「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判19
19:百姓の年貢負担は重くはなかった
「平和で安定した社会」の3つ目は、「大開発の時代」と題して、近世の政治・社会・経済を考える際の基礎となる問題について論じている。教科書は次ぎのように記述する(P134)。
平和な社会が到来して、人々は安心して生活の向上を目指して働くことができるようになった。幕府や大名も米の増産を望んだ。こうして、全国で、干潟や河川敷などを中心に新田が開発された。17世紀の100年間に、全国の田畑の面積は、およそ2倍近くまで増加した。まさに大開発の時代であった。今日、日本各地で見られる広々と水田が広がる風景は、この時代に生まれたものである。 開発にともない、田畑を深く耕せる備中ぐわ、脱穀のための千歯こきが用いられるようになり、農作業の能率が向上した。そして、肥料として干鰯や油粕を購入して用いるようになり、土地の生産力が高まった。 江戸時代の年貢率について、「五公五民」「六公四民」という言葉があり、収穫高の5割から6割が年貢だとみなされていた。しかし、米の生産高が上昇した結果、実際の収穫高は年貢の計算のもととなった数字の上での収穫高(17世紀はじめの検地のときのもの)をはるかに超え、全体としては年貢は3割程度、なかには十数%の地域もあった。 |
江戸時代初期から中期の18世紀中頃までの時代は、教科書が指摘するように、まさに大開発の時代であった。耕地が約2倍に増大する。つまりそれに伴い、食料などの農産物の収穫量があがるわけだから、人々の暮らしが豊かになるわけだ。これが江戸時代を考える上で、もっとも大切な基礎的な事実である。
このことをきちんと指摘したことは正しい。
だが、「つくる会」教科書の「大開発」についての記述には、大きな欠落がある。
一つは、大開発が進められた動機の問題。教科書は単に、幕府や大名も、そして百姓も平和になったので生活の向上を求めたと記述する。しかし大開発が進められた動機はこれだけではない。各地での都市の成立。巨大な消費市場が生まれて、穀物価格を中心にして農産物価格が急激に上昇したことも、農地の拡大を支えた重要な要素であることが忘れられている。
そして二つ目には、その大開発の実態がまったく触れられていないこと。「干潟や河川敷などを中心に新田が作られた」とのみ記し、各地で干潟の干拓事業や河川の付け替え・用水路の掘削などの大工事がなされたことを全く記さない。
さらに三つ目に、大開発の影響が、人々の、特に百姓の暮らしにどのような影響を与えたのかがきちんと記述されていない。教科書は先の記述のように、年貢率が下がったことなどしか指摘していないが、大事なことは農地の拡大によって従来は独立して家族を営めなかった人々が独立し、その結果人口が急激に増えたことである。そしてこれとともに、百姓が生まれた村を離れて他郷や他国に移動したことである。こうした社会の変化にも目を向けて欲しいものだ。
さらに三つ目に先の記述には、いくつかの事実誤認が見うけられる。
一つは、肥料として干鰯や油粕が一般的に使われたかのような記述がなされているが、これは綿などの商品作物栽培地域に限られていることがきちんと記述されていない(この商品作物生産の問題は、次ぎの「農産品の生産」の項で詳しく述べたい)。さらに二つ目には、年貢率の低下の理由を米の生産高が上昇したことだけに求めているが、本来検地の際に申告された収穫高そのものが実勢に及ばなかったことが忘れられている。
以上の点を補えば、「つくる会」教科書のこの記述は、江戸時代を考える上で、従来の搾取の厳しさから百姓は貧しい暮らしをしていたという間違った認識を改める上で、おおいに役に立つものといえよう。
(1)大開発の背景−平和到来と商業の時代の到来−
大開発を促した理由は複数存在する。
@戦乱で荒れた農地の回復
大開発は戦国時代から行われていたのだが、江戸時代となって戦乱が終わるとともにたしかに開発は増大した。その理由の一つは、教科書が記述するように、「幕府や大名も米の増産」を望んだことである(正しくは「米」のみではない。麦も入るし、場所によっては綿花も入る)。
なぜかということ、戦乱が終わったことで、大名の領地は基本的に固定され、戦に勝って領地を増やして収入を増やす方法は取れなくなったため、生産力を増強する以外に、収入を増やす道がなくなったからであった。
しかし幕府や大名が農産物の生産量の増大を望んだ理由は、これだけではなかった。
戦国時代の打ち続く戦乱は、各地の百姓たちにも軍役による動員という、農業経営に専念できない環境を作りだし、とりわけ秀吉の朝鮮侵略は、各地の百姓にも多くの犠牲を強いていた。このため各地で耕作者を失って荒地と化した農地が、数多く存在した。
近世初期の「走り百姓」と大開発の関係を追及した宮崎克則は、朝鮮侵略の最前線基地となた九州だけではなく、全国各地で荒地が増大したことを報告している。
近江国(滋賀県)神埼郡瓦屋寺村の1602(慶長7)年検地帳では、耕地の53%が荒地となり、蒲生郡の今在家・下羽田・芝原南村では耕地の1割程度が荒地であった。また相模国(神奈川県)足柄上郡の村々でも耕地の半分以上が荒地であった。そして大名領国で見ても、1600(慶長5)年に豊前国(大分県)に入国した細川氏の場合でいうと、領国となった豊前と豊後国東(くにさき)郡30万8000石のうち、半分以上の16万4000石が年貢を収納できない農地であった。
打ち続いた戦乱による軍役の重さが、百姓の逃亡や治水事業の遅れなどを招いて、耕地の荒地化を進めていたのだ。
従って大名は、領国内の荒地の開墾を目指し、同時に荒地の少ない地域でも新田開発を進めて収穫の増加と年貢収入の増加を図ったのである。そしてそのために、「国役」による百姓の動員と大名の財政支出による耕地開発を進めるとともに、開発した耕地には一定期間の無税期間を設定したり、他国の百姓が入植して開墾した場合には、「国役」などの夫役を免除するなどの優遇策を講じて、百姓個人や村の力で荒地の開墾を進めることを奨励したのであった。
A大都市の成立と農産物価格の上昇
また百姓たちが、村の力や個人の力で荒地を開墾して行った背景には、農産物価格の上昇という農業環境の変化も存在していた。
大開発が進展した17世紀後半といえば、各地に大規模な都市が生まれた時代であった。大名は領国の行政の中心として、自身の城の回りに城下町を形成し、そこに多数の商人や職人の集住を奨励するとともに、家臣団をも住まわせて、領国経営の核とした。つまり全国各地に、万以上の人の集まる都市が、次々と出現したわけである。これと同時に大名は戦国時代に引き続き、金銀銅の産出を高めていくために領主直営の鉱山の経営に努力し、各地にこれまた万の人口を数える鉱山町も出現していった。こうして各地に都市が出現するとともに、これまで村で商業や工業と農業を兼業して暮らしていた武士や商人や職人が村から離れて専業化したわけだから、ここに農産物の大きな市場が出現したことになる。従って全国的に農産物の価格は上昇した。これが百姓たちが荒地の開墾に精を出した背景であり、大名たちも大開発にいそしんだもう一つの背景であった。
とりわけ東国では、江戸に100万の人口を擁する巨大都市が出現したわけであるから、その都市の需要を満たすために、各地で農産物の大増産が行われたわけであった。まだ充分に流通網が発展していなかった近世初頭である。このために都市部では、農産物価格が高騰し、これに従って工業原料である農産物の価格も上昇する。従って商人や商人を兼ねる百姓たちは、この産地間の農産物価格差を利用して、価格の安い産地で大量に取得した農産物を価格の高い都市に運び込み、巨利を博するということになった。
この巨大都市の出現と、これに伴う農産物価格の上昇が、大開発の背景にあったのだ。
この大開発のもう一つの背景が従来忘れられた理由は、近世江戸時代を自給自足の時代と誤認してきたことがある。次ぎの項で詳しく述べるが、中世においてすでに全国的商業網は発展し、農業もまた商品作物を栽培する商業的農業へと発展していた。百姓は米すらも自己の飯米や年貢米として生産するだけではなく、余剰分を都市へと出荷し利益を得る農業をはじめていた。そして各地で綿花などの商品作物もすでに栽培されていた。ここに大都市の出現による農産物価格の上昇が起きたわけである。百姓や大名がこぞって大開発を行って農産物の大増産を行うのは、理の当然のことであったのだ。
B各地で進む大開発
従って近世初頭から中期の17世紀・18世紀は、各地で大開発が進んだ時代であった。
特に各地で、いままで治水事業が行われずに、毎年河川が氾濫するに任せられて荒地が散在していた大河川の周辺の沖積平野が、河川の付け替え工事や堤防・用水路建設によって開発され、豊かな水田地帯になっていったことである。現在各地で、大河川の周辺で豊かな水田が広がっている光景が見られるが、これは江戸時代初頭に行われた大開発の結果だったのだ。
代表的な例を挙げれば、幕府によって行われた関東における利根川と荒川の流路付け替え工事がある。江戸湾には北からいくつもの大河川が流れこんでおり、古来大洪水に悩ませられる地域であった。このためこれらの河川を付け替えて洪水を減らす工事は戦国時代からはじめられていたが、大規模に実施されたのは、徳川氏の関東入国以後のことであった。まず江戸湾に流れこんでいた利根川の流路を付け替え、小貝川・鬼怒川などが合流して出来た常陸川に利根川の水を流しこんで東に流路を向け、江戸湾ではなく銚子で太平洋に流れこむように作りかえる。そして利根川の西側を流れる荒川の流路も付け替え、西にある入間川水系に荒川の水を流し込むことで、旧利根川・荒川の流路であった大規模な沖積平野を水田に変えたのである。
このような大規模な河川付け替え工事は、全国的に行われた。それは代表的なものだけでも、仙台藩による北上川付け替え工事、富山藩による常願寺川付け替え工事、戦国期の武田氏以来続けられた富士川の堤防工事、さらに戦国期以後近世になっても尾張藩の下で続けられた木曽川の付け替えと長良川・揖斐川も含めた伊勢湾に注ぐ3河川の堤防工事や備後福山藩による芦田川の付け替え工事、四国松山藩による伊予川・湯山川の一本化工事、筑前福岡藩による遠賀川放水路工事、九州久留米藩による筑後川放水路工事など、数多くの河川付け替え工事や治水工事がなされ、流域の沖積平野や河口部の三角州の水田化が図られたのである。
これと同時に各地で、用水路が建設され、水利の便の悪い大地が潤され、豊かな水田や畑地に変えられていったのだ。多摩川から江戸の町への上水の供給と周辺の台地への農業用水の供給を目的に作られた玉川上水や野火止用水、そして多摩川周辺の台地への農業用水供給を目的に作られた二ヶ領用水や六郷用水。さらには箱根の芦ノ湖の水を富士・箱根の裾野の台地に通すために山腹にずい道を掘りぬいた箱根用水など、各地で用水路も建設された。
さらには全国で干潟や沼・湖の干拓事業も行われて耕地が増大した。下総国(千葉県)の椿海の干拓や備前(岡山県)の児島湾の干拓、そして九州肥前国(佐賀県)の有明海の干拓などが代表的な例である。
ただこの大開発の結果は、良いことだけではなかった。無計画な新田開発の結果は、山林の減少による洪水の増大や、堤防工事の偏りにより、一方の河川流域だけが洪水に見舞われるなどの災害を生み、各地で村と村との境界争論や藩と藩との境界争論を頻発させたり、耕地が逆に荒れたり、天候の急変による飢饉の勃発を生み出すもととなった。この点は後の幕府政治の動揺の所で見ることとする。
C土地が資本財として運用される時代背景
こうして全国各地で、大規模な耕地拡大のための開発が行われた。
そしてこれだけ大規模な開発を行い得た背景には、戦国時代における鉱山開発技術や築城技術の進歩が用水土木技術として応用されたという技術的背景と、大名や幕府だけではなく、大商人や大百姓が開発を計画して藩や幕府の支援も受けて開発を担当し、開発の成功の暁には、出来あがった新田畑を彼らの土地として百姓に小作させて利益を得るという、資本投下による大開発が行われたことも重要な背景であった。先に示した各地での開発事業の多くが、幕府や藩の計画と資金投入だけによって実現したのではなく、多くの場合は、大商人や大百姓の計画に幕府や藩が賛同して資金も提供したり夫役で百姓を動員したりして、いわば官民共同で行われた大開発だったのだ。
戦国期以後、各地で検地が実施されたことで、農地はそこを耕す百姓の財産と認定されていた。従って農地は売買されたし、売買によって農地を集積した地主が、農地を百姓に小作させて利益を上げることも普通に行われていた。そして農業経営や商業によって巨利をえた大商人や大百姓が、自己資金に公的資金を合わせて、各地での大開発を担ったのだ。
近世・江戸時代はすでに、土地そのものが資本財として運用される前期資本主義社会であったのだ。
(2)他郷・他国へ流れて独立する小百姓
しかし、このような全国的な大開発は、全国的な労働力不足を引き起こした。従って大名は不足する労働力を補うために他郷・他国からの百姓の移住を奨励したし、百姓もまた他郷・他国へ移住して生活の基盤を築き、豊かな暮らしを実現する道を選択した。その結果近世社会は、その中頃に至ると、戦国期や近世初頭とは、社会が大きく変動したのである。
@逃げる百姓・追う大名
戦国時代から近世初頭にかけて、大名は百姓の「走り」とか「欠落(かけおち)lを厳しく罰する法令を出し続けた。従来はこれを、「大名の年貢搾取によって生活ができなくなった百姓が逃散した」と解釈してきたが、近年、「走り」「欠落」関係の資料を詳細に研究したことによって、「走り」「欠落」と「逃散」とは別のことであることが明かとなった。
すなわち、「逃散」とは、百姓が領主の不正などに抗議して、村単位とか郡単位とかで他郷や他国に逃げることを差しているが、「走り」「欠落」は、百姓が個人または家族単位で他郷や他国へ移住することで、他の場所へ生活拠点を移すことによって暮らし向きを豊かにする行為であり、その背景には、各地で行われていた荒地の開拓という大開発が行われていたことが明かとなっていった。
すなわち先に見たように、戦国時代から近世初頭にかけて、全国的に荒地の開発が行われたわけだが、これによって慢性的に労働力の不足が生じてきていた。従って大名は、不足する労働力を補うために、他郷や他国からの百姓の移住を奨励し、移住して開拓に従事したものには田畑を与えるだけではなく、開拓して後の一定期間の年貢の免除や、さまざまな夫役という労役の免除などの特典を与えていた。そして各地で開発が進むとともに、他郷や他国から集まった百姓によって新しい村が形成されると、そこにも新たに商品市場が誕生し、この新たな商品市場を目当てとして、商人や職人を兼ねた百姓が移住して来ることとなった。
中世までの百姓の家族は、大家族制であった。
一つの家が複数の家族によって成り立ち、そこには家長の家族だけではなく、家長の兄弟の家族や、家長の下人の家族などが集まって生活していたのだ。従ってこの時代においては、家長の兄弟の多くは一生独身で親や兄の家に住み、その田畑の耕作の手助けをして暮らしていたのだ。そしてこれは、その家に隷属する下人の家族の場合にも同じことであった。要するに百姓の家の次男・三男や下人の子弟は独立して家を形成することもできなかったわけだ。
しかし各地で大規模開発が進行し、これに伴い労働力が不足する事態が生まれたことによって、百姓の次男・三男や下人の子弟に独立する機会が生まれた。まして大名が荒地の開発に従事するものを優遇する措置を取ったのだから、生まれ育った村を捨て、他郷・他国に移住することは、家に縛られていたこれまでの暮らしからの開放と、豊かな自由な生活への飛躍を意味していた。こうして各地の大開発の進行に伴い、各地の村から、百姓の次男・三男や下人の移住が広がったのである。
だがこれは移住した百姓が元いた村の領主である大名の目から見ると、自国の労働力の減少を意味する。だから大名は、一方で他郷・他国からの百姓の移住を奨励しながら、他方で、自国の百姓の移住を禁止したのだった。そして隣接する大名の間で、「走り」「欠落」百姓の「人返し」協定を結んだりして「走り」「欠落」の減少を図ったのだが、一方で大開発の進展に伴って他国からの百姓の移住が奨励されたのだから、この禁令に効果があるはずもなかった。
A小百姓の台頭と人口の増加
こうして各地に、新たに耕地を手に入れた小百姓の群れが誕生し、新たに家族を作る機会に恵まれた人々が増大したゆえに、人口も急激に伸びて行ったのである。近世初頭の人口は、推定値であるが1000万程度から1500万程度である。これが大開発が一定程度進行した近世中頃、18世紀になると、人口は、2600万または3000万へと激増する。そしてこの新たな村の出現と人口の増加がまた新たな商品市場を生み出し、生まれた村から他郷・他国へ移住して、商業や工業に従事する百姓をも生み出していったのだ。
近世初頭から中頃にかけて、各地の村で、小規模の農地を所有して農業を営む小百姓が増大し、彼らが村の中で発言権を拡大して村政に参加し、名主(みょうしゅ)百姓など有力百姓の村政私物化を糾弾して、百姓代の任命によって名主を監視したり、名主の惣百姓による入れ札による選定などの村政の「民主化」が進められた背景には、このような経済・社会の変化があったのだ。そして同時期に、村において農地を所有しない無高百姓が増大したのも、新しい村の誕生や人口の増加による商品市場の増大をあてこんで、商人や職人として独立した百姓が増えたことの反映であった。
戦国期から近世初頭にかけての大開発の進行は、社会そのものを変化させたのだ。
注:ただしこの人口数値は再検討の余地がある。幕府がはじめて行った全国人口調査である1721(享保6)年の調査では、人口は2605万人。ただしこの調査には武士・公家・被差別民は除外されており、また調査対象の下限年齢が藩によってバラバラであるため、除外部分を加えて推定3000万人程度。初めての人口調査結果も推定でしかない。そして江戸時代初頭17世紀初めの人口の1000万人は、総石高1850万石を元に、実際の収穫高は総石高より多いので(2割多いと推計)をそれを元に推計された数字が1000万人。しかし実際の所はよくわからない。また1500万人というのは、総石高や宗門人別帳に基づいて継続的に人口の動きがわかる幾つかの地域の江戸時代前半の人口増加比率・約3倍を全国に当てはめ、享保年間あたりで多くの藩の人口が横ばいになっているので1721年を最大数値として逆算推定したもの。しかし宗門人別帳も全人口を網羅したものではなく、3倍という人口増加率も全国的なものかどうかは不明。従って江戸時代初期17世紀の人口増加は、推定されているほど急激ではなかったかもしれない。
(3)年貢率低下の秘密
最後に、年貢率の問題について述べておこう。
先に見たように、「つくる会」教科書は、江戸時代の年貢は五公五民とか六公四民と呼ばれてきびしい年貢搾取が行われていたが、実際には年貢率は概ね3割程度であり、中には十数%のものもあって、厳しい搾取は行われていなかったと記述した。
この指摘は、江戸時代の百姓が実は豊かな暮らしをしていたことを示す、大事な記述であり、年貢率が低かったことを示したことは、従来の教科書から比べると大きな進歩であった。
しかしこの教科書の記述にも誤解がある。
この記述では、年貢率が従来考えられてきたような重いものではなかった理由が、単に収穫高の増大による検地帳の石高と実際の収穫高の差によって生まれたものと理解され、これでは実際のものとは大きく異なった理解となってしまうのである。
@実態として低かった年貢率
教科書が江戸時代の年貢率は概ね3割程度であり、中には1割と少しの所もあったと記述したのには根拠がある。
それは、明治維新後に勝海舟が大蔵省の依頼で集めた幕府の財政資料集に「吹塵録」というものがあり、その中に、1838(天保9)年の幕府の年貢収入を天領地別に記録したものが入っていたからである。この時の幕府領の総石高は約419万石。もちろんこれは検地帳に記された表高である。そして収納された年貢は155万石で、年貢率は37%。3割強なのだ。さらに、年貢率は土地によって異なり、最も低いのは、陸奥(青森・岩手県)・常陸(茨城県)の天領で17%。最も高いのは、摂津(大阪府)・播磨(兵庫県)・河内(大阪府の天領で71%なのであった。地域的に平均してみても、中部以東の地域の年貢率は28%で近畿以西の年貢率は59%。農業の発展した地域とそうでない地域の年貢率の差は大きかったのだ。
また幕末の幕府役人である向山源大夫が収集した記録の中にも、「御取箇辻書付」という1716(享保元)年から1841(天保12)年までの毎年の幕府領の総石高と年貢割付高が記録されたものもあり、そこで示された年貢率もおよそ3割。特に年貢の最高収量を示した1744(延享元)年は、総石高が約463万石、年貢収量は約180万石で、年貢率は39%。
こうして実態としてみても江戸時代の年貢率は、概ね3割程度で、低いところでは1割強、高いところでは7割と、地域による土地生産性の違いによって年貢率は異なっていたのだ。
A表高の2倍はある実際の収穫高
しかしこれは、検地帳に記された年貢計算の基準となる表高に対する実際に収納された年貢の占める割合を記したものに過ぎない。
実は検地帳の表高と実際の収穫高との間には、大きな違いがあったのだ。これは村に残された「刈高帳」という実際の収穫高を記録した帳面を調べると分かることで、近世を通じた土地の売買や質入れ、そして小作契約には、この「刈高帳」が使われていた。従来の近世研究は、この帳面を見ることなく、検地帳と年貢割付帳だけを見ていたから、表高と収穫高の違いに気付かなかったのだ。
表高と実際の収穫高の差はもちろん、一つには、検地以後の農業技術の向上や農地への労働力の集約的投下による農業生産の向上が背景にある。だから幕府も藩も、近世初期の太閤検地以後、何度も検地を行って、検地以後の新田開発や土地生産力の向上の成果を、年貢収納の基準に反映させようとした。しかし詳細な惣国検地は所によっては17世紀末もしくは18世紀初頭以後は行われていない。従って検地が100年以上も行われなければ、検地帳の表高と実際の収穫高との間には大きな開きが出てくるわけである。
佐渡や新潟県の農村部の村に伝承された文書を研究して江戸時代の実際を明らかにした田中圭一によれば、この地方の検地帳の表高と実際の収穫高の差は、19世紀中頃の天保年間ではおよそ2倍あったという。そしてこの地域の表高に対しての年貢収納率が3割程度であったから、実際の収穫高に占める年貢の割合はさらに低く、実勢は1割半程度であったとしている。
各地で進んだ土地生産高の増加は、こうして年貢率をどんどん低下させ、百姓は働いただけ暮らしを楽にすることが出来たのだ。
B検地はそもそも軍役のためのものであった
しかしこの年貢率の低下を、土地の生産力の向上だけに原因を求めることは誤りである。
なぜならば、検地帳の表高と実際の収穫高との間に大きな差があるだけではなく、耕地の面積にも、検地帳の面積と実際の面積に大きな差がある例が多々見られるからである。田中圭一によれば、その差はおよそ2倍。実際の面積は検地帳の面積よりもかなり大きい例も見られたのだ。
ということは、検地とは従来の認識とは違って、実際に土地の面積を測り、土地の収穫高を調べたものではないということを意味している。
しかしこれは、考えて見れば当たり前のことである。なぜならば検地とは、大名にとっては、年貢収入を確認するためのものではなく、百姓に軍役を負担させて領国支配を強化するためのものだったからである。
検地が始まったのは、戦国大名の治世下においてであった。その以前の守護大名の時代においては、大名は直接百姓を把握することはできなかった。百姓を把握していたのは、直接に土地を支配している国人領主と呼ばれる武士であったからである。大名が把握できた百姓は、自分の直轄の領地だけであり、大名が戦に動員できるのは、直臣の武士と、直轄領の百姓だけであり、領国と言えども、他の国人領主の支配する地域からは武士も百姓もその動員権は領主のものであった。
この間接的な領国支配を直接的なものにしようと努力したのが、戦国大名であり、それをさらに促進したのが織田・豊臣・徳川の統一政権であった。彼らは耕地の増大や商品流通の増大によって力をつけてきた村に依拠して、村の有力者たちを自らの家臣に取りこみ彼らを武士身分に取りたてる(これを地侍と呼ぶ)とともに、有力百姓たちの所有する直営の田畑を彼らの所有地として認定するとともに、その田畑に応じた軍役を彼らにかけ、地侍を武力として動員するとともに、地侍が属する村からも百姓を人夫などの軍役として動員する体制を取ったのである。こうして戦国大名は領国の再編成や領国の拡大に応じて国人領主の支配を覆し、村の地侍と直接結びつくことによって動員できる武力や労働力を拡大し、戦を勝ちぬいて行った。この時に、地侍や百姓を動員するための手段が検地であり、検地を行うことによって百姓には土地の私有権を認め、村による年貢の村請けも認めてその自治の拡大を容認し、その代償として、自らの軍事力・労働力として百姓を動員しようとしたのである。
この傾向を拡大し、国人領主による村支配を打破し、大名による領国の直接支配を実現したのが、織田・豊臣・徳川の統一政権であり、豊臣秀吉による朝鮮侵略を名目にした全国的な検地の実施であった。こうして大名は家臣団をその知行地から切り離し、その領国全体を直接支配できる体制を築いたのである。
このように検地の歴史を紐解いてみれば、これは大名が軍役を百姓に負担させるための手段であり、年貢収納のための手段ではなかったことがわかる。従って一つ一つの田畑の面積や収穫高を実際に調べる必要はなかったのだ。調べる必要があったのは、軍役と年貢を負担する百姓が誰であるかを確定することだけだったのだ。田畑の面積や収穫高は、この軍役負担の基準として必要であっただけだ。しかもこの調査は大名が直接行うのではなく、村に依拠して行われた。つまり自治を行う村が、村名主を通して自己申告したものに基づいて検地帳は作られていた。誰がどの田畑を耕し、その田畑の面積や収穫高は幾らなのかは、全て村の自己申告だったのだ。
こう考えて見れば、検地帳の田畑の面積も収穫高も実際の物とは異なっていて当たり前である。検地に際して村の側が、面積も収穫高も実勢に沿って自己申告する必要はない。彼らが実勢に応じて申告していないことが大名も分かっているから、近世初頭において何度も検地が繰り返されるのだ。そうでなければ検地は、新田畑の検地だけで済むはずである。実際に何度も、新田だけではなく古田の検地も行われているのは、幕府や大名が何度も検地を繰り返して、検地帳に記された収穫高を実勢に近づけようとしたことの証である。そして古田の検地も含む惣国検地は、早い所では17世紀末、遅い所でも18世紀初頭には行われなくなり、以後100年以上もの間検地が実施されず、検地帳の表高と実際の収穫高に大きな開きが起きていったのだ。
C五公五民は小作料を示す数字
では、従来五公五民とか六公四民と呼ばれた数字は、一体何を示していたのだろうか。
従来の説の根拠は、1728(享保13)年に出された一つの法令である。これによると、昔から享保年中までは四公六民であったが、享保12年に六公四民に改められた。しかし百姓が難儀を申したてたので、享保13年に五公五民に改められたという。従来はこの法令によって、江戸時代の年貢は変化したと考えられてきた。
しかし享保年中の年貢率を、先の記録などによって調べても全体としての幕府の年貢率は3割強であり、5割などではなかった。では先の法令は何を意味していたのか。
田中圭一によれば、これは小作料を示した法令ではないかという。この法令にいう「公儀地頭」とは領主と地主を指し、小作地については小作人は収穫の5割を自分のものとし、残りの5割を地主が取り分とする。そして地主はこの5割から年貢を支払ってその残りを自分の取り分とした。実際に江戸時代の村の記録を調べると、地主と小作人とで、田畑の真中に線を引いて、収穫を二分する習慣があったという。
つまり年貢率は実際には3割程度でさらにこれは実際の収穫高から見れば1割半程度であったのだから、地主の取り分は3割半。小作人は5割。そして領主が1割半だったというのだ。耕地を小作地として借りていても、小作人は充分暮らして行けたのだ。ましてや自分の田畑を持っている百姓であれば、実際の収穫の8割半は自分のもの。
こうして近世においては、百姓は働けば働いただけ生活が豊かになる体制が築かれ、百姓の暮らしは豊かになっていったのだ。
「つくる会」教科書の大開発と年貢率についての記述は、従来の教科書に比べれば一歩前進であり、江戸時代の百姓が豊かな暮らしをしていたことを伺わせる優れた記述であった。しかし残念ながら、大開発の背景から商業的農業の発展による農産物大増産の意欲が生まれたことが欠落されて、江戸時代の百姓の実際の暮らしと乖離した記述も見られたし、年貢率の問題については、検地についての認識が誤っていたために、実際の年貢率とはさらに大きな乖離が見られたのである。このあたりの記述を改めれば、「つくる会」教科書の江戸時代の百姓についての記述は、さらに優れたものになるであろう。
注:05年8月刊の新版の記述は、旧版とほとんど変わらない。従ってその記述の欠落点や誤解もまた旧版と同様である。ただし年貢率の問題については本文から削除されて注に移され、さらに田畑の面積の増大を示すグラフに、室町時代中期と江戸時代初期・中期のそれぞれの田畑の面積の数字を明記したので、田畑の面積の増大の実勢を計算することができるようになっている。
注:この項は、大石慎三郎著「江戸時代」(1977年中央公論新書刊)、鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」(1983年PHP研究所刊・2000年講談社学術文庫再版)、板倉聖宣著「歴史の見方考え方」(1986年仮説社刊)、辻達也著「政治の対応−騒動と改革」(1993年中央公論社刊・日本の近世第10巻・辻達也編「近代への胎動」所収)、佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」(1995年講談社現代新書刊)、田中圭一著「日本の江戸時代−舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、宮崎克則著「逃げる百姓、追う大名」(2002年中央公論新書刊)、高埜利彦著「元禄の社会と文化」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収)、などを参照した。