「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判24


24:「雅」と「俗」の文化の交流で成り立つ江戸文化

 第3節「産業の発達と文化の成熟」の最後の項目は、「元禄期の文化」であり、「江戸初期の文化」「元禄文化」「儒教の発展と学問の発達」の三つの項目に分かれて記述されている。最初の二つの項目は狭い意味での文化史を扱った一連のものなので、最初にこれをまとめて検討して見よう。
 「つくる会」教科書は、元禄文化を次のように性格付けている(p142)。

 しかし、江戸時代の文化がその独自性をみせるのは、17世紀後半から18世紀にかけてである。この時代、上方の大阪や京都を中心に、豊かな町人文化が生まれた。これを元禄文化とよぶ。町人たちは、商業の発達と社会の安定を背景に、人間性を追及したのだった。

 つまり江戸時代文化の独自性とは「豊かな町人文化」が生み出されたことであり、それが世に現われたのが17世紀の後半、元禄時代のことであったと言うのである。そして教科書はこの記述に続いて、井原西鶴の浮世草子、歌舞伎や近松門左衛門の人形浄瑠璃、さらには松尾芭蕉の俳諧、さらに、尾形光琳の障塀画や菱川師宣の浮世絵を、この「町人文化」の例として列記している。
 江戸時代文化についてのこのような記述の仕方はどの教科書にも共通したものであり、これには間違いなど含まれていないと考えられるかもしれない。しかし江戸時代文化を町人文化であると捉えること自体が歴史の真実の片面だけを見た誤ったものであると、今日の歴史学においては批判されているのである。

 :尾形光琳が代表する琳派の絵画を「町人文化」「大衆文化」の範疇に入れてしまうと語弊がある。後に見るように、これは伝統文化の現代的展開と見たほうが適切であるが、日常雑器のデザインをも彼は手がけているので、彼の作品は大衆にも愛されており、この点が大名・公家の絵としての狩野派・土佐派・長谷川派との違いである。

(1)階層を超えた「民族文化」としての江戸文化

 実は江戸文化を、都市大衆に享受された大衆文化の面だけから見ることは、この時代の性格を誤って捉えたものである。

@「雅」と「俗」を軸とした江戸文化

 江戸時代において「文化」として享受すべき理想として崇められたのは、平安時代の貴族文化である「王朝文化」であり、その系譜を引いた鎌倉・室町期の公家文化であったのだ。
 したがって文芸で言えば主流となったのは漢詩文と和歌であり、絵画では漢画と大和絵の伝統を継承した狩野派と大和絵を復興した土佐派、さらに大和絵の現代的発展を試みた琳派や、雪舟以来の水墨画の伝統を引いた長谷川派など。また舞台芸能では能や狂言、そして平家琵琶、さらには室町公家文化の中から生まれた茶の湯や立花であり、これらの「伝統文化」は公家だけではなく、新興の武家と上層町人や上層百姓、そして一般の都市住人や百姓にも広く受容された。江戸時代の人々にとって、公家文化の伝統を継承する文化こそが、身につけるべき教養であったのだ。
 そして江戸時代文化の新たな特徴は、こうした公家文化という「雅」に属する伝統文化の復興と並行して、戦国時代以来の伝統を引いて、人間主義というか現世主義というか、自分たちが生きている俗世そのものへの強い関心が文化現象として結実し、公家文化の当世風の解釈や、当世風の世情そのものを描いた文化が生まれたことである。そしてこの「当世風」のことを「浮世」と読んだために、これらの人間主義的・現世主義的文化現象総体に「浮世○○」という名称が当時から付けられた。この新しい文化現象は、公家文化を理想とする「雅」の世界に対して、「俗」の世界と言って良いだろう。
 教科書が強調しているのは、この後者の「俗」の世界の文化現象である。

A「俗」の文化も伝統文化の教養を背景に生まれた―元禄文化の出自を考察する

 しかしこの「俗」への関心の強い文化を、「町人文化」と規定してしまうのも間違いである。
 なぜならこの「当世風」の文化現象は、「町人」だけが生み出したものではないし、これを享受したのも「町人」だけではなかったからである。
 これは教科書が例示した文化を生み出した人々の出自と、彼らの作品が生まれた環境を検討しただけでもよくわかることだ。
 浮世草子を生み出した井原西鶴は、たしかに大坂の富裕な町人の息子である。しかし彼は俳諧師として世に出たのであり、彼が最初に触れた貞門俳諧や後に師事した西山宗因の俳諧は、京都の公家文化である和歌・連歌から生まれた滑稽味を身上とするもので、西鶴が生きた時代の大坂町人の世界は、京都の公家文化に彩られた世界であった。そのことは彼の戯作者としての出世作である「好色一代男」は、王朝文化の華である源氏物語の当世風パロディであったことにも良く示されている。
 また浄瑠璃作者として有名な近松門左衛門も、その出身は武士であった。本名は杉森作左衛門信盛。父は越前藩主松平忠昌の三男吉晶が6歳で越前吉江藩主となるにあたって養育係となた名門武士・杉森作左衛門信義で、母は越前藩主松平忠昌の侍医で1000石取りの侍であった岡本為竹法眼の娘であった。かなり格の高い武士の出である。15・6歳まで父の任地の越前吉江(鯖江)で暮らしたが、藩士であった父が浪人して京に移ったため、都の公家に雑掌として仕えた。その中で貞門の俳諧師山岡元隣に俳諧を学び、さらに一時仕えた正親町公通が浄瑠璃台本を書いたので、当時有名な浄瑠璃太夫である宇治加賀掾とも知り合ったと伝えられる。こうして主家であった一条昭良が亡くなる20歳のころまで京都で公家文化に触れた。そして主家を出たあとは近江の国の三井寺観音などで和漢の古典や仏教を学んだ。これが後に宇治加賀掾や竹本義太夫のために多くの戯曲を書く知的基盤となったと言われている。近松の浄瑠璃台本もまた、豊かな古典の知識に裏付けられていたのだ。
 さらに「俗」の文芸として滑稽味を身上としてきた俳諧を、豊かな古典に対する知識をもとに、漢詩的な余情を醸し出す「雅」としての文芸に引き上げた松尾芭蕉も、その出身は武士である。彼が俳諧を学び始めたのは伊勢藤堂藩士の侍大将の次男に19歳で小姓として出仕した時で、主人である2歳年長の藤堂良忠とともに、松永貞徳門下の北村季吟系の俳諧を学んだことに由来する。つまり彼の俳諧の背景にある文化的教養は、武士の学問としての儒学などの漢学であり、その中には当然のこととして当時の主流派文芸としての漢詩が含まれていよう。そしてこれとともに、貞門俳諧の公家文化の古典の知識を踏まえた上での滑稽味を身上とした俳諧の知識が重なる。松尾芭蕉の俳諧を支えた文化的環境そのものも、公家や武家の古典的文芸であったのだ。
 浮世草子や近松の浄瑠璃、そして芭蕉の俳諧そのものが、公家・武家・町人という階層を超えた交流の中で生まれているのだ。
 そしてこのことは絵画の世界でも言える。
 浮世絵の開祖とされる菱川師宣は、安房の縫箔師(ぬいはくし)の息子であるが、若くして江戸に出て、大和絵系の土佐派や漢画の長谷川派、さらには狩野派の技法も吸収して、菱川様(よう)とよばれる優美で洗練された画風を作り出したものである。しかしかれの活動場所は、この時代の大衆に受け入れられた絵草子や絵本の挿絵であり、吉原遊郭や歌舞伎の役者評判記、そして名所案内記や職人尽くしや美人尽くし、さらには古典文芸の解釈本や好色本など、当時の大衆を相手にした出版文化の中で、広範な題材を自在に絵画にし、一世を風靡したものである。やがて絵草子や絵本から挿絵を独立させ、絵だけでもとの物語を再現する組み物の木版画とし、これが「浮世絵」と呼ばれるようになったものである。「浮世絵」そのものが、江戸時代文化の特徴である古典文化を下敷きにしてそれを現代風に解釈するさまざまな出版物の挿絵として生まれたわけだが、菱川師宣の絵画そのものもまた、当時の様々な流派の画風の総合として生まれたのだ。

 :尾形光琳が代表する琳派という広く大名や公家にも愛好された絵画の様式を、大衆文化と呼んでしまうのには多少の憚りがある。しかし琳派という狩野派とも並ぶ江戸時代の絵画流派の中興の祖となった尾形光琳は、御所や大名家に呉服を納める京都の有力呉服商雁金屋尾形宗謙の2男という、れっきとした裕福な京都町衆の出であり、彼の画業は絵画に留まらず、様々な生活雑器の意匠デザインにまで及んでいるので、大衆文化の範疇にも入れて良いだろうか。しかし彼の画風は大和絵の装飾性をもとに王朝古典文学への憧憬を主体としたものであり、この点に彼が幼い頃から父とともに公家二条家に出入りし能楽三昧に耽ってきたこと深く繋がるものがある。だが、彼自身の絵の師匠は、狩野派の山本素軒であり、後に祖父宗柏の叔父にあたる本阿弥光悦と組んで華麗な絵画作品を作り出した絵師俵屋宗達の画風に引かれ、その装飾性溢れる絵画を琳派と呼ばれる一派にまで大成したものである。彼の画風そのものは、伝統的な大和絵の手法で、当時の主流の文化であった王朝文化への憧れを表現した、正統派であったのだ。

 すこし長くなったが、「元禄文化」を代表すると「つくる会」教科書が例示した例を検討して見ると、その文化創作者の出自は町人に限らず武家や職人でもあり、その作品を生み出した文化的背景は、伝統的な公家文化の基礎を成す王朝文化や中国古典文化、さらにはそれをもとにして生まれた「当世・浮世」を注視した公家文化のパロディとしての「浮世文化」など、多様な背景があったことが見て取れるのである。
 これにこれらの文芸や絵画を享受したのが町人だけではなく、武家や公家、そして村に住む百姓でもあったことに鑑みれば、江戸大衆文化を町人文化と呼んでしまうことが間違いであることは明白であろう。むしろこれは、階層を超えた「国民文化」の一翼を担う大衆文化と捉えたほうが正確である。

B「俗」の文化を重視した「国民文化」論・「近代化」論

 しかしこれらはあくまでも「俗」の面に偏った大衆文化であり、江戸時代当時の正統の文化ではなかった。
 正統の文化は文芸では漢詩文や和歌なのであり、その和歌から生まれた連歌であった。浮世草子は、和歌から生まれた滑稽な歌としての俳諧の精神を、源氏物語という王朝文化の華を当世風に焼きなおして茶化したもので、あくまでも戯作という「たわむれにつくった」遊びである。江戸時代の文芸を論じるのであれば、この時代の漢詩文や和歌をこそ取り上げるべきであり、散文であれば、漢文や漢文書き下し文での様々な作品を取り上げるべきである。
 また芸能で江戸時代の正統なものは、能や狂言や平家琵琶や、茶の湯や立花であり、これらの伝統文化の江戸時代における発展の様や享受のされかたを記述すべきなのだ。そして絵画作品の正統派は、狩野派や琳派、そして雪舟などの水墨画の系譜を引いた長谷川派など、前時代の桃山時代から一世を風靡した流派のその後を記すべきなのだ。浮世草子や歌舞伎や人形浄瑠璃、そして俳諧や浮世絵は、これらの「雅」の文芸をもとにし、その教養を踏まえた上で、現世のありさまを描いた「俗」の文芸だったのだ。この「俗」の文芸だけで江戸時代文化を捉えようとすることは間違いである。
 だがこのような間違った捉え方が生み出された背景は、とらえておく必要があるだろう。
 これは明治以後における江戸時代の捉え方そのものが生んだ歪みである。
 明治の日本にとって、江戸時代は暗黒の封建社会であり、それは否定すべきものであった。あぜならこの時代は、封建的領主権をたてにして武家階級が民衆を支配していた時代であり、身分制が幅を利かせた自由のない圧制の時代だったと考えられてきた。これは明治維新がこの旧弊を打破し、新しい自由な国民国家を形成し、日本民族としての国民文化を形成する時代だと捉えられたことの裏返しであった。したがって明治時代以後において江戸文化で注目されたものは、公家や武家に愛好された文化ではなく、大衆が愛好した「俗」の文化であり、浮世草子や浮世絵、そして歌舞伎や浄瑠璃や小唄などであったのだ。
 そしてこの傾向は、第2次世界大戦後に加速された。
 戦後の歴史界において中心となったのはマルクス主義的な歴史観であり、江戸時代研究は、日本の近代を生み出した萌芽を、江戸時代の歴史の中から掘り出すことに重点が置かれた。そしてあいかわらず江戸時代は暗黒の封建社会と捉えられていたから、この封建社会において武家の支配に対抗してこれを掘り崩す民衆の「戦い」が注目されていった。だからその武家の統制に抵抗して花開いたと認識された大衆文化こそが、江戸時代の華だと認識され、江戸大衆文化は短絡的に町人が生み出したと捉えられたのだ。
 なんと「つくる会」教科書の、大衆文化にのみ偏った江戸文化史の記述は、戦後のマルクス主義史学の刻印を色濃く負っていたのである。しかしこのような段階論的な機械的な歴史理解はしだいに否定され、時代に即して歴史を理解しようとする傾向が、今日では強まっている。

(2)江戸大衆文化はいかにして生まれたのか 

 ではこのような性格をもった江戸大衆文化は、どのようにして生まれたのだろうか。この点を考える上で大事なのが、「つくる会」教科書が、「江戸時代初期の文化」として記述した寛永文化の特色であろう。教科書は次のように記述している(p142)。

3代将軍家光のころ、桃山文化を受けついだはなやかな文化が栄えた。京都の俵屋宗達は、「風神雷神図屏風」など、動きのある装飾的な絵画を描いた。また建築では、華麗な装飾で埋めつくされた日光東照宮(栃木県)や、数奇屋造の桂離宮(京都府)がつくられた。

 だがこれは余りに文化事象の羅列であり、これでは桃山文化・寛永文化がどう元禄文化に繋がるのかまったくわからない記述である。桃山文化を「豪華で華麗な」「新興の大名・町人」の文化と規定してしまったからこその記述なのであるが、ここではこの記述には依拠せずに、「桃山文化」の批判的検討として近世編1の【8】【9】で検討したことを元にして、江戸時代初期の文化を考察し、そこからどのようにして江戸大衆文化としての元禄文化が生まれたかを考察しておこう。

@「バサラ」と「風雅」の共存としての伝統文化

 近世初頭の桃山文化は、室町の公家文化を直接継承したものであった。
 なぜならば信長・秀吉(そして家康)と続く武家統一政権は、その全国統治の基盤を天皇による統治権の委任に置いていたために、歴史的には「王政復古」であった。それゆえ武家政権が自己を飾る権威は室町公家文化であり、それに権威を与えていた王朝文化なのであった。
 従って桃山文化の特色は、王朝文化の伝統を引いた「風雅」と総称される文化傾向と、それを踏まえながらもより現代的な民衆的な現実や人々の思いに表現の基盤を置いた「バサラ」と呼ばれる文化傾向を、室町時代文化と同様に持っていたのだ。だから人々の目を引きつける極めて派手な文化が権力を荘厳する文化として尊ばれ、巨大な城や御殿・寺院を飾る装飾として多くの彫刻とともに狩野派に代表される装飾的な絵画が尊重され、その一方で、茶室に見られるような、一見質素ではあるが、そこからそこはかとなく漂う美しさを備えた「わび・さび」を強調した文化現象もまた尊ばれたのである。そしてこれらの「雅」に属する文化の対極に、歌舞伎踊りや人形浄瑠璃に代表される、自分たちが生きる現世と人々の風俗への強い関心に裏付けられた「俗」の文芸もまた、桃山時代に花開き始めていたのであった。
 この桃山文化の傾向はいわば、「雅」と「俗」との対立と融合であり、この傾向はそのまま江戸時代文化にも継承された。
 「つくる会」教科書が先に例示した日光東照宮は桃山時代の華麗な障塀画で飾られた城や御殿の伝統を引くものであり、寛永時代にもまた、桃山時代と同様な華麗な城や御殿が各地で作られていたのだ。また同じく寛永文化を代表する建築物として例示された桂離宮は、「風雅」の気風を継承し、それをより細やかな美しい洗練されたデザインで統一した「綺麗数奇」と呼ばれた傾向を代表する建築物であったのだ。そして先に見た歌舞伎や浄瑠璃が都市の一角に設けられた芝居町という空間で演じられる大衆芸能として発展したのは、この時代以後であった。
 江戸時代初期の文化もまた桃山文化の特色を受け継いでいた。

A新しい文化発信地としての公家サロン

 そして桃山文化の文化発進の場としては、天皇・皇族や公家の主催する文化サロンがあったことは、近世編1の【9】において指摘しておいたことだが、この傾向は江戸時代に入っても続き、京都における公家サロンとそこに出入りする、僧侶や武家、そして上層町人や諸職人や諸芸の師匠たちが近世文化の文化形成者であり、彼らによって「雅」の文化と「俗」の文化とが、ともに生み出されていたことは忘れてはならない。
 「禁中並びに公家諸法度」において、天皇の役割が諸芸能の習得に置かれ、その第1は学問、第2は和歌、第3は有職故実にあり、公家の役割も朝廷の儀式などを支えるための家に継承された諸学の継承に置かれたことは、天皇を中心とした公家の社会が江戸時代文化の発信地としての役割を担う背景となった。
 なぜならば長い戦乱の時代が続いたことによって、「王朝文化」の伝統そのものが消えかかっていたのであり、「王朝文化」を近世文化の華として復興するためには、細々と継承されていた文化を再度伝習し継承発展しなければならなかったからである。そのため宮中においても諸学を講習する場が設けられ、そこで多くの講師を招いて伝習された諸学・諸芸とは、儒学を中心とした漢学(漢詩文を含む)や和歌そして朝廷儀式に関る有職故実であり、さらには様々な遊芸、連歌や俳諧、そして茶の湯や立花、さらには能や狂言などが含まれており、天皇主催の講習の場には殿上人を中心とした公家しか入れないとはいえ、その学問や諸芸を学ぶ私的な場には、地下の官人や武家、そして町衆の歌人や茶の湯・立花の宗匠、さらには画家や能楽師・狂言師、平家琵琶を語る座頭や幸若舞いの踊り手など、多様な芸能者が、それぞれの公家が主催するサロンには出入りしていたのだ。室町時代の公家文化において将軍や天皇をとりまく「会所」における諸芸の交流と新たな発展が、上層武家や公家だけはなく僧侶や上層町人、そして諸職人の自由な文化的交流によって支えられていたように、江戸時代の公家サロンも、武家や公家だけではなく、僧侶や上層町人、そして諸芸の宗匠たちの身分を越えた自由な交流の場としての性格を持っていた。
 そしてこの公家サロンでの自由な交流を通じて、伝統文化も新しい展開を見せ、さらには現世への強い関心に基づく新しい「大衆文化」もここから生まれたのである。

B広く人々に受容された伝統文化

 では伝統文化はどのような展開を見せたのだろうか。
 近世における伝統文化の展開の特徴は、それが多くの知識人にとって身につけるべき教養として高く評価され、これらの伝統芸能を教える多くの師匠が輩出され、伝統芸能を学ぶ師匠と門弟の関係が成立したことである。従って師匠は門弟に芸能を教えることで生活を成り立たせることができるようになったのだ。そしてこの伝統芸能においては、それぞれの芸能の伝承は免許制となり、免許を与えられた弟子は、その限りにおいてさらに新しい弟子を取って教育できることとなり、伝統芸能の世界でも芸能を世襲する家元が制度として生まれたのであった。
 さらにもう一つ特徴的なことは、近世においては、伝統芸能を学び交流する場が、社会に広く設けられたことである。それは公家や武家、そして有力町人が主催する私的な交流の場としてのサロンであり、有料でそのような場を提供する「茶屋」の成立であった。
 こうして近世社会においては、伝統芸能が広く社会に受容されたのである。
 伝統文化が町人の世界にも広く受容されていたことは、井原西鶴の浮世草子、「日本永代蔵」や「西鶴織留」に、数多くの町人が堪能した諸芸が描かれていることにもよく示されている。それによれば、大坂町人の受け入れた芸能は、書道・茶道・詩文・俳諧連歌・能・鼓・論語・蹴鞠・囲碁・筝・一節切・浄瑠璃・踊・遊女・野郎・連歌・立花・揚弓・香道・有職・小歌・滑稽・曲芸・口上であった。伝統芸能有り、新時代の大衆芸能有りで、実に多彩である。
 では、それぞれの芸能がどうなったか、簡潔に見ておこう。

(a)漢学・儒学の新しい展開
 中世において漢学・儒学はおもに京都五山の禅僧の間に継承され、その中で中国で新たに起こった朱子学も導入され、宋・明の学問が折衷・総合されていた。
 この漢学・儒学が江戸時代に入って新たに注目されたのは、武家統一政権が成立し、その統治のための学が必要とされたからであった。詳しくは次節の「学問の発達」の項で見ることとするが、五山の僧から儒者として自立した藤原惺窩の多くの門下生や秀吉の朝鮮侵略戦争の過程で連れてこられた朝鮮儒者とその門下生が、幕府や諸藩のお抱え儒者となって、武家統一政権を支える学を提供する基盤となったのだ。
 この新たな漢学・儒学の展開も京都の公家サロンとも関係が深いものであった。
 宮中の諸学の講義の中でも漢学・儒学は重視され、著名な儒者が招かれて講義を行ったり、公家の中で儒学を家職とした家にも優れた儒学者が生まれていた。またこの時代の儒学の特徴は、それが武家政権を支える学として尊重されただけではなく、寺院や武家の内部に留まらず、街中にも儒学を教える宗匠が生まれ、町人や百姓も、身を修め社会を治める学として儒学が学ばれたことである。こうして生まれた市井の儒学者も宮中や公家サロンと密接な関係を持っていた。
 天皇も多くの儒者に講義を受けている。
 1653(慶安2)年には後光明天皇は町儒者の朝山意林庵に「中庸」の講義を受け、1658(万治元)年には、後水尾上皇が、院の側に仕える官吏で儒者でもあった赤塚芸庵に「孟子」の講義を受けている。朝山意林庵は九条家の諸太夫の息子で五山の学僧として儒学を学んだものであり、赤塚芸庵は京都藤ノ森の社家に生まれ、儒学を冷泉為景(藤原惺窩の息子)などに学んだものである。
 また天皇が儒者を応援した例も幾つも見られ、後水尾天皇は、藤原惺窩に儒学を学んだ松永尺五が1637(寛永14)年に元京都所司代の板倉勝重邸をその息子板倉重宗に賜ってそこに自家の講習堂を建てたとき、その堂の扁額を送り、さらに後光明天皇は、その松永尺五に1652(慶安5)年に御所の南に新たな敷地を与え、講習堂の新築を援助したりしている。この松永尺五は後水尾天皇や所司代板倉勝重のサロンにも出入りしていた地下歌人・俳人の松永貞徳の息子であり、こうした儒者への天皇の援助が、彼らのサロンを通じた人間関係によってなされていることは注目して良い。さらに後光明天皇の儒学・漢学への関心は高く、天皇は当時出版されていた多くの儒書を学習し、1651(慶安4)年に「藤原惺窩文集」が出版される時に序文を贈ったり、漢詩集「鳳啼集」を残している。
 「王政復古」がなった現代において、身を修め世を治める学として、天皇もまた儒学を重視していたことの現われであろう。
 この儒学が社会的に注目を浴びる中で、漢詩もまた広く受容されていった。
 漢詩の元となる漢文について深い知識を有したのは儒学者であったから、多くの儒学者はその余技として漢詩を詠んでいた。そして17世紀後半になって儒学の中で荻生徂徠が古文辞学を唱え、あまりに道徳に偏る朱子学を批判して政治の学としての儒学の復興を唱え、中国の古典をそれが作られた時代の言葉の意味に沿って理解すべきことを唱えた。このことにより、漢詩文の制作は、中国古典の言葉を深く理解するために不可欠のものになり、中国の唐代の漢詩文を典拠として漢詩文の制作が流行したのである。
 そして近世において儒学が広がった背景には、それを支えた膨大な儒書の出版があった。

(b)和歌の新しい展開
 和歌が天皇の学問の第2に挙げられたことに示されるように、和歌は漢詩と並んで、伝統的な教養として重んじられ、公家だけではなく、多くの大名・武士や町人・百姓にも広く受け入れられた。
 和歌の伝承の頂点に立っていたのは、宮中において古今伝授を受けた天皇の存在であったが、歴代天皇はその歌学を宮中の学問所の講習を通じて多くの公家に授け、その中から多くの古今伝授を受けた公家が輩出した。そしてこの公家達のもとには、多くの大名や武士、そして町人が門弟として通って歌学の真髄を学習し、ここからも多くの歌人が育っていった。
 その一方で、この公家サロンに密接な関係を結びつつ独自の展開を遂げた地下歌人のグループの存在も忘れてはならない。要するに江戸時代は、和歌が多くの階層を超えた知識人の共通の教養となり、その中で和歌の家の頂点に天皇が君臨したということであった。
 戦国の争乱の中で絶えかけていた中世歌学の伝統は、かろうじて古今伝授を受けていた武家歌人細川幽斎によって継承され、この歌学の真髄が八条宮(後陽成天皇弟)⇒後水尾天皇と継承され、宮中における古今伝授を通して歴代天皇に受け継がれた。さらには後水尾天皇から公家の間にも古今伝授がなされ、烏丸光広・三条西実条(さねえだ)・中院通勝・通村・通茂などの多くの歌人が生まれた。またこの流れは同じく細川幽斎から古今伝授をうけた歌人松永貞徳によって民間にも広がり、この流れは門弟の北村季吟などに伝えられ、この二つの流れは相互に影響し合いながら発展した。
 こうした中世歌学の伝統を継承した二つの流れに、江戸時代になって、多くの大名・武士や町人・百姓が入門し、知識人の間に漢詩文と並んで歌学を修めることが一種の流行ともなったのである。そして京都の歌人に添削してもらったりして学んだ和歌を、さらに江戸やそれぞれの在所の町や村でお互いに研鑚する和歌サロンも各地に発生した。その中で、大名や武士の中には武芸ではなく、和歌で世に名をなすことを望み、古今伝授を目指して日々研鑚する大名まで現われたのである。その理由は、肥前佐賀藩主鍋島光茂の場合では、その家臣山本常朝が記した「葉隠」によれば、「乱世ならば武功をあげて名をなすことができるが、太平の世ではそれも叶わない。そこで武道の替わりに歌道に精進して、武家では細川幽斎しか例のない古今伝授を受けることを目標とした」という。
 そして和歌の広がりを支えたのもまた、公家歌人や地下歌人による「歌書」の相次ぐ出版であった。「歌書」を読んで作歌の基本を学んだ人々が著名な歌人の門弟となって添削指導を受け、さらに古代・中世の歌集や師匠らの歌集を読んで、さらに歌学を学び続けるというわけである。

(c)茶道の新たな展開
 中世末期に生まれた茶の湯も、近世江戸時代となって新たな展開を見せている。
 京都の公家の間には、あいかわらず室町公家文化の伝統を引いた「寄合」としての宴会や歌の会などと結合した茶の湯も流行ってはいたが、近世に新たな発展を遂げたのは、千利休によって大成されたわび茶であった。
 利休の高弟の古田織部や彼らから茶を学んだ小堀遠州などの大名茶人や、彼らから茶を学んだ茶人が多く輩出され、それらは大名家などのお抱え茶人となって、侘び茶が武家の間で大流行を見たのが近世であった。この流れの中で千家を再興した千宗旦の3人の息子達もそれぞれ大名家のお抱え茶人となり、表千家・裏千家・武者小路千家の3つに分かれた。
 だが利休が大成したわび茶は、武家に受け入れられただけではなかった。「寄合」としての茶の湯を愛好していた公家の間にもわび茶は広がり、さらに町人の間に、多くの愛好者を生んだのである。
 このわび茶の大衆的広がりを担ったのは、千宗旦の四天王と呼ばれた町人階層の弟子たちであった。千家が口伝を主としてわび茶を伝えたのに対して、杉本善斎・山田宗へん(行にんべんに扁)・藤村庸軒・久須見疎庵などの千宗旦四天王たちは、積極的にわび茶の作法やその意味合いを解説した「伝書」(茶書)を出版して広くその奥儀を伝えた。そして、それぞれの茶人たちが武家・公家・町人の多くの門弟を抱え、わび茶はこうして、広く都市大衆の中に基盤を見出して行ったのだ。都市住民の豊かさが、「名物」と呼ばれる茶器を愛玩し、宗匠たちが選んだ茶器を手に入れて、その「雅」の文化に触れる大衆的基盤を生み出していたわけである。 
 そして千宗旦や彼の弟子達が活躍した場は、京都の公家達のサロンであり、そのサロンが多くの武家をも巻き込んだ、全国的なネットワークの中においてだった。

(d)立花の新たな展開
 室町後期に「会所」と呼ばれた寄合のための座敷の掛け物の前に飾る花飾りから独立して生まれた立花が独自の展開を遂げたのも、江戸時代であった。
 京の公家サロンの中で栄えた遊芸の一つが立花であり、立花は京の公家や僧侶、そしてそのサロンに集う武家や町人の間に、寛永時代において大流行を見た。
 とくにその中心は、後水尾天皇を中心とした宮中サロンにおける「花会」であり、この会の主催者は後水尾天皇と2代池坊専好であった。そしてこの花会はいわば立花のコンクールであり、参加者の見ている前で花を生け、その出切映えを主催者が判定して点をつけ、高得点を争う一種のゲームでもあった。そしてゲームとしての立花は京都の公家・武家・町人に広く流行し、公家や武家や町人のそれぞれの私的な立花のサロンが開かれ、互いにその技を競い合っていった。
 また立花の流行は、その裏側に、その花材となる花卉をそれぞれが自宅の花畑で栽培する趣味をも流行させ、その中で新種の花卉が次々と作られていったのだ。さらにこの立花の流行を支えたものに、多くの「伝書」(花書)の出版があり、それには高名な花人の立花を彩色印刷で再現した図譜が多数添えられ、立花の要諦が解説されていたのだ。
 こうして寛永時代には、立花は花卉栽培とともに公家・武家・町人の間に広がってゆき、池坊の直接の門弟だけで、1750(寛延3)年ごろには全国で1200人にも及んだ。
 しかし立花は大きな花瓶を大広間で生けるものであり、立花が町人の間に広がるとともに、そのあまりの豪華さがしだいに、狭い町屋には相応しくないものとなっていった。それとともに、立花が花の自然の姿を針金や芯の棒を使って矯正して人工的な美を競っている傾向にも批判が現われ、もっと簡素な自然の生きた花の姿を生かす方向の花が生まれていった。この流れが注目したのは、茶室に飾られたこぶりの花器に1輪の花を添えた「抛入花(なげいればな)」であり、この流れは「生け花」と呼ばれ、多くの町人や百姓の間にも広がっていった。17世紀後半の「元禄」と呼ばれた時代のことである。

(e)能楽の新たな展開
 能楽は武家の式楽となって武家の間だけに広まったように理解された面があるが、これは誤解である。ただこの誤解には背景がある。
 能楽は、室町時代に幕府が京都に置かれ宮中の式楽である雅楽に替わって能楽が武家の式楽となったものである。そして武家が世の中を治める時代となった江戸時代となり、江戸幕府も継承したため、将軍家を始めどの大名も能役者を家臣として抱え、それぞれいくつもの能舞台を持って、様々な儀式において能楽を催し、将軍も大名もその家臣団も、日々教養として能楽の稽古に励むようになった。つまり能楽は江戸時代になって武家の教養となり、武家の儀式には必ず能楽が催されるようになったために、まるで能楽は武家の間だけに広がったかのように思われたのだ。
 たしかに能楽は江戸時代の武家にとってなくてはならない儀式音楽であった。
 将軍家においては、将軍宣下や官位昇進、婚礼や元服、そして世子の誕生などの慶事にはかならず能楽が催されたし、勅使下向などの大きな行事の終わりにも必ず能楽が催された。またこれは公式の儀式におけるものだが、これ以外にも将軍が私的に大名などを招いて、その宴席で能楽を催すことも多々有ったのだ。したがってこれは諸大名家でも同様であった。
 しかし能楽は、すでに中世においても武家だけではなく、公家や町人・百姓にも大いに好まれ、各地の町や村の祭礼や寺社の祭りにおいて能楽が観覧料金を取って催され、さらには能役者を招いて能楽を学ぶものも、武家や公家や町人や百姓にもたくさんいた。このことに付いては、中世編の【23】ですでに論じたことである。
 だから能楽は江戸時代以前から、多くの人々に好まれた芸能であったのだ。
 従って平和で豊かな社会が生まれるとともに、能楽愛好者はさらに拡大し、町人や百姓でも能役者に弟子入りして、舞や謡い、そして笛や鼓などを習うものが多かったのである。そして町人や百姓でも能楽を楽しむ機会はかなりあった。
 この時代までに能役者は四座・一流と呼ばれる、観世・金春・宝生・金剛の各座と喜多流という集団に分かれ、この四座・一流に属する能役者は皆、将軍家や大名家に家臣として抱えられ、主家の求めに応じて能楽を演じていた。しかし彼らの能を、町人や百姓も見る機会はあった。それは将軍家や大名家の慶事に催される能楽は通常4日間行われたが、そのうちの1日は必ず町場の者を招待したからである。将軍家の場合では、江戸各町から2・3人から10数人ずつ招待され、都合5000人あまりの江戸町人が、将軍家とともに能楽を楽しんだという。
 またこれらの四座・一流の能役者たちが、寺社の祭りや公共事業のために寄付を集める勧進などのために、勧進能と称して、江戸や京や大坂、そして多くの寺社で能を興行する機会も多かった。この勧進能についてはそれなりの木戸銭を払えば、だれでも観能できたのだ。ちなみにその値段は、寛延の頃(寛文・延宝:1661〜1681)でいうと、上桟敷は銀3枚で、下桟敷は銀2枚、そして畳場は銀6匁、さらに入込場では銀3匁で入ることができたのだ。銀1匁はほぼ2000円ほどだから、土間で見るのなら6000円、畳場で12000円だから後に見る歌舞伎の入場料から見れば高額であるが、庶民が手が出ないというほどのものではない。銀1枚というのはおそらく1分銀であろうから、一両の4分の1。3万円ほどか。だから桟敷席は6万か9万出せばゆったりと能を見ることが出来た。大商人などは自分一人のために銀3枚の桟敷を興業期間中借り切ったといって、世間の話題をさらったほどであった。さらに、四座・一流に属さない能役者が辻能と言って、寺社の境内や町の広場で興業を行うことは多かったので、さらに安価に能を見ることができたのである。
 こうして能楽は多くの人々の教養として受容され、商人の世界では、大店の住込みの丁稚や手代も謡いなどを習い、仕事が終わって同僚と酒盛りする場では必ず、乱舞(らっぷ)と呼ばれる謡や舞に興じたという。謡いぐらいできないと商人として恥ずかしい時代となったのだ。だからこの時代から、武家や庶民の結婚の場でも祝い歌として謡いの高砂などが謡われるようになった。

(f)平家琵琶の新たな展開
 鎌倉時代に生まれた平家琵琶は、室町時代において能楽と同じく、武家の式楽として幕府からの保護を得た。なぜなら平家物語は武家にとって天皇に忠義をつくすのがその本分であるというテーマを平家の盛衰を通じて述べた物語ではあるが、これは同時に、源氏将軍家こそ天皇に最も忠義を尽くすものであるというテーマを謡ったものだったからである。従って室町3代将軍足利義満は源氏長者となるとともに、それまで村上源氏の久我家が本所としてその傘下においていた平家琵琶法師の当道座を自らの支配下に置き、平家琵琶を武家の式楽としたのであった。だからこそ室町時代において当道座に伝えられた平家物語の詞章を「秘伝」として筆記した「覚一本平家物語」の正本が、義満に献上されたのだ。
 しかし室町幕府の衰えとともに当道座に対する幕府の保護は解体され、琵琶法師は都で武家や公家の求めに応じて平家を語ったり平家琵琶を教えたりしただけではなく、地方の有力大名を頼って都から下っていったのだ。こうして地方の大名層にも平家琵琶は広がった。
 そして江戸幕府ができ、武家による統一政権が安定した後には、幕府は室町幕府に倣って当道座に保護を与え、当道座に属する琵琶法師に対して、平家琵琶の演奏・教授だけではなく、浄瑠璃や筝曲・三味線・胡弓の演奏や教授を独占し、さらには平常の生業として針灸を行うことを独占的に許したのであった。
 こうして当道座に属する琵琶法師は、幕府や諸大名に家臣として抱えられ、幕府や藩の法要などの儀式において平家琵琶を演奏する役目を負ったのである(ただし平家全200句を語れ幕府や大名から扶持を貰えるのは最高位の検校
(けんぎょう)かそれに次ぐ勾当(こうとう)だけであった。他の琵琶法師はだから、浄瑠璃や筝曲・三味線などを教えたり鍼灸で稼いだのだ)。こうして江戸時代おいては、平家琵琶は武家の式楽としての地位を確立し、多くの大名や武士が当道座の琵琶法師から平家琵琶を学び、中には平家全200句の免許皆伝を許された大名もいた。
 しかし平家琵琶は武家の式楽としてだけ広まったのではないことは、能楽と同様であった。
 すでに室町時代において足利家が所蔵した平家譜本を書写したり、琵琶法師に平家琵琶を習って自身も語れるようになっていた武家や公家が存在した。そしてそれだけではなく、彼らに仕える数奇者と呼ばれる芸能者の間にも平家琵琶は広がっていたのである。つまり平家琵琶は盲目の琵琶法師だけではなく、晴眼者も楽しむ遊芸の一つとなっていたのだ。侘び茶を大成した千利休もまた平家琵琶を嗜み、茶室で語ったと伝えられる。
 確実なところでは、彼の孫の千宗旦は平家琵琶の免許皆伝者であり、彼の技はその茶の湯の弟子である村上宗古に伝えられ、さらに弟子の茶人・山田宗へん(行人偏に扁)に伝えられ、宗へんはまた琵琶も数多く制作し、多くの弟子に平家琵琶を教えている。平家琵琶は、茶の湯や俳諧、そして和歌を嗜む武家や町人の間に広がっており、そのサロンの中でしばしば演奏されたのであった。
 江戸時代の晴眼者の平家琵琶奏者として有名な人は、前記の山田宗へんの他に、彼の弟子で江戸の材木商であった岡村玄川や、さらにその弟子で江戸の呉服商で歌人でもあり、賀茂真淵の友人でもあった三島自寛、さらにその弟子で紀州藩の侍医であった川村良順などが知られており、江戸後期の有名な漢学者の頼山陽も平家琵琶に堪能であったという。
 こうして平家琵琶もまた武家や多くの町人の中にも愛好者を獲得し、彼らに伝承者としてしばしば教授した平家琵琶の検校も彼らとともにその技の研鑚に務め、このサロンを背景として、語りがかなり多様化していた平家琵琶の譜本の統一と編纂が、江戸時代においては2度成されている。1737(元文2)年に江戸において、前記の岡村玄川と当時の豊田検校を中心として成された「平家吟譜」の編纂。そして1776(安永5)年に当時の荻野検校を中心とした名古屋のサロンで成された「平家正節」の編纂がそれである。その後、平家正節が正式の譜本として尊重されて全国に広まり、多くの晴眼者が学ぶ基準となっていった。

 このように王朝文化の流れを汲む伝統文化は、江戸時代においては、武家・公家・町人・百姓という身分を越えた遊芸として広がり、各地にそれぞれの遊芸を楽しむサロンが開催され、それぞれの芸能のサロンは相互につながりながら、江戸時代国民文化ともいえる「雅」の文化を形成していったのである。
 そして江戸時代大衆文化は、この「雅」の文化の中から直接生まれた。
 では「雅」の文化の中からどのようにして「俗」の文化が生まれたのだろうか。

C現世=浮世への熱いまなざし

 江戸の「雅」の文化の特徴は、熱心な王朝文化の復興と模倣であるとともに、彼らが生きる現代としての現世=浮世に対する強い関心であった。
 なぜならば彼らが規範とした王朝文化はすでに成立して数百年が経っており、その文化を支える言葉や生活も今の世とは大きく異なり、古典として復活した様々な書物も、そのままでは彼ら江戸時代人の鑑賞には堪えなかったからである。だから必然的に、古典の注釈が必要となり、古典注釈学が限られた学者の間のものだけではなく、広く武家や町人・百姓などにも必要な学問として受容された。したがって近世初期においては古典の注釈を出版物として頒布することが流行したのだ。近世編1の【9】で論じた古活字本による古典の出版がそれであった。

(a)俳諧の発生
 だが所詮、王朝文化の言葉は古代のものであり、それをいくら学問に基づいて自分のものにしたとしても、現代人である江戸人の感性を充分に表現するものではなかった。
 だからまず、詩歌の分野において、現代語の使用を試みることがなされた。
 これが俳諧連歌であったのだ。
 俳諧とはそもそも、和歌における古典的定型的な美を踏まえながらもそれから離れた自由な表現も行うことから生まれる滑稽な表現(面白さ)を指したもので、滑稽な表現を多用した連歌のことを俳諧連歌と呼んだのである。そして滑稽さというものは極めて現代的感覚であり、そこで歌われることは現代の事物であり、そこで使われるのは現代語になるのは必然であった。
 この俳諧連歌から上の句だけが独立したものが、江戸時代における俳諧である。
 従って俳諧とは、古典的知識・感性を基盤としながらも、その素材においても、その取り上げ方や表現方法においても極めて現代的なものであり、古典的な感性を茶化して滑稽にしたものが多かったのだ。
 この俳諧の精神が、他の文芸にも大きな影響を与えた。
 この時代に生まれた俳諧には、二つの流派が存在した。
 一つは著名な歌人・連歌師でもあった松永貞徳とその門下の「貞門俳諧」と呼ばれた流れ。もう一つはその貞門俳諧から生まれた「談林俳諧」である。貞門俳諧はより「雅」としての連歌の伝統の忠実な表現を尊び、談林俳諧は、より自由な新鮮な表現を好む。この談林俳諧の名目上の総帥は著名な連歌師の西山宗因であるが、実質的な主導者は井原西鶴であったようだ。

(b)現代人向けの物語の発生
 また古典の物語が数多く受容されるに従って、物語という形式で、現代人に様々な教訓や情報を与えることも流行した。
 これが江戸前期において流行した「仮名草子」と呼ばれた、絵入りの仮名書きの絵本である。
 仮名草子には多くの種類がある。一つは教訓物とよばれ、儒教・仏教・神道などの教義を分かり易く説いたもので、1635(寛永12)年に出版され京都周辺で2・3000部も売れた「清水物語」や寛永年間末に出された「祗園物語」、さらに明暦年間(1655〜58)にだされた「二人比丘尼」が有名である。また擬物語という古典文学のもじり(パロディイ)も大いに流行り、「伊勢物語」の逐条的もじりである「仁勢物語」(1639・寛永16年)や、「枕草子」のもじりである「犬枕」(慶長年間・1596〜1615)などが知られる。さらに王朝風恋愛物語としては、1606(慶長11)年におきた旗本と宮中女官の不義密通事件に取材した「恨之助」や、恋文が26通も納められた「薄雪物語」(1632・寛永9年)などが版を重ねている。
 他には、笑い話として、1000余りの話を集めた「醒酔抄」(1623・元和9年ごろ)や「昨日は今日の物語」(慶長年間末)、滑稽紀行小説として後の「東海道中膝栗毛」のヒントになったであろう「竹斎」(寛永年間・1624〜44)など江戸中期以降に流行った滑稽本の先駈けもあった。さらには中国小説の翻案物も出版され、中国の怪談小説「剪燈新話」を翻案した「御伽婢子(おとぎぼうこ)」(1666・寛文6年)なども読まれた。この本には「牡丹燈篭」の話が含まれ、怪談牡丹燈篭の元となったものである。また現世に対する直接的関心に応えるものとして、名所評判記や遊女や役者の評判記も生まれ、名所評判記では、「竹斎」と同じ趣向で都落ちする藪医者の道中をなぞる形で東海道の名所を紹介した「東海道名所記」(万治年間・1658〜1661)や、京都の名所や名物を紹介した「京童」(1658・明暦4年)や「洛陽名所集」(1658・万治元年)などが知られ、遊女評判記では寛永年間に出された「露殿物語」などがある。
 これらの仮名草紙はこの後に出された江戸時代大衆文学のすべての分野を網羅しており、それらは仮名草紙の出版と受容という大衆的基盤をもとに生まれたものに違いない。
 そして興味深いことは、この仮名草子の多くは、公家や武家そして僧侶などの知識人がその作者として考えられ、彼らは本業の傍らの戯作として原稿料など取らずに、これらの作品を書いていたことである。
 仮名草子の主な作者としては、「清水物語」を書いた朱子学者の朝山意林庵、「二人比丘尼」を書いた武士で後に出家した鈴木正三、「犬枕」を書いた家康の侍医秦宗巴、「醒酔抄」を書いた僧侶で京都所司代のブレーンであった安楽庵策伝、「東海道名所記」や「竹斎」「御伽婢子」を書いた武士あがりの僧侶である浅井了意、「京童」を書いた俳人中川喜雲、「洛陽名所集」を書いた儒学者山本泰順などが知られている。それぞれ当代随一の学者や文化人であり、他には、「仁勢物語」は著名な堂上歌人で古典物語の注釈者である烏丸光広が作者として擬せられている。さらに興味深いことには、後水尾天皇も出版はされていないが、「胡蝶」という29種の花の精を登場させて仏道の貴さを説いた仮名草子を書いていることである。仮名草子の作者の多くが、後水尾天皇をとりまくサロンに集う文化人であった。
 仮名草子はまさに、知識人が、大衆の現世への関心に応え、彼らの古典に対する知識を元にして、さまざまな読み物を作ったものと言えよう。そしてこの中から、江戸大衆文化を代表する多くの分野や作品が生み出されたのである。

(c)風俗画の発生
 現世への熱い関心は、絵画の世界でも生まれていた。
 狩野派や土佐派、そして長谷川派などの伝統絵画の世界では、絵として描かれるものは、「花鳥風月」と呼び習わされるように、和漢の古典物語の一場面や風景が主で、人物が描かれる場合は、神仙や聖人、そして風景の中の点描として描かれるのが常であった。
 しかし室町後期から伝統絵画の世界に、現世への強い関心に基づいた絵が出現した。それが「洛中洛外図屏風」と呼ばれた京都の町や名所を正月から順に季節を追って一双の屏風に詳細に描き、そこに名所に集ったり町を歩く人々が生き生きと描かれたのであった。これは絵画形式としては伝統絵画の中の「名所絵」や「月次絵」の伝統を引いたものだが、現世と人々の暮らしや感情まで生き生きと描かれた。
 この傾向は桃山時代になるとさらに顕著となった。この時代は、文学の世界でも俳諧連歌が流行して現世への関心が強まった時代であるが、これに伴って絵画にもさまざまな現世の風俗を描いた種類のものが生まれ、狩野派などの伝統絵師が次々と風俗を主題とした屏風絵や障塀画を描いたのである。それは、狩野長信の「花下遊楽図屏風」や狩野内膳の「豊国祭礼図屏風」などとして残されている。そしてこの流れの中で、狩野派を学んだ町絵師や岩佐又兵衛などの絵師がさらに多くの風俗画を描き、「歌舞伎図屏風」や「賀茂競馬図」など、さまざまな芸能のありさまを描くなど、より現世の人々の服装や表情や身振りに関心を寄せた作品が生まれていった。
 こうして現世に取材した絵画が次々と生まれたわけだが、江戸時代になってもこの傾向は強まり、仮名草子として遊女の評判記の体裁をとって作られた「露殿物語」の絵巻なども作られ、その中から次第に一人の女性だけを選んで描く美人画が生まれて行く。これが後に、「寛文美人図」と呼ばれる、肉筆浮世絵の流れである。
 絵画の世界でもこのように現世の風俗を主題として絵が次々に生まれたわけだが、この傾向が、同時に出版文化として生まれた仮名草子の中にも持ち込まれ、風俗画を描いてきた町絵師たちが、仮名草子の挿絵を描き、単色ではあるが、現世の風俗を描いた絵を庶民も安価に手に入れられる時代となったのである。

D文化伝播を支えた出版文化

 ここで少し本筋から離れるが、以上の江戸初期・寛永期以後の「雅」の文化とその「俗」への展開のありさまを見たとき、この文化の流れが、出版印刷によって支えられていることが見て取れるので、江戸初期の出版文化について簡単に触れておこう。
 近世編1の【9】において、慶長年間から寛永年間にかけて、朝鮮から持ち出された銅活字やそれを模して作られた銅活字・木活字によって、多くの和漢の古典作品が印刷出版されたことを記したが、この活字本の中に、当時流行してきた浄瑠璃の絵入り台本や御伽草子が含まれていた。これらは挿絵付きで平易な平仮名の文章であったため、大いに大衆に享受され、このことが刺激となって印刷出版が営利事業として成り立つようになった。
 このことを背景として、前記の俳諧や立花・能や茶道の伝書の出版や、儒学書や歴史書や仮名草子の出版がなされたのだ。
 そして出版文化が大衆によって受容されるとともに大量印刷の必要性が生まれ、出版は活字から木版に変化し、それとともに、京都にはたくさんの書店(出版社と販売書店を兼ねる)が生まれたのである。
 その数は、慶長年間(1596〜1615)に9軒だったのが、元和年間(1615〜1624)には8軒、寛永年間(1624〜44)にはなんと70軒の書店が新規に店を出し、正保年間(1644〜48)には7軒、慶安年間(1648〜52)に21軒、承応年間(1652〜55)に17軒、明暦年間(1655〜58)に12軒、万治年間(1658〜61)に15軒、さらに寛文年間(1661〜73)は58軒と急増し、延宝年間(1673〜1681)も43軒。しめて元和年間以後の66年間に251軒の書店が誕生した。
 まさに寛文から延宝・元禄年間も含めた「元禄時代」に栄えた元禄文化は、京都に大量に設立された書店によって支えられていたわけで、この文化が上方を中心として展開した所以である。ちなみに大坂の書店は寛文以前ではわずか8軒、江戸の書店は17軒であった。
 この傾向は次の元禄時代にも続く。
 天和年間(1681〜1684)は17軒、貞享年間(1684〜1688)は32軒、そして元禄年間(1688〜1704)に京都で新たに設立された書店は115軒。この23年間で164軒、空前の書店ブームである。そして同じ傾向は他の都市でも起こり、大阪では62軒、江戸でも80軒など過去最高。そして他地域での書店も合わせると全部で334軒。元禄時代とはまさに出版文化が花開いた時代だったのだ。
 そして大量に木版印刷で出版された本の中の仮名草子は絵が主体となっていた読み物であり、この仮名草子の挿絵から、後の浮世絵が生まれたのである。

(3)元禄文化の諸相

 最後に、元禄文化の具体的な姿を見ておこう。
 ちなみに教科書が元禄文化の担い手として挙げた人々は、ほとんど同時代に生まれ育った人たちである。菱川師宣は1618〜1694。井原西鶴は1642〜1693。松尾芭蕉は1644〜1694。近松門左衛門は1653〜1724。尾形光琳は1658〜1716である。

@仮名草子に新風を送った井原西鶴

 井原西鶴については教科書は以下のように記述している(p142)。

大阪の井原西鶴は、町人の人生の喜びや悲しみをありのままにえがいた浮世草子とよばれる小説を書いた。

 しかし西鶴が書いたのは後に「浮世草子」と呼ばれた「好色物」だけではなく、前代の寛永期に広がった「仮名草子」と呼ばれた文芸作品群のほとんどに及んでおり、描かれた人物も町人だけではなく、武士の暮らしを描いたものにも手を出していたのだ。でも西鶴はなんといっても俳諧師であり、古典的な連歌・和歌の技法を基にした貞門俳諧に対して、より自由に俗語を用いたりして軽妙洒脱な俳諧を旨とした「談林俳諧」を主導し、貞門俳諧からは「阿蘭陀風」と揶揄されても、新しい傾向の俳諧を推し進めた俳諧師であったのだ。

(a)仮名草子の世界に俳諧風を盛り込んで新風を送り込んだ西鶴
 そして彼はこの俳諧における新風をさらに広げ、「仮名草子」と呼ばれた文芸作品全体にわたって新風を送るべく、意欲的に活動したのであった。
 彼が世に出した作品は多様である。
 「好色物」では有名な「好色一代男」(1682・天和2年刊)や「好色五人女」(1686・貞享3年)など。「役者評判記」では、「難波のかおは伊勢の白粉」(1683・天和3年刊)、また浄瑠璃の台本まで書いており、1685(貞享2)年には宇治加賀
掾のために「暦」「凱陣八島」を書いている。さらに「怪奇奇談集」としては、「西鶴諸国ばなし」(1685・貞享2年)・「懐硯」(1687・貞享4年刊)があり、同じ時期には「本朝二十不孝」(1686・貞享3年刊)があり、これは中国から伝わった「二十四孝」や仮名草子の「大倭二十四孝」や「本朝孝子伝」の向こうをはったもので、さまざまな親不孝の例をあげて読者に教訓を垂れるものであった。さらに1688(元禄元)年に出された「日本永代蔵」も「大福長者教」という副題を持っており、これも「長者教」という仮名草子の向こうをはったもの。また同じ年には「新可笑記」を出し、これも「可笑記」という仮名草子の向こうをはったものであった。さらに「武家物」としては武家の男色の風潮を描いた「男色大鑑」(1687・貞享4年刊)や同年に出された「諸国敵討」の副題がある「武道伝来記」や「武家義理物語」(1688・元禄元年刊)がある。
 実に仮名草子のほとんどの分野を網羅しており、さらに彼の本の多くの挿絵は、彼自身が描いたものであった。そして彼の作品の特徴は、俳諧師としての豊富な古典の知識や言葉遊びの技術を基にした、軽妙洒脱な文章にあり、古典や仮名草子や現実に起きた事件に取材しながらも、それを大いに脚色しドラマティックに仕立てたところにあったのだ。「人生のよろこびや悲しみをありのままに描いた」というのは、談林俳諧師として浮世を生き生きと描いたことの応用であったのだ。

(b)西鶴に社会批判の眼を見ることはできない
 また「つくる会」教科書にはまったく見られない傾向だが、西鶴の作品に「近代小説の走り」を見て「町人の誇り」と「武家への批判」を読み取る傾向があるが、これは間違いである。
 西鶴の「浮世草子」は従来の物語文学とはことなって人の一生や物事の細部まで描き揚げるのではなく、主題とした部分だけを切り取る表現が見られる。ここが「近代小説」の走りと見られるところであるが、西鶴の浮世草子には近代小説特有の心理描写は見られず、部分だけを切取る切断性には近代小説のような計画性はなく、俳諧の表現の中に多用された切断性を応用しただけである。そして彼の浮世草子には「社会批判」といった性格はまったくなく、「武家物」で仇討ちを多く取り上げたのも「武家という身分に縛られた存在」を批判したわけではなく、仇討ちに見られる武家特有の人情の様を描いただけで、むしろ焦点は仇討ちの例を挙げることで、武士に教訓を与えることに主眼があった。彼が描く武士像は古いもので、経済官僚として出世した武士が同輩から妬まれるのはあたりまえとするなど、「当世」の武士の生態をあるがままに描いたに過ぎない。そしてこのことは「町人物」でも同様で、「町人の有り方に誇りを表明」したりするようなものではなく、「当世」の町人の生態をありのままに描いたに過ぎないのだ。西鶴の作品は、俳諧において「当世」をありのままに描いた技法を、そのまま仮名草子に応用したものなのだ。

(c)世に受けいれられたのは「好色物」だけ
 しかし彼の作品で結局大当たりをしたのは「好色一代男」だけであり、「好色一代男」は全冊セットが銀25匁、つまり1両の半分ほど(6万円ほど)という高価なものであったが次々と版を重ね、貸し本も含めて多くの読者を得た。それ以外の作品では「日本永代蔵」も長く版を重ねたとは言え、一代男ほどの大当たりではなく、西鶴は「好色物」という当時の人々の教訓を与えるのが文芸の主たる役割であるという時代風潮下では、仮名草子の中でも最もランクの低い分野でしか名声が得られなかったことは、西鶴としては断腸の思いであったろう。教訓を与えるという分野に属する「武家物」や「雑話物」では、彼のあまりに軽妙な筆致と実際の話を換骨奪胎してしまう構成力とが災いし、それほどの共感を持っては迎えられなかったのだ。彼の死後にも彼の作品が真似されて世に送り出されたのが「好色物」であったことにも、これはよく示されている。
 そして彼が仮名草子作者として活躍している間に、俳諧の主流は、松尾芭蕉の漢詩や和歌の古典を踏まえて、より落ちついた余韻のある俳諧に移っており、西鶴は俳諧師としても世から忘れ去られ、寂しく死去することとなったのである。

A浄瑠璃や歌舞伎を古典を踏まえた熱情的な演劇に仕上げた近松門左衛門

 近松門左衛門の戯曲については、教科書は以下のように記述している(p142)。

歌舞伎が演劇として発展し、人形浄瑠璃では、脚本家の近松門左衛門が、義理と人情の世界でおこる男女の悲劇を題材に、人々の涙を誘った。

 しかしこれは、近松が書いた戯曲は人形浄瑠璃だけではなく多くの歌舞伎台本も書いており、さらに近松の作品の中心は「男女の悲劇」を題材にした「世話物」ではなく、古典作品を踏まえた「時代物」であり、当時の人にもっとも喜ばれた演劇は、歌舞伎にしろ人形浄瑠璃にしろ、歴史的題材に取材した(もしくは歴史的な話に仮託した)派手でスリルとサスペンスに満ちた演目であったということも無視した記述である。

(a)通し狂言として大衆的支持を得た歌舞伎と人形浄瑠璃
 人形浄瑠璃はその名の起こりの浄瑠璃姫物語以外は長大な話は少なく、多くは御伽草子に題材をとった「神仏霊験記」などの教訓話であり、人形操りという大衆芸能でしかなかった。
 しかしこれが都の公家衆にも受け入れられる過程で宇治加賀
掾に代表される、謡曲などの題材を取り入れ、言葉使いも謡曲の表現を取り入れるなどして、次第に「雅」の文化の様相も取り入れたものもあらわれた。しかしあくまでも「おもしろさ」を求める大衆芸能とのバランスの取り方が問われる時代ともなっていき、その後も竹本義太夫や豊竹若太夫などの多くの優れた浄瑠璃太夫を生み出した。
 また歌舞伎も名の起こりのように、当初はかぶき物の風体やしぐさを真似た寸劇と踊りを組みあわせたもので、演劇としての要素は極めて弱かった。そして役者は女性や若衆であり、彼女彼氏たちの性的な魅力を売り物にした大衆芸能であった。しかし遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が禁止され、野郎歌舞伎となるに及んで、しだいに当時人気を博していた人形浄瑠璃に学んで、何幕にも分かれた通し狂言として演劇性を備えるようになり、市川団十郎や坂田藤十郎などの名優も生み、浄瑠璃のように古典の要素も兼ね備えた新しい台本が求められる時代となっていた。

(b)次々と生み出される名作品
 このような時代の要請に応えて、前記の太夫や名優のために次々と歌舞伎や浄瑠璃の台本を世に出した作家の一人が近松門左衛門であった。
 そして近松には多くの優秀なライバル作者がいたのだ。
 歌舞伎で言えば前記の役者たちは同時に歌舞伎狂言台本の作者でもあり、多くの名作品を生み出している。そして浄瑠璃台本では、竹本座の2代目座元でもあった竹田出雲は「菅原伝授手習鑑」や「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などの名作を生んでおり、ライバルの豊竹座の座付き作者で有名な俳人で学者でもあった紀海音も近松の「冥途の飛脚」に対抗した「傾城三度笠」を作ったり「鎌倉三代記」「八百屋お七」などの名作を残し、互いに競い合っていたのだ。
 近松の作品の多くは、古典に題材をとってそれを現代風に作りなおした「時代物」であった。
 浄瑠璃でいえば、「世継曽我」(1683・天和3年上演)・「凱陣八島」(1685・貞享2年)・「出世景清」(1686・貞享3年)・「用明天皇職人鑑」(1705・宝永2年)・「碁盤太平記」(1706・宝永3年)「傾城反魂香」(1708・宝永5年)・「嫗山姥」(1712・正徳2年)・「国性爺合戦」(1715・正徳5年)・「平家女護島」(1719・享保4年)・「信州川中島合戦」(1721・享保6年)など約80編だ。これに対して、現代の心中事件などに題材をとった「世話物」は、「曽根崎心中」(1703・元禄16年)・「堀川波鼓」(1707・宝永4年)・「心中重井筒」「心中万年草」「丹波与作待夜の小室節」(1708・宝永5年)・「五十年忌歌念仏」(1709・宝永6年)・「冥途の飛脚」(1711・正徳元年)・「夕霧阿波鳴渡」(1712・正徳2年)・「心中天網島」(1720・享保5年)・「女殺油地獄」(1721・享保6年)・「心中宵庚申」(1722・享保7年)など約24編。
 また約30編残されている歌舞伎台本では、「夕霧七年忌」(1684・貞享元年)・「大名なぐさみ曽我」(1697・元禄10年)・「一心二河白道」(1698・元禄11年)・「傾城仏の原」(1699・元禄12年)・「傾城壬生大念仏」(1702・元禄15年)などで、名優坂田藤十郎のために作った作品で、その多くはお家騒動に取材しても中心は廓での場面を写実的に描いたもので、これが近松の世話物浄瑠璃の元になったものである。

(c)近松作品の性格は「魂鎮め」にある
 しかし近松の脚本を「世話物」「時代物」と単純に題材だけで分類してしまうのは間違いだろう。「時代物」であっても登場人物は現代の江戸人にわかるように造形されており、世話物の主人公と同様に義理と人情の狭間に揺れ動く人物として描かれている。そして「世話物」「時代物」の双方において主人公は、運命ともいうべき世の流れや事態の推移に抗えず悲劇的な死を遂げて行く。この意味で近松の脚本は、個人の力では抗することのできない大きなものに翻弄されながらも懸命に生きていった人間像を愛惜しつつ、スリルとサスペンスに満ちた劇的な展開で描いたものと言えよう。このような近松の作品は、共同体の中に溜まった悪を共同体の中から選ばれた一人の人物の悲劇的な死によって清めるもので、その人物の苦悩に満ちた人生を演劇によって眼前に写しだし、その人物の苦悩の独白を観客が聞くことによってその悲劇的な死を遂げた人物の魂を癒すものであるという評価があるが、この方が、単に「義理と人情の世界でおこる男女の悲劇」を描いたとするような、近代的な解釈よりも当を得たものであろう。
 教科書の近松評価は、彼の作品が同時代人にどう受けとめられていたのかという現実を無視し、江戸時代文芸作品に、権力への反抗や町人精神や近代的な自我の確立などを見ようとする、きわめて近代主義的な偏った傾向を代表するものであった。

(d)階層を超えた大衆娯楽としての歌舞伎・人形浄瑠璃
 なぜならば人形浄瑠璃や歌舞伎はたしかに謡曲などの題材や表現を取り入れ、さらに平家琵琶や説教節などの曲節も取り入れて「雅」な表現の満ちた芸能に進化していたが、どちらも安い木戸銭で見ることができる大衆芸能であり、都市や村の庶民を中心とした人達を楽しませる娯楽であったのだ。そして大衆の娯楽とは楽しむことであるとともに、それを通じて様々な教訓を得るものでも有り、極めて現代としての江戸時代人の心情に依拠したものであった。
 彼らは現代人とは違い、人間の力ではどうにもならない大きなものに翻弄される自分を救うために大いに神仏の霊験を信じ、それに頼っていた人達であったからだ。従って当然のこととして、大衆的娯楽としての歌舞伎や人形浄瑠璃の台本は、このような観客の要求に応えるものであったのだ。だから近松の作品の大部分を占める「時代物」は、古典に題材を求めながらも、妖怪や怨霊が登場したり、画家の書いた動物や人物が絵から離れて暴れまわったりする不思議な話や妖術使いが登場したり、不可思議な神仏の霊験が現われたり、はでな大立ち回りがあったりという、大衆の喜ぶ趣向が満載であったのだ。
 ちなにみ当時の歌舞伎の入場料は、平土間なら24文で約720円。これに敷物代5文とタバコ火縄代3文をあわせて32文。おおよそ960円である。極めて安価な娯楽だったのだ。そして桟敷席ではその代金は1枡6人分で銀13〜18匁、銭にして900〜1200文であり、2万7000円から3万6000円。ちょっと贅沢を出来る階層なら入り浸る事も可能な値段である。歌舞伎は大衆演劇であったのであり、人形浄瑠璃も同様であったろう。
 ただ人形浄瑠璃や歌舞伎が、都市や町や村の大衆に好まれたとだけ捉えるのは誤りである。実は武士も公家もこれを大いに好んだのだ。ただこれらの芸能は大衆のためのものであり、建前としての身分制度が生きている当時としては、身分のある武士や公家が劇場に足を運ぶことは憚れた。どうしても行きたいときは顔を隠すお忍びであった。通常は大名や公家は自分の屋敷に歌舞伎役者は浄瑠璃太夫や人形遣いを招いて、彼らのために演じてもらったり、歌舞伎や浄瑠璃の好きな下級武士に演じさせたりしていたのだ。
 そして上演した狂言が大当たりすれば座元には大金が転がり込む。当時の芝居小屋はおよそ1000人ほどの収容人員であり、数ヶ月も興業が続けば大きな稼ぎであった。こうして大衆的支持の下で、芸を売って生計を立てる階層が生まれたのだ。当時多額の給金を取った役者は片岡仁左衛門で年に300両、3600万円ほど。山下半左衛門は200両・2400万円、岩井半四郎は150両・1800万円。最も高い給金をとった歌舞伎役者は坂田藤十郎で年に500両、6000万円である。これほどの名優でなくとも、若衆とよばれる下級の役者でも給金は年に30〜40両。360万から480万円。充分暮らせる金額であった。そして座付き作者の給金も年に30両ほど。そして浄瑠璃作者として「曽根崎心中」などをヒットさせた当時の近松門左衛門の給金は、年に50両。600万円。江戸時代文化の特徴は、それが都市や村の大衆だけではなく階層を超えて大いに支持されたがゆえに、それで生計を立てる俳優や太夫、そして狂言作者を生み出したことであったのだ。

B「俗」の俳諧を「雅」へと高めた松尾芭蕉

 松尾芭蕉の俳諧については、教科書は次のように記述する(p142)。

 また松尾芭蕉は、連歌から生まれた俳諧を芸術の域まで高めた。

 これは確かにその通りなのだが、このような表現では、芭蕉以前の俳諧は「芸術ではない」ということになり、連歌からどのようにして俳諧が生まれたかまったく説明がないこととあいまって、あまりに唐突な誤解を生む説明である。

(a)「俗」の文化を代表する俳諧
 教科書が使用した「芸術」という表現は、当時の表現に置きかえれば「雅」ということであり、王朝文化を模範とした伝統的な貴族的な文化を指したものである。これに対して俳諧は、「雅」な連歌から生まれた「俗」の文化であることは、すでに記したところである。
 松尾芭蕉が活躍した江戸時代初期の俳諧の流派は二つあり、一つは伝統的な和歌や連歌の表現や規則を重んじながらも、題材に現代の事柄を用いたり「雅」な文芸では取り上げない題材を取り上げて、そこから生まれる面白さを重視した貞門俳諧と、さらに俗語(現代語)を多用して、もっと自由な表現を狙った談林俳諧と二つあった。しかしどちらも「俗」の題材や「俗」の言語を用いた「戯言(ざれごと)」と当時は見なされており、伝統的な和歌や連歌が重んじた、そこはかとなく漂う美しさや詩情などは重視せず、その和歌や連歌の形式の中に突然「俗」を取り入れたことによる切断性が生み出す滑稽味をこそ、その身上としていたのであった。
 このような「俗」の文芸としての俳諧に、和歌や連歌が重んじた、そこはかとなく漂う美しさや詩情を持ちこみ、和歌や連歌の世界では最高の芸術として重んじられた西行や宗祇のレベルまでに引き上げようとしたのが芭蕉であった。この意味で教科書が「芭蕉は俳諧を芸術の域にまで高めた」と記述したことは正しい。

(b)漢詩の持つ切断的表現を持ちこんだ芭蕉
 しかし教科書はまったく無視したが、問題は芭蕉がどのようにしてそれを成し遂げたかである。
 芭蕉は西行や宗祇の和歌・連歌に憧れ、王朝時代以後の歌や連歌に歌われた詩情や表現を大事にした。それと同時に彼が注目し、新しい技法として取り入れたのが、彼が終生憧れた中国唐代の詩人・杜甫や李白の漢詩であった。
 日本語はその構造上の特色からも常に「つながり」が意識され、和歌や連歌は常に意味上も表現方法でも「つながり」を意識して作られている。しかし漢詩は中国語のその構造上の特色から体言止めが多く、意味的にも表現的にも切れることが多く、その切断的表現が特徴である。そういう切断的表現の強い漢詩に、表現的には切断されながらも意味的には深く融合している表現方法を持ちこみ、余韻溢れる詩を作ったのが杜甫であった。芭蕉はこの漢詩の切断的でありながら背後で深く融合している表現方法を俳諧に持ちこみ、これによって詩情あふれる俳諧をつくったのであった。彼の俳諧は、貞門や談林の俳諧の切断性のある表現を継承しながらも、和歌や連歌が重んじた詩情あふれる表現を指向し、古人の和歌や連歌や漢詩で表現された詩情を下敷きにして現代的な感覚でそれを新たに俳諧で表現し直すという、新たな「雅」として認められる俳諧を創始したのであった。
 だがこれも彼の完全な独創というわけではない。
 すでに中世編【11】の「補遺1:公家文学」の項で見たように、中世初頭の新古今派の和歌が漢詩から切断的な体言止めを多用する方法を学んで実践していた。西行はこの時期に活動した歌人であり、新古今派的な表現と、より自由な表現を尊ぶ一派の両方に属した歌人であった。そして芭蕉が活動した江戸時代初頭は漢学において儒学が台頭した時代であり、儒学においては漢詩が重要な表現方法として重視され、さらに儒学派の中から孔子や孟子などに先んじる古人の礼楽や学説を重んじた荻生徂徠の古文辞学では、中国古代から唐代までの漢詩表現を学ぶことが古人の心を知る最も大事な手段として提唱されていた。この荻生徂徠は芭蕉ともまったく同時代人であり、この漢詩が重要視された時代的背景も、芭蕉の営みの基盤であったのだろう。

(c)階層を超えて広がった俳諧
 そしてもう一つ大事なことは、この時代、俳諧は「町人文化」というよりも、階層を超えた国民的な「雅」の文芸として、広く受けいれられ、その中で芭蕉の活動もあったということである。
 このことは一つは、当時数多く出された出版物の中で「俳書」がかなりの位置を占めていたという事実が示している。
 当時の出版物のベストセラーは、第1に「好色物」浮世草子、第2は町人むけの重宝記、そして第3が俳書であった。また当時の出版物全体の出版点数でみても、俳書の位置は大きい。1692(元禄5)年の全出版物7181点の内、38.9%が仏書、34.3%が日用教養書、20.5%が学問書、6.3%が医学書であった。この中の日用教養書全2456点の約3割を占めるのが俳書で676点。医学書の454点を大きく上回り、好色本119点も大きく引き離している。
 俳書はかなりの数が出版され、多くの読者を持っていたのだ。
 そして俳書を読み俳諧を嗜む人々は、町人に限らず多くの階層に広がっていた。
 このことは松尾芭蕉が、その旅の記録と途中詠んだ俳諧に基づいてのちに俳書「おくの細道」として出版されることになった北国紀行が、各地の彼の門人や俳人に支えられて行われたことにもよく示されている。
 彼が紀行中にその家に立ち寄って句会を催した人、および参加者は、およそ以下のような人々である(安東次男著「おくのほそ道」による)。

在所 氏名・俳号 身分・職業 句会に同席したもの
下野の国 黒羽 鹿子畑翠桃 黒羽藩士  
浄法寺秋鴉 黒羽藩城代家老(翠桃兄)  
岩代の国 須賀川 相良伊左衛門等窮 須賀川宿駅長  
陸前の国 仙台 北野嘉右衛門加之 画工  
羽前の国 尾花沢 鈴木清風 紅屋の豪商 嵐雪・才磨・コ斎・素堂・挙白
大石田 高野一栄 船問屋 高桑川水(大石田大庄屋)
新庄 渋谷盛信風流 富商  
羽黒山 別当代会阿闍梨 羽黒山別当 近藤右吉呂丸(羽黒門前町染物屋)・長山五郎右衛門重行
酒田 長山五郎右衛門重行 鶴岡藩士・150石  
酒田 伊藤玄順不玉 医師  
酒田 寺島彦助詮道 浦役人・富商 伊藤玄順不玉
酒田 近江屋玉志 富商 伊藤玄順不玉
加賀の国 金沢 小杉一笑(葉茶屋)の追善会 竹雀・牧童・小杉丿松(一笑兄)
金沢 斎藤松玄庵    
金沢 立花北枝 刀剣の研ぎ 小春・此道・雲口・一泉・牧童(北枝兄)・徳子・河合乙州(大津の荷問屋)・竹意
小松 藤村伊豆 日吉神社神主 北枝・生駒万子(加賀藩士・1000石)
山中 泉屋又兵衛桃妖 山中の湯宿亭主 北枝
越前の国 松岡 大夢和尚 天竜寺住職 北枝
福井 等栽 俳人  
敦賀 室五郎右衛門玄流 廻船問屋 路通(俳人)
美濃の国 大垣 近藤如行 大垣藩士 尾張十蔵越人・津田前川(大垣藩重臣)・宮崎荊口(大垣藩士・100石)・路通(俳人)・木因(廻船問屋)

 各地の富裕な商人が中心であるが、他にも武士・神主・僧侶、そして各地の庄屋などの百姓も散見する。俳諧が各地の新興の商人や百姓に支えられつつも、階層を超えて武士などにも嗜みとして広がっていたことが見て取れ、元禄文化が三都の都市大衆だけではなく、広がりつつある全国商業網によっても支えられていたことがよくわかる。
 この意味でも元禄文化を「町人文化」と呼ぶことは誤りである。

C日常生活の中に洗練された美意識を持ちこんだ尾形光琳

 教科書は尾形光琳とその絵画について次のように記述している(p142・3)。

絵画では、宗達の画風を引きついだ尾形光琳が、「燕子花図(かきつばたはなず)屏風」などの秀作を残した。

 これでは何のことか判然としない。唯一の手がかりは「宗達の画風を引きついだ」であるが、その宗達のことについては冒頭の「江戸初期の文化」に、「京都の俵屋宗達は、風神雷神図屏風など、動きのある装飾的な絵画をえがいた」とあるのみで、彼の絵画が文化史上でどのような位置を占めるのかもわからず、結局羅列的に記述したにとどまっている。

(a)公家文化との深い関わりの中で活躍した町絵師
 尾形光琳も、また彼が絵画の師としてあおいだ俵屋宗達も、ともに公家文化との深い関わりを持ちながら活躍した町絵師であり、どちらも既成の流派に属さない画家であった。
 俵屋宗達は桃山時代の画家であり、尾形光琳の祖父の宗柏の叔父にあたる本阿弥光悦とともに様々な工芸作品を残した。彼はもともとは京都で下絵や扇面画などの工芸的な仕事を行った作画工房の絵屋「俵屋」の主催者である上層町衆で、後水尾天皇のサロン周辺に出入りする画家でもあった。彼の画風は大和絵の伝統を引くものであるが、「平家納経」の修復や「西行物語絵巻」の模写を行うなどして古典の復興と模写にもつとめ、大和絵の伝統を復興させた立役者の一人であった。彼は当時大流行した障屏画にも大作を残しているが、色紙や巻物や扇面など様々な工芸品にもその卓越した華麗なデザインを残しており、近世初頭の京都公家文化の色彩を、絵画や工芸品に展開した工芸デザイナーでもあった。
 尾形光琳も雁金屋という宮中や大名家に品物を納める有力な呉服屋の次男に生まれ、幼い頃から父に連れられて二条家などの公家屋敷に出入りし、能楽を始めとして遊興三昧にふけり、京都の公家文化の環境の中で育った人物であった。絵画は父から学ぶとともに、狩野派の絵師で、宮中サロンにも出入りしていた山本素軒にも習ったが、30歳ごろから俵屋宗達の画風に傾倒して、その極めて装飾的な画風を発展させたものであった。
 光琳が確立した絵画の一派を琳派と呼ぶが、これはこのように公家文化の伝統を引いた町絵師の一派だったのだ。

(b)工芸デザイナーとしての光琳
 尾形光琳の作品といえば襖絵や屏風が知られ宮中や寺院・公家館などを飾る絵画作品が挙げられるが、これと同時に小袖などの衣服や蒔絵などの調度品や焼物の絵付け、そして団扇や香包などの日常生活を彩る工芸品に、数多くの優れたデザインを残している。この点は彼が師と仰いだ俵屋宗達と同じなのであるが、日本の美の伝統が昔から日常を飾る品々に優れた芸術性を持ったデザインが多用され、「芸術作品」と「工芸作品」との垣根が極めて低いことに示されるように、日常生活そのものに、洗練された美意識を持ち込む伝統そのものに従ったものであった。
 そして彼が活躍した近世初期〜中期は、日本が平和で豊かな環境の中にあった時代で、庶民もまた豊かな生活を享受した時代であった故に、本来町絵師という日常生活をデザインする役割の絵師の作品が、広く階層を超えて受けいれられたということなのであろう。

D現世としての「浮世」を描いた絵師・菱川師宣

 最後に浮世絵の創始者として知られる菱川師宣の画業について検討しておこう。教科書は彼のことについて次のように記述している(p143)。

菱川師宣は、町人の風俗をえがいた「浮世絵」を始め、版画として庶民に愛好された。

 しかしこの記述にもたくさんの疑問点がある。第1に「浮世絵」というのは「町人の風俗を描いた」ものなのだろうか。これは元禄文化というと町人文化と言う思いこみによるのではないか。実際には彼が描いたものは、江戸の町における武士や町人のありのままの姿であり、「現世」をありのままに描いたというほうが正しいであろう。また第2に、彼が「浮世絵版画」を浮世草子の挿絵から独立させて単独の版画として普及させたことはたしかであるが、彼の有名な作品である「見返り美人」がそうであるように、彼は武家などの上層の者に受けいれられた絹本の肉筆画も数多く描いているのだ。
 浮世絵が生まれた時代背景も含めて、もう少し性格に記述したいものである。

(a)浮世草子の挿絵として始まった浮世絵版画
 版画としての浮世絵の始まりは、浮世草子の挿絵であった。
 もともと近世初頭に流行した「御伽草子」や「仮名草子」は絵入り本として作られ、挿絵は本にとって重要な一部分として町絵師達の活躍の場となった。そして「仮名草子」は先にも見たように、好色本や怪奇話・笑い話などを含む小説類から名所記や役者・色町評判記までさまざまな分野があったので、現世としての浮世のさまざまな姿が挿絵として描かれるようになったのだ。
 この挿絵としての絵画の流行を背景として活躍した町絵師の一人が菱川師宣であった。
 菱川師宣が江戸で挿絵の世界に本格的に登場したのは、1672(寛文12)年の署名入り絵本「武家百人一首」。これは庶民相手の挿絵画家が作品に署名した初めての例である。以後かれは挿絵の世界で本格的に活躍し、遊郭や歌舞伎の評判記、名所案内記、職人尽くしや美人尽くしの風俗もの、古典的な物語や和歌などの解釈本、さらには好色本などに挿絵を発表し、圧倒的な人気を獲得した。西鶴の「好色一代男」の江戸版である「大和絵の根源」(1686・貞享3年)も菱川師宣が挿絵を担当している。
 そしてこの時の江戸での「仮名草子」「浮世草子」の特徴は、上方でのそれが文章が主体でそれに挿絵を挿入した形式であったものを、見開きに絵を大きく載せ、文章は上部のわずかなスペースに挿入するという、絵本形式にあった。そしてこの絵本形式の挿絵において菱川師宣は、江戸の社会風俗を生き生きと描き、彼が描く遊女の髪型や衣装や帯びのしめ方などが流行をよぶほどになったのだ。
 こうした墨一色刷りの風俗版画が「浮世絵」と呼ばれて人気を博したのであった。
 やがて菱川師宣は挿絵版画を絵本から一枚刷りの版画として独立させ、何枚かの組み版画として絵本の内容を象徴させ、版画にあとで紅色を主とした彩色を施したものを出版した。これが「紅絵」と呼ばれる初期の浮世絵版画の誕生であった。

(b)「寛文」美人画の伝統をひいた肉筆浮世絵
 そして浮世絵は安価な版画として流行しただけではなく、前時代から発展した「風俗画」としての「美人画」としても流行したことは忘れてはいけない。「寛文美人図」である。
 絵本挿絵として「浮世絵」を生み出したもう一つの背景が、「風俗画」の流行であったことは先に見た。この肉筆の風俗画の一分野として、単独の女性の姿を生き生きと描いた美人画が当時流行していた。菱川師宣は、この分野でも活躍し彼の代表作である「見返り美人図」は絹本の肉筆画である。
 この肉筆画は本来は注文品の一点ものであるが、あまりの需要の多さに対応したものであろう、彼は多くの弟子を抱え、その弟子達も含めた共同制作として多くの肉筆浮世絵を掛幅・絵巻・屏風などとして世に出した。いわば菱川工房である。そしてこの制作様式は菱川師宣死後に肉筆浮世絵の主役となった鳥居派や懐月堂派にも受け継がれ、師匠の絵をパターン化して模写したりするなどして大量の肉質浮世絵が生産され、肉筆画の値段を下げて大衆化していったのだ。

 以上長くなったが、江戸元禄文化は江戸国民文化の「俗」の側面を担った大衆文化であり、これを単純に「町人文化」と規定してしまうことは、その担い手の身分の多様性やその背景に「雅」としての伝統文化があったことからも完全な間違いである。江戸文化は「雅」としての伝統文化と「俗」としての大衆文化があり、相互に影響・交流しながら、階層を超えた「国民文化」として発展していたのである。そして元禄時代の文化はその始まりであり、その頂点は次の時代の、享保から寛政の時代、18世紀であった。どの教科書でもあげられる文化・文政の19世紀の「化政文化」の時代はむしろ、その頂点を過ぎて爛熟・衰退期であったのだ。
 この点については、のちに「化政期の文化」の項で述べることとしたい。

:05年8月刊の新版では、「元禄期の文化」の構成と位置が変更されている。すなわち、「江戸時代初期の文化」の項は完全に削除され、全体として「綱吉の文治政治」の項の後に入れられて、「綱吉の文治政治と元禄文化」という形で一体化された(p112〜113)。しかし元禄文化の記述内容は旧版とほとんど変らない。町人文化として規定し、「雅」と「俗」の国民文化であった点をまったく無視した記述はそのままである。多少変ったのは、菱川師宣の記述で、資料として「見返り美人図」を載せた上で、「町人の風俗をえがいた浮世絵を始めた」という形で、版画であるという記述を削除した点だ。しかしここでも浮世絵が生まれた背景も含め、項目的羅列的記述という旧版の欠点もそのままである。

:この項は、館山漸之進著「平家音楽史」(明治42年刊・1974年芸林社再刊)、小西甚一著「日本文学史」(1953年弘文堂刊・1993年講談社学術文庫再刊)、「近松浄瑠璃集・上下」(1959年岩波書店刊)、高尾一彦著「近世の庶民文化」(1968年岩波書店刊)、「近松名作集」(1976年河出書房新社刊)、鈴木敏夫著「江戸の本屋(上)」(1980年中央公論新書刊)、熊倉功夫著「後水尾天皇」(1982年朝日新聞社刊・1994年岩波書店再刊)、安東次男著「おくのほそ道」(1983年岩波書店刊)、中村真一郎著「江戸漢詩」(1985年岩波書店刊)、熊倉功夫著「寛永文化の研究」(1988年吉川弘文館刊)、狩野滋著「江戸と能楽」(1988年わんや書店刊)、熊倉功夫編「伝統芸能の展開」(1993年中央公論社刊・日本の近世第11巻所収の諸論文)、中野三敏編「文学と美術の成熟」(1993年中央公論社刊・日本の近世第12巻所収の諸論文)、小林忠監修「浮世絵の歴史」(1998年美術出版社刊)、長谷川強著「西鶴を読む」(2003年笠間書院刊)、松澤克行著「元禄文化と公家サロン」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収)、倉地克直著「江戸文化をよむ」(2006年吉川弘文館刊)、平凡社刊の日本史大事典、小学館刊の日本大百科全書の該当の項目の記述などを参照した。


目次へ 次のページへ HPTOPへ