「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判21


21:江戸時代は諸産業が急速に発展した時代だった

 近世の3つ目の項目は、「産業の発達と文化の成熟」である。その最初の項は、「産業と交通の発達」であり、「諸産業の発達」「江戸・大阪・京都の繁栄」「交通路の発達と商人の台頭」の3項に分けて記述されている。
 最初の「諸産業の発達」は、農業以外の諸産業がどのように発展したのかを概説した部分であるが、教科書の記述は、きわめて形式主義的段階論に陥っており、羅列的である。

(1)諸産業の発展の基礎は複合的である

@羅列的で整合性のない教科書の記述

 江戸時代は諸産業が急速に発展した時代であったが、教科書はその理由をつぎのように断定している(p136)。

 大開発による農業の発展を受けて、他の産業も発展していった。江戸をはじめ、各地で城下町の建設が進むと、建築のための木材の需要が高まり、林業がさかんになった。(中略)肥料の干鰯の需要が高まり、房総(千葉県)では網の使用によるイワシ漁がさかんになった。また、土佐(高知県)沖のカツオ・クジラ漁、蝦夷地(北海道)でのニシン・コンブ漁、瀬戸内海沿岸の製塩が発達した。
 長崎の貿易では、銀や銅が日本の主要な輸出品だったので、(中略)鉱山業が発展した。(中略)各地で酒造業、織物、漆器、陶器などの産業も発展した。

 しかしこの記述を検討すると、農業の発展を受けて発展したことが明確に記されているのは肥料に使われた干鰯を供給するイワシ漁のみであり、他の産業は農業の発展とは無関係なものか、もしくは発展の基礎が不明確になっている。多少とも発展の基盤が説明されているのは、林業が城下町の建設が背景にあり、鉱山業が長崎貿易が背景にあると記されただけで、全体としての記述は何の整合性もない、事項の羅列になっていることが見て取れる。
 この部分の教科書の記述は、中世編でもそうであったが、産業の発展は、農業の発展→工業など諸産業の発展→商業の発展という、極めて段階論的な誤った発展史観で書かれているのだ。諸産業の発展の内的関係は、もっと複合的で相互関係を含んだものである。

A諸産業発展の様相−都市の発展と人々の暮らしの豊かさがその基礎にある−

 では、江戸時代の諸産業の発展はどのようになされたのか。少し煩雑ではあるが、教科書に示されたものを一つ一つ検証しておきたい。

(a)木が産業の基幹財であった時代−林業の発展の基礎
 江戸時代に林業が発展し、しかもそれが、計画的な伐採と計画的な植林という、現代の林業に通じる産業の展開が起きた背景には、たしかに各地で城下町が計画的に建設されたことが一因であった。
 城下町は都市計画に基づいて建設されている。その計画とは、一国における流通の拠点となる、基本的には水運の便の良い所に、一国の政治的中心であり経済的な中心ともなる大都市を、緻密な計画に基づいて建設するものである。そして多くの城下町には川または海から直接運河が引かれて、物資を積んだ船が直接町場または城の側に接岸し、物資の積み下ろしが容易に計画されている。またこの都市の運河に面したところには大規模な政庁としての城郭が建設され、その周囲に家臣団の屋敷が建設され、さらに諸商人・職人の住居がそれぞれの同業組織が自治組織としての町を形成できるように、計画的に配置された町屋が建設され、これらの周囲にはさらに、都市の住人の住む町屋や寺院が建設された。この260家余りにもおよぶ大名領国ごとに大規模な城下町が建設されたことは、莫大な木材需要を生んだことは確かである。
 しかし木材需要を生んだのはこれだけではない。鉱山業の発展もその要因の一つである。
 鉱山を建設するには、地下に大規模な坑道を掘らねばならず、坑道を維持するためには大量の木材を必要とした。また鉱石の精錬のためには大量の木炭を必要とし、さらには鉱山の周りには大規模な鉱山町が建設され、この町屋の建設にも大量の木材を必要とし、町の住人の生活のためにも多量の木炭が消費された。
 さらに木材需要を高めたものに、交通の発展、とくに水運の発展があり、さらには水産業の発展も木材需要を高めた。水運や漁業にとっては船の建設が不可欠であり、例えば酒や醤油などを入れるための桶や、取れた魚を入れるための桶、さらには、塩を作るための桶や木炭。これらの産業の発展もまた木材需要を拡大したのだ。そしてこの時代の機械はみな木製であった。従って織物業の機械なども皆木製であり、諸工業の発展もまた木材需要を高めた。
 ましてこの時代の人々の生活を支えたエネルギーは木炭であった。
 また都市の発展によって喚起された農地の大開発事業の展開もまた、木材需要を喚起している。大規模な堤防工事によって河川の付け替えや干拓事業を行うことで耕地が拡大したのだが、コンクリートや鉄骨の無いこの時代の土木工事は鉱山開発と同様に、多量の杭材として木材が消費されたからである。
 このように考えてくれば、林業の発展は都市の建設だけではなく、それも含めた諸産業の発展と人々の暮らしの改善が背景にあったと言えよう。

(b)商品作物栽培のための金肥需要の拡大と食生活の改善−漁業発展の基礎
 イワシ漁がさかんになった背景は教科書が記述したように、肥料としての干鰯需要の高まりであり、干鰯はこのころ盛んに栽培された綿やタバコや藍などの商品作物栽培のために必要であったからだ。そして当初これらの商品作物栽培が盛んであった近畿地方の需要をあてこんで近畿地方の漁民がどんどん鰯を取ると海が荒れ、近畿地方の漁民(主として紀州・和歌山)は関東・東北や四国・九州まで出漁して鰯をとり、干鰯に加工して大阪に転送した。こうして網を使って大量に鰯をとる漁法が全国的に広がって行くのだが、しだいに商品作物栽培が全国化するに従って各地の漁民もまた、網を使った鰯漁に参加し、鰯漁は全国的に発展したのだ。
 また蝦夷地でのニシン漁は当初は身欠きニシンなど食料としてのニシン生産が目的であったが、18世紀の中頃になると、商品作物栽培のための魚肥である干鰯が慢性的な不足状態となり、代って干しニシンや〆粕などが肥料として使われるようになった。特に蝦夷地から西回り航路を使って直行できる近畿地方の綿栽培地域には、蝦夷地で作られたニシンの絞り粕が大量に持ちこまれてその発展を支え、そのために蝦夷地に、アイヌ民族や和人の出稼ぎ労働者たちの奴隷労働に基礎を置く、商人請負いの魚場が大量に設けられたのであった。
 さらにこの時代に発展したクジラ漁もまた、農業の発展を背景にしていたのだ。
 開墾が進んで農地が拡大するにつれて、害虫の被害が深刻となった。これの対策として享保年間(1716〜1736)に鯨油を水田にまいて稲の葉についているウンカを叩き落して殺す方法が発見され、これによって鯨油の需要が高まったのであった。
 もちろん漁業の発展が農業の発展を支えただけではなかった。
 クジラは肉も食用として利用されたし、鯨油も安価な灯油として利用された。そしてクジラの髭はカツオ漁の釣り針や細工物にも利用された。さらに鰯やカツオも食用として利用されたわけで、人々の暮らしが豊かになり、食生活が改善されたことが、これらの食用としての魚の需要も高めたのであった。また蝦夷地のニシン漁の発展の背景には魚肥生産だけではなく、貴重なタンパク源として早くから東北地方ではニシンが食べられ、大阪でも18世紀後半の天明年間(1781〜1789)に大衆相手に身欠きニシンを食べさせる「煮売店」も出来、大量に消費されたことも背景にあった。さらに蝦夷地のコンブ漁の発展の背景には、食材としての利用の拡大や出汁としての利用の拡大が背景にあり、さらには長崎などから中国向けの輸出品として珍重されたことも背景にあった。
 さらにイワシ漁・カツオ漁・クジラ漁の発展は相互的であった。イワシはカツオの餌であり、生きたままのイワシを網で取る漁法は、カツオの生餌としてのイワシを取る過程で生まれた漁法であったし、イワシが来る漁場はカツオの漁場であり、イワシとカツオが来る漁場は、これを餌とするクジラが来る漁場でもあったので、イワシやカツオを取る丈夫な大型漁船はまた、クジラ漁にも利用された。
 また漁業の発展の基礎には、従来の藁で編んだ網にかわり、綿栽培の拡大で丈夫な綿糸で織った網が安価に供給されたこともその背景にあった。
 漁業の発展の背景には魚肥需要を拡大した商品作物栽培の発展と都市において高級な料亭や大衆相手の煮売店などが出来たり、人々の暮らしが豊かになって、食生活の主役として魚が大量に消費されるなど、多様な背景があったのだ。

(c)大都市の成立と海運業の発展−製塩業発展の基礎
 さらに江戸時代における製塩業の発展の背景も複合的であった。
 江戸時代までの塩生産は、各地の遠浅の海や浅海の入り江の自然海岸から潮の満ち干によって生じる高濃度の塩を含んだ砂をとり、それに塩水をかけて高濃度の塩水を作って煮沸して塩を取る、入り浜式製塩法が小規模に行われていた。そしてその流通範囲は、輸送手段が発展していなかったために塩田の周囲と徒歩で持っていける範囲であり、中世の海から遠く離れた地域に住む人々にとって塩の入手は、とても困難なものであった。
 この状況に劇的な変化が生じたのは、17世紀後期のことであった。
 正保年間(1644〜1648)から元禄年間(1688〜1704)の末にかけて、瀬戸内地方に新方式の塩田が各地で建設された。自然の浜に手を加えて、堤防と水門を設け、これによって海水を人工的に塩田に引き入れて塩を大量に生産する方法の出現である。これによって飛躍的に塩の生産量が増大し、塩の値段も安くなって、多くの人々が塩を比較的簡単に手に入れられるようになった。
 この瀬戸内における塩業発展の背景は、江戸・大阪・京都などの大都市や全国に城下町が多数出現したことと、各地に大規模な鉱山町が出来て、塩の需要が高まったことである。そして江戸・大阪・京都には塩の中央市場が成立し瀬戸内の塩田から運ばれた塩が売り買いされ、そこからさらに全国の市場へと運ばれたのだ。さらに塩需要の増大に対応して塩田が飛躍的に生産量を増した背景には、塩を大量に遠隔地まで運ぶことが可能になったことがあるだろう。北国と大阪市場を結ぶ西回り航路が開発されたことや、大阪と江戸を結ぶ航路の開発や北国と江戸を結ぶ東回り航路が開発され、さらにそれぞれの航路と連結して、各地の川を利用して荷物を運ぶ、全国的な海運業の発展である。
 こうして瀬戸内地方に発展した塩田で生産された塩は、全国に安価に運ばれたのである。そして塩需要の一層の拡大は、各地に塩田を造成させ、宝暦年間(1751〜1764)には塩の生産過剰によって塩価格が暴落し、各地の塩田の休止・廃止や操業期間の短縮を招くほどの盛況を呈したのであった。

(d)国内・国際流通の支払い手段としての金銀銅−鉱山業発展の基礎
 鉱山業の発展の背景は、銀や銅が日本の主要な輸出品であったからだと教科書は説明している。しかし「輸出品」と捉えてしまうと、ことの性格を誤認する元であろう。
 先に「鎖国」の項で見たように、中世末からの日本は、東アジア交易網に積極的に参加し、中国・朝鮮・東南アジアやインドからの品物をどんどん輸入した。その輸入品の主なものは、生糸・絹織物・綿織物・陶磁器・染料・香料・砂糖・薬種など多種多様なものであった。しかし当時の日本には海外に輸出する物産に乏しく、扇や屏風・蒔絵などの工芸品や硫黄を除けば、豊富に産出する金・銀・銅しかなかった。そして金・銀・銅は、それ自身が商品であると同時に、どの国においても支払い手段(通貨)であり、特に金と銀とは国際的な通貨として流通しており、銅は中国国内の通貨であって、銅をあまり産しない中国にとっては不可欠の財貨であった。
 つまり中世から近世の日本が金・銀・銅を主要な輸出品としたということは、大量の輸入品をこれらの財貨で購入していたということなのだ。当時の国際貿易においては、日本は完全に輸入超過で、貿易をすればするほど財貨が海外に流出する事態だったのだ。
 だから戦国時代から、各大名は国際的支払い手段としての金・銀・銅の増産に励み、各地であ新たな鉱山を開発するとともに、朝鮮から灰吹き法を導入して銀の増産を可能にし、さらにヨーロッパから銀アマルガム法という新式の精錬法を導入して銀鉱石から銅を分離することを可能にし、これらの財貨の増産に勤しんだのであった。そして同時に戦国時代から江戸時代は、農業・商工業が飛躍的に発展した時代でもあった。日本国内においても金・銀・銅は支払い手段として重要視されていたのだから、各地で鉱山開発が進んだのは当然のことであり、戦国大名も、そして江戸幕府も、その財貨を元に貨幣を鋳造し、商品流通の円滑化を図ったのは当然のことである。
 しかし金・銀・銅はいつまでも無尽蔵ではありえない。そして、急速な鉱山開発は次第に産出量を減少させ、鉱山開発のための森林伐採は、各地で洪水の多発などの大災害を引き起こし、金・銀・銅の国外への流出を止めることが必然的に要請されてくる。だからこそ後に見るように、輸入品の国産化や新たな輸出品の開発によって、財貨の海外移出を減らし、鉱山の乱開発を止める必要が生じたのであった。

(e)都市の発展と豊かさの拡大−醸造業発展の基礎
 醸造業の発展もまた、都市の発展と人々の暮らしの豊かさが背景にあった。
 醤油は室町時代に、紀伊の国(和歌山県)由良に金山寺味噌の製法が中国から伝わり、そのたまり汁が新しい調味料として紀伊湯浅で販売されたことで生まれた。そしてこれを元にして溜り醤油・濃口醤油・薄口醤油など、様々な種類の醤油が生まれ、徐々に全国に広がって行った。
 この醤油の製造が大規模な企業的事業として行なわれるようになったのは、天文年間(1537〜55)の紀伊湯浅であるが、やがて大規模な醤油醸造業は、西国では河内(大阪府)西宮や播磨(兵庫県)龍野に伝わり、東国では17世紀末から18世紀初に銚子や野田に伝わった。そしてこの醤油醸造業の広がりの背景には都市の成立があり、東国の場合では、江戸という大都市が成立したことが背景であった。やがて商品作物栽培・販売や手工業製品販売で農村も豊かになるとともに醤油の使用が農村にも広まり、関東では19世紀になると、野田や銚子の醤油は江戸だけではなく、関東一円に販売されるようになり、関東の各地に醤油蔵が成立するようになっていった。また醤油醸造業の発展の背景には、全国的に小麦と大豆の生産が盛んになったこともあったわけである。
 また清酒の醸造も江戸時代を通じて発展している。
 清酒の生産は室町時代に始まり、主な産地としては、京都・坂本・奈良・堺・鎌倉・博多・西宮などがあった。しかし江戸時代に入り各地に都市が拡大するとともに、清酒の製造も次第に全国に広がって行き、伊丹・池田・灘などが銘酒の産地として栄えて行った。また清酒醸造の拡大の背景には、米の生産量の拡大と、しだいに酒造りに向いた品種の改良が行なわれたこともあった。

(f)原料栽培の拡大と豊かさの拡大−織物業発展の基礎
 さらに織物業の発展の背景にも、都市の発展と人々の暮らしが豊かになったことがあった。
 高級織物の代名詞である絹織物は、中世においては原料の生糸も中国からの輸入であったため、国産の西陣などの絹織物も価格が高く、公家・武家や豪商などの上層の者にしか手に入れられないものであった。一方中世に朝鮮から綿の栽培技術がもたらされて綿織物は次第に人々の冬着として定着するとともに、更紗や縞木綿などのインド産の薄手の輸入綿織物も晴れ着として珍重されていった。
 しかし領国の統一と平和の到来は人々の暮らしを豊かにし、とりわけ都市が各地に発展したことは、絹織物や綿織物の需要を拡大し、このため当初近畿地方で行なわれていた養蚕や綿花栽培も各地に広がり、全国で生糸や綿糸の生産が拡大していった。
 このような状況を背景に全国で織物業が発展したのであった。
 中でも絹織物業は、輸入絹織物の絶えざる模倣として京都西陣で発展していたが、18世紀中頃になるとその進んだ技術が各地にもたらされ、岐阜や近江長浜、そして丹後で絹織物が作られ、さらには関東でも18世紀後半になると桐生や足利でも絹織物が作られ、これらの織物が京都西陣に原料布として運ばれ加工されるに至っている。さらに生糸生産が全国に広がったことにより、各地でも平機と呼ばれる簡便な織機で安価な紬という絹織物が織られて村や町の庶民層でも購入できるようになり、各地の特産物となっていったのだ。
 また麻織物や綿織物も需要の拡大とともに各地で勃興し、織物業は江戸時代通じて発展し、明治維新後には日本を代表する輸出産業となっていったのである。

(g)陶磁器・漆器生産発展の基礎
 陶磁器生産の発展の背景には、茶の湯や立花・生花の広がりと人々の暮らしが豊かになったことから、日常の生活にも陶磁器が使われるようになったことがある。
 磁器は中世の日本では生産できず、すべて中国や朝鮮からの輸入であった。また陶器は中世から常滑や備前、そして美濃や瀬戸で作られ、ここでの輸入陶器の模倣がなされて全国に販売されていたが、これもまた高価であり、一般にはあまり使われるものではなかった。しかし中世末期から茶の湯が広がり、また領国の統一と平和の到来は人々の暮らしを豊かにし、江戸時代中頃元禄時代になると、茶の湯や生花も都市や村の大衆にも広がり、人々の日常の暮らしの中で焼物が広く使われるようになっていった。
 こうした需要の拡大を背景にして、江戸時代は陶磁器生産が盛んになったわけである。
 磁器生産は、秀吉の朝鮮侵略のおりに拉致されてきた朝鮮陶工が肥前(佐賀県)有田で磁器生産に向いた陶土を発見したことから17世紀の初頭には日本でも始まり、この技術が18世紀になると各地に伝えられ、しだいに磁器生産も広がった。また陶器の生産も茶の湯が盛んになるにつれて各地で広がり、中世以来の伝統を持った常滑・備前・美濃・瀬戸などの窯以外にも、各地に大名の経営する御用窯や豪商が作った民窯など多数の窯が作られ、さまざまな特徴を持った茶器や日用雑器が作られて行った。この陶器窯の中でも、薩摩焼と萩焼は、朝鮮から拉致されてきた陶工によって始められたことも知られている。
 また漆器の生産も、陶磁器と同じ背景によって、江戸時代には各地にその技術が広がっていった。会津塗は天正年間の終わりに近江から、さらには18世紀後半の寛政年間には京都から、それぞれ木地作りや塗りや金箔貼りなどの技術がもたらされて改良され、また和歌山の黒江塗も、18世紀の中頃に大阪から技術がもたらされて発展し、長崎を通じて海外にも販売された。さらには、若狭で盛んであった漆器技術が、17世紀後半の寛文年間には津軽弘前にも伝えられて津軽塗が起こり、中世から盛んであった輪島塗もまた17世紀後半に地の粉が発見されてさらに発展した。

 以上それぞれの産業の発展のさまを個別に見てきたが、その背景にあるのは、根本的には大都市の成立による需要の拡大が原因であった。そして、この市場をめがけて農業の大開発による食料の大増産や商品作物栽培が拡大し、これに伴って、魚肥産業としての漁業や、製塩業・林業・さまざまな手工業が発展したのである。そしてこうした産業の発展によって村も豊かになって都市的な生活が村にまで広がり、そのことがまた需要を拡大して、さらに諸産業を発展させる。
 またこのような大都市の消費需要を当てにして諸産業が発展することを支えたのが交通の発展であり、諸産業の発展がまたさらに交通を発展させるという具合だったのだ。
 産業の発展を、農業の発展→手工業の発展→商業の発展といったような機械的な段階論で捉える、「つくる会」教科書の記述には、なんの根拠もないのである。

(2)輸入品国産化・輸出代替産業の発展

 また諸産業が発展した背景にはこれ以外にも、貿易の拡大発展と言う問題があることも、上の考察からも明らかである。
 金・銀・銅の財貨が増産されることを背景にして、中世から近世初頭の日本は、諸外国からさまざまな財貨を購入し続けた。しかしこれは国富の海外流出を招き、やがて国を貧しくする元である。だから輸入品を国産化する動きが始まり、同時に財貨に代る輸出代替品産業の創出が求められてくるわけである。
 近世における綿織物業・絹織物業の発展は、綿織物や絹織物の国内需要が高まったことを背景にして国内で養蚕・綿栽培・製糸業を発展させ、さらに中国から高度な織りの技術を輸入改良して達成した、輸入品国産化運動の典型であった。
 先にも見たように、京都西陣の絹織物は舶来品の模倣品として発展したが、その原料糸は全て中国からの輸入白糸であり、このため長崎を通じた銀の国外流出はかなりの量に上っていた。そこで幕府は1670年代から1680年代にかけて徹底的に銀輸出の抑制策を講じ、中国船やオランダ船の取り扱い量を減らすとともに、銀の輸出そのものを禁止していった。そのため長崎を通じた白糸の輸入は激減し、わずかに中国商人の密貿易に頼るのみになった。このため国内絹織物業は深刻な原料糸不足に見舞われ、その対策に追われた。
 この対策は根本的には国内で生糸生産を盛んにし、輸入白糸に代るだけの質と量を備えた生糸を供給することであったが、国内の養蚕技術がまだ低位に止まっていたため、国産生糸の質は、輸入品に遠く及ばなかった。このため当面とられた措置は、幕府の統制が及ばない対馬と薩摩を経由する道筋から中国白糸を手に入れることであった。しかし朝鮮や中国商人は、このころ幕府が鋳造した銀貨の銀含有量が低い(慶長銀の銀80%から、元禄銀・64%→宝永銀・50%→40%→32%→20%へと低下した)事を理由にして受け取りを拒否したため、薩摩・対馬両藩は幕府に願い出て、この口を通じた貿易のみは、かつての慶長銀と同様な銀80%という高品位の銀貨を特別に鋳造してもらい、これによって白糸を輸入する措置をとったのだ。このため幕府の銀輸出抑制策は効果を発揮できなかった。
 国産生糸の品質が改善されて輸入白糸と同等なものが生産できるようになったのは、18世紀も半ばごろのことであり、これによってようやく白糸の輸入はとまり、貿易を通じた銀の海外流出はとまったのであった。こうして国産絹織物業は、国内需要の高まりにも十分対応できるようになり、その技術が近世後期には全国に広がって、各地で高級絹織物がつくれるようになった。
さらに、更紗や縞木綿などの輸入綿織物の模倣も国内で行われていた。とくに京都西陣では、18世紀の後半までインド産の細糸を輸入して、サントメと呼ばれた近世初期に輸入された織りの良い縞木綿を模倣する試みが続けられた。そして、この技術が各地に伝わって、近世後期には各地で縞木綿が製造された。また更紗も継続的に模倣が行われ、これも同じく近世後期には染色技術の発展を背景に、和更紗と呼ばれる製品を生み出し、幕末の開港後には、インドからの細糸綿糸の輸入により、海外に輸出できるまでの発展を遂げていったのだ。
 また同じことは、タバコや砂糖という輸入品に対しても行なわれた。タバコは近世後期にほぼ自給され、砂糖も近世後期には、薩摩藩が植民地とした奄美諸島や琉球だけではなく、讃岐(香川県)、阿波(徳島県)、土佐(高知県)、和泉・河内(大阪府)などでも製糖が行われ、白砂糖もつくられるようになり、ほとんど国産品で賄えるまでになっていたのだ。
 また肥前(佐賀県)伊万里における磁器生産は、当初は中国や朝鮮からの高価な磁器の輸入代替産業として朝鮮から拉致された陶工たちによって移植されたものであった。しかしその後、中国の色絵技術が取り入れられ、さらに1640年頃には酒田柿右衛門によって赤絵技術が確立されて、伊万里焼は輸入代替産業から、独自の美を持ったものにと転化する。そして中国における、明末から清初の混乱によって中国磁器が充分に供給されなくなったことを背景にして、伊万里焼は西欧にも輸出されるようになり、1659(万治2)年以後は、オランダ東インド会社の注文に応じて、西欧人が好む意匠の磁器すら生産し、大量に輸出するようになったのだ。伊万里焼の輸出の最盛期は、1690〜1700年頃、元禄時代であった(各地で盛んになった漆器も同様にして輸出品としても珍重された)。
 さらに蝦夷地から産出するコンブ・干鮑(ほしあわび)・煎海鼠(いりこ)が産業として発展した背景には、国内需要の拡大と、長崎からの重要な輸出品として日本から海外への銅の移出量を減らすために注目されたことであった。幕府は、1685(貞享2)年に中国船との貿易額を限定し、それまでの銀に代って銅を輸出し始めたが、銅輸出額が元禄期(1688〜1703)には総輸出額の平均71%を越えて銅の海外移出が拡大しつづけ、国内における貨幣需要にも応えられなくなっていった。このため1698(元禄11)年には、輸出定高の銅すら確保することが困難になり、不足分の銅の代りとして俵物などの諸産物を指定した。これがきっかけとなって中華料理の食材としてのコンブ・干鮑・煎海鼠の俵物が重要視され、長崎口や琉球を通じて中国に輸出されるようになったのだ。こうして蝦夷地産の海産物は全国流通するようになり、輸出品としてだけではなく、日本国内での需要も高まり、産業として大きく発展することとなったのである。
 こうして近世日本は、近世を通じて輸入品の国産化運動を進め、幕末の開国後は、逆にこれらの製品をアジアに輸出できるようになっていた。これが近代において日本が、西欧と対抗してアジアを植民地にするまでに発展した背景であり、その基礎には官民あげての殖産興業の努力と、半ば植民地と化した蝦夷地や奄美諸島・琉球からの富の収奪も、発展の基盤であった。
 近世日本の経済は、中世以上に、東アジア交易網を通じて、世界交易に直結していたのであるから、産業発展の背景として、貿易の問題も看過できない。しかし残念ながら「つくる会」教科書にはこの視点はなく、貿易と諸産業発展の関係、さらには植民地と諸産業発展の関係については、まったく触れられていないのである。

(3)江戸時代の殖産興業政策の実施

 そして江戸時代において諸産業が発展した背景には、それぞれの産業に従事する人々や商人の活躍があっただけではなかった。農業の大開発を幕府や藩も支えたように、諸産業の発展の背景にも、幕府や藩の殖産興業政策があったのだ。
 林業ではその木材需要の拡大を見越して、藩によって重要な森林が藩有林とされ、計画的な植林が行なわれるとともに、藩有林の無断伐採が禁止されるなど、森林資源の保護が行なわれて、林業発展の基礎を築いていた。これは村共同体が保有する共有林の私的伐採が村掟によって禁止されていたのと同様な処置である。
 また、漁業の発展の背後にも、幕府や藩の動きが存在した。漁業先進地域として全国に出漁して各地で鰯漁を展開していた紀州(和歌山県)の漁民に対しては、紀州藩は、藩の御用商人である干鰯問屋を通じて他国稼ぎを奨励し、他国への出漁に対して補助金すら与えていた。さらに、干鰯需要が高まって魚資源が枯渇しつつあった近畿の海に代って房総の海が注目されると各地から出漁する漁民が増えたが、幕府は1632(寛永9)年に、これらの海で鰯漁に従事する、安房・上総・下総・相模・伊豆・紀伊・和泉・摂津出身の1340帖もの鰯網に対して、総額14万8000両の奨励金を出し、鰯漁の拡大と干鰯生産の増大を奨励している。そして鰯漁を中心にして漁業が発展して行くにつれて、諸藩もまた、近畿地方の先進漁法の導入に努め、漁民の自藩への移住を奨励したり、先進漁法の地元漁民への伝習を奨励したりしたのである。
 さらに製塩業では、初期の展開は漁民と商人との連携での小規模な塩田開発であったが、生産過剰で塩田がつぶれた後の江戸後期においては、塩田は遠浅の海の沖を埋めたてて大規模な塩田を造成し、河を通じた陸地からの土砂の流入や悪水の流入を避けて塩を大量に生産する方式が取られた。この後期入り浜塩田の建設では、諸藩も積極的な役割を果たしている。例えば塩生産の中心であった瀬戸内地方の讃岐(香川県)では、高松藩が大規模な財政支出を行って、100町にも及ぶ大規模な讃岐坂出塩田を4年半の年月をかけて造成した。この塩田開発には193万8600人の人夫が動員され、開発費は銀で2137貫、金に換算すると3万2885両の高額であり、このうちの約2万両は藩債として諸問屋から借金してまかなったものであった。そして出来あがった塩田は藩有とし、藩は地主として製塩に従事する浜人を小作人とし、約17.5%の年貢を徴収して藩財政の足しにしたのであった。
 このような幕府や藩が産業の発展に寄与したことは、鉱山業や織物業や漆器・陶磁器業、さらには商品作物栽培でも同様であった。鉱山は直接財貨を生み出すものであるので全て幕府・藩の直轄経営であり、鉱山開発や維持に多額の財政支出を行ったが、実際の経営は山師などの開発業者に請負わせて運上金を納めさせて経営した。また織物業や漆器・陶磁器業でも、先進地域からの技術の導入を藩が奨励したり、直接藩が経営するものもあり、陶磁器生産においては、藩直営の御用窯が大きな位置を占めていた。また砂糖生産の奨励なども、藩や幕府も行った。
 近世は中世以来の商工業が発展した時代であったのだから、幕府や藩も、農業生産だけではなく、さまざまな産業の発展にその基礎を置くのは当然のことである。しかし残念ながら「つくる会」教科書にはこの視点は弱く、諸産業の発展の背後に、幕府や藩の殖産興業政策があったことにはほとんど触れられていない。

:05年8月刊の新版における諸産業の発展についての記述は多少改められている(p110〜111「産業と交通の発達」)。すなわち鉱山業のところでは、生産した金銀銅が「ヨーロッパにも輸出された」ことが明記され、注として、「日本の金・銀は、当時のヨーロッパ経済に影響を与えるほどの位置をしめていた」と記述されている。しかし日本産の財貨の影響力はヨーロッパに止まらず中国にとっても重要であり、銀や銅は世界の産出額の3分の1を占めていたことも明記すべきであろう。さらに改善されたこととしては、旧版はただ諸産業が発展したとみ記述したが、新版では資料として掲載された「江戸時代の交通路と都市」の地図に、全国の主な特産品が種別にその名称も含めて明記されたことがある。農産物では紀州のみかんと木材、阿波のあい、宇治の茶、奄美大島の砂糖、木曽のヒノキ、甲斐の葡萄、駿河のみかんと茶、南部の木材など。海産物では、蝦夷地のニシンとコンブ、房総のイワシ、江戸湾の浅草のり、紀伊熊野のクジラ、土佐のカツオとクジラ、瀬戸内の塩。焼物では、伊万里焼、萩焼、備前焼、清水焼、九谷焼、瀬戸焼。漆器では、南部ぬり、会津ぬり、輪島ぬり。織物では、結城紬、越後ちりめん、三河もめん、西陣織りと友禅ぞめ、丹後ちりめん、伊予がすり、小倉もめん、久留米がすり、薩摩上布。その他工芸品として美濃がみ、越前がみ、備中おもて、津和野がみなどがあげられ、さらに江戸しょうゆ、銚子しゅうゆ、灘の酒など、多様な特産品が明記されている。これはそれぞれの特産品の由来を調べると、特産品が始まった年代やその背景に藩や幕府の殖産興業政策があったことや、貿易の問題があったことを知る手がかりとなり、優れた資料である。しかし改善されたのは、これだけで、産業発展の背景を相変わらず大開発による農業の発展とするなど、機械的な記述は改められてはいない。

:この項は、田代和生著「17・18世紀東アジア交易における日本銀」(1991年リブロポート刊・2001年藤原書店再刊・川勝平太・浜下武志編「アジア交易圏と日本工業化ー1500‐1900」所収)、田島佳也著「近世紀州漁法の展開」・岡光夫著「塩業史にみる技術と経営」(1992年中央公論新社刊・「日本の近世」第4巻「生産の技術」所収)、玉井哲雄著「都市の計画と建設」(1993年岩波書店刊・「講座日本通史」第11巻「近世T」所収)、田島佳也著「海産物をめぐる近世後期の東と西」(1994年中央公論新社刊・「日本の近世」第17巻「東と西江戸と上方」所収)、佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」(1995年講談社現代新書刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、中岡哲郎著「日本近代技術の形成−<伝統>と<近代>のダイナミクス」(2006年朝日新聞社刊)、小学館刊「日本大百科全書」の該当項目などを参照した。


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