「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判22


22:都市の発展が平和で豊かな近世社会を築いた

 「産業と交通の発達」の二つ目の項目は「江戸・大阪・京都の繁栄」である。
 近世・江戸時代は「都市の時代」と呼んで過言でないほど新たな都市が次々と生まれ発展した時代であり、この都市の拡大を核として、その巨大な市場を目掛けて農業・林業・水産業・工業が発展し、交通の発展がそれを支えた時代であった。そして教科書がここで記すべきことは、このような都市を中核とした時代の発展の様であったのだが、教科書は以上のことにはまったくふれず、江戸・大阪・京都の三都それぞれの性格について記述したあとに、最後に簡単に次ぎのように記すのみであった(p138)。

このほかにも、各地の城下町や門前町、宿場町が、それぞれの地域の特性と伝統をいかして発展していった。

 そして付属する資料の「江戸時代の交通路と都市」という図表に、三都や伝統的な都市や新たに出来た都市で幕府が支配した、函館・新潟・相川・日光・敦賀・山田・堺・長崎の都市に加えて、多くの城下町を図示している。それは、松前・弘前・盛岡・仙台・秋田・山形・米沢・会津若松・白河・水戸・村上・長岡・高田・松代・甲府・金沢・福井・名古屋・和歌山・小浜・姫路・鳥取・津山・岡山・広島・松江・萩・徳島・高松・高知・松山・宇和島・小倉・福岡・佐賀・平戸・柳川・熊本・対馬府中の各城下町であり、これらは、20万石以上の国持ち大名と10万石を越える準国持ち大名の城下町、さらには家門大名や有力譜代大名の城下町という、主たる城下町を示したものである。そして、青森・石巻・酒田・小木・直江津・宇都宮・銚子・三崎・下田・下諏訪・兵庫・下関・佐賀関・山川の各宿場町・港町を挙げている。
 しかし残念ながら、これらの町の多くが、近世・江戸時代に入って計画的に作られた町であり、これらの町が交通網で結ばれたことで、諸産業の大規模な発展が実現したことについては何も触れられていないのである。

(1)綿密な計画と構想によって建設された城下町

 江戸時代の城下町の多くは、先にも見たように、この時代になって新たに、綿密な計画と構想によって建設された人工的な都市であった。
 城下町は、街道沿いの海に面した所か、内陸であれば河川の水運の便の良い交通の要所を選び、一国の政治的中心としての政庁である城を中核として、その回りに家臣団の屋敷地と職人・商人の同業者組織としての町を計画的に配置して作られた町である。そしてこの町は、一国の中核的な市の役割も兼ねており、しばしば周辺の重要な市町を移転させて城下町に組みこんで作られてもいた。さらに場合によっては、街道すらも付け替えて、新たに作られた城下町を通って人や物資が行き来するようにも計画され、大概は、物資輸送を担う船が、町の中心部まで来れるように、河川や海から町の中に運河が開削され、入り口には大規模な船着場や港を備えていたのだ。
 また城下町の構造は、政庁である城の周囲に家臣団の屋敷を集中させ、その外部に街道にそって職人や商人の町を建設し、さらに町の周縁部に町の墓地であり葬送や祭りの場でもあった寺や神社を建設するというものであった。そして町人の住む町場は、中世以来の商業都市の形態である、街道の両側に家屋が並び長方形または正方形の一区画をなす自治都市としての町の形態をとっており、その建設の当初から、中世以来の町の自治が行われるように計画することで、多くの職人や商人の定着を図ったものであった。
 こうして出来た城下町の多くは、まったく新たに建設されたが、旧来の町を利用して作られた場合も、上記のような計画に沿って大規模な再開発がなされて、新たに建設されたに等しいものであった。そして町の規模は中世の町よりもさらに大きなものであり、周辺や遠隔地から職人や商人を呼び寄せ、さらに継続的に周辺農村からも人の移動を促して町が拡大されたもので、都市の住民は新来の者が多数を占めていたのであった(主な城下町の規模については、【20】の1に資料を掲載した)。

(2)近世になって作られ発展した三都

 この事情は、三都と呼ばれた江戸・大阪・京都でもまったく同じであった。
 江戸は、徳川家康が1590(天正18)年に江戸に入る前からも、関東管領上杉氏の重臣・太田氏の居城がある関東地方の重要な政治上・流通上の結節点をなす町で、町中を奥州街道が通り江戸港と浅草寺門前町を控え外郭に品川港を控えてはいたが、その規模は小さく、民家の数はわずかに100程度であったという。そして家康の入城後も、城下町の規模は依然として小さく、江戸城大手門から本町通り・江戸港を経て浅草寺門前町に至る南北3km程度の細長い町であった。それが1603(慶長8)年の江戸幕府開府後に大規模に改造され、台地を削って日比谷入江や海岸部の埋めたてを敢行し、神田・日本橋・京橋という江戸下町の町場を形成するなどの開発が行われ、1609(慶長14)年にスペイン人で前フィリピン諸島臨時長官のロドリゴ・デ・ビベロが来着した際には、人口15万人を数える都市へと成長していたという。そして江戸はさらに拡大し、域内の沼地を埋めたてたり、さらに海岸部の湿地を埋めたて、17世紀末の元禄のころには35万、そして幕府によって始めて人口調査が行われた1721(享保6)年には、町方支配地だけで50万人の大都市へと変貌した。これは寺社地や武家人口を入れれば100万にも達するものと考えられ、わずか100年程で世界有数の都市が新たに出来あがったわけである。
 事情は大阪でも同じである。
 大阪は石山本願寺の寺内町として中世後期に発展し、淀川河口には渡辺の津、そして南部の天王寺の門前町が栄えた地域であり、13kmほど南には、中世の国際貿易港・商業都市である堺を控えていた。ここの石山本願寺跡に豊臣秀吉が新たな城を建設し、その周囲に計画的に町作りを行って誕生したのが大阪であったが、その始まりは、1583(天正11)年のことであった。この町の建設に際しては、城の南に続く上町台地上に武家屋敷と町場が建設されたのだが、そのときに、台地に東西から入りこむ谷を埋めたてて町場が建設され、その盛り土の厚さは、所によっては10mにも及ぶ大規模なものであった。そして大阪の町は大阪の陣での豊臣氏滅亡後も拡大を続け、町人の請負い仕事によって、台地の西に広がる淀川の沖積地を埋め立てて、同時に行く筋もの運河が開削されて、堺に代る船着場や市場町などが建設されたのであった。こうして作られた大阪の町は、18世紀初頭1709(宝永6)年には町人だけで38万人を数え、さらに18世紀末には町人だけでも41万人の巨大都市へと発展したのだった。
 京都も近世になって発展した町である。
 京都は古代以来の都市であり、海路・陸路を使って全国の物資が集散される地ではあるが、応仁の乱で焼失する前後は、内裏があり公家館・武家館の散在する上京と、職人・商人の集まった下京に分かれ、間を室町通りがつなぐという南北に長い構造の町であった。そして当時の規模は、宣教師ルイス・フロイスの証言によれば、8000から1万の人口を擁する町であった。この町が大きく変貌するのが、1586(天正14)年に豊臣秀吉が始めた、町の北西部の旧内裏跡である内野に聚楽第という大規模な城郭の建設に伴う、急速な町割の変更であった。秀吉は聚楽第の周囲に大名屋敷を建設し、それらが竣工した後の1590(天正18)年には京都の大規模な都市改造に着手している。秀吉は下京の各所に散在した寺を北西部に集めて寺町を造成し、同じく上京の各所に散らばっていた公家屋敷も御所周辺に集めるなど、大掛かりな替地を実行し、さらに従来正方形の街区を形成していた町の真中に南北に新たな街路を建設し、町を長方形のものとして、今まで畑地などに使われていたところも新たに町場とするなどし、そこに新たに各地から人を集めて町を拡大した。その結果、1572(元亀3)年には戸数1万・町総数130程度であったものを、戸数3万の町へと発展(フロイスの記録による)させた。記録によると、1634(寛永11年)には総戸数3万5830、1637(寛永14)年には総戸数3万7204にも至ったのだ。そして以後も京都は拡大を続け、1715(正徳5)年には、戸数は洛中3万9649、洛外5258戸、総計4万4907を数え、人口も町方だけで30万2755人、洛外の4万1624人を加えれば総人口34万4379人。これに僧侶や武家・公家を加えれば、総人口は40万にも至ったのである。近世京都もまた、近世初頭の17世紀を通じて新たに作られた都市だったのだ。

(3)都市の拡大が生み出した経済効果

 こうして近世初頭、慶長期から寛永期にかけて三都を始めとして各地に城下町が新たに建設され、それがさらに17世紀を通じて拡大発展し続けたのであった。そしてこの都市建設は、その中心の大規模な城郭建設と同時に、いくつもの大寺院の建立や大きな町場の建設や港・運河の建設が行われた。さらに、都市を洪水から守るための河川の付け替え工事や、海岸部の低湿地に町を作ったために必要な上水を引く水路建設なども伴い、これらの工事に際しては、大規模な自然改造を伴う大規模なものであった。またこの都市建設に続いて新田開発や鉱山開発、さらには塩田開発などの大開発が続いていったので、近世初頭は、都市の開発に始まる大工事の連続の時代であった。
 では、これらの大工事が生み出した経済効果はいかばかりであったろうか。
 工事には、城の石垣や運河の石垣を築くため多量の石の切り出しと運送が必要であり、さらにこれらの石垣の基礎を固めるためには大量の木材も必要である。そして大規模な城郭や寺院、そして町屋の建設にも膨大な資材が必要となり、各地から膨大な資材が購入されたことであろう。さらに多数の職人や人夫が動員され、彼らに支払われる賃金や食料もまた膨大な規模に上ったことであろう。だが残念ながらこれらを示す資料がないので、全体としての経済効果を算定することは難しい。
 ここでは多少とも資料が残された、工事に動員された人夫の実態を考察しておこう。
 秀吉による京都大改造や大阪城と城下町建設については、ルイス・フロイスが次ぎのように記録している。それによると大阪城と町の建設には、5万ないしは6万の人夫が長期にわたって働かされ、京都上京の大改造と聚楽第建設でも5・6万、さらには淀城の建設にも5万人も動員され、これと並行して京都に方広寺の大仏と大仏殿の建立や伏見城の大普請も行われた。そしてこれらの人夫の全てが夫役(ぶやく)で動員されたものだけではなく、「領主たちの中には、領地から連れてきた者の外に、金を払って雇う者に対してだけでも、毎日130クルサード支出したものもいた」とフロイスは記録している。人夫は夫役で動員され食料を支給されて働く百姓だけではなく、賃金を貰って働く日雇い人夫もまた多かったのだ。
 また、江戸城と城下町の建設では、1618(元和4)年・1620(元和6)年・1629(寛永6)年・1635(寛永12)年・1636(寛永13)年の大改造は、動員された大名家が212家、総石高で1946万7000石に及んだ。そしてこの大名家の人夫動員は、1000石につき1人の割合であったので、人夫総数は1万9467人。この多人数の人夫もまた、夫役で動員した百姓と、日用頭や人宿と呼ばれる口入屋を通じて雇われた日雇い人夫であったのだ。さらに大阪の陣以後の大阪城大改造には2万1707、京都二条城には2533人の人夫が動員されている。そしてこれらの工事に際しては、重要な技術を要する個所は夫役で動員した百姓を大名家臣が直接指揮して行い、これ以外の工事は、日用頭に指揮させて日雇い人夫に建設させたといわれている。
 これらの日雇い人夫には、どの程度の賃金が払われたのだろうか。
 記録によると、1614(慶長19)年の奈良大仏本尊の鋳造には、大工・1万6350人、こびき・1200人、ふきや・1万7500人、仏師・3000人が、一人あたり銀1匁3分〜1匁7分の賃金で働いたほか、日用2万4000人が、銀6分5厘の賃金で雇われていた。さらに大仏の仮堂作りには、大工・4万5000人、こびき・1万1000人のほか、日用5万8000人が雇われていたという。これらの工事も幕府から大名が工事を割り振られて行われたわけだが、実際の工事は、大工頭や職人・日用任せであった。そして日雇い人夫の賃金は、職人の約半分であった。
 では大規模な造成工事に多人数の日雇い人夫が動員されたことには、どのような意味があったのだろうか。
 かつての戦国時代の戦争は、多くの百姓に戦場働きという人や物を奪って売りさばく臨時収入をもたらすものであり、これを目的に行われた側面が強いことは、藤木久志が「雑兵たちの戦場」で明らかにしたことだが、同書でまた藤木は、近世初頭に行われた朝鮮出兵もその目的を持っていたが、以後は各地で行われた大工事が、百姓に賃稼ぎの場を提供する新たな場として登場したことを示している。そして平和な中での大工事の展開は、百姓に多くの魅力ある稼ぎ場を提供し、しばしば農繁期であるにも関らず百姓が近在の町で行われる大工事の賃稼ぎを目指して農耕を放棄するため、近世初期には農耕を放棄しての日用稼ぎを禁止する法令がしばしば出されたことを示している。
 近世初期に全国的に展開された都市建設などの大工事は、国内の再開発によって巨大な需要を喚起し、諸産業を発展させる基盤となったとともに、巨大な労働市場をも提供し、それまで戦働きで収入を得ていた武家奉公人や百姓に、安定した収入をもたらす場も提供したのであった。平和で豊かな近世社会は、都市建設によって実現したと言っても過言ではない。
 教科書で都市建設が進んだことを記述するのであれば、それが以上のような意味を持っていたこともまた記述すべきであったろう。

(4)三都−異なる性格の3つの首都があった江戸時代−

 最後に、江戸・大阪・京都のそれぞれの都市の性格についての教科書の記述を検討し、その間違いや不充分なところを補っておこう。

@江戸は政治の中心地・武家の町であると同時に町人の町・物資の集散地でもあった

 「つくる会」教科書は、江戸の町について次ぎのように記述している(p137)。

 将軍の所在地となった江戸は、諸藩の江戸屋敷が置かれ、参勤交代によって全国から集まった大勢の武士たちが生活することから、「将軍のおひざもと」とよばれた。商人や職人たちも多数集まり、18世紀のはじめには、江戸の人口は100万を超えた。「山の手」と「下町」の区別も17世紀のなかばには生まれ、「下町」に住む町人たちは、武士の住む「山の手」を意識しながら、「いき」の感覚に支えられた独特の町人文化を築いていった。

 この記述だと江戸は、武家を中心とした政治都市だという性格付けになるが、はたしてこれで良いのだろうか。

(a)武家人数は不明である
 確かに江戸は、日本最大の武家の町である。江戸には将軍家とその直属の家臣である旗本・御家人が多数住み、これに加えて全ての大名の家族と一部の家臣、そして参勤交代で領地と江戸とを行き来する大名とその家臣団が住むわけで、武家の町という性格は強い。そして従来は江戸の人口の過半は武家が占め、その人口は50万人以上であり、ほぼ50万人前後の町人と合わせて、江戸の人口は100万を超えたと認識されてきたわけである。
 しかし江戸の武家人口50万という数字には、実は根拠がないのだ。明治以来論者によって、132万→80万→50万ほどと変化し、最後の50万が定説になったにすぎない。
 江戸幕府は18世紀になると全国的に人口の調査を行っており、江戸の町場の人口はかなり詳しくその月々の変化まで含めてわかるようになっている。これによると、町人の人口は18世紀以後は、ほぼ55万人前後でこれに寺社地の人口5万と吉原の人口1万、それに出稼ぎ者数万を加えて60万〜65万人と考えられている。しかし武家の人口を調査した記録はなく、当時の江戸にどの程度の武家がいたかわからないのである。唯一の記録は、1724(享保9)年に江戸に必要な飯米の計算をした際に、江戸の人口を町方58万8325人・武家人口5万3865人とした算定基準の数値が残されているだけである。この武家人口5万というのは、幕府の責任で飯米を供給しなければならない旗本・御家人の人口と考えることも可能であるが、幕末の旗本の家数5200、御家人の家数1万7000、合計2万2200と比較して見ると1家あたり2〜3人と少なく、その根拠が分からないわけである。
 またこの幕臣家数を元に、それに1家5人として計算してみると、幕臣とその家族総数が11万ほどとなり、幕臣は全国の幕府領に散在している(大阪城番に1000人、二条城番に1000人、駿府城番に500人、京都所司代に150人など)からそれを引けば、江戸に残るのは10万に満たないことになる。これに幕末に勝海舟が記録した「吹塵録」には、明治維新直後に国元に戻った大名家とその家臣団が2万家とあり、これは常時江戸詰の家臣と考えられるから、これにも1家5人として計10万ほど。双方を合計しても江戸に常住した武家総数は20万に満たないわけである。あと参勤交代で江戸に来る家臣の多くは単身赴任と考えられ、これが加わっても、50万を超えることはないであろう。なぜならば明治維新によって士族身分とされた者が全国で42万5000戸・194万人であり、幕臣を引けば40万戸あまり。そこから先ほどの江戸詰の2万戸を引くと残り38万戸。この38万全部が単身赴任で江戸に来るわけはなく、半数連れてきて19万。3人に1人で13万ほど。4人に1人なら9〜10万。どう考えても江戸に住む武士の数は、50万人を超えることはないのである。

(b)元禄以後の江戸は町人の町へ変貌した
 しかも江戸は、17世紀末になれば、人口でも武家よりも町人の方が多数を占め、町の経済に占める町人の位置は武家よりももっと大きなものになったことが伺われる。
 江戸の本町通りに店を構え、京都の本店で仕入れた絹織物・綿織物を武家に商っていた呉服商・三井家が、神田駿河町に店を移転し「現銀掛値無し」の現金売りでつるしの呉服やはぎれまでの大衆向けの商売に転向したのが1683(天和3)年であった。そして大衆相手の古着屋商売が拡大したのも17世紀後期であり、煮売りと言って、茶飯や煮しめを振り歩く商売が盛んになったのも17世紀後期。さらに煮売りの夜間での振り売りが許可されたのが1686(貞享3)年。庶民の移動手段として従来は禁止されていた辻駕籠が許可されたのも17世紀後期で、辻駕籠は1703(元禄16)年には許可されただけで1273挺にも上った。また庶民相手の商売が盛んになるにつれて、これまでの運河を使った荷物の輸送では不足するようになり、道路を走る大八車が登場したのも17世紀後期。そして大八車は1701(元禄14)年には許可されただけでも2239両にも及び、混雑した道路をかけ抜けるために度々衝突や人を巻き込む死亡事故まで起こすようになり、幕府から度々車両の制限を受ける始末であったのだ。
 さらにこの時代には、先の煮売りだけではなく、多くの商品が振り売りによって売り歩かれ、あまりの盛況に、武家奉公人が武家奉公を止めて振り売り商人に転向するため武家奉公人が不足し、幕府が振り売り商人の許可制を打ち出したのが1658(万治元)年のことであった。ちなみにこのとき許可された振り売りの種類は、肴売り・たばこ売り・塩売り・飴おこし売り・下駄足駄売り・味噌売り・酢醤油売り・豆腐こんにゃく売り・籠ざる売り・古着買い・煎茶売り・髪結い・絹紬売り・木綿売り・小間物売り・革踏革木綿足袋(くつかわもめんたび)売り・小刀包丁売り・香具売り・紙売り・瀬戸物売り・春米(つきまい)売り・傘売り・油売り・薪売りなどであった。いかに多くの商品が振り売りで売りさばかれ、これだけの商品を必要とした庶民がどれだけ多かったかを示すものと言えよう。
 17世紀後半の元禄時代以後の江戸は、まさしく町人の町になったのであった。

(c)江戸は関東・東北の物資の集散地でもあった
 そしてまた江戸は、単なる消費市場ではなかったのだ。
 たしかに江戸は、外部からの商品を大量に輸送して成り立つ消費都市ではあった。
 1724(享保9)〜1730(享保15)年については、江戸に運ばれた商品の種類と量が幕府の調査によってある程度分かっている。これによると江戸に運び込まれた商品は、米・塩・味噌・醤油・酒・繰り綿・木綿・薪・炭・油・魚油などであった。ただしこれは庶民の生活にも深く関わる大衆的商品であって、ここには材木や高級絹織物や漆器、そして細工物は除外されている。また庶民向けでも関東近県から運び込まれる、打綿・真綿・絹・紬・ろう・紙・茶・灯心・畳表なども除かれている。
 これらの物資の量は膨大なもので、繰り綿は6万9000〜13万4000本(1本が9貫300匁)で木綿は8180個〜2万179個(1個は100反入り)。さらに醤油は10万〜16万樽、酒は18万〜26万樽、油は4万8639〜7万7022樽に及び、江戸には大量の物資が運ばれていたことがわかる。
 しかしこの品物の搬入元は、教科書の記述のように、すべて上方であったわけではない。
 米の大部分は関東と東北からのものであり、東北諸藩は江戸に蔵屋敷を置いていた。上方からの米は補助的であった。そして醤油の76%は上方・大阪からだが、残りは関東の醤油蔵からであり、油も76%が上方・大阪からで残りは関東。酒も大阪からは22%であとは兵庫西宮から直接運ばれたものと関東のもの。さらに木綿の33%は大阪からだが、残りの60%以上は三河・尾張など東海地方のものであった。江戸は大阪からの物資が流入するだけではなく、関東・東北・東海地方の物資も大量に流入していたのだ。
 さらに江戸は物資が流入するだけではなく、流入した物資をさらに移出する場でもあった。
 実は江戸に運ばれた木綿は江戸で消費されるのではなく、関東や東北に運ばれて着物に仕立てられ、それが関東・東北さらには江戸に還流するのであったし、江戸に運ばれた繰り綿もまた、関東・東北に運ばれて綿織物になり、これがさらに関東・東北・江戸へと還流したのであった。先に江戸の成り立ちに見たように、江戸は徳川氏の居城が置かれる前から、関東・東北地方の物資の集散地であったが、幕府開府後もこの機能は拡大し、東国における一大物資の集散地となっていたのである。
 そして18世紀から19世紀にかけて関東近県の綿織物業や醤油・酒の醸造業や油製造業は発展し、1856(安政3)年の江戸入荷物資に占める下り物の割合は、繰り綿が33%、木綿が18%、醤油が6%、油が60%と大幅に低下した(ただし酒は87%と拡大し、高級品指向が高まっている)。近世後期には関東近県の経済的位置が上昇し、上方の経済的位置が低下している様がよく見て取れる。
 江戸を単なる武士の町や消費地として捉えることは間違いであったのだ。

(d)文化発信都市としての江戸
 しかし江戸を政治や産業の面だけでとらえるのも一面的である。この意味で「つくる会」教科書が、「町人は『いき』の感覚に支えられる独特の町人文化を築いて行った」と記述したのは正しいことである。ただここに記された「いき」の感覚に支えられる独特の町人文化とは何であろうか。まったく説明がないので不明である。
 あるいはこれは、「山の手」を意識しながらと書かれているので、武家と対抗する意識を反映したものを示しているのかもしれない。そうであればこれは、江戸初期元禄のころまで流行った男伊達と言われる、派手な風俗をして武士のような風体で町を暴れあるく文化や、元禄のころに流行った金にあかして様々な芸能に遊びふけ、遊里で遊び暮らす文化をさしたものであろうか。さらには同じく元禄のころには成立していた、江戸人の初物好みを指すのであろうか。江戸の町人たちは季節の到来を示す魚や野菜などを誰よりも早く食することを競い合い、そのためにこれらの初物には法外な値段がつくこともしばしばであった。これを初物好みとよぶ。
 こういった文化は、裕福な町人とは異なって、俸給生活者で御切米が支給されたときか暮れにならないと現金が手元になく、遊び暮らすことのしにくい武家に差をつけ、粋がる所業であった。この面でたしかに武家に対抗する文化であったと言えようし、京都や大阪にはない傾向である。
 だが江戸町人文化の特徴をあげるのならば、このような一過性のものだけではなく、歌舞伎や浮世絵、そして滑稽本の出版など、江戸中期以降に江戸で盛んになり、常に幕府の奢侈禁止令との対抗関係にありながら、根強く幕政に対する批判の目を保ちながら町人の文化を守りぬいた動きこそ取り上げるべきものであろう。
 ともかく江戸は近世後期には大阪からの下り物で経済的に支えられる状態を脱して、関東近県の経済発展に支えられて、政治的にも経済的にも、そして文化的にも日本の中心となっていたのであり、この中で、大衆文化の発信地として栄えていったことは押さえておくべきであろう。

:05年8月刊の新版では、山の手の武家を意識した「いき」の感覚に支えられた独特の町人文化という記述は完全に削除されている。あいまいで不充分な記述ではあったが、高度に発展した商品経済社会と封建的な支配関係の矛盾の現われとしての文化的対抗関係を示唆する興味深い記述であったので、もっと正確で深みのあるものに改められるのではなく、完全に削除されたことは残念なことである。

A大阪は物資の集散地であるとともに巨大な工業都市でもあった

 「つくる会」教科書は、大阪の町について次のように記述している(p137)。

 江戸時代の前半期は、東日本より西日本の方が、農業や諸産業が発達していたので、大阪は米、木綿、しょう油、酒などのさまざまな物産の集散地になり、「天下の台所」とよばれて栄えた。各藩は、大阪に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却を商人に依頼した。大阪に集められた物産の多くは、菱垣廻船や樽廻船によって江戸に運ばれた。

 この記述では、大阪は単なる江戸向けの物資の集散地としか読めない。しかし大阪は日本有数の工業都市でもあったし、江戸だけではなく北国や九州との関係でも物資の集散地であったのだ。。

(a)大衆的な工業都市・大阪
 大阪に入ってくる品物は多種多様であり、18世紀初頭の幕府の調査でも119種類におよんでいる。その第1位は米で、大名領主が運び入れたものが112万3070石で商人米と呼ばれる百姓が直接売りに出した米が28万2792石であった。第2位は菜種、第3位は材木、第4位は干鰯、第5位は白木綿、第6位は紙、第7位は鉄である。その他20位以内に入る品物は、大豆・小麦・胡麻・塩魚・生魚・塩・砂糖・薪・綿糸・綿実・銅・タバコ・藍玉などである。
 この大阪に船で入った品物を種別に見ると、菜種と胡麻と綿実からは油が取れ、これは油という工業製品をつくる原料であった。また綿実からは繰り綿が取れ、これを加工して綿糸・綿織物が作られ、白木綿と合わせると綿織物業の原料であり、藍玉はそれを染める染料である。さらに鉄は鍋や釜などの鉄製品をつくる原料であり、銅も精錬して長崎からの輸出銅や銅銭が作られるわけで、これらも工業原料であった。そして大豆は味噌・醤油の原料であり、米も酒の原料であり、紙も様々な紙製品の原料となる。
 大阪から船で出される品物も多種多様であるが、それがほとんど工業製品であることは、大阪という都市の性格を如実に物語っている。
 移出品の第1位は菜種油、第2位は縞木綿、第3位は長崎下り銅、第4位は白木綿、第5位が綿実油、第6位が古手、古着である。そして第7位は繰り綿で第8位が醤油。他には、米、鍋・釜などの鉄製品、胡麻油、酒、油粕、味噌、塩、雪駄、傘、塗り物道具、小間物、焼物などがあった。ほとんどが工業製品であり、このうちの縞木綿・塗り物道具・小間物・焼物は京都から移入された工業製品であるが、その他は大阪で加工された工業製品だった。
 大阪は、綿糸・綿織物工業と油製造工業、そして銅・鉄などの金属工業が栄えた都市であり、さらに醤油・酒の醸造業や雪駄・傘などの日用品工業も盛んな都市であったのだ。そして大阪で作られる工業製品は京都で作られる高級品と異なって、庶民層にも必要な日常生活品が主流であることに特徴があり、この意味でも大阪は庶民の町であったのだ。
 さらに大阪から物資の移出先は江戸だけではなかった。
 大阪に船で移入される物資の総額は、18世紀初頭では、銀で28万6531貫であり、江戸向けに移出される物資の総額は、銀で9万5799貫であった。移入される物資の多くが原料で、移出される物資の多くが工業製品であったのだから、移出された物資の総額の方が移入された物資の総額よりも多いはずである。こう考えると大阪から江戸に移出された物資の割合は、3分の1以下となるであろう。では残りの物資はどうなったのか。これは大阪など近畿近県での消費に当てられた分と、瀬戸内・九州・北国向けに移出された分であったろう。大阪は西回り航路によってこれらの地域と密接に結び付けられていた。だから「天下の台所」とは、全国的な物資の集散地だという意味だったのだ。

(b)大阪が栄えた背景は
 また、このように大阪が栄えたには、いくつもの歴史的背景があろう。
 この地で綿糸・綿織物工業が盛んになったのは、大阪を中心とする近畿地方が日本有数の綿栽培地域であったことが背景にはあろう。さらに金属工業が栄えたのは、古代以来この地には、全国各地に移動して鉄製品を製造してきた河内・和泉の鋳物師の伝統があり、彼らに基盤を置いて彼らを都市に定住させていった大阪などの浄土真宗寺内町の存在が背景にあった。さらに醤油・酒・油の製造が盛んになった背景にも、近畿地方が日本有数の農業地帯であり、人口密集地であったことがあろう。
 そして大阪は、秀吉が大阪城を築く前から、近畿地方の交通・流通上の拠点であった。
 大阪は中世後期には、石山本願寺の寺内町として、河内・和泉一体に広がる寺内町の結節点として近畿地方全体の商品流通の要として発展していたし、大阪の渡辺の津は、淀川河口の港として古代以来瀬戸内海交通の東の拠点として、京都と日本の表玄関である九州とを結ぶ地であった。さらに中世後期にはその南30kmに国際貿易港堺を発展させ、ここと大阪が結ばれることで、近畿地方の諸産業は、東アジア交易網に直接結び付けられていたのだ。これに加えて近世初頭には西回り航路が開拓されて、従来は北国から海路で越前敦賀まで運ばれ、そこから陸路と琵琶湖の水運で大津・京都へ運ばれていた物資が、直接海路で大阪に運び込まれるようになったのだ。
 このような歴史が、この地が工業都市として、そして物資の集散地として栄えた背景にあっただろう。

(c)大阪は一貫して町人の町であった
 さらに大阪は京都や江戸とは異なり、秀吉の居城が置かれた一時期を除いて、その都市の性格は一貫して町人の町であったことも、大阪が産業の中心都市として栄えた背景にあろう。
 大阪も都市形態としては、大阪城を中心に作られた城下町である。
 しかし大阪が城下町となったのは、秀吉が石山本願寺を退去させ、その跡地に城を築き始めた1583(天正11)年からであり、それまでは城郭構えであったにしても、1496(明応5)年に石山別院(後の石山本願寺)が創設されて以来の寺内町であり、北町・南町・西町・北町屋・清水町・新屋敷の大阪発祥以来の町と、檜物屋町・青屋町・造作町・横町などの新町からなる町人の町であり、五畿七道の物資が集まる商業都市であった。そして豊臣氏の居城が置かれた間には大名の大阪屋敷も置かれて大名家族も住まわせられ、後の江戸のような性格の町の要素も加わったが、豊臣氏が滅びた後の1619(元和5)年に大阪が将軍直轄地となってからは、大阪城は西国経営の拠点となり、大阪城にもそれなりの兵力が置かれていたが、大阪に置かれた武士の数は少数であり、大阪は町人の町として続いた。
 大阪にいた武士の数はどの程度であったろうか。
 まず大阪城を守備するものとしては、大阪城代には5〜10万石の譜代大名が任命されて城の追手門を守備し、さらに1〜2万石の大名が定番として残りの京極口を守備、そして大阪城本丸は将軍直属軍の大番が2組在番して守備し、最後に残った場所を3・4万石以下の大名が加番として任命されて大阪城を守備していた。その兵力の総数は4000人ほど。しかし彼らの多くは1年交代であったので、家族をつれていたとは思えない。
 これ以外に大阪にいた武士は、大阪町奉行所と各藩の蔵屋敷にいたものたちだ。
 大阪市政と摂津・河内・和泉・播磨の4ヶ国の治安・警察・訴訟・裁判を預かる東西の大阪町奉行所に勤務する武士がいた。そして町奉行所の武士は大阪地付きの武士で交代で派遣される町奉行に雇われたもので、東西の奉行所にそれぞれ、与力30人と同心50人の計160人がおり、彼らは家族とともに大阪に暮らしていた。これに町奉行の直臣の武士が少数、江戸から赴任していた。また各藩の蔵屋敷は大阪に全て置かれていたわけではなく、江戸・堺・大津にも置かれていた。大阪に置かれた蔵屋敷の数は、延宝年間(1673〜1681)には80、元禄年間(1688〜1704)には95、そして天保年間(1830〜1844)には125であり、各藩の特産物や年貢米の販売や諸品の購入にあたる大阪留守居役を筆頭に、若干の藩士が常駐した。
 このように見れば大阪に常住した武士の数は、1万数千人程度であり、1765(明和2)年に41万9800人と最高の人数を記録した町人に比べれば、3%程度とかなり微小な人数だったのである。そしてこの武士人口とほぼ同等な2万人程度の家臣団を擁した加賀前田家100万石の城下町の明治初年の町人口が10万を少し超えた程度であったことに照らして見ると、武家人口1万数千程度の城下町に、40万を超える町人がいたという事実に、大阪という町が日本列島の流通や工業の中心的な商業都市・工業都市であり町人の町であったということが示されているのである。

(d)忘れてはならない文化発信都市としての大阪
 しかしこのように大阪を産業都市としての側面だけで捉えるのは一面的である。大阪はまた文化発信都市であり、新しい大衆文化だけではなく学問や科学の面でも、江戸時代の中心を担った町であったことも忘れてはならない。
 近世の大阪は、新しい文化の発信地でもあった。
 たとえば大衆芸能の面では、中世の京都で発展した人形浄瑠璃に、三味線による曲節を完成し、新たな劇的な台本による新境地が大阪で開かれた。義太夫節を創始した竹本義太夫(1651‐1714)と台本作者の近松門左衛門(1653‐1724)らによるもので、公家社会や武家社会を題材にとった作品や庶民社会に題材をとった数多くの作品を生み出し、この劇的な芝居の創出は以後、歌舞伎にもおおいに影響を与えていった。また町人の暮らしに題材をとった浮世草紙が井原西鶴(1642‐93)らによって始められたのも、ここ大阪のことであった。江戸時代の町人文化は大阪から始まったといっても過言ではない。
 また大阪は多くの学者を輩出した町としての名であり、町人出身の多数の学者が生まれ、町人が設立した学問所も隆盛を極め、ここから新しい学問も次々と生まれたのだ。
 大阪町人が設立した学問所としては、18世紀初期に設立された懐徳堂が特筆されるべきであろう。懐徳堂を設立したのは町人出身の儒学者の中井甃庵(しゅうあん)であるが、彼を援助して学問所を設立したのは、学者でもあった大阪の豪商である。それは、三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衛門、舟橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池屋又四郎らであり、尼崎の道明寺屋の隠宅で開校したものであった。そして京都出身の町人儒者の三宅石庵(せきあん)を初代塾主に招いて朱子学・陽明学・古学など、一つの学問に偏らない幅広い学問を教授する気風を持った私塾に育てて行った。
 ここからは多くの町人出身の学者が輩出されている。
 醤油屋を営む道明寺屋吉左衛門の3男の富永仲基(なかもと)(1715‐46)は、儒学・仏教を学び、これらをその学の成り立ちに遡ってその説の妥当性を検証してそれらを批判した。例えば仏教は釈迦の教えそのものではなく、その後のながきにわたって多くの仏弟子たちの説が加えられ(これを「加上」とよんだ)て出来たもので、その過程で教えの内容には有為転変があるとした。そしてこのような検証を経た上で彼は、神道・儒教・仏教を脱却した新たな「誠の道」を提唱し、本居宣長・平田篤胤らに大きな影響を及ぼした。また両替商升屋の番頭であった山片蟠桃(ばんとう)(1748‐1821)は儒学と天文学を学び、地動説の承認・神話と歴史の峻別・自由経済の主張・排仏論や無神論などを説いた「夢ノ代」を著した。
 これら二人の学問の特徴は、極めて科学的で合理的であり、西洋科学の影響も受けた新しい傾向の学問であった。また懐徳堂で天文学を教えた儒者・天文学者の麻田剛立(1734‐99)は独学で西洋天文学を学んだもので、彼の弟子には質屋の息子の間重富(しげとみ)(1756‐1816)や大坂定番同心の息子の高橋至時(よしとき)(1764‐1804)がおり、二人は幕府に召されて西洋天文学に基づく新しい暦の作成に尽力している。
 さらに幕末の1838(天保9)年には緒方洪庵(1810‐63)によって蘭学塾・適塾が開かれ、門人は直門611人が知られ、幕末維新期に多方面に活躍した。中に大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉らがいることもよく知られている。
 このように町人の町大阪は、その豊かさを背景にして新しい文化を発展させていたのだ。

B京都は日本有数の工業都市であるとともに文化の中枢でもあった

 「つくる会」教科書は、京都の町について次ぎのように記述している(p137〜138)

 また、江戸・大阪と並ぶ三都の一つ、京都は、西陣織や漆器・武具・蒔絵などの高級な工芸品を生産する手工業都市として、さらに朝廷が所在する文化の都として栄えた。

 京都はたしかに高級な工芸品を生産する手工業都市であったが、単なる手工業都市ではなく、日本の手工業を代表する中心都市であり、ここも物資の集散地であったことは指摘しておくべきであろう。また京都が文化の都であったことは正しい指摘であるが、それが「朝廷が所在する」ゆえであったかのような指摘はあいまいであり、あまりに不充分といえよう。

(a)日本最高の技術を誇る手工業都市京都
 京都は日本最大の手工業都市であり、その手工業製品は、中世以来海外にも輸出されるほどの高度な技術を擁した高級工芸品であった。
 1645(正保2)年に出来た俳論書の「毛吹草」には諸国の名産品約1800種類があげられているが、そのうちの約300種類が京都のものであった。その中から手工業製品をあげてみると、西陣の撰糸・金襴・唐織・紋紗を筆頭にして、畳縁・薬玉・薬種・はかり・きせる・袈裟・蚊帳・屏風・扇地紙・渋紙・紙帳・仏具・灯篭細工などが挙げられている。
 京都を代表する手工業製品は、西陣の高級絹・綿織物と、塗り物などの調度品や小間物であり、さらに清水焼に代表される焼物などであった。そしてこれらの手工業の技術が当時の日本最高峰のものであったことは、西陣織りがよく示しており、その技術が次第に全国に波及して各地に新たな産業を生み出したことは前項【21】で見たとおりである。
 このため京都にはこれらの高級品を手に入れて全国各地に品物を送るための店が設けられ、例えば呉服商の場合は、江戸で名を成した松坂屋でも、その本店は京都においていたのであった。また江戸に店を開いて呉服や小間物を広く商ったことで知られる白木屋は、もともとは京都の材木商であり、京都が産する小間物を仕入れて売りだし、しだいに呉服にも商いを広げたものであった。さらに諸大名も京都の工芸品を購入する目的もあって京都に屋敷を構え、大名家の京屋敷は、1637(寛永14)年には68に上っていた。
 京都は工業都市であったゆえ、これらの製品を諸国に出荷する都市であったが、同時にまた、諸国からこれらの工業原料が陸路・海路を通じて移入される都市でもあった。西陣の絹織物の原料は、18世紀後半になると北関東からも大量に運び込まれていたし、越前敦賀と琵琶湖海運を通じては、北国の物資や米が直接京都に運び込まれており、これも18世紀半ばまでは続いていたのだ。
 京都は日本屈指の工業都市であると同時に、物資の集散地でもあった。

(b)伝統文化・新興の大衆文化の発信地としての京都
 また京都は江戸時代を通じて、そこから文化が発信された文化都市と言って良い。
 それは一つは、各地を統一した幕府・藩体制が、その統治の権限の淵源として朝廷を重んじ、その朝廷儀礼を統治の権威をなす背景として重んじたこともある。
 しかしもっと大事なことは、この幕府・藩体制が重んじた朝廷を中心とする文化が、近世を通じて庶民階層の文化ともなり、広く大衆的に享受されたことである。
 すでに桃山文化の項【8・9】で見たところであるが、京都の公家・武家を中心としたサロンの中で発展した能・狂言や茶の湯・立て花は新たな統一権力者である大名にも受け入れられていったが、都市の発展とともに、都市の裕福な商人階層を中心として次第に庶民にも受け入れられて行った。そして諸国に公家に発する芸能を享受する基盤が生まれたことを背景にして、公家たちは、諸芸能の家元となり、芸能の教授料を生活の糧とするようになったのである。
 例えば井原西鶴が日本永代蔵などの作品の中で、町人の教養としての遊芸をたくさん挙げている。それは、書道・茶道・詩文・連歌俳諧・能・鼓・論語・蹴鞠・囲碁・筝・踊・立花・香道・浄瑠璃・小歌などであったが、このうちの香道までのものはみな、京都の公家文化の中で盛んになったものである。また武家の間でもこれらの芸能は盛んになり、大名を筆頭にして諸芸の家元の門人となったり、家元やその門人を江戸屋敷や国許に招いて教授を受けたりもしたのだ。
 さらに江戸大衆文化の華と呼ばれる浄瑠璃や歌舞伎も、その発生は京都であり、浄瑠璃の基盤には平家琵琶とくぐつの人形芝居が、歌舞伎の背景には能・狂言と風流踊りがあり、それぞれ公家的な文化と大衆的な文化とが融合して新たな文化として発展したものであることは、桃山文化の項で見たところである。
 さらに京都は近代的な出版文化の発祥の地であった。
 印刷版の書籍が大量に日本で出されたのは、室町時代の京都五山の出版事業であったが、近世初頭の文録・慶長期に朝鮮渡来の金属活字などで作られた勅版本が出されたことで、再び京都での出版事業は活性化した。活字版の勅版本に続いて、京都の寺院でも木版による出版が相次いで起こり「法華経伝義」「沙石集」「太平記」「文選」などが出版され、これを担った寺院の工房が独立して、日本最初の民間の書店が出現した。また京都の豪商角倉素庵と本阿弥光悦は活字で「角倉本」とも「光悦本」とも呼ばれる書籍を次々と出版し、「伊勢物語」「源氏小鏡」「方丈記」「徒然草」「観世流謡本」などを出した。さらに医者が出版元になることも多く、「論語」「孟子」「白氏文集」「長恨歌」「東鏡」「太閤記」などが出されている。
 こうした本を出版した書店は当初は二条城や内裏の近辺の武家屋敷や公家屋敷が集中する二条通りや三条通りにあったが、寛永年間(1624〜44)になると急に営利出版を目的とした種々の書店が次々と創立され、その数は70軒にも上った。そしてこれらの書店は、歴史書や仏書・文学書などのそれぞれの専門分野に分かれ、京都・大阪で始まった浮世草子を専門にする書店もあったのだ。
 のちに寛永文化・元禄文化の項【24】で詳しくは述べるが、江戸文化は従来は都市大衆が生み出した庶民文化であるという認識が強かったが、その文化の発生と発展の基盤には、京都の公家・武家を中心としたサロンで生まれた文化があり、その中で公家的な文化伝統と大衆的な嗜好が組み合わさって新たな文化が生まれたものであった。
 この意味で京都が文化都市であったのは、たんにそこに朝廷があったというだけではなかった。

(c)政治の中心地としての京都
 さらに京都を手工業と文化の中心と見るだけでは不充分である。江戸時代になっても京都は政治の中心でありつづけたことが忘れられている。
 近世初頭・豊臣政権の時代においても、政治の中心は依然として京都であった。このことは秀吉が大阪に居城を築きそこに朝廷も五山寺院も全て移動させようとして果たせず、結果的には上京を改造して聚楽第を築き、城郭としての聚楽第を中心として大名屋敷や内裏・公家屋敷、そして寺と町屋を計画的に配置する城下町に京都を改造しようとしたことによく示されている。そして聚楽第解体後も全国政治の場としては、京都の南に作られた伏見城が選ばれ、ここで重要な儀式がしばしば行われた。
 またこのことは、関ヶ原の戦い後や大阪夏の陣・冬の陣後の政治状況においても変わらなかった。
 初期江戸幕府の時代における重要な政治決定は、京都の二条城においてなされており、二条城の門構えは江戸城以上に豪壮で華麗であり、ここが徳川氏の政庁として内裏に相対していたのだ。1611(慶長16)年に徳川家康が豊臣秀頼と対面したのも二条城であり、大阪の陣後の1615(元和元)年に幕府が武家諸法度を出したのも二条城、そして1626(寛永3)年に後水尾天皇の行幸を仰いで、3代家光・大御所秀忠に諸大名の臣従を誓わせたのも二条城であったことがそれを示している。まさに徳川の覇権を確立するまでの日本の首都は京都であったのであり、3代までの将軍はしばしば上洛し、懸案事項を解決していたのだ。
 この状況に変化が起きたのが、1634(寛永11)年の家光の上洛。大軍を率いて上洛した家光は京都市中に銀5000貫を与え、大阪・堺・奈良の町の地子銀を免除し、朝廷・公家にもたくさんの所領を加増して大盤振るまい。幕府の権力の様を見せ付けて江戸へ帰り、以後幕末まで将軍は上洛せず、本来は正月の参賀のために将軍が上洛するところを江戸城に勅使が下って正月の祝賀を受け、将軍任官の際にも将軍が上洛するのをやめて勅使が江戸に下って任命する形へと変更された。こうして京都は形式的な首都になり、実質的な政治の決定・執行は江戸で行われ、江戸が実質的な首都となったのだ。
 だが大義名分的には、朝廷のある京都が首都でありつづけた。なぜなら幕府は、その統治権の淵源が朝廷にあることを繰り返し内外に表明したし、幕府政治の転換期には必ず、幕府の権威を上げるために朝廷の儀式を復興したりして、幕府は朝廷から委任されて統治を行っていることを繰り返し表明せざるをえなかった。そしてこの傾向は水戸学に代表されるように幕府の公式見解となっていき、京都は形式的には政治の中心でありつづけたのだ。
 だからこそ幕末の危機の中で、尊王攘夷思想で日本の再統合が図られようとしたため、京都はもう1度実質的な首都の座に帰りつき、ここ二条城で大政奉還がなされ、王政復古の大号令もここ京都から発せられ、明治維新の大変革もここから始まったのであった。
 この京都が江戸時代を通じて首都であったという事実もまた、忘れてはならない。

 以上のように江戸・大阪・京都の三都のそれぞれの性格を検討して見たが、単に江戸を「将軍のおひざもと」としての首都とし、大阪を「天下の台所」として物資の集散地とし、さらに京都を手工業・文化都市と類型化する捉え方は、あまりに単純であり事実とは異なることが明かとなった。どの都も住人の多数は町人であり、手工業・問屋など様々な商工業が栄えた都市であった。そして江戸時代の日本は、農村も含めて商品経済に深くつながっていたが故に、これらの都市はみな、日本全体の商工業の結節点として交通網で繋がり、そこで発せられる新しい文化は、農村も含めて全国津々浦々にまで広がったのであった。強いて三都の性格の違いを挙げるとすれば、京都と江戸は共に政治都市であり、大阪は純然たる町人の町・商工業の町といった違いであったろうか。しかし大阪もまた幕府の西国統治の拠点であり、だからこそ幕末維新戦争の際には一時的にせよ幕府軍の本営も置かれたように、ここも政治都市の性格を持っていた。
 かえりみてみれば、城下町はみな、それぞれの国の首都として政治的に作られた町であり、江戸・大阪・京都もみな城下町であった。つまり三都はいずれもそれぞれに異なる役割をもった首都であったのであり、このことは江戸時代の日本が、明治以後のような統一された国民国家ではなく、藩という政治体の連合国家であったことの表現であったに違いない。

:05年8月刊の新版では、この項は「三都の繁栄」と改題され(p111)、記述が多少簡略化された以外は、旧版とほとんど同じ内容であり、上に指摘した間違いや不充分さはまったく改善されていない。

:この項は、大石慎三郎著「江戸時代」(1977年中央公論新書刊)、鈴木敏夫著「江戸の本屋」(1980年中央公論新書刊)、朝尾直弘著「惣町から町へ」(1988年岩波書店刊・「日本の社会史」第6巻「社会的諸集団」所収)、藤井譲治編「支配のしくみ」(1991年中央公論社刊・「日本の近世」第3巻)、林玲子編「商人の活動」(1992年中央公論社刊・「日本の近世」第5巻)、吉田伸之編「都市の時代」(1992年中央公論社刊「日本の近世」第9巻)、熊倉功夫編「伝統芸能の展開」(1993年中央公論社刊「日本の近世」第11巻)、渡邊忠司著「町人の町大阪物語−商都の風俗と歴史」(1993年中央公論新書刊)、玉井哲雄著「都市の計画と建設」(1993年岩波書店刊「日本通史」第11巻「近世1」所収)、青木美智男編「東と西 江戸と上方」(1994年中央公論社刊「日本の近世」第17巻)、林玲子・大石慎三郎著「流通列島の誕生」(1995年講談社現代新書刊)、大石学著「首都江戸の誕生−大江戸はいかにして造られたのか」(2002年角川選書刊)、小学館刊「日本大百科全書」・平凡社刊「日本史大事典」の該当項目の記述などを参照した。


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