
 この状況の下で、東南アジアのジャワやスマトラなどがポルトガルそしてオランダの支配下に入ると、琉球船はこの地域でほとんど交易を行えなくなり、さらにシャムでは王権が伸張するとともに貿易の管理権を巡ってシャム王室との紛争も拡大し、琉球は中国へ献納する東南アジア産品の調達に苦しむこととなった。そして中国と日本や朝鮮との中継ぎ貿易は次第に中国密貿易商人に奪われ、そこにポルトガルやスペイン、オランダが参入することで、この領域からもまた、琉球船は次第に排除されて行ったのだ。
 またこの好況の背景には、日本における銀の産出量の増加と、ポルトガルやスペインなどのヨーロッパ勢力によってアメリカの銀が大量に持ちこまれたことにより、この地域の交易の決済通貨として銀が用いられるようになったことがある。
 しかし琉球は、銀をまったく産しない。それゆえ銀を手に入れるためには、日本との交易を拡大しなければならないのだが、室町幕府は琉球への日本船の渡航や日本への琉球船の渡航を規制して、貿易の統制を図ろうとした。さらに幕府が衰えた後には、幕府に琉球貿易の管理権を委任されたと称して、薩摩の島津氏が琉球貿易に介入してきた。島津氏は、島津氏が発行する渡航許可書を持たない日本船の琉球渡航を禁止し、違反した日本船をどんどん拿捕していった。このため琉球と日本との交易は縮小し、琉球は決済通貨である銀の供給を薩摩に支配され、次第に貿易の統制権すら失って行った。
 東アジア交易ネットワークの結節点としての琉球の役割は、失われていったのだ。
 これが、琉球が薩摩に支配されていった背景である。

A薩摩の琉球支配は幕府との合作であった

 そして、1609(慶長14)年に薩摩が3000の兵を出して首里を占領して、王以下の高官らを拉致して琉球をその支配下に置いた事件の背後には、幕府と島津氏の抗争と江戸幕府の思惑の複雑な絡み合いがあった。
 薩摩が琉球を直接支配しようと考えた背景には、日本の統一政権が直接琉球貿易に介入し、その利益を統制しようと企てたことがあった。
 その始まりは、豊臣秀吉が大名である亀井氏に琉球支配を任せたことである。秀吉は琉球を直接その支配下において貿易の利益を握るとともに、琉球を通じて中国との交易を拡大しようとしていたのであろう。亀井氏は秀吉の第1次朝鮮侵略の時期に、大船を多数建造して約3000の兵を率いて琉球に攻め入ろうとし、肥前名護屋の秀吉の下に参向して出兵の許可を得ようとした。
 自己の統制下にあるとしてきた琉球を取られそうになった島津氏は対抗措置として、朝鮮侵略に際して島津氏に課せられた軍役の一部を琉球に課すことで、琉球は島津氏の支配下にあることを秀吉に示そうとした。このため秀吉は、亀井氏に琉球出兵を朝鮮出兵を理由として中止させ、薩摩の思惑は成功した。そしてこの時、島津氏が課した軍役は、7000人の兵糧米10ヶ月分と肥前名護屋城建設のための金銀の負担であった。
 琉球はその要求の過半を負担するに留めるとともに、秀吉の朝鮮侵略の動きをいち早く明に通報し、明の権威を後ろ盾にして薩摩の支配を押し留めようとした。そして、朝鮮における明軍の介入によって朝鮮侵略が頓挫する過程で、薩摩の第2次の軍役要求を拒否して行った。
 日本の統一権力が直接琉球をその支配下に置こうという動きは、徳川氏がその覇権を確立する過程でも続いた。秀吉の朝鮮侵略によって中国との国交・貿易が途絶えた事態を改善し、貿易を再開するためには、琉球を通じた中国との交渉が必要であると考えたからだ。
 家康は、1602(慶長7)年に琉球船が陸奥に流れついたときに、その使節を丁重に保護して琉球に帰国させた。そうすることで琉球王国の歓心を引き、琉球に中国との仲介を期待したのだ。
 この動きをみて、島津氏は動いた。1604(慶長9)年島津氏は、先に琉球船遭難に際しての徳川氏の処置に対して感謝する聘礼使(へいれいし)を江戸に派遣するよう琉球に要求した。そうすることで薩摩は、琉球が自己の属国であることを示そうとしたのであろう。しかし琉球はこれを拒否した。
 1605(慶長10)年、再び琉球の明への献納船が平戸に漂着し、この時は幕府は、平戸の領主の松浦氏に命じて琉球船を保護させ、無事に琉球まで帰国させた。そして幕府は松浦氏に対して、琉球に幕府への聘礼使(へいれいし)派遣を要求するよう依頼し、その権限を幕府から委譲された旨が松浦氏から島津氏に通告された。そして松浦氏を通じた要求は、1607(慶長12)年にも再度行われた。
 琉球へ幕府が直接介入しようとしている事態に、島津氏はあわてた。そして同じ時期に行われた薩摩の検地において、欠損地のため年貢収納が不能な土地が多数あることが判明して、国力の低下と家臣団への領地宛外不足による家臣統制力が不足している事態が明らかになり、島津氏は大名としてのその地位が極めて危うい状況に立たされていた。
 大名としての力の確立を島津氏は、領土拡大の方向で解決しようと動き、これが1609年の琉球侵攻となったのであった。
 このときの琉球侵攻の大義名分は、琉球が幕府への聘礼使(へいれいし)派遣を拒否していることを罰することであり、これを幕府に申し出て、琉球侵攻の許可を得た。そして島津氏は琉球王国に対して、朝鮮侵略の折の軍役の未払い分をただちに払うか、奄美大島を薩摩に割譲するかとの要求を突き付け、どちらの要求をも拒否した琉球に対して軍兵を差し向け、首里王府を占領して、国王以下高官多数を薩摩に拉致し、琉球の直接支配を始めたのだった。
 このように薩摩が琉球を直接支配するに至った背景には、大名としての島津氏の矛盾と、琉球を巡る島津氏と幕府との角逐があったのだ。そして薩摩の琉球侵攻は、幕府の承認の下で行われていた。
 幕府が薩摩の琉球支配を認めた理由は、そのことで、琉球を通じて明との通交を回復する交渉を始めることであった。
 幕府は1614(慶長19)年、薩摩を通じて琉球に命じ、明への献納使節に日本との貿易再開を要請する信書を持たせた。しかし明朝は、この年が定められた献納使節派遣の年ではないことを表向きの理由として使節の上陸を許さず、この幕府の要求は明朝に拒否された。明朝は、今回の琉球の使節派遣の裏側に、島津氏と幕府とが介在していることを疑い、再度の日本による侵略を恐れていた明は、日本と交渉することすら拒否したのだ。

B日本と中国に両属する複雑な琉球の地位

 では、薩摩に支配され、これを通じて幕府の臣下の地位に置かれた琉球はどうなったのか。
 薩摩島津氏は、1609(慶長14)年に琉球を征服して拉致した国王を、翌1610(慶長15)年には江戸に同道し、琉球中山国王は、明朝から拝領した衣服を着用して将軍秀忠に謁見した。こうして薩摩に征服された琉球は以後、幕府に臣下としてつかえることと成る。
 琉球からは将軍の代替わりには慶賀の使節を派遣し、新たに中山王に封じられると謝恩使を派遣した。それは1644(正保元)年以後、謝恩使は11回、慶賀使は10回に及んだが、琉球はこれを、江戸上りと称していた。そして江戸上りに際して、使節一行は、街道の町中を行列する際には中国服の着用を義務付けられ、中国風の楽隊を先頭に音楽をかき鳴らしながら通行した。そして、将軍に謁見する際にも中国服で行った。これは薩摩が、異国を支配する大名としての国力を見せたかったことと、幕府が琉球使節の参向を、服属した異国が朝貢の使いを送ってきたと見なし、内外にその威勢を示したかったことからなされたことであった。
 琉球は、中華としての日本に服属する朝貢国の位置付けであったのだ。
 しかし一方で琉球は中国に対しても服属し、毎年献納の使いを派遣した。明代においてもそうであったし、1644年に明が滅亡し清朝に交代して以後もそうであった。
 この日中両国に服属するという、特異な関係が持続したのには理由があった。
 一つは、教科書が記述したように、幕府が琉球経由の情報収集を重視したことと、ポルトガル船の来航禁止以後に中国産の生糸や絹織物の輸入量が減少したことから、琉球の中国貿易にその代替の役割を期待したからでもある。二つ目は、薩摩にとっても琉球が中国に服属していることによって得られる貿易の利益が重要であったこと。そして三つ目には、琉球自身が、中国に服属している国であることを強調することにより、世界屈指の大帝国となった清朝の権威を背景にして、日本・薩摩からの相対的な自立を模索したことによる。先の江戸上りにおける中国風の装束や楽の吹奏は、強制された面もあるが、琉球王府が異国であることを強調することで、相対的自立を図ろうとした側面もあった。この時期王府は、積極的に中国風を取り入れ、官制や職名にも中国風を取り入れ、宮殿の建築洋式から装飾まで中国風にしていった。この時期に拡張された首里城正殿の様式が中国風なのは、このためであった。
 また薩摩島津氏は琉球を征服したが、直接支配することはなかった。琉球王府を通じた間接支配であった。
 薩摩は琉球国王の襲位や高位高官の任命権などの人事権を握り、首里に琉球在番奉行を置いて琉球王府の動きを監視した。また、租税の中に薩摩分という取り分を確保するとともに、王府が行う中国貿易を統制し、薩摩に多大な利益があがるようにした。琉球が薩摩の注文品以外の中国商品を購入することや、琉球から薩摩藩以外へ商船を派遣することを禁止し、さらに薩摩藩の許可証を持った薩摩の商人以外の商人が琉球で交易することを禁止し、琉球王府独自の貿易活動は封じられた。そして薩摩は、琉球王国の版図の中から、与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島の5島を割譲させ、自領に組みこんだのだ。琉球から切り離された奄美諸島が、薩摩藩の領土として、その藩財政の危機を補う重要な財源である黒糖の生産地として、この地の住民は過酷な支配下に置かれた。しかしこの点についても教科書はまったく記していない(薩摩の奄美支配については、薩摩藩の藩政改革の項で述べることとする)。
 琉球王国は、薩摩の監視下で、日本と中国とに両属する形で、ある程度の自治を行いながら存続したのである。

C日本の諸産業と密接であった琉球貿易

 最後に琉球による中国貿易の実態と、これと日本の諸産業との関係を記しておこう。
 近世における琉球と中国との貿易の内容は、以下のようであった。
 中国から琉球へもたらされたものは、湖州産の生糸と蘇州・杭州産の絹織物が主であった。これは中国での最高級の品物であり、薩摩を通じて、京都で販売され、西陣織などの高級絹織物の原料として使用された。この中国産の生糸・絹織物は、日本における自給が進むとともに減少し、18世紀になるとこれに替わって白糖が輸入されるようになる。元禄時代から急速に進んだ白糖の使用は、中国からの白糖の輸入を促進したのだが、琉球はその主な輸入元だったのだ。そして中国貿易に必要な決済手段である銀を産しない琉球は、多量の銀を手に入れるためにサトウキビ栽培を拡大し、中国南部から黒糖の製法を輸入して国産化し、輸入した白糖とともに大阪に送って売買し、これで得た利益で、輸出用の銀を手に入れるようになった。
 中国からの他の輸入品には、薬種や香料、唐紙、紺青、鉛、他には琉球の生活に必要な、茶、紙、竹製品、針、布などもあった。
 琉球から中国にもたらされたものは、支払い手段としての銀・銅。それに錫や硫黄などがあった。
 しかし17世紀末になって、銀の流出量を抑えるために幕府が海産物の輸出を奨励するようになると、琉球貿易でも海産物の輸出が増大した。すなわち、いりこ・干あわび・ふかひれの俵物3品と昆布・鰹節、そして、するめ・とさか・心太草(ところてんぐさ)・干海老など、中華料理にとって必須の原料である。これらの海産物の中で、いりこ・干あわび・ふかひれ・昆布は、薩摩が琉球貿易で得た薬種を供給することの見かえりとして、富山の薬売りに蝦夷地などから集めさせたものであり、他は薩摩に産するものであった。
 このように、琉球を通じた中国貿易は、日本の産業や人々の暮らしにとって不可欠な品物を輸入し、急速に発展しつつあった諸産業の製品を海外に輸出する窓口でもあったのだ。そして薩摩は琉球を通じた中国貿易で多大の利益を上げたが、輸出品の多くを薩摩に依存している琉球王府もまた、輸入した白糖や精糖技術の輸入を通じて国産化した黒糖の販売で多大な利益をあげていたのだ。
 琉球を通じた中国貿易は、それによって得られた情報だけではなく、ここで売買された商品そのものも、当時の日本にとって不可欠なものだったのだが、教科書はこのことをきちんと記述していない。

:05年8月刊の新版における琉球についての記述は(P106)、情報収集の面が削除されていることと、貿易船で賑わう那覇港の図を掲載した以外は、旧版と同じであり、上に記述した問題点は全く改善されていない。

:この項は、真栄平房昭著「『鎖国』日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊・日本の近世第1巻「世界史の中の近世」所収)入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉、南の琉球」(2002年中央公論新社刊「日本の中世5」)、真栄平房昭著「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史18「琉球・沖縄の歴史」所収)、赤嶺守著「琉球王国」(2004年講談社刊)、などを参照した。

(5)蝦夷ヶ島との関係

 蝦夷ヶ島との関係については、教科書は以下のように記している(P131)。

 蝦夷地(北海道)の南部を支配した松前藩は、アイヌの人たちと交易し、海産物や毛皮などを入手した。アイヌの人たちは漁労に従事しながら、千島列島や樺太(サハリン)、さらに中国大陸の黒竜江地方とも交易していたので、日本には彼らをとおして、蝦夷錦とよばれる中国産の織物も流入した。
 アイヌの人たちは、松前藩の交易方針に反発し、シャクシャインを指導者として戦いに立ち上がったが、松前藩にしずめられた。

 「つくる会」教科書が、蝦夷地とアイヌ民族のことについて記述したのは、この近世における松前氏の支配についての項が始めてである。つまりこの教科書では、蝦夷地とアイヌ民族は、ここで突然歴史上に登場するわけだ。
 したがってこの記述の仕方では、様々なことが意味不明になる。
 一つは、教科書は、アイヌ民族が千島や樺太・黒竜江地方と交易して多くの産物をもたらしていたと記述しているが、これがいつ頃からのことかということ、そしてアイヌ民族の北方交易がもたらした産物が日本の社会に占めた位置がまったくわからないのだ。このため二つ目に、近世に至るまでのアイヌと松前氏・日本の政治的な位置関係がまったくわからなくなる。さらにこれと関連するが、教科書は「松前氏の交易方針」なるものについて全く説明を欠いている為に、なぜアイヌ民族がこれに反発し、結果として武力闘争になったのがが分からないのだ。
 要するに教科書の記述は、近世以前のアイヌ民族が日本とは政治的に独立した単位をなしており、蝦夷地と日本との交易は自由貿易であったことを全く記述しない。そして幕府の力を背景としてなされた松前藩の交易方針とは、従来の自由貿易を松前藩の独占支配の下ので管理貿易へと変更するものであり、蝦夷地の政治的独立と貿易の利益とを奪うものであったことを全く記述しない。つまり幕府は松前藩を通じて、蝦夷地を日本に従属する属国にしようとし、これに反対し自由貿易と政治的独立を守ろうとしたアイヌ民族を軍事的に鎮圧することで、蝦夷地の属国化を実現したという歴史的事実を、まったく無視して記述しているのだ。
 では実際はどうであったのか。上の疑問点に即して説明しておこう。

@政治的に自立した「蝦夷地」との自由貿易であった北方交易

 アイヌ民族は狭義の意味での日本人ではない。日本人の中には、古代においてアイヌ人と同じ民族であったと考えられる、東北地方や関東における蝦夷が日本人に同化させられた人々も含まれるが、日本に組みこまれることなく別の道を辿ったアイヌ人は、日本人とは言語も宗教も文化も異なる異民族である。そして彼らの「国」(統一された政治的国家を形成してはいなかったが)は日本とも独立した異国であり、彼らは元・明という歴代中国王朝にも臣従し、朝貢の使いを送っていたのだ。
 アイヌ民族はすでに9世紀において、従来の狩猟・採集・漁労の生活に加えて、鉄器を使用し、あわやひえなどの雑穀の栽培を開始していた。しかしこのアイヌの人々は、畑作農耕を取り入れた後も主として海の民であった。彼らは大船をあやつって、北は蝦夷ヶ島各地やサハリンや東シベリア、そしてアリューシャン・カムチャッカまでの海域から南は奥州の十三港(とさみなと)までの海域を行き交い、それぞれの地の産物を商っていたのである。そして彼らは北方交易に従事する度合いが強まれば強まるほど、彼らの生活において畑作農耕の占める位置は小さくなり、やがて穀物などの食料すら交易によって手に入れるようになったのである。
 彼らアイヌは、北方世界から手に入る、蝦夷錦(中国産の絹織物)やラッコ皮、そして彼ら自身が産する鮭や昆布などを南の日本へ運び、そこで鉄器や陶磁器や布、そして米や麦などの食料を手に入れ、それを自分達の生活に供するとともに、さらに北方の世界に運んでかの地の産物と商うことで生活していた。
 このような交易によって得た富の力、そして中国王朝の権威を背景に、彼らアイヌは「日本人」の勢力、すなわち奥州平泉の藤原氏や十三港安藤氏、そして田名部港に拠点を置いた安藤氏や松前に拠点を置いた蠣崎氏・松前氏などからは政治的にも独立した勢力を保持し、まさに中世の蝦夷ヶ島は異国なのであった。そして蠣崎氏や松前氏が館を築いた蝦夷ヶ島南部の渡島半島においても日本人の勢力は弱く、アイヌ人の国の中に少数の日本人が館を拠点に雑居するというのが実態であり、交易の主導権はアイヌが握り、アイヌの首長の館の沖をとおる交易船は皆帆をおろして服属の挨拶をする慣わしであった。交易の拠点の一つであったウスケシ(函館)には、和人の鍛冶屋が数百軒あり、毎年3回若狭から商船が渡来して商いし、アイヌ人もこの地に北方の産物をもたらしていたという。
 しかし、渡海して館を築いて勢力を広げようとする和人の武将たちとアイヌ人との間には、抗争が巻き起こっていた。1456(康正2)年、津軽安東氏は、茂別館の下国氏を下の国の守護に任じ、大館の下国氏を松前の守護・花沢の
蠣崎氏を上の国の守護に任じ、渡島半島に渡海して館を築いてアイヌとの交易に従事していた家臣団を再編成するとともに、交易の実権を和人が握ろうとした。翌1457(長禄元)年、商売上の争いから和人の刀鍛冶によってアイヌ人が殺された事件を契機にして、アイヌ人はその長コシャマインの下で蜂起した。そして和人の武将たちが建てた12の館のうち、茂別の下国氏の館と花沢の蠣崎氏の館の2つを除いて陥落させた。この戦いは、蠣崎氏の客将武田信広がコシャマインを射殺して勢力を挽回して沈静化させたが、和人が劣勢である状況にはかわりはなかった。
 やがて蠣崎氏の名跡を継いだ武田(蠣崎)氏は、1514(永正11)年には安東氏から与えられた蝦夷地守護権を独占し、蝦夷ヶ島に渡海した和人の商船から船役という税金を徴収する権利を獲得した。しかしこれによって和人が北方交易の独占権を握ることはできず、1550(天文19)年には和人とアイヌとの間に協定が成立し、蠣崎氏は船役の一定部分を「夷役」としてアイヌの首長に分配することとした。この時のアイヌの首長は、上の国の天河のハイシタインと下の国の知内のチコモタインであった。これらのアイヌの首長はそれぞれの館の所在地に関所を設け、交易に訪れるアイヌの船や和人の船を統制する権限を行使していたのだ。
 こうして16世紀後半に至っても、アイヌ民族の「国」である蝦夷ヶ島は日本から独立した異国であり、この「国」の民との交易は、お互いに自立した民同士による自由貿易だったのだ。

A松前氏による「異国支配」を促した日本の統一権力

 このような異国同士の自由な交易空間に変化をもたらしたのは、日本における統一権力の成立と、中国における明・清の王朝交代であった。

(a)統一権力と結びついて蝦夷地を支配しようとした松前氏
 1590(天正18)年、上洛した蠣崎慶広は豊臣秀吉に謁見し、彼から朱印状を貰った。この朱印状の内容は、蠣崎氏が蝦夷地に渡航した和人の商船から船役という税金を徴収する権利を承認するとともに、渡航した和人がアイヌ人に対して不正行為を働くことを禁じたものであった。そして蠣崎(松前)氏は秀吉死後に覇権を握った徳川家康に対しても臣従し、1604(慶長9)年には彼から黒印状を手に入れた。この黒印状の内容は、「諸国から蝦夷地に出入りするものが松前氏に断り無く夷人(アイヌ人)と商売することの禁止」「松前氏に断り無く蝦夷ヶ島に渡航して商売することの禁止。ただし夷人(アイヌ人)は何処へ往来するもの可」「夷人(アイヌ人)に不正行為を働くことの禁止」の3ヶ条であった。
 このような統一権力が蠣崎(松前)氏に与えた特権は、蠣崎(松前)氏が蝦夷ヶ島南部の渡島半島において保持していた権限を追加承認したものであり、これ自身は、松前氏がアイヌ人を支配することを容認したものではないし、アイヌ人と和人との交易を松前氏が独占することを容認したものではなかった。渡島半島のいわゆる松前地方(上の国・下の国)も和人とアイヌ人の雑居の地であり、この地のアイヌも、また蝦夷地の他の地域に住むアイヌも、自由に商船を仕立てて東北の南部や津軽に渡航し、かの地で自由に交易していたのだ。統一権力が松前氏に与えた権限は、蝦夷地に渡航する和人の商船を統制して税を徴収する権限と、和人がアイヌ人にたいして不正行為を働かないように監視する権限に過ぎなかった。
 しかし松前氏は統一権力の力を背景として、統一権力が認めた権限を拡大解釈し、アイヌ人に対する支配権を拡大するともに、自由であった北方交易に統制を加え、その利益の独占をはかろうとした。

(b)生活を圧迫されるアイヌ
 松前氏は幕府権力を背景として、アイヌ人の生活を圧迫して行った。
 一つは、従来は各地のアイヌ人の村(コタン)や和人の館で行われていた交易を、全て松前城下に集中させ、和人の商船もアイヌ人の商船も全て松前の地に集めた。そしてこの地の市場で交易を行わせたのである。
 このころの松前には、アイヌの商船は年に100艘ほど来航し、東のメナシ地方のアイヌは、彼らが獲った干鮭(からざけ)・ニシンの他に、東方との交易で手に入れたラッコ皮や鷹の羽をもたらした。そして西北の天塩地方のアイヌは、同じく干鮭(からざけ)・ニシンの他に、北方交易で手に入れた絹織物(いわゆる蝦夷錦)をもたらした。これに対して和人の商船は年に300艘ほど来航し、米や酒などをもたらしてアイヌと交易を行ったのである。ただしラッコ皮や鷹の羽、そして蝦夷錦はすべて藩主松前氏への献上品とされ、その交易の権限と利益は松前氏が独占した。そしてそれ以外の産物は、アイヌ人と和人商人、そして松前藩の家臣団との間で交易されたのだ。
 こうして松前氏は北方交易を松前に集中させて、アイヌ人が自由に渡海して貿易することも禁止し、次第に貿易の利益を独占していった。
 また二つ目には松前氏は、松前地方の各地に藩主の鮭の漁場や鷹の猟場・砂金採取場を設け、アイヌ人の生活の糧を得る漁場・猟場を次第に荒らして行った。
 そして北方交易の独占権をさらに強化させるために、松前氏がアイヌ人が松前に船を仕立てて交易に来ることを辞めさせ、藩主および家臣団が船を仕立ててアイヌコタンまで出向き、アイヌコタンに藩主および家臣団が経営する商場を設けて交易を行うように変更して行った。米を産しない松前においては、家臣団の知行も領地ではなく、アイヌコタンに設けられた商場を知行とし、アイヌとの交易によって得た利益をその収入としたのである。このような大きな変化は、1660年ごろまでに次第に定着して行った。
 このような交易の変更によって、大きな損害を被ったのはアイヌ人であった。
 和人との自由な交易を禁じられたアイヌ人は、交易において売買の権限を独占する松前藩の言い値に従うしか無くなって行った。例えば主な交易品であった干鮭の価格は、17世紀の初期には干鮭5束(1束20本)が米2斗入俵1俵であったものが、17世紀の後半には米7〜8升入俵1俵と、不当に価格を引き下げられて行った。交易は大幅な不等価交換になっていき、アイヌ人が手に入れる利益は激減した。しかもこれに、藩主が各地に設けた鮭漁場によって、アイヌ人の主なタンパク源であり交易品である秋鮭が乱獲され、アイヌ人の生活は次第に圧迫されて行ったのだ。
 これが、1669(寛文9)年におきたシャクシャインの蜂起の背景であった。

(c)植民地と化した蝦夷ヶ島
 和人に漁場・猟場を荒らされたアイヌ人の間に、漁場・猟場を巡る争いが頻発していた。その中で、1667(寛文7)年、シブチャリ(静内)のシャクシャインとハエ(波恵)のオニビシとの対立は双方の武力衝突に至り、襲撃されたオニビシ方は松前藩に武器援助を申し入れたが松前藩に断られ、支援を求めた首長の兄弟が帰途疱瘡に罹って死んでしまった。この首長の兄弟の死が松前藩による毒殺だとのうわさが流れ、松前藩によるアイヌ人圧迫への不満が高まった。
 このような状況を背景にして、シャクシャインは和人襲撃の方針を掲げ、1669(寛文9)年6月、各地のアイヌは一斉に蜂起し、和人の商船の船頭や鷹匠・金掘が殺害され、死者は273名にものぼった。襲われたのが船頭や鷹匠・金掘だったことは、松前藩の独占下の交易や松前藩による鷹狩・金堀などで、アイヌ人の生活が圧迫されていたことをよく示している。
 しかしこの蜂起は、短期間で鎮圧された。
 幕府はただちに松前藩主の一族を蝦夷征伐の責任者として派遣するとともに、津軽藩・南部藩などに対してもいつでも出兵できるよう準備を指示し、さらに松前藩に大量の兵糧米を援助した。このような幕府の全面援助を背景として、松前藩は600余の軍兵を出し鎮圧の姿勢を示すとともに、この蜂起が松前藩への敵対だけではなく、幕府権力への敵対であることを示し、アイヌ方に投降と和睦を促した。やがてシャクシャインを始めとして主だったアイヌの長たちが投降してきたが、その和睦の酒宴で松前藩はアイヌの長たちを殺害し、蜂起を鎮圧して行った。このとき殺されたアイヌの首長は、55人にもおよぶと伝えられている。
 こうして蜂起が鎮圧されたのち、松前藩はこれまで以上に、アイヌ人が松前藩に臣従することを誓わせ、松前藩が決めた交易条件を守ることなどの起請文を出させ、以後藩主の交代のたびごとに、アイヌの首長たちに臣従の礼を行わせていった。
 そして次第に松前藩は、藩主や家臣団が設けた商場や漁場・猟場の経営を、事前に運上金を支払った商人に請負わせて行った。
 この商人が請負った商場の経営は、アイヌ人との交易を行うとともに、大掛かりな海産物の生産を主としていた。請負った商人たちは各地に大きな漁場を設け、日本から出稼ぎに来た和人やアイヌ人を使役して、鮭やニシンを大網を使って大量に捕獲し、干鮭や干鱈、そして塩鮭や身欠ニシン・ニシン〆粕・数の子を生産し、大船で上方を中心とした日本に搬送した。またアイヌ人を使役して、昆布や海鼠や鮑をとらせ、これを加工して上方に送ったのだ。
 こうして松前地方の各地の河口にはこうした大規模な漁場が設営され、アイヌ人の漁場・猟場は荒らされて、彼らは次第に和人の漁場に人足として雇われて暮らす以外に方法が無くなって行った。そして人足として働きに出た男たちは過酷な労働や疱瘡の流行によって次々と死亡し、アイヌコタンに残されたのは、老人・子ども・病人などとなり、アイヌの人口は急激に減少した。暮らせなくなったアイヌ人は次第に故郷を捨てて奥地に移住し、松前地は和人の地と替わって行ったのだ。
 しかし奥地といえども、アイヌ人の安住の地たり得なかった。
 松前藩と請負い商人たちは乱獲によって漁獲高の減った松前地から漁場を次第に奥地に拡大し、石狩地方や静内地方にも彼らの搾取の手は伸びて行った。また、彼らは、さらに奥地のクナシリ(国後)アイヌとの交易によって手に入れられるラッコ皮の独占を狙ってクナシリ地方にも進出し、1789(寛永元)年のクナシリとその対岸のキイタップ(霧多布)・メナシ(目梨)での商場・漁場での虐待に耐えかねたアイヌ人蜂起を鎮圧してこの地方も征圧。さらに、天塩地方のアイヌが樺太アイヌとの交易で手に入れる蝦夷錦の独占を企てて、1782(天明2)年ごろにはこの地方も征圧。こうして18世紀後半には、蝦夷ヶ島全島が松前藩・幕府(一時全島が幕府直轄地となった)の支配下に置かれ、北方交易は彼らに独占され、蝦夷ヶ島の各地の漁場では、アイヌ人の過酷な労働の下で、鮭・ニシン・海鼠・鮑・昆布などの海産物が生産され、上方を中心とする日本各地に運ばれて行くようになったのだ。そしてその陰では、過酷な労働や生活条件を押し付けられたアイヌ人の人口は次第に減少していき、記録の残る幕末だけでも、1822(文政5)年2万3563人、1854(安政元)年1万7810人と、わずかの間に20〜25%の人口が減るという悲惨な事態が進行していたのだ。
 こうして蝦夷ヶ島は、日本の植民地と化した。
 蝦夷ヶ島から産出される煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)が俵物3品と呼ばれ、さらに蝦夷ヶ島に産する昆布が、長崎口や琉球口を通じた海外貿易における主な輸出品であったこと。そして塩鮭や身欠ニシンが、大名から庶民に至るまでの日本人にとって貴重なタンパク源として正月用品などのハレの日の食事として食されたことや、縁起物であり貴重な食材としての昆布の普及。さらには上方を中心とした綿花栽培などの商品作物栽培を支えたのが、蝦夷地から大量に安価に生産される鰊〆粕であったこと。そして千島列島地域からもたらされたラッコ皮は、馬の鞍敷きとして珍重され、同じく鷹の羽は矢羽として珍重され、また樺太経由でもたらされた、中国の高級織物や鷲の羽・豹の皮なども珍重された。さらには、これらの漁場を支える和人出稼ぎ労働者やアイヌ人労働者の生活の用や生産を支えるために、日本各地から、大量の米や酒・タバコ、そして綿織物や着物、藁製品や竹製品、さらには漁具や網、そして塩や材木が蝦夷地に運び込まれ、これらの集散地としての松前・函館・江刺の3港は、江戸・京都・大阪や佐渡などの金山と並ぶ大量消費地として、日本各地の産業の発展を支えたこと。蝦夷ヶ島はまさに、近世日本の商業的発展を支えた後背地だったのだ。
 しかしこうした事実を教科書はきちんと記さず、蝦夷地からもたらされた産物を、ただ「海産物と毛皮」もしくは「蝦夷錦とよばれる中国産の織物」とのみ記し、具体的な品名や、これが日本の産業や日本人の生活にとってどのような意味を持っていたのかはまったく記していない。そして近世日本の経済発展にとって蝦夷地がどのような役割を果たしたかについては、完全に度外視されている。この点に、「つくる会」の人々の認識する「日本人」の中には、アイヌなど征服されて同化されて行った少数民族が含まれていないことを端的に示すのであるが、これは「つくる会」教科書に限らず、多くの教科書にも共通して見られる特色であり、修正が必要な個所であろうと思われる。

B蛮族の地・北方の窓口としての蝦夷地

 以上少し長くなったが、近世において蝦夷地がいかにして日本の植民地となっていったかについて詳しく見た。
 近世において蝦夷地は、日本の経済発展の原動力となった地域であり、ここが過酷な異民族支配下に置かれたことともあいまって、蝦夷地は日本の植民地であったと言っても過言ではない。そして蝦夷地に住むアイヌ人は、毎年松前藩の藩主の下に「お目見え」の儀式を行って臣従の礼をすることを強制され、さらには将軍の代替わりに派遣される巡察使に対しても同様な礼を行わされた。このことは幕府にとって、アイヌ人が臣従することを持って、日本が周辺の蛮夷を服従させる中華であることを示す事実と認識されていたことを示している。
 そしてまた、蝦夷地とそこに産する産物・風物・人物についての様々な描写(紀行文や図画)によって、蝦夷(アイヌ)は髪を結わず耕作も知らない蛮族であるという偏見が流布され、この裏側に中華である日本人の「優れた肖像」が自己認識として成立することとなる。
 さらにまた、蝦夷地を通じて近世の日本は、蝦夷地の北方に展開する世界についての情報を手に入れていた。天塩のアイヌと交易していた樺太のアイヌは1660年代以降、海を渡って、黒竜江河口部の清朝の役所に出向き、清朝に対して朝貢貿易を行っていた。この樺太アイヌを通じて中国清朝の北方の情勢やこの地に進出しつつあるロシアの動静が、松前藩・幕府にもたらされていた。そして根室やクナシリのアイヌを通じては、この地に毛皮を求めて来航するロシア人との接触を通じて、南下するロシアの動静ももたらされていた。
 アイヌとの接触を通じて松前口もまた、対馬口・長崎口・薩摩口とならぶ、日本に周辺の諸国が臣従する事実を示す場所であるとともに、日本の諸産業の発展や日本人の生活に不可欠な品物を海外から移入する場所でもあり、海外情報を収集する重要な窓口なのであった。だが残念ながら「つくる会」教科書は他の教科書と同様に、このような事実をきちんと記述していない。

:05年8月刊の新版の蝦夷地に関する記述は、旧版とほとんど変化はない(p106・107)。蝦夷錦の写真資料が掲載されたことと、「松前藩の不公正な交易方針」なる言葉が挿入されたことが、旧版との違いである。しかしこの修正でも、上に指摘した諸問題はなんら解決されていない。

:この項は、菊池勇夫著「アイヌ民族と日本人ー東アジアの中の蝦夷地」(1994年朝日選書刊)、榎森進著「蝦夷地をめぐる北方の交流」(1992年中央公論社刊・日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉・南の琉球」(2002年中央公論新社刊・日本の近世第5巻)、などを参照した。

(6)まとめ:近世日本のありかたが近代日本を準備した

 この「鎖国下の対外関係」という項目の記述は、近世という時代を理解する上で、とても大切な項である。そしてこれは、教科書が記述するような、鎖国が従来考えられていたような「国を閉ざす」というものではなく、貿易が行われていた4つの口を通じて日本は世界に開かれていたという認識の意味をさらに深めていくと、近代においてなぜアジアで日本だけが西洋の植民地とならず、逆にアジアをその植民地として統合し、先進資本主義国として発展して行ったのかという問題に回答を与えるところでもある。
 上に記したように、松前口・対馬口・長崎口・薩摩口を通じて海外に輸出された日本産の銀や銅は、当時の世界経済の発展にとって大きな役割を占めていた。日本が当時の世界の銀の3分の1を産したことで、日本と朝鮮・中国・東南アジアの交易は活発となり、西洋諸国までもがこの富みを求めて中国産や東南アジア産の品物を買いつけるために日本に来航した。日本は当時の国際貿易決済通貨であった銀を産する主たる国だったのだ。そして銀に替わって輸出された銅もまた重要な役割を占めた。中国は国内通貨として銅貨を使用したのだがその原料は主に日本からの輸入品であり、さらに西洋に輸出された日本産の銅は、この地域で増大する武器の原料としても使用されたのだ。
 また日本はこの銀や銅を対価として、中国や朝鮮・東南アジア・そしてインドや西洋から、日本人の生活に欠かせない品物を多数輸入していた。
 近世の日本は、中世の日本がそうであった以上に、世界経済と密接に結びついていたし、国のありかたそのものが、世界経済と密接に結合した商業と深く関わり、農業も漁業も林業も、そして手工業も商業と深く結びつき、上は将軍大名から下は百姓まで、多くの人々がこの商業との密接な関係によって暮らしていたことは、教科書のこのあとの項の記述を深く検討してみれば、理解されることである。
 さらに近世の日本は、上に示した輸出構造が示すように、当初は豊富な銀と銅を輸出するのみであったが、次第にこれに替わる製品を産する輸出産業を国内に育てて行った。それは中国の明・清交代の混乱に乗じて興隆した陶磁器生産や海産物生産という大規模産業であったが、18世紀以降はこれらの産物が日本の主な輸出品となり、日本は小なりと言えども、中国のように、海外に産物を輸出する国となっていった。そして当時は海外に輸出するには至らなかったが、従来は完全に輸入品であった綿や生糸を国内で自給栽培し、その加工品である綿織物や絹織物もほぼ自給を達成して海外からの輸入を大幅に減らして行った。貿易を通じて国内に、当時の世界的な輸出用産品である織物工業を育てていったのだ。この点は西洋の諸国と同質であり、幕末の開国とともに取り入れられた西洋技術と結合し、絹織物や綿織物は、日本を代表する輸出品となり、アジア諸国や西洋諸国の同産品と競合することとなった。また輸出はしなかったが、輸入品に大きな位置を占めていた砂糖も琉球・奄美だけではなく、日本各地でサトウキビの生産と加工が試みられていたことも大事である。
 要するに日本は、アジア諸国の中で突出して、世界経済に深く組みこまれていたのであり、その重要な輸出産品を産する農業・鉱工業を発展させていたのであった。このことが、19世紀において産業革命を達成しながら世界経済の覇権を握り、世界を植民地と化していった西洋諸国に対抗して、ただちにその進んだ技術や社会制度を輸入してこれに対抗し得た基盤であろう。
 また上に見たように、江戸幕府が日本と貿易する諸外国を、日本に朝貢する蛮族の国と見なしていたことは、近世を通じて上層階層の間に、周辺の諸民族を蔑視する思想を広げ、これが19世紀の西洋諸国の侵略の危機に際してこれと対抗する思想となり、その延長上に、アジア諸国を侵略する思想的基盤ともなったのだ。
 諸産業の発展やそれを支えた社会制度や社会思想については、このあとの項目の記述で詳しくみることとするが、このような近世日本のありかたが、近代日本のありかたを規定したと言って過言ではない。
 「鎖国下の対外関係」の項は、このような近世日本のありかたを外国貿易を通じて明かにする格好の個所なのであるが、「つくる会」教科書には、他の教科書と同様に、このような視点はまったくない。
 「つくる会」教科書はのちに詳しく見るが、近代の章において、日本がアジア諸国とは異なって西洋に屈しなかった原因をその経済や社会のあり方に置くのではなく、日本が他の国とは異なって、武威を生業とした武人が治める国であったことを強調し、世界の動きを見ることなく中華としての自己認識に安住した文人が治める中国や朝鮮を馬鹿にした言辞を弄している。おそらくこの近代を見る目の偏ったありさまと、近世の日本の世界に開かれた有り方を見る目のなさとは連関しているのであろう。
 この意味で「鎖国下の対外関係」という項目の記述は、「つくる会」が持つ日本という国の自己認識が、日本を世界から切り離した独善的なものであることを端的にしめしている項目であると言えよう。

:05年8月刊の新版の記述についての、項目ごとの批判についてはすでに記した。新版も旧版とほとんど同じ記述であり、問題点もまた共有している。全体として大きな変更点は、「鎖国下の対外関係」の最後に、「鎖国下の4つの窓口」とい項を設け、次ぎのようなまとめをしていることだ(p107)

このようにして、鎖国下の江戸時代には、長崎、対馬、薩摩、松前の、4つの窓口が外国に開かれていた。それらの窓口を通して他民族との貿易も行われ、世界の情報も入ってきた。幕府は貿易を統制し、利益を独占していたが、ヨーロッパからは新しい学問や文化も日本に入り、日本の国内でもしだいに受け入れられていった。

 こうまとめたことは、旧版よりは進歩した記述ではある。ヨーロッパの学問が江戸時代を通じて取りいれられており、これが近代日本の転換を準備した一つの要素であることを認識させる。しかし外国との交易を通じて日本の産業・社会構造が世界経済とすでに深く結びついており、これを通じて取り入れられたアジアの諸国の技術が近代の商工業の発展が準備されたことは相変わらず視野の外に置かれているし、周辺の諸国に対する蔑視観が醸成されたこともあいかわらず視野の外である。

:近世の日本のありかたと近代の日本のありかたの関係をみる全体的視点については、小林多加士著「海のアジア史」(1997年藤原書店刊)、アンドレ・グンダー・フランク著「リオリエント:アジア時代のグローバル・エコノミー」(2000年藤原書店刊)、浜下武志・川勝平太編「アジア交易圏と日本工業化:1500‐1900」(2001年藤原書店刊)、中岡哲郎著「日本近代技術の形成<伝統>と<近代>のダイナミクス」(2006年朝日新聞社刊)、などを参照した。


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