「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判23


23:商工業の発展は不断に封建制度・連邦制国家制度と衝突していた

 「産業と交通の発達」の三つ目の項目は「交通路の発達と商人の台頭」である。
 この項は二つの内容に分かれており、前半は幕府がどのように交通路の整備を行い、その結果全国市場が発展したありさまを記述し、項の後半で、商人が大きな力を持ち始めたことを記述している。

(1)幕府(藩)はなぜ交通網の整備を行ったのか?

 最初に「交通路の整備」がどのように描かれているのか、この点を見ておこう。教科書は次のように記述している(p138)。

 幕府は、江戸を中心として東海道など五街道を整備し、関所を置いて人々の通行の監督に努める一方、宿場(発展して宿場町となる)を整え、手紙や小荷物を運ぶ飛脚の制度を設けて、交通の便宜をはかった。
 周辺を生みに囲まれ、河川の多い日本では、大量の物資の輸送には水運が便利であった。内陸部で生産された物資を、川を下る船で河口まで運び出し、各地の河口をつなぐ海路で運ぶのである。17世紀のなかばには、西廻り航路と東廻り航路が開かれ、大阪と江戸を中心に、全国の沿岸が海路で結ばれた。

 幕府が街道と交通制度を整備し、川や海を使った水運も、様々な航路が開かれて全国が街道と航路でつながれたことが記述され、記述は簡潔でよくまとまっている。
 しかしこの記述には、一つの誤解と大きな欠落が存在する。
 誤解は、宿場を設けて「飛脚の制度を設けた」という部分。正しくは「伝馬と継飛脚」である。
 宿場には問屋場が設けられて人馬が常備され、幕府の文書や荷物を次の宿場まで転送した。もっとも急ぐ使いは早馬で。通常の文書と小荷物は飛脚で。少し嵩む小荷物は馬で。伝馬と継飛脚のための人と馬は宿場特権を付与された町が請負い、町は人足と馬を常備し、幕府の用は無料で務め、その替わりに米などで扶持を受けた。この伝馬と継飛脚を、大名や民間人が使う場合は有料であり、民間人の手紙や小荷物を「伝馬と継飛脚」で転送する民間業者が都市に置かれた飛脚問屋だったのだ。

@記述に含まれる多くの矛盾や疑問

 上の記述の最大の欠落点は、なぜ幕府は交通路を整備したのかという根本的な問題が記述されていないことである。
 例えば上の記述を読むと、いくつかの疑問が沸いてくるだろう。
 それは、幕府が整備した街道には関所が置かれ、そこでは「人々の通行が(幕府によって)監督され」たと記述されている。
 では関所での人々の通行の監督とは何であろうか。通常は「入り鉄砲に出女」と言われ、江戸に大量の鉄砲が持ちこまれて大名が多量の武器を蓄えて幕府に反乱を起こすことを防ぐために武器の移入を厳しく監督する。さらに幕府は大名が幕府に臣従する証として、大名の家族を江戸屋敷に住まわせており、そのためこれらの人質が江戸から逃げ出さないように、関所で特に女性の通行を取締ったといわれる。従来通説となっていた関所の役割は、このように説明されていた。この観点からすると、いっそのこと街道の整備などはせず、同時に河川海の航路の整備をしなければ人や物の移動も自由に出来ず、そのほうが武器や人質の移動がしにくいと考えるであろう。そしてさらにこの観点からすれば、街道の関所に対応した海の関所がないのはきわめて疑問となろう。街道は人と手紙と小荷物の移動であったのであれば、大量の物資は海路で移動したことは明らかである。その海路にも物資の移動を監督する「海の関所」が必要であるのだが、それはあったのかなかったのか?
 こういう従来の理解からすれば、幕府が街道や航路を整備して交通の便をはかったことは、大名統制策にとっては相反するものとなり、ここから何故幕府は交通の整備をはかったのかという疑問が出てくるのである。
 しかしこの教科書の今までの検討から明らかなことは、全国的な商業・工業・農業などの諸産業の発展は江戸時代以前から盛んであり、大名もこの全国的な商工業の展開に依存しており、その発展を図るために、大名領国の内部においては関所を廃止し、商工業者に様々な特権を与えて新たな城下町を建設したりして大いに商工業の発展に意を注いでいた。この観点からすると、街道を整備して宿場や伝馬・継飛脚の制度を設けたり航路を整備することは、全国的な商工業の発展に寄与する政策であり、商工業の発展に依存していた大名・幕府が、交通網の整備をすることには何の不思議もない。
 むしろここから出てくる疑問は、なぜ商工業の発展を阻害する関所を設けて交通を監督したのかということである。関所が物資や人の出入りを制限するものという従来の見方を前提にすると、教科書の上の記述はおおいに疑問であり、いくつもの矛盾点を含んでいるのだ。
 この矛盾に答えるためには、幕府が街道を整備した目的をきちんと説明し、関所が果たした役割をもきちんと記述する必要があるのだ。
 またさらにこんな疑問も沸いてくる。
 教科書には全国的な交通路の地図があって、そこに五街道と主な航路が記入されている。
 航路は日本列島をぐるっと取り囲み全国的に展開されているが、幕府が整備したのは西廻り航路と東廻り航路だけで、間の江戸大阪間の航路の整備は抜けている。どうして江戸大坂間というもっとも重要な航路の整備を幕府は行わなかったのか(そもそも西廻り航路・東廻り航路の出発点と終点も明記されていないので、どこまでが西廻りでどこまでが東廻りなのかが判然としないのだが)。
 また街道網も全国的に展開されているが、幕府が整備した五街道は、江戸と大坂を結ぶ東海道・中山道と、さらにこの二つの街道を甲府を経由してむすぶ甲州街道、そして江戸と日光をむすぶ日光街道と、さらに日光街道の途中の宇都宮から白河まで伸びた奥州街道である。幕府が整備したのがなぜこの五街道だけなのか。他の街道はなぜ幕府が整備しなかったのか。ではその他の街道は誰が整備したのか。こんな疑問まで沸いてくるのだ。
 教科書の交通網の整備についての記述は実に雑で羅列的なのだ。
 では以下に、上の疑問に答えながら、記述の矛盾や間違いを正していこう。

A全国的交通網はすでに中世から発展していた

 「つくる会」教科書が交通網について記述するのは、古代の律令国家の成立以後は、ここ江戸時代が始めてである。
 古代律令国家は全国的に諸国の国府をつなぐ街道を整備し、一定の間隔ごとに駅をおいて役人が乗り継ぐ馬を備えていたことは、p56の「律令政治の展開」の項で記述されていた(新版ではp44)。しかし同時に陸路とともに海路も整備されていたことは、調や「にえ」として諸国の海産物などが都に運ばれていたことや、米や塩などの嵩張るものを都に供給する国が瀬戸内海沿岸や北陸・東海地方であったことから、律令国家が成立したときにも、全国的な海路が整備されていたであろうことについては、古代編の【補遺1:東アジア交易網】の項で見たとおりである。
 さらに唐帝国との戦いにおいて大和の軍勢が大坂の難波津から船で発向して北九州に至ったことや、奈良律令時代の防人は東国から九州へと船で移動した例を見るならば、列島を取り巻く海路の整備は、古代律令国家の成立以前にすでに行われていたことは確実である。
 そして古代編【15】の(6)で見たように、日本における貨幣の始まりが古代律令国家による708年の和同開珎発行以前に遡る無紋銀銭であるならば、貨幣は律令国家成立以前に全国的に流通し、全国商業も行われていた可能性が高くなる。そうなると駅における伝馬の制度も、従来考えられてきたような国家のための伝馬だけではなく、民間商業における情報や物資の伝達・運送にも利用されていた可能性はあるし、平安時代の街道において、旅人の宿泊と輸送荷物の運送機能を備えた宿が伝馬の制度をも担っていたことを考えると、駅とのちに発展した宿との連続性すら伺う事ができるのだ。
 この古代において整備された駅と伝馬の制度は、古代律令制の衰微とともに衰退したと従来は考えられていたが、そうではなく、鎌倉・室町・戦国時代を通じて維持発展されたことが、近年の研究で明らかとなっている。主な街道に設けられた宿と伝馬・問いの制度は、鎌倉幕府・室町幕府、そして守護大名や戦国大名によっても維持され、さらに各地における商工業の発展にともなって街道もさらに整備され、宿駅も設けられていたことについては、中世編の【23】において見たとおりである。
 そしてさらに、「つくる会」教科書もすでに中世のところのp101において全国的な特産品の出現を取り扱っており、これらが各地での消費とともに都での消費や一部は海外への輸出品でもあったことを考えれば、全国的な陸の交通網の発展に加えて海の交通網の発展も不可欠である。そして戦国時代において都から多くの公家や芸能者が地方に下ったことや、しばしば有力な守護大名・戦国大名が少数の供を連れたり大規模な軍勢を引き連れたりして上京していた事実もまた、中世における全国交通網の整備が背後にあることを物語っている。
 またこのことはさらに、近世編1で見たように、戦国時代末期から近世初頭に至る時期において、全国規模で大規模な軍勢の移動が成されたり、朝鮮へと大軍が送られたことにも、その背景に全国的な陸海の交通網が整備されていたことを伺わせるのだ。
 では江戸幕府が全国的な交通網を整備したことには、どんな意味があったのか。

B一元的交通体系から多元的交通体系への再編と転換

 実は中世までの全国交通網と近世江戸幕府成立以後の全国交通網には、根本的な性格の違いが存在する。
 中世までの全国交通網は京を中心として広がっていた。しかし近世の全国交通網は京・大坂と江戸という二つの中心を持って展開していたし、これ以外にも各地の大規模な城下町を中心とした交通網を、そのネットワークの中に含みこんでいた。いわば近世の全国交通網は、多数の中心をもつ多元的な交通網であったのだ。
 これは江戸幕藩体制と呼ばれてきた近世の政治制度に由来している。

(a)連邦の成立と交通体系の組替え
 江戸幕藩体制は従来考えられたような幕府独裁ではなく、近世編1の【10】【11】で記したように、幕府と藩というそれぞれ独立した国家が幕府の指揮の下で連合し、連合国家体制を築いており、藩、特に一国以上を領した国持ち大名となると、それは幕府の政治支配も受けない、独立した国家であったからだ。したがって近世江戸時代は、幕府の所在する江戸だけが中心ではなく、藩の政庁の所在する城下町もまた、それぞれの地域の政治的・経済的中心であったのだ。
 そしてこれらの幕府・藩の連合国家は、その政治支配の正統性を京の都に所在する天皇・朝廷による統治権の委任に依拠していた。したがって近世日本の政治的中心は、名目的には依然として京都であったのだ。
 さらに近世江戸時代の経済の中心は幕府や藩という新興の勢力のそれぞれの城下町が、それぞれの領国の新たな中心として建設されはしたが、依然として全国的な経済の中心は京都であり、当時の日本において最も商業的農業や工業が盛んであったのは京都・大坂を中心とする畿内地方であった。このため全国でもっとも人口が密集していたのはこの地方であり、日本の経済的中心は、畿内の中心都市として人口約30万を擁する京都・大坂だったのだ。従って諸藩の領国で産した産物もまた大消費地としての畿内に送られて売買され、さらに畿内の産物が逆に、諸藩の領国に運ばれてそこで売買されたのだ。そしてこれは幕府という最大の藩においても事情は同じであった。
 こうして近世江戸時代の物資の移動は、幕府・諸藩の政庁所在地の城下町と畿内地方の中心としての京都・大坂の間で相互に行われたのである。だから近世初期においては、全国交通網の中心は畿内とその中心の京都・大坂中心に作られた。
 しかし1615(慶長20)年の豊臣氏滅亡と1634(寛永11)年の将軍家光の上洛を最後にして、実質的な政治の中心が京都・大坂から江戸に移動したことは、それ以後の関東地方における大開発と諸産業の発展と都市江戸の拡大により、江戸が新たな経済的・政治的な中心として登場する基盤となったのだ。だから近世の交通体系は、結果として京・大坂と江戸という二つの全国的中心を持つ体系として整備され、そのネットワークの内部に、諸藩の城下町を中心とした交通体系が内包されるという多元的な交通体系となったのだ。
 こうして江戸幕府が整備した街道が、五街道だけであった理由と、他の街道を誰が整備したのかがわかってくる。
 幕府が整備した五街道の範囲は、近世初頭における徳川氏の勢力範囲内の街道部分である。このことは「交通体系の地図」と、近世編1の【10】p273に掲載した地図「関ヶ原合戦後の大名配置」を比べ合わせて見れば良く分かる。幕府の拠点である江戸と近世初頭の政治的・経済的中心地である京都・大坂を結ぶ幹線道路が東海道・中山道であり、甲州街道は主な幕府領であり金銀の産地でもあった甲州と江戸とを結ぶ街道、そして幕府創立者である「神君家康」を祭った幕府の祖霊廟であり武家政権の中心神宮としての日光東照宮と江戸を結ぶ街道としての日光街道、さらにその延長として奥州に繋がる幹線道路としての奥州街道だったのだ。幕府は畿内地方中心に作られた交通体系に、あらたに幕府の領国として形成された関東の中心の江戸を中心とする交通体系を結び付け、経済・政治の中心である京都・大坂と幕府の祖霊廟である日光東照宮とを江戸につなぎ、これらの諸中心と幕府領国を貫く幹線道路として、五街道を整備したのだ。
 そして、この五街道以外の幹線道路は幹線道路を領国とする諸藩が整備した。
 諸藩も自己の政庁がある城下町を中心とした街道体系を整備し、これを旧来の畿内中心の交通体系と新たな江戸中心の交通体系に結びつけたのだ。諸藩も領内の街道を整備し、宿駅を設けて伝馬・継飛脚の役を負担する替わりに諸役を免除し、通信・運輸業に従事させたのだ。
 ただしこれらの街道はみな、この時代になって新たに設けられたものではない。古代以来整備されてきた京都を中心として設けられた街道を、新たな城下町の建設に合わせて移設したり従来のものを利用したりして再整備したものである。当然幕府や藩が街道に設けた宿場も、旧来のものをそのまま指定・利用したり、移動した街道筋に移設したもの、さらに街道自体が新たに整備された所では、周辺の村を宿に指定して新たに宿場町を設けた場合もあったのだ。
 こうして整備された街道の交通量は増大し、それとともに宿場町の規模も拡大した。しかし街道の交通量には差があり、もっとも多かったのは京・大坂と江戸を結ぶ東海道であった。
 天保年間(1830〜40年代)の東海道でもっとも旅籠の多かった宿駅は、尾張(愛知県)の熱田。旅籠数248軒で、人口も1万1957人。2番目は伊勢(三重県)の桑名で、旅籠数120で、家数は1730(享保15)年にすでに2988軒を数え、人口も1679(延宝7)年ですでに1万2520人を数えている。3番目は三河(愛知県)の岡崎で、旅籠数112軒、家数は2500軒余りであった。熱田は熱田大社の門前町でもあり、桑名・岡崎は城下町でもあったのだからこれらは別格である。純粋の宿駅は、通常は大きくても人口5・6000であった。また中山道最大の宿駅は、武蔵(埼玉県)の深谷で、旅籠80軒、家数524軒で人口は1928人であったのだから、街道による交通量の差は著しいものであった。
 ちなみに江戸から各街道への最初の宿駅の天保年間での規模は、東海道の品川は、北品川と南品川さらに歩行新宿を加えた3宿で、旅籠数180軒、家数1561軒で人口は6890人。日光街道の千住は、旅籠数55軒、家数2370軒で人口9556人。中山道の板橋は、旅籠55軒、家数572軒で人口は2448人。甲州街道の内藤新宿は、旅籠24軒、家数697軒で人口は2377人であった。

(b)連邦制と水運網の整備
 同じことは河川や海での水運についても言える。
 先に見たように、近世江戸時代の始まりにおいてすでに、全国的に商業的農業・工業が展開され、諸国でもさまざまな特産物が作られて、この特産物や米が大消費地の畿内に送られていた。大名を始めとして百姓も商品の販売をその生活の基盤としていたからだ。そして海に囲まれ河川の多い日本においては、昔から嵩の張る物資の運送は河川・海の水運を通じて行われていた。
 従って諸藩や幕府は、それぞれの新たな領国が確定するとすぐに、領内の海の領主や海の民を再編成し、船奉行の下で船頭や水手(かこ)を統率し、参勤交代や諸使を運んだり、領国の物資を畿内へ輸送する業務に当たらせた。畿内に大規模な市場が成立していたとはいえ、まだ定常的な全国流通網が成立していなかったので価格が安定せず、商人に任せて販売するのではなく、直接藩が販売するしかなかったからであった。
 こうして全国の諸藩から畿内もしくは江戸に向けて、米や特産物を輸送する航路が開かれ整備されていった。ただしこれも新たに設けられたのではなく、平安時代以来発展していた、畿内中心の航路網とそれに連結した河川の水運網を、新たに建設した城下町とその港を中心として再整備し、各所に船番所などを置いて航路の安全を図ったものであった。
 しかし幕府の場合は、河川や海の航路の整備は、諸藩とは少し事情が異なってくる。
 なぜならば藩の場合は領国の多くは1ヶ所にまとまって存在したが、幕府領は関東に主に集中していたとはいえ、実際には全国に広く散在していたからである。したがって幕府は水運網を全国的に整備せざるをえなかった。
 幕府が西廻り航路と東廻り航路を設けたのは、幕府が新たに領国とした東北地方の一部地域の年貢米や産物を、京都・大坂や江戸に運んで販売したり、家臣の給与として支給したりするためであった。
 1665(寛文5)年、それまで出羽米沢の上杉氏の領地であった陸奥国(宮城県)信夫・伊達郡が新たに幕府領となった。米沢藩主が跡継ぎを決めないままで死去したため、本来は領地没収になるところを特に領地半減で存続が認められたからであった。そして新たに幕府領となった信夫・伊達郡からの年貢米運送は江戸商人の請負いで行われ、阿武隈川の川舟で下され、仙台藩領(宮城県)荒浜から船積みし、常陸国(茨城県)銚子で川舟に積み替えて利根川・江戸川を通じて江戸に運ばれた。また同じ頃、すでに幕府領であった出羽国(秋田県)の一部の年貢米は、同じく江戸商人の請負いで運送され、最上川の川舟で酒田まで下され、そこで船積みされて、日本海・瀬戸内海・熊野灘・遠州灘を経由して江戸まで運ばれていた。
 このように全国に散在する幕府領の年貢米は、商人請負いで江戸まで遠路運ばれていたのだ。しかしこの運送方式には様々な問題があった。
 最も大きな問題は、運送費用が嵩んだことであった。年貢米の集積から川下し、船積みまで全て商人に請負わせていたので、請負い料金が高額であったのだ。そして陸奥伊達・信夫郡の年貢米の場合は、直接江戸湾に大船が入れないために銚子で川舟に積みかえるため、日数も費用も多額なものに膨らんでいたのだ。
 この問題を解決するために幕府は、江戸廻米を商人請負いから幕府直営に転換することとし、商人河村瑞賢に、東廻り航路については1671(寛文11)年、西廻り航路については1672(寛文12)年に江戸廻米を命じた。河村瑞賢は、従来の方式を刷新する建策を行って幕府の承認を得、新たな航路の策定と整備を行い、幕府のための全国航路網を作り上げたのだ。
 瑞賢の建策とは以下のようなものである。
 まず廻船はそれぞれの航路に慣れた民間の廻船を雇いあげ、東廻り航路については伊勢・尾張の廻船、西廻り航路については、讃岐・備前・摂津・和泉の廻船を使用する。そして川下しも幕府の雇い舟を使用し、荒浜・酒田にはそれぞれ専用の米蔵を設けて年貢米を一時保管。さらに新たに決めた寄港地には、番所を設けて手代を置き、海の難所には水先案内船を置いたり毎夜烽火を掲げて目印とするなど航路の安全を図り、沿海の諸藩・代官にも命じて幕府雇船の保護を命じる。また幕府雇船には目印として「官幟」(日の丸)を立て、船が寄港地に入港する際には、入港税は免除とするなどの措置を講じる。また必要な個所では従来の航路を変更して船の安全を図ったり運送日数を短縮する。
 こうして西廻り・東廻りの航路が整備され、全国の幕府領の年貢米は江戸や大坂に安価に運ばれることとなったのだ。費用の削減効果は、商人請負い費用は廻米量の30〜40%、雇船方式だと運賃は廻米量の15%程度であった。そしてこの過程で、従来銚子から川舟で運ばれていた伊達・信夫郡の年貢米は、銚子から伊豆下田まで直行し、風を待って江戸湾に直接入る方式に改められて、大船による大量輸送によって経費も大幅に削減されたのであった。
 幕府が整備した西廻り航路も東廻り航路も、まったく新しく開発したものではなかった。このことは、それぞれで幕府雇船となった地域廻船があったことによく示されている。東廻りで伊勢・尾張の廻船が選ばれたのは、これらが既に関東・東北地方にまで廻船網を広げており航路に習熟していたことが基盤であり、西廻りで、讃岐・備前・摂津・和泉の廻船が選ばれたのは、これらの地域の廻船が瀬戸内海を基盤としてさらに日本海沿いを東北・蝦夷地にまで進出していてこの地の航路に慣れていたからであった。こうして藩や幕府のそれぞれの必要性に応じて、全国的な水運網が整備されたのであった。
 そして以上のようにして整備された全国交通体系は、松前・対馬・長崎・薩摩(琉球)の4つの口を通じて、海外に直接通じており、この道を通って、外国産品や国産の銀・銅・諸商品が行き来していたことも忘れてはならない。幕府・藩が整備した全国交通体系は直接海外につながっており、藩や幕府、そして百姓や町人もまた、外国貿易に深く関っていたのであった。

B全国商業の展開に依存していた幕府・藩

 以上のように藩や幕府が全国交通体系の整備に尽力したのはなぜであったのか。
 これはすでに幾度も繰り返し述べているが、藩や幕府が全国的な商業の展開に依存していたからであり、全国交通体系の整備は全国的な商業の展開に不可欠であり、さらには大名・将軍の分国統治や幕府の全国統治にとっても、この全国交通網が、そのための人や情報の伝達に不可欠であったからだ。
 藩や幕府が全国的な商業の展開に依存していたことは、年貢の米や様々な産物を大坂や江戸に運んで銭に替え、それで藩や幕府の運営費用や大名や将軍家の生活費に当てていたことや米を直接家臣への給与として与えていたこと。さらには、近世編1の【19】や本巻の【21】で見たように、藩や幕府が各地で大土木工事を催して、公費と商人などの資本と合わせて、新田開発や塩田開発に努めたり、諸産業を発展させるためのさまざまな援助を行っていたことなどによく示されている。
 藩や幕府の財政は、従来考えられてきたような、年貢米だけに依存していたのではなく、各地の特産物としての農産品や工業製品を販売したり、鉱山開発者からの運上金や諸商品の自国への移入時の諸税に大きく依存していたのであった。また外国との貿易での利益も、貿易に直接携わった幕府や薩摩藩・対馬藩・松前藩などでは財政に占める割合も高く、さらに輸出品を産した地域の藩でも、貿易の利益の占める割合は高かった。元禄期に、ときの勘定奉行荻原重秀によって長崎貿易が幕府直轄とされた当時の長崎貿易の利益総額は、幕府の年貢収入の1割以上に相当していたという。だから藩や幕府は、全国的な諸産業や商業の展開を促すために、物や人、そして情報を移動させるための全国交通体系の整備に努めたのである。
 実際に幕府は交通を妨げる行為を厳しく禁止している。
 例えば武家諸法度においても交通を妨げることは禁令として定められ、1635(寛永12)年の武家諸法度では、「道路・駅馬・舟などの停滞を防止すること」や「私関と新規の津留の禁止」が定められている。津留とは、津=港で移入される品物の品改めと通行税・輸入税をとることを言う。人や物や情報の流通を妨げる関の新設や港における新たな津留の実施は、制限されていたのだ。

Cいかに交通網は整備されたのか

 また藩や幕府が、全国的な諸産業・商業の展開に依存していたことは、街道整備とともに一定の間隔で宿駅が定められ、諸役の免除と引き換えに、伝馬役・継飛脚役を宿駅となった町共同体に課していることに端的に示されている。
 伝馬・継飛脚でもたらされる物が、幕府や藩の公文書であり、早馬での使者の往来や、公文書伝達に伴う小荷物の運送であったことは、宿駅の伝馬・継飛脚制度が、藩や幕府の分国・全国統治に伴う人と情報の伝達を支えるために設けられたことを示している。そして同時に、この伝馬・継飛脚制度が、幕府や藩の公文書と人や小荷物の移動については無料で実施されたが、一定の金銭を支払えば幕府や藩の要員の私用や民間人の商用・私用での利用が可能であったことは、この制度が同時に、全国的な商業展開の基盤を作るものであることをも示している。
 実際に伝馬・継飛脚制度は大いに商業活動に利用され、江戸や京・大坂などの大都市には、飛脚問屋が設立され、海路で運んで水難によって水に濡れることを嫌う、絹織物や生糸そして小間物や家具調度品などの高級品やその原材料が、伝馬・継飛脚制度を利用して搬送された。またこの制度を利用して、商用の書類や金銭、さらには決裁のための為替も頻繁に搬送され、大坂の米相場情報を運ぶ米飛脚という制度すら設けられていたのだ。
 ちなみに、幕府公文書の搬送日数は、1696(元禄9)年では、江戸〜京都間は通常で64〜66時間、急ぎだと58〜60時間、江戸〜大坂間では通常で72〜74時間、急ぎで64〜66時間であった。江戸〜大坂間はおよそ3日で届いたのだ。商用の場合の急ぎでは、江戸〜大坂間はおよそ4日を要し、費用は金8両から12両掛かった。1両=120000円と換算してもおよそ100万円ほど。かなりの高額であり、通常は使用されない。また通常の飛脚では、書状1通を江戸〜京・大坂に送るには、20日ほどを要して124文。1文=30円として4000円弱。至急便は7日で届き、費用は通常の3倍。
 まさに伝馬・継飛脚制度は、分国・全国統治のためや商業活動のために、人や情報や金銭や物資の移動手段として整備されたのだ。だから宿駅には、公用・商用・私用の旅人のための様々な設備が設けられていた。
 宿駅には大名・将軍一行などの宿泊のための本陣以外にも、旅籠(はたご)・木賃宿・公事宿・牛馬宿・荷宿・ボッカ(歩荷)宿などの、それぞれ異なった目的をもった宿が設置された。
 旅籠は食事付きの宿屋であり、武士や商人の宿として利用された。木賃宿では宿泊者は自炊して泊まり、自炊のための薪代を払うのだが、大道芸人や助郷人足、そして日雇い稼ぎのために町に赴く人々など、庶民に利用された。そして公事宿は城下町などに設けられた宿で、幕府や藩の奉行所へ係争事件を訴えようとする訴人の宿泊・食事、さらには裁判事務を助けかつ今日で言えば、司法書士や弁護士の役割までも代行する宿であった。近世江戸時代は、法の下での統治によって社会の平安が保たれた社会であったので、武士も百姓・町人も多くの係争事件を公儀が主催する裁判に訴えたのだ。だからそのための旅人専用の宿まで設けられていた。
 また、牛馬宿は宿駅の継立て以外に非合法で荷物を裏街道を通って運ぶ人と牛馬を泊める宿で、荷物の預かりも行い、荷宿は、そうした商品の売買を請け負ったり仲介する機能も併せ持った宿、さらにはボッカ(歩荷)宿は、牛馬ではなく人の背に荷物を初って背負って商品を運搬するものを泊める宿であった。牛馬宿・荷宿・ボッカ宿は表街道ではなく、裏街道や抜け道に設けられた宿である。
 そして宿場やこれらの宿には多くの店が付随し、旅人が必要な草鞋や雨具、さらには食料や細細とした日用品まで提供する商店が、宿場町人や近在の百姓によって設けられていたのだ。
 このように街道に設けられた宿場は、公私の旅人や運送業者が文書や荷物を運んだり旅をしたりするのを手助けする機能が保持されていたのだ。
 そしてこの機能は、幕府や藩が街道の宿駅機能を、諸役や税の免除と引き換えに封建領主の命令としての「役」として町共同体によって担われていたのだ。宿駅が担った運輸・通信の機能は、藩・幕府が保持する封建的な領主権に基づいた領民への封建的賦役・租税の一部としての「役」として設定され、その役を担うことを藩・大名が認定したことで、役を担う町共同体に、運輸・通信業での独占的利益を保障する体系によって維持されたのであった。
 これは河川・海の交通体系についても同様であった。
 河川・海の交通の結節点には、湊とよばれる、河川の河口部分に出来た干潟と内海を基盤にできた天然の良港を元にした港町が古代から各地に生まれていた。そして古代以来、律令制国家や幕府がこれらの港町に役として公的な荷物や人を運ぶことを義務付ける替わりに、船を使って人や荷物を運ぶ仕事の独占権を港町に与えて水運が維持されてきた。
 江戸時代の公儀として国々を治めた藩・幕府もこの伝統を継承し、それぞれが整備した航路の重要な港町に船役という公的な人や物の輸送義務を課する替わりに、諸税・諸役を免除して、船役を課せられた港町に水運の独占権を与えていった。船役とは、藩や幕府の軍船を動かす役であると同時に、平和な江戸時代にあっては、年貢米や特産物を大坂や江戸に運ぶことや参勤交代の大名一行を運ぶことなどが主な仕事であるが、これを請負うことで、民間の商品の運送も有料で独占的に請負ったのだ。
 こうして全国の航路の主な港町には、藩や幕府の蔵や問屋の倉庫が立ち並び、水運によって運ばれる品物の売買を司る問屋や仲買商人を筆頭に、荷物を運ぶ廻船業者の宿である船宿や廻船を多数保持する船持などの豪商が軒を連ね、町には、船大工・鍛冶職人・船頭・水手(かこ)・沖仲士などの水運に関る職人たちが集住し、これらの消費を当てにした様々な小売商の店が軒を連ねたのであった。この中の船宿は単に廻船の乗組員の宿であっただけではなく、船荷の売買権限を握る船頭と問屋の間の荷物の売買の仲介をして口銭をとるとともに、航海に必要な道具や食料品などを補給する商売と船乗りに対する金融業なども兼ねた豪商であった。
 この港町の問屋と船宿が特定の廻船業者と提携して、全国的な海の輸送を独占的に担ったのだ。幕府が整備した東廻り航路での輸送は、当初は幕府米の輸送を請負った伊勢・尾張の廻船とそれに結びついた問屋・船宿が独占し、西廻り航路については、讃岐・備前・摂津・和泉の廻船とこれに結びついた問屋・船宿が独占したのだった。こうした幕府や藩と提携して海の輸送を独占したものとしては、大坂〜江戸間の諸商品輸送を独占した菱垣廻船仲間と、後にこれに対抗して主に酒を独占的に運んだ樽廻船仲間が良く知られている。

(2)商工業の発展と交通網の整備

 こうして近世初期において、全国的な交通網が整備された。このことによって諸産業・商業などはどう変わったのだろうか。「つくる会」教科書は、先の交通網の整備に続いて、産業が発展したさまを次のように記述している(p138・139)。

 18世紀のなかばごろから、産業の発展は全国におよび、関東周辺では、大阪からくる「下り物」に対して、「地廻物」とよばれるさまざまな商品が生産され、江戸に出荷されるようになった。上州(群馬県)の桐生で絹織物が生産され、京都の西陣織と競うようになったのはその代表的な例である。こうして、大阪と並び、江戸を中心とする全国的な市場が形成されていった。

 江戸を中心とする交通網の再編成が全国的な産業の発展を促し、さらには大坂・京都を中心とした経済圏に対して、江戸を中心とした経済圏が成立し、相互が結合・競争しながら発展していったということが記述されている。この点は多くの教科書では記述されていないことであり、優れた記述と言えよう。
 しかしこの記述にもいくつかの間違いと欠落がある。
 間違いは、全国的に産業が発展したのは18世紀のなかばごろからとしたことである。
 これは中世から近世初期は自給自足であったのが、幕藩体制の全国統一と平和の到来によって、そして幕府や藩が積極的に「殖産興業政策」を行った結果、近世中頃以後は次第に全国的に商工業が発展していったという、従来の機械的な発展段階論に基づく記述である。
 そうではなく、中世がすでに畿内を中心とした全国的な商工業の発展をはたしており、近世江戸時代になるTP、商工業の発展に深く依存していた藩・幕府・百姓・町人たちによって、新たな都市や交通網の整備と全国的な大開発、そして殖産興業がなされることで、中世以上に近世は諸産業が発展していったことは、近世編1の【19】【20】や、本巻の【21】【22】の記述によって明らかである。そして「つくる会」教科書が、この項の前の「諸産業の発達」や「江戸・大阪・京都の繁栄」で記述した内容そのものもまた、交通網の整備の結果でもあったのだ。
 むしろ18世紀のなかば以後の時代は、次に見るように、連邦制国家や封建制に基づく役の体系が全国的な産業の発展とぶつかり、さまざまな矛盾が噴出した時代であったと捉える方が正しい。
 また教科書のこの記述で欠けていることは二つある。
 一つは二つに分かれた全国市場の実態が記述されていないこと。
 二つ目は、産業の発展によって、各地に新たな都市が成立・発展し、そこには近世当初の城下町を核としたネットワークではなく、中心的な港町を核とした地方的なネットワークが形成されたことが記述されていないことである。
 次にこの二つの点について、少し詳しく述べておこう。

@基本通貨も異なる大坂経済圏と江戸経済圏

 実は大坂を中心とした市場と江戸を中心とした市場は、地域も異なっているし、基本通貨も異なっていたのだ。
 江戸を中心とした市場(経済圏)は、関東と東北地方の太平洋側の地域と中部地方であり、大坂を中心とした市場(経済圏)は、畿内・四国・中国・九州に北陸と東北の日本海側を加えた地域である。
 このうちの大坂経済圏が中世以来の伝統を持つ市場であり、この地域は多くの港町を中心として海外貿易に直結してきた地域である故に、基本通貨は銀であった。これに対して江戸経済圏は従来は、大坂経済圏に包摂されながらも、古代以来畿内を中心とした経済圏とは相対的に自立した経済圏として発展してきた市場で、江戸開府以降の幕府が江戸を拠点として、大坂経済圏とは異なる金を基本通貨とした新たな市場を全国展開しようとしたが、諸産業の発展した西国を凌駕することはできず、結果的に古代以来相対的に自立してきた経済圏を、江戸を中心とした金経済圏として再編したものである。
 したがって近世江戸時代の通貨は、金貨と銀貨という基本通貨が並存しており、これに補助通貨としての銅貨や紙幣が使われていたのだ。この点でも当時の日本は一つの国ではなかったことが明白に示されている

 :興味深いこととして、この二つの経済圏は日本語の方言の違いなどでも東と西とが区分される地域にほぼ照合しており、このことからも二つの経済圏は、古代以来の伝統に根ざしたものと考えられる。またこの二つの経済圏のうち江戸経済圏は、徳川氏が勢力範囲とした地方に東北の太平洋側を加えた地域であることも、興味深い事実である。

 従って近世江戸時代の日本は、政治的には200数十の藩・幕府という独立国家に分かれていたが、経済的には二つの市場(経済圏)に分かれていたのであり、大坂・京都と江戸とは、二つの市場(経済圏)の中心都市であったのだ。
 だから「つくる会」教科書が前項の「江戸・大阪・京都の繁栄」と本項において記述した大坂から江戸への物資の移動とは二つの異なる経済圏間の交易であり、近世初期においては、諸産業の発展した大坂経済圏から、諸産業の発展の遅れた江戸経済圏への物資の移動であったのだ。それゆえこの両者の関係は、大坂から江戸への商品の大量移入と、江戸から大坂への多額の金銀の移動という関係であった。またこの二つの経済圏は異なる基本通貨を持っていたがゆえに、双方の取引には、銀貨と金貨の交換比率を定め、その交換比率にそって取引を決裁するという、現在の外国貿易と同様な問題が生じていたのだ(この点については、後の商人の台頭の所で再論する)。そして先に本項で「つくる会」教科書が記述したことは、相対的に諸産業の発展が遅れていた江戸経済圏が次第に成長・発展し、大坂経済圏と競合するまでに育った姿を描いたのであり、これは近世後期・18世紀なかば以後のことであったのだ。

A京大坂・江戸に直結した港町経済圏の成立

 またこの二つの経済圏に分かれながらも全国的に諸産業・商業が発展したことは、近世初頭に、それぞれの藩の政庁所在地である城下町を中心として再編成した各地の経済圏が大きく変動したことを物語っている。
 それは近世の物資の移動の中心が陸路ではなく河川と海の航路を利用した水運を通じてであったことから、城下町を中心とした経済圏は、次第に港町を中心とした経済圏に再編成され、この地方経済圏が航路を通じて直接、京大坂と江戸に直結したものに、全国経済圏が再編成されていった。この中で各地には、城下町をも凌駕する規模と経済力を蓄えた都市が次々と出現する。
 この港町経済圏とはどのような構造を持っていたのか。
 これは各地域の主な港町を核として、そこに水路や街道を通じて結びついた地方都市、幕府や藩によっては町としては認定されなかった中世以来の伝統を持った都市や近世になって村から町へと発展した、いわゆる在郷町が結びついた経済圏である。
 先に近世編1の【20】で見たように、近世の村では商品作物が積極的に栽培され、それらを加工して半製品にしたり製品にしたりする家内工業が広く行われていた。これらの村で栽培された商品作物やそれを加工した半製品・製品の販売は在郷町の問屋商人がそれを束ね、この在郷町の問屋商人と結びついた港町の問屋が、懇意にしている船宿・廻船業者と組んで、村でできた商品を船で大坂・江戸に送りそこで販売していたのである。そして大坂・江戸で売られた商品はさらに、大坂経済圏・江戸経済圏の内部の港町経済圏を通じて各地に販売される。また大坂・京都や江戸、さらにはこれらの都市近郊の村で生産された優れた工業製品は、このネットワークを逆に辿って全国に流通したのであった。近世の商品の生産と流通は、各所の問屋が握っていたのだ。
 そしてこの港町経済圏が発展する中で栄えた港町としては、越後(新潟県)の新潟と出羽(秋田県)の酒田、そして越前(福井県)の三國が有名である。
 信濃川河口に発展した新潟の津と町は、1656(明暦2)年には1011軒の家数であったが、幕府領となり新潟奉行が置かれた1843(天保14)年には、家数5754軒・人口2万4431人を数える大都市となり、渡海船が10艘、川舟が396艘、その他の船が85艘を抱える大きな港町でもあった。また最上川河口に栄えた酒田は庄内藩の亀ヶ崎城下町と一体になった港町であったが、ここも1682(天和2)年には、家数2251軒・人口1万2604人を数える大都市となった。さらに、九頭竜川河口に栄えた三國は、福井藩の主な港に指定され福井藩の口留番所の置かれた港町であるが、1699(元禄12)年には家数1030軒、渡海船は14艘、川舟35艘であったのが、1865(慶応元)年には家数1581軒・人口6437人の都市に成長し、渡海船は64艘、川舟29艘、その他の船が53艘と大きく発展したのである。
 さらに港町だけではなく、ここを中心として発展した経済圏に属す在郷町もまた大きく拡大し、通常は1000人から5000人の人口を抱える都市となっていったが、その中でも大坂の周辺の在郷町である和泉佐野と摂津平野は人口1万人を数える都市となっていった。
 この3つの港町と2つの在郷町が皆、西廻り航路の主な中継港とその周辺の在郷町であったことは、大坂を中心とした経済圏が依然として日本の中心的経済圏であったことをも示している。
 そして港町経済圏が発展したことは、全国経済に対して当初は藩や幕府が有していた統制権が次第に骨抜きになり、実際に全国経済に携わっている商人に、市場の統制権が移動していったことをも意味しているのだ。
 なぜなら港町や在郷町は、それ自身が領主の統制をあまり受けない自由都市であった。
 城下町は政庁が存在するが故に、直接ここに町奉行所が置かれていたが、ここでも町政は町名主を中心とした町人が自治的に行ってきたことは、近世編1の【18】で見たとおりである。しかし港町や在郷町の多くには奉行所も置かれず、港町であれば問屋・仲買・船宿・廻船業者などの豪商からなる町人の代表が詰める町会所で町政が行われ、在郷町では村名主などの代表が事実上の町会所で村政(町政)を行っていたのだ。もちろん港町や在郷町でも城下町の町奉行所や郡奉行所から、それぞれを差配する問屋商人などに商品流通の統制などの指示が出されているが、実務を行うのは彼ら商人なのだから、藩や幕府の商業統制は次第に効かなくなるわけである。

(3)連邦制国家・封建制度は全国商業・交通の発展を妨げた

@何のために関の設置・津留が行われたのか?

  このように全国的な諸産業・商業の展開に依存していた藩・幕府は、積極的に全国交通体系を整備し、自国の諸産業・商業の発展に努め、江戸時代の諸産業・商業は中世以上に急速に発展していったのである。
 しかしこう見てくると、その藩や幕府が、全国的な交通の発展を阻害する要因ともなる関所を街道に設置したり、港で津留を行ったことはどう理解したら良いのだろうか。
 先に見たように、幕府の武家諸法度において私の関の新設や新たな津留は禁止されていたが、実際には諸藩も幕府も街道の藩や幕府領の境界に関をもうけて人改めや品改めを行い、藩領や幕府領の境界に位置する河川や海の主な港には口留番所を置いて、人改めや品改めを行い、通行手形を持たない旅人の取り締まりと、それぞれの領土に入ってくる品物に対して通行税を徴収していたのだ。これはどう見ても、全国的な交通の発展を妨げるものである。
 このことは、江戸時代の日本が一つの国ではなく、諸藩も幕府も、それぞれが独立した1個の国であったという事実を考えて見れば理解される。
 それぞれの藩や幕府は独立国なのだから、それぞれが出した法令は、基本的にはそれぞれの国の領土内でしか通用しない。またそれぞれの国は、それぞれ諸産業の発展の度合いが異なるから、むやみに国境を超えて他国の商品が入ってくることは、自国の産業の発展を妨げる要因ともなるし、むやみに他国の商品を買うことも、国の富みが他国に流出し、国が衰える原因となる。だから江戸時代の藩や幕府は、自国の治安を守り、自国の産業を守るために、国境を通過する人や物の管理をする必要があったのだ。江戸時代の街道に設けられた関所や港に設けられた口留番所は、現代で言えば、出入国管理事務所であり税関であったのだ。
 だから諸国の街道には関所が設置され、諸国の主な港にも口留番所が設置され、人の出入りや品物の出入りを監視し、犯罪者を取締り、領国に入ってくる品物には税金を課していたのだ。そして国を超えて公用・私用で旅をする者には、目的地と用向きを記載した公儀の旅行許可書である関所手形の携帯が義務付けられたのだ。これは現代のパスポートである。

A商工業の発展とぶつかった連邦制と役の体系

 しかし諸街道に関所を設置したり港に津留番所を置いたりした近世の交通政策は、諸産業・商業の全国的な発展に寄与しただけだったのだろうか。
 「つくる」会教科書を始めとしてほとんどの教科書は記述していないが、日本が200数十の国に分かれ、それぞれに国と国との境の関所や津留番所で人や品物が改められ税金が徴収されたことは、すでに列島縦断的に人や物や情報が行き来していた江戸時代において、全国的な人や情報や物の移動に妨げになった可能性が見て取れるのだ。また海陸の運輸・通信・交通は、幕府や藩からそれを役として課せられた港町や宿場町が独占的に担ったのだが、商工業の発展は必然的に交通量を増やすわけだから、この封建的な役の体系によって作られた独占的な交通網は、そのままでは交通量の拡大に沿って拡大できないわけだから、当初は交通の発展を促進した制度が、交通の発展に従ってしだいに、それを阻害する要因に転化する危険性は容易に見て取れる。
 この点は実際はどうだったのだろうか。

(a)増大する抜荷と関所破り
 18世紀ともなると関所や口留番所の検閲は、商品輸送の発展によって次第に緩んでいった。
 1718(享保3)年には幕府は、唐物の抜荷取締り令を出し、西国大名に藩内の口留番所で厳重に検閲するように命じている。つまりそれだけ口留番所での検閲が緩んでいたことを示している。そして18世紀後半ともなると、各所で抜荷が問題となり、抜荷を行っているものを宿駅が幕府や藩に訴えるという係争事件が多発している。つまり商品流通が盛んになるにつれて、関や口留番所を避けて商品を輸送することが多くなり、それを請負う新興の運送業者も現われて、関所を避ける間道を伝って輸送したり、口留番所を避ける航路で商品を輸送する廻船業者も現われたのだ。したがって運送業の独占権を保持していた宿駅や港町の側は、新興の運送業者が関所や口留番所を避けて輸送することで彼らの独占権が崩れ、営業利益が低減することから、このような新興の商人の行為を抜荷として訴えたのである。
 抜荷が横行するのは、関所や口留番所を商品を通すと通行税を取られるからである。例えば、1692(元禄5)年に幕府領となった飛騨国には31ヶ所の口留番所があったが、ここで取られる通行税は、1810(文化7)年だけでも総計で894両余りの高額に及んでいる。関所や番所の存在は、商人にとって利益を損なう存在であったのだ。
 そしてこの頃になると、各所で関所破りが常態化する。関所の近在の村や宿駅には、手形を所持しない旅行者を料金をとって関所を避ける間道伝いに案内する者まで現われたのだ。
 通常は男が旅をするには関所手形は必要はなかったが、それでも関所や口留番所に来ると、身分・名前・旅の目的を聞かれるので面倒なので、関所手形を所持することが多かった。また女性の場合には、関所手形を持っていても、手形で身分・名前・旅の目的を確認されるだけではなく、さらに別室で髪を解かせて中に何か隠し持っていないか調べられるという、とても煩瑣な手続きが必要であった。
 そしてその関所手形を手にするには、百姓・町人の場合には、町役人か村役人にその旨を申告し、そこから町奉行所や郡奉行所を経て領主の政庁に伺いが立てられ、そこで審査されてようやく手に入れられるという、煩瑣なものであった。さらに女性が例えば奥州から江戸を通って関西に向かう場合には、通常の手形を手に入れるだけではなく、江戸に入るための手形を領主を通じて幕府留守居から発行してもらわねばならず、さらに帰りに江戸を通るのだから、その場合には京都所司代か京都町奉行から手形を入手しなければならない。女性の場合にはとても煩瑣な手続きがいったのだ。
 だから関所破りが横行し、それを助けることを生業とするものまで現われた。
 では幕府は、このような事態にどう対処したのか。
 実は抜荷も関所破りも、本来は磔(はりつけ)という重罪に処せられるはずなのだが、重罪になることはあまりなかった。
 それは、平和になって大名家族や人質の逃亡を恐れる必要も、武器の流入を恐れる必要もなくなったからであり、同時に人や物の交通量が多くなるにつれて、関所破りや抜荷も増え、これを一々厳罰に処していては社会が混乱するし、関所破りや抜荷が発覚すれば、関所や番所役人の落ち度となって、彼らが処罰されてしまうからであった。従って関所破りの現行犯逮捕はあまり行われなかったし、抜荷も、抜荷として訴えられたものが、宿駅や港町側に詫び証文と金子を出して謝罪する形で処理されることが多く、場所によっては、抜荷が長い間横行したことによって事実上関所や口留番所を経ない輸送が恒常化することにより、間道輸送や口留番所を経由しない船舶輸送が許可される例すらあったのだ。
 また江戸末期になると、関所の手前の宿場や村が、関所手形を売るという行為も広く行われていた。あるいはこれは、関所破りとそれを助ける商売の横行に対して、幕府が関所手形の販売という行為を許可することにより、関所破りを合法化したものであろうか。
 幕府や藩も全国的な商品流通に依存している以上、それを阻害することはできなかったのだ。

(b)次第に崩れる「役」による独占体制
 また抜荷が事実上許されるということは、伝馬・継立飛脚を役として課せられる替わりに、運送・通信を生業として独占した宿駅町の独占体制が崩壊しつつあるということを示している。
 実際に交通量が増えてくるに従い、宿駅機能は次第に崩壊していった。
 なぜならば一つは、公的な伝馬・人足の利用は無料であったが、全国的な商工業の発展に伴って幕府の公的な利用も増大し、宿駅が伝馬・人足役を務める替わりに支給される給米では採算が合わなくなるからであった。また二つ目には、定められた馬と人足の人数だけでは公的・私的な利用の増大に対応できず、従って不足した分の輸送量は公的な伝馬・人足ではなく、宿駅以外の街道沿いの町や村の住民が非合法で輸送業を行って対応したので競争が激化し、宿駅の利益が低下し採算が合わなくなったからである。
 東海道ではすでに1604年の段階で多くの宿駅ではない町が駄賃稼ぎで伝馬・人足を出していることが、公的文書にも記されていた。この年に東海道戸塚町が人馬継立免許を願い出た願書には、江戸・小田原間での伝馬役を負担せずに駄賃かせぎをしている町が大小20ヶ所もあると記している。幕府による伝馬役が設定される以前から、街道沿いの多くの町が人馬継立に従事していたのを、幕府が特定の町に限って宿駅に指定したのであり、そもそも役の体系としての宿駅では、必要な輸送量に不足していたことが見て取れる。
 だから宿駅の機能は漸次拡大していった。
 東海道の宿駅で常時準備しておく人馬の数は、1601年当時は馬は36疋で、馬1疋につき約40坪の町屋の地子(税)を免除する定めであった。しかしそれでも不足していたので、当初宿駅に指定されなかった町が次々と伝馬継立を願い出て新たな宿駅として指定されていった。そうして東海道53次と呼ばれる宿駅が確定したのは、寛永年間のことである。しかしそれでも不足は生じており、早くも1638(寛永15)年には、常備伝馬は100疋に拡大され、1疋につき免除される町屋の面積も100坪に拡大された。そして常備人足も100人に定められたのだ。それだけ交通量が増大したのだ。
 しかし実際には宿駅は定められた人馬を常備できなかった。
 1638(寛永15)年の東海道水口宿の常備伝馬は63疋、1643年には31疋であり、1642(寛永19)年の東海道保土ヶ谷宿の常備伝馬は47疋。したがって伝馬・継立飛脚は宿町共同体が幕府から請負ったのだから、不足した分は個々の伝馬負担者や人足の負担として圧し掛かり、次第に宿駅は困窮していった。
 では幕府は増大する交通量に伝馬・継立飛脚役を負担した町の力では対応できなくなったとき、どのように対応したのか。
 幕府の対応策は、伝馬・継立飛脚役を負担して宿駅機能を果たしている町の周辺の町に新たに伝馬・継立飛脚役を負担させたり、さらに1694(元禄7)年には、宿駅の周辺の村に助郷役として、村高に応じて人馬を提供させる制度を定めていった。
 この助郷役は、負担する人馬の数に応じて、村の年貢・諸役を減じるという形で、宿駅周辺の村に、伝馬継立の人馬を出させる制度であった。そして助郷役は次第に拡大し、宿駅の至近距離の通常は定助郷2・30ヶ村が順番に助郷を負担し、それでも足りないときは、さらに遠くの増助郷の100ヶ村余が負担し、人馬を出せない村には、村高100石につき金いくらという形で費用を負担させる制度となっていった。
 それでも宿駅が常備する人馬では、増大する交通量をさばくには、かなりな無理があった。
 実際に宿駅の伝馬・継立飛脚では、公用が優先されたため、飛脚問屋が扱う荷は宿駅で後回しにされて渋滞することが多かった。1782(天明2)年、幕府は江戸の定飛脚問屋9軒に、その荷に「定飛脚」と書いた札をつけることを許し、荷物に付きそう飛脚問屋の宰領には定飛脚問屋の焼印札を持たせて身元証明とし、荷物が渋滞しないよう取り計らうことができるようにした。そしてもし宿駅で人馬が不足した場合には、助郷馬を使ってでも至急定飛脚問屋の荷物を急送するように命じたのだ。
 封建領主が役という形で伝馬継立を特定の町や村に負担させ、その替わりに運輸・通信業を独占させる体制では、増大する交通量に対応しきれなかったのである。解決策はただ一つ。役の体系として領主に無料で奉仕させる替わりに商売の独占を許すのではなく、職業・営業を自由にし、伝馬・継立の公的な利用の場合も、正規の料金を払って利用する体制に転換する以外になかったのだ。このような解決は、結局明治維新後に実現した。
 また海の交通においても同様なことが起きていた。
 幕府が領地の年貢米の輸送を特定の地域の廻船業者に役として課したということは、その航路における物資輸送を特定の廻船業者とそれと結びついた問屋が独占できることを意味していた。最も物資輸送が盛んであった、大坂・江戸間において、諸商品の輸送を独占した菱垣廻船仲間やそれと対抗して酒の輸送を独占した樽廻船仲間がその典型であった。
 しかし商品の輸送と販売を特定の廻船業者と問屋が独占するということは、しかも輸送された商品が、塩や米・砂糖に醤油・油・木綿に〆粕(肥料)などという生活必需品であったのだから、諸商品の価格の高騰につながり、生活必需品の品不足を生じる怖れが大であった。
 したがって18世紀の始めから後半ともなると、大坂・江戸間の独占的商品輸送販売を行ってきた廻船・問屋仲間に対抗して、新たな廻船・問屋仲間が出現し、菱垣廻船や樽廻船と熾烈な競争を演じるようになった。
 それが内海船と呼ばれる廻船集団と、それと結びついた問屋仲間である。
 内海船を担ったのは、三河の知多半島の廻船集団であり、彼らは西国の兵庫港と東国の神奈川港を拠点にして、東西の物資輸送を頻繁に行っていった。
 彼らが兵庫から神奈川に運ぶ物資は、九州・四国や伊勢の米と瀬戸内の塩や砂糖、さらに畿内産の油や北国産の〆粕などであり、兵庫から神奈川までの航路の途中の港にも立ち寄って品物を売り、さらに関東に持って行く品物も買いこんで、神奈川まで諸国の品物を運んだのだ。彼らが運ぶ塩は内海船の拠点である知多半島の味噌製造の原料ともなり、さらに〆粕は、当地でも盛んな木綿栽培の肥料でもあった。そして神奈川で陸揚げされた物資は、内海船と結んだ問屋商人によって、陸路を通って相模・武蔵の内陸に運ばれたり、さらには小船に積み替えて江戸湾を横切り、行徳あたりで川に入り、さらに内陸の関東北部や東北にまで品物は運ばれたのである。また、神奈川から兵庫に運ばれた物資は、相模や下総の大豆や麦と干鰯であり、これは三河地方や畿内の醤油や味噌の原料として、さらに木綿栽培の肥料として使われたものであった。
 こうして大坂・江戸間の物資輸送における菱垣廻船や樽廻船の独占は崩れ、双方の問屋集団による幕府への独占権の申請合戦が繰り広げられ、菱垣廻船仲間や樽廻船仲間を通じて江戸・関東に入る物資を統制し価格も統制しようとした幕府の政策も破綻していったのである。
 同じことは西国でも起きていた。
 良く知られているのは、北国と畿内との間の物資輸送に携わった北前船である。
 これは北陸の廻船業者・船頭が瀬戸内の廻船を雇いあげて行ったもので、これも兵庫港を基点として北国との間で物資輸送に携わった。
 兵庫から北国へ運ばれたものは、酒・紙・タバコ・木綿・砂糖・古着などであり、これを西廻り航路を逆に辿って北陸・東北の日本海沿いや蝦夷地まで、途中の港に立ち寄って商売しながら運ぶものであった。そして帰路には、蝦夷地産の昆布・鰊・身欠き鰊や白子さらには干鰯などを積んで、西廻り航路をたどって諸港で商売しながら兵庫まで物資を運ぶというものである。北陸の廻船業者・船頭は春先に陸路で大坂へ下り、兵庫港に回しておいた廻船に品物を積みこんで北国を目指し、蝦夷地には5月下旬に到達。そこから品物を積みこんで兵庫に帰りつくのが11月という日程であった。
 こうした地域廻船が全国各地を結びつけて物資の輸送に携わる例は、この二つ以外にも数多くあり、兵庫港や神奈川港のように幕府によって廻船の寄港地として指定されず、船役も課されないかわりに幕府や藩の公的な物資輸送の独占を通じて商品輸送にも独占的地位を築くことができなかった港町が、全国的な商品流通の拡大に応じて新たな廻船集団と結んで力を伸ばし、大きな力をもった港町となっていったのだ。
 幕末の開国によって開かれた5つの港の中に、幕府領の公的な港町としての長崎・新潟と並んで、新たな廻船仲間の登場によって力を得た兵庫と神奈川が入っていたのは上に見たような背景があったのだ。そして蝦夷地の函館が入っていたのも、函館が西廻り・東廻り航路によって大坂・江戸経済圏と深く結びついて、(中国・ロシア)―蝦夷地―大坂・江戸経済圏の結節地として発展していたことが背景にあったのである。
 こうして海の交通も、藩や幕府の封建的な役の体系としての船役を負担した港町の廻船集団・問屋仲間の独占を超えて発展し続けていたのである。
 交通網の整備と交通の全国的発展の過程を見るとき、近世江戸時代における諸産業・商業の発展はすでに、200数十に分かれた封建領主の独立国家の連邦という近世の国家体制を超え、それの統制とぶつかりながら拡大していた様がよく見え、近世江戸時代が、近代を準備した前期資本主義社会の段階にあったことがよく示されている。

注:01年刊の旧版では、「交通路の発達と商人の台頭」のあとに、「知多半島(愛知県)の内海船」と題したコラムが付随している。ここでは、「寛政期から文化・文政期(18世紀末から19世紀はじめ)になると、江戸と大坂を結ぶ樽廻船や菱垣廻船と並んで、知多半島を拠点とする内海船とよばれる船団が勢力を伸ばし、江戸から下関にいたる海上輸送をになうようになった」と記述している。すなわち上に指摘した、18世紀後半以後における海上輸送の独占体制の崩壊に関る記述がなされていたわけだ。しかし残念ながら旧版の記述では、内海船の出現と発展が菱垣廻船・樽廻船の独占を壊すものであったことは全く触れられず、この地域が古くから水運が発展した地域であったことや、知多半島では江戸時代になってから、酒造業や味噌の醸造、木綿の栽培が盛んになったという、内海船の活動の背景を述べるだけに留まっている。しかしこの興味深いコラムもまた、05年の新版では、完全に削除されてしまっている。

注:05年8月刊の新版では、「交通路の発達」についての記述は大幅に削減され、「産業と交通の発達」の項の最後に、「幕府は、江戸を中心として東海道など五街道を整備し、宿場を設けた。関所を置いて人々の通行を管理する一方、手紙を運ぶ飛脚の制度をつくり、交通・通信の便宜をはかった」と申し訳程度の記述になってしまっている(p111)。間違いや欠落があるとはいえ、江戸時代における諸産業の発展と封建的諸侯の分立と連合という体制との密接な関係と矛盾が良く見える記述がほとんど削除されてしまったことはとても残念であり、「つくる会」の歴史観からは社会・経済史の視点はますます希薄になっていることを示すものであろう。

注:この項は、山口啓二著「近世における公私の交通」(1987年岩波書店刊・日本の社会史第2巻「境界領域と交通」所収)、丸山雍成著「街道・宿駅・旅の制度と実態」・渡辺和敏著「関所・口留番所の機能と運営」・渡辺信夫著「船による交通の発展」・藤村潤一郎著「情報伝達者・飛脚の活動」(1992年中央公論社刊・日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、渡辺信夫著「近世の交通体系」(1993年岩波書店刊・講座日本通史第11巻「近世T」所収)、谷山正道著「上方経済と江戸地廻り経済」・斉藤善之著「変貌する東西流通―尾州廻船内海船と神奈川・兵庫」(1994年中央公論社刊・日本の近世第17巻「東と西 江戸と上方」所収)、大石学著「首都江戸の誕生―大江戸はいかにして造られたのか」(2002年角川書店刊)、村井淳志著「勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した経済官僚」(2007年集英社新書刊)、平凡社刊「日本史大事典」の該当の項目などを参照した。

(4)商人の台頭と封建制度

 交通路の発達と全国的な市場の拡大について記述したあとで、「つくる会」教科書は、商人が台頭したさまについて、次のように記述している(p139)。

 流通や取引の規模が大きくなると、江戸や大阪に各種の問屋が生まれ、呉服商の三井や鉱山業の住友など大商人たちが勢力を伸ばした。そして、取引のための貨幣を扱う、今日の銀行のような両替商も誕生した。大商人たちは株仲間を結んで、取引の安全をはかる一方、競争を排除して営業を独占し、大きな利益をおさめた。幕府や藩は、こうした大商人から借金をして、彼らの財力に依存するようになっていった。

 なんとも疑問の多い記述である。
 第1に江戸や大坂に各種の問屋が生まれたとはどういうことなのか。問屋そのものは平安時代から存在する。なぜ教科書はここで始めて「各種の問屋」の出現を特記するのか。
 第2に、勢力を伸ばしたという大商人が二つ書かれているが、なぜ三井と住友だけなのか。そして大商人はいかにして勢力を伸ばしたのか。この点は全く記述されていない。
 第3に、教科書はここで始めて両替商について記述した。両替商そのものは既に中世において、おそくとも室町時代には活動している。わざわざ江戸時代の個所で始めて記述した目的は何なのか。そして江戸や大坂に両替商が出現したことの意味は何か。
 第4に、教科書は株仲間について記述したが、この記述を見る限り、これは中世に存在した座とその機能はまったく同じである。では江戸時代になって大商人が株仲間と呼ばれる座を結成したことはどんな意味があるのか。そしてどのようにして営業を独占したのか。
 第5に、幕府や藩が大商人から借金をし、彼らの財力に依存したことが記述されているが、なぜ幕府や藩は大商人からの借金に依存したのか。そしてそのことの意味は何か。
 こういう疑問について、この教科書は何も答えない。極めて羅列的な記述である。
 では実際にはどうだったのか。

@商品流通の拡大を示す「各種の問屋」の出現

 教科書の記述のしかたでは、江戸時代になってはじめて問屋という商売が生まれたかのような受け止め方をされるものであるが、問屋はそもそも「問い屋」と言って、港町や宿町で荷物を預かって運送し、それの販売をも請負う商人で、すでに平安時代末期にはその存在が確認されている。そして当時から問屋は問職と言って、このような業務を行うことを公的に承認され、伝馬や年貢輸送などを請負う替わりに運送業務を司る権限を有しており、各所で物資の輸送と販売を独占的に行うものであった。問屋という商人は、港町や宿駅、さらには交通の要所となる町にはかならず存在したのだ。
 では教科書の「大坂や江戸に各種の問屋が出現した」という記述はどういう意味なのだろうか。
 おそらくこれは、大坂と江戸の間での商品取引が拡大するにつれて、当初はどんな商品でも扱う「諸色問屋」という問屋が大坂・江戸間の商品流通を担っていたのが、17世紀後半以後になると次第に専門の問屋が生まれ、米なら米問屋、木綿なら木綿問屋といった具合に、それぞれが特定の商品を専門に扱う問屋が生まれ、大坂で木綿を仕入れる問屋から江戸の木綿販売を行う問屋へと荷物が運送されるように変化したことを指しているのであろう。だからこそ教科書は、「各種の問屋」という表現をしたのだ。
 17世紀末の江戸には、各種の専門の問屋が生まれた。それは、米問屋・塗物問屋・畳表問屋・酒問屋・紙問屋・綿問屋・薬種問屋・小間物問屋・呉服問屋・材木問屋などであった。17世紀後半から18世紀ともなると、それぞれの商品の専門の問屋が取引をしなければならないほど、全国的な流通の拡大があったのであり、大坂・江戸間の商品流通も拡大したのだ。

A大商人登場のそれぞれの背景

 また、教科書が挙げている大商人は、呉服商の三井と鉱山業の住友であるが、どのようにしてこうした大商人が力を伸ばしたのか。当時の経済の実態に則して見てみよう。
 実はそれぞれの大商人によって、大きな力を得た背景は異なっていた。

(a)現銀掛値無し商法で栄えた三井呉服店
 教科書が取り上げた三井呉服店は越後屋の屋号を持つ呉服店で、呉服だけではなく綿織物や麻織物など庶民向けの衣服の卸し・小売も行い、両替店も持つ大商人であり、大商人の浮き沈みの激しい江戸時代を生きぬいて明治維新を向かえ、明治以後の日本の産業の中枢を担った三井財閥を築いた商人である。そして三井越後屋が日本を代表する商人となった背景には、江戸時代の庶民の生活が豊かになり、豊かになった庶民を相手にした新しい商売を始め大成功したことがあったのだ。
 三井はもともと近江(滋賀県)六角氏の城持ちの家臣で、主家の六角佐々木氏から養子を貰ったために紋所も主家と同じ四ツ目を家紋とする、越後守を名乗る武士であった。それが主家の滅亡後に伊勢松坂に移り、その後松坂で質屋・酒屋を商って繁盛し、越後屋を名乗る商人となった。そしてさらに松坂木綿を江戸で販売する店を出し、さらに呉服(絹織物)の店も出して、1673(延宝元)年には大名などの富裕層を顧客とする呉服店の建ち並ぶ、江戸本町1丁目(東京都中央区)に呉服店越後屋を開業し、京都に呉服の仕入れ店も開いて大商人の仲間入りを果たした。また当時急速に都市規模を拡大し30万の人口を数えて多くの庶民の住む江戸という大都市の特性に着目し、1683(天和3)年には店を駿河町に移転し、「現銀安売無掛値(かけねなし)」の革新商法を掲げた。
 この商法は、従来の呉服屋が大名や大商人など富裕層を顧客とし、反物を担いだ丁稚・手代が顧客の家を巡って反物の販売と呉服の仕立てを請負い、代金は盆暮れでの付け払いで行った掛売り商法とは根本的に異なったものであった。
 それは店先で反物の販売と仕立てを請負い、代金は現金払い、そして店内に仕立て職人を多数雇い入れて顧客の注文にすぐさま応じて呉服を仕上げるという商法。従って現金売りであるため付け払いと違って代金の受け取りが確実であるために、通常よりは安価に呉服を提供できる。そして庶民でも呉服を利用できるように、既に仕立てた呉服を店に掛けておいて販売したり、反物の端布に至るまで現金売りで販売するという方法で、膨れ上がる庶民層の懐をあてにした商売であった。
 また三井呉服店は呉服を扱うと同時に、庶民向けの綿織物・麻織物の卸・小売も行い、駿河町の呉服店の向いには、綿織物・麻織物を扱う向い店も設け、江戸の庶民だけではなく、周辺の村の百姓を顧客とする行商人をも束ねていたのだ。
 この三井呉服店の新商法は大当たりをし、店は急速に拡大し、18世紀後半ともなると三井の営業店舗は全国に15店舗を数えるに至る。
 京都には呉服仕入れの京本店と、西陣織物仕入れの上之店と絹織物の紅染加工店の紅店。さらに両替店を一軒と、糸絹問屋の間之町店と糸店。そして大坂には、呉服小売店の大坂本店と大坂両替店。さらに江戸には呉服小売の江戸本店・芝口店と、木綿・綿・関東絹小売店の江戸向店や糸物・組糸類小売店の江戸糸見世。それに江戸両替店。最後に松坂には、木綿仕入れ店の伊勢松坂店。都合15の店舗を構えるにいたった。また三井呉服店は目を見張るような大店舗であり、このような大店舗が集まる地域は、江戸や大坂の繁華街名所として浮世絵にも描かれることとなる。三井江戸本店の間口は35間、63m。江戸向店の間口も32間、57.6m。巨大な店であったのだ。
 この大商人の売上は、江戸本店が最高の売上を記録したのが1785(延享2)年、銀で1万3835貫目を記録している。金1両=銀60匁とすると金23万583両。一日平均600両余り。1両=120000円として換算すれば、日に7200万円の売上である。そして三井の経営する全店舗で働く従業員は1000人を超え、出入りの職人や商人も1000人規模。三井が所有する店舗や土地を借りて暮らす商人の数も1130軒を超え、米の値段の暴騰などで都市民が食えなくなったときに、三井がお救い米を出す庶民の数は、2000戸を超えるという巨大な力をもった大商人となったのだ。
 さらに三井両替店は幕府大坂蔵米の販売を請負い、その代銀の為替支払いも請負い、大名だけではなく、同業の大商人や庶民への金融にも手を染め、日本屈指の大商人へと成長した。
 まさに三井呉服店が日本屈指の大商人になり、明治期以後に財閥として栄えた基礎は、拡大する商工業と商品取引、そして豊かになりつつある江戸や周辺の村の庶民を主な顧客とした商売にあったのだ。
 こうした庶民相手の商売で財をなした大商人は、三井呉服店だけではなかった。
 呉服店で言えば、大丸呉服店・白木屋呉服店・松坂屋呉服店など、現代に至っても巨大百貨店として栄えている商人が多数いたのである。また呉服店以外でも、大坂で酒醸造業を始めて巨利をはくし、海運業にも手を広げて財を蓄え、さらには両替店も開いて、後には両替商一本で生計を立て大名貸し・庶民貸しなど手広く商売して栄えた鴻池も忘れることはできない。

(b)幕府・藩と固く結びついて発展した銅屋・住友家
 これに対して銅商人の住友は違った方法で巨利をはくし、大きな力をもった商人であった。
 住友はもともとは越前(福井県)丸岡城主であったが、後に京都で書籍の出版と薬種商を営む商人となった。そして2代友以(とももち)が実父の蘇我理右衛門が開発した銀銅分離の新技術・南蛮吹きを習得して銅屋泉屋を起こし、1630(寛永7)年に大坂に本拠を移してこの地の銅屋筆頭となり、銅の精錬と銅貿易、さらに輸入貿易と銅鉱山開発に手を伸ばした。そして以後、出羽(秋田県)阿仁銅山・出羽(山形県)幸生(さちう)銅山・下野(栃木県)足尾銅山・備中(岡山県)吉岡銅山などを開発して財をなし、とりわけ1690(元禄3)年には伊予(愛媛県)で別子銅山を発見開拓しその経営権を得るや日本を代表する銅屋となり、巨万の富を蓄えることとなった。住友家が抱える銅山の多くは日本屈指の産銅量を誇る銅山で、別子銅山は1698(元禄11)年には年1500トンの、さらに阿仁銅山も1708(宝永5)年には2160トンの、それぞれ最高の年あたり産銅量を記録している。
 住友が銅屋として力を持ったことが、この大商人の富の源泉であった。
 なぜならば、このころ銅が日本の海外貿易における主な輸出品になっていたからだ。
 日本の海外貿易の主な輸出品(事実上の決裁通貨)は主に銀であったが、次第に銀産量が低下して国内の通貨需要にも不足をきたすようになると、幕府は銀の輸出を規制するために1685(貞享2)年、長崎における貿易量を定めた。それでも銀の流出の削減がうまくいかなかったので、1695(元禄8)年には定高を超える分の輸出を銅で支払うことを許し、以後銀の替わりに銅の輸出を奨励していった。しかし次第に国内の銅産出量が低下したため幕府は、長崎における輸出銅を確保するために1701(元禄14)年、大坂に銅座を設け、国内の産銅を全てここで買い取ることにした。こうして以後江戸時代を通じて銅は長崎貿易の主な輸出品となり、国内産の銅は全て大坂銅座が買い取り、住友は大坂銅屋の筆頭としてその差配を支配し、大きな利益を確保し続けたのである。
 こうして幕府との銅の取引を通じて財をなした住友は、大坂では諸藩の蔵元を務めて年貢米や特産物の販売を請負うとともに、諸藩の掛屋としてその財政を担い、さらには1746(延享3)年には江戸に札差屋を出店して幕府との繋がりを強めた。そして札差として旗本・御家人の給与である蔵米の販売を独占することで旗本・御家人への高利貸しとしても巨利を得、1805(文化2)年には、本両替商として為替業務にも進出し、幕府や諸藩への貸し金も行い、巨富を築いたのだ。

 住友は三井とは異なり、徹頭徹尾、幕府や藩との結びつきで巨利を得、大きな力を持った大商人だったのだ。
 しかし住友も外国貿易が江戸時代の人々の豊かな暮らしを維持することにとって不可欠であったという、豊かな社会を背景に力を伸ばしたことは三井と同じであったし、庶民向けの衣料品の販売で巨利を得た三井が、その巨額の富を背景にして、幕府御蔵米の販売や代銀支払いを請け負ってさらに富を蓄え、有力な両替商として大きな力をもったことは、住友が幕府・藩との蔵米などの販売の結びつきを通じて札差・両替商として力をもったことと同じである。
 この意味で江戸時代において大商人が次々と出現して大きな力を持った背景には、豊かな社会の出現とそれを統治する藩・幕府との結びつきがあったとまとめて良いだろう。

B巨大な両替商出現の背景には商品流通の拡大があった

 さらに、「つくる会」教科書は、ここで始めて両替商という商人について言及している。これでは江戸時代になって始めて両替商が生まれたかのような印象を持ってしまうがそうではなく、両替商はすでに中世において活動している。
 ではなぜ江戸時代の個所で始めて、両替商について言及したのだろうか。
 江戸時代の京都・大坂・江戸に生まれた両替商は、本両替と言って、為替の振り出し(発行)と割引(現金化)を行う、専業の大商人のことであり、昔から各地の町に存在し、他の商店も兼ねて、単位の大きな貨幣を小額の貨幣と両替する銭両替とは区別される。そしてこの本両替も中世から存在はしていたのだが、江戸時代になって当初は京都に、そして以後は大坂と江戸に本両替を行う専業の両替商が何軒も現われたのであった。
 これは、江戸と大坂との間で相互に商品と金銀が流通したからである。
 江戸時代になると江戸とそれを中心とする経済圏が発展し、従来から発展していた京大坂を中心とする経済圏との間で活発に商品取引が行われた。そして藩や幕府も上方経済圏の中心的港町であった大坂に蔵屋敷を置き、そこに年貢米や領内の特産物を運び込んで販売するようになると大坂が上方経済圏の中心となり、そこと江戸との間で商品取引が活発になった。
 しかしこの二つの経済圏間の商品取引は江戸時代を通じて、大坂から江戸へ諸々の商品が大量に下されるのに対して、江戸から大坂へ上る商品は少なく、江戸から大坂へ上るのは、江戸の問屋から大坂の問屋への取引決裁の金銀だった。そして藩・幕府と大坂商人との取引は、大坂へ米や特産物が上るのに対して、その販売代金が大坂の問屋から江戸の藩・幕府の政庁へと下される。大坂と江戸の間の商品流通は、問屋同士の場合は商品が大坂から江戸へと下り金銀が大坂へ上る。これに対して大坂の問屋と幕府・藩との場合は、大坂から江戸へと金銀が下り、江戸(または諸藩・幕府の領地)から大坂へと米や諸商品が上る。ちょうど反対の構造になっていたのだ。
 したがって当時の金銀は鋳造貨幣であったために決裁のために遠路を運ぶのは大変であり、商品と金銀との逆の流れを利用して、大坂・江戸間の為替による決裁が大いに流行ったのである。そのため江戸・大坂の両都市に、為替決裁を専業とする本両替の大商人が出現した。「つくる会」教科書が記述した「両替商」とは、この本両替のことだったのだ。
 またこの本両替商は、先に見た三井・鴻池や住友のように、他の商売で巨利を博した商人が、その商売の利便の必要性もあって、別家に専門の両替商を経営させて始まったものが多い。そしてその多くは、幕府や藩の大坂蔵米の販売を一手に引き受けてその代金の為替振り出しを請負い、大坂で下された金銀を近在の町人の営業資金として貸出して巨利を博していた。
 大坂や江戸で巨大な専業の本両替商が出現したということは、それだけ江戸時代の大坂・江戸を中心とした商品流通の巨大さを示しており、さらに藩や幕府もこの商品流通に深く依存していたことを示すものである。

C株仲間公認の背景には、幕府の流通政策が介在していた

 また教科書が記述した、大商人たちが職種ごとに結成した株仲間とは、中世の座と同じものである。しかし戦国時代後半から近世にかけての大名は商品流通を自由化することで領国の富の増大をはかっており、中世において座を保護してきた寺社・公家勢力の衰微によって、商工業者の同業者組合=仲間としての座は、近世においては公権力との関係をもたず、私的な仲間として存続した。
 同業者組合=仲間は、文字どうりに同種の業者が仲間を組むことで商売の安全をはかることが本来の目的であり、その過程で仲間以外の同業者を商品取引から排除することで、商売の独占を図っていくものであった。したがって近世においては当初は、公権力との関係を持たず、私的なものとして結成されたのだが、藩や幕府も商品流通が拡大し、それに大いに依存するようになると、同業者組合=仲間の力をあてにしてそれを公認し、一定の役割を請負わせる替わりに、商売の独占を認めるように変化したのだ。
 たとえばこれは、大坂・江戸間の諸色輸送を担っている菱垣廻船の江戸側の船手を支配している江戸十組問屋仲間の歴史に良く示されている。
 この十組問屋仲間が結成されたのは1694(元禄7)年のことである。
 集まった問屋仲間は、塗物店組・表店組(畳表問屋仲間)・酒店組・紙店組・綿店組・薬種店組・通町組(小間物諸色問屋仲間)・内店組(小間物問屋仲間)・釘店組・河岸組(水油問屋仲間)の10組の問屋仲間である。結成の理由は、しばしば菱垣廻船が大坂から江戸に廻船される途中で難破した場合の処理を巡って、難船処理を請負っていた船問屋との交渉を有利にするためであった。
 船が難破した場合には、無事な荷物や水に濡れて残った荷物を売りさばいて、その代金から船主の掛かりを差し引いて、残りを荷主に納めるのだが、しばしば船頭と船問屋が結託して難破したことにし、勝手に荷物を売りさばいたり、高価な品物だけ抜いて売りさばき、残りは皆海に捨てるなどの濫妨狼藉を働くのだが、処理を船問屋に任せている限り荷主は手が出せなかった。それを菱垣廻船の荷主である江戸の問屋仲間が大連合して荷主仲間をつくり、共同で難船処理に当たることで、船頭や船問屋の不正を防ごうというものである。
 こうして航海の安全のためにつくった江戸十組仲間であったが、荷主が結束することで船問屋との廻船運賃交渉も有利に進み、大坂でも江戸向けに商品を売る問屋が菱垣廻船仲間を結成して江戸十組仲間と連合することで、この二つの問屋仲間は次第に、大坂・江戸間の商品輸送を独占するようになり、江戸大坂間の商品輸送は菱垣廻船の独占となったのだ。
 このように江戸や大坂では17世紀の後半には各種の仲間が結成され、さらに十組問屋仲間や菱垣廻船仲間のように問屋仲間の大連合体までできていたのだ。しかしこれらは幕府に公認されたものではなく、あくまでも私的な団体であった。
 幕府の方針が変るのは、商品流通がさらに拡大し、とりわけ江戸が大坂からの大量の商品の移入によって成り立っていた故に、江戸での諸商品の物価高がつのり、さらに大開発によって米の値段は逆に大暴落して、幕府家臣団の生活や幕府そのものの財政が困難になってからのことである。
 幕府は、1721(享保6)年・1726(享保11)年に、江戸町奉行・大岡越前守と諏訪美濃守の提言に基づき、あいついで諸商人の仲間結成を公認しそれぞれの営業の独占を公認するとともに、各種の商人株仲間に対して、仲間名簿の提出とそれぞれの取り扱い商品とその量・購入先や販売先の提出を義務付け、物資の流通経路を把握することを通じて物価を統制しようとはかった。
 こうして商人の私的な仲間が幕府公認となり、商売の独占を許可されたのだ。
 そして後に見るように、天明期(18世紀末)の田沼時代には、幕府は株仲間の公認と引き換えに一定の冥加金の上納を義務付け、幕府財政の基礎を株仲間冥加金という一種の流通税に置く政策をとった。
 この動きは幕府が政策として主導したというより、株仲間側から持ちかけた側面が強い。
 なぜならば18世紀も後半となったこの頃には、商品流通がますます拡大し、これまで問屋を通じて商品を売買していた仲買商人の中には問屋を通さずに直接小売商組合と取引したり、新たな問屋組合が出現して、従来の問屋を通さず直接商品流通を図る動きが続出していたからであった。このままでは株仲間による商品流通の独占が崩れる。この危機感から株仲間が幕府に毎年一定の冥加金を払う替わりに、商品流通の独占を幕府に公認してもらい、株仲間を通さない商品の流通を抜荷として阻止しようとしたのであった。
 先の江戸十組問屋仲間も、このような状況の中で改組し、幕府に冥加金を納めてでも商売の独占を図ろうと動いた。
 1813(文化10)年、江戸十組問屋仲間は、これに対抗して樽廻船で酒を運んでいた酒屋問屋仲間や、他の問屋仲間、例えば木綿問屋大伝馬町組や菱垣廻船船問屋仲間、さらに関東・奥州への川船積みをする奥州船積問屋仲間など、江戸の商品流通にかかわる諸仲間と合体し、65組1271軒の問屋が結集する菱垣廻船積問屋仲間を結成して幕府の公認を得、毎年1万200両の冥加金を納めることとした。この問屋仲間には全部で1995株が設けられ、例えば最高の冥加金1500両を毎年上納する酒問屋株は38株で、新しく酒問屋を始めたいと思った商人がいても、これまでの酒問屋が営業を止め持ち株を譲らない限り、酒問屋仲間には参入できない仕組みになっていた。1万200両とは1両=120000円として12億2400万円である。これだけ巨額の冥加金を毎年幕府に納めてでも、江戸の問屋衆が商売の独占を図ろうとしたのは、この1271軒の問屋以外にも新しい問屋ができたり、問屋を通さないで商品が流通したりして、このままでは彼らの商売の独占が崩壊する危機に面していたからであった。
 先に交通網の所でみたように、18世紀後半ともなると大坂・江戸間の物資輸送においても、菱垣廻船や樽廻船とならんで、内海船と呼ばれる廻船業者が現われ、彼らは江戸の問屋衆には入らない、近在の問屋衆仲間と組んで戎組(えびすぐみ)という仲間を結成して、菱垣廻船や樽廻船と対抗して上方から江戸・関東へと商品を運んでいた。こういう独占を崩す動きに対抗して、菱垣廻船や樽廻船によって江戸へ商品を運んでいた問屋仲間が大連合して幕府に冥加金を納め、問屋仲間を通さない商品流通を取締ってもらおうとしたのだ。
 だがこれでも、江戸の問屋仲間を通さない商品流通は拡大し続けた。内海船と結合する江戸周辺の新たな問屋仲間は、幕府が船番所を置いた品川港に荷揚げをせず、神奈川港を拠点にして商品流通を図ったのだから、幕府の統制にも限界があったのである。そして江戸の大商人による商品流通の独占は、生産者や在郷商人、そして中小の問屋や小売商品の反発を招き、これらの人々は、大商人による商品流通の独占を違法であると、しばしば幕府に対して訴訟を行っていった。また大商人による商品流通の独占は、大都市における物価上昇の一因でもあったのだから、都市の庶民や武士の暮らしをも直撃するものであった。
 したがって幕府も、一貫して株仲間を公認したわけではなかった。
 1841(天保12)年、幕府は株仲間の解散を命じ、諸商品の売買の自由を宣言した。引き続く物価高を押さえるために、商品流通の自由化を図ったのだ。
 しかしこの政策も長続きせず、大商人の株仲間再興の訴えにしたがい、幕府は1851(嘉永4)年、株仲間の限定的な再興を許し、大商人はこれを基盤に再び、商売の独占の再構築に動いた。だがこの動きには再び、在郷商人や生産者・中小問屋や小売商人の反発を招き、例えば綿売買の独占を巡って、生産者や在郷商人などが一国規模で連合しての訴訟を行い、大商人による商品流通の独占を打破しようとしたのだ。
 大商人が株仲間を結成して幕府に公認され、そのことで商売の独占を図ろうとした動きをとったことは、かれらの市場支配力の大きさを示すのではなく、逆に、商品流通の拡大によって彼ら大商人の市場支配力が後退していたことを示し、危機に瀕した大商人たちは、幕府に冥加金を納めて様々な役を負担することで、かれらの衰えた市場支配力を確保しようと動いたのだが、これとても効果を期待できるものではなかったのだ。
 市場経済の拡大は、封建領主の支配権を超えて拡大しつづけていたのである。
 結局株仲間は、1868(明治元)年に新政府の下で解散命令が出され、消滅した。

D藩・幕府の私的経済をも支配した大商人

 最後に幕府や藩が有力商人の財力に依存し、彼らから多額の借金をしていたことについて考察しておこう。
 これは大名貸しと呼ばれるもので、有力商人が大名に、年貢米を担保にして金銀を貸すことをいう。年貢に大きく依存していた大名の収入は、農産物の収穫と販売に依存していたので、これが終わらないと現金収入はなく、蔵米の販売などを委託している有力商人に一時的に金銀を立て替えさせて、参勤交代や江戸屋敷の費用、さらには幕府から課されるお手伝い普請など様々な費用に充当していた。このことは幕府も同様であった。
 こうして有力商人の大名貸しが次第に拡大した。そして近世当初にこのような商売に手を染めた商人は、当時の経済の中心であった京都の大商人であった。
 しかしこれは商人にとっては危険な貸し金であった。
 なぜならば大名は借金を返すことをしぶり、酷い場合には、年貢米をそれを担保に金銀を貸した商人を通さずに直接上方の市場や江戸に送って販売し金銀に換えてしまったからである。そうなれば金銀を貸した商人は、借金の形にした年貢米を押さえることができず、貸した金銀は未回収の不良債権となるからだ。さらにもっと酷い場合には、大名は積もり積もった借金を返さずに、その替わりに商人を小禄の武士に取りたて、それで借金の帳消しを図ったりした。
 これでは大名に金を貸した商人の方がつぶれてしまう。
 近世初期の有力商人で大名に多額の金銀を貸しつけ、それを回収できなくて倒産・夜逃げをしたものや、小額の俸禄と引き換えに武士に取りたてられ、家屋敷を売り払って商人を辞めたものが多数あったのだ。
 しかし大名貸しや幕府への貸し金は、次第に危険な商売ではなくなった。
 その理由は、一つは、商品流通の拡大によって上方の経済の中心が京都から大坂に移り、大名や幕府が年貢米や特産物を直接大坂に持ち込み、大坂の有力商人と組んでその販売を行うようになったからだ。従って大名や幕府が金銀を借りる場合には、年貢米や特産物の販売を独占している大坂の有力商人からするようになり、蔵元や掛屋という蔵屋敷の金銀の出納を担う商人となった彼ら有力商人は、藩や幕府の年貢米や特産物の販売を一手に独占しているのであるから、藩や幕府の財政を直接掌握しており、確実に借金を返還させたり、藩や幕府のさまざまな事業に直接参画し、そこで利益を確実にあげることができるようになったからであった。
 さらに二つ目には、国内の諸産業が発展したことにより、商人の儲け口が大名・武士を相手にするだけではなく、豊かになった庶民を相手にし、さまざまな商品を全国的に販売したり、その商品流通に関る商人に営業資金として金銀を貸しつけることで、さらに大きな利益を上げることができるようになったからであった。経済の発展によって、経済に占める封建領主の地位が低下したがゆえに、それに依存する危険も低下したのである。
 こうして藩や幕府という封建領主の私的経済をも直接掌握した大坂の有力商人が、先にみた三井や鴻池、そして住友のような、さまざまな方法で財をなした大商人だったのである。
 有力な商人が幕府や大名に金銀を貸していたということは、幕府や大名が有力商人の財力に依存し、有力商人が年貢米や特産物の売買の請負いを背景にして幕府や藩の財政を握っていったことを示し、拡大する商品流通は幕府や藩という封建領主の統制を超えて発展していたことを物語っていたのだ。

(5)先進的な商人組織はなぜ生まれたか

 「交通路の発達と商人の台頭」の検討のおわりに、教科書はまったく記述していないことではあるが、江戸時代の商人組織が極めて先進的なものであったことと、その背景について考察しておきたい。

@世界に先駆けた巨大店の登場

 先にみた三井呉服店のような大店の登場は、世界的に見てもかなり早いものである。「近世都市と大店」を著した西坂靖によれば、このような巨大な小売店舗としての江戸の大店は、ヨーロッパよりもおよそ1世紀先駆けて出現していた。
 イギリスの初期の大規模小売商として良く知られているのは、ロンドンのスクールブレッド商会という反物を扱う店で、19世紀なかばにおいて約500人の店員を抱え、「モンスターショップ」と呼ばれていた。イギリスのロンドンでは19世紀にはこうしたモンスターショップが幾つも現われていたが、これらの商店では、定価表示・現金販売・直接仕入れ・広告ビラの配布など、江戸の大店が実施していたのとほぼ同様な営業形態を取っていた。
 つまり三井呉服店のような江戸の大店の出現は17世紀の末から18世紀にかけてのことであったので、イギリスにおける同様な商店の出現より、およそ1世紀早かったのだ。
 したがって江戸の巨大呉服商が前身となって生まれた百貨店の出現時期においても、日本はヨーロッパに比べてそれほど遅れなかった。
 ヨーロッパ最初の百貨店であるパリのボン・マルシェが成立したのは1852年、ロンドンのホワイトリーが1863年、そしてニューヨークのメーシーの成立が1858年。これらは先のモンスターショップの発展として19世紀後半のヨーロッパに現われたものである。そしてヨーロッパにおける百貨店の出現は、日本で最初の百貨店である三越の成立の1905年をわずかに半世紀先駆けたに過ぎないのだ。
 江戸という巨大都市を背景にして生まれた大店の最盛期は18世紀の後半であり、ヨーロッパを一世紀先駆けたものであった。

Aその組織の近代性

 また三井呉服店に代表される大店は、今日の会社組織に匹敵する、極めて近代的な組織原理で成り立っていた。
 三井呉服店は先に見たように、15店舗もの各種の店の集合体であったが、その経営は、三井一族という兄弟・親戚による合資会社または兄弟会社の形態をとり、三井一族が共同で出資することで成り立っていた。
 また三井全体の経営は、大元方という今日で言えば重役会議で切り盛りされ、大元方に出席できるのは、たたき上げの従業員のトップである元〆と呼ばれるそれ自身が自分の店を持っていて経営会議にだけ出席する5・6人の重役と、出資者である三井家の内から、本家と分家の代表3名のみであった。この大元方が各店の元〆以下の従業員の役職や俸給など、三井全体の人事を決定し、さらに全体の経営方針の決定とその点検にあたったのである。
 さらに店の運営は、奉公人と呼ばれる住込みの従業員が行い、従業員が年功と才能に従って各種の店内役職を昇進していく仕組みをとり、彼らには定められた労働時間と小遣いという報酬、さらに決算期における店の収益の分配金があり、さらに彼ら奉公人が退職して自分の店を持つための資金としての退職金制度すら設けられていたのだ。
 三井呉服店の経営形態は、この店に特有のものではなく、多くの大店が共通してとった経営形態であった。
 そしてその会計の制度も、借り方・貸方を常に併記してそれぞれ集計し、常に損益勘定を正確に行う複式簿記の形態を取っていた。これは今日確認できる範囲では、鴻池両替店では1670(寛文10)年には既に複式簿記の形態をとっており、ほぼ同じ頃に、伊勢・大坂の異なった業種の大店で行われていた。

B商人組織の先進性の背景としての「世界・経済」

 ではこのような商人組織の先進性の背景はなんだったのだろうか。
 ジャネット・L・アブー=ルゴドによれば、このような先進的な商人組織は、かなり古い歴史を持っていた。
 合資会社・兄弟会社による会社経営は、遅くとも7・8世紀にはイスラム地域の都市において始まっていたという。
 ここではすでに資本提供者が請負い企業家を見つけて会社的経営を行うことは、農業・工業・鉱山業・商業・外国貿易においては一般的な形態であり、信用取引も行われて、銭の両替や講座取引や為替手形の発行と現金化などの業務を行う銀行家もあり、極めて商工業が発展した状態にあった。そして11世紀になるとこの地域では、複式簿記も一般的になっていた。
 また中国においても、同様な商人組織は早くから出現していた。
 中国では10〜13世紀の唐・南宋時代にすでに、「行」と呼ばれる商人や職人の同業組合が出現しており、多くの人の資金を合わせて一つの事業を行うことも行われていた。そしてすでに政府が発行する手形も通用しており、為替手形を扱う銀行業も起こっていたのだ。さらに複式簿記をとった形態の会社も貿易商人においては11世紀頃には現われていた。
 この資金や労働を出し合う共同経営方式がヨーロッパに現われたのは、13世紀のイタリアにおけるジェノバやベネチアの貿易商人においてであった。
 これらの会社の多くは家族商会の形態をとる同族経営で、さらに多くの出資者を募って海外貿易に携わり、船と船員を用意した貿易商が利益の3分の1をとり、出資者が利益の3分の2を分け合う形態をとっていた。そして貿易船の船倉は、出資者ごとに「ロカ」と呼ばれる分離された区画に分けられており、このロカは一種の株として取引されてすらいたのである。さらにヨーロッパにおいて為替手形を扱う銀行業が現われたのは13世紀から14世紀であり、14世紀末には複式簿記も一般的になっていった。
 ではこういった商業組織が日本に現われたのはいつのことであったろう。
 充分な資料がないのだが、すでに中世編で論じた日明貿易船や、近世編1で見た朱印船貿易の形態などを参考にして考えて見よう。
 日本で為替が流通していたのは、室町時代のことであった。中世編【19】の商工業の発展の項で見たように、すでにこの時代に、割符や為替と呼ばれる信用貨幣が通用し、各地の問屋を経由して利用されていた。14・15世紀のことである。
 また中世編【26】の東アジア貿易網の項で見たように、15世紀中頃の足利義教時代の遣明船は、大名や寺院や神社、そして有力公家の合同出資の形態を取っていた。そして遣明船そのものが当初から博多や兵庫の有力商人が運営していたのだから、遣明船の最初から、有力商人が船主となって船・船頭・水夫を用意して出資者を募り、集めた資本金を元に商品を買い入れ、明で売った資金で日本への輸入品を買い入れて日本で販売し、その利益を船主・出資者で別けたものであった可能性が高い。
 いわば遣明船という貿易船自体が、合資会社で運営されていたと言って間違いないであろう(ではこれ以前の元や宋との貿易船はどうであったのか。この時代の貿易船は博多などに在住する中国商人が担ったものなのだが、その経営形態の探求は興味深い課題である)。
 そしてこのことは、近世初頭16世紀末から17世紀中頃に活動した朱印船も同じであった。
 近世編1の【14】で見たように、朱印船そのものもまた、船と船頭と水夫を用意する船主と、幕府から朱印状を手に入れたり資金を出したりする出資者の共同で行われていた。朱印船も合資会社で行われていたのだ。
 従って複式簿記の存在は中世においてはまだ確認できないが、合資会社による外国貿易の運営や、為替業務を担当する両替商は、14・15世紀において日本でも始まっていたことがわかるのだ。
 以上の検討によって、合資会社・銀行・複式簿記などの先進的な商人組織は、まず世界・経済の古くからの中枢である、中東から中国にかけての地域でおそくとも10世紀までに出現し、その後の世界・経済の拡大発展に従って、その辺境であるヨーロッパや日本にも広がり、辺境地域が深く世界・経済に包摂され、その商業システムを発展させたのはほぼ同じ時期、14・15世紀だったと言えよう。
 近世江戸時代における大店の組織が持った先進性は、このような世界・経済の発展の過程で生まれたものであったのだ。
 そして江戸の呉服大店のような大規模商店の出現が、ヨーロッパにおけるそれよりも1世紀は先んじていた理由は、日本の経済が世界・経済に占める位置の大きさと、それによる豊かさに起因していたのではないだろうか。
 ヨーロッパで、とりわけイギリスで大規模小売商が出現した19世紀とは、イギリスがインド産の綿織物に対抗して、植民地アメリカで栽培した長繊維・細糸綿を機械化された製糸・織布によって安価で高品質の綿織物を製造し、この国際商品の自給化と輸出によって、アメリカ・ヨーロッパ市場を席巻し、さらにインド市場をも我が物にしつつあった時代である。そしてこの世界・経済における地位の上昇を背景に富を集め、これを基礎に巨大な50万人もの人口を誇る大都市を成立させた時代であった。
 これにたいして、日本の江戸時代において大規模小売商が生まれた18世紀とは、国内において養蚕と綿栽培が拡大してほぼ自給を達成し、絹織物や綿織物を庶民向けのものから高級品に至るまで、ほぼ自給を達成した時代であった。そしてヨーロッパとは異なって地味の豊かな日本の土壌を背景として労働力を徹底して集中した集約的農業の発展は、日本の農村をヨーロッパよりも豊かなものとし、日本の農村においては早くから商業的農業と問屋と結びついた家内工業が発展し、その流通の結節点としての多数の都市(在郷町)も出現して、巨大都市と港町を拠点とする全国商業網が成立発展していたのも18世紀であった。18世紀日本の大坂・京都・江戸の巨大都市は、国際貿易だけではなく、国際商品をほぼ自給し、豊富な金銀銅を背景にして自給できない砂糖や染料・皮革・象牙などを輸入した、都市・農村を貫く町のネットワークであったのだ。
 世界・経済に包摂されながらも、豊富な金銀銅と発達した国内農業・商工業を背景としてそれからも一定自立した経済圏を作り上げた近世日本の経済システムが豊かな社会を生み出し、これを背景として巨大な都市が出現し、ヨーロッパに先駆けて巨大な小売商店すら生み出したのではないだろうか。ここに「鎖国」日本と呼ばれた特殊な経済圏の豊かな姿が浮かび上がってくるのであり、ここを背景として、次に見る、大衆社会・大衆文化の発展もあったのだと思う。

 近世江戸時代はまさに、商人の時代であったのだ。
 「つくる会」教科書はこのことを示す事実を、部分的で不正確ではあるが、きちんと記述しようとした。この姿勢自身は正しいものであるが、このことの意味するところを不充分にしか理解していなかったために、記述が羅列的で不正確なものになったのであろう。

:05年8月刊の新版では、この「商人の台頭」の項は、完全に削除されてしまい、一言も触れられていない。先の交通の発展の項がほとんど削除されたこととあわせ、近世江戸時代の時代の性格を正しく理解するに不可欠な項目を削除してしまったことは、とても残念である。

:この項は、林玲子著「商人の活動」(1992年中央公論社刊・日本の近世第5巻)、西坂靖著「近世都市と大店」(1992年中央公論社刊・日本の近世第9巻「都市の時代」所収)、谷山正道著「上方経済と江戸地廻り経済」・斎藤善之著「変貌する東西流通―尾州廻船内海船と神奈川・兵庫」(1994年中央公論社刊・日本の近世第17巻「東と西 江戸と上方」所収)、林玲子・大石慎三郎著「流通列島の誕生」(1995年講談社現代新書刊)、小林多加士著「海のアジア史―諸文明の『世界=経済』」(1997年藤原書店刊)、ジャネット・L・アブー=ルゴド著「ヨーロッパ覇権以前」上下(2001年岩波書店刊)、小学館刊「日本大百科全書」・平凡社刊「日本史大事典」の該当項目の記述などを参照した。


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