「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判18
18:百姓も町人も共同体の下で自立し自由に生きていた
「平和で安定した社会」の2つ目は、「村と百姓」である。しかし内容は三つに分かれ、最初は文字通りの「村と百姓」であり、村の自治のありさまを中心に記述する。そして次ぎは「百姓と幕府」の関係、最後は「町と町人」で町の自治のありさまについて記述する。この項は内容的には、幕府・藩と百姓・町人との関係を記述しているのだが、その記述はあまりに不充分であり、また間違いも多い。
(1)村は自立的な生活の場であった
江戸時代の村のありさまについて、教科書は、次ぎのように記述している(P133)。
幕藩体制の経済はおもに農村からの年貢に依存していた。農業をいとなむ百姓には、自分の土地をもち幕府や藩に米で年貢を納める本百姓と、土地をもたない水呑(無高)百姓がいた。村では、有力者が名主(庄屋)、組頭・百姓代などとよばれる村役人となり、年貢の徴収や入会地の使用、用水、山野の管理などの村全体にかかわる仕事を行い、村の自治をになった。村の自治は中世以来の惣の伝統を受けつぎ、寄合によって行われた。村人は五人組に組織され、年貢や犯罪防止の連帯責任をおった。村ではさまざまな相互扶助の慣行があり、没落した農家を協力して再興することも行われた。また寄合で定めた掟を守らない者に、村八分の制裁が加えられることもあった。 |
村は自治の場であると強調しているが、この記述にも誤りは多い。
まず冒頭の「幕藩体制の経済はおもに農村からの年貢に依存していた」という記述からして誤りである。幕藩体制の経済において町から上がる運上金の額はしばしば一国の年貢額に匹敵するかそれ以上であった。そして年貢も米だけで支払われていたわけではない。
さらに二つ目に、百姓を農業を行う人という捉え方も間違っている。百姓は多様な職業の人を含んでいたのだ。また三つ目には、村の自治を行う村役人が「有力者」だけであるかのような記述も誤りである。江戸時代を通じて自治の担い手は拡大し、はては村役人も選挙で選ばれていたのだ。そして四つ目に、先に身分制度の項でも述べたことだが、村の自治から村の治安維持の問題が欠落していることは問題である。村の治安は村自身で守られていた。だからこそ村の掟があるのだ。
「つくる会」教科書の江戸時代の村についての記述には、村が武士による支配下にあったかのような間違った従来説の影響が多々見られる。
@幕藩経済は農業だけに依存していたわけではない
幕藩体制の経済は、農業だけに依存してはいない。
例えば、戦国時代から江戸時代は、日本が世界の銀の3分の1あまりも産出し、その銀の産出量が減ってからも、銅の産出量は世界屈指であった。この時代の国際交易の決済通貨は銀であり、銅は各国の国内通貨として使用されていたのだから、日本は貨幣を製造・供給できる世界でももっとも豊かな国の一つであったわけだ。そして日本はこの豊かな銀と銅を使って、中国や朝鮮・東南アジア・インド産の生糸・絹織物・綿織物・砂糖・染料・陶磁器などの品々を大量に輸入していたことは、すでに国際貿易の項で見た通りである。
この銀や銅を産する鉱山は、幕府や有力な藩による直轄経営であり、幕府や藩は、鉱石の採掘を山師とよばれる鉱山技術者に請負わせ、その産出量に応じて税金(運上金)をとり、銀や銅の地金で納めさせていた。幕府の最も重要な鉱山は佐渡であったが、この佐渡の鉱山から幕府に納められる運上金は莫大な量に上っていた。最盛期の17世紀初頭で言えば、1622(元和8)年の佐渡からの運上額を金であらわすとおよそ20万両となる。これは幕府が一国全てを領国とした佐渡一国の百姓が納める年貢額の1万両弱に比べれば、膨大な金額になることが分かるであろう。
そしてこの鉱山が栄えたことは、同時に幕府に多額の商品輸入税が入ったことも意味している。なぜなら鉱山が栄えたということは、その地に多くの鉱山技術者と鉱山労働者が移住し、大規模な鉱山都市が生まれたことを意味した。例えば佐渡の鉱山町相川は5万人の人口を擁し、これらは全て鉱山技術者と労働者、そして銀山役人と商人・職人であった。5万人というのは、通常の城下町の人口1万数千人をはるかに凌駕する数字である。また鉱山の経営には坑道の維持に必要な木材や銀の精錬に必要な炭や薪など多量の物資を必要とし、さらに鉱山町に住む人々の生活には多くの生活物資が必要であり、これらはほとんど佐渡国外から移入されていた。そしてこの移入される物資に対して幕府は、10分の1の現物税を課し、そうして得た商品を転売して、多額の利益を得ていたのだ。1622(元和8)年の佐渡にもたらされた商品に課せられた現物税は2万5000両にも達している。この中には、鉱山で消費される1俵10貫入りの炭の年7・8万俵の10分の1税も含まれている。そしてこれ以外には、佐渡に移入されるタバコの独占販売を許可された商人の座からの役銭年3000両など、様々な日用品の独占販売権を得た商人の座からの役銭が加わってくる。
佐渡一国から入ってくる鉱山の運上金や輸入税そして座の役銭を合わせれば、佐渡一国の百姓が納める年貢の何十倍にもなっていたのだ。このような鉱山町は全国に多数存在したし、幕府が運上金や冥加金の名目で役銭を納めさせた商人の座も、江戸や大阪など、各地の大都市に数多く存在したのだから、これらから入る税の額も相当のものであったろう。19世紀初頭の文政期に、江戸で菱垣廻船積問屋仲間が結成され、そのときの冥加金は、下り酒問屋株仲間の1500両を筆頭に、63組の株仲間が合計で1万2000両を年々納めている。さらに江戸に上方から入る諸物資にも税がかけられていたはず。そしてこれは各藩でも同様であった。
残念ながら幕府や藩の財政規模の全体像と、諸色運上金・冥加金の全体像を示す資料がないので、幕府・藩財政に占める商業税の割合を測ることができないが、都市は幕藩体制の基盤として、村と同様かそれ以上に重要な位置を占めていたのだ。だから町を治める町奉行のほうが、村を治める郡奉行よりも上席とされたこともうなづける。
また百姓が納める年貢も、米だけで納められたわけではない。
百姓が納める年貢には、田畑や屋敷地にかけられる本途物成(ほんとものなり)と、山林・原野・河海の用益に対して賦課された小物成(こものなり)とに分かれていた。そして本途物成も米納が原則ではあったが次第に金納化したし、畑での商品作物の現物納も行われていた。さらに小物成は山林・原野・河海を利用して獲られる、炭や木材、そして海産物などの商品にかけられる税であり、これは早い段階から金納であった。
この年貢を納める百姓は、次ぎに述べるように、農民に限らず、その中には商人や職人、林業者や漁民なども含まれていたのだから、年貢そのものが農業だけに依存してわけではなく、多様な農林水産業・商工業に依拠していたのだ。そして後に見るように、農業そのものも自給的農業ではなく、中世戦国時代からすでに商品作物を生産する商業的農業であったのだから、幕府や藩が農業に依存していたと捉えることは誤りである。
A百姓は多様な職業の人を含んでいた
さらに、江戸時代の百姓とは、村に住む人を指しているのであり、これには多用な職業の者が含まれていた。
江戸時代は城下町が出来て、村に住んできた全ての商人や職人が都市に集められたかのような誤解がまかり通って来たが、江戸時代の村にはたくさんの商人や職人がおり、「村」とされた地域にも、交通路にそって「町」としての機能を果たしている地域も数多く含まれていた。そして村には、町だけではなく、農業を基本とした村もあれば、林業を基本とした村も、さらには漁業を基本にした村もあり、一様ではなかったのだ。
さらに多くの村人は農林漁業以外にも商業や手工業を兼ねていたが、それは農閑期の手間仕事などだけではなく、中には専業の商人や職人も数多くいた。とくに教科書が、水呑百姓として田畑を全く持たず年貢も負担しない「貧しい」百姓であるかのように記述した人々の中には、このような専業の商人や職人がおり、中には、いくつもの藩(国)を越えた広域の範囲で商いを行っている大商人・大親方もいたのだ。
これは考えて見れば当たり前のことである。
城下町は、幕府の一国一城令によって、藩(国)の中に基本的には一つだけしかない。その城下町にだけ商人と職人が集住したのでは、広範囲にわたる村に住む人々の日用生活品はどのようにして供給されるのだろうか。日常生活に不可欠な塩や農機具、そして衣料品など、これらを村に住む人が自給自足していたはずはないのだ。中世において各地に、三斎市とか六斎市とか言って月に3回ないしは6回開かれる定期市が全国各地に広がっていた。このような市は、江戸時代を通じても各地で開かれ続け、村に住む人々もこれらの市で日用品を手に入れていたし、これらの市や城下町に向けて商品を生産していたのだ。
江戸時代を自給自足の経済だと考えていた従来の説が間違っているのだ。
B村の自治は拡大し続けた
また、村の自治のありかたについての記述にも、いくつもの誤りがある。
(a)村は自立した「政治組織」であり「生活共同体」であった。
教科書の近世の村についての記述は、そこが中世の惣村の伝統を引いた自治の場であると記述していながら、その実態は幕府・藩による支配の末端組織という捉え方が今なお尾を引いている。 これは例えば五人組についての記述で、「村人は五人組に組織され、年貢や犯罪の防止の連帯責任を負った」という記述にも示されている。
五人組は幕府や藩が組織したものではなく、村が組織したものである。これは村といっても、いくつかの集落に村が分かれて存在することから、それぞれの集落の核になる名主(みょうしゅ)百姓を中心に村人が組みをつくり、村政を担ってきたことに由来している。そして五人組が年貢に関して連帯責任を持つのは、村の自治が年貢の村請けによって成り立っているからであって、領主との間で取り決めた年貢高を村として納めるのであるから、家に分配された年貢高を払いきれない家があれば、他の裕福な家が肩代わりして年貢を納めるのは、共同体としての村の役割であったからであり、五人組が村共同体の下部機構だったから五人組で連帯責任を負ったのである。また、村の家が没落して田畑を耕作できなくなることは、その分の年貢負担が他の者の肩にのしかかってくるのであるから、村として各家の存続に便宜を図り、没落した家の再興を図っていくのも、村共同体としての機能であった。そしてこれは犯罪の防止という治安機能についても同様である。
村はそれ自身として治安の権限を有していた。これは村が幕府や藩の支配の下部機構であったからではなく、村が自立した「生活共同体」であったからだ。
村には必ず村の掟が存在する。中世の村の掟との違いは、そこに領主が決めた掟の遵守と年貢の完済が挿入されたことだけで、あとは中世の村の掟と同様な内容である。では村の掟は何を定めていたのだろうか。多くの村の掟に登場する決まりの中には、田畑荒らしの禁止と罰則規定や山林や野荒らしの禁止と罰則規程、用水の利用規定と罰則があった。田畑は村人の生活資材の供給地であったからそれを荒らして自分だけの利益を得ることは当然禁止された。そして村が所有する山林は、村人が必要とする薪や炭を生産したり、家屋を建築するための用材の生産場であり、それは日用生活のためだけではなく、山で取れるものを商品として出荷し、村の運営費用を捻出するためのものでもあった。そして村有の野原は、農業にとって不可欠の刈敷きという肥料を得る場であり、牛馬の飼料を得る場であった。その山林や野原から自分の必要以上のものを切りだしたり刈り出したりして自分だけの利益を追求することは、他の村人の生活を圧迫するとともに村共同体の不利益を招く。さらに用水の使用も同様であろう。
要するに村は、村共同体として村人の生活を支えているのだから、その秩序を破壊する個人的な利益をはかる行為は村として指弾されるわけだ。したがってその犯した犯罪が重い場合には、村での付き合いを当分の間制限したり、村から追放したりするという村八分の処置が取られたのである。しかしこれは、刑事罰というより経済的な制裁であった。
こうして村は、村の秩序を維持するために自前の掟を持ち、自前の自衛のための治安組織を持っていた。幕府や藩は、村の自治機能を利用したに過ぎないのだ。
また年貢も幕府や藩が一方的に押しつけたのではなく、村との契約でなりたっていた。そしてその年貢の実際の各家の負担は村組織が行い、独自に割り振り帳面を作って割り振り、そして村として年貢を領主のもとに納めたのである。
五人組を含め、近世の村のありかたを従来は過酷な収奪を行う幕藩制国家の支配機構として認識してきた。だから五人組や村は、年貢をしっかりとるために百姓に連帯責任を負わせるものと認識されてきた。しかしこれは、太平洋戦争に向かう中で、近世の五人組を範として隣組が作られ、隣組を核とした村や町が戦争遂行に人々を動員し、同調しないものを非国民として摘発する過程で生まれたイメージであった。
近世の村は百姓の自立的な生活共同体であり、政治組織であった。だからこそ村人は共同体の利益を守ることにおいて連帯責任を負い、互いに助け合うとともに、村の掟を破って共同体の利益を私的に侵害するものには、村八分という制裁を科していたのだ。この点をしっかり教科書においても記述しておかねばならない。
(b)村役人は選挙で選ばれるようになった
また、このような村の自治を実際に担ったのが、村役人なのであるから、村役人をどう選ぶかもまた問題であった。教科書は村役人を「名主・組頭・百姓代」と並列的に記述しているが、それぞれの役割と出現の時期は異なるし、またそれらの選定方法も時代の移り変わりに伴って変化していた。
名主(なぬし)は近世初期には、村で最も有力な名主(みょうしゅ)百姓が世襲した。中世以来の国人領主やその親族の系譜を引くものが、その地位に着いたのだ。そして近世初頭においては村を越えた惣名主という職が置かれ、これも中世の惣村の代表の系譜を引き、有力名主百姓が世襲した。しかし名主は幕府や藩との折衝に携わったし、村の治安維持の元締めでもあり、個々の百姓に対する年貢負担の分配の差配の元締めでもあった。これが一つの家に世襲されることは、権力との癒着に繋がる。
そこで登場したのが組頭であった。
これはその名が示すように、五人組の長であり、しばしば五人組を幾つか束ねた集落単位の組の長であり、中世以来の惣村の年寄り衆の系譜を引いていた。つまり組頭は村共同体の年寄りとして名主を補佐し村政を合議によって運営してきた者たちであったが、彼らを組頭として認定することで、村政を公的にも合議体制に移すこととなったのである。そしてこれに伴って名主は、組頭の中から選ばれるようになっていく。世襲制が崩れて行ったわけだ。18世紀も中頃のことである。
また百姓代は、新田開発によって耕地が拡大し、名主百姓の下人や百姓の次三男が独立して、一人前に耕地を持って年貢を負担する百姓の数が増えるとともに生まれた村役人であった。本来この役職は、「惣百姓代」であり、名主百姓だけではなく小前百姓も含む百姓全体の利益を図るために設けられた役職であった。
先に見たように、村政を執行する名主は世襲制から選挙制に移行したとはいえ、それは相変わらず名主百姓という有力な百姓に限られていた。つまりそれ以外の小前百姓と呼ばれた村人は、実際には村政に関ることができなかったのだ。百姓代は、このような小前百姓の利益を代表して、名主・組頭を監視する役目として置かれ、百姓全体の投票で選出された役職であり、17世紀後半には登場し、享保期の18世紀前半に定着した。
こうして村政は次第に、百姓全体の意向を反映するものに変化し、村の決定機関である寄合における意思決定も「入れ札」という投票方式による多数決となっていった。従って近世後期になると、有力百姓の間で選挙または持ちまわりで選出されていた名主も、百姓全員の入れ札で選出されるようになっていく。いわば村の自治は拡大し続けたのである。
近世の村は、幕府や藩という武士の生活共同体からは自立した、それ自身が政治的組織であり生活共同体であった。近世の村人は彼らの意思で掟を決め、彼ら自身で代表を選び、彼ら自身で村の治安を維持して、協力して暮らしていたのだ。いわば村は「自由な」(公権力の規制からは自由な)生活の場であったのだ。
(2)幕府や藩は村人の暮らしを統制できなかった
教科書は、村人と幕府・藩との関係について次ぎのように記述している(p133・134)。
幕府は、安定した年貢を確保するために、田畑の売買を原則として禁じるなど、百姓の生活をさまざまに規制しようとした。百姓という言葉は、もともと古代律令制度の公民の伝統を引きついだもので、農民は年貢を納めることを当然の公的な義務と心得ていたが、不当に重い年貢を課せられた場合などには、一揆をおこしてその非を訴えた。幕府や大名は一揆にきびしく対処したが、訴えに応じることもしばしばあった。 |
百姓を公民と位置付け、百姓と幕府・藩との関係が、単なる支配・被支配の関係ではなかったことが示されている。だがこの記述にも多くの間違いがある。
一つは、「田畑売買永代禁止令」が存在したかのような記述をして、幕府や藩が百姓の生活を恒久的に規制してきたかのような記述をしたこと。実は幕府や藩には一貫した民政・農政方針はなく、その時々の時代に対処して様々なお触れを出したに過ぎない。幕府や藩の法令は、それが出された時の具体的な事例にそって解釈すべきなのだ。
また二つ目には、年貢のこと。たしかに百姓は年貢負担を公的な義務として捉えてはいた。年貢を負担する事が「公民」として権利を公認されることだったからである。しかし教科書の記述はまるで年貢は幕府・藩が一方的に決めたかのような記述をしているが、実態はそうではない。年貢の決定も百姓との合議によっていた。従って「重い年貢」と百姓が判断した事例は、幕府や藩が百姓との合意を踏みにじって年貢を決めた場合である。だから当然これには抗議するし、百姓に理があれば、幕府や藩もこれを認めざるを得ない。このことの認識が教科書の記述には欠落している。
さらに三つ目には、教科書は幕府や藩が百姓の一揆を一貫して禁止していたかのような記述をしているが、事実はそうではない。近世の各時代によって、幕府や藩の百姓の抗議に対する方針は変化しているのだ。そして百姓の抗議形態は一揆と認識された集団での強訴だけではない。正式な手続きを経た訴えがあり、さらには手続きを経ても訴えが無視された場合には、より上級の権力に直接訴える越訴(おっそ)もあった。さらに逃散(ちょうさん)という、村単位で他領に逃亡して訴える方法もあった。そして仕方なく一揆を行った場合も、これを武装蜂起と捉えてはならない。一揆においては武力行使は厳しく戒められており、これは集団抗議デモと言ったほうが正しいのであり、けして非合法の抗議行動ではなかったのだ。従って一揆に対しても、幕府や藩の対処は、個々の場合によって異なるものであった。教科書の記述は、一揆を百姓の武装蜂起として捉える、旧来の左翼に見られた人民闘争史観をまだ引きずっているのだ。
@幕府の法は恒久法ではなかった
幕府や藩が村人の生活を規制しようとしたことはたしかである。しかしこの規制を、近代以後におけるような法制度と考えて、幕府や藩がある一つの理念・目的をもって、近世の時代を通じて一貫した方針で村人の生活を規制したと考えてはならない。幕府や藩の法は、それぞれの時代の出来事に対処するための時々の方針であり、それが一貫した全国的な法になった場合もあったし、その場限りで忘れ去られた場合もあった。そして幕府が出した法は、全国を対象としてはおらず、幕府の領国やしばしばその一地域を対象にしていた。これが他の大名領国に及ぼされるには老中奉書という添え書きがなされ、あて先を限って大名に送付されたのだ。さらに送付された幕府の法を大名が大名領国に法として広めるかどうかは、大名の判断に任されたのだ。特に国持ち大名と呼ばれる大身の大名は、幕府から自立する傾向が強かった。近世幕藩体制というのは、幕府と諸藩とが、それぞれが自立した国家として連合した形態だったことを忘れてはいけない。
さらにもう一つ大事なことは、幕府や藩は本来は軍事機構であって、武士は村や町の政治を行ったことがなかったことだ。村や町の政治は、村や町という政治組織・生活共同体が担ってきた。従って幕府や藩には、村や町を統治するための知識も経験も不足しており、民政統治や農政などのさまざまな産業政策はなかったのだ。幕府や藩は、それぞれの場所でそれぞれの時代に起きた具体的な出来事に対処する個別の方針を出したに過ぎない。それが恒久法になるかどうかは、個別事例ごとに異なっていたのだ。
以下具体的に見ておこう。
A田畑の売買は禁止されてはいなかった
従来、幕府や藩が百姓の暮らしを規制したことの象徴として示された法令の第1に、「田畑永代売買の禁令」があった。だがこの「禁令」は罰則を伴った法としては一度も施行されたことはないし、全国的に施行されたものではなく、幕府領と限られた範囲の藩の間だけであった。この事情については、田中圭一著「日本の江戸時代」(刀水書房刊)によって見ておこう。
(a)飢饉対策として最初は出された
田畑の永代売買を禁止する条項が幕府の定めに現われた最初は、1643(寛永20)年に幕府領佐渡に出された「御触書条々」という13条の触れにおいてであった。この触れはとても興味深いので全文紹介しておこう。
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この触書は「申し聞かせよ」とあるとおり、直接百姓に出されたものではなく、村役人にたいして出されたもので、法令というより、村の施政に関する指導書である。またこの触書を見ると、当時の百姓の暮らしは、従来の常識に反してかなり豊かなものであることがわかり、とても興味深い。さらにこの条文は後に見る1649年に出されたという「慶安のお触書」とかなり内容がダブっており、この点も興味深い。
それはさておき、この触書に初めて「田畑永代売買の禁止」が出されたのだが、他の条文には「処罰する」と書かれているのに、「田畑永代売買の禁止」には「処罰する」という但し書きがないことが注目される。罰則が存在しないことを示しており、これが禁令とは名ばかりの訓告にすぎないことが示されている。
では1643年の佐渡に、このような触書が出された理由は何であろうか。
佐渡は先に見たように、幕府屈指の金銀銅鉱山であった。そのためたくさんの山師と坑夫が島に集まり大規模な鉱山開発が行われ、山は次々と切り開かれて行った。そして5万人とも言われる人々が鉱山町に集住し、この大量消費をあてこんだ農業開発も進行し、各地で急速な新田開発が行われた。ある意味でどんどん自然は破壊されたのである。
その中で1636(寛永13)年には大洪水が起き、1640(寛永17)年は干ばつとなり、不作となった。さらに1642(寛永19)年も凶作となり、米価は5倍にも跳ね上がった。こうして次第に佐渡は荒れていったのだ。そして翌1643(寛永20)年春には、未曾有の大飢饉に襲われたのだ。このような中で、「田畑永代売買禁止」を含む、先の触書が出されたのだ。つまりこれは恒久的な禁令として出たのではなく、直面する飢饉の対策として村政の指南策として指針として出されたのであった。
近世の百姓は、米が産地間の価格差で高く売れることをよく知っていたので、普段は麦や粟を食べて米を節約し、飯米までも売り出して金に換え、さまざまな日用品を買いこんだり農業経営資材を買いこんでいた。そして米の値段の安いところからその金で米を買い、それを飯米にあてるということすらしていた。しかし不作や凶作が続けば、最初は米価が高くて大もうけしても、不作・凶作が続けば売り出す米も不足し、飯米すら、やがてどこでも米価は高くて米を購入できなくなる。もともと蓄えがないのだから飢饉が起きるわけである。また百姓は未来の豊作をあてにして田畑を質に入れて金貸しから金や種籾を借りて生活・農業をしていた。しかし不作・凶作が続けば、利子の支払いどころか貸し金の返金もできなくなり、やがて田畑を失うこととなったのだ。そのような危険が生まれる事を避けるためには、田畑を売るなというわけである。
(b)実際には田畑永代売買はなされていた
しかし以後も、田畑永代売買はなされていたのだ。ただし直接永代売買をしたのではない。各地に残された田畑売買証文を見ると、形の上では田畑を10年間質に入れ、それが過ぎても金を返せないときは相手方に所有権が移るという形をとっていた。形は年季を限った質入れだが、実質的には永代売買になってしまう。従って形の上では、「田畑永代売買禁止」が続いていて、実際には永代売買がなされるということになっていた。
1744(延享元)年に江戸町奉行大岡忠相がこの法令を批判して、廃止を勧告している。田畑の質入れを許しているから田畑の年季質入れは行われている。そして田畑を質に入れるような百姓はよんどころない理由でそうしたのだから、しばしば借金を返せず田畑を取られることになる。名目は違っても永代売買がなされているのだから、先の禁令は廃止すべきだというわけだ。
しかし幕府は廃止しなかった。
(c)罰則が伴う禁令として存続する
そして18世紀後半になると、先の禁令に罰則がついたものとして登場する。罰則は、「売り主(本人が死んだときはその子)の入牢・追放」「買い主(本人が死んだときはその子)の入牢・買い取った田畑は没収」「売買の保証をしたもの(本人が死んだときはその子)の入牢」であった。
18世紀後半になると、こんな禁令をださないと、田畑の売買は止められなかったのだ。しかし相変わらず田畑の質入れは禁止されなかった。だから実質的に田畑の永代売買はなされ続けたのだ。
幕府はたしかに18世紀後半になると、罰則を伴った「田畑永代売買の禁令」を出した。しかし経済活動は一編の法令で左右できるものではない。実態はこういうものだったのだ。
では、教科書が記述する、田畑永代売買の禁止以外の「百姓の生活に対する様々な制限」とは何であろうか。
すぐ思い浮かぶのは、1649(慶安元)年に出されたと言われる「慶安のお触書」である。そして高校日本史の教科書であれば、「分地制限令」と「田畑勝手作禁令」が出て来るだろう。
Aそれぞれの時期の事情に応じて出された禁令
(a)タバコ税収入を確保するためのタバコ栽培の禁令
「田畑勝手作禁令」の代表的なものは、本田畑でのタバコの作付けの禁止令である。しかしこれは全国何処でも禁止されたものではないし、近世を通じて禁止されつづけたわけでもない。
佐渡の名主の家に伝わる近世文書を通じて近世を分析してきた田中圭一によれば、佐渡の国で最初にタバコの作付けが禁止されたのは、1616(元和2)年のことで触書として通達された。そして1619(元和5)年には御制法と称して、タバコの作付けだけではなく百姓がタバコを売買することも禁止された。しかしこれは従来の歴史学者が解釈してきたような、本田畑の年貢確保が目的ではなく、巨大な鉱山町を抱える佐渡の特殊性に対応したものであったという。
すなわち、佐渡の鉱山町には5万人とも言われる鉱山関係者が住みつき、この人々の生活や鉱山に必要な消費物資は、佐渡国外からの移入に頼っていた。この国外から移入される物資への現物での10分の1税が、幕府の財政に大きな位置を占めていたことは先に示したとおりである。このため幕府が移入されたタバコを扱う商人たちが作ったタバコ座を公認し、タバコ座から納められる運上金も、年に3000両余りに及んでいたのだ。だから先の佐渡におけるタバコ栽培の禁止令は、佐渡でタバコが栽培されると国外から移入されるタバコの量が減り、幕府に入る運上金や10分の1税が減ってしまうことを恐れてのことだったのである。まさに幕府は、タバコ税が欲しいために佐渡でのタバコ栽培を禁止したのだ。しかし佐渡でのタバコ栽培はなくならない。当然である。タバコが高い値で売れる限り、百姓がタバコを栽培するのは当然である。そして本田畑でタバコを作付けしてもそれで年貢が減るわけではなかった。これは次ぎの項で詳しく説明するが、近世の年貢の高は、収穫の2分の1ではなく、実質的には10〜20%であったのだ。
タバコ栽培禁令がなんの目的で出されたのかは、禁令が出された時期や禁令が施行された地域の事情によって個々に判断しなければいけない。
(b)百姓の必要で生まれた「分地制限令」
また分地制限令は1673(寛文13)年に幕府が出したものが最も初期のものだとされているが、これもその典拠がはっきりしないようだ。
田中圭一によれば、17世紀後半から18世紀前半にかけて、各地の村落における村の掟で、「分地制限」を定めたものが散見されるそうである。そしてその背景は、耕地の開発が進んだために用水が不足し、そのために村の家が分家を出して耕地を分割すれば家数が増えて用水が不足するので、家数を制限しなければならなくなったからだという。
つまり「分地制限」は領主の必要から生まれたのではなく、百姓の村を維持する必要から生まれたというのだ。この百姓の要請を受けて領主が出したのが「分地制限令」ではないかという。
B「慶安のお触書」は慶安には出されていなかった
さらに「慶安のお触書」である。これは1649(慶安元)年に出されたと言われるが、近年の研究によって、慶安時代には法令としては出されてはおらず、これが法令として出された最初は17世紀後半にある藩で出されたもので、しかもこれも罰則の伴った法令ではなくて、飢饉に備えた村政運営の指針として出されたことが明かとなっている。実はこのような事情があって、「つくる会」教科書では、「慶安のお触書」のことが全く触れられなかったのだ。
ではどのようなことなのか。山本英二著「慶安の触書は出されたのか」(山川出版社刊)によって見て置こう。
(a)村の道徳・農業指南書としての「慶安のお触書」
後世に「慶安のお触書」として流布したものは、17世紀のなかばに、甲州(山梨県)から信州(長野県)にかけて流布していた地域的教諭書「百姓身持之事」がその源流であった。この教諭書は全部で31ヶ条からなり、後に「慶安のお触書」として流布したものとは多少内容が異なっていた。たとえば、「慶安のお触書」の第5条で百姓は「朝早起きして・・・」と農作業の心得を説いたものがあるが、もとの「百姓身持之事」では、第11・12条に、「下男や下女を抱える百姓たちにたいして、自分が何もせずに指図していたのでは、下人たちがしっかり仕事をするわけがない。自分も朝早起きしてまず下人を草刈につかわし、帰ってきたら一緒に作業場に出てそこで指図をせよ」という形で指示をしていた。つまりこの「百姓身持之事」という教諭書は、下人などを数多くもつ家父長的大家族経営をする上層農民を対象とする農業指南書だったのだ。そして甲州や信州の上層農民の間に手習いの教本として流布していたという。
ただし山本は、「百姓身持之事」の源流を探ることはしていない。しかし先に示した、1643(寛永20)年に佐渡の国に出された触書の内容もまた、後世「慶安のお触書」として流布したものや「百姓身持之事」と極めて良く似た条項を持っている。そしてこの触書は、このころ深刻な飢饉に見まわれていた佐渡の地の百姓に対して、農業指南書として幕府から出されていたものだ。ということは、山本が甲州・信州の地域的教諭書として紹介した「百姓身持之事」の源流となる農業指南書が、すでに寛永や慶安の頃、当時の飢饉に際して幕府領が多かった関東甲信越に対して出されていたということを意味してはいないだろうか。
(b)藩法として普及した「慶安のお触書」
この農業指南書としての「百姓身持之事」が、藩法として最初に成文化され流布されたのが、甲斐の国の甲府藩であった。1697(元禄10)年のことである。当時の藩主は徳川綱豊。後に徳川宗家を継いで、6代将軍家宣となった人物である。
1697(元禄10)年、甲府藩では「百姓身持之覚書」という触書が作られ、藩内の名主に配布された。これは32ヶ条で、のちの「慶安のお触書」として流布したものと全く同じ内容のものであった。そしてこれは名主が交代するときに、年番の名主の家に百姓たちに読み聞かせるものとして配布されていた。まさにこれも農業指南書として配布されたのだ。
ただしさきの「百姓身持之事」とは異なり、対象を下人を多く持っている家父長的大家族経営の上層農民から一般農民に変えて、時代と甲州と言う土地柄にあう内容に書き改められていた。こうして17世紀の最末期になって後の「慶安のお触書」は、甲府藩法として定められたのだ。
(c)18世紀末〜19世紀中の危機の時代に普及した「慶安のお触書」
この甲府藩の藩法が全国的に流布するのは、18世紀後半以後のことである。
1758(宝暦8)年、下野の国(栃木県)の黒羽藩において「百姓身持教訓」が出版配布された。これは全部で18ヶ条からなり、内容の多くは先の「百姓身持之事」から取られている。この藩では相次ぐ飢饉に対して、家老鈴木武助正長を中心にして郷村の建て直しや産業の振興、そして飢饉に備えての年貢米の一時保管所としての郷蔵の設置などを進め、1783(天明3)年の大凶作にも一人の餓死者も出さなかった。家老の鈴木は、農村を復興するための心得をやさしく書いた木版画などを村々に配って、農業の心得を指南してもいたからだ。
「百姓身持教訓」はこのような農政の展開の中で印刷配布され、名主が毎月百姓たちに読み聞かすべき農業指南書として出版されたのである。そしてこの指南書は、関東地方の諸藩だけではなく全国に広まり、黒羽藩の農政は、時の老中松平定信にも影響を与えた。
そして18世紀後半から19世紀中頃における飢饉の連続などによる農村の荒廃の中で、農村復興のための農政が各藩で展開される中、1830(文政13)年に美濃の国(岐阜県)岩村藩が「慶安御触書」を木版で出版した。これはかつて17世紀末に甲府藩で出版された「百姓身持之事」を引き写して木版で印刷し、村々の名主に配布され、百姓に読み聞かせるよう指示された。
この出版を契機にして、「慶安御触書」は全国各地の大名・旗本・幕府代官などが受容し、各地で木版印刷されて配布された。時はまさに天保の大飢饉の最中であった。各地で百姓一揆が頻発し、幕府や藩の悪政を糾弾する小百姓の群れは村の名主たち村役人を突き上げ、村役人を始めとして各藩の役人や代官は、秩序維持に苦心惨憺することとなる。この「慶安触書」が全国的に広がった時期はちょうど、「義民伝説」が作られて流布された時期と重なる。つまり村名主などは昔から百姓の苦難を見過ごすことができず、強訴を押し留めて代表越訴を起こし、生命を賭して村を守ったという伝説が流布された時期であった。「慶安御触書」はまさに冒頭において、名主たちに対して、村人の模範となって救済者たれと説くものであり、百姓全体に対して、飢饉に際して飢え死にしないための、日頃からの農業の心得と村内での助け合いを説くものであった。飢饉は天災ではなく、そして百姓たちが農業を怠って来たからではなく、農政の不備や全国的な商品流通を藩が分立している体制が阻害していることから生じた、人為的災害であったことを押し隠すかのように。
こうして「慶安御触書」は、体制的危機が生じた19世紀中頃に、それも大規模な飢饉が襲って農村が疲弊した東日本の幕府領や小藩に流布したのだ。
では、17世紀末に甲府藩で「百姓身持之覚書」と題された農業指南書が、18世紀中頃に「慶安御触書」と名付けられて出版されたのはいかなる事情があったのか。
これについてはまだ確証がないが、山本英二は次ぎのように推論している。
この「慶安御触書」を岩村藩が出版した当時の藩主の補佐役についていたのが、幕府学問所総裁林衡(たいら)、号して述斎であった。彼は岩村藩主の庶子であり、林大学頭の養子となった人物で、老中松平定信のブレーンとして幕政の復興や朱子学の復興に努めた人物であった。そして林家の開祖・林羅山が念願の知行取りとなったのが1651(慶安4)年。慶安年中である。さらに慶安という年号は、民衆にとっても由井正雪の乱を扱った「慶安太平記」として流布し、大きな時代の変わり目として認識されていた。このような背景の下で、幕府は、そして林家は以前から民百姓を思う仁政を敷いてきたと言いたいがために、林述斎が「百姓身持之事」を「慶安御触書」と解題して出版し、後にこれが1649(慶安2)年に出された幕府法であると誤認される元を作ったのではないかと。
「慶安のお触書」とされたものは、17世紀末に百姓への農業指南書として甲府藩で策定されたものを、19世紀中頃に「慶安御触書」と解題して配布流布されたものだったのだ。「慶安お触書」は1649(慶安2)年に出された幕府法ではなかったし、百姓の生活を規制する禁令でもなかったのだ。
(d)近世江戸の百姓の暮らしを知る貴重な資料
だが、「慶安のお触書」はなかったとして教科書から削除する「つくる会」教科書の姿勢は正しいのだろうか。
正しくないと思う。なぜならばこのお触書は、読んで見ればわかることだが、江戸時代の百姓の暮らしを知る貴重な資料だからだ。
まず「慶安のお触書」の全文を掲載しておこう。全部で32ヶ条で構成されている。
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この触書が元々飢饉に際して出された農業指南書であるということを明示しておけば、この触書から近世の農村の暮らしや、時代の変化まで読み取ることができる。
触書の2・3条は、この指南書が、小百姓が増えて発言権を増し、名主・組頭などの有力百姓を突き上げて行った時代にだされたものであることを良く示している。まさに新田開発が展開されて農村が拡大した、17世紀後半以後のことである。また百姓の暮らしはかなり良く、茶や酒やタバコ、はては薪まで購入し、さらには売ることを念頭において様々な作物をつくり、山方の村では材木や薪、さらに柑橘類まで栽培し、浦方の浦では塩を焼いて販売したり魚をとって販売していたこともわかる。近世の農業は、商品作物を栽培する商業的農業であったのだ。そして狭い耕地にできるだけ人力を注ぎ、たくさんの灰や糞尿からなる肥料も投入し、種の品種改良も行って、土地の生産力を高めていたのだ。こうして豊かになった百姓は、着るものにも木綿だけではなく、絹や紬まで使用していた。先の佐渡に出された触書には、「型染め」の着物まで着ていたという。いわゆるインド更紗とその模倣の国産品である。そして当時貴人しか着られなかった紫や紅にまで着物を染めていた。また物見遊山や寺社参詣にまで出かけていたのだ。
どうして近世の百姓はこんなに豊かなのか。その秘密もこの触書に書かれている。
一つは、村の百姓たちが助け合って生活をしていたからだ。五人組は生活扶助の組織であることが明記されている。
もう一つは年貢の問題だ。「年貢さえすませれば百姓ほど心安いものはない」という言葉がそれを暗示している。
詳しくは次ぎの項で述べるが、田中圭一の調査によれば、実際の取れ高は検地帳の取れ高の2倍にも及ぶという。そして年貢は5公5民ではなく、実態調査して見れば、検地高のおよそ3割程度である。実際の取れ高が検地高の2倍であれば、実質的な年貢の割合はその半分。1.5割程度に低下してしまう。だから百姓は米を売って儲けることも、本田畑に商品作物を植えてこれを売って儲けることもできたのだ。従って百姓の主食は米であった。近世の百姓は飢饉にでもならないかぎり白い米の飯を食べることができるようになっていたのだ。
「慶安のお触書」に実際の年貢率や、国々の実際の米や麦の取れ高と消費高を調べたものを合わせて提示すれば、実は近世の百姓は、従来の常識とは異なってかなり豊かな暮らしをしていたことが見事に分かるのだ。「仮説実験授業」を提案・推進している板倉聖宣が、「歴史の見方考え方」で展開している「江戸時代の農民は何を食べていたか」という授業は、「慶安のお触書」を幕府禁令としてあつかってはいるが、「禁令」も使いながら、近世の実態に迫った素晴らしい授業例である(板倉の「日本歴史入門」の授業もおもしろい)。
そして「慶安のお触書」として一般に流布したのが、近世後期に農政の不備と国が一つにまとまっていないという人為的な状況によって飢饉が連続した時代であり、政治への民の不満が高まっていた時代であることがわかれば、幕府や藩は、百姓を強圧的に抑えることも出来ず、村の中での人々の助け合いと日々の努力を飢饉対策として示すことで、村・藩も共同体なのだという人々の想いに訴えてしか危機を乗り切る方策がなかったことが良く分かるであろう。
「慶安のお触書」が慶安年中に出された幕府法ではなかったことに疑いが持たれても、これを教科書から削除してしまっては、近世の村の暮らしや社会がわかる良い資料を失ってしまうのだ。
C「一揆」は合法的な大衆的抗議・請願運動であった。
「つくる会」教科書は、「百姓と村」の項の最後に、一揆の問題について言及しているが、その記述のしかたは、先に示したように、従来の教科書とは異なっている。すなわち教科書は、百姓が一揆を起こすのは、「不当に重い年貢を科せられた場合など」と限定し、幕府や藩の対応も「一揆にはきびしく対処したが、訴えに応じることもしばしばあった」と、幕府や藩が百姓の抗議に応じて政治の誤りを糺した例もあるとしたのだ。
従来の教科書では、一揆は厳しく処断されたと書かれている場合が多い。ではなぜ、「つくる会」教科書は、上のように限定的な記述の仕方をしたのだろうか。
(a)武士と百姓との契約としての「公儀」体制
従来は幕藩制とは、武士が統一されることで百姓を強権的に抑えつけて重い年貢を収奪した封建的支配を強化した体制だと捉えられてきた。しかしこれは、近世を暗黒の封建社会と捉える歴史観に由来する誤りであることが明らかとなってきている。
百姓と幕府・藩との関係は、一種の契約関係である。これまでも見てきたように、百姓は村単位で生活・自治を行い、村の治安は自分たちで守り、領主への年貢は村単位で請負ってきた。そして領主は村の自治には介入せず、村の百姓一人一人の年貢負担の割り当ても領主ではなく、村が行ってきたし、領主の公権力が発動されるのは、村を越えた範囲の問題だけで、村と村との境争論とか水争いなど、村の自治では解決できない問題で、中世であれば村同士の武力を伴った実力闘争で決着された問題を、武家の権力が「公儀」として仲裁したり裁いたりしていたのだ。
つまり「公儀」は村の範囲を越えた争いを平和的に解決するとともに、領主同士の争いをなくして世の中を平和にする。その替わり、村は村としての責任で決められた年貢を納めるという関係だったのだ。ここに、百姓と幕府・藩との関係が「契約」関係であったことがよく示されている。
そして近世の年貢率は、信長・秀吉の時代からすでに、「国並」とか「惣国並」とか表現されており、従来は個々の領主ごとに異なっていた年貢率を、国単位で平均させ、百姓が領主と闘争して年貢を決めなくても、毎年定まった手続きで年貢が収納されると言う、年貢収納の一種の定例化・手続き化が行われていたのだ。
この点については、次ぎの項で詳しく論じるが、当時の年貢率は国ごとに異なり、年貢の量を決定するための田畑の収穫量を決める検地もすでに太閤検地の項で見たように、一つ一つ調べるのではなく、百姓の(正しくは村の)自己申告によっていたのだ。そして実際の年貢収納は、毎年収穫前に田畑の実りを実見して作柄を判定し、法定の年貢率で行くのか、不作・凶作が考えられるので年貢率を減らすのかが百姓との間で協議される。年貢収納自体が、百姓と幕府・藩との契約によって成り立っていたのだ。
(b)「一揆」は公認されていた。
では、幕府や藩が百姓との契約を破って「不当に重い年貢をかけ」たときには百姓はどうするのか。実際の作柄を見てその年の年貢率を決めるという方法(検見法という)でも、実際の作柄が分かるのは百姓の方である。農政に通じていない武士に稲や麦の実りの実際がわかるはずもない。だから検見は実質的には、村の代表である名主と幕府・藩、直接的には代官との折衝になるわけだ。ここに不正が生まれる素地がある。名主が家柄で代々継承される近世初頭においては、名主と代官が共謀して年貢率を挙げ、多く取った年貢を、名主と代官で山分けするという不正が生まれがちであった。当然、百姓は怒る。そして不正を行った代官と名主に抗議する。しかし不正を行った当人が認めることはない。ではどうするのか。
近世の初期の幕府や藩は、このような不正が行われたときには、百姓が抗議することを手続きの上でも認めていた。例えば、徳川家康が1603(慶長3)年3月に出した掟書がある。ここには次ぎのように定められているのだ。
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百姓が代官・領主の非法を訴えて他領へ逃げ出すこと(一村あるいは一郡で)を逃散というが、家康は「代官・領主が非法を行っている場合」と限定してあるが、逃散という抗議行動をとることを認め、さらに逃げ込まれた先の領主は百姓を追い返さず保護し、幕府へ知らせるべきことが指示されている。そして次ぎの条項で、百姓が直接幕府へ訴えることも許されている。いわゆる「越訴」(おっそ)である。最後の項は、いわゆる切捨て御免を否定しているものだ。
ただしこれらの抗議行動は、いきなりこれをとった場合には、百姓は処罰される。まづ、代官や領主の非法を、定められた手続きに従って訴えるのだ。代官が非法なことをした場合には、その上級の領主である郡奉行に代官の非法を訴える。それでもだめな時は、さらに上級の領主である大名や旗本などに訴えよというわけだ。それでもダメなときは、幕府に直接訴えたり、他領へ逃散するなどの直接行動を取っても良いというわけである。
実際に近世の百姓の「一揆」がどう処置されたかを調べた保坂智によれば、近世初頭に多い一揆の形態であるといわれる代表越訴の場合、一揆の首謀者が獄門や追放という重い罪に問われた例は、一揆の理由そのものが嘘の訴えであった場合や、一揆に伴って暴力行為が行われ、怪我人などが出た場合のみであるという。つまり近世初頭においては、百姓が一揆をしたからという理由で処罰されることはなかったのだ。そして訴えが正しいと判断されたときには、一揆の首謀者も参加者にも処罰はなく、あってもお叱り程度の軽い処罰で、不正を行った代官は罷免され、はては一揆頻発のために施政不行き届きを理由に改易された大名すらあるのだ。
まさに百姓と幕府・藩との関係は「契約」関係であり、その意味で対等だったのだ。
ただし幕府や藩は、近世中期・後期になると、百姓の一揆を禁止する。
幕府がはじめて百姓の一揆を禁止したのは、享保の改革の末年に定められた「公事方御定書」においてであった(寛保年間・1741〜43年)。その第28条に次ぎのように定めた。
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そして、1770(明和7)年に出された触書では次ぎのように定めている。
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18世紀半ば以後になって幕府や藩は、百姓の抗議行動(一揆)を禁止したのだ。これは後に述べるが、幕府や藩が百姓との契約を破って一方的に重い年貢をかけてくるようになったために一揆が頻発し、幕府や藩が一揆を禁止せざるを得なくなったことを背景にしている。
(c)「一揆」は武装蜂起ではなかった
そして忘れてはならないことは、「一揆」とは従来考えられてきたような武装闘争ではなかったことである。
近世の百姓の抗議行動は、先に見たような「訴えをおこすこと」と「集団で強訴すること」、そして「集団で逃げること(逃散)」であった。このうちの「強訴」こそ、百姓一揆と認識され、百姓が多数武装して、代官所などを襲って打ち壊したり火をつけたりする行動と考えられてきたものであった。しかしこのような「一揆」像は、近代・明治時代以後に作られたもので、近世の百姓の一揆は、もっと平和的な行動であった。
百姓一揆の象徴としては、筵旗(むしろばた)と竹槍がある。
しかし近世の百姓一揆では筵旗(むしろばた)が掲げられた例は少ない。大概は木綿の大旗を掲げたもので、これには一揆に参加した村の名が書かれていたのだ。強訴は大概、一郡単位や一国単位の百姓が行うものであるから、村から代表が多数参加する。その村ごとの隊列がどこにあるかを示し、同時にどこの村の百姓が参加しているかを明示する目的で村の名を記した旗を掲げたのである。
また百姓一揆が竹槍を携帯することも稀であった。
近世の一揆においては、百姓は武器を持たないというのが原則であった。一揆に参加する百姓の風体は、蓑・笠を着て腰に鎌を指すと言う、百姓の日常の仕事時の服装であった。
当時の村には多数の武器が所蔵されていた。刀狩は江戸時代になっても行われていたが、差出されたのは身分標章としての大小二本の刀であって、数は限られていた。多くの名主(みょうしゅ)百姓は二本指しが許可されていたし、脇差を差すのは大人の百姓なら当然のことであった。そして塚本学が「生類をめぐる政治」で明かにしたように、近世の村にはたくさんの鉄砲もまた所蔵されていた。なぜならば鉄砲は農具であったからだ。田畑を荒らす獣を脅したり駆除するために、必要な道具だったからだ。そして百姓は上手に鉄砲を使った。
このように近世の村には多くの武器があったが、一揆には武器を持ってくることはルールとして許されていなかった。鉄砲を持ち出す場合には、「鳴り物」として使用し、ほら貝などと同様に、一揆の進退を指示する鳴り物だったのだ。だから竹槍がある場合は、それは鎌などの農具と同列に扱われていた。
そして集団で代官所などに集まった百姓は、むやみやたらに代官所などを打ち壊したのではなく、まず代官所の門前で要求を願い出(文書を読み上げて差出す)、その上で、代官が要求を受け入れない場合には、集団で代官所の門を壊したり、門や塀の屋根瓦を剥いだりしたのだ。この場合の実力行使の意味は、門や家を壊すことで、代官に対して「お前は代官の資格がない」と公然と抗議することであり、世間に対してそれを明示することであったのだ。
近世の百姓一揆の代表である強訴も、このように行動を自主規制した合法的な抗議行動だったのだ。そして近世初期にはこれを取り締まる法はなかった。一揆とは近世初期においては完全に合法的な抗議行動・請願行動だったのだ。
そしてこのような強訴の形態が崩れ、実際に代官所や名主の家や米商人の家が打ち壊されたり焼き討ちにあった近世中期・後期の一揆が起きたのは、まさに領主の側が百姓との契約を踏みにじったり、商人と結託して米価の引き上げを図って不正を働いたからであり、百姓の抗議を受け入れない体制へと変化したからだった。しかしこの時でも、百姓は武器は携帯していない。あくまでも集団での抗議行動・請願行動だったのだ。
百姓が一揆に際して武器を持たなかったのには理由がある。それは近世の体制が、百姓と領主との契約に基づいた体制であり、領主は百姓にとって交渉の対象であり、公儀は彼らにとっても彼ら自身の政府だと認識していたからだった。百姓が武器をとって一揆を行ったのは、公儀が彼ら自身の政府だとは認識できなくなった時代。つまり明治維新後のことであった。
このような百姓と幕府・藩との関係についての研究が深化したことを背景にして、「つくる会」教科書の先の記述はなされたのだ。しかしあまりに説明不足である。もっと丁寧に、以上のような背景を説明しておく必要があるだろう。
(3)町もまた、領主からは自立した「自治」の場であった
「つくる会」教科書は、「村と百姓」の項の最後に「町と町人」について以下のように記述している。しかしこれでは標題と内容に齟齬が生じている。ここは「町と町人」という形で項を別におこして記述すべきであったろう。教科書は以下のように記述している(p134)
一方、兵農分離の結果、武士はすべて城下町に集まられたので、彼らの生活を維持するため、村の生産物を流通させ加工する必要があった。そのため職人や商人も城下に集まって町人となった。町人は、冥加金や運上金とよばれる営業税を納め、有力者が町役人となり自治に当たった。 |
町もまた村と同様に、町人による自治が行われた「共同体」であったということなのだが、この記述にも多くの誤りと不充分なところが見られる。
第1に、「町」と言いながら、なぜ城下町だけなのだろうか。寺社門前町や宿場町、そして港町など、中世以来の伝統を引く多くの町があったのだ。
第2に、城下町に多くの職人や商人が集まった理由が違う。これでは大名が武士の暮らしのために商人や職人を集めて城下町を形成したということになる。城下町は、商品流通に依拠して統治を行うために設けられたもので、商人や職人には破格の条件で集まってもらったのだ。
さらになぜ、町の自治の内容を記さないのか。そして町に住む人の間にも自治に参加できるものと出来ないものとがあったことも記さないのか。先にみた村の記述に比べてあまりに軽い扱いなのだ。
@城下町が形成された理由は
城下町は全てが新たに作られたわけではない。戦国時代からの伝統を引く城下町を見ると、それは交通の要衝であり、近くに「楽市」を掲げる大規模な商業都市を控えている。例えば美濃(岐阜県)の斎藤氏の岐阜の城下町は、井口という「楽市」を掲げる浄土真宗の寺院を中核として作られた寺内町を中核として作られている。また駿河(静岡県)の今川氏の城下町は、府中という古代以来の行政・商業の中核都市に隣接されて作られた。
これは何も戦国大名から始まったことではなく、鎌倉時代から室町時代の守護所もまた、交通の要所であり市の立つ、その国の行政の中心であった国府の近くの町の近辺に置かれた。武家とは単に戦を生業とした戦闘集団ではなく、その発生の当初から、商業・交通を生業としてそれを統括する武装集団であったわけだから、武家が次第に大きな力を持つとともに、その居城は一国の中核的な都市、商業的にも交通的にも行政的にも中核的な役割を持つ都市の周辺に作られたのだ。それはそこに居城を作ることによって、一国の商業・交通を統括し、そこから利益を得るためでもあった。
ただし大規模な城下町が作られるのは、戦国末期から近世初頭のことであった。この場合には、大名の居城がまず建設され、その周囲に、周辺の町や農村から商人・職人を呼び寄せて、城下町を新たに形成する。その場合に商人や職人を強制的呼び寄せたのではなく、破格の条件で呼び寄せたのだ。例えばそれは、地子という土地・家屋税の免除とか、城下町での市の特権や座の特権を排除して営業を自由にするという、今で言えば、「経済特区」とでもいうものであろうか。古い町においてはそこを支配する領主から地子という税を取られ、その町を支配する特権的商人が作る座や市によって商業の自由は制限されていた。これを大名が城下町においては破壊し、商工業をやり易くすることを条件にして、国内の町や農村、はては他国から多くの商人や職人を呼び寄せたのだ。こうすることで、特権的商人から商業網の支配権を奪い取ったり、特権的商人をも従属させて、一国の商業網・工業網を統括しそこから利益を得ようとしたわけである。城下町とは一国の政治経済の中心都市として形成されたのだ。
大名が城下町に配下の武士を集住させたのは、個別領主として土地を支配してきた彼らを土地から切り離すことで領主階級内の争いを停止して一国に平和をもたらし、武士を大名の忠実な軍団・官僚として統合するためであった。城下町が先にあり、そこに大名家臣が集められたのだ。城下町の商人・職人が武士の暮らしのために集められたとする説は、城下町の多くが武家地の周りに商業区域・職人区域があり、それぞれが職業の別によって集まって町を形成しているという、城下町の外形から、後智恵的に作られたものに過ぎない。商人や職人が同じ職業で集まって暮らしているのは、彼らが同業者組合を形成して共同体として暮らしているからであった。城下町の形成に際しても、商人や職人が同業者組合を形成して共同体をなし、それが居住地においては町として自治を行う共同体として機能してきたという歴史を踏まえて、町は作られたということに違いない。
A町人の自治の場としての町
近世の町は、中世の町が自治の場として形成されてきた伝統を引き継いで存在している。しかし中世の町と近世の町とで大きく異なる面もある。それは村と同様に、中世の町はしばしば武装して領主や武士、さらには寺や他の町や村と対立抗争し、その争いは戦闘をしばしばともなってきた。しかし近世の町にはこれはない。たしかに近世の町も町を塀や堀で囲い、町の入り口には木戸を設けて、木戸番という武装した町人で守られていた。そして町内には自身番が設けられ、町名主(年寄)の指揮下で、武装した町人自身によって町の治安は守られていた。だがこの町の治安権限は町の中だけであり、いくつもの町が集まって出来た都市や農村部の町でも、町の外部に関る問題については町奉行所・郡奉行所の差配を受けていたのだ。これは近世の体制が町においても、町人と幕府・藩との契約によって成り立つ体制であったことに起因している。村がそうであったように、町を越える治安維持については、幕府や藩が責任を持ち、その替わりに町は、地子や様々な商業税を納めて町の自治を行うという関係である。
そして町が行う行政は、奉行などからの触書の伝達や人別改め、防火と消火の取り締まりと手配、訴訟事件の和解工作、家屋敷の売買や譲渡などの証文案件の検閲、博打や勝負事の禁止など、町民の生活全般に渡っていた。さらに近世において周辺農村からの大規模な人口流入に伴って生じた、し尿やゴミの処理問題や住宅問題、さらには飢饉に際しての救民事業なども、本来は町の仕事であったのだ。ただこれらの問題が町だけでは解決のつかない広域行政に関っており、しかも社会問題となって政情不安も起こしたので、町奉行や幕府・藩が町人の願いに依拠して対策に乗り出したに過ぎない。
町の自治も、今日の地方行政の大部分を担い、奉行所が本来業務として差配したのは、町を越える治安案件や裁判の処理と同業者組合や商業の独占に関する許認可業務だけであった。
さらに町の自治も村の自治と同様に、町の住民全員が参加できるものではなかった。
町人とは本来、町に住んで家屋敷や店を所有する住民のことを指す。彼らだけが、地子銭を負担しさらに町政の諸費用を負担していたので、彼らの間から町名主(年寄)が選任され、さらに町名主を補佐する「月行事」や「町代」という役職の町人が町会所につめて、町政を司っていたのだ。この町名主の選びかたは町によって異なる。江戸のように、古手の家持が代々継承するところもあったし、大阪のように、家持の町人の入れ札によって選任されるところもあった。この家持のことを本来は町人と呼び、これ以外の借家人・商家の奉公人や職人の徒弟などや小商人は、町人とは呼ばれず、町政にも参加できなかったのだ。
町もまた町人たちの自治による生活共同体であり政治組織であったことを、きちんと記述してもらいたいものである。
注:05年8月刊の新版の記述は、旧版とほとんど変わらない。変更されたことは、村の相互扶助の慣行が少し具体的に記述され、「ゆい」や「もやい」などを紹介したことと、町の自治に関する記述が、「城下町と町人」と題されて別項となったことである。しかしその他の記述はほとんど旧版と同じであり、上に示した批判は、そのまま新版にもあてはまる。
注:この項は、板倉聖宣著「日本歴史入門」(1981年仮説社刊)、板倉聖宣著「歴史の見方考え方」(1986年仮説社刊)、朝尾直弘著「東アジアにおける幕藩体制」(1991年中央公論社刊、日本の近世第1巻・朝尾直弘編「世界史の中の近世」所収)、藤井譲治著「『法度』の支配」・田中誠二著「藩政機構と家臣団」・鈴木ゆり子著「村役人の役割」(以上、1991年中央公論社刊・日本の近世第3巻・藤井譲治編「支配のしくみ」所収)、福田アジオ著「村の共同と秩序」(1992年中央公論社刊、「日本の近世」第8巻・塚本学編「村の生活文化」所収)、保坂智著「百姓一揆−その虚像と実像」(1993年中央公論社刊、「日本の近世第10巻・辻達也編「近代への胎動」所収)、玉井哲雄著「都市の計画と建設」(1993年岩波書店刊・講座日本通史第11巻「近世1」所収)、渡邊忠司著「町人の都大阪物語」(1993年中央公論新書刊)、田中圭一著「日本の江戸時代−舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、山本英二著「慶安のお触書は出されたか」(2002年山川出版社刊、日本史リブレット38)、などを参照した。