「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判3


3:鉄砲の普及が戦国の世の終わりを早めたわけではないー「ヨーロッパ人の来航」の近視眼的記述

 第1節「戦国時代から天下統一へ」の二つ目の項目は、「ヨーロッパ人の来航と織田信長の台頭」である。この項目の記述は、「戦国の動乱」「ヨーロッパ人の来航」「織田信長の台頭」の三つの小項目に分かれているので順次これを批判検討していくが、ここでは主に最初の二つをとりあげる。

(1)東アジア規模での騒乱の時代ー戦国時代の実像

 「つくる会」教科書は、最初に「戦国の動乱」と題して、ヨーロッパ人が来航した時代の特色を以下のように記述している(p114)

 応仁の乱以降、足利幕府の権威は失われ、各地で実力を養った戦国大名が、それまでの支配層であった守護大名を圧倒して勢力を伸ばした。こうした、戦国大名がたがいにはげしく争った時代を戦国時代という。
 この時代は、古い政治や社会の仕組みが動揺し、新たに商工業が発達した。それにともない、堺や博多のような町が、戦国大名に対抗しながら自治都市として発展していった。朝廷や将軍家のある京都は衰え、中央の文化が地方に伝えられた。

 時代の性格を最初におさえておくという意図は正しいが、この記述にはいくつもの誤りと欠落があることについては、すでに「中世の日本」批判の【25】で行ったので、その概略だけしめしておこう。 

@乱世とその中での「安楽の世」を求める動きの描写が不充分

 第1に、幕府の権威は失われてはおらず、戦国大名も幕府の権威や天皇の権威をその支配に利用していた。
 第2に、京都は衰えたわけではなく堺や博多などと同じ商工業者の自治都市として再生していたし、やはり日本国を治める権威の所在地としての地位は保持しており、日本で最も大規模な商工業都市であり、権威の所在地であり文化の中心であった。だからこそ地方の戦国大名はその文化的権威をも身に着けようとしたため、都から多くの貴族や芸能者が地方に下り、これによって都の文化が全国にひろがっったのである。従来はこれを都では暮らせなくなった零落した貴族が地方に下った結果、都の文化が地方に伝わったと解釈していたのだが、近年の研究によって、その側面が全くないわけではないが、都の持つ権威の大きさが再認識されることによって、京都は戦国時代においても日本の首都であったことが再確認されている。
 第3に、戦国時代はまた「自治の時代」でもあったことは、この教科書が、自治都市が戦国大名と対抗して発展していたことを記述したことにもよく現れているが、それは博多や堺などの主な都市だけのことではなく、全国に散在する地方都市でも同じであったし、惣村と呼ばれる自治村落も、戦国大名と対抗しながら発展していたのである。

 「つくる会」教科書の戦国時代の捉え方には以上のような誤りがある。

 そしてもう一つ、この記述には重大な欠落がある。それは「戦国大名がたがいにはげしく争った」ということの実態がまったく記述されていないことである。戦国乱世は全国的に100年以上続いた戦乱の世であったということであり、だからこそ自治都市・自治村落が成立したのであるし、戦国大名権力が存在したということは、この戦乱の実態の把握なしにはできないことである。そしてその実態とは、この時代の戦闘は「濫妨狼藉」の世界であり、戦場となった村や町では多くの家屋が焼かれ、その財物や田畑の作物が奪われるだけではなく、そこに住む人もまた奴隷として駆り集められ、身代金を請求されるか、他国へ奴隷として売買されるかであった。このあまりに悲惨な戦闘状態が長く続いた原因は、中世600年間にわたる統一権力の不在という根本原因があり、これによって法に基づく支配が実現されないゆえに、各自が実力をもって勢力を伸ばし、かつまた実力をもってしか自己の安全を守れない乱世となったのである。
 したがって戦国時代を通じて時代的に求められていたのは、安心の世、実力に頼ることなくすべての人々が安心して暮らせる世の中であり、だからこそ、それを保障する権威・権力が待望されていた。そしてこの人々の願いは、あらゆるものを超越した絶対神としての権威の下での現世および来世での安楽を願う宗教世界を建設しようとする一向一揆や、天皇などの宗教的権威と自身の集団としての武力に依拠して安楽な場を建設しようとする自治都市や惣村・惣町の形成として各地に現われており、これゆえ各地で次第に地域的統一権力を形成しつつあった戦国大名もまた、自己の領国支配の正当性を、人々の安楽を保障する実力を備えているという事実に置くしかなかったのであった。これが保障されなければ、戦国大名の領国の惣村・惣町や自治都市、いや戦国大名の配下となっている国人領主すら、大名の命令には従わなかったのである。

A東アジア規模での動乱の時期という時代背景の欠落

 またもう一点大きな欠落がある。それは日本における戦国時代がどのような世界的な環境の中で進行したかという点についての記述である。要点だけ述べれば、「中世の日本」批判の【26】の東アジア交易網の項で示したように、当時の東アジアは、中枢である中国の明王朝がモンゴル民族による多年の異民族支配とペストなどの疫病の流行によって傷ついた国内諸産業の復興に力を注ぎ、それゆえ前時代とは異なって対外交易を大幅に縮小した。このためモンゴル時代の13・14世紀を通じて海陸のシルクロードを通じて世界に繋がった東アジア交易網は、それぞれの国家を通じた貿易に替わって「倭寇」などとよばれた私貿易を行う海商たちによって担われ、この海賊でもある海商と明・朝鮮の各王朝、そして明から朝貢貿易を許されていた琉球やマラッカなどの各国家との激しい闘争が演じられていた。しかし倭寇が結びついた日本人海商の拠点を日本に統一権力が存在しないがゆえに国家権力によって掃討することができず、倭寇との各国王朝との争闘は継続された。そして13・14世紀を通じて発展した東アジア交易網の影響は明・朝鮮の北に位置する女真族・満州族などにも大きな影響を与え、交易に参加したこれらの民族も次第に力を蓄え、その南方に位置する中国中原地方を伺うようになっており、中国北方では、これらの民族と明王朝との戦闘も続いた。そして明王朝は、この南北・海陸にわたる戦闘によって次第に疲弊し、そのことがまた中国南方における海外貿易の制限にも繋がって、さらなる戦闘の激化も招いていたのであった。
 つまり日本の戦国時代は、このような東アジア規模での貿易の発展と中国の内向きへの変化を原因とする、海陸にわたる騒乱の時代でもあったのである。

 このように、東アジア規模での騒乱の時代の中で、日本でも統一権力による安楽な世が待望されている最中に、ポルトガル・スペインを尖兵とするヨーロッパ勢力は日本に現われたのである。では、彼らの関りはどのようなものであり、それは日本の歴史にどのような影響を与えたのか。次にこの点について「つくる会」教科書の記述を検討しつつ、明らかにしていこう。

:05年8月刊の新版では、「戦国の動乱」の一文は完全に削除されている。章が改まって近世に入ってはいるが、その冒頭に近世日本社会の母体としての戦国時代の時代の性格を簡潔にしめしておくことは、以上のような様々な間違いを含んでいたとはいえ、生徒の理解を深めるのに多いに役立つ試みであったが、削除されたことは残念である。

(2)ヨーロッパ人は倭寇的世界に海賊の一つとして参入した

 では、ポルトガル・スペインを尖兵としたヨーロッパ勢力は、どのようにして騒乱の時代である東アジアと日本に現われたのであろうか。
 「つくる会」教科書は、この問題についてはほとんど記述しない。記述されたことは、16世紀中頃にポルトガル人による鉄砲とキリスト教が日本にもたらされたことと、続いてスペインも参入して、彼らとの間で、いわゆる「南蛮貿易」が行われたということだけに限られている。まず、教科書の記述を見よう(p114)

 1543(天文12)年、ポルトガル人が、種子島(鹿児島県)に漂着し、鉄砲を伝えた。6年後には、イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着して、キリスト教の布教を開始した。その後も、ポルトガル人が次々と日本に来航した。ヨーロッパの世界進出の運動が、ついに日本にもおよんだのである。16世紀末には、フィリピンからスペイン人も到来した。彼らは南蛮人とよばれた。日本は、当時、世界有数の銀の産出国で、南蛮人たちは、日本に火薬や時計、ガラス製品などのヨーロッパの品々や中国産の生糸・絹織物をもたらし、かわりに銀を手に入れて、アジア各地との交易に用いた。貿易は長崎や平戸(長崎県)で行われ、九州の大名たちもかかわってさかんになった(南蛮貿易)

 おおむね正しい記述なのだが、大きな欠落点がある。それは、第1に、ポルトガル人の日本来航の最初である種子島への漂着もさらにはザビエルが鹿児島へ渡ったのも、ポルトガル船によるものではなく、当時、東アジア世界に猛威を振るっていた倭寇勢力の船によって運ばれたこと。ポルトガルも当初は倭寇勢力に導かれて東アジア交易に参入した。この視点が欠落している。さらに第2には、「南蛮貿易」と呼ばれるものは、当初はヨーロッパ勢力の独占ではなく、明の海禁政策によって日本との公的な朝貢貿易が出来ない中で、その合間をぬって東南アジア・中国・日本を結んで貿易を行ってきた、倭寇勢力と琉球との市場争奪戦を通じてのものであり、最終的にその争いでヨーロッパ勢力が独占的地位を築いたのは、明が16世紀後半に海禁政策を緩和して東南アジアへの中国人海商の渡航を許可したことと、日本に統一権力が形成され、豊臣秀吉が海賊禁止令を出したことによって、倭寇勢力がそれぞれの国の平和な商人に吸収される中においてであった。しかしこのときも「南蛮貿易」は、ヨーロッパ勢力の独占下にはならず、日本に土着した中国人海商との競争下にあり、さらには日本の統一政権が日本の海商の海外渡航・貿易を積極的に承認・支援したため、これらの日本人商人との競争も激しく行われていたのである。

注:一方の競争相手であった琉球王国は、明王朝が次第に朝貢貿易を削減するにしたがって小型の船での中国人海商による私貿易に重点を移しつつあった。そこにポルトガルが、拠点としたマカオ―平戸・長崎の直行便を開設し、さらにはスペインも拠点としたマニラで東アジア交易を行うに従ってマニラーマカオー平戸・長崎というスペイン船や中国船による交易が拡大し、これらのことによって東アジア交易網において、東南アジア・中国・日本(朝鮮)の中継貿易の担い手としての琉球王国の位置は著しく低下し、自前の船も船乗りもほとんど持たず、中国人海商に依存してきた琉球王国は競争力をほとんど失っていった。これがのちに薩摩藩による軍事支配に琉球が置かれた背景である(詳しくは【16】「鎖国下の対外関係」で述べる)。

 要するに「南蛮貿易」というものは、新たに始められた貿易形態ではなく、倭寇勢力によって従来からなされていた私貿易・密貿易に、ヨーロッパ勢力が参入したにすぎないという側面が、「つくる会」教科書の記述にはまったく欠如しているのである。

@海賊として東アジア交易網に参入したポルトガル

 1511年に、東アジア交易ネットワークをその西のインド洋・紅海経由の海のシルクロードに結び付けていた中継基地、マレー半島のマラッカ王国を征服したポルトガルは、この中継基地を占拠したことを通じて、彼らが目指した香料諸島(モルッカ諸島)よりも北の国々である琉球や日本、そして中国に至る道筋と交易の情報を手に入れた。そして早くも1517年には、フェルナン=ペレス=デ=アンドラーデが遣明大使ピレスを伴い、5隻の艦隊を率いて中国の広州に赴いた。しかし国交を結ぶ事はできず、大使ピレスはさらに広州に残って国交開設に務めた。彼は1520年にようやく北京に至ったが、ポルトガル艦隊による示威行動や、マラッカ王国が征服されたことの報告が明国皇帝に届いたため皇帝にもあえず、広州に帰ったピレスは投獄され、明王朝はポルトガル船を「仏朗機夷(フランキ)」と呼んで海賊と見なし、打ち払うに至った。そこでポルトガルは密貿易に転じ、中国の港・寧波(ニンポー)の沖合いにある舟山諸島の双嶼を拠点として密貿易を行った。この地にポルトガルが進出する契機は、この時期の倭寇の首領として名高い許棟兄弟が、1540年にマラッカに赴いて多数のポルトガル人をこの海域に導いたことによる。舟山諸島の双嶼にポルトガル人が始めて現われたのは1543年である。
 そしてこの過程で日本にも至り東南アジア・中国・日本を繋ぐ密貿易にポルトガルは参入したのである。
 ポルトガルが東アジア交易網に正式に参加するのは、倭寇勢力の中国における拠点が掃討され、倭寇の力が衰退したのちであった。明は1548年に倭寇の根城の舟山諸島の双嶼を襲って陥落させ倭寇の首領許陳を逮捕、ポルトガル勢力も駆逐した。そして1553年には、新たな倭寇の拠点である瀝港を掃討し、倭寇の首領王直は日本の五島列島に拠点を移しついで平戸にも屋敷を構えて密貿易を続けた。この掃討作戦にはポルトガルも協力し、その後も明王朝は倭寇の掃討作戦を継続した。この動きの中でポルトガルは、1554年には広州での交易権を得て、1557年にはマカオに拠る倭寇討伐に協力し、この中で倭寇の首領王直は逮捕され処刑された。こうして倭寇勢力はほぼ鎮圧され、その功によりマカオへの居住を認められ、ここに商館をおいて、マカオー平戸への直行便を運行し始めた。そして明が倭寇の壊滅をうけて、1567年に海禁政策をゆるめ東南アジアへの渡航・貿易については許可すると、南海貿易は盛んになり、中国人海商はここに吸収され、倭寇勢力はほとんど消滅した。この中で、1571年にはキリシタン大名大村純忠の領内に長崎が開港されるや、マカオー長崎の直行便は隆盛を極め、ここにポルトガルによる南蛮貿易は最盛期を迎えるにいたったのである。

 このようにインド洋世界を武力によって制圧し、海のシルクロードを支配下に置いたポルトガルであったが、東アジアにおいては強大な明帝国の海禁政策にはじきかえされ、当初は倭寇勢力に混じって海賊として密貿易に参加するしかなかったのである。ポルトガルがこの地域の交易に公的に参入できたのは、1557年のマカオへの商館と居留地の建設と明の海禁政策の緩和が契機であった。

 一方のスペインは、1565年にメキシコとフィリピンのマニラを結ぶ太平洋航路を開設し、1571年にマニラに拠点を置き、ここにメキシコのアカプルコ経由で南米産のスペイン銀貨がマニラに定期的もたらされることにより、当時銀が国際取引通貨であった東アジア交易ネットワークに、日本産の銀と並んでスペイン銀貨が位置付けられ、マニラが東アジア交易網の重要の拠点になったことによる。スペインはこうして、マニラーマカオ間の直行便を開設して東アジア交易網に参入したのである。

A鉄砲もキリスト教も倭寇船で日本に到達した

 鉄砲とキリスト教が日本に伝えられたのも、倭寇勢力とポルトガルとの結びつきの中においてであった。

 「つくる会」教科書は単に「ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた」と記述したが、実際にはポルトガル人は倭寇の首領の一人である王直の船にシャム(タイ)から乗り込んで、舟山諸島の双嶼を目指す中で嵐にあって種子島に漂着したものであった。鉄砲伝来を伝える「鉄砲記」には「ポルトガル人が乗って来た大船には『大明儒生五峯』が同乗していた」との記事が見え、この五峯こそのちの倭寇の頭目王直であり、ポルトガル人の乗った船は、王直の指揮下にあるジャンク船であったらしい。そしてこの鉄砲の種子島への初伝は従来説の1543年ではなく1542年であり、ポルトガル人は翌年も王直の船でシャムから種子島に来島し、このときには鉄砲の銃身の底を塞ぐ技術を伝授した。ポルトガル人が舟山諸島の双嶼に始めて現われたのは、このときの航海の可能性が高いのである。なお、このときもたらされた火縄銃はその形状から考えるに、当時のヨーロッパで使用されていた火縄銃ではなく、東南アジアのマラッカあたりで改良されたものが入ってきたのではないかと最近では考えられている。

 一方、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの場合も、中国海商の船に同乗してのことであった。マラッカで、人を殺してポルトガル船に逃げ込んでやってきた鹿児島の日本人アンジロウ主従に出会って、日本でのカトリック布教に確かな手応えを感じたザビエルは、1549年4月15日にゴアをたち、マラッカに至った。そしてこの地で日本にいく適当なポルトガル船がなかったので、ラダラオと呼ばれる中国人海商の船で日本まで送ってもらったのである。ラダラオは6月2日にマラッカを出航し、コーチシナ・広州・福建沿岸の港にたちよって密貿易を行い、中国南部の港・チンチェオ(さんずいに章と州)に立ち寄って交易しようとしたが、海賊同士の争いに巻き込まれて上陸できず、やむなく交易を諦めて日本に直行、8月15日(1949・天文18年7月22日)に鹿児島の港に到達したのであった。

 鉄砲の伝来もキリスト教の伝来も、どちらもポルトガルが倭寇勢力に参入する中で行われたことだったのである(以上、村井章介著「海から見た戦国日本」などによる)

注:05年8月刊の新版では、鉄砲の伝来については、「ポルトガル人を乗せた中国船が・・・」と記述し、中国船にのってポルトガル人が種子島に来航したことをきちんと記述した。しかしこの中国船が何であるかについての記述はない。強いて言えば「勘合貿易と倭寇」(P79)で「16世紀に倭寇が再び盛んになったが、その構成員はほとんど中国人であった」と記述したことがヒントになるか。しかし「中国船」とあいまいな記述をしたため、これが倭寇船であることについては、なかなか思い浮かばないであろう。そしてザビエルもまた中国船に乗ってやってきたことについては、新版でも記述されておらず、南蛮貿易そのものが、倭寇が行ってきた密貿易の形そのものであることも全く記述されていないのである。

B日本は世界有数の銀の産出国であった

 また、中国人海商である倭寇勢力をはじめ、琉球船やポルトガル船が日本を目指して中国の産物や東南アジア産の香料などを日本に運んだのは、「中世の日本」批判の【25】【26】で示したように、当時の日本が世界有数の銀の産出国であったからだ(この点については「つくる会」教科書は、数値こそ示していないがきちんと記述している)。
 東アジア交易網の決済通貨は銀であったが、中国での銀の産出量が低下し国際交易が発展するにつれて、深刻な銀不足が生じた。当初は灰吹き法という画期的な方法を開発した朝鮮での銀開発が進展して、朝鮮から中国・日本へ朝鮮産の銀が流れたが、貿易による銀の流出を怖れた朝鮮政府によって銀の持ち出しが制限され、さらに銀鉱山の開発そのものが厳しい制限下に置かれたことで、朝鮮産の銀の供給は先細った。この中で、密かに朝鮮から灰吹き法の技術が日本に持ち出され、この技術を応用した石見銀山などが各地で開発されるにつけ、日本産の銀の生産量は膨大に膨れ上がり、銀は日本を代表する輸出品となった。しかも日本での銀の産出量が増えるに従って日本での銀の価格は低下し、価格の安い日本で、中国産の生糸・絹織物や陶磁器、さらには朝鮮産の綿布や東南アジア産の香料や香木などと銀とを交換して銀の価格の高い中国に持ちこみ、それで中国産品を買って東南アジアへもたらせば、その銀の価格差によって利益を倍増することが可能になったのである。日本銀と中国生糸の交換を中軸とするマカオー長崎の中継ぎ貿易は、一航海で5倍から10倍もの高い利益をあげたという。

 当時の日本の銀の産出高は年間約20万kg。世界中の銀の産出高の3分の1を占め、アメリカ大陸の産銀高に迫るものであったと推計されている。

 ポルトガルやスペインも倭寇などと同じく、東南アジアの品やヨーロッパ産の品物を中国に運んで売却し、そのかわりに日本向けの生糸や絹織物や金と交換して日本に至り、その代価を日本銀で受け取り、そこで得た利益をもとにさらに中国や東南アジアでヨーロッパ向けの財貨を購入して利益を増やすというやりかたを当初はとっていたのである。そして日本においてヨーロッパ産の武器などの需要が増すにしたがってこれが入ってはくるが、この貿易の基本的な構造は、そのまま継続したのである。

(3)ヨーロッパ人の参入の影響はどうだったのか?

 最後にこの点を「つくる会」教科書がどう記述しているのかを検討しておこう。

@ヨーロッパの影響を「鉄砲とキリスト教」に限定する近視眼的記述

 教科書は次のように記述している(p115)

 ヨーロッパから渡来したもので重要なのは、鉄砲とキリスト教であった。

 なんとあまりにひどい記述ではないか。たしかに鉄砲とキリスト教は日本に大きな影響を与えた。しかし日本への影響はこれだけではない。江戸時代文化を考えてみればすぐわかることであるが、ヨーロッパから伝わった火薬は鉄砲や大砲に使われただけではなく、のちには江戸時代の夏の夜空を彩る花火を生み出すもととなった。そしてヨーロッパ人によってもたらされたガラスも日本人の生活には欠かせないものとなり、風鈴やビードロ、そして目がねにと利用されていく。また時計の複雑な機械仕掛けは、日本の技術に大きな影響を与え、のちにからくり人形をつくる技術にも繋がり、幕末の蒸気機関の製造などにも繋がっている。さらにはキリスト教とともに入ってきた西洋医学や天文学などの知識も日本人の知識欲を刺激し、のちにオランダを通じた学問の移入によって、日本における西洋医学は独自の進歩もとげ、天文学も反射望遠鏡までつくられ太陽黒点の観測もなされており、幕末の詳細な日本地図制作にまで繋がって行く。ヨーロッパの影響を、鉄砲とキリスト教に限定する記述はあまりに近視眼である。

注:この点はのちの「南蛮文化」の項目の記述にも言える。技術伝播を記述しながらその具体的な影響は記述せず、むしろ重点は生活文化における影響の羅列におわっている。

注:05年8月刊の新版では、この「ヨーロッパから渡来したもので重要なのは、鉄砲とキリスト教であった」という近視眼的な記述は削除された。当然といえよう。

A鉄砲は戦国時代の終わりを早めたのか?

 しかしその鉄砲が与えた影響についても、かなり大きな間違いを犯している。教科書は次のように記述している(p115)

 戦国大名は鉄砲を積極的に取り入れたので、堺など各地でその生産が開始され、鉄砲は急速に普及した。また鉄砲の使用は、それまでの戦闘の方法を大きく変えて、戦国時代の終わりを早めた。

 たしかに戦国大名は鉄砲を積極的に取り入れ各地で盛んに鉄砲は生産された。しかしこのことで戦闘の方法が大きく変わり、それで戦国時代の終わりは早まったのだろうか。ここではこれ以上のことが記述されていないので具体的なことは不明である。しかし次の「織田信長の台頭」の項目の中で、長篠の合戦について以下のように記述してあるので、織田信長による鉄砲の大量使用のことを指していると思われる。「つくる会」教科書は次のように記述している(p117)

 信長は鉄砲の導入にも積極的で、当時、最強と言われた甲斐(山梨県)の武田勝頼の騎馬軍団を、3000丁もの鉄砲で迎え撃ち壊滅させた(長篠合戦)

▼長篠合戦 織田・徳川連合軍と武田軍が戦っている。織田・徳川軍のとった戦略は、その後の戦い方を一変させたといわれるほど、斬新なものだった。(長篠合戦図屏風 徳川美術館蔵)

 有名な合戦図である。幅の広い柵を設けた前に鉄砲隊が陣取り、向かってくる武田軍に射撃を加えている場面である。いわゆる三重の馬防柵を設けて3000丁の鉄砲を三段に別けて一斉射撃し、武田「騎馬軍団」の突撃を撃破したと言われている長篠の戦いである。このような鉄砲の使い方をすることで織田信長は戦闘のやり方を一変させ、このことによって全国統一に手をつけたと従来は言われて来た。「つくる会」教科書の言わんとしていることは、おそらくこのことであろう。
 しかしこの「定説」は、なんの根拠もない江戸時代の臆説をそのまま援用したものであることが、近年の研究で明かとなっている。

(a)長篠・設楽原の戦いはヨーロッパ流の野戦陣地の勝利であった
 鈴木真哉、藤本正行、名和弓雄の軍事史の専門家は、この戦いを次のように分析している。長篠城の包囲戦で苦戦している武田軍を野戦に誘い込んだ設楽原は、幅4・5メートルの川を挟んだ水田地帯である。信長はこの川の西岸に、堅固な野戦陣地を構築した。この根拠は、「信長公記」に、「ことごとく討ち果たさるべしとの命に基づき作戦を立てられ、お味方一人も破損せぬようにお考えをめぐらした」「身がくしとして、鉄砲にて待ちうけ、撃たせたので、過半数を撃ち倒され、無人となって引き退く」「かように(武田軍は)人数を入れ替えたが、お味方は一人も(陣地の外に)出ず、鉄砲ばかりで、足軽のみにてあしらい、打ち倒した」と記述されていることである。
 つまり身がくし=防御用の土塁の陰に鉄砲足軽を控えさせて、武田軍が入れ替わりたちかわり何陣にもわかれて突入してくるのを一兵も土塁の外に出ないで鉄砲を撃ち続け、一兵も損なうことなく、武田軍を撃ち破った。これが「信長公記」の記述する設楽原合戦なのである。
 またこの戦いに織田方に加わって案内や陣地構築に携わった現地の名主が書いた記録である「三州長篠合戦記」には、もっとくわしい記述があり、「小川を隔てて24町の間に、二重三重の乾掘を掘って、土居を築き、50間、30間を置いて、虎口(出入り口)を設け、目通り一尺まわりの木を以って柵をつける」とあり、徳川の陣地については、「御人数13段に屯し、各陣前に乾掘を掘り、土居を築き、柵を構えること織田の陣に同じ」とある。要するに、乾堀・柵・土居のセットの防御陣地を通常は三段に構え、場所によっては13段にも構えて鉄砲隊を配置して武田軍を待ち構えたのだという。
 このような陣構えを名和は以下のように推理する。乾堀の幅は約4m、深さも約4mで底には斜めに切った竹を多数据え、そこから2m後方に柵を設け、柵の2m後方に高さ1.5mほどの土居を築き、そこに銃眼を多数設置して、一つの銃眼に一人の鉄砲足軽を配置する。この足軽は当時の最も早い火縄銃の装填法を使えば15秒に一発の玉を撃て、24町の間で武田軍が突入をはかた場所については、一人の鉄砲足軽の後ろに3人1組で鉄砲の装填係を配置し、4丁の鉄砲をつかって射撃した。この方法なら5秒に一発の頻度で射撃できる。そして土居に隠れた鉄砲足軽から標的となる武田兵までの距離は6m。この距離なら的を外すことはないし、8匁玉や10匁玉の鉄砲なら首に命中すれば頭を吹き飛ばし、手足に命中すれば手足を吹き飛ばして致命傷を与える。一発必殺の野戦陣地を信長は構築して武田軍を待ち構えた。さらに名和の推理は、2160の銃眼と2160人の鉄砲足軽、それに3人1組で装填役の足軽を280組840人・840丁。この装填役の鉄砲足軽を56組ずつ五つの隊にわけてそれぞれを一人の軍奉行に統括させ、戦線全体の状況を検分しながら840人の鉄砲隊を重点個所に投入し続けたのではないかと。つまり3000丁の鉄砲を三段にわけて一斉射撃をくりかえし武田騎馬軍団を壊滅させたという江戸時代の小瀬甫庵の「信長記」の記述は戦場を知らない後世の者の作り話しであり、実態は3段以上にも堅固に構築された野戦陣地にこもって大量の鉄砲隊で迎え撃った織田・徳川連合軍が、数の劣る(3分の1程度)の武田軍の8時間にもおよぶ波状攻撃を撃ち破ったというのが真相であったというわけだ。

 そしてこのような野戦築城法と大量の鉄砲を使って敵を殲滅する戦術は信長のアイデアではない。ヨーロッパで1503年のスペイン軍とフランス軍とのイタリアにおけるセリニョーラの戦いで、スペインの将軍ヘルナンデス・ゴンサルボ・コロドバが始めて使った野戦陣地と鉄砲の大量使用の戦術を下敷きに、当時日本でも通常行われていた陣の前に柵をもうける陣立ての背後に三段の堀・土居を組み合わせた堅固な陣地を構築し、その陣地に、最強の鉄砲衆であった紀州雑賀の鉄砲隊が使ってきた3人1組の鉄砲装填係りによる鉄砲速射法を組み合わせたところに、信長の新しい発想があったのではないかとしている。

注:なお「武田騎馬軍団」という記述も事情を知らないものの誤解である。当時の日本では騎馬兵だけの軍団を組む事はなく、当時の日本馬は小柄であるので、重装備の騎兵を乗せて疾駆することもできない。通常は馬に乗るのは一隊を指揮する指揮官であり、100人に3・4人である。そして実際の戦闘では、後方の見晴らしの良い所に残って指揮をとる指揮官以外の武将は馬を下りて戦闘に加わるのであり、当時の日本の戦闘は、弓や長槍(さらに移動式の防御盾で守られた鉄砲隊も加わる)で武装した足軽歩兵を中心とした戦法をとっていた。だから「武田騎馬軍団」というのは存在しない。武田軍は一般に戦闘の帰趨が決まって自軍が有利となると将が騎乗して配下を引き連れ、敗走する敵軍に突入することが多かったので、これが誤って「武田騎馬軍団」と後世の者に認識されたのであろう。「つくる会」教科書が資料として掲載した「長篠合戦図屏風」でも武田軍は歩兵に騎馬の指揮官が混じる形で描かれており、「騎馬軍団」の一斉突撃ではない。武田軍の多数の指揮官が前線で戦死したのは、大量の鉄砲の硝煙と轟音と足場の悪い泥田により伝令を走らせて指揮することもできなくなった武田の武将が前線で指揮せざるを得なくなり、そのために騎馬の将校は目立つので鉄砲の集中攻撃をあびた結果であろうと名和は推理している。

(b)のちの世に影響を与えたのは築城戦法
 また藤本・鈴木は、長篠・設楽原合戦が後世に与えた影響は、野戦築城戦法だったとしている。なぜならば鉄砲を大量に使用する戦法は信長以前からも盛んに利用されており、信長を苦しめた大阪石山本願寺の戦いでの紀伊雑賀鉄砲隊などで有名であり、かなり一般的なことであった。当時の戦いは弓・槍を使い、なるべく接近した白兵戦を演じないで、味方の損傷を少なくする戦闘が一般的であった。そこに鉄砲は取り入れられたのである。火薬を多量に込めれば200mはとどき、火薬を減らして命中精度をあげても40mほどはとどき、弓・槍よりはかなり遠くから戦闘のできる鉄砲の長所が評価されたわけだ。信長の長篠・設楽原合戦の勝利は大規模な野戦築城によったのであり、以後、信長の戦いや秀吉の戦いでも、決戦を避けて敵の城を包囲し、長大な土塁で水攻めにしたり、付け城と長大な陣地で囲んで食料を絶ったりという戦いがかなり見うけられる。大規模な野戦築城法が普及したのであろう。鉄砲の導入が戦国の世の戦いの方法を変えたわけではない。

(c)社会的・経済的・政治的分析が欠如している従来の「統一論」
 さらに、鉄砲の導入が戦国の世の終わりを早めたわけでもない。
 たしかに日本におけ鉄砲の普及は急速であった。合戦での使用例は、九州では薩摩島津氏の1549年がもっとも早く、ついで安芸毛利氏に1557年の使用例がある。またやや遅れて豊後大友氏が1565年ごろ、そして1567年になると各地の戦国大名による鉄砲の積極的使用が目立つ。東国での使用はさらに遅れ、甲斐武田氏が軍役に鉄砲を課し始めるのは1562年ごろ、小田原北条氏の使用は戦の着到状に鉄砲が現われるのが1570年。しかし鉄砲初伝を1542(1543年との説もあり)種子島としても、わずか20数年で全国的に普及し、各戦国大名が数百から数千丁の鉄砲を使用するようになっている。この背景には、技術的には、刀鍛冶の高い技術があり、鍛造法によって高い品質の鋼を供給出来たことと、当時鉄流し法の導入で大量に鉄が作られ始めていたこともある。また、全国的に騒乱が継続し、各地で激しい戦が繰り広げられていたという社会的・政治的な理由もあるだろう。このような鉄砲を必要としかつ製造できる技術水準であったゆえに、堺や滋賀国友などで鉄砲が大量に作られたわけである。
 しかし、鉄砲を大量に使用した織田信長であったが、彼の天下統一の前に大きく立ちはだかったのはのちに記述するように、一向一揆なのであり、その中心大阪石山本願寺の闘いでは、大量に使用された鉄砲によって織田軍が苦戦し、信長自身が鉄砲傷を受けてすらいる。「鉄砲の導入が戦国の世の終わりを早めた」という説は、戦国の世を統一した織田信長が鉄砲を大量に使用したという事実と、その現場である長篠の戦いの勝因が「大量の鉄砲の三段撃ちで武田騎馬軍団を壊滅させた」という、江戸時代にできた妄説に依拠し、それを単純に信じただけのものである。信長の強さは、他の戦国大名に先駆けて兵農分離を行い、戦争を専業とする軍団を作り上げたことと、それを可能にした彼の領国の豊さ、農業でも商工業でも日本の中心地帯であり、その富を吸収するための政策を信長が実行したこと。さらには、最強の敵であった一向一揆を押さえこむために天皇の力までも動員した彼の政治力・政治的構想力の所以であった。この社会的・経済的・政治的要因を分析することなく、鉄砲の導入と言う戦術レベルで戦国の世の終わりが論じられてきたこと事態が、間違っていたのであり、それはすでに古い時代の研究であったのである。 

 従って「つくる会」教科書が、「また鉄砲の使用は、それまでの戦闘の方法を大きく変えて、戦国時代の終わりを早めた」と記述したことは、江戸時代の妄説を確かめもしないで継承してきた歴史学会の怠慢をそのまま継承したにすぎないのである。

注:05年8月刊の新版でも、「鉄砲の使用は、それまでの戦闘の方法を大きく変えて、全国統一を早めるという効果をもたらした」と記述しており、長篠の戦いのとらえかたも旧版と同じままである。江戸時代以来の妄説に依拠したままの記述である。また旧版・新版ともに「堺の鉄砲鍛冶」と題して、和泉名所図会を掲載し、そこに注として「鉄砲が急速に普及した背景には、日本人の高い技術力がある」との説明をほどこしている。この説明はきわめてあいまいで誤解を生みやすいもの。なぜなら一つには、「日本人の高い技術力」と一般的な内容のない説明であるため、当時の刀鍛冶の鍛造技術の高さや鉄流し法の導入で大量の鉄が作られたという技術史の指摘がないため、一般論として日本人は優れているという民族主義の発露に陥る危険がある。また二つ目には、当時の朝鮮や中国がどのように鉄砲を受け入れたのかという面の記述が欠けているため、同じく民族主義意識の発露になってしまうおそれがある。以下に記すように、中国・朝鮮でも日本での鉄砲の普及を受けて大量にそれを量産する技術が蓄えられていた。ただそれが日本のように大量に急速に普及させる社会条件・政治条件がなかっただけである。したがってヨーロッパ渡来の鉄砲は、東アジア各地ですぐに生産できるレベルの技術でなりたっており、それ自身が飛躍的な新しい技術でなりたっていたものではないことを示している。鉄砲はもともとはイスラムの地域で生まれたものであり、ヨーロッパの鉄砲もオスマン・トルコとの戦闘の中で急速に改善されたもの。15・16世紀の世界的規模での平均的技術の集成物として存在したということであろう。

注:【中国・朝鮮はヨーロッパの銃砲をどう受け入れたのか】
では中国や朝鮮ではヨーロッパ式の武器や戦法はどのような影響を与えたのであろうか。中国では、10世紀の北宋の時代に火薬を利用した火器が北方遊牧民族の侵入に対して使用されていた。これは火薬を球状の容器につめて火をつけて投石器で投げ入れるもので、のちにモンゴルがこれを多用し、日本に攻めてきたときに使用したことは、当時の記録に「てつほう」として記録されている。また12世紀の南宋の時代には、その前から使用されていた火矢を改良して火炎放射器のようにしたものや、ロケット式に発射するものも使われた。そしてモンゴルの時代にはこれらの火器はさらに改良され、金属製の筒状の容器に火薬を詰めて弾丸を発射する火器も開発された。これは小型の鉄砲のような抱えて発射するものだが、複数の弾丸や多数の金属片を大音量とともに敵陣に発射する「震天雷」と呼ばれた小型の大砲も含まれていた。このような火器はモンゴルの西漸とともにイスラムの国々に伝えられてそこで改良され、のちに鉄砲や大砲となったものが生み出されたのだろう。中国で発生した小型の大砲や手筒、そしてロケット砲はモンゴルを駆逐した明王朝においては大量に製造使用されていたが、やがて戦乱が収まるとともに、銃砲の改良は止まった。しかし倭寇との海戦が継続された中国南方部では銃砲の改良が続けられ、倭寇との戦いの中で遭遇したポルトガル船との戦いで捕獲した銃砲が中国に取り入れられ、ポルトガルで使用されていた小型の後装砲が「仏朗機砲」と称して多用されるようになっていた。この砲は、あらかじめ火薬と弾丸を装填したとって付きのこ砲を母砲の薬室に装着して楔でとめて発射するもので、連続発射が可能であり、砲架の上に据えれば回転させて照準を合わせることのできる優れたものであった。これ以外にも前装式のキャノン砲も取り入れられ、「仏朗機砲」とともに重用され、倭寇との戦いに多用されただけではなく、のちには北方の女真族との戦闘や朝鮮に攻めこんだ日本軍との戦闘にも使用されて効果を発揮した。のちに北方から明に侵入し清王朝をたてる女真族の王ヌルハチはこのヨーロッパ式に大砲による傷が元で死んだのである。中国が主にヨーロッパから学んだのは大砲の技術であった(この点、鉄砲に重点を置いた日本とは対照的である。)。しかし火縄銃の製法も学んではいた。ポルトガル船から捕獲した銃を元に製造していたが、銃身を鍛造した鋼を巻いてつくる方法は、1548年に倭寇の根拠地であった
双嶼を壊滅させたときに捕虜とした日本人の中に小銃の製造法を知るものがいたのでこれから学んだという。朝鮮では、双嶼を追われた倭寇の頭目の王直が、以後日本の五島列島を根拠地として朝鮮沿岸を荒らしまわる中で、銃砲の整備が行われた。朝鮮は以前から中国式の火砲を取り入れ、金属製の筒に火薬をつめて複数の弾丸や鉄片を放出する「震天雷」という形式の火砲を所有していたが、倭寇との戦いの中で導入したのは、かの「仏朗機砲」であった。火縄銃の導入は秀吉軍の侵入によって苦戦する中でのことであった。中国・朝鮮もともにヨーロッパ式に銃砲を導入した点においては日本と同様であった。しかし両国ともこれの大量使用による戦闘の導入を経て火縄銃の性能を次々と改良していった日本とは異なる道を辿った。中国の砲兵は南方の倭寇との戦闘が続いていた地域で主に用いられ、北方の軍団は伝統的な騎兵と槍で武装した歩兵のままであり、これが変化したのは遊牧民女真の進入が拡大してからであった。朝鮮では倭寇との戦いの中で取り入れ始めたが、これも部分的であり、本格導入は秀吉軍の侵入以後のことであった。これは両国が日本とは異なり、強大な統一国家によって統治され、しかも長い間国内には戦乱はなく、軍隊は文民官僚によって統制されており、武器や戦術の強化が必要とされていなかったことによるものであろう。

B日本人はなぜキリスト教を受け入れたのか

 では、キリスト教は日本にどのように受け入れられたのだろうか。「つくる会」教科書は次のように記述している(p115)

 キリスト教は、フランシスコ・ザビエルのあと、ポルトガルの商人とともにやってきた宣教師たちによって布教された。キリスト教は一夫一婦制を説くなど、当時の日本人に新鮮な印象を与え、宣教師たちは病院や孤児院をつくって人々の心をとらえた。貿易の利益に着目した西日本の大名たちもキリスト教を保護し、みずから入信する者もいた(キリシタン大名)。こうして長崎、山口、京都などに教会(南蛮寺)もつくられるようになり、キリスト教は九州、中国、近畿地方に広がった。1582(天正10)年には、九州の大友氏などキリシタン大名が、4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った(天正遣欧使節)。

 この記述には、「広まった」と地域名だけ記述し信者の数を明記しないので、どれほどの数かもわからない欠点があるが、日本にキリスト教が広がった背景を記述しようと意図しており、この点は優れている。しかし、その背景の捉え方が偏っている。この記述ではキリスト教が広がった背景は、
 1)一夫一婦制を説くなど新鮮な印象をあたえた
 2)病院や孤児院をつくって人々の心をとらえた
 3)貿易の利益に着目した大名がキリスト教を保護し、自ら入信したものもいた
この三つの理由であるととらえられてしまう。しかしこの理由だと、のちに統一権力によって厳しく禁教令が発布され、信者に対する弾圧も行われたにも関らず、多くの人が信仰を持ち続け、殉教したり、長期にわたって隠れキリシタンとして信仰を守った理由が理解しにくい(この点については「つくる会」教科書はまったく記述していないので問題外なのかもしれないが)。

 2の理由では貧しい人々がキリスト教の信者になったことが推測される。これは事実ではあるが、なぜキリスト教の宣教師などが病院や孤児院をつくったことが人々の心をとらえたのかがわからない。当時の日本における貧困や戦乱による一家離散などの災難に、人々がどう対処していたかが記述されないと、表面的な理解となってしまう。また1の理由は、たしかにこれを宣教師が説いてはいるが、ザビエルやフロイスも書いているように、日本人の多くは一夫一婦制である。妻妾を多数蓄えているのは上層の公家と武家だけである。したがって一夫一婦制であるべきだということを主張しているという点では目新しいのだが、これでキリスト教に引きつけられたというのはいかがなものだろうか。あまりに表面的である。3の理由も貿易の利益であり、たしかに南蛮船が来航すれば、日本では高価で取引される生糸や絹織物が手に入るので寄港地の大名は莫大な利益を手にし、その利益をもとに火薬や鉄砲を手に入れて武力を強化できる。だから貿易の利益に着目した大名がキリスト教を保護したことは理解できよう。しかし生糸や絹織物がいかに当時の日本では高価で取引されていた貴重品であったかが教科書にはどこにも記述されておらず、ここでいう「貿易の利益」もへたをすれば「火薬・鉄砲を手に入れられる」ことに矮小化される危険すらある。そして貿易の利益だけでは、戦国大名の中に自らキリスト教に入信するものもいたことが理解しにくい。利益を得るための現実主義的対応であると理解してしまうと、宗教すら実利主義的に理解してしまう現代人特有の理解となってしまい、深く神々を信じていた当時の人の心性にまで立ち入った理解とはならない可能性が高い。
 このように、教科書があげた三つの理由のどれも、キリスト教という宗教が本来持っている教義や信仰のありかたとの関係で、人々がどう引きつけられたのかという本質的な問題が欠如している。この点で、「つくる会」教科書の記述は一面的である。

 では、実際はどうであったのか。

(a)日本人信者によって支えられたカトリック教会
 まず最初にキリスト教の信者がどの程度に増えて行ったのかを見ておこう。信者の数と教会の施設数は、次のように変化している。

時期 信者の数 教会の数 広まった地域
1559年頃(最初の10年間)   6000人ほど     9ほど 平戸・山口など
1569年頃   20000人ほど    40ほど 九州・畿内の一部
1579年頃  130000人以上   150以上 出雲・土佐・紀伊に広がる
1587年・バテレン追放令ごろ  200000人ほど   200ほど 三河・尾張・加賀に広がる
1614年頃  370000人ほど   250ほど 関東・東北にも広がる

 これらの信者は、各地の領主階級に布教の許可と支援が得られない間は、宣教師個人の説教と貧者への施しや病者へのまじないによる治療などによって引きつけられた者が多く、最初は貧しい一般人が多数を占めており、知識階層は少なかった。しかし、各地で国人領主層や大名が信者となるにつれて、僧侶も含む多くの知識階層が入信していき、多数の日本人の司祭や修道士を得ることができ、階層を越えて信者の層は地域的な広がりを獲得していった。また江戸時代初期には宣教師は蝦夷松前にも到達し、日本の各地に教会ができ、修道院や各種教会施設が信者の喜捨によって運営されていた。
 日本に宣教にきた宣教師はおよそ290名ほど。また日本人の司祭も現われ、イエズス会では19人、フランシスコ会では1人、ドミニコ会では2人、アウグスチノ会でも2人が司祭に叙任されている。さらに修道士となったものも100名以上が数えられ、宣教師を補佐して説教を行ったりする日本人「同宿」は最盛期には500人を超えたものと推測されている。また宣教師や修道士・同宿に随伴して彼らを助ける小者も500名以上おり、宣教師の替わりとして教会を管理し信者を助ける「看坊」がイエズス会だけでも100名以上を数えていた。つまり日本におけるカトリックは300名ほどの外国人宣教師を核にしながらも、実際にはそれを超える1000名以上の日本人司祭・修道士・同宿・看坊・小者などの日本人信者によって支えられ、教会施設自体が、信者の喜捨と信者たちの活動によって支えられたのである。
 また、上の表の1614年という年は、江戸幕府によって禁教令が出された年である。ザビエルの来航以来、それまでの半世紀の年月で、日本人の間にカトリックと言う新たな宗教は、途中で秀吉のバテレン追放令が出されたにもかかわらずしっかりと根付いていたということを、1614年の信者数は示している。

(b)貿易と一体となったカトリックの布教
 ではなぜこれほど急激に、カトリックは日本に定着したのだろうか。
 まず最初に3の貿易との関係を考察しておこう。
 これは【2】の項で考察したが、ポルトガルやスペインの海外進出が貿易の利益の独占とカトリックの布教とが一体のものになっていたことが背景にある。
 イエズス会のインディアへの派遣そのものも、インドでのカトリックの布教が進まず、インドでの交易を独占できないことを嘆いたポルトガル王が、イエズス会の宣教師の評判を聞きつけ、その派遣を懇願したことから始まっている。そうしてインド管区長として派遣されたのがザビエルであった。しかしアジアでの布教には中枢である中国での布教が不可欠と考えたザビエルが、たまたまマラッカで出会った日本人との交流の中で日本布教を志して日本に来たわけだが、ポルトガルの海洋支配も東シナ海・南シナ海には及ばず、ザビエルの日本渡航自体が倭寇商人の船に便乗してのものであった。したがって日本との行き来は倭寇圏に参入した不定期のポルトガル船によるしかなく、布教に必要な人員や物資・財貨の確保には、宣教師自身が貿易に携わり、また貿易の利益を餌に戦国大名をつって領内の布教を認めさせるしかなかった。
 宣教師はしばしば領主のカトリックに対する姿勢でその領内の港にポルトガル船が来航するかしないかを決めており、初期にポルトガル船がしばしば来航した平戸が没落して長崎に寄港地が変更されたのも、平戸領主の松浦隆信が仏教勢力の圧力もあってカトリック布教に対して懐疑的で揺れており、最終的には彼がキリシタンの財産を没収し教会を破却したことに理由があった。これに対して長崎をもつ大村純忠は熱心に自身が信者となって布教の拡大に努めた、初期には彼が弱小勢力であり仏教勢力と結びついた家臣団の反逆で彼自身追放され、ポルトガル船の寄港地の港と教会が焼き討ちにあうこともあった。長崎が安定的な寄港地となったのは、大村純忠の領国支配が安定してからのことであり、この寄港地の決定も、宣教師が彼の領国支配とカトリック布教への態度を斟酌してのことであったのだ。
 このようにポルトガル船の来航は、武器弾薬だけではなく、中国産品や東南アジア産品などおおいに利益のあがる財貨をもたらしたゆえに、財力・武力を高めたい戦国大名にとっては垂涎の的であり、群小の大名が割拠していた九州地方では、各地の大名が争ってポルトガル船の寄航を求め、そのためにカトリック布教への便宜を図り、自身や家臣団、領民をも信者へと組織していったのである。そして長崎ーマカオ間の定期航路が開設されたのちも、日本では戦国の騒乱が続いており、南蛮貿易の利益を求める大名もあとを絶たなかった。
 またこのように貿易の利益で大名をつって領内での布教権を獲得するという方法は、もともとカトリックが王侯と結びついてその支配に権威を与える事によって、民への布教を図っていたという歴史的性格にも背景があるわけである。
 だから入信した戦国大名の中には貿易の利益ではなく、領主と領民が一体的に神の僕になることによって、自身の領国支配を安定させようとした者も多くいた。一般にキリシタン大名と呼ばれるものの多数が、小大名であったことは、このことを裏付けている。

(c)背景として広がる救済をもとめる人々
 しかしこの領国支配の基盤としてのカトリック信仰という問題を考える上でも、なぜ多くの戦国時代の日本人がカトリックに入信したのかという問題を、当時の社会状況とこの時代の人々の思想・心のありかたの問題との関係で考えることが必要であろう。

 戦国の世は商工業の発展と都市的な場の発展によって旧来の氏族が解体され、家という単婚家族を基盤として、人々が個人としてさまざまな問題に立ち向かった時代であった。そして統一権力の不在という現実を背景にした長い騒乱の時代が続いたこともあって、人々の信仰には大きな変化が生じていた。詳しくは「中世の日本批判」ですでに述べたが、人々の信仰は、万物を超越する絶対神を求めるようになり、その神の下での救済をもとめる方向に変化しつつあった。
 このことは中世全体を通じて、大日如来という絶対神を中心とした真言宗の信仰が広がり、さらには阿弥陀如来という西方浄土における絶対神的存在を中心とした浄土宗・浄土真宗がひろがっていたことにも表現されていた。また、さらに神道が唯一神としての天照大神を戴き、中国的な天道思想をも取り入れたものになり、各地に伊勢神道の御師が住みついて人々を伊勢にいざなっていたことにも表現されている。そしてこれらの信仰は同時に、地蔵菩薩や観音菩薩信仰とも結びついており、阿弥陀や地蔵、観音の名号を一心に唱えることによって来世での救済を求める信仰は、宗派を超えて広がっていた。
 そしてこのことは、中世において、「神国」観が大きく変質したことをも意味していた。
 古代における「神国」観は、天照大神を神の中の最高神として諸神をもその下に位置付け、天照大神の子孫としての「現御神=あきつみかみ」である天皇を中心とした日本という色彩を持っていた。しかし律令国家体制が崩れそれぞれの寺社が荘園という自己の独占的領地を支配する荘園領主となっていくなかで、天照大神を最高神とする神の位階制は崩壊し、有力な寺社の神々は己こそ日本の中心的神であることを宣言し、自己の荘園を「神領」「仏領」として国家権力の不可侵の領域として互いに領土支配を競い合っていった。この中で神は遠い別世界にある仏が、世界の中心から遠く離れた粟粒のような狭い日本の国土で、末法の世の中で苦しむ人々を救うために仮の姿で現われたものとする考えかた(=本地垂迹説)を生みだした。これに伴い、「神国」観も変化し、仏が釈迦や孔子・老子という人の姿をとって現れたインドや中国と異なって、日本には仏の仮の姿としての神が人々の救済に現われた国であるから「神国」なのだという観念に変化し、日本の神々は、仏を中心とする世界の中で日本の人々を救済する役割をもった神として位置付けられるようになった。こうして中世において相争いあった神々は、仏と言う中心を持つことによって統合され、争いは調停された。したがって「現御神」として絶対的権威を持っていた天皇の地位も低下し、天皇自身が仏法によって擁護される悩める人であると認識されるようになっていった。
 しかしこの中世における「神国」観もまた、戦国時代のなかで次第に変化を蒙っていた。それは中世における社会変動の結果として生じたさまざまな社会的な闘争を調停し、法の下における平和を実現する統一権力が求められるにしたがって、日本という小宇宙の中での中心を備えた「神国」思想へと変貌を求められたのであった。そしてその中心とは中国的な儒教観を受け入れた天道思想であり、地上のあらゆる権威を超えて、人々に正しい道を教え、かつそれから外れた行為を罰する力をもった超越的権威としての天道であった。またこの天道の教えを体現して、地上に平和をもたらすものこそが「国主」の資格を持つ者であるとういう考えかたが、下剋上の思想と対をなすようにして生まれていった。
 中世の最後の戦乱の時期である戦国時代において、現世の平和を求める人々の願いに応じる形で、多くの戦国大名が、自分こそ天道の示す道を体現する地上における神であるとする思想によって、自己の権力を飾ろうとしていたのである。しかしこれには、神ならぬ人である戦国大名に神としての権威を与える超越的な現世的権威が必要であった。この中で地上のあらゆる権威・権力を超えて人々に平安を与える超越的権威として選ばれものが複数存在した。一つは近畿地方を中心とした山野河海の漂白民と彼らが築いた交易と商業のネットワークを担う人々によって推戴された阿弥陀仏の救いを来世と現世にもたらす権威としての本願寺教主であり、もう一つは、神道の中心的神である天照大神の子孫としての天皇であった。

 このような時代背景に、天地創造の神としてのデウスを戴くカトリックが日本に渡ってきた。そして当時のカトリックにおける重要な信仰として終末の時における聖母マリアによる救済への橋渡しの信仰があり、「アベ・マリア」の祈りがその中核をなしていた。
 天地創造の神であり終末の世における最後の審判を下す神としてのデウスとその代理人としてのイエス、そしてそれらに人々の救済を仲介する聖母マリアという信仰のありかたが、大日如来・阿弥陀如来の下における審判と死後成仏の信仰、そして多くの罪を犯した者までをも死後成仏に向けて救済する観音菩薩という日本の信仰のありかたと、あまりに酷似していることに驚かされる。だからこそカトリックの日本布教を志した先人であるザビエルが、布教にあたっての核心となることは、天地創造と神の恩顧、そして最後の審判であると繰り返し述べていることは、彼が当時の日本人の心のありかたをしっかりつかんでいた証拠である。そしてカトリックの教えを日本人のものにするために、その教えを日本語に翻訳する努力を続けていた宣教師たちは、デウスを最初は大日と訳し、その間違いに気づいたのちは天道と訳したことは、日本人の中に広がっていた唯一神の信仰に彼らが着目し、それとの違いにも気がついていたことを示している。大日も天道も全てを超越した神ではあるが、宇宙の創造神ではないし、ましてや最後の審判を下す神ではなく、人間を超越した自然を神格化したものであることに、宣教師たちは気づいていたのであろう。
 むしろ日本の神と西洋の神とで最も似通っていたのは、観音菩薩と聖母マリアであった。どちらも別け隔てなく全ての人々に慈悲をおよぼし救済の手を差し伸べる神だからである。
 それゆえザビエルが最初に大名島津氏に会ったときに、彼が持参した聖母子像を見て、島津氏およびその母親がいたく感激し、領内への布教を許可したというのも、理由があったのである。そしてこの聖母子像の信仰と聖母マリア信仰は日本におけるカトリック信仰の中核として生きつづけ、江戸時代の隠れキリシタンの信仰がマリアに擬した観音菩薩の像や画像とアベ・マリアの祈りであったことも、観音信仰による救いと聖母マリア信仰による救いが極めて近いものであると当時の日本人に受け取られたことを示している。

 このような当時におけるカトリック信仰のありかたと、日本において求められていた信仰のありかたの関係を、日本でカトリックが急速に拡大し、かつ弾圧下でも決してつぶれなかった背景ととらえることが必要であろう。

 地上に安心を実現する超越的権威を自己に体現させる権威を求めていた戦国大名の中からキリスト教に帰依し、領民をもすべてキリスト教に改宗させ、地上にキリスト教の王国を築こうとする者が現われた。これは、多くの領民が地上での安心の実現を希求していたことを背景として、他の戦国大名との勢力争いの中で領国内に絶対的権威を確立し、自己の権力を確立しようと多くの戦国大名が日々格闘していたからであった。とりわけ周囲の大名から日々圧力をかけられて領国支配を確立できないでいた小大名は、デウスの権威に頼って自己の支配を確立しようとした。九州の長崎を領した大村氏はその代表格である。そして大大名でもデウスの権威を後ろ盾に領国支配を確立しようとしたものとして、九州の大友氏があげられる。大友宗麟は最初は入信しなかったが、北からは中国地方の毛利氏に攻められ、南からは薩摩の島津氏に攻められて領国の支配が危機に瀕するなかで入信し、十字架の旗を押し立てたキリスト教王国を建設する神の軍隊として大友軍を飾り立て、島津氏と対抗しようとしたのであった。戦国大名がキリスト教布教を許可したり自身が信者になったのは、彼らが地上に安寧を実現する神の権威を背負って領国支配を確立しようとしていたからであり、その権威としてデウスを推戴したからであった。
 そして大名からの強制だけではなく、自発的に各地の民がキリスト教に改宗したのは、戦乱の世からの解放と、現世と来世における安寧をもとめる人々の願いがあったからである。そしてキリスト教もまた、日本における他の宗派と同様に、人々のこの願いに直接的に応えるものであり、さまざまな呪術によって病気を治し、戦乱から身を守るという現世ご利益を与えるものであったことも、キリスト教の広がりの背景にあったであろう。

 この意味で、「つくる会」教科書が、宣教師が病院や孤児院を設けて人々の悩みに対処しようとしたことがキリスト教普及の背景にあったと指摘したことは正しい。しかしこれが戦国乱世の中で現世と来世において安寧を求めた人々の願いにかなった側面があったということをきちんと指摘しなければ、この教えが受け入れられた背景全体をつかむものとはならない。ましてや「一夫一婦制」を唱えたことを「人々に新鮮な印象を与えた」理由としてあげることは、問題のあまりの矮小化といわざるを得ない。当時の日本は事実上は一夫一婦制であり、家における妻の位置は、後世におけるそれとは異なって、家における「2人の家長」とでも言える存在であったことは、「中世の日本」批判でも見たとおりである。この状況下で夫婦の役割を強調することは新鮮な印象を与えたことは否めない。しかしこれはキリスト教の教えの一部でしかない。その教えの全体像を示し、それを戦国の世の人々がどう受け止めたのかという文脈の中でとらえないと、大きな誤解を与えかねないのである。

(d)キリスト教の広がりは平和的なものではなかった

 しかしキリスト教が広まって行く過程は、けして平和なものではなかった。
 なぜならキリスト教は、それ自身として他の教えを邪教として退ける排他的なものだからであり、カトリックはその信仰の普及を王権の確立と拡大に依拠して行っていたので、自身を支える王権に対して、カトリック以外の邪教を根絶することを要請し、その要請に応えるかどうかで、その王権のカトリックに対する奉仕の程度を判断もしていたからである。
 とりわけ九州において布教にあたった宣教師たちは、カトリックに入信しカトリックの王国を築くことを約束した大名たちに、その信仰の証として、領国内の邪教の根絶を要請した。たとえば宣教師ルイス・フロイスが著した「日本史」には、キリシタン大名の大村純忠が隣国の高来郡諫早との抗争に勝利したとき、宣教師ガスパル・コエリョが「デウスに感謝の奉仕を示すには、殿の領地から、あらゆる偶像崇拝と礼拝を根絶するに優れるものはない。それゆえ殿は、領内にもはや一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである」と説いたとある。そして大村純忠はその忠告に従ってあらゆる寺院や神社を破壊し、仏像神像を焼いたのであった。
 またこれは多くのキリシタン大名の領国でも行われたことであった。後に天草地方を領した小西行長の治世下においてはキリシタン信仰が奨励され、多くの寺院が破壊されて僧侶は還俗かキリシタンへの転向を迫られていた。そしてキリシタンとなった領民と他の信仰、例えば広く信仰されていた一向宗の信徒との間には常に抗争が起こり、領主の後ろ盾を得ているキリシタンは、一向宗の寺院を破壊したり、信徒や僧侶に一向宗の信仰を捨てることを強制し、暴力を振るったりしていたのである。さらに近在の島原を支配していた有馬晴信の領内でも、同じことが行われており、さらには宣教師の求めに応じて、日本人奴隷を献上するなどということも行われていた。そして十字架の旗を掲げて日向の国に侵入した大友宗麟は、日向の国の神社仏閣をことごとく破壊し、僧侶達は他の地に逃げるか、キリシタンに服従して自身の手で寺を壊し仏像を破壊し、それらの材木を教会の建設のために運ぶことまで強制されたという。

 このようにキリシタン大名が生まれた土地では、そこにキリスト教王国が建設されようとしたのであり、多くの寺社が破壊され、人々は信仰の変更を強制されたのであった。だからキリスト教王国が建設される途上では、それに反対する大名の一族や家臣団を中心として、神道や仏教の信仰を守る動きが結成され、それがすなわちキリスト教信仰を広めようとする大名に反対する動きともなり、この動きが勝利したときには、キリスト教の教会は破壊され、教会に寄進されていた財産は没収され、人々は信仰を捨てることを強制されたのである。

 日本においてキリスト教が急速に普及したこととこれに対する軋轢が各所で起きた理由は、どちらも当時の日本において、絶対神の下での地上の楽園が建設されることを望む多くの民がおり、その期待に応えることで自己の領国支配を確立しようとしていた戦国大名が互いに争いあっていたという、当時の状況が背景にあったのである。ときはまさに戦国時代であった。大名同士は隣の大名の領国を切取ろうと、常に争いあっていた。したがってキリスト教の支援を期待した大名は、デウスの名による権威の付与と、宣教師によって招請された南蛮船による利益や、しばしば宣教師自身から得られるポルトガルの軍船による援助に頼ろうとした。だからキリスト教の布教の過程は、けして平和的ではありえず、それは互いに争う大名の抗争にしっかりと組みこまれていたし、宣教師の中には、あえて軍事援助や軍事指導を行うことで布教権を獲得しようと動いた者もいたので、布教と戦争とが一体となっていた。
 こうして日本におけるキリスト教の布教は、戦乱の世の中における大名の戦争と、その中で現世と来世における安寧を求める人々の願いとに、しっかりと結びついていたのである。したがってその布教は、天道の下で領国を統一していこうとする大名権力とそれを支えた仏教的世界を核とする「神国思想」との激しい軋轢の連続であった。だからこそ、のちにその神国思想とそれを体現する天皇の権威の下で日本を統一しようとした統一権力とキリスト教が全面的にぶつかる必然性があったのである。
 しかし「つくる会」教科書のキリスト教布教についての記述は、このような時代背景をつかむことなく、表面的で一面的な記述になっていたのである。

:05年8月刊の新版のキリスト教についての記述は、若干変更されている。当時の日本人に新鮮な印象を与えたという「一夫一婦制の主張」は削除され、「宣教師たちは、熱心にキリスト教を布教し、当時の日本人に新鮮な影響を与えた」と変更された。「孤児院や病院を建設して人々の心をとらえた」という記述はそのままである。しかしこれでは、何をして新鮮な印象を与えたのかがよけいに分からなくなり、旧版以上に、信仰のありかたと教義との関係、そして当時の日本の状況と人々の心のありかたとの関係で、キリスト教をとらえる姿勢はさらに後退してしまっている。大名がキリスト教を保護し入信したものもいた理由を説明した部分は、旧版とまったく同じで、ただ「貿易の利益に着目」と記されただけである。

注:〈近隣諸国でのキリスト教の布教状況と影響〉
 中国においてもキリスト教の布教はなされた。伝道の最初はかのザビエルであり、それは1552年のこと。1576年にはマカオ司教区が設立され、1581年にそこに赴任したマテオ・リッチの熱心な伝道によって信者は急増した。1605年には北京にも教会が建設され、信徒の数は1610年には、中国全土で2500人に達したという。しかし中国でもデウスを唯一の至高の神とする信仰は受け入れられず、しばしば皇帝による禁令に直面した。中国皇帝は、最初は宣教師がもたらす科学技術、とくに天文学と暦学、そして砲術を評価し、多くの天文観測機械や世界地図を宣教師に作成させ、宣教師によってもたらされたヨーロッパの科学知識の影響の下で、清帝国において多くの百科全書が編纂された。また明国・清国の皇帝はともにポルトガル式の優れた大砲(仏朗機砲やキャノン砲)を宣教師に作らせ、これとの関係でキリスト教の布教を許していた。キリスト教は、このような皇帝の庇護によって細々と布教が開始されていたのである。しかし教線が拡大するにつれて各教団による布教争いが生じ、あとから乗りこんだドミニコ会やフランシスコ会・アウグスティノ会と、先住のイエズス会との間に軋轢が生まれた。そして後発の教団は、ローマ教皇に対して、イエズス会が布教のために中国の迷信と妥協したと訴え、激しい争いとなった。のちの1704年。ローマ教皇が中国のカトリック教徒が中国の諸典礼に参加することを禁ずる命令を発し、これに怒った中国皇帝は、1723年、ついにキリスト教の布教を禁止し、教会を破壊し、信者には改宗を迫ったのである。そしてこの禁令は次の皇帝によっても受け継がれ、1805年・1811年と相次いで弾圧が行われた。ここに中国におけるキリスト教の布教は頓挫し、19世紀中頃の阿片戦争以後まで中断することとなった。
 朝鮮においても後の秀吉による侵略戦争において、日本人信徒に同道した宣教師によって各地で布教が行われたが広がりはなかった。また中国北京に教会が置かれて中国人に信徒が広がるとともに、1784年、中国に学んだ者が北京で洗礼を受けて帰国し、両班という知識階層に一定の広がりを見せた。しかし1791年にカトリックの信徒であった役人が儒教の祖先祭祀を否定して母親の位牌を焼いてしまったことに端を発する珍山の変という最初のキリスト教弾圧事件が起きると政府の弾圧が広がり、以後も中国から宣教師が潜入したが、信仰が広がりを見せることはなかった。
 ポルトガルのアジア支配は、領土支配という面でも頓挫したのであるが、信仰という文化面でもアジア地域を支配するものではなかったのであるが、ここ東アジアにおいても、それぞれの国に確立していた統一権力とそれを支えた信仰の体系によってはじき返され、その影響は、中国や朝鮮においては軍事技術と一部の科学知識の面に留まっていたのである。

:この項は、朝尾直弘著「16世紀後半の日本ー統合された社会へ」(1993年岩波書店刊「岩波講座日本通史第11巻・近世T」所収)、真栄平房昭著「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(2003年吉川弘文館刊「日本の時代史18:琉球・沖縄史の世界」所収)、赤嶺守著「琉球王国―東アジアのコーナーストーン」(2004年講談社刊)、春名徹著「アジアにおける銃と砲」(1993年東京大学出版会刊「アジアの中の日本史W:文化と技術」所収)、村井章介著「海から見た戦国日本―列島史から世界史へ」(1997年ちくま新書刊)、五野井隆史著「日本キリスト教史」(1990年吉川弘文館刊)、鈴木真哉著「鉄砲と日本人―『鉄砲神話』が隠してきたこと」(1997年洋泉社刊)、藤井正行著「信長の戦国軍事学」(1997年洋泉社刊)、名和弓雄著「長篠・設楽原合戦の真実―甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか」(1998年雄山閣刊)、真永平房昭著「鎖国日本の海外貿易」(1991年中央公論社刊「日本の近世1:世界史の中のj近世」所収)、武田幸男編「朝鮮史」(2000年山川出版社刊)、神田千里著「島原の乱ーキリシタン信仰と武装蜂起」(2005年中央公論新書刊)、前掲 長澤和俊著「海のシルクロード」などを参照した。


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