「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判20


20:商業的農業の展開で百姓は豊かに暮らしていた

 「平和で安定した社会」の4つ目は、「農産品の生産」と題して、江戸時代農業の実態と百姓の暮らしについて記述している。教科書は次ぎのように記述する(p135)

 米の生産高が増えると、人々の食生活にゆとりが生まれ、副食品、嗜好品、衣類への需要も高まった。その原料として、野菜、茶、麻、楮(こうぞ)、藍、漆、紅花、菜種などが、その栽培に適した地域で本格的に栽培されるようになった。各藩も特産物の生産を奨励した。それまで輸入に頼っていた、木綿や生糸の生産も増え、やがて国内で自給できるようになっていった。こうした農法や栽培品種についての新しい試みは、さまざまな農書に記されて全国へ広がった。
 農民は農繁期には忙しく働いたが、農閑期には、豊かさがもたらすゆとりを背景に、神社仏閣の参拝の旅に出かけたり、獅子舞や相撲、踊りなどで休日を楽しんだ。

 前の「大開発の時代」で江戸時代の年貢率が、実は重くはなったことをうけての記述である。そして江戸時代の農業がけして米の生産だけのものではなく、様々な商品作物を工夫しながら栽培していたことや、百姓の暮らしがかなり豊かでゆとりのあるものであったことを記述した点など、従来の教科書にはない、優れた記述である。
 しかし教科書の記述は、ここでもまた大きな誤解に基づいたものや、大切なことが欠落するなど、まだまだ改善すべきことは多い。
 それは一つには、商品作物を栽培する農業が、江戸時代初頭〜中期にかけての大開発の結果として米の生産高が増えて人々の生活にゆとりが生まれたことを原因として広がったとする誤りである。商品作物を栽培する商業的農業は何も江戸時代になって広がったのではなく、古代から、とくに中世において目覚しく発展してきたことはすでに、古代編・中世編で指摘してきたところである。そして江戸時代の商業的農業が全国に拡大した理由は大開発による米の増産ではなく、その米の増産を目的にした大開発の背景でもある、都市の拡大による商品需要の拡大であったのだ。このことを、「つくる会」教科書の筆者たちは失念しており、ここには近世・江戸時代は自給社会であったのが、しだいに商品経済が発展した結果として商業的農業が広がったとする、従来の誤った認識が反映されている。
 また二つ目は、せっかくここで、「それまで輸入に頼っていた木綿や生糸の国内での自給が実現した」ことを記述しながら、このことが持つ歴史的な意味をまったく記述していないことである。木綿と生糸は中世以来の日本の主な輸入品であった。これを、その原料とともに近世において日本が自給できるようになった。実はこれは、日本がアジアにおいて唯一欧米諸国の植民地とならず、自立した工業国としてアジアの植民地化に手を染めて行った背景の一つなのだ。
 さらに三つ目には、百姓の暮らしが豊かでゆとりのあるものだと記述しながら、それを示す資料が全く掲載されていないことだ。百姓は何を食べていたのか。百姓の家計収支はどうなっていたのか。百姓の年間の休日はどれくらいあったのか。こういった具体的な記述があって初めて、彼らが農閑期に旅に出たり様々な娯楽で楽しんだことが生き生きと把握できるのだ。
 この3点を訂正すれば、「つくる会」教科書の記述は、もっと優れたものになっただろう。

(1)商業的農業拡大の背景としての大都市の成立

 百姓が自給自足の生活ではなかったことは、古代においてすでに、諸国から調や「にえ」として様々な農産品や海産物や手工業製品が都に運ばれていたことに明確に示されていた。そしてこれは、中世においてさらに発展し、全国的な農産品・海産物・手工業製品の流通網は広がり、諸国の百姓は、それぞれの土地に根ざした商品を生産し、貨幣を手にしていたのである。ただ、中世までの商業的農業や手工業の全国展開と近世のそれとの違いは、中世までのそれが、主として都と地方という関係で成り立ち、その商品流通は京都という大都市に向けて行われていたが、近世のそれは、京都という既存の大都市だけではなく、各地にできた新たな都市と地方との関係という、複雑な商品ネットワークを介してのものであった。
 近世は、新たに各地に都市が生まれた時代である。それは、大阪や江戸という政治の中心地としての大都市や、各国に城下町、その国の政治の中心地であり人口も万を数える都市が、全国各地に成立し、さらには金銀銅を産出する鉱山町という、やはり人口が万を数える都市が各地に成立した。このため、そこに向けた商品生産が、全国的に広がったのだ。
 ちなみに、19世紀後半の主な藩の人口と城下町人口を見ると以下の通りである(玉井哲雄著「近世都市空間の特質」(日本の近世第9巻・「都市の時代」所収より引用)。

  城下町 石高(万石) 領内人口 城下町人口
金沢 102.2 997529 107979
鹿児島 77.0 869113 45097
仙台 62.5 815332 61709
名古屋 61.9 866543 114898
和歌山 55.5 693588 60492
熊本 54.0 834065 44384
福岡 52.0 427045 45712
広島 42.6 980179 76484
36.9 615695 21206
10 佐賀 35.7 344951 24657
11 水戸 35.0 262123 19010
12 鳥取 32.5 373129 36503
13 32.3 179227 10590
14 福井 32.0 264469 37376
15 岡山 31.5 364443 32383
16 徳島 25.7 345933 36507
17 彦根 25.0 171199 18577
18 高知 24.2 577695 31299
19 会津若松 23.0 321135 22502
20 久留米 21.0 279450 20907
21 秋田 20.5 496277 31174
22 盛岡 20.0 381839 28978

 いわゆる国持大名の雄藩の城下町の人口である。これを見ると領内人口の約5〜10%が、城下町に集まっていることがわかる。そして10万を越える城下町が、金沢と名古屋の二つだけであり、いかに100万都市江戸や30〜40万の人口を擁する京都・大阪が、別格的な大都市であったかが良く分かる。また5万を越える城下町も少ないことから、佐渡金山を抱える佐渡相川町の人口5万がいかに大きな都市であったかもわかるし、これ以外の小藩となると城下町と言っても1万人程度であったのだから、蝦夷地の港町函館へ毎年来る商人と出稼ぎ人だけで8000人を数えたということも、これが屈指の大都市であったことを示しており、城下町や鉱山町以外にも、港町もまた都市として大きな位置を占めていたことがわかる。
 中世までの商品生産が一極集中であったのに対して、近世の商品生産は、多極間交易であったのだ。全国どこにでも大都市が存在するようになったことが、近世において飛躍的に商品生産を促し、農業もまた商業的農業へと全国的に変貌を遂げたのであった(これらの都市にどのような製品が持ち込まれたかについては、次ぎの第3節の「江戸・大阪・京都の繁栄」の項で見ることとする)。

(2)諸国に次々と生まれた特産物

 このため全国のどこの村でも、それぞれの土地にあった商品作物が栽培された。それは教科書が記述したもの以外にも、タバコや綿、そして大豆や桑もあった。そしてこれらの商品作物の作付けは、年貢として差出す米や麦を栽培する本田畑でも行われたのだ。
 たとえば綿でいうと、綿の栽培地域は江戸時代初頭では、畿内・山陽道筋であったが、のちには全国に広がった。そのうち綿の中心的産地であった摂津・河内国(大阪府)では、全耕地の70%に綿が作付けされ、水田の50%でも綿が栽培されていた。また大和(奈良県)でも水田での綿の栽培は、50〜70%にも達しており、福山藩(岡山県)でも全耕地の30%にも達していたのだ。この地域の綿作が、大消費地である京都・大阪を背景にしていたことは明らかだが、これ以外に江戸にも大量の綿が運ばれて、さらにそれが北関東から東北の村に運ばれて布に加工され、それが江戸に持ちこまれていたのだ。近世の商業的農業は、市場を全国規模で持っていたのだった。
 そしてこれらの商品作物栽培を支えたのが、金肥と呼ばれる購入された肥料で、干鰯や干鰊、そして鰯や鰊から油を絞った残りである〆粕が大量に使われた。これらの肥料は各地の漁村で生産されたものだが、鰊は先に見たように、蝦夷地においてアイヌ人や和人の出稼ぎ労働者の過酷な労働によってもたらされたものであった。
 また忘れてはならないことは、近世の農業の主産物である米もまた、商品作物であったことだ。これは年貢として幕府や藩に納入されたものが販売されただけではない。百姓もまた米を販売しており、その量は、年貢米の販売量を越えてさえいた。1710(宝永7)年に新潟港から積み出された米の量を見ると、藩の蔵米が31万9000俵に対して、百姓の販売する自由米が70万俵となっているのだ。百姓もまた米を大量に販売した。
 さらに商品作物を加工する手工業もまた村の中に発展し、諸国にそれぞれの国の特徴を生かした特産品が生まれた。
 江戸時代には諸国特産物番付なるものがいくつも作られた。そこには様々な農産物と農産加工品があげられている。出羽国(秋田県)の最上紅花、越後国(新潟県)の縮布、加賀国(石川県)の撰糸絹、越前国(福井県)の奉書紙、上野国(群馬県)の上州織物、伊豆国(静岡県)の八丈縞、近江国(滋賀県)の伊吹艾(もぐさ)、山城国(京都府)の京羽二重・宇治茶、大和国(奈良県)の奈良晒(さらし)、紀伊国(和歌山県)の蜜柑、摂津国(大阪府)の伊丹酒、丹後国(京都府)の縮緬(ちりめん)、備後国(岡山県)の畳表、周防国(広島県)の岩国半紙、阿波国(徳島県)の藍玉、日向国(宮崎県)の椎茸、薩摩国(鹿児島県)の上布・黒砂糖など。全商品生産が、国各地に及んでいることがわかるだろう。そしてここに掲げられたものは、番付表に載るほど有名なものだけなのだ。
 ここには農産物以外に、農産物を加工した手工業製品も多く入っている。しかし誤解してはいけないことは、これらの農産加工品もまた百姓が生産していたことだ。百姓とは農民のことではなく、農業と手工業を兼ねるものも数多くいたし、彼らは自ら作った農産品や農産加工品を直接販売する商人でもあったことだ。
 こうして近世江戸時代の百姓は、たくさんの商品を売って現金収入を得ていたのだ。この点についてはあとで、百姓の家計簿を検討するところで詳しく紹介する。

(3)高度に発展した集約的農業

 こうして商業的農業が発展した過程は同時に、日本の農業技術が高度に発展した過程でもあった。
 大規模に新田が開発されたとは言え、日本の農業の基本となった農地の農家1戸あたりの面積は極小であり、近世の農業は、農業に適した気候を利用して狭い農地に労働を集約的に投下して土地の生産力を高めるという、現代でも継承された特徴を持った農業であった。この点が、国土が瘠せているために、気候が良く農地も広大にある外国を植民地にして、大量の資本を投下する農業を行って国を富ませた西洋との違いでもあった。
 近世の農業の発展のさまは、教科書が記述した通りである。
 まず一つは農具が改善され、農作業の効率が改善した。
 二つ目には、肥料を大量に投下して、地力を高める工夫がなされたこと。江戸時代農業の主な肥料は、草肥であった。なかでも、春先に山林原野の草や潅木の若芽を刈りとってそのまま水田に鋤きこむ刈敷が重要である。そして農道や畔の草や、マメ科の植物の茎や葉や蓮華草をそのまま水田に鋤きこむ緑肥や、池や沼などの藻草まで、草肥は多様である。また、商品作物栽培の拡大や二毛作などの普及にともない、さらに多くの肥料が投下される。牛馬の糞などで作られた馬屋肥、草や落ち葉や藁を集めて腐らせた堆肥、さらには人糞尿を用いた下肥。これらは農家が自給した肥料であった。
 そしてこの時代には、金肥という購入した肥料が普及する。代表的なものは魚肥で、干した鰯や鰊、そしてそれらの油を絞ったあとの〆粕である。このうちの干鰯は東日本に主に普及し、鰊の〆粕は主に西日本に普及して、商品作物の栽培を支えた。さらに都市近郊の村では、都市から大量に排出される家庭ゴミや家庭排水や人糞尿、さらには下水や運河を浚ったゴミまで、都市から購入して肥料にあてていた。
 またこの時代は、品種改良が進み、多くの品種が生み出された。
 稲はすでに早稲・中稲・晩稲の品種が中世において存在していたが、それぞれが各地の自然条件に合うように品種改良され、反当りの収量を増加させたり、二毛作を普及させるなどの波及効果をもたらした。さらに品種改良は畑作物にもおよび、尾張の国の畑作物では、粟が161種、稗が75種、大麦が143種、小麦が65種、蕎麦が21種、大豆が129種、大根が21種、里芋が24種など、数多くの品種が登場している。
 また水田の灌漑技術が進むにつれて、気候条件の良い畿内・山陽道筋などの西国では二毛作が広がり、稲→麦、稲→菜種などの二毛作だけではなく、稲→大麦→西瓜とか稲→大麦→瓜→大豆などの多毛作も行われるようになっていった。
 さらに農業の大敵に害虫の問題があるが、油を使って稲の害虫であるウンカの駆除を行う方法が発見され、当初は魚油や菜種油が使用されたが、捕鯨業の発展に伴って鯨油が使われるようになった。
 以上のような農業技術の発展を支えたものが、各地における農書の成立と普及であった。
 全国各地には、さまざまに工夫された農業技術を記録・解説した農書を著した篤農家が現われ、これらの農書は写本によって広く普及した。また全国各地を渡り歩いて各地の篤農家を尋ねてその土地にあった農業技術を記録した農学者・農業ジャーナリストも現われ、宮崎安貞・大蔵永常・佐藤信淵は三大農学者と呼ばれ、彼らの農書は木版印刷されて普及した。
 こうして発展した近世農業の生産力水準は、かなり高いものであった。それは日本農業の発展期であるとされた明治30年代以降の生産力水準と比べても、遜色のないものであったのだ。

(4)木綿・生糸の自給は近代日本発展の礎となった

 では江戸時代における商業的農業、そして農産加工の発展によって従来は輸入品であった木綿や生糸が自給されたことは、どのようにして近世日本の発展の礎になったのだろうか。

@世界交易の中心的商品の一つであった木綿と生糸

 木綿と生糸は、中世においても、そして近世においても、日本が外国と行う貿易において、中心的な輸入品であった。これは、日本の主な交易相手である中国からの輸入品の中心品目であっただけではなく、中継貿易国である琉球やポルトガルやオランダなどの西欧諸国との貿易においても、さらには隣国朝鮮との貿易においても、木綿や生糸が中心的な輸入品であったことに良く示されている。そしてこれは何も、日本だけの現象ではなかった。
 遠くユーラシア大陸の西の果てにある西欧諸国が、長い間シルクロード交易によって中国などから得ていた輸入品の中心が絹織物や生糸であり、近世16世紀から18世紀におよぶ時代におけるアジアとヨーロッパとの交易においても、中国からの絹織物と陶磁器・茶・砂糖、そしてインドからの綿織物は、その中心的輸入品なのであった。いわば中国(インドも)は、これらの消費財を世界に供給することを背景にして、世界中から金・銀・銅をその国に集中させる世界で最も豊かな国であったし、中国が自国を中華と自称するように、文字通りの文明の中心であった。
 そしてこの中心から離れた辺境に位置する日本とヨーロッパは、これらの品物を手に入れる代りに、中国に支払うことのできる商品を持たず、わずかに交易で得た金銀を支払って手に入れるしかなかった。古代から中世中頃までのヨーロッパや日本と中国(インド)との貿易の規模は小さなものであった。この貿易が拡大したのは、ようやくこれらの国が金銀を大量に手に入れた以後である。日本は15世紀以降に銀・銅を世界的に産するようになり、ヨーロッパは15・16世紀にアメリカ大陸を植民地としたことでかの地の金・銀と銅を手に入れ、これと引き換えに文明の中心から、絹や木綿などを大量に手に入れることができるようになったのだ。
 しかしこれは日本とヨーロッパにとって、国の富が他国に流出することを意味する。

A安く高品質の綿織物の生産に成功したことがヨーロッパが世界を征服した背景だ

 この文明の中心からの高価な招来物を自国で生産し、しかも安価でかつ高品質で大量に供給できるようにしたことが、イギリスを中心としたヨーロッパが世界を植民地などの従属的地位においたことの背景である。
 18世紀中頃にイギリスで紡績業を中心に産業革命が進展し、それまでヨーロッパやアメリカを席巻していた高品質のインド綿織物に対抗できる綿織物を、安価でかつ高品質で大量に供給できるようにした。そしてヨーロッパ・アメリカの綿織物市場からインド綿織物を駆逐し、かつインドの綿織物工業を崩壊させてそこを植民地化した。この従来文明の中心から供給されていた製品を技術革新によって自給し、さらに大きな価格差を背景にして、文明の中心の産業をも破壊し、そこを植民地化する過程。これが近代におけるヨーロッパの発展過程であった(茶や陶磁器、そして絹織物もまたヨーロッパは自給できるようにしたことも、同様な役割を果たした)。

:このことについては「つくる会」教科書の旧版は、第4章近代においてもはっきりとは記述していない。旧版の記述は、ヨーロッパとアジアの軍事力の差にのみ目が行っていて、その基盤となる産業構造の問題は等閑視されている(p168〜171)。05年8月刊の新版では、イギリスの産業革命がインド綿織物との競争の中で生まれたことは記述され(p132)、インドの植民地化の背景にもイギリス産の安価な綿織物によってインド綿工業が破壊されたことがグラフ付きで説明された(p134)。しかしこの商品の価格差の問題の重要性はあまり意識されず、あいかわらず軍事力の差にのみ注目していることは、旧版と変化はない。

B明治日本の発展の基礎を築いた木綿・生糸などの国産化

 日本ではこの国産化は、17〜18世紀に徐々に進行した。
 日本に移入された綿花は太くて短い繊維のものであったので、作られた綿織物は厚手で冬の衣料品として最適であり、これまで麻しかなかった日本の人々の冬の衣料品に大革命をもたらした。それゆえ綿の栽培は、17〜18世紀にかけて全国に広がり、各地に織機による綿織物工業を生み出し、木綿の着物は、庶民の日常着として定着したのであった。そして日本の綿織物技術の水準は手工業レベルでも、充分インドや中国を凌駕する生産性を持っていたのだが、江戸時代が自由貿易ではなかったために、この価格差・技術差が表面化することはなかった。 
 この技術差が表面化したのは、幕府が開国して自由貿易を始めて以後。とくに1880年代に安い中国綿やインド綿の流入で日本の綿産地が大打撃を受けたことと、インド綿工業が太糸綿織物の工業化に成功し、日本の綿織物よりも安価なものを大量に輸出してきてからであった。この安価なアジア産品に対抗して、日本の綿工業をどう立てなおすのか。これが1880年代以後の日本の産業革命の課題であった。日本産業革命は、細糸綿織物を産するヨーロッパとの戦いではなく、日本と同じ太糸綿織物を産するアジアとの戦いが課題だったのだ。そして安価で高品質の太糸綿織物を作り出した日本はこれを大量にアジアに輸出し、アジアを日本の独占的市場と化して行った。これが日本がアジアを植民地にした基盤であり、アジアを巡って欧米と激突した背景であった。
 一方生糸は、従来はほとんど中国からの輸入であった。そして武家・公家だけではなく、都市の町人たちや村の百姓までが絹織物を着る時代となって、江戸時代の中国貿易は完全に生糸・絹織物の輸入超過となり、大量の金銀銅が中国へ流出した。この貿易のあり方を変え、金銀の流出を減らすために生糸・絹織物の輸入量の制限と国産化、そして国産の海産物などを銅に代る輸出品としようと動いたのが、17世紀後半の新井白石であった。1685(貞享2)年、生糸の輸入は大幅に制限され、これとともに桑の栽培と養蚕はそれまでの西国だけではなく、東山道・関東・東北までに広がり、やがて生糸の自給が達成されたのだ。そしてこの生糸と織機によって大量に織られた絹織物は、幕末の開国以後の日本の主な輸出品となり、生糸は第2次世界大戦の時期に至るまで、綿織物とともに日本の主要な輸出品として、日本の発展を支えた。
 そして木綿や生糸と並んで、茶や砂糖の国産化が進められたのも、新井白石から徳川吉宗と続く、江戸時代中期の政権の時代であり、これらの世界的貿易品もまた、この時代にほとんど自給を達成したのであった。さらにこれ以前において日本は、秀吉の朝鮮侵略時に朝鮮から拉致してきた陶工たちによって陶磁器の自給もまた達成し、輸出すらしていたことは重要である。
 近世の日本は、それまで輸入に頼っていた文明の所産を自給し、さらに外国に輸出できるほどに生産を高めていたのである。これが日本の近代における発展を支えた基盤であった。

:「つくる会」教科書旧版は、明治日本の産業革命の背景がインド綿織物との競争であったことは記述していない。綿織物と生糸が日本の重要な輸出品であったことは記述してあるが、工業化されたこれらの安価な製品が主としてアジア向けに輸出され、アジアを独占的市場と化したことは一言も触れられていない。これも「つくる会」が、近代における日本・アジア・ヨーロッパの相互関係を軍事力の差でしか認識していないことの帰結であろう。だからここで、木綿・生糸国産化の歴史的意味も記述しなかったに違いない(ここは05年8月刊の新版でも同様である)。

(5)江戸時代百姓の豊かな暮らし

 このような商業的農業の発展を背景にして、江戸時代の百姓は、かなり豊かな暮らしをしていた。では、彼らの家計は、実際のところどうなっていたのだろうか。残念ながら「つくる会」教科書は、この点についてはまったくヒントすら載せていない。

@百姓の家計簿−百姓は商品を売って生計を立てていた−

 著者が授業で使用していた清水書院版の歴史教科書(平成8年版)には、「農家の収支」と題して、19世紀はじめのころの江戸近郊にあった夫婦と子供一人の農家の例が掲載されている。 それによると、この農家の収入は以下のとおりである。

水田(1町)米20石 年貢・小作料(10石)
家族の食料(1.3石)
もち用    (0.3石)
種用     (0.5石)
会食用   (0.2石)
日雇い食料(0.5石)
残り(7.2石)を売却(7両2分)
畑(5反) 麦6石 家族の食料(3.6石)
日雇い食料(1.8石)
種用・その他(0.6石)
大根25000本
(135貫文)
畑年貢    (3貫文)
肥料・運送費(106貫文)
残りを両に換算(4両)

 この農家は水田1町を小作して20石の米を収穫し、その収穫の50%を地主に納め、残った米10石と畑6反からの麦と大根とで生計を立てている農家である。しかもその農業は日雇いの労働者を雇って成り立っている。
 そして米10石のうちの7.2石を売却して7両2分の現金収入を得ている。さらに畑で取れた25000本の大根を売却し、その売却代金から年貢と諸費用を引いて、4両の現金収入を得ている。合計11両2分の現金収入があったわけだ。
 さらにこの現金収入は、次ぎのように使われている。

塩・茶・油紙代 2両
農具代 1両
家具代 1両
たきぎ・炭代 1両
衣料代 1両2分
日雇い給金 1両2分
音信費など 1両
結婚式・葬式など 2両
残金   2分

 まさにこの時代の百姓は、栽培した作物の大半を売却して生計を立てているのであり、多くの現金収入を得て、それで農具以下の日用生活品を購入するだけではなく、日雇い労働者への給金の支払いや結婚式・葬式などの近所付き合いまで行っていたのだ。
 さらに新潟地方の農家に残された文書を研究した田中圭一は、興味深い例を紹介している。
 越後国(新潟県)塩沢組58ヶ村の1833(天保4)年の現金収入を記録したものが残されている。この地の中心的な村は越後湯沢町や塩沢村である。それによると、この年の58ヶ村の百姓の現金収入は以下のような内訳となる(田中圭一著「村から見た日本史」より引用)。

1万1000両 縮代
1300両 宿料・関、湯沢、三俣、二居、浅貝村の10軒の宿代
612両 出し米
510両 絹糸
300両 他国稼ぎ 120人
250両 売薬
200両 材木
150両 清酒 上州行き
150両 塗物、指物、木細工
100両 ぜんまい
70両 山里点蝋
30両
30両 湯治(温泉)

 この地域は越後と江戸を結ぶ街道沿いの村であり、田の面積は少なく1軒あたりの水田面積は平均2・3反という、これだけ見れば貧しい村である。しかし街道沿いという立地条件や山地であるという条件を生かして宿業や林業・木材加工や山菜の販売をするだけではなく、他地域から多量の原料を買い入れて縮織を生産販売したり、薬や酒まで販売する商業の村でもあった。これらの村が販売する米・612両に対して、販売した縮織の代金が1万1000両。江戸時代の百姓の暮らしが農業だけではなく、さまざまな手工業と商業に依拠していたことの典型例である。
 この地域の村の女性たちは、一冬に2反ほどの縮織を織り、上質のものなら金2両を得ていたという。まさに農閑期副業どころか、これが生業と言ってよいほどの状態であったのだ。

A江戸時代の百姓の豊かな食料事情

 では、これらの百姓は何を食べていたのだろうか。
 先の江戸近郊の百姓の例を見れば、主たる食料は、米と麦とからなっていたことがわかる。そしてこれは全国的な傾向であったようだ。
 18世紀末から19世紀にかけて飢饉が相次ぐようになると、百姓の日常の食生活を書き上げた書類が数多く作られた。それによると、日常の食生活は以下のようになる。
 水田の多い信州(長野県)佐久郡志賀村では、冬の間は3食とも稗3分の2・米3分の1の飯だが、田打ち以後は、昼飯が米3分の2・稗3分の1となり、田植えの最中には、朝飯が米10分の9・稗10分の1、昼飯は純米の飯、夕飯が米・稗半々となるという具合に、季節と労働の質・量によって食事の内容は変わって来る。
 しかしこれは日常の食生活である。先の江戸近郊の農家の例でも、会食用に米を大量に保管し、餅用にも米を取ってある。つまり様々な祝いごとに際しては、白飯が出て、それに様々な副食品がでるということである。もちろんこのあたりは階層によって差は出るだろうが。
 例えば奈良盆地の裕福な綿栽培の大農家のハレの日の食事内容を見ると、今日のそれと比べても遜色がない。正月元旦の雑煮は、餅・里芋・大根・豆腐を入れ、2日の日の昼には、白飯に大根・人参・かきの和え物と、干しあわび・山芋・ごぼう・人参・水菜の炊き合わせ。さらに焼物が付いていて、家人はぶりの切り身だが、親類や上席の者には、尾頭つきの鯛がつく。さらに酒の肴として、ごぼう・数の子・煮豆や漁類鳥類などありあわせのものが出る。3月の雛祭りの日の朝食には、白酒に赤飯、汁物に塩付けぶりの焼物や、里芋・ごぼう・干し大根のおかずがつく。5月の端午の節句の朝食は、白米の飯に、わかめ汁、さらに切り干し大根・竹の子・ふきのおかずに、切り身の焼き魚。これ以外にも、6月の野休や7月のお盆。そして8月の彼岸や9月の節句や村祭り、そして11月の冬至や12月の大晦日など、それぞれのハレの日には、普段とは違った様々なご馳走が並んでいる(谷山正道著「商品生産地帯の生活−奈良盆地」(日本の近世8・「村の生活」所収)より引用。
 庄屋クラスの大農家のハレの日の食事であるが、明治までの農村の食事には、階層差が少なかったというから、一般の百姓のハレの日の食事も同様なものであったろう。
 江戸時代の百姓の食事は、普段は質素なものであったが、先に「慶安のお触書」として流布された農業指南書が示していたように、農作業の質や量、そして季節によって食事の内容は工夫されていたのだ。そして一年を通じて設けられた様々な休日には、親類縁者を招いての会食が催され、そこではかなり豊かな季節の品が膳に並べられ、休日と祭りを楽しんでいたのである。

B休日が増えた江戸時代の百姓の暮らし

 では、江戸時代の百姓は、どの程度の休日を持っていたのだろうか。
 「つくる会」教科書は、百姓の休日としては農閑期をあげ、「農閑期には神社仏閣への参拝の旅」をあげ、その他には獅子舞や相撲・踊りなどですごす休日があった」と記述した。
 実はこの農閑期以外の休日が、結構多かったのだ。
 川崎市史資料編には、1803(享和3)年の武蔵国(神奈川県)橘樹郡梶ヶ谷村の休日を記録した文書がある。この記録は農閑期の10月から12月の記録がないのだが、1月から9月までの9ヶ月間で、合計44日の休日が記録されている。正月の三が日は正月につき休み、7日は火事よけの祭礼、11日は蔵開き、15日は小正月、16日は荒神さまの祭礼、20日は鏡開きという具合で、1月は都合8日の休日。2月は、1日にお備えを煮て雑煮にし、初午の日は稲荷祭り、彼岸中日は墓参り、その他に、奉公人が交代する月のため、3日ほど村役人が触れを出して休日にする。この時代の百姓の家族の中には、町や他国で奉公して稼ぐ者が多かったのだ。というわけで2月は、都合6日の休み。3月は1日と15日を休み、その他に雹祭りなどで2日、そして春の種まきのあとは村役人が触れを出して3日ほど休み。合計7日の休日。4月は合計3日。1日と8日のお釈迦様の誕生日、さらには雹祭りで1日。5月は5日が端午の節句で休み。6月は、1日、7日、14日、15日を休みにし、さらに田の草取りをしたあと3日ほど休みで、合計7日。7月は、1日を休んで、7日の七夕、そして14・15・16日はお盆で休み。合計5日の休日。8月は1日と十五夜の月見で15日を休み、さらに彼岸の中日は墓参りのため休み。8月の休日は3日であった。9月は秋の祭礼のために、14日と16日を休んで2日。これで合計42日である。さらにこれ以外に、疫病が流行ったら疫病よけの祭礼で1日休み、日照りが続いたら雨乞いの祭りで1日休みと、休日は増えて行く。
 このように農閑期以外にも、休日は、19世紀になると年間40日はあったのだ。
 百姓の休日は、16世紀末には年間20日ほど。それが17世紀後半から18世紀後半には30日ほどだったのが、19世紀ともなると通常で40日ほど。土地によっては60日以上、最大80日の休日を取った村も出てきたという。
 そしてこの梶ヶ谷村の例でもわかるように、百姓の休日は、村の年中行事の日でもあった。
 「つくる会」教科書は、第3節「産業の発達と分化の成熟」という項の最後に、「地方の生活文化」という項を設けて熊本市の風物を記述しているが、そこに「民間のおもな年中行事」と題して、次ぎのようなものを挙げている(p145)。元旦・七草・節分・彼岸・端午の節句・七夕・盆・すすはらいと。実際にはこれ以外にも村の神社の祭礼や釈迦誕生会などの行事など、多くの年中行事が入ってくる。そしてこれらの多くが休日でもあったのだ。

C百姓の休日の過ごし方ー流入する都市文化

 では江戸時代の百姓は、休日をどのように過ごしたのか。教科書があげた「獅子舞や相撲・踊り」というのは、村の神社の祭礼の時のことであった。そしてこれらの興行は、都市の文化そのものであったのだ。
 中世編の23:「『家』と『一揆』の共同意識をつくりだす集団芸能の時代」の項ですでに述べたことだが、すでに室町時代後期において、自治の場としての村や町は、都市で発達した連歌や能・狂言などの集団芸能を受け入れ、各地の村や町には、都市の芸能者が興行あるいは芸能の教授の為に訪れ、能や狂言の興行は、村や町の共同体としての祭りに欠かせないものとなっていた。中世後期におけるこれらの芸能の興隆は都市が支えただけではなく、都市と密接に繋がっていた村や町によっても支えられていたのだ。都市と地方との文化交流。これはすでに中世において盛んであった。
 この傾向は、村や町が自治の場として継承された近世においても続いていた。だからこそ、近世の村でも、村の共同体の儀礼としての神社の祭礼に、都市から多くの芸能者が招かれ、そこで興行をはったのだ。ただしその芸能には変化があった。近世初頭に、従来の能・狂言やさまざまな舞などから、人形浄瑠璃や歌舞伎というより大衆的な芸能が生まれ、これが新たに村にも広がったのだ。そして近世は、中世以上に各地に都市が生まれた時代である。中世においては芸能の供給地は京の都しかなかったが、近世においては京の文化が地方の新興都市にも広がり、新たに生まれた城下町例えば江戸を拠点として、地方の村にも広く文化が普及したのであった。そして各地の村で、村人による狂言や歌舞伎の教習と自主上演も盛んに行われたのである。
 さらに教科書は記述しなかったが、近世の村には、さらに多くの都市文化が流入していた。それは、一つには都市で芽生えた浮世絵やお伽草子の流入であり、連歌から生まれた俳諧の流行であった。村にも都市の俳諧師に師事して俳諧を学ぶものが増え、村の中で俳諧の同好会が開かれるようになった。平和と豊かさの享受が、こうした文化の発展を支えたのである。だからこそ松尾芭蕉が、各地の俳諧の弟子筋を頼って各地で俳諧の会を開きながら、諸国見物という旅行をすることも可能なのであった。そしてこのようにして村に広がった都市文化には俳諧以外にも、立花やお茶、そしてこの時代に新たに広まった盆栽づくりや花の栽培などの新しい文化のサークルも村に出来た。
 またこのことは、先に農書によって新しい農業の工夫が広がったことで示されたように、村においても識字率の向上と、文字文化が広がったことをも示していた。百姓が商業に従事することは文字の読み書きが必須条件になっていたのだ。それゆえ各地に寺子屋ができたし、寺子屋と言う学校が設けられなくても、村の識字層である庄屋や大商人や職人の家に村の子供たちは通い、文字の読み書きを習っていた。したがって村には都市から多くの書物が持ちこまれ、それは先の浮世草子やさらに旅行の流行を背景とした各地の名所案内などの大衆的な書物だけではなく、儒学や医学、さらには歴史の書物まで多種多様な書物が持ちこまれ、この背景には、都市から村へ本を運ぶ貸し本屋の登場があったのだ。こうして村にも、近世になって発展した儒学や医学などの学問に従うものが生まれ、農業を科学的に考察することや村の歴史を探求する活動も生まれた。そして、こうしたことを背景として、近世後期には、村にも国学や様々な実学を修め、国の行く末を案じ、実際に藩政改革や幕政の改革にも携わる人々を多数輩出することとなったのである(「つくる会」教科書がのちにコラムで紹介する二宮尊徳はその典型である)。
 さらに教科書も記述したように、農閑期には村人は各地の神社仏閣の参詣に事寄せて、旅行すら楽しんだのだ。これは近場の神社仏閣のご開帳に足を運んだり、このころ各地に作られた様々な花の名所を訪れたりという、日帰りの散策だけではなく、お伊勢参りや金毘羅参りといった、全国的に信仰を集めた寺社に参詣し、その旅の途中で、各地の名所旧跡や寺社を訪ねるという長期の旅行まで含まれていた。このような旅行の機会を通じて、村に都市の文化が持ちこまれたのである。
 またこの長期の旅行を実施するにあたっては、村の中に講という組織をつくり、村人が継続的に旅行費用を積みたててそれを運用することによって、毎年交代で複数の人を長期の参詣に送り出すと言う、集団的取り組みをも背景にしていたのであった。
 このように近世の村人は、さまざま趣味の活動によって余暇を楽しんでいたのである。
 近世の村の百姓の暮らしは、従来認識されていたよりは、はるかに豊かなものであった。そして全国的に商業網が広がることによって都市と村とはより緊密に繋がり、近世における都市大衆文化の発展は、都市の背景にある村の発展によっても支えられていたのだ。近世とはそういう時代だったのだ。「つくる会」教科書は、近世の百姓の豊かなくらしぶりを比較的よく記述しているほうであるが、もっと具体的に記述してもよかったであろう。そして、残念ながら都市文化の発展を記述した「元禄文化」(p142)「化政期の文化」(p160・161)にも、都市と村との交流の中で都市大衆文化の発展があったことは示されていない。

:05年8月刊の新版では、この「農産品の生産」の項は大幅に記述が削減されてしまった。すなわち、第3節「産業の発達と三都の繁栄」という項の最初に「大開発の時代」という項が設けられ、そこに旧版の「大開発の時代」の末尾に、簡単に記すだけになった(p110)。すなわち、「各地では、染料のもととなる藍や紅花、麻、綿、菜種などの商品作物の栽培が広まり、養蚕もさかんになった」という記述である。このように記述が削減されたことにより、木綿や生糸の自給が始まったことも、村の人々の豊かな暮らしぶりも全て削除されてしまった。村の暮らしの豊かさについて比較的詳しく記述し、近世という時代の特色に迫れる優れた記述であっただけに、削除されたことは大変残念である。

:この項は、川勝平太著「日本文明と近代西洋ー『鎖国』再考」(1991年日本放送文化協会刊)、川勝平太・浜下武志編「アジア交易圏と日本工業化ー1500‐1900」(1991年リブロポート刊・2001年藤原書店再刊)、塚本学編「村の生活文化」(1992年中央公論社刊・日本の近世第8巻)、佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」(1995年講談社現代新書刊)、田中圭一著「日本の江戸時代−舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、田中圭一著「村から見た日本史」(2002年ちくま新書刊)、高埜利彦著「元禄の社会と文化」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収)、などを参照した。


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