「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判17
17:近世身分社会の真実ー血の貴賎による身分は不断に個人の能力によって侵食されたー
江戸時代の3項目目は、「平和で安定した社会」ということで、近世江戸時代の社会のありかたについて論じたものである。その一つ目は、「身分制度」。教科書は、次ぎのように記述している(P132)。
豊臣秀吉は社会に平和をもたらすために刀狩を行ったが、江戸幕府はそれを受けつぎ、武士と百姓と町人という身分制度を定めた。武士は統治をになう身分として名字・帯刀などの名誉を持つと同時に、治安を維持する義務があり、城の警備や行政事務に従事した。こうした統治の費用を負担し、武士を養うのが、生産・流通・加工に関る百姓と町人の人々であった。このような、身分の間で相互に依存する関係が、戦乱のない江戸期の安定した社会を支えていた。このほか、僧侶や神職、さまざまな芸能にたずさわる人々がいた。 こうした身分とは別に、えた・ひにんとよばれる身分が置かれた。これらの身分の人々は、農業や死んだ牛馬の処理、皮革製品や細工物の製造に従事し、特定の地域に住むことが決められるなど、きびしい差別を受けた。このような差別によって、百姓や町人たちに自分たちとは別の恵まれない者がいると思わせ、不満をそらせることになったといわれる。 |
教科書のこの記述は、従来「士・農・工・商」と称せられてきた身分制度認識を排して、武士・百姓・町人というより実態に即した記述になっていることは優れた点である。そしてこの3身分以外にも僧侶・神職・諸芸能の民などの身分があったこともしっかりと記述している(ただし統治階級としての天皇・公家を記述してないが)。しかしこの記述にも、残念ながら大きな間違いが幾つもある。
もっとも大きな間違いは、「つくる会」教科書の執筆陣が、身分とは政治権力が作ったものだという、近代日本になって左翼陣営によって生み出された妄説にいまだにこだわっていること。二つ目の誤りは、教科書の記述が、身分は固定したものであり移動はできなかったとする旧来の認識の誤りを明確に否定していないこと。さらに三つ目には、武士が治安の維持と行政事務を独占したかのような誤りを犯し、村や町もそして諸身分の仲間(座)のそれぞれが自治権を持ち、それぞれの範囲での治安維持と行政事務を司ったことを無視していることに見られるように、諸身分の違いを混乱して捉えていること。また四つ目に、身分内における家格の差別が厳然として存在したことが完全に無視されていること。そして一つ目に関るが、非差別民の発生を政治権力の恣意によると断定する誤りを犯し、さらにその差別の内容も住所の制限だけしか記さないことと、「えた」と「ひにん」とが混同されていることなど、あまりに不充分な記述をしていることなどがあげられる。またさらに、近世という時代において、女性に対する差別が強化・拡大されていることなど、家の中における差別が拡大していることも全く視野に入っていない。
以下に、上の5点に関りながら、近世身分制度の特徴について詳しく見ておこう(女性の問題については、章末の別項にて検討する)。
(1)身分は政治権力が作ったものではない
「つくる会」教科書の執筆陣が、身分とは政治権力が作ったものだという、近代日本になって左翼陣営によって生み出された妄説にいまだにこだわっていることは、教科書の記述の冒頭部分と、末尾に「えた・ひにん」と呼ばれた差別された身分が存在した理由を説明した部分に明確に示されている。
@権力は社会的分業の促進によって生まれた新しい身分を追認・確定した
しかし、豊臣秀吉や江戸幕府は、身分制度を作ったのではない。武士・百姓・町人という身分は、平安時代中期以後の中世社会における商工業の発展を基礎にして、古代の血の貴賎に基づいた身分制度が徐々に解体し再編成される課程で、徐々に生まれてきたものである。豊臣秀吉や幕府の政策は、社会的分業に基づいて分離しつつあったこれらの身分のまだ未分化であったものを分化・促進し、これらの身分を追認・確定したに過ぎない。
中世の末期・戦国時代においては、武士・百姓・町人の身分はまだ未分化な部分を残していた。これは、彼らの何れもが集団を組織して武装し、それぞれの生存権をかけて対立・抗争・離合・集散していたことにもっとも良く示されていた。そしれこれは、中世という時代が政治権力が一元化されておらず、ことなる社会集団の対立抗争を法によって調停・裁可できないという事態に基礎を置いていた。だから武士・百姓・町人という生産・流通に携わる諸身分は、それぞれ武士団・惣村・惣町を形成して集団で武装し、その実力に基づいて自己の支配領域において自治的機能を果たしながら、互いの利益のぶつかり合う領域においては、争いあう複数の権力である公家朝廷・寺社・幕府守護権力のそれぞれと複雑に結びついて抗争を繰り返し、この時代の秩序は、集団で武装した実力によってのみ保たれていたのである。中世においては、百姓や町人の上層部もまた「侍」として認識され、「武士」という統治階級はまだ、完全には独立した存在ではなかったのだ。彼ら自身もまた武力という芸能を保持した「職人」と社会的に認識されていたことは、中世編で記述したとおりである。
信長・秀吉・家康によって代表される統一権力は、この争乱の時代における諸所の社会集団の抗争を、武士身分の統一した力を背景として、法に基づいた統治を行う公儀政体を確立することを通じて治めようとし、武士身分を百姓・町人から分離させようとしたた。そしてこの公儀政体を、諸身分の社会的分業を明確に区分することによって支えようとしたのである。
秀吉が行った刀狩は平和をもたらす政策ではなく、身分間の分業を促す政策であった。この政策は、彼が「天皇の平和」の下で、社会的諸身分・集団間の抗争は全て秀吉の公儀政体における裁判で裁可することを命じ、秀吉の命によらない争いは全て私的抗争として排除し、社会における法の下における平和を実現する課程で、刀は統治行為を行う身分の表象として定め、武力の行使を統治行為を行う武士身分に独占するためのものであった。そしてこの身分間の社会的分業を促進する政策は江戸幕府によっても継承され、社会は、統治行為を行う身分と生産・流通その他に関る身分とに明確に分離されて行ったのだ(ただし統治行為を全て武士が独占したわけではなく、百姓・町人・諸職人の集団が自治によって、統治行為を分担していたことはのちに述べる)。
これゆえ近世の身分は政治権力によって作られたのではなく、社会的分業の進展の中で生まれた身分を、権力が追認・確定することによって確立したのである。
そしてこの近世身分の古代の身分制との大きな違いは、古代の身分制が血の貴賎によって分離されていたの対して、社会的分業を大義名分として確立されているところに特徴があった。このことは、信長・秀吉・家康によって作られた身分に関る諸法令において、天皇・公家は伝統を保持する芸能を守るべき者とされ、僧侶は社会的儀礼と信仰を守るべき者、武士は社会の平和を維持し統治者として行動すべき者、百姓・町人はそれぞれの家職に応じて社会的生産活動に従事すべきものと明確に規定しているところに、よく示されている。この意味で近世の身分制度は、血の貴賎という観念に基づいた身分が解体されていく課程を示しているものと言えよう。
A血の貴賎による身分観は解体されたわけではない
しかし、血の貴賎という観念が完全に解体したわけではないことは、天皇・公家という伝統的な貴種の身分が残され、彼らと結びつくことによって武士身分の統治行為を権威づけていることに示されている。武士身分もまたその頂点には、神君家康公という清和源氏新田流という貴種を戴き、その徳川氏との関係を通じて自己の権威付けを行っていた。それゆえ武士身分もまた、その支配的地位を維持して行くためには、貴種の対極にある賎視された身分の存在を必要とした。このため武士によって形成された公儀政体は、中世社会の進展の中で次第に百姓・町人によって賎視され、村や町の共同体から次第に周縁に追いやられつつあった人々(中世においては非人と総称されていた)を百姓・町人身分から分離させ、生まれつつあった社会的差別を公認していったのである。のちに詳しく述べるが、近世の賎視された諸身分もまた、政治権力が作り出したものではなかった。社会の中で生まれつつあった差別を、権力がその必要性に基づいて公認していったに過ぎなかったのだ。
社会的身分が政治権力によって作られたという観念は、近代日本における左翼陣営の運動の中で生まれた観念であった。左翼陣営は、近世の被差別民に対する社会的差別が明治維新における四民平等政策によっても解体されなかったのは、近代日本資本主義社会を形成した維新政体が天皇制という近世封建制度の残滓を引きずっているが故であり、この資本主義と共に天皇制を打倒する社会主義革命の遂行によってこそ、社会的差別はなくなると考えた。身分や差別が政治権力によって作り出されたという認識は、こうして生まれたのだ。この誤った政治主義的社会認識を、「つくる会」もまたいまだに共有していたのである。
(2)諸身分は固定されたものではなかった
また、身分は固定したものであり移動はできなかったとする旧来の認識は、どのように誤りであったのだろうか。
実は武士・百姓・町人の身分は、相互に移動可能であった。そしてこのことは、近世身分が血の貴賎という生まれによって成り立つのではなく、社会的分業によって成り立っていたことを良く示す事例でもある。
そもそも、近世の武士身分そのものが、戦国時代から近世初頭において、百姓や町人から成りあがった人々を大量に含んでいた。太閤秀吉が尾張の百姓身分から成りあがったことに象徴されるように、近世大名家にもたくさんの百姓・町人身分から成りあがった家を含んでいた。いや、大名家の中で、旧来の統治階級である公家の血をひく守護大名や地頭の系譜を持つものはむしろ少数派であった。大名の多くは、織豊政権の中で、百姓上層の地侍層から成りあがったものや武家の下層である土豪や町人から成りあがったもの、そして徳川氏が戦国大名として、また統一権力者としてなり上がっていく課程においてその覇業に協力して、地侍や土豪、そして町人から大名に成りあがった人々であった。そしてこれは、徳川将軍家や大名家の家臣団にも言えることである。彼らは生まれによってではなく、自己の実力によって武士・大名に成りあがったのだ。
@近世も続く百姓・町人の武士身分への上昇
この武士身分への上昇の課程は、近世になっても続き、これは近世後期にも引き継がれて行った。
(a)必要とされた統治行為の知識
なぜなら武士は戦国時代とは異なり、統治行為を社会的分業として担う身分であった。そして江戸時代の社会は、従来考えられてきたような自給自足の社会ではなく、高度に商工業が発展し、農林漁業も商工業との関係なしには成り立たず、この商業網は、東アジアの交易網を通じて世界にも直接繋がったものであった。それゆえ武士には、武芸だけではなく、統治者として社会的分業とその実態に通じていることが必要な資質となっていった。だが都市に隔離され、従来は武芸をもって主家に使えてきた武士の多くにとっては、このような資質を養うことはすぐには困難であった。それゆえ武士層は不断に、百姓・町人階層から、それぞれの身分の中で統治行為に関ってそれに習熟した人々によって補充される必要があった。実は次ぎに述べるように、統治行為は武士の専業ではなかった。村の統治は村共同体が行い、町の統治は町共同体が行い、職人や芸能者などの仲間・座の統治は座共同体が行い、武士が行う統治行為は、このような社会的諸集団の範囲外にわたる問題だけであった。だからそれは広域行政であり軍事であり、外交であったのだ。
(b)各身分の上層から不断に補充される武士身分
しかし、農林漁業、そして商工業に関する知識は、武士にはなかったし、農林漁業商工業に関る諸集団間のしきたりや利害調整の技は武士にはなく、それぞれの社会的身分の中に蓄積されていた。村には村の統治行為を家職として執行する名主層がいたし、町には町の統治行為を家職として執行する町名主層がいた。そして商工業に従事する商人や職人の世界にも、それぞれの仲間・座組織の中で、その統治行為を家職として司る乙名層がいた。このそれぞれの社会集団の中の統治行為に携わる上層の人々は、武士と同様に名字・帯刀の権限を許され、それぞれの家職を遂行していた。この人々の中から継続的に、武士身分に新たな血が吹き込まれたのである。それは婚姻や養子縁組という形をとって合法的に行われていたし、「取りたて」という形で身分を引き上げる措置もしばしばとられたのであった。大名家の留守居役や用人、そして奉行層という統治行為の実務を執行する家には、しばしば従来から縁戚関係をもっていた村名主層や町名主層そして諸職の乙名層から、婚姻や養子縁組によって、新しい血が吹き込まれていたのだ。そしてこれを象徴することは、将軍や大名の生母の多くが正妻である大名家や公家の姫君ではなく、下層の家格の武士や浪人そして百姓や町人身分出身の側室であり、側室腹の男子が家督を継ぐことを通じて、生母の縁者が大名や武士に取りたてられることであった(同じことは公家の世界でも行われた)。
(c)売買された武士身分
この傾向は近世後期になるとさらに加速され、武士身分そのものが「株」として金銭で売買されるようになり、財をなした百姓・町人や芸人が武士身分を購入して、立身出世する事態も出現したのである。幕末に活躍した幕臣勝海舟の曽祖父が盲人であり、越後の百姓身分から江戸に出て盲人の座である当道で鍼や平曲の技をつけ、立身するとともに金貸しとして財をなして盲人の最高位である検校職も手に入れ、最後には旗本株を手に入れて子息を旗本とした人物であったことは、良く知られた事実である。
身分すらも資財の多寡という市場原理によって左右されるほど、近世身分制度は、血の貴賎という観念からはかなり遠いものになっていた。
A武士を捨てることも行われた
そして武士身分のものが武士を捨て、百姓・町人になることもあった。
自発的に行われる身分間の移動としては、武士の家の娘が百姓や町人の嫁になる場合、そして武士の家の次男・三男などが百姓や町人の婿になったり養子縁組をしたりする場合である。
先にも述べたように、近世社会は、社会的諸身分ごとの諸集団が自治を行っている社会であった。それゆえ百姓身分の中にも町人身分の中にも、それぞれの社会集団において行政事務や治安維持という統治行為を担う階層が存在していた。村や町の名主層。そして仲間・座の乙名層である。これらの階層からは、戦国時代において、そして近世になって以後もたくさんの人々が武士へと転身しており、これらの階層と武士は婚姻や養子縁組を通じても近親者であった。だから武士の家から百姓や町人の家に嫁にいったり養子に入る例もたくさんあったのだ。
また近世社会が確立していくに従って、武士身分の者の中から商才に恵まれた者が商人になったり、分業が拡大していくにつれて生み出された新しい身分、つまり学者や医者、そして絵師や戯作者などに転身していく例も数多く見られる。そしてこれは若い内に転身する例と、自身の武士としての家督を息子に譲って隠居した後になって、若いときから兼業していた学者や医者、そして絵師や戯作者に専念するという形でも行われていた。定火消し同心の家に生まれて絵師になった安藤広重や幕臣として勘定方にまでなりながら戯作者・狂歌作家として活動した山東京伝、高松藩士に生まれながら妹婿に家督を譲って江戸に出、戯作者や本草学者として活動した平賀源内などが良く知られている。
そもそも武士身分も、集団を離れては存在し得ない。武士にとっての集団とは武士団であり、近世においては藩であった。武士は藩主に使える家臣として大名家や将軍家、そしてそれぞれの有力家臣などに仕えて職を得、家禄を戴いて暮らしを立てていた。したがって主家の藩が改易になって領地召し上げなどになれば、たくさんの武士が職を失って浪々の身となったのだ。職を失った武士は、近世初頭であれば旧来の家領であった村へ戻って百姓となったり、近世を通じて発展した大都市に移って浪人として様々な職業に手を染めて生きていくこととなる。そしていずれかの家中に仕官できなければ、いずれは武士身分を捨てて町人や百姓となったのだ。
このように武士が武士身分を捨てることも、数多く行われた。
B百姓と町人は一つの身分
また百姓と町人とは一つの身分であって平人と考えられ、相互の移動はかなり自由であった。
百姓とは、この教科書が誤って認識しているような農業者のことではない。百姓とは文字通り百の姓(かばね)。数多くの職業をもつ公民という、古代以来の身分に由来した呼称である。したがって百姓は農業者もその内に含まれるが、商人や様々な職人、そして漁民や山の民も含まれていた。多くの百姓は農地を持って農業に従事してもいたが、同時に商業や手工業、そして漁業・水産業や林業も兼業する場合が多かったのだ。
中世の村においては、惣村という広域の村連合体の中核に、市を持った商工業者を中心とした村が存在したことは、先に中世の章で詳しく見たところであった。そして戦国から近世へと時代が転換する過程で、大名の居城のまわりに城下町が形成されて、大名が城下町への商人や職人の集住をはかり、領国内の村に住む商人や職人の移住を促していったことはよく知られている。しかしすべての商人や職人が城下町に移り住んだわけではなく、近世の村にはたくさんの商人や職人が存在した。この人々は農業と兼業していた場合もあるが、多くは事実上は商業・手工業専業であった。水呑み百姓と呼ばれて土地を持たない無高の百姓が村にはたくさん存在するが、その中には、商人として手広く商売する者や職人として手工業に携わり、中には大名家に仕えて大名の為に仕事をする役を仰せつかった者もいたのである。諸国の大名領国には、城下町に住んでお上のご用と勤めた町方職人がいたとともに、村に住んでご用を努めた在方職人も存在した。この在方職人は職人であるにもかかわらず人別帳では百姓とされていたのだ。
百姓は、さまざまな職業の人達で構成されていた。農業専業者もいたし、他の職業兼業の者もいたし、商人や職人、そして漁民や山の民の専業者もいたのだ。そして近世の農業者もまた諸産業との関りなしには農業生産をなしえなかった。のちに詳しく検討するように、近世の農業は、きわめて商業的農業であって、手工業のための原料生産や都市の住民のための様々な食料や生活資材を生産して、その生産物を都市へと出荷するものであった。当然、百姓と町人との仕事を通じての結びつきも強いわけであり、そもそも両者は中世においては一体のものであったのだから、職業上の結びつきだけではなく、婚姻や養子縁組を通じた縁戚関係も強い。そして農業者の家から職人や商人の家に見習いに入って、やがてこれに転業して行くものは多数いたのだ。
ただし村から町に移動して職業を変えるには、村と町との相互の承認が必要ではあった。だれを村人とし誰を町人とするかは権力が決めることではなく、村や町が決めることであった。従って住所を替えて転職をすることが認められた場合には、人別帳と宗門改め帳が移動して手続きが完了するのであった。
そして近世を通じて、村から都市へと多数の出稼ぎ者が流出した。中には上記の正規の手続きを経て転居・転職したものもいたが、大部分は許可なしでの出稼ぎであった。そして長い間都市に住んで職人や商人として暮らしてはいても人別帳と宗門改め帳が移動されず、村のそれぞれの帳面に出稼ぎ者として記載されたままのものも多数いたわけである。近世後期になって幕府・藩がたびたびこのような身分の移動を禁止する法令を出していたが実効はあがらず、近世を通じて百姓から町人への移動は行われ続けたのであった。
C身分による住所の分離も徹底されてはいない
従って近世初頭の織豊政権によって行われた身分の分離は、実際は理念だけであって、完全に分離されていたわけではなかったのだ。政治上の理念に過ぎない。
実際には上に見たように、町にも村にも商人や職人は存在し続け、村にも定期市が設けられて、村や町の商人・職人が商品を売買していた。また、武士もすべて城下町に集住したわけではなかったのだ。
あとの項で詳しく見るが、百姓もけして土地に縛り付けられていたわけではなく、都市へ出て行く以外にも、他村や他領に出て行く例がしばしば見られた。この時代は戦国時代以来、各地で大規模な新田開発が行われていたわけであるから、どこでも人手が不足していた。だから百姓の次男・三男や名主(みょうしゅ)の下人が独立し、自立した百姓として生きる道が開かれていた。このため大規模な新田開発が行われていて人手の足りない地方には、他の藩の領地からも、たくさんの百姓の移住がなされていたのだ。
また、多くの武士は主家から貰う家禄は、給米という形で支給され、領地が宛がわれることはなかった。しかし大身の武士の中には、主家から領地を宛がわれ、所領とした村の中に住む場合もあった。そして地域によっては、中世以来の国人の系譜を引く在村の領主が、近世幕藩体制成立後も村に住み、大名家に仕官することなく、自己の所有する田畑を免租の地として承認されて在村の武士として存続した例も多々見られるのであった。
D武士は百姓・町人を私に処断することは許されなかった
さらに近世社会における身分差別を示す例として、しばしばあげられるものが、武士の持つ「切捨て御免」であるが、これも実態とは乖離したものである。
切捨て御免とは、武士に対して百姓・町人が無礼を働いた場合は、武士は百姓・町人を切り捨てても罪に問われないものと言われて来た。無礼な行為とは、武士の面目・尊厳を傷つけるものであり、自己の尊厳を守るために行われた私闘(これは喧嘩と認識された)は武家社会では許されていたからであった。
しかし近世社会は、法の下で統治された社会であった。従って武士が百姓・町人を切り捨てた場合にも、これが喧嘩であったのか、妥当な処罰であったかどうか、厳しく吟味されたのだ。武士身分の犯罪を吟味・処罰するのは、幕府や藩における評定所の役割である。従ってこの件は評定所で吟味され、関係者の証人尋問や証拠の提出によって、切り捨てられたものが武士の面目・尊厳を傷つける行為を行ったのかどうかが、吟味され、さらに当該の百姓・町人が武器を所持していたのかを調べ、この私闘が名誉を巡る喧嘩と認定できるのかどうかが吟味された。そしてこのような事実がなければ逆に、切り捨てた武士の方が死罪に処せられたのだ。
武士・百姓町人間の問題は、身分差別というよりも、社会的分業といった側面の方が強い。その中で武士は、次ぎに見るように、社会の安定を図ることをその任務として存在したわけであるから、武士自身が法を犯すような行為は建前としても許されなかったのだ。
(3)武士だけが統治・治安維持行為を独占したわけではない
またこの教科書の大きな誤解の一つに、統治行為が全て武士の手に集中されたという認識があるが、このことは教科書の記述の、「武士には治安を維持する義務があり・・・行政事務に従事した」「武士を経済的に養うのが・・・百姓・町人であった」という部分に明確に見て取れる。「つくる会」教科書の執筆陣は、次ぎの「村と百姓」の項で、村や町においては自治が行われたと記述しておきながら、その自治の中に治安維持や行政事務を含めていないわけだ。
@近世社会は諸身分集団ごとの自治社会であった
中世社会は、村や町という自治組織が数多く結集して惣村・惣町という巨大な組織を作って自己の生活・利益を守るために武装して互いに戦ったり武士権力と戦ったりした時代であった。しかし近世幕藩体制は、このような村や町の自治の構造を破壊したわけではなかったのだ。幕府や藩が村や町から接収したものは、村や町相互間の争論や村や町を超える範囲での治安維持などを、村や町が自衛武装した力を背景として決着をつけることであった。したがって村や町が失ったものは、自衛武装して他の集団と争論を行うことや、村や町が広域に結合して(惣として)自衛武装し、大名権力と争うことであった。これが豊臣秀吉が出した「惣無事令」であり「喧嘩停止令」であったわけだ。近世は大名が連合して幕府を形成することで大名間の争論をなくし、村や町が自衛武装して大名と戦う必要性をなくした時代であった。そして村や町相互の争論は全て、大名や幕府の法廷において争い裁可されることとなり、村や町相互の武力抗争は禁止された(もちろん武器を所持しない集団での抗争はあったし、武器を所持しないで集団で大名権力を幕府に訴える行為などは許されていた)。
しかし、村や町が武装を解除されたわけではなかった。
村や町の住人はそれぞれ、刀や槍や弓矢や鉄砲その他の武器を所持し、村や町の中における犯罪を取り締まるという、治安維持行為を担っていた。このことは、町がそれぞれ塀と柵とで区分けされ、町の境には木戸が設けられて木戸番と自身番が置かれ、通行人の監視と治安維持、そして朝夕の木戸の開け閉めによって町の治安を維持していた事態によく示されている。これらの木戸番や自身番は町人自身によって行われ、彼らを差配していたのが町名主であった。村においても木戸こそ設けられなかったが、村にも自身番はあり、村人は交代で武装して村の治安維持にあたったのだ。
従って大名権力が行う治安維持行為は、村や町の手に余る場合や、もっと広域での問題が生じた場合だけであった。広域の村の治安維持や行政を司る郡代奉行所や広域の都市の治安維持や行政を司る町奉行所の武士(与力や同心そしてその配下である手代)が出動するのは、村名主や町名主の依頼を受けてか、奉行所が独自の判断で広域の治安維持行動に動く場合にも、村や町の自身番を動員し、村や町の中の治安維持は彼らに任されたのであった。
武士が専業的に行う治安維持は、軍事であった。藩を超えての争乱や外国との争いに備えた沿岸警備。これこそ武士の専業である治安維持行為である。
また村や町から藩・大名に納入される年貢や冥加金の徴収もまた、教科書がきちんと記述しているように、村や町の村役人・町役人の仕事であった。そして村や町の職業上の事項はほとんど全て村や町の住民自身の自治で行われていたのだ。行政事務もまた、武士だけの専業ではなかたのだ。
A武士階級の統治行為は百姓・町人との協議・協力が不可欠であった
こうしてみると、武士が行っていた行政事務とは何かという疑問が沸いてくるであろう。
各藩において、百姓と町人とに対する直接の行政をになった役職が、郡(代)奉行と町奉行であった。
郡奉行の仕事は、第1に、郡の範囲での治安維持と郡における裁判の執行であった。裁判には刑事裁判と民事裁判があり、奉行は両方の裁可を行った。二つ目の仕事は、田畑から収納する年貢率の決定(そのための検地と作柄を調べる検見)と年貢の収納そのものであった。そして三つ目は、用水路の掘削や新田開発を行って農業の発展に資すること。さらに四つ目には、村に対して藩や幕府からの触れ(これは法令と言うより、それぞれの問題に対する当面の対処法を示したものであった)を回すこと。最後に、飢饉などに際して、村に対して再建資金を貸し出したりお救い米を出したり、さらには再建のための公共事業を遂行したりすることであった。
町奉行の仕事はも郡奉行と同様である。第1に町(ただし多くの町が集まった都市)の治安維持と裁判の執行。第2に町が納める地子(宅地税・そのための検地)の決定と収納や様々な職能団体からの冥加金の決定と収納。さらに第3に町に対して藩や幕府の触れを出すこと。最後に様々な都市問題、貧民の流入や出稼ぎ者の増大、そして飢饉に際しての貧民に対するお救い事業の遂行といったこと。
こうして武士が行った行政事務を見ると、村や町が処理し得ない広域の問題を処理するのが武士の役割であった。しかしこれらの諸行政事務を遂行する上でも、村役人や町役人の協力、すなわち、自治を行う村や町の協力が不可欠であった。
裁判を行う上でも、村や町の事情に通じている名主の知識に頼らざるを得ないし、治安維持の面でも、村や町の住民の実際を知っている村名主や町名主の協力を得、それぞれの自身番の協力を仰がなくてはならなかった。さらに、年貢や地子の決定に際しても、実際の田畑の良し悪しや作柄の良し悪し、そしてそれぞれの町の宅地や家の実際を熟知しているのは、村や町の側であった。後に見るように、年貢の取り方や年貢率の決定に際しては、奉行は全ての名主の意見を聞き、彼らとの合議を経なければならなかった。用水路の開削や新田開発でも、土地の状況や技術を持っているのは村や職人であり、資金の面でも多くは商人に頼っていた。
武士が行う治安維持や行政事務もまた、村や町の協力が不可欠であり、その実際の知識は村や町が持っていたのであった。
近世社会は、諸身分の集団がそれぞれ自治を行っており、社会総体がこれの連合体であった。武士の果たした役割は、諸身分の利害を調整したり、諸身分の自治体の範囲を超えた問題に彼らの協力を得ながら対処したに過ぎず、もっとも大きな役割は、近世日本社会を、外部の敵から守る軍事と外交にあったと言わざるをえない。
「つくる会」教科書の近世社会観は、武士を支配者として見て、百姓・町人を被支配者として武士に統制されていたとする、古い近世観にまだ囚われているものと言えよう。
(4)家格の差別も不断に掘り崩された
以上のように、近世の身分間における差別は、従来認識されたほどには確固としたものではなかったのだ。
そして、近世の身分制社会における差別は、身分外の人々に対する差別を除けば、主として身分内の家の格に関する差別であったが、この家格による差別について全く記述していないことは、「つくる会」教科書の欠点である。
@職と結びついた武士における家格差別
武士の世界は、極めて厳しい家格による差別によって成り立っていた。明治維新期に活躍した福沢諭吉が述べたという「門閥制度は親のかたきでござる」という言葉の門閥による差別は、武士身分における家の格による差別のことであった。
武士の家格による身分は、次ぎのようになっている。それは上から見ていけば、将軍・大名の領主階級であり、これらの下にその家臣団があった。
そして領主階級にも、家格による厳しい差別があった。
最上級は、言うまでもなく将軍家である。この下が将軍家臣としての大名であるが、大名もまた、家格によって、幕府機構内の役職・役割や、屋敷や門の様式や規模、服装・伴の数・籠の仕様などまで差別されていた。
大名の中で別格の扱いを受けたのが、将軍家一門である御家門大名。そして幕府の老中などからも施政について諮問を受けたり意見を述べたりするご意見番的存在として重んじられたのが、国持ち大名。これは、律令官制における国司の伝統を引き継ぎ、一国以上の所領を持つか、一国に相当する所領をもった大名であり、国高で言えば、10万石以上の大名であり、270家ほどの大名の中で、わずかに20家しかない。そしてこれは、主として外様大身大名であるが、この中には家門大名数家と譜代大名数家も含まれていた。
また良く知られているように、幕府の様々な役職について幕政に直接参加できる大名は、譜代大名という、古来徳川氏に臣従してきた家臣から大名になったものか、江戸時代になって徳川将軍家と特別な関係にあった家臣大名しかできなかった。ただこれは、幕府が、徳川将軍家の家政機構としての性格を持っていた故であり、将軍家の家臣と目される大名だけが直接幕政に関り、外様大身大名を中心とした国持ち大名が意見を述べるという形で参画したものであった。
さらに領主階級の家臣団内部にも、家格による差別があり、この家格は自動的に、幕府や藩における役職に連動していたし、会合における席次や屋敷の構えや供の数、服装などにも連動していた。
将軍家直臣の中で大名以下のものは、旗本と御家人とに分かれていた。旗本はいわゆる上士階級であり、主君である将軍に直接お目見えが許されており(つまり意見具申が許されており)、幕府内において、様々な決定・執行権限を有する役職である大目付・町奉行・郡奉行以下の役職について、老中とも協議しながら幕政を運営した階層である。そして御家人は、いわゆる下士階級であり、彼らは将軍へのお目見えはかなわず、旗本の指図の下で、下職として実務に従った層であった。御家人は徒士(かち)・足軽と呼ばれた階層である。
さらに大名家の家臣にも、同様な階層があった。藩主へのお目見えが許されて藩政の枢要な役職について藩政を動かす層が上士層であり、この最上層が一門・家老層で、藩主に代わって藩政の仕置き全般を総覧する権限を有し、その次ぎが城代や奉行・用人・留守居役などの役職を勤める上士層があった。そしてこの上士層の下に、藩主へのお目見えがかなわない下士層がおり、これが徒士(かち)・足軽と呼ばれた階層である。
A家格による職の独占は個人の能力によって掘り崩された
ただ以上の武士層において、すべての役職が家格によって独占されていたわけではなかった。幕政・藩政における役職は、行政能力が問われる仕事であるがゆえに、その仕事に精通することや深い知識・判断力など、個人的な能力が問われたからである。それゆえ、本来は奉行職などにはつけない下士層の武士であっても、能力があって実績を積んだ者が上士層のつく役職につく例は多々見られた。
例えば幕府において都市の行政司法を司る町奉行や幕府の収入である年貢などの諸税を司る勘定奉行は、旗本層が家職として執行していた。しかし彼らの下職として認識されていた御家人身分から立身して町奉行・勘定奉行にまで至った者も稀に存在するし、同じく旗本の家職である勘定方や代官となった者は数多くいる。そして諸藩においても、徒士身分から代官・大目付となり、さらにその子がこれを引き継いで、大目付・町奉行・近習頭と立身した例も数多く見られる。さらには、藩の執政として藩主に代わって藩政を総覧する家老職は、本来はこれを家職とする一門層や家老層が執行するのだが、家老職の下で奉行などを務める家柄の者が抜擢されて家老になった例も多く見られる。そして下層の家格の者が上層の家格の者が勤める職についた場合には、その家の家格が上昇されて家禄もそれに見合って増大し、その家を継いだ者は父の初任の職よりも上の職から出発することが可能となり、さらに上層の職につき、家格をさらに上昇させることも可能であった。
このように武士身分においては、その家格に応じて役職が分担されてそれに相応する知行ないしは給米が、その家を継いだ者に代々給されていた。この意味で武士層における家格も、職業の独占と密接に関った身分制度の性格を有しており、その家格は血の貴賎に基づいた身分観の様相を持っている。しかしこれも、個人の能力によって乗り越えることは可能であり、福沢諭吉が述べたほどには、門閥制度も確固としたものではなかったのだ。ただこの立身はあくまでも抜擢人事であって、家格によって職を決めると言う原則は揺らいではおらず、抜擢と言う主人や上役の恣意に依存していた点を、福沢諭吉は問題にしたのであろう。
以上のような武士身分のさらに下層に、武家奉公人という中間や小者がいた。そして彼らは下士身分や上士身分に上昇する事は出来ず、一生下職として主人の身の回りの世話をする身分であった。この武家奉公人は町人や百姓から補充されるのだが、百姓・町人とは違って日常的に武器の携帯が許されたこの層の存在は、浪人の存在とともに、都市における失業者の問題や治安維持の問題にとって、頭の痛いものとなったことは良く知られている。武士身分でありながら武士身分とは扱われないという差別的存在が、彼らの中に大きな不満を常に充満させており、この層が、かぶき者として派手な衣装や武器を持ち、賭博や喧嘩を生業とする法の統治の外にある存在となったからである。これも、武士身分内の家格差別と言ってよいだろう。
B平人における家格差別
百姓・町人という「平人」と呼ばれた身分においても、家格による差別は厳然として存在した。
村や町の政治は村人・町人の自治に委ねられていたわけだが、村政・町政に参加できるのは、村や町の住民の全てではなかった。村においては、高持百姓・本百姓と呼ばれて、検地を受けた田畑を所有して年貢を負担する階層に限られていた。従って無高百姓・水呑み百姓と呼ばれた田畑を持たないかわずかしかもたない階層の人々は、村政には参加できなかったのだ。そして村政の長である名主になれるのは、近世初頭においては、本百姓の中のもっとも家格の高い層、すなわち中世の国人領主の系譜を引く家やそれぞれの村の草分けの家と呼ばれた、中世における名主(みょうしゅ)の系譜を引く家であった。また百姓の家の格によって、家の間口の広さや門の構えや大きさなどが制限され、家の格が視覚的に明示されるようになっていたのだ。
町人においてもこれは同じであった。
そもそも町人とは本来、町において家屋敷を構えた商人・職人を指しており、これは中世の町衆の系譜を引いた人々であった。従って町名主などとなって町政を主導したのもこの層であり、家屋敷を持たず、彼らの下で仕事に従事した人々(店子層)は、町政に参画できなかったのだ。
そして平人の間にも、それぞれの階層の内部でさらに、本家・分家などの家格の差別があり、さらには当該の地に移り住んだ時期を指す、古来・新来などの差別も存在したのだ。
C市場原理によって打破される平人における家格差別
もっとも平人における家格差別も、武士におけるのと同様に、いやそれ以上に、固定したものではなかった。百姓も町人も、それぞれの仕事上の才覚によって資財を蓄え、多くの田畑を集積して所有高を増やして名主層に仲間入りしたり高持百姓になることも出来たし、奉公人であった店子の町人が一人立ちして店を構え、店持・家持という町人に上昇することは可能であった。さらに村における名主の地位は、近世初頭の名主(みょうしゅ)層による独占から、名主(みょうしゅ)層の下人身分から独立して本百姓となった小前百姓が、新田開発や商業的農業の発展によって増大し村における発言権を高めるにつれて、近世中・後期にかけて次第に選挙制となり、中には名主(みょうしゅ)層を排除して小前百姓から名主が選ばれるに至った地域もある。
平人による家格差別は、彼らの職業自身が商品流通と言う市場原理によって成り立っていた故に、資財をためたことでより上層の家格を手に入れるという市場原理が働いたのだ。
このように、近世における身分制度は、その生まれと血の貴賎によるのではなく、それぞれの職業上の社会的な地位に対応していたという特色が、家格においても示されていたのだ。
(5)次々と生まれるその他の身分
近世の身分は、武士・百姓・町人だけではなかった。これ以外には「つくる会」教科書が示したように、僧侶身分という葬送儀礼と宗教的儀礼、そして知識人としての役割を果たした身分や、その他の芸能によってなりたった身分が存在した。
この「芸能」による身分として最上層のものが、天皇・公家である。
天皇は日本国を統治する権限を根源的に保持するものと考えられており、実際に統治権を総覧する将軍以下の領主階級を認定する権限を有していた。そして天皇は、日本国の安泰を祈念する様々な宮中行事を主催する「王」として観念され、天皇に相応しい芸能、中国や日本の古今の歴史・文芸・有職故実に通じ、その道を極めていることが要請された。
公家身分はその天皇を補佐して、様々な宮中諸行事を執行する身分である。彼ら公家もまた天皇と同様に、中国や日本の古今の歴史・文芸・有職故実に通じ、その道を極めていることが要請されたが、それは、それぞれの公家としての家職に応じたものであった。公家も武士と同様に、宮廷における様々な職を、家格に応じて代々執行していた。そしてその家格には、摂政・関白になれる摂関家や大臣になれる清華家など、さまざまなものがあり、これは厳しくその家によって継承されると言う、血の貴賎という原理に準拠していた。ただし下層の公家はその家禄が少ないが故に、家職と一体となった芸能の伝授による教授料や家職に繋がる商人・職人・芸能者の諸団体からの上納金に頼る傾向が強く、これらの商人・職人・芸能者との婚姻・養子縁組関係も多く、中には、公家の家の株をこれらの者に売り渡しものすらあった。この点は、下層の武士身分と同様であった。
また近世の天皇や公家は、領地や給米を幕府から支給されており、幕府・大名の統治権限に芸能を持って権威を与える存在となっており、中世までの自立した領主身分とは異なる存在でもある。
さらに近世においては、芸能による身分が社会的分業の拡大によって次々と生まれて行った。
その上層には、統治行為の背景にある思想・知識の集積としての学問の必要性が高まるに従って生まれた学者層があり、これには、儒学・蘭学などの洋学・国学などがあった。また医学の発展によって医者という新しい身分も確立し、漢方医・蘭方医などがあった。そしてこれらの身分はもともと、武士身分・公家身分という上層統治階級から移動した者が多数を占めていた。
さらに芸能による身分としては、絵師や能役者や歌舞伎役者もあり、さらには中世の非人層から芸能者として上昇してきた山伏や巫女、くぐつ・説教者や盲僧・琵琶法師など、本来は宗教的儀礼に関る霊能者として捉えられてきた層もまた芸能者としてたち現れ、それぞれが仲間・座組織を形成して自治を行った。
そして社会的分業が進むにつれて新しい身分、武士・百姓・町人の周縁的身分が幾つも生まれて行ったのだ。それは例えば、奉行所の同心の配下となって町や郡の治安を預かる目明し。これは「通り者」と呼ばれた博徒の仲間組織があり、これの一部に治安維持の末端を担わせたものであった。さらには、町政において町の治安を預かる木戸番や自身番。これらも一つの身分として成立し、その株が売買されたのである。
このように近世社会においては次々と新しい身分、身分とは呼ばないような周縁的身分が生まれて行った。この点に、近世身分は生まれによる、血の貴賎による古代的身分ではなく、職業の別による身分の色彩を強く持っていたことが、よく示されている。
(6)生まれによって差別された被差別民
しかしその生まれによって一族累代身分を固定されたのが、「えた・ひにん」と呼ばれた被差別身分であり、将軍・天皇という生まれによって固定された貴種身分の対極に存在した。この被差別身分は、他の身分への移動が社会的に禁止された層であり、生まれによって代々継承されるものであった。
@「ひにん」の社会的役割
「つくる会」教科書は、「えた・ひにん」と記述して両者を区別していないが、両者はまったく別の身分であった。
中世においては「ひにん」の呼称は、すべての被差別民を総称するものであったが、近世においては、主として乞食を行う様々な障害者やライ者(ハンセン病患者)であった。彼らは人知を超える原因によって体に障害を負い、そのことによって通常の社会的役割を果たせなくなった者である。しかし古来この人々は、人知を超える障害を負っていたが故に神にも通じる人として尊敬され怖れられていた。それゆえ彼らは、神社や寺院の境内に住みつき、訪れる人々に寿(ことほ)ぎの言葉を述べて施しを請うものであり、彼らの発揮する霊力によって人の身に降りかかる災危を祓うことで施しを得ていたのである。
この人々が中世を通じて都市の周辺に集住、乞食の仲間・座を作って乞食をしてきた。この人々が近世においても主に「ひにん」と呼ばれた人々である。
また「ひにん」には「非人番」などと呼ばれて、村や町の境にあって外部からの侵入者を防ぐ治安維持の任務に当たった人々もいた。これは、中世における「ひにん」が都市京都などにおいては、治安の維持・刑罰の執行などにあたる検非違使の配下として組織されてきたことに由来しているのであろう。さらに「ひにん」身分には、平人から犯罪などの理由で一時的に「ひにん」身分に落とされた者も含まれていた。この上からの身分移動があった点は、「えた」身分と大きく異なる所である。
A商工業者として活動した「えた」身分
「えた」という呼称は、この身分の人々に対する蔑称であり、彼ら自身ではこのような呼称を使うことは無く、「かわた」とか「ちょうり」とか地域によって異なる呼称があった。
彼らの社会的役割は、古来「清め」と呼ばれ、「けがれ」を取り除く仕事に関るものである。「けがれ」とは人間社会の状態が人知を超えるものによって通常ではない状態になったことを指し、これゆえ「清め」とは、その人知を超える力を人間社会から遠ざけて、人間社会を通常の有り方に戻す行為であった。
近世においてこの人々が担った主な仕事は、斃死した牛馬の処理であった。
病気その他で死んだ牛馬の死骸は、村や町の外部に設定された捨場に遺棄された。そしてその死骸の処理を持ち主が「かわた」などの斃死した牛馬の処理を専業とした人々に解体処理を依頼し、祝儀または布施という名目で「かたづけ料」を支払って処理してもらった。そしてこの死骸から剥ぎ取った皮を利用する権利も「かわた」身分の者の独占であった。
従って皮革加工業は「かわた」身分の独占であり、この皮をつかった雪駄などの履物の生産・販売・修理も彼らの独占的な事業であった。ただし販売は、問屋に卸す行為だけであり、人々に直接販売することは許されてはいなかった。
また灯心の生産と販売もまた、彼らの独占事業であった。灯心はいぐさの茎の髄を乾燥させて作った紐状のもので、器に入れた油に浸して火をともすものであり、蝋燭の芯としても使われた。これは古来神聖なものとされ、様々な邪気を払うものと観念されていた火と関係するものであろうか。
さらに彼らの独占的事業として認められていたものに、織機の竹筬(たけおさ)がある。これは織機の中枢をなす部品で、竹の棹に竹片を多数連ねて櫛の歯のようにして固定し、ここに縦糸・横糸を通して織物をつくる部品である。これ以外にも竹細工も彼らの独占的事業であった。この仕事がなぜ被差別民の独占とされたかは確定的ではないが、膠(にかわ・牛の皮や筋を煮て作ったもの)を使用するためか、それとも竹筬(たけおさ)が針状をなしており、針もまた霊力を持つものとして被差別民の専売であったことと関係しているのかもしれない。
また砥石の製造と販売も、関東では彼らの独占であった。これも大地を切り出して砥石にする行為そのものが大地に変更を加える超自然的な力と観念されていたことと、砥石によって金属製品の錆をとって再生することが、「けがれ」を祓う「清め」と見られていたからであろうか。
以上が「えた」と蔑称された被差別民の主な正業であり、教科書が記述した「皮革製品・細工物」の実態であった。つまり彼らは、商工業者なのである。彼らの多くは村に住み無高の百姓であったが、上のような工業製品を生産し販売することで生活を成り立たせていたのだ。そして彼らの元締め的性格の家は、多数の家屋と使用人を擁して製品を手広く製造・販売しており、村の名主層などよりも多い資財を蓄えて行った。これゆえ被差別民の生活は、従来観念されていたような貧しいものではなく、日々の手間賃で生活する賃労働者と大店を経営する大商人・親方とでなっていた。また彼らの中にも農業を兼業しているものも多く、商工業で蓄えた資財を元手に田畑を集積し、大地主になったものすらあったのだ。
B「えた」身分に強制された下級警察職務と掃除
しかし彼らには、藩や幕府から強制された仕事もあり、これに対しては彼らはしばしば抗議し、その役を解いてもらうよう行動した。
それは番役といって、町や村の見まわりや警備、そして犯罪者の捜索・逮捕という仕事であった。そして牢番役や犯罪者の処刑やその死骸の処理なども、役として強制されることが多かった。また彼らは、城や町の掃除も役として課せられることが多かった。
これも中世における、非人の「清め」という社会的役割の系譜を引くものであろう。
下級警察職務としての見回りや警備、そして犯罪者の捜索と逮捕。これ自身も、犯罪という人間社会を通常の姿と異なる状態にする超自然的力を持ったものを、人間社会から遠ざける「清め」行為だと考えられるからである。従って中世の非人の中で主として「かわた」と呼ばれた人々によって構成された近世の「えた」身分に対しても、中世に検非違使が課したと同様の義務が課されたに違いない。
また掃除と言う職務も、中世以来非人が担ってきた仕事であった。「小法師(こぼし)」と呼ばれた被差別民は、中世以来、寺社や宮中の清掃や樹木の植え替え、庭の清掃などに従事してきた。掃除もまた「けがれ」を祓う「清め」の行為として観念されてきたに違いない。これゆえ「えた」身分にも掃除の役がかけられたのであろう。
これ以外に礼銭を貰って行った同様な業務に、市の警備と、町中の不浄物(行き倒れの死人や犬猫の死骸)を片付ける仕事があった。これらも上と同様に、「清め」の行為だからであろう。
C差別の実相
「つくる会」教科書は、「きびしい差別を受けた」と記述するが、差別の実相については記述していない。もしかしたら、「死んだ牛馬の処理」や「特定の地域に住むことを強制された」ことが差別だとの認識なのかもしれないが、なぜ死んだ牛馬の処理をさせられることが差別なのか説明もなく、特定の地域に住むことの強制に至っては、他の身分も住所を特定の場に限られていたわけだから、差別の例としては不適当である。
被差別民に対する差別としては、第一に人付き合いからの排除がある。幕府や藩はしばしば、被差別民が百姓・町民という平人に紛れて仕事をしたり、共に飲食をしたり婚姻をすること、また許されもせずに平人の家に入ることを禁止していた。それゆえ、被差別民を平人の商家や職人の仕事場に紹介したり雇い入れた者が処罰されたり、平人と婚姻を結んだ被差別民を処罰した例がいくつも見られる。
このように被差別民と平人とが紛れないようにするために、外見だけで被差別民であることが識別できるよう、外出するときには腰に被差別民とわかる札を下げたり毛皮を下げたりさせ、さらには髪型も規制するなどしていた。また被差別民の家には毛皮を下げて標識とさせたり、酷い例では、被差別民の居住地の周りを竹矢来で囲わせたりした例も見られる。
さらには、被差別民が彼らだけの村に居住せず、平人の村に居住している場合には、村の祭礼にも参加させないという法令が出された例も見られ、被差別民が平人と共に飲食をしなければならない場合には、被差別民には専用の食器を持参させるなどの差別も見られた。
また乞食をしている「ひにん」は、従来は人の家に入ってめぐみを請うことが通例であったのだ、他の身分の人の家への立ち入りは禁止され、路上のみで行うように強制された。そして被差別身分の者が他の身分の人の家に立ち入る場合には、家の中への立ち入りは許されず、軒下の雨の雫が落ちる場所の外の地べたに座らせられるなどの差別も行われていた。
ただし、これらの差別の多くは法令で定められたものではなく、地域ごとの慣習であり、法令で定められた場合には、平人の百姓や町人から幕府や藩の奉行所に対して、そのような差別法令を出してくれと要請されて出した例が多く見られ、差別法令の初出時期は、17世紀の後半である。
このことはまた、差別が政治権力によって創出されたのではなく、社会の中で差別が生まれて、権力はそれを追認・強化したに過ぎないということを示しても入る。
D差別はどのようにして生まれたのか
最後に、このような差別がいかにして生まれたのかということについての、現在の時点での理解を述べておこう。
「つくる会」教科書は、P132の末尾において、「このような差別によって、百姓や町人に自分たちとは別の恵まれないものがいると思わせ、不満をそらせることになったといわれる」と記述し、差別が政治権力によって生まれたものという従来説を採用している。
しかしこれは、近代における左翼運動の誤った理論の中で生まれたものであり、1960年代後半までは継続されたが、その後の運動の中や社会史研究の進展を背景として、この説は誤ったものであったことが示され、概ね新しい説が承認されるに至っている。このことは、私が参考にした斎藤洋一著「身分差別社会の真実」や奈良人権・部落解放研究所編の「日本歴史の中の被差別民」という著作の中で強調されている。中でも後者は、奈良人権・部落解放研究所の講座や講演会の記録を編纂したものであり、差別をなくす運動の中でも、この見解が容認されるに至っていることを示している。
では、このような差別はいかにして生まれたのか。
(a)「けがれ」観念の変化と非人身分の創出
これは、被差別民に対する呼称の中や、その近世のおける生業の中に示されている。
「えた」という呼称を漢字で表記すると、「穢多」となり「穢」は「けがれ」である。
古代から中世において、「けがれ」とは、人間社会が超自然的力によって通常の状態ではなくなったことを指しており、この「けがれ」を清めて通常の状態に戻すには、超自然的な力を持った人間にしかなし得ないものと認識されていた。だから古代から中世にかけて、「けがれ」を「清める」ことを生業にした人々は、神や仏に隷属した民であり、彼ら自身が「けがれ」を「清める」ことの出来る超自然的な力を持った存在として敬われ怖れられていた。この「けがれ」をもたらす超自然的な力とは、人や動物の死であり病でもあったし、犯罪もその中に含まれていた。
しかし古代末期から中世にかけて技術の発展により、人間が自然に対して手を加えることが容易になって商品経済が発展してくるとともに、それまで神や妖怪の棲みかである異界であった山野・河海が開拓されて人間の住処になり、人々の超自然的なものに対する観念に変化が生じてきた。すなわち、神に対する怖れが次第に弱まり、神は人間の願いに応じて人間社会に対して現世的利益だけをもたらす、人間の力で制御できる存在と認識されるにしたがって、神の権威は低下した。それとともに神に隷属し、それ自身が神にも似た超自然的力を持ったものと認識されてきた人々に対する敬いの心も低下していったのだ。
そして「けがれ」そのものが、死とか病に直結していたために、「けがれ」が「穢」という漢字で表記されたことに象徴されるように、「けがれ」=「きたない」というイメージが付与され、「けがれ」に触れることが極端に嫌われるようになっていった。このために、「けがれ」を「清める」ことを生業とした人々も忌み嫌われ、次第に遠ざけられて行ったのである。
このような社会の変化は、平安時代にすでに見られ、「けがれ」を「清める」人々は、村や町の郊外の境に追いやられ、あるいは村や町を遍歴して歩く存在に落とし込められていた。斃死した牛馬の処理を行う皮革業者。超自然的な力を持ち「清め」る力を持つと考えられてきた様々な手工業製品を生産する職人。そして直接神に祈ることで「清め」を行う宗教者やこれと密接不可分なものであった芸能者。彼らは社会の中から、次第に排除されて非人と呼ばれ、公的な宗教組織も彼らを顧みることはなかった。しかし彼らの生業は、社会を維持して行くに不可欠なものであるが故に、完全に排除することはできない。だから彼らを社会の中に組みこみ、救済を図ろうという動きも生まれる。これが平安後期から鎌倉期にかけて勃興した新仏教の諸派であった。
そして中世という時代を通じて商品経済は発展し、社会的分業も進む中で、一部の芸能者や職人は被差別身分から脱出し、特別な技能を持った職人として社会の中に認知されていった。
しかし中世における「ひにん」の中で、直接的に死の穢れに係わる「かわた」などと呼ばれた人々やライ者(ハンセン病患者)などの重い病や障害を負った障害者は、「けがれ」を一身に背負わされ、社会の中から排除され続けた。
これが近世において「えた・ひにん」と称された被差別民であり、彼らが被差別民として社会の中から析出されたのは、中世後期から近世初頭であった。
(b)社会的差別を追認・強化した政治権力
中世後期においてすでに、村や町の境に集住させられていた彼らは、織豊政権による社会の再編成の課程で、1個の村や町を形成していた場合にも独立した村や町とは認定されず、平人の村や町に隷属する枝村・枝町とされて、独立した検地帳を交付されることはなかった。つまり彼らは、独立して自治を行える存在としては認定されなかったのであり、政治権力が社会の中で生まれてきた差別を追認・強化した始まりであった。そして近世社会が次第に安定し、百姓や町人の平穏で豊かな暮らしが確立し、百姓や町人のそれぞれの家職を継承した家が継続的に存続するようになっていくと、それぞれの百姓や町人が、それぞれの家格を誇りその由緒に拘って行くようになる。これが近世初頭、17世紀後半の時期である。
すでに見たように、権力が平人の要請によって様々な差別法令を出し始めるのが、この17世紀後半であった。そしてこの時期に幕府は、近世初頭においては斃死した牛馬の死骸だけではなく、病気や老化で働けなくなった牛馬を買いとって屠殺・処理していた「かわた」身分に対しては屠殺を禁止し、斃死した牛馬の死骸の処理だけにその権能を押し留めたのだ。つまり彼ら「かわた」身分が、「清め」としての範囲を越えて、皮革製造加工業の職人として自立して行く道を阻止し、「彼らが『けがれ』た存在だから『けがれ』たものを処理する」という差別観念を権力が助長したのであった。、
こうして「けがれ」を「清める」ことを生業としてきた人々が、このことゆえに社会から忌み嫌われ排除される事態が生まれたのではなかろうか。そして政治権力もまた、それ自身の存在の意味を確立するために、「聖なるもの」としての天皇の権威と結びつき、武家権力の頂点には、神となった神君家康公を戴く徳川将軍家を推戴したがゆえに、「聖なるもの」の対極としての「穢れたもの」の社会的存在を必要とした。だから社会の中から生まれた差別を追認し・それを強化しようとしたのではないか。
また、近世江戸時代を通じて、被差別民に対する差別は一様であったわけではないし、地域によっても異なる様相を呈していた。そして被差別民の多くは社会的に重要な位置を占める手工業・商業に従事したがゆえに、多くの財をなす者もいたし、手広く人を雇って商工業に従事する者も出、大規模な農地を集積して名主に匹敵する力を蓄える者も出てきた。それゆえ、被差別民と平人との交わりも拡大し、被差別民が身分を隠して都市の商工業に出稼ぎする例も増え、逆に被差別民の村の商工業に、他の村の平人の百姓や町人が出稼ぎする例も増え、その中で、普通の人としての交わりも拡大したのだ。
こうして近世中期・後期になって近世社会が変動し、これに伴って政治権力も揺らぐ場面が見られるようになっていった。社会の中で貧富の差も拡大し、異なる社会階層の争いも激しくなる。そしてこのような社会の変化に対応できなかった政治権力も揺らぐことになる。このような社会の激動する姿が如実に見られた場面が、近世中期・後期に頻発する百姓一揆や都市における打ちこわしであった。この打ちこわしにおいて、その参加者に対する処罰が、平人に対するものよりも被差別民に対する処罰の方が厳しさを増し、被差別民の村から打ちこわしに参加したものが少数であったにもかかわらず、村全体が処罰されるなどの例が見られることは、政治権力が、その権力の維持のために、社会的差別を利用した例であろう。先に見た差別の例の中の、服装や髪型などを平人と区別する差別が法令として立ち現われたのは、近世後期、18世紀のことであった。 このようにして社会的差別は生まれ、政治権力によっても追認・強化されたのではないか。しかし被差別民は、近世を通じて、農業に従事するとともにそれぞれの生業としての商工業に従事し、普通の民として、他の身分の民とは社会的分業として別に暮らしていたに過ぎない。従って平人との交流も拡大した時期もあったし、また社会の変動によって社会的差別が拡大した時期もあった。
これが差別の実相ではなかったか。
しかし「つくる会」教科書は残念ながら、以上のような研究の進展と社会的認識の深みをその記述にまったく反映させることなく、旧来の誤った学説をいまだに護持しているのである。
注:05年8月刊の新版における「身分制度」の記述は、かなり改善されてはいる(p108)。本文の中ほどに「ただし、武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった」という但し書きが挿入され、さらに欄外にコラムとして、「身分制度と百姓・町人」という詳しい記述が付け加えられている。このコラムでは、「士農工商」の身分制度が近世社会の実態を示したものではなく中国儒学経典のものであることが明示されて、この身分差別観念が儒学者の体制イデオロギーに過ぎないことが明らかにされている。さらに、「江戸時代の身分制度は、職業による身分の区分であり、血統による身分ではなかったから、その区別はきびしいものではなかった」として、身分間の移動の例も示している。また、百姓という呼称が村に住む人々という意味でしかなく、村に住む鍛冶屋は職人なのに百姓であると説明され、百姓には農民も漁民も林業者も職人も含まれていたことが正しく説明されている。そして旧版では、人口の割合を示すグラフの百姓の項が「農民」と書き改められていたのを、「百姓」と改め、正しい表記にしていることは評価されてしかるべきものであろう。
しかし、このコラムで江戸時代の身分制度を職業による区別と言い切ってしまったことは行き過ぎである。血統による身分の色彩も、上に記述したように継続しているからである。また身分内における家格の差別の問題は全く度外視されたままであるし、武士が治安維持を独占したかのような誤った記述は改められていない。さらに、被差別民に対する記述では、それが政治権力によって生み出されたかのような記述は削除されているが、社会的差別の実態に触れられていないことと、このような差別が生み出された背景を推察できるような記述もなされていないことは、今後改善されるべきところであろう。
注:この項は、横田冬彦著「賎視された職人集団」(1988年岩波書店刊・「日本の社会史」第6巻「社会的諸集団」所収)、藤井譲治著「幕藩官僚制」・田中誠二著「藩政機構と家臣団」・鈴木ゆり子著「村役人の役割」(以上は、1991年中央公論社刊「日本の近世」第3巻「支配のしくみ」所収)、朝尾直弘編「身分と格式」(1992年中央公論社刊「日本の近世」第7巻所収の諸論文)、斎藤洋一・大石慎三郎著「身分差別社会の真実」(1995年講談社現代新書刊)、奈良人権・部落解放研究所編「日本歴史の中の被差別民」(2001年新人物往来社刊)、などを参照した。