「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判25


25:貨幣がなくては暮らせない社会の成立が、「実践」を重んじる諸学の発展を促した

 「元禄期の文化」の3つめの項目は、「儒教の発展と学問の発達」である。教科書はこれを、儒学の発展と実際生活に役立つ「実学」の発展の2つにわけて記述している。

(1)個人の修養から社会的実践を重んじる学への変容ー近世儒学の自己発展

 最初の儒学については、以下のように記述している(p143)。

 戦いのない平和な社会となったこの時代には、武士や庶民の間で学問が発達した。武家の社会では、儒学が時代の安定に役立つとして奨励され、学問の中心となった。家康は、日本に朱子学を確立した林羅山を重用し、綱吉も湯島聖堂を建てるなど、儒教を重んじた。
 一方で、中江藤樹は、明の王陽明がおこした実践を重んじる陽明学を学んだ。山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らは、孔子の教えに直接学ぼうとする古学の立場から儒学を研究した。

@近世社会の現実と切り結ばない羅列的な記述

 しかしこの教科書の記述は多くの問題点を含んでいる。
 第1に、儒学と儒教とが混用され、宗教としての儒教が重んじられたのか、儒教に基づく実践の学としての儒学が重んじられたのかが判然としない。事実は儒学である。
 また第2に、この記述では幕府が儒学の中の一派である朱子学を重んじたかのような記述がされているが、これは誤解である。後に詳しく見るように、近世における儒学の受容は、中国の宋時代に発展した朱子学と、その批判として中国の明時代に発展した陽明学やどちらをも批判し孔子に帰ることを主張した古文辞学が同時に受けいれられたのであり、その過程で、諸派を折衷する学派も生まれていた。そして朱子学に対する理解も様々にあり、幕府や藩に用いられた朱子学者も林羅山の系列の儒者だけではなく、さらには陽明学者や古学者もまた重用されていた。幕府や藩は、儒学一般を重んじたのである。
 さらに第3に、朱子学の性格がまったく記述されていないために、この記述では、朱子学と陽明学、そして古学の違いが分からない。そしてこのことは、近世江戸時代において、儒学の中に様々な主張が生まれて激しい論争が生じた社会的背景がまったく記されていないという第4の根本的な欠陥と結びつき、意味のない羅列的なものとなっているのだ。
 教科書の記述は、学問が発展した背景は「平和な社会になった」からだとする。では平和な社会ではなぜ学問が発展するのか。この問にはまったく答えない。そして儒学が発展した理由は、それが「時代の安定に役立つ」からとされているが、その意味は不分明である。おそらく著者たちは、儒学は孔子に始まる学であるから、「つくる会」教科書のp26にある孔子の学の記述を参考にしろということであろう。そこには、孔子は「道徳と礼で人を導けば・・・政治は万事うまくいく」と説いたと記述してあるので、武家が儒学を重用したのは道徳と礼とで戦国の世を安定させようとしたのだと受け取れる。しかしこう考えてくると、ではなぜ道徳と礼とを重んじる儒学の中に「実践」を重んじる学派が生まれたり、さらに「孔子にかえれ」とする学派が生まれた意味も、ますますわからなくなる。
 また第5に、この記述では儒学が広がったのは武家の世界だけのように受け取られる。しかし古学の立場から朱子学を批判した学者として挙げられた伊藤仁斎は京都の富裕な町衆の出であり、儒学は町人や百姓の間にも広く受けいれられたのだ。この事実を踏まえると、先に教科書が孔子の教えとして挙げた「道徳と礼とで導けば政治はうまくいく」という理解では、なぜ政治を行う実権を持っていない町人や百姓にも儒学が広まったのかはわからなくなる。おそらくこの教科書の著者たちは、政治は武士の専権事項だと理解しているから、百姓や町人にも儒学が広まったという事実は理解できなかったのであり、だから教科書には記述していないのであろうが。

 さらに第6に、近世江戸時代における儒学の発展の背景には、朝鮮や中国から渡来した多くの儒学者の影響や、長崎貿易を通じての儒書の大量の輸入という文化的背景があるのだが、教科書はまったく記述していない。まるで江戸時代における儒学の発展が、「日本独自で」行われたかのような記述になっている。これも問題である。

 要するにこの教科書の儒学についての記述は、近世江戸社会の現実と切り結ばず、単なる学説の羅列に終わっているのだ。学問は高尚な趣味ではない。学者は彼らが生きている社会の現実と格闘しながら、その矛盾を解消させる方策を模索するなかで学問を発展させていくのだ。彼らが切り結んだ近世江戸社会はすでに見たように、貨幣経済が隅々まで浸透し、貨幣がなければ暮らせない世の中になっていた。ということは生産者である百姓・職人と、それを社会に回し、さらには貨幣をまわすことで利益を得ていた商人が社会の主導権を握っていた時代だといえる。そして近世江戸社会は、従来の理解とは異なって、武家(藩)・百姓(村)・職人商人(町)という異なる身分の共同体がそれぞれ自治を行い共存している社会であった。このような近世江戸社会の現実と切り結んでこそ初めて、この時代に儒学を始めとした諸学が発展したことの意味はわかるのだ。
 では実際はどうだったのか。

A近世江戸社会が儒学を受容したわけは?

(a)家・共同体の存続が保障される時代の登場
 近世江戸時代において社会に広く儒学が受け入れられた背景には、平安時代末期からおよそ600年にも渡って続いた戦乱の世が終わり、社会が諸共同体の自治に基づく幕府・藩の統治によって平和になり、それぞれの家や共同体、そしてそれぞれの家職が存続することが可能な時代が生まれたことがある。
 中世編の【23】「『家』と『一揆』の共同意識をつくりだす集団芸能の時代」の項目の補論において既に記述したことだが、室町時代を通じて社会の隅々までに渡って宗教が広がり、それぞれの家や共同体は、家や共同体の永続と繁栄を祈って特定の宗教と深い関係を結び、各地に家々の檀那寺や共同体の寺社を建立していった。その寺社において行われたのは、先祖の霊を供養し子孫の繁栄を祈る祖先崇拝の儀礼であった。人々は、それぞれの家職と深く結びついた家の存続と共同体の存続とを強く願うようになったのであり、これに伴って社会全体に後世になって現世主義=人間主義と呼ばれた現世の人間社会に対する強い関心が生まれたのであった。この人々の家と共同体の未来永劫にわたる存続と繁栄を願う気持ちが政治的に表現されたものが「下剋上」の思想であり、この願いを受けとめて自らを公儀とみなして社会の安定を指向したのが、信長・秀吉・家康と続く天下人であり諸大名であった。
 近世江戸時代の政治社会制度は、こうやって出来たのである。

(b)家や共同体の繁栄を保障する理論が求められる
 しかし共同体の自治と公儀による公的統治の確立といっても、それを実施する主体は長い戦乱の世を戦い抜いてきた戦人(百姓・町人・武家を貫いてこのような人のことを武士・侍と呼んだ)であり、諸共同体と公儀の統治の技術は、合議と武力による抑圧でしかなく、平和な世においてその平和を維持するための理論や技術, 、そして官僚機構は準備されていなかった。
 そしてこのような家や共同体の存続を願う人々を支えてきた既成の理論・宗教は、個人を救済するものとしては仏教であり、共同体を基礎付ける理論としては仏教と神道が混合した神国思想であった。しかし、これらの理論・宗教は祖先崇拝の儀礼と子孫繁栄を願う儀礼の他には、仏教が浄土への生まれ変わりを願って「この世でそれぞれの分を守って生きる」程度の哲学しか用意していなかった。神道も仏教も、その視線は、祖先の霊と自分の死後の霊とが住まう彼岸の世界にしか向いておらず、現世そのものを対象化し、そこで人々はどのように生きるべきかということを、個人のありかた・家のありかた・共同体のありかた、そして社会全体を統合する政治のありかたまでにわたって、その理論を提供するものではなかったのだ。
 ここに神道・仏教に替わって(それと共存して)、家や共同体の繁栄を保障する理論が求められる背景があったのだ。
 しかし日本の歴史と近世日本の文化の中に、この要請に応えられるものがあった。
 それが儒教と、その経学としての儒学であった。

 儒学は古代において日本が朝鮮・中国からその統治の制度を学ぶのに伴って、その統治の学ととして受けいれられ、朝廷においては家学として儒学を継承した公家もあったが、これと並んで、五山と総称される禅宗寺院の中には、禅の境地に至る個人の心を修養する補助的な学として儒学が継承されていた。
 こうして公家と禅宗寺院の中に継承されていた儒学が、家や共同体の繁栄を保障する理論として次第に受けいれられていったのだ。

(c)「孝」に基づいた統治の学としての儒学
 
 ところで儒学とはどのような理論大系をもった学であったのだろうか。
 「つくる会」教科書のp26・27では、孔子の学説を以下のように説明している。

孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き、道徳と礼(礼儀に基づく掟)で人を導けば、天空のすべての星が北極星を取りまきながら整然と動いているように、政治は万事うまくいくと述べた。この教えは儒教と呼ばれ、のちに弟子たちが孔子の教えをまとめて「論語」をつくった。

 比較的詳しい説明ではあるが、いくつか大事な点が抜け落ちている。
 その1つは孔子が説いた仁愛の内実である。
 儒教の根本的な概念は「孝」である。この「孝」は単に子が親を敬愛する親孝行という意味での「孝」だけではなく、親が子や孫を慈しむことや、人が祖先を敬愛するということも含めて「孝」と呼んでいる。つまり親子間の情愛とこれを祖先や子孫にも広げた情愛を「孝」と呼んでおり、仁愛とは、この親子間の情愛と等しいものを他人にも降り注ぐことを指しているのだ。そして誤解されることが多いが、孔子が述べた仁愛は、社会を統治する階級としての「君子」が、その統治にあたって持つべき心がけとして説かれていたということだ。
 要するに儒教という宗教は祖先崇拝を基調として、人間の魂(霊)は子孫の肉体の中に継承されているし、子孫が祖先を礼拝し尊崇することを通じて、いつでも懐かしいこの世に戻ってこられるという宗教である。そして儒学はこの宗教的観念に基づいて、親子の情愛、とりわけ親が我が子に注ぐ情愛こそ社会の根本であり、このような情愛をしっかりと持った個人が確立されれば、家族は安泰であり家も永続し、このような情愛を家族の外の隣人にも等しく注げば社会(共同体)も安泰となり、その諸共同体の連合としての国を統治する君子も同様な情愛を国民に降り注げば、国家も安泰となるという社会・政治理論をもった学であったのだ。
 この儒教・儒学の根本にある人の魂は子孫の中に継承されるという祖先崇拝の観念は、世界のどの民族にもある普遍的な観念であり、日本人も例外ではない。日本においてこの観念が宗教として形成されたものが神祇信仰であり、仏教も中国で広まる中で儒教の祖先崇拝を取り入れ、さらに日本にもたらされて社会に広まる中で日本の神祇信仰も取り入れて展開したことは、中世編の【23】ですでに見たとおりである。
 現世の存続を願った政治学としての儒学の背景にある思想は、日本人の中に色濃く継承された観念そのものであった。だからその学としての儒学が、戦国末期から近世初頭にかけて、日本社会に広く受けいれられたのだ。
 武士も百姓も町人も、その家と家職、さらにはその共同体の存続を保証する「実践」の学として儒学を学び、その生活哲学としたということなのだ。

B社会の変化に従って様々に変容した儒学の多様性

 しかしこの当時受けいれられた儒学は、孔子の時代とは異なって、さまざまな傾向を孕み、幾つかの流派に分かれた儒学であった。それは儒学が合理的・論理的な「実践」の学であり、社会が変化すればそれに対応して「実践」の学の体系を変化させたからだ。

(a)血縁的共同体の解体に直面した儒学
 紀元前6世紀の孔子の時代は、氏族という血縁的共同体の連合として社会・国家が成り立っていた時代であった。それでも次第に商品生産が盛んになると共に血縁的共同体の繋がりがゆるみ、それを基礎とした国々の統治機構も緩んでいた。そんな中で孔子は、昔の聖人たちの時代のように、血縁的共同体の道徳・儀式に依拠した形での社会・国家の再建を夢見て、そのための具体的な提言をなしたのであった。これが初期儒学の姿であった。
 しかしその後、戦国時代・秦漢による統一国家の形成の時期を経るに従い、血縁的共同体の解体はさらに進み、孔子のような共同体道徳・儀礼で人々の心を修養するだけで社会秩序は保てるという主張は牧歌的になっていった。この過程で、人の心を外部から、国家による法に基づく処罰で規制する必要があるという認識が儒者の中に生まれる。筍子(じゅんし)・韓非子(かんぴし)の系列につらなる一派であった。しかし「法家」と呼ばれたこの儒学の一派もまた共同体道徳・儀礼で人の心を修める必要性を捨てたものではなく、両者はお互いに補いあう関係にあったのだ。そして漢帝国においてこのような多様性をもった儒学は、科挙という国家官僚選抜試験制度を媒介に国家官僚の統治の学としての地位を占め、しだいに宗教としての儒教と分離し、統治の学として精緻の度を深めていった。

(b)社会的激動の中で道教・仏教の挑戦をうけたて変容した儒学
 だが紀元後3世紀の漢帝国の崩壊以後、中国は異民族の侵入に伴う国家的分立状態が続き、途中で隋・唐による統一国家の時期が成立したものの、9世紀の唐帝国の崩壊以後も異民族の侵入は続き、宋・金・元・明と漢民族と異民族の王朝とが交互に続き、社会的激動が続いた。このなかで血縁的共同体はますます解体され、家の存続によって人は永遠の命を得られるという儒教の死生観は次第に牧歌的なものとなり、人々は新たな心のより所を求めた。それが「自己の努力によって不老長生が得られる」とする道教や、中国人が「死後も別の世界に生まれ変われる」と理解した「輪廻転生」を説く仏教という新たな宗教の拡大を生んだのである。そしてこの新たな宗教の拡大との闘争の中で、儒教・儒学はさらに変容を遂げたのであった。これは宋代・明代のことであり、この時代に朱子学・陽明学・古文辞学という儒学の一派が生まれた。この多様な儒学が室町・戦国の中世後期と、安土桃山・江戸の近世を通じて日本にもたらされ、江戸社会に広まったのだ。

(c)宇宙論に依拠して統治の学としての儒学を確立した朱子の学
 11世紀の宋代に朱子によって確立された新たな儒学である朱子学の特徴は、これまでの儒教・儒学が持っていなかった宇宙論まで備えることで、人の精神修養の基礎である道徳を孔子が考えたような聖人の立てた道というだけではなく、天地宇宙に初めから内在する人知を超えた力(これを理という)が人間に形象化されたものが道徳であると理論づけたところにある。朱子学では宇宙はこの理と物質である気とが交じり合ってできたものであり、それゆえその天地の創造物である人もまたこの理と気とが交じり合ってできたものだから、人の精神の根幹をなす道徳は、宇宙創造の根幹である理を体現したものだと論じたのであった。
 この朱子の論は、宇宙論をも備え、森羅万象の関係をその宇宙論で論理づけて、その中で人間の魂の輪廻転生を理論づけ、現世における人の心のありかたをこの宇宙論に結び付けて説明する仏教の諸学に対抗して成立したものであった。そして朱子学では道徳論として「忠」「仁」と「敬」を特に重視し、人が身を修めて聖人に近づく方法として、「小学」「四書」「五経」と段階を踏んで古典を学ぶ教育課程を定めた。
 「仁」と「敬」とはどちらも君主にかかわる道徳である。なぜならばこの時代はすでに中国の政治の実権は科挙を通じて皇帝の官僚に上り詰めた人々によって握られ、彼らは皇帝との間の「個人同士の君臣としての信頼関係」に依拠して、今だ諸共同体に依拠する人々を支配していたからだ。彼ら科挙官僚にとっては、道徳において君主に対して真心をもって仕える「忠」がもっとも大事であった。しかし彼らの「忠」とは君主の命令や政治に対して盲目的に従うものではなかった。彼ら自身も国の治世に携わる君子として、彼らなりの価値観にそって行動し、君主の命令や政治がその価値観から見て間違っている場合には、命を賭して君主を諌めることが「忠」であったからだ。したがって彼らにとっては、彼らの価値観が私利私欲や個人的な人間関係に左右されない、客観的に正しいものであることを担保する基盤が必要であった。その道徳的基盤が「慎み深く自分を律する」という意味での「敬」であり、彼らが行う政治の基本は、父子関係の愛情を意味した「孝」を広く社会の人々に及ぼしたものである「仁」であったのだ。
 こうして朱子学は、科挙官僚として皇帝に仕え、国を統治する君子としての彼らが自己の心を鍛え、政治に携わっていくための心得と鍛錬の方法を確立した。

:「つくる会」教科書は、朱子学とは何かということについて旧版も新版も一言も説明していない。著書が授業で使用した清水書院の教科書では、中世に入る前に「唐のおとろえと東アジア」という項を設けてその中で宋代に朱子学が起こり、それは「身分の秩序を重んじる」ものだと解説している。この解説自体も誤りであり、「身分の秩序を重んじる」のは国の統治を行う君子の学としての儒学全体に通じてのもので朱子学だけの特徴ではない。朱子学の特徴は、宇宙論にまで根拠を広げてその道徳の価値を確定するとともに、君主に仕え国を統治する君子としての科挙官僚の心のありかたとそれを訓練する教育論を確立したところに特徴があるのだ。朱子学は今までの儒学以上に、物事の成り立ちや性格を論理的に突き詰めて明らかにしようとする特徴を持ち、論理学・科学としての性格をもっており、これが後の諸学の発展の基礎となった。

(d)社会的実践こそが儒学の命の泉であると主張した心学
 しかし朱子のこのような哲学的・形而上学的な思弁には儒学内部からも批判が巻き起こった。朱子と同時代の陸象山が代表する「心学」である。彼は、知性・感性を包み込んだ総合的直覚としての「心」を重んじ、朱子の知性の働きによって物事の根本にある「理」を明らかにしていこうとする傾向を批判した。この陸のような傾向の中から、15世紀の明代に生まれたのが、王陽明が確立した陽明学であった。
 王陽明は「聖人の教えは人の生まれながらの心の中に自ずから備わっているのであり、宇宙の根本理念である理などに由来するものではない=心即理」として、「人が生まれながらに持っているあふれ出る生命のようなもの=良知」を大事にし、「心の不正を去り、良心を発揮する」ことを説いて、「知行合一」を唱えた。「つくる会」教科書が記述した陽明学の性格である「実践を重んじる」というのは、朱子学のような物事の理を極めて道徳のありかたを求める思弁的傾向を排し、「道徳は自ずから自分の心に備わっている」として自己の考えに従って行動せよとしたことを指しているに過ぎない。朱子学が実践を軽視し陽明学が実践を重視したということではないのだ。儒学はその成り立ちからして現世における人々の関係を問題にし、社会や政治のあり方を問題とする「実践」の学であった。その実践の基盤である道徳の正統性をどこに求めるかについての考え方の違いであったのだ。

(e)孔子に帰れと主張した古文辞学・考証学
 さらにこの明代から次の17・18世紀の清代においても朱子学に対する批判は巻き起こっている。それが古文辞学であり考証学である。朱子はその論を立てるにあたって儒学の古典に対する新しい解釈を次々と立てていったのだが、自分の思想に基づく主張が先行して、必ずしも古典に対する歴史的事実に基づく解釈ではなかった。そこを批判したのが古文辞学や考証学であり、古文のその時代の意味を明らかにしたり歴史的事実を究明して聖人たちの言葉の理解を深めようという傾向であった。

 孔子によって確立された儒学は、孔子の時代の血縁的共同体が貨幣経済が発展するにつれて壊れ、共同体から離れて国家を統治する官僚が社会で大きな力を占めるに従って、このように変化していったのだ。中世後期から近世初期にかけて日本が吸収発展させた儒学とは、このように中国の宋・明・清代に発展した新たな儒学であった。

:「つくる会」教科書は、旧版・新版ともにこのような儒学の歴史的変化をまったく記述しない。これはこの教科書の記述が日本列島での動きに極端に制限され、世界の動き、とりわけ日本もその一部である東アジアやアジアの動きをほとんど記述していないことに原因がある。だがこれはこの教科書のせいではなく、文部科学省が1998(平成10)年12月に告示された学習指導要領において、「世界の歴史については、我が国の歴史を理解する際の背景として我が国の歴史と直接かかわる事柄を取り扱うにとどめる」として、事実上歴史学習を日本一国史に切り縮めてしまったことに原因がある。このような歴史学習を一国史に限定する文部科学省の姿勢には、90年代半ばから興隆した「つくる会」をも生み出した民族主義的国家主義的思想潮流が背景にあることは論をまたない。

C日本で独自に発展を遂げた儒学

 しかし日本における儒学の発展は、中国や朝鮮とは異なった形態と内容を伴っていた。それは儒学の社会的地位が中国や朝鮮とは異なっていたからだ。

(a)儒学・朱子学は近世人が依拠した多様な思想の一つにすぎない
 「つくる会」教科書の先の記述では、幕府・藩が儒学の中の朱子学だけを公認の学として受けいれたかのような誤解をうけかねない。たしかに陽明学は誤った儒学であるという捉えかたがされたことは事実ではあるが、近世日本における儒学の受容は、もっと多様な流動的なものであったのだ。というよりは正しくは、儒教・儒学は、仏教・神道も含めた多様な思想の一つとして近世の日本人に受容されたものであり、儒学とりわけ朱子学が近世日本の思想の中核を当初から占めていたというのは、幕府儒官である林家が作った神話であり、近代以後の歴史の中で再生産された神話にすぎない。
 そもそも、近世の日本社会に宗教としての儒教が受けいれられる基盤はほとんどなかった。
 儒教はすでに見たように、東アジアの地域にも共有される祖先崇拝を基調とした宗教であるが、日本ではすでに仏教が祖先崇拝を組み入れて、家の未来永劫の繁栄を祈る宗教としての地位を確立し、家々の宗教として普及していた。そしてこの仏教は神道とも融合したものであり、これらの家々の宗教の頂点には、神の子孫としての天皇が君臨し、日本は神国であるという神話でこの国は統合されていた。従って儒教が宗教として、仏教や神道を押しのけて、社会的統合の核にのし上がることは不可能であった。
 このことは、幕府や大名が彼らが「公儀」として国々を統治するための権威をどこに置いていたかを見ればすぐわかることである。
 幕府はその家の草創の人である徳川家康を「東照大権現」として日光東照宮に祭り、その統治の根拠としての権威として推戴し、諸大名の多くもまた、その居城に東照宮を勧進し、彼らが国々を統治する根拠としてきた。この「東照大権現」という神号自体が、仏教と神道との融合したものであり、そしてこの神号は、天皇によって与えられていたのだ。こうして近世日本社会は、上は天皇・公家・将軍・大名から、下は百姓・町人に至るまで、仏教と神道が融合した宗教(これを当時の日本人はキリスト教と対抗するものとして「日本教」と呼んでいた)によって統合されていたのだ。
 また神道・仏教が統合された宗教で当時の日本が統合されていたことは、家康に重用されて幕府儒官として立身した林羅山(1583‐1657)の地位と、その思想の中にも明確に示されている。
 林羅山は1583(天正11)年に京都に生まれて禅宗の建仁寺に入り、儒学と仏教を学んだ。しかし次第に仏教に飽き足らない物を感じ、1997(慶長2)年に家に戻ってからは専ら儒学を学び、朱子の学に傾倒して仏教を排撃した。そして1604(慶長9)年から近世儒学の開祖と称せられた藤原惺窩(1561‐1619)に師事し、彼の推挙で家康に仕えることとなった。しかし、家康が林羅山を重用したと言っても、それは彼のブレーンの一人として、その卓越した和漢の古典に対する知識と文章能力により、さまざまな法的文書の起草と、幕府の治世を記録に残す史官としての役割に過ぎなかった。また林羅山は儒学の中でも朱子学を正統な学として純化させようとし、思想的には仏教を排撃したが、幕府に仕えるにあたっては剃髪して道春と号して、仏教僧侶としての体裁をとる必要があった。儒学というのは多様な学の一つであり、儒者は統治者としての武士ではなく、世間を捨てて出家した「制外の人」という扱いであったのだ。
 家康は彼の統治に役立つ知識人を多く抱えていたが、林羅山はその中の一人に過ぎず、しかも彼のブレーンとしての役割はそれほど大きなものではなかった。家康のブレーンとして彼の政策決定に大きな影響を与えたのは、「東照大権現」の神号を推挙した関東喜多院天海と、武家諸法度を起草したり多くの外交文書を起草した金地院崇伝という仏教僧侶であったことに示されてもいる。林羅山が家康に召抱えられ、家康・秀忠・家光・家綱の4代の将軍に仕えたのは、朱子学者としてのその思想的立場を幕府が尊重したというより、京都建仁寺の学僧として身につけた儒学・仏教・神道・歌学などの古典に対する深い知識を、統治のための文書を起草し幕府の歴史を記録する史官として起用したに過ぎなかったのだ。林羅山の業績として「寛永諸家系図伝」と「本朝編年録」が挙げられる所以である。
 林羅山は1630(寛永7)年に将軍家光から上野忍ヶ岡に土地を与えられて、ここに私塾と文庫と孔子廟を建てたが、これはあくまでも林家の私的なものであり、幕府の学問所などではなかった。

:林家が幕府お抱え儒者として大学頭についたのは林羅山の孫の林鳳岡(1644‐1732)の時代で、彼は5代将軍綱吉の信任が厚く、1691(元禄4)年に林家の私塾が湯島に移転して昌平黌となり幕臣にも講義する場となったことに伴うものであった。しかし林家の私塾が正式の幕府学問所となり、朱子学だけが幕府の学問所での正規科目とされたのは、1797(寛政9)年のことであった。

 儒学が幕府に重く用いられ始めたのは5代綱吉の時代であり、朱子学だけが幕府の官学となったのは幕府の統治そのものに危機が忍び寄ったもっと後の時代だったのだ。
 さらに林羅山が博学を駆使して著したものに「神道伝授」「本朝神社考」「神道秘伝折中俗解」などの神道書があるが、彼が神道に接近したのは、朱子学に依拠した道徳を政治の基本としても、これは中華としての中国の古代のものであり、中華思想では蛮族でしかない日本が規範として依拠できる基盤がなかったからである。林羅山は儒学の道徳の正統性の基盤を彼の師の藤原惺窩と同じく、日本列島に連綿として続く神の子としての皇室の存在に置き、神国日本にこそ聖人の学は栄えるとしたがためであった。
 儒教・儒学は、それ自身だけでは、日本近世の体制を支えるイデオロギーとしても機能できなかったのである。
 そして近世日本に受けいれられた儒学もまた多様なものであった。五山などの禅宗寺院に受けいれられていた儒学は、中国で宋から明・清に至る時期に生まれた朱子学や陽明学、そして古文辞学など異なる主張を行ったものが、中国より遅れて書物が輸入されることによって同時に受けいれられたのであり、それ自身が多様なものであった。そして禅宗寺院においては儒学は、禅の境地に至るための道筋として位置付けられていたので、仏教とも融合したものであった。
 だから近世日本の儒学は、朱子学に偏るものではなかった。このことは、近世儒学の開祖とされる藤原惺窩の思想自身、理学とされる朱子と心学とされる陸象山の論争で朱子を取るのではなく、両者にはそれぞれ正しい側面があるとして、両者を折衷する傾向が強かったことにも伺われ、藤原惺窩の弟子達の多くは、師と同じく折衷的傾向が強く、京都で儒学を教えた町人学者・松永尺五(1592‐1657)のように「仏教の教えと融合する必要がある」と公言してもいたのだ。林羅山のように、仏教を激しく排撃し、朱子学のみが儒学の正統であると主張する学者は、藤原惺窩の門流の中でも少数派であった。

(b)「道」の学としてその存在を主張した儒学
 では儒教・儒学はどのようなものとして近世日本社会に受け入れられたのか。
 儒学者は、近世日本の人々に対して、儒学こそは「道」を体現する学であると説き、その「道」とは「天道」に従ってそれぞれの役割を自覚し、「天道」に与えられたそれぞれの「役」を充分に果たすことこそが、古の聖人が定めた「道」なのだと説いた。つまり儒学は、人の死や人を超える恐ろしげなものに対処し、死後の極楽往生や子孫の繁栄そして魔物の退散を祈念する仏教や、人々に様々な幸をもたらす神を祭る神道とは異なって、人々が現世でどのような役割を持ちどのように生きていくのかという問題についての解答を与える哲学であると主張したのだ。そしてそのようなものとして儒学は近世日本社会に受け入れられた。
 この時点で既に儒学は、宗教であることを主張せず、人生の哲学として近世日本社会に生きていく道を選んだのだと言えよう。この意味で「つくる会」教科書が、「儒教の発展」とか「儒教を重んじた」と記述したことは間違いである。儒学者としては儒教という祖先崇拝の宗教に基づいた人生哲学であり統治のための哲学だと主張したかったであろうが、これは先に見たような日本社会の現状からしてありえなかったのだ。
 そして儒学者は近世日本の人々に対して、それぞれの社会的役割によってその生き方を次のように説いた。
 為政者は国を私するのではなく、彼は天道から国を預かり民の安寧を保つことをその「役」として請負ったのだ。そして彼が為政者として今あるのは、天道が彼を国を治めるに相応しい資格を持っていると認定したからであって、為政者は天道が定める聖人の道に従って、慎み深く身を修め、民の安寧を保たねばならぬと。この主張は戦国時代以来、人々の安寧を求める要求を汲み取り、「公儀」として国家的統治を築き上げようとしてきた大名たちにとって、その統治の根拠になる理念と統治の方法を提示するものであったので、儒学者の主張は徐々に受けいれられていった。
 また儒学者は、この天道が定めた聖人の道は、為政者ではなくとも実践できるものと説いた。百姓は田畑を耕して世の人を養い、職人は家や器を作って世の人に使わせ、商人はこれらの品物を足る所から不足するところに通わして世の人々の手伝いをする。武士はこれらを治めて世を乱れぬようにする。これは天道が定めたことであり、それぞれの家職は天道が与えた「役」であるのだから、それぞれの家職に励み、互いに助け合うことだ。世を治めることは君主が天道から委任されたことであるが、百姓も職人も商人も武士もそれぞれが君主が人民の父母となって世を治めるのを助ける役人であると。
 これは元禄から享保にかけての儒学者・荻生徂徠の言葉であるが、近世の儒学者に共通した考え方であった。この考え方に従えば、君主の道である聖人の道は、君主ではない百姓や職人や商人・武士にも実践できるものであり、それは、それぞれが天道によって与えられた「役」としての家職を全うすることによって実践できると説いたのだ。
 こうして儒学が提示する「道」の実践理論・徳目は、それぞれの諸身分に応じて、それぞれの社会における役割を自覚し、家職を全うするための方法とその意味、さらには自己を自制する方法とを近世日本の人々に提示したのだ。
 このようにして儒学は近世日本に受けいれられた。しかしその形は、中国や朝鮮とは異なり、儒学を専売特許とする官僚階級を形成するのではなく、近世日本のそれぞれの身分の個人と共同体の自立のための学として、社会に広く受けいれられていったのだ。

(c)統治の学として時代に対応しようとした儒学ー論争の背景ー
 しかし近世日本の儒学は、中国や朝鮮とは異なって、朱子学一辺倒ではなく、その流れの中に多様な潮流を生み出し、激しい論争を生み出していった。それは近世日本に儒学が受け入れられる過程そのものからして中国で長い年月の間に生まれた様々な儒学派が並行的に流入したことに理由があったし、一方で、近世日本社会が、中国や朝鮮のように、王や皇帝の下にその官僚としての士大夫層が強固に社会を支配するのではなく、武士・百姓・町人などのそれぞれに身分共同体がそれぞれの自治を基礎として緩い社会的統合体をなしていた近世日本社会の特徴そのものに起因していた。そしてその中で古代以来徐々に発展していた貨幣経済が近世初頭からすでに全国的に広がり、封建的土地所有階級としての武士や公家はその経済を支配する力を失い、社会的に力を持っていたのが、貨幣経済の要である貨幣そのものを握る商人階級に移っていたという現実に起因していたのだ。
 元禄時代から享保時代には既に深刻な問題となり、幕藩体制そのものを揺るがす大問題になっていた藩・幕府の財政危機と武士の生活の窮乏、そして拡大する都市と貨幣経済を背景として武士が商人に頭を下げないと暮らしていけない状態。この問題は近世初頭からすでに問題となっていた。これは武士が藩という共同体を作って都市に集住し、その統一した力で、台頭しつつある百姓や町人に対抗するために幕藩体制を作ったという歴史的経緯からして、必然的に起こる問題であったのだ。
 近世日本においてその統治の学として、また人々の人生の哲学として普及した儒学と儒学者が直面した社会は、儒学がその模範とした孔子の時代とはかけ離れた、封建社会が貨幣経済の進展によって解体され、近代市民社会へと変貌していく時代であったのだ。したがって現世における実践の学である儒学と儒学者は、このような社会の変貌に対応して、その学を作り変えていくしかなかった。だから様々な学派が生まれ、激しい論争が政争を伴って行われたのだ。
 では実際どのように儒学派の戦いが行われたのか。教科書の記述に従って見て行こう。

(d)道徳主義では治められない江戸社会の現実
 当初幕府や藩において統治の学として受容されたのは朱子学であったが、中国の朱子学そのものは科挙によって皇帝の官僚として国の統治に携わる士大夫階級の確立という社会的背景によって、その学は主として士大夫としての個人の修身に収斂したものであった。そして、朱子学が政治の学として取り入れられると、それは元禄の綱吉の政治に典型的なように道徳主義となり、為政者の統治そのものが道徳に叶っているかが問題となり、民の行動も道徳にかなっているかどうかで賞罰が行われた。しかし近世日本の社会の問題は道徳にあるのではなく、封建社会が貨幣経済によって解体される過程で起きてきた社会の解体・再編成と、これに伴う価値観の多様性と社会的な貧富の拡大に伴う道徳の解体・変質であった。従って道徳を問題にするだけでは実際の問題はなんら解決がつかない。
 たとえば荻生徂徠が側用人柳沢吉保に仕えていたとき、吉保の領内川越の百姓が生活に困って田畑・屋敷を失い、妻を離縁し出家して母を伴って旅に出た。途中で母が病に倒れたのでこれを残して一人江戸に出たのだが、病に倒れた母を見つけた近在の百姓がその出所を尋ねあて、このことが領主柳沢吉保の耳に入った。吉保は儒学の「考」を尽くす道徳に依拠してこの百姓を咎めようとし、幕府お抱え儒者の林家もこの百姓を「親捨ての刑」に処すよう主張したが、彼の家臣やお抱えの儒者たちは問題の広がるのを怖れて、この百姓は出家しているのだから制外の非人であるとして咎めなしと裁決しようとした。このとき儒者の末席にいた徂徠は「この百姓が田畑を失い母親をも捨てざるをえなくなったのは、ご政道が誤っているからだ。この百姓には罪があるが、飢饉にでもなれば同様な百姓は多数出るだろう。その時にも一々咎めることになる。罪があることにおいては百姓も、領地の代官も奉行も、そして家老も大名も同罪である」と進言し、このような事例を道徳主義で裁決するべきではないと述べた。つまり百姓の暮らしが立ち行くようにするのがご政道を預かる武士の仕事なのだが、貨幣経済の発展しているこの世で借金をして農業を行い生産物を売って暮らしを立てている百姓は、景気の変動や飢饉の勃発などの外的要因のために暮らしを保つのは容易ではない。従って百姓の行為を道徳的に咎めるのではなく、このような社会を変える政治をするのが武士の務めだと徂徠は述べたのであった。
 このように近世江戸の社会は、道徳で国を治められるほど単純な状態ではなく、このため儒学に基づいて実際に政治を行ってきた武家階級の中から、朱子学に対する実践的批判が出てきたのだ。この批判を体言した人物が、中江藤樹であり山鹿素行や荻生徂徠、そして教科書では取り上げていないが熊沢蕃山であった。
 中江藤樹(1608‐48)は朱子学への根本的批判に先鞭をつけた人物であった。
 1608(慶長13)年に近江の国高島郡小川村に生まれたが、9歳で伯耆の国米子の加藤家に仕える祖父の養子となり、6年後の祖父の死後はその家督を継いで100石取りの武士となった。しかし1634(寛永11)年27歳のときに、郷里の母への孝養のため職を辞することを願い出るが許されず、脱藩して郷里小川村に帰り、母に仕えつつ学問と教育に励んだ人である。
 彼は最初は朱子学を学んだが次第に朱子学の形式主義に疑問を持ち、朱子学が重んじる四書ではなく五経を中心に思索を重ねる中で陽明学に出会って独自の境地にいたり、1641(寛永18)年に「翁問答」を著した。彼は朱子学のように、宇宙の根本原則である「理」と人の心の一致を目指すために聖人の道を探求することを否定し、人は生まれながらにして優れた道徳的な力(明徳)を持っており、この明徳を明らかにしそれを実践するときに、その人の行為の妥当性は保証されると説いた。そしてこの明徳は、万物を生みかつ主宰する神秘的超越者大乙神の存在によって保証され、この神を祭ることの大事さを説いたのである。
 つまり「つくる会」教科書が中江藤樹が重視したという「実践」とは、朱子学的な道徳の実践ではなく、社会的現実に沿って問題解決を行う「実践」を意味していたのだ。こうして中江藤樹の学説は、中国の古代の聖人の学から離れて、それぞれが心の内に持っている道徳的力に基づいて現実に対処することこそが大事だと説き、天道にかなった道は多様であることをしめした。このため彼の著作は、この後多数の朱子学を批判し、それぞれの道を建てる傾向を促進する役割をはたしたのであった。

(e)徳のある政治を目指し幕政を批判した素行・蕃山・徂徠
 朱子学に対する批判的態度に基づいて、現実政治に直接関ろうとした儒者に、山鹿素行と熊沢蕃山があった。
 1622(元和8)年に会津若松に生まれた山鹿素行(1622‐85)は、最初林羅山に朱子学を学び、北条氏長などに兵学も学んで、若くして「四書諺解(げんかい)」や「兵法神武雄備集」を著し、さらに神道や和学をも学んだ秀才であった。しかし次第に朱子学の形式主義に疑問を持つようになり、漢・唐・宋・明の書、つまり後世の儒学者の書を媒介とせず直接古代の聖賢の教えにつくべきであるとする古学的立場に移行し、朱子の「性理学」を主観主義として批判し、現実の事物に即して「理」を明らかにすべしと主張するようになった。この中で彼は儒学の「道」の実践を道徳の現実への適用ではなく、「道」とは日常生活において筋目を明らかにするものであり、日常生活を正しいものにするためには、武士にとっての学問は軍事や・民政のこまごまとした日用の業の役にたつ「実学」でなくてはならないと主張した。また彼は儒学でいう聖賢の道は「天照大神の子孫が代々天子として統治する」ことの中に実現していると考え、朝廷への尊崇と朝廷に委任されて将軍の統治の正統性が保証されているという考えを述べた。彼の学説は大いに社会に影響を与え、素行は彼の門人であった赤穂藩主浅野長直に1652(承応1)年より1660(万治3)年まで仕えながら、学問の探求と激しい幕政批判を行った。
 また1619(元和5)年に京都に生まれた熊沢蕃山(1619‐91)は、若くして岡山藩主池田光政に仕えたが、19歳のときに職を辞して祖母の実家があった近江の国の桐原に移って学問に励んだ。その中で、近在の中江藤樹に師事してその学を継承して儒学者となり、1645(正保2)年にふたたび岡山藩に仕え、光政側近として3000石を知行し、番頭として多くの家臣を指揮して事実上の郡代として飢饉に苦しむ民の救済など、郡の治世に活躍した人物である。
 蕃山の思想は朱子学と陽明学とを折衷したものと言われるが、武士を「人民を教え治める役者」と捉えて、一人一人の武士がその職分を勤めることと、そのための自己修養に励むことを重視した。またその武士が行う政治は儒学の伝統にのっとった「仁政」であり、民を慈しむものでなければならないとし、当時の諸藩で行われていた新田開発と商品作物栽培の奨励、そして特産物の藩専売制という百姓を収奪する政策には批判的であり、武士は都市を離れてその知行地に土着し、百姓とともに農業に精を出すことを説いた。彼はこの時代にしばしば起きた飢饉の原因は、人々が次々と新田開発をしたり都市に移住して大掛かりな都市建設工事を行って森林を伐採し自然を破壊したからであるとして、武士が都市に集まった故に暮らしが贅沢になり借金づけになったと批判して、兵農分離の制度を改めて「封建」の昔に戻ることを説いたのであった。また彼は素行と同じく、聖賢の道は天子の存在に示されているとし、将軍や大名は天を代表する天子から天下の統治を委任されているのだから、それに相応しい徳のある政治を行い、天子の恩に酬いるべきであると説いた。
 しかし素行や蕃山の言動は、政治に徳を求めて現実に政治を批判することとなり、3代家光の死後いまだ政権基盤が定まっておらず、諸大名・人民への統治方法を模索し、同時に増大しつつあった浪人武士の問題にも頭を悩ませていた幕府から睨まれ、素行は1666(寛文6)年に赤穂に配流され、蕃山は1669(寛文9)年に明石に配流、さらに1687(貞享4)年に古河に禁固と、2人はそれぞれ蟄居を命じられることとなったのである。
 だがこのことは幕府が朱子学以外の学問を禁じたことを意味してはいない。幕政を批判した素行や蕃山が広く大名や武士にその教えを講義することを禁じただけであり、2人は蟄居後も教えを講じており、素行は赤穂藩の藩主や武士に、蕃山も明石藩の藩主や武士さらには京の公家や町人にも教えを講じていたのだ。また蕃山の教えを受けた岡山藩士の中からは儒学を藩政に実践的に適用した人々が多く現われ、そのために藩士のための学校を設立し、そこで蕃山の学が教えられたのであった。
 儒学は既に実際の政治を支える学となっていたのであり、多くの大名や藩士も儒学を学んでおり、その儒学にはさまざまなものがあったので意見の対立が起きたに過ぎなかった。素行や蕃山を処罰した幕府の背後には、林羅山の弟子の山崎闇斎の神道と一体となった朱子学を奉じる3代将軍家光の弟の保科正之がおり、山鹿素行の背後には彼の学を奉じる赤穂藩主浅野長直が、熊沢蕃山の背後には彼の学を奉じる岡山藩主池田光政がいるという具合に、儒者の言動が直接現実政治を左右するようになっていたことを意味しているのだ。
 そしてこの2人からおよそ半世紀後の元禄から享保の時代に活躍した儒者・荻生徂徠もまた同様な問題に直面して、「仁政」を説きかつ都市に集まる武士や町人を生まれ在所の田舎に戻す封建制への復帰を説き、将軍の権威を高めるため勲等という官位を復活して将軍が大名に与え、天皇中心の官位制度に替え、朝廷の式楽に替わる武家の礼楽を確立するべきことを説いたのであった。

(f)儒学を万人の学とした徂徠・仁斎
 しかし近世日本における様々な儒学の興隆は、統治の学としての儒学を精密なものにしただけではなく、儒学を、そして国を統治することがら自体を、武士だけの専売特許ではなく、万人に開かれたものにしたことに歴史的意味がある。この道をこじ開けた先達が中江藤樹であり、さらにこの道を押し広げたのが、伊藤仁斎と荻生徂徠であった。
 1627(寛永4)年に京都に生まれた伊藤仁斎(1627‐1705)は、有力な町衆の出で、母方の祖父は連歌師里村玄仲、祖母は角倉一族の医師吉田易安の娘、仁斎の妻は本阿弥家と縁戚の尾形家の出であった。彼は宮廷や幕府にも出入りできる京都の上層町衆であったのだ。
 その仁斎は家業を継ぐのではなく儒学者として学問を極める道に進み、独学で朱子学や陽明学、さらには仏教や道教の学をも学び、独自の学説を立てた。彼は朱子が天地を「気」と「理」の2つに別け、原則としての「理」が物質としての「気」に内在するのであるから、生物としての人間の心には自ずから宇宙根本の原則である「理」が内在し、その「理」こそ孔子などの聖人の「道」に体現されているとする朱子の学説を「主観主義」として批判した。彼の学説は宇宙論としては「気一元論」であり、儒学の根本である「道」は人間にこそ内在するのであり、人間を離れて「道」は存在せず、「道」は人間の心に自ずから存在するものとした。こうすることで人の行うべき「道」を聖人の学からも宇宙の根本原理からも分離でき、ありのままの現実に依拠することができたからである。そして仁斎は「道」は人間と人間とが取り結ぶ関係の中にこそ現われるのであるから、儒学の古典を通じてそれを明らかにするときも、後世の学による解釈によるのではなく、たとえば孔子の時代の世間との関係での本来の意味で理解しなければならないとした。
 こうして仁斎は儒学を聖人の道に基づいた統治の学という性格から脱し、普遍的な人の道の学へと変貌させ、そこで重きを置く道徳は、社会の身分秩序を守る心=「義」とその秩序を主宰する者を敬愛する心=「敬」を退けて「仁」を重んじ、その「仁」こそは広く人々に注がれる慈悲としての愛であるとして、社会を構成する人々が身分の相異を超えて「相親相愛」の共同体をつくることを理想とした。
 仁斎は儒学を統治の学問から、すべての人が己が心を修め社会を修める道を説く学へと変貌させたのであった。これは近世初頭から藤原惺窩に儒学を学んだ松永尺五が京都で私塾を営み、公家や町人に儒学を講義したことに見られるように、町人がその人生の導としての学として儒学を受容してきた伝統が背景にあったと思われる。
 この仁斎の学を朱子学の立場から批判した荻生徂徠(1666‐1728)もまた、従来の儒学の枠を壊し、儒学をそして儒学に基づく政治を万人に開く道を歩んだ。
 1666(寛文6)年に当時の館林藩主徳川綱吉の侍医の子として江戸に生まれた荻生徂徠は、父が罪を得て追放となった上総の村で、独学で儒学を学んだ。そして彼の回りには書物が少なかったことが幸いして、四書五経を後世の注釈なしに原文に則して読解する技を身につけ、さらに江戸に戻ってからは、中国から渡ってきた黄檗宗の僧侶や長崎の唐通詞から現代中国語を学ぶことを通じて、儒学の古典を中国語として読解し、朱子などの後世の解釈を経ずに直接理解する道を取っていた。この過程で徂徠は、朱子の古典解釈が極めて恣意的であるとし、直接孔子以前の学に戻るべきであるとする中国古文辞学に出会ったことも影響して、独自の学説を立てていった。
 彼は伊藤仁斎がその学説の中で「人を離れても道は存在する」とまで言い切ってしまっていたことを批判し、それでは朱子が道は宇宙の根本の原理である理が体現したものとして、道が人を離れて宇宙に存在するとしたことと同じだとし、仁斎の学は朱子を批判したことにならないと批判した。しかしこの批判をすることで徂徠は、自分が朱子とは異なって「道」を宇宙の根本原理である「理」が体現したものとは理解せず、「道」とは聖人が作ったものと理解していることに気がつき、やがて仁斎と同じく激しい朱子学批判に転じたのであった。
 徂徠は「道」とは聖人が作り出した「人為」の物であり、その聖人とは中国古代において国を統治した為政者であったのだから、聖人の道とはこれすなわち国家を統治する学であると説き、国家を統治する道は「仁」に基づいた政治であると説いた。また彼はその道は、天道から定めたものであり、この道は為政者ではない百姓や町人でも実践できるものであり、武士や百姓・町人という社会的存在は、それぞれ天道によって国の統治の部分を「役」として任されたものであり、それゆえそれぞれの身分がその「役」を誠実に果たすことによって、天道に定められた聖人の道の実現を助けているのだと説いた。
 荻生徂徠は孔子以前の教えに直接に帰り、為政者である武士は聖人の道に基づいた「仁政」を行うべきものであり、そのためには今の社会の仕組みを変えねばならないと、具体的に武士にたいして政策を説いたものであったが、その聖人の道が百姓や町人でもそれぞれの家職を誠実に実践することで実現できるとしたことで、儒学が教える道とそれに基づいた政治を万人に開いていた。それゆえ彼自身は側用人・老中となって権勢を振るった柳沢吉保の下で300石の碌を得て、さらには8代将軍徳川吉宗からは様々な具体的な建策を求められて重視されたが、彼の学説は、ご政道に対する広範な下々からの批判を招く「下剋上」の学として後に(寛政時代・松平定信の時代に)危険視されることとなったのである。

(g)儒学の「実学」としての発展を促した徂徠学
 しかし荻生徂徠の学風は、後世に大きな影響を与えた。
 1つは、先の親を捨てた百姓の処罰の件で見たように、彼は個人的道徳の問題以上に大切な問題があり、それは公のあり方、公儀として世の中を治める側のあり方こそが問われていると提起したが、これは政治のあり方を鋭く問うものであり、法の整備や裁判・訴訟の公平化や貨幣経済への対応のし方など、幕府や藩の政治のありかたに多くの変革を迫るものであり、実際に享保の改革において彼の提言に基づいて実施された政策が多くあるなど、現実政治に大きな影響を与えた。また2つ目には、彼の学風を継承した者たちの中から、現実の藩や幕府の政治改革を担う人材が数多く輩出し、彼らによって、実際政治に役立つ様々な「実学」が探求されたこと。さらに3つ目には、彼の儒学の古典を後世の解釈によるのではなく、その文献が作られた当時の語の意味や歴史的事実に基づいて理解するという学問の方法は、多くの学者たちが実証的な科学的な研究を生み出す媒体となったことである。この徂徠の学の方法をさらに厳密に適用して儒学の古典を研究した18世紀中期の大坂の町人の学問所である懐徳堂学派の人々は、徂徠の考証の学がかなり恣意的であると批判し、その中から、徂徠の方法論を儒学の古典だけではなく道教や仏教の学の古典に適用し、道教も仏教も儒教と同じくその原初の説に後世の者が新たな学説を付け加えて成り立っているのであり、現在行われている学説はその創始者の学説とは大いに異なることを論証した富永仲基(1715‐46)が現われている。また徂徠の学の方法を日本の歌や歴史の古典に適用して古の日本の歌のあり方や国のありかたを究明しようとした契沖(1640‐1701)や賀茂真淵(1697‐1769)の流れからは、本居宣長(1730‐1801)に代表される国学という新たな思想が現われ、近世後期の社会変革運動に大きな影響を与えることとなったのである。
 まさに近世日本の儒学の様々な学派の論争を通じて、儒学は経世の学として、そして社会変革の学として発展し、近世から近代の日本を動かした社会政治思想として機能したのであった。

 このように、儒学者たちの論争の背景には、貨幣経済の進展に伴って社会が大きく変化し、封建的領主権を背景に武士が世の中を統治する仕組みでは立ち行かないという現実が存在し、これを基盤として実際に政治に関った武士階級や実際に社会を動かす町人階級の中から、新たな儒学の枠組みが提起されたということなのだ。
 従って近世日本の儒学のありかたを記述するのであれば、彼ら儒学者が直面した近世社会の変化とそこから生じた問題を明記し、それとの格闘の中で、さまざまな学説が現われたことを明記すべきなのだ。中江藤樹や山鹿素行、そして熊沢蕃山や荻生徂徠が直接中国の孔子以前の聖人に学ぼうとしたのは、主流派であった朱子学が単に道徳を現実に当てはめようとする形式主義に陥っており、これを超える論理を手に入れるために、朱子の学説が孔子以前の聖人の道を直接反映してはいないと考えての行動であったことを示唆する記述が必要であったと言えよう。

 :といっても教科書という狭いスペースに儒学論争全体とその背景を記述することは無理である。儒学論争とその社会的背景を理解させるためには、この「元禄期の文化」の項の前、「産業と交通の発達」の前の「平和で安定した社会」の項の中に、「武士の暮らしと社会」とでも言うべき項目を立て、都市に集められた武士がどのような仕事をしてどのようにしてその暮らしを立てていたのかを記述し、消費生活者となった武士の暮らしの難しさとこれに起因する幕府や藩の財政難の問題を簡単に記述しておけば理解は早い。その上で変動する社会と政治のありかたの乖離から生じる問題に儒学者が直面して様々な学説が生まれたことを記し、それぞれに儒学者たちが行った具体的提言を簡潔にしるしておけば良いであろう。

 :「つくる会」教科書の儒学についての記述が持つ問題点のうち、近世日本儒学が中国儒学の発展とその直接的人的交流にも依拠していた問題については、この項の最後(4)の「近世日本の学問の発展を促した中国からの人や物の伝来」で詳述することにする。また儒学論争の背景となった武士の生活の困窮や幕府・藩の財政難の状況については、【27】「幕府政治の転換」の項で改めて詳しく見ることとしたい。

 :05年8月刊の新版では(p113)、「儒教の発展」という記述は削除され、儒学に限定された。しかし近世江戸社会の現実とどう切り結ぶ中で儒学が発展したのかという観点は新版でもまったく見られず、「孔子に帰れ」とした古学の流れについての記述は完全に削除されている。旧版より後退した記述になっているわけである。

(2)「歴史研究」は儒学の「道」の正統性を証明する学であった

 教科書は儒学の動向に続いて、この時代に歴史研究が盛んになったことを次のように記している(p143)。

 時代の現実的、合理的傾向の影響を受けて、事実に基づいて歴史を研究する動きがおこった。水戸藩主の徳川光圀は、学者を集めて「大日本史」の編纂を始め、のちの国学を基礎づけた。

 たしかに江戸時代は歴史研究が盛んになった時代である。水戸藩の「大日本史」だけではなく、幕府も「本朝編年録」「本朝通鑑」と相次いで歴史書を編纂しているし、多くの儒者が私家版の日本史を執筆している。

@意味不明の教科書の記述

 しかし教科書のこの記述では、この時代になって歴史の研究が盛んになった理由がよくわからない。
 「時代の現実的・合理的傾向の影響を受けて」とするが、その「現実的・合理的傾向」そのものが何を指しているのかわからないのだ。おそらく教科書の著者は、儒学者が江戸時代の現実そのものを科学的に研究しようとしたこと、そしてそれを時代が要請したことを指して記述したのであろうが、儒学がそのように現実的・合理的な思考であったことがまったく記述されていないので、読むものには意図が伝わらない。
 また「大日本史」は国学を基礎づけたとするが、これも意味不明である。教科書のp164の「新しい学問の発展」の中で国学について記述し、「儒教や仏教の影響を受ける以前の日本人の素朴な心情を明らかにした」とか「皇室の系統が絶えることなく続いていること(万世一系)が日本が万国にすぐれるゆえんであると説いた」とか説明しているので国学の内容はわかるが、これの学問的基礎を「大日本史」が築いたと言われても、それが記述した歴史の内容にまったく触れていない以上理解のしようがないのだ。
 要するに「つくる会」教科書の歴史書についての記述はこれだけでは意味不明である。

A天皇家を中心とした日本歴史が編纂された

 「大日本史」は、神武天皇から後小松天皇までの100代の天皇の事績をそれぞれの天皇の伝記である「本紀」とその天皇の時代に活躍した人物などの「列伝」とからなる本格的な歴史書である。この歴史書は水戸家の3代当主の光圀が1657(明暦3)年に編纂を命じ、なんと1906(明治39)年完成したという大部な歴史書である。そしてこのような本格的な歴史書が作られたのは、平安時代の「日本三代実録」(901・延喜元)年以来、実に1700年ぶりのことであった。またこの書は完成までの時々に幕府にも献上されており、1720(享保5)・1809(文化6)・1852(嘉永5)年に順次幕府に献上されている。
 日本において歴史が政府の手で編纂されたのは、720(養老4)年完成の「日本書紀」に始まり、「続日本紀」(797・延暦16年完成)・「日本後記」(840・承和7年完成)・「続日本後記」(869・貞観11年完成)・「日本文徳天皇実録」(879・元慶3年完成)と続き、江戸時代以前の最後の政府編纂の歴史書は、901(延喜元)年完成の「日本三代実録」(清和・陽成・光孝の3天皇の事績を記録)が最後であった。日本の正史編纂は平安時代初めで終わっていたのだ。

 :この6つの歴史書を総称して「六国史」と呼んでいるが、日本書紀が日本最古の歴史書ではないことは、古代編【19】で見たとおりである。日本書紀以前には大和大王家編纂の「古事記」があり、それ以前には九州天皇家・倭国編纂の「日本紀」があった。

 そしてこの六国史(いや古事記も日本紀も)が天皇の事績を中心として編纂されていたように「大日本史」も天皇家中心の歴史であり、またその記録した時代が平安時代以後、鎌倉・室町時代と続き、南北朝の争乱を終わらせた後小松天皇の時代まで編纂されていることは、「大日本史」は、内容といいその形式といい、六国史を継いで南北朝時代の終わりまでの日本の正史を作ったものと言える。しかも後小松天皇とその養子となった後花園天皇の時代までは、天皇・公家などからは朝廷がかつて華やかな日本を統治している存在として重きを成していた時代と観念されていたのだから、天皇・朝廷中心の日本歴史の華やかな時代を全て記録したものと言える。
 だがこのような試みは、水戸藩だけではなく幕府も試みていたのだ。
 水戸家の「大日本史」が1657(明暦3)年に編纂を命じられただけではなく、同時代に幕府も1662(寛文2)年に「本朝通鑑」の編纂を命じ、「本朝通鑑」は1670(寛文10)年に完成している。
 「本朝通鑑」は3代将軍家光の時代に林羅山に命じて編纂された「本朝編年録」(神代・神武〜宇多天皇までを記録)を基にしてその誤りを訂正し、これにそれ以後の醍醐〜後陽成天皇の時代について林鵞峰を中心に編年体で編纂されたものであり、実に六国史編纂から1700年以上の時が経っての取り組みであった。だがこれは内容的には六国史の範囲に留まっていたので、幕府はこれに次ぐ時代の歴史の編纂を試み、松平定信が老中であった1793(寛政5)年に、塙保己一の和学講談所に史料の編纂を命じたが史料の編纂に終わり、正史の編纂はなされなかった。

:この史料編纂は明治以後も続けられ、今でも東大史料編纂所が「大日本史料」編纂事業として継承している。

 江戸時代はまさに歴史の研究が深まった時代であり、しかもそれが政府が編纂した正史として、それも天皇・朝廷中心の歴史として作られた所に特徴がある。
 ではなぜ江戸時代に幕府や水戸藩によって、天皇・朝廷中心の日本史が編纂されたのだろうか。

B幕府のひいては日本=中華意識の正統性を明らかにする作業

 1つの理由は、幕府が日本の歴史を編纂することで、幕府こそが日本を統治する中央政府であるということを示すことにある。
 一国の歴史を政府が編纂することは、その政府が日本を統治する正統性をもった中央政府であることを示す営みである。国を統治するということは、その場を支配することだけではなく、時をも支配することだからである。古代倭国が「日本紀」を編纂したのも、そして奈良に都する日本国が「日本書紀」を編纂したのも中央政府としての正統性を誇示するためであったし、続いて「続日本紀」以下の史書を古代律令国家が制定したのもこれを意図したことであった。従って徳川幕府が六国史に続く史書を編纂したということは、徳川幕府こそが日本を統治する正統性をもった中央政府であることを内外に誇示するものであったのだ。
 そしてこの国史の編纂が3代家光から4代家綱の時代に行われたのは、1615(慶長16)年の大坂豊臣氏の滅亡によって戦国の世が終息し、幕府の全国統治権限が征夷大将軍という軍事指揮権に基づいて行われた時代が終焉したためであった。
 戦がない世の中において、幕府が諸大名の上に君臨して全国を統治することの正統性を何に置くのか。この問題に幕府が直面したとき、幕府が取った道が幕府の権威を高めることと道徳によって国を統治する「文治政治」に移行することであった。しかも3代から4代、そして5代綱吉にいたる時期の幕府は将軍継嗣が定まらず、権威の中心が迷走していた時代でもあるのだから、幕府の権威を上げることは至上命題であった。
 こうして幕府による国史の編纂が意図されたのだ。

:水戸藩主徳川光圀による「大日本史」編纂も同様な意図であろう。神君家康の孫にあたる光圀は御三家筆頭として4代・5代将軍を補佐する立場にあった。「大日本史」編纂も幕府統治の正統性を求めてのものである。

 しかしなぜ幕府・武家政権による国史の編纂が天皇・朝廷中心の国史の編纂という形態をとったのか。
 ここには2つの相互に密接に関連した理由がある。
 1つは、この時代が中華=世界の中心として伝統的に観念されてきた中国王朝=明が、満州女真族が建てた清王朝によって滅ぼされた時代であったという時代の特殊性である。
 明王朝が滅亡したのは、1644(寛永18)年のことであった。そしてその王族を擁しての遺臣の抵抗は1680(延宝8)年ごろまで続き、その間、明の遺臣による援兵の要請が幕府に対して何度もなされてはいたが、中国における清王朝優勢の情勢は1660(万治3)年ごろにはほぼ確定した。
 この中華帝国=明王朝の滅亡は、中国を中華と崇め、その統治の学である儒学を統治の学として受容しつつ、中国の聖人の道の実現を国家統治の根本として進んでいた幕府や儒者たちにとっては衝撃的な事件であった。世界の中心が崩壊した。しかもそれは日本と同じく蛮族と理解されてきた満州女真族によるものであり、今や女真族の王が中国皇帝として君臨し、自らを中華として内外に呼号している。日本という国家の統治理念が崩壊しかねない事態である。
 この異常な事態(これを幕府儒官の林家は「華夷変態」と名付けた)に対応して日本に現われた思想が、日本=中華とする「本朝」意識であった。そしてその根拠は、日本は古代以来中国の聖人の道を学び国を維持してきたし、それを主導した天照大神の子孫である天皇家が今も日本を統治している、日本は世界に冠たる神国である、というものであった。
 この思想は、中世以来の「本朝・中華・天竺」という世界を3つの中心で見て他の国はこれらに従属する国とする世界観を継承した、「本朝・唐・西洋」という新しい世界観とも一体であり、世界通貨としての金銀を産出する国としての室町期以来の自信にも支えられた世界観であった。そして先に見たように、近世江戸時代の儒者には伝統的な考え方でもあった。
 だからこの時期に編纂される国史は天皇・朝廷中心とならざるをえなかった。
 そして第2に、徳川幕府は秀吉政権と同様に諸大名を武力で征服して成立した政権ではなく、その全国統治の権限は、全国を統治すると観念されてきた天皇・朝廷の委任にその基礎を置いてきた。また先に見たように、3代〜5代将軍に至る時期は、戦国乱世の終焉に伴って幕府の統治の基盤を、軍事指揮権から道徳に基づく統治と権威に移し始めた時期でもあり、その権威の源泉として朝廷に対する尊崇を幕府が率先して行い、天皇・公家に対する所領の寄進や朝廷行事の復興に努めていた時期でもあった。
 それゆえ天皇の委任に基づいて全国を統治する幕府が編纂する国史は、天皇・朝廷中心の歴史になるほかなかったのである。

C神国論・尊王論で通底する「大日本史」と国学

 このように理解してくれば、「大日本史」が国学を基礎付けたという教科書の記述の意味も明らかになってくる。
 「大日本史」は徹頭徹尾、日本は古来から天皇の統治の下にあったという観点から叙述された歴史書である。そして儒学に基づく大義名分論から歴史を評価し、先行する歴史書に変更を加えたりしている。
 これは先行する史書に天皇として扱われ「本紀」を建てられていた神功皇后を后として「本紀」から外したり大友皇子を天皇としてあつかって「本紀」を立てたこと、さらには南北朝の対立において南朝を正統と認定したことなどに示されている。そして「大日本史」は将軍の権威は日本を統治する権限をもった天皇・朝廷の委任に基づくという認識で編纂されたことにより、水戸藩の儒学(これを後世「水戸学」とよぶ)は大義名分論を基準にしたものとなり、尊王論を基本としたものとなったのだ。
 また水戸藩は「大日本史」の編纂と並行して「万葉集」の新たな注釈書の編纂に着手し、その責任者として歌学者・契沖が任じられた。そして彼の歌学の特徴が万葉の時代の言葉の意味を客観的・実証的に明らかにし、しばしば史実も下敷きにして歌の意味を明らかにしようとしたものであったため、契沖以後の歌学は実証的・考証的な傾向を強めて、史書に依拠する傾向を強めた。したがって後世にこの歌学の伝統の中から、日本人の古来の考え方を明らかにしようとする国学の運動が現われたときに、この運動そのものが尊王論と日本神国論によって彩られたことにより、その歴史認識の基盤が、「大日本史」に置かれることとなったのだ。

 「つくる会」教科書は、江戸時代において歴史の研究がなされた背景を、この時代の「現実的・合理的傾向」に置いて説明した。たしかにこれはある意味では正しい。幕府が、そして水戸藩が国史を編纂するにあたっては多くの学者(儒者)が集められ、幕府や大名家の文庫に所蔵されたものや朝廷や公家の文庫に所蔵されたものなど多くの史料が収集され、史実に基づいた国史の編纂がなされた。これは儒学が理を重んじ、ことの理非を事実に基づいて見極めようとする合理的・科学的姿勢をもった学であったことに起因している。
 しかし儒学による歴史の考究は単に事実を明らかにするためだけではなく、儒学が掲げる聖人の道が正統なものであることを証明するために歴史を探求し、その中にすでに聖人の道が現われていることを示したり、歴史上の人物の行動を聖人の道を基準にして評価することにより、現実の政治の規範をそこに求めるためであった。そして政府が国史を編纂することの意味は、歴史を考究することで、その政府の正統性を証明しかつその政府が場を支配するだけではなく時をも支配することを示して、その統治の正統性を誇示するものでもあったのだ。
 「つくる会」教科書の歴史編纂についての記述は、歴史編纂そのものが持つ思想的な政治的な意味を度外視した、極めて不充分なものである。

:05年8月刊の新版では、この歴史書の編纂についての記述は完全に削除されている。不充分な記述であったとはいえ、この時代の思想史的意味を明らかにする手がかりになった記述を削除したことは残念である。

(3)「理」を極める儒学の伝統がさまざまな実学を生み出した

 「つくる会」教科書は、江戸時代における歴史研究の進展に続いて、自然科学の分野でも「日本独自の発達」が見られたとして次のように記述している(p143)。

 自然科学の分野でも、日本独自の発達が見られた。宮崎安貞は「農業全書」を記して農学を集成し、関孝和は方程式の解法や円周率を独自に発見して、和算とよばれる日本式の数学を確立した。また、医学、天文学、暦学なども発達した。日本の科学は西洋諸国にくらべても、当時すでに高い水準に達していた。

@民族主義的な根拠のない独善的記述

 たしかに江戸時代において自然科学は急速な発展をとげている。このことを記すことは良い。だが教科書のこの記述には大きな欠陥がある。
 この記述の特徴は、自然科学における発展を「日本独自のもの」とし、しかも「西洋諸国にくらべても高い水準に達していた」とするところにある。しかし同時にこの記述は、そのような「高い水準」の自然科学がいかにして「日本独自に」発展したのかというその具体像を記述しないばかりか、「独自の発展」を促した基盤を記述していないため、単に「日本は西洋諸国と同じ高い水準にあった」と叫んでいるだけになっているのだ。
 事実は、室町時代末から江戸時代にかけての商工業や商業的農業などの発展が自然科学の発展を要請したのだし、自然科学を発展させた認識論の基盤として儒学があり、科学者自身が儒者でもあったことに示されるように、江戸時代における自然科学の発展の背後には、儒学の発展と全国的な儒者のネット・ワークの発展が直接結びついていたのだ。そしてこの自然科学の発展はけして日本独自のものではなく、その発展の基盤に中国の自然科学書の大量移入やキリスト教を通じた南蛮科学や長崎における阿蘭陀科学の流入がその背後にあったのだ。

A自然科学の発展を要請する社会の変化と知のネットワークの成立

(a)商業的農業の発展と知の深化が農書を生み出した
 「農業全書」は、第1巻農事総論、第2巻五穀之類、第3・第4巻菜之類、第5巻山野菜之類、第6巻三草之類(ワタ、藍、タバコなど工芸作物)、第7巻四木之類(茶、漆、楮(こうぞ)、桑)、第8巻果木之類、第9巻諸木之類、第10巻生類養法(家畜、家禽、養魚)・薬種類、第11巻附録(楽軒著、農民の心得を述べたもの)からなる近世初めの農業技術の集大成と言える書で、1697(元禄10)年に京都で出版され広く流通した書である。
 宮崎安貞(1623-97)がこの「農業全書」を出版しえたのは、商業的農業が発展し、各地の百姓がそれぞれの地域でそれぞれの気候風土にあった農業を工夫し、それを記録に留めて伝承したという基盤がまず存在する。そしてその農業の発展はその収穫の一部を年貢として収納し、それを売却して暮らしを立てている武士層・藩・幕府にとっても必要なことであり、農業を発展させ百姓の暮らしを安定させることが武士の責務であるとする思想の発展をも基盤としていた。
 宮崎安貞は広島藩士の次男に生まれ、25歳のときに福岡藩黒田忠之に仕えて200石の碌をえた武士であった。しかし30歳のころに職を辞し、筑前国志麻郡女原(みようばる)村(福岡県西区周船寺町女原)に定住して以後40年間、自ら農業を営み、開墾や植林に努め、農業指導にあたった人物である。彼が職を辞した理由はよくわからないが、職を辞して村に住み農業を行いながら農学者として指導にあたったということは、同時代の儒学者・中江藤樹の生き方などと同じものが感じられるし、同じく同時代の儒学者・山鹿素行の「日用の役に立つ学が武士には必要」という思想とも共通するものが見られる。要するに武士が農学者となって実地に農業を行いながら農学の研究に励んだということは特殊なことではなく、当時の儒学者一般に共通した、また実際に藩政において民政に携わった武士に共通した生き方であったといえよう。
 また「農業全書」で記された作物の多くが畿内中心の商品作物であったことに示されているように、その知識の多くが、畿内を中心とした先進的な農業地域へ度々旅行しての古老の農業知識を実地に集めたものであった。さらに「農業全書」は、宮崎安貞の自身の実地の体験に基づくだけではなく、先行する中国の農書の知識に依っており、これ自身が内外にわたる知のネット・ワークに依拠したものであった。
 「農業全書」は、中国明代の徐光啓が著した農書「農政全書」(日本では1639年刊)から多くを学び、部分的にはそれを和訳したものも含まれている。そしてこの中国農書を安貞に紹介したのは同じ福岡藩士の儒者・本草学者の貝原益軒であり、「農業全書」の校閲をしたのは益軒の兄の貝原楽軒でもあり、彼らとの共同作業を通じてこの書はできたのであった。
 「農業全書」そのものが、和漢の知識と知識人のネット・ワークで成り立っていたのだ。
 そして「農業全書」が出版されたことは、後世の農業に大きな影響を与えた。各地の篤農家がこれを参照して自らも工夫しただけではなく、各地の農業の事情を自ら文書化しこれが伝承された。さらには施肥など様々な条件を変えて収穫高の増減を測るなど、実験的要素も生まれ、次にみる本草学の発展とあいまって、農業技術の進展に寄与したのだ。またこれは稲の穂に雄穂と雌穂があって雌穂を選び出して播種すると収穫が増えるなどの誤解も含まれていたが、生物学的知識の増大・深化も促し、後に西洋生物学の知識も受容していく基盤となった。

(b)薬草の学から「博物学」へと発展した本草学
 「農業全書」の背景には、豊富な植物についての知識があったわけだが、その知識を提供したのが本草学であった。
 本草学は本来、様々な病気に効く薬草をもとめて発展した学であったが、江戸時代を通じて、次第に博物学や民族学と言ってもよい内容の学に発展していた。これは江戸時代における本草学の発展が、中国から伝来した本草学の書物の翻訳と、そこに記載された中国の動植物・鉱物と日本のそれとの比較研究が必要となってのことであったからだ。中国語での名称とそれが日本では何と呼ばれているのか、そしてそれは日本の何処で産出するのか。これを調べなくては日本で薬として利用することは不可能である。しかも日本でも地方によって同じ物の名称が異なったために、地方による言語の違いや環境の違いもまた考察しなければならない。こうして本来は薬になる動植物・鉱物を求める学であった本草学が民族学や民俗学、そして言語学の要素も持つようになっていった。
 そして江戸初期に中国伝来の本草書(例えば明の李時珍が著した「本草綱目」・1596年刊・和刻本は1637年刊)を翻訳して日本でも使えるようにしたのが、林羅山などの儒学者であったことが、本草学を広く物の名称や性質を知るという博物学の様相を呈していった背景にはあった。儒学者にとって物の名前や性質を広く深く知ることが、儒学の根幹にある漢詩を作るときの必須の知識であったからだ。
 こうして儒学者たちの努力によって中国の本草書は次々と翻訳され、日本でも出版され、本草学を主とする学者も生まれていった。後に全362巻からなる「庶物類纂」(1704・宝永元年刊・未完)などを出した京都で伊藤仁斎に儒学を学んだ本草学者・稲生若水(1655‐1715)らである。しかしこの段階の本草学は、あくまでの中国のそれの翻訳という書物の知識の段階に留まっていた。これを日本での実地の研究を元にしてさらに精緻化し、しかも分類方法などを改変して、日本独自の本草学とする動きが始まった。その立役者が福岡の儒学者であり、宮崎安貞の「農業全書」編纂に携わった貝原益軒であった。
 貝原益軒(1630―1714)は福岡藩の祐筆の子として生まれ、一時医者を志したこともあったが藩の儒者として活躍し、日本の博物学の草分けの書として著名な「大和本草」(1709・宝永6年間)などを著した学者である。彼は多くの和漢の書物を読むとともに藩命による数多くの旅(江戸へ12回、京都へ24回、長崎へ5回など)の機会を利用して各地を周遊し、明の李自珍が著した「本草綱目」(和刻本は1637年に刊行)と日本の文物を比較して中国独自のものと日本独自のものとを明らかにし、さらに京都や江戸への旅を利用して、かの地の木下順庵・向井元升などの朱子学者・本草学者などとも意見交換して知識を深め、日本の博物学の基礎をなした。「大和本草」はその集大成で、「本草綱目」から日本にない中国のもの792種に他の書物から選んだ中国独自のもの203種に日本独自のもの358種、さらに西洋から伝来したもの29種を加えた博物学書であった。また彼自身も観念的な朱子学に疑問を持って「民生日用」の学をこころざし、実地に観察して学問を極めようとした学者であった。
 こうして日本でも実地の調査を元にした本草学が盛んになった。
 そしてこれは単に薬になる物を調べたというだけではなく、日本における動植物・鉱物のほとんどを調べ上げるということになり、このような書物の編纂は諸国において産業を発展させようとしていた幕府や藩にとっても有用なものであった。前期の稲生若水が編纂した「庶物類纂」は、加賀藩主前田綱紀が若水に命じて編纂させたものである。しかしこれは1715(正徳5)年の若水の死によって中断し、しかも主として中国書からの翻訳であった。そこで幕府がこれの完成を意図して作業を継続する。1734(享保19)年、幕府は若水の弟子の丹羽正伯を責任者として作業を始め、日本における農産物や動植物・鉱物などの一覧表の完成を目指し、そのために翌1735(享保20)年に幕府は諸国の産物の種類と名称を問う実態調査に乗り出した。そして1738(元文3)年に「庶物類纂」全1000巻を完成させ、1747(延享4)年には補巻54巻を完成させた。
 こうして本草学は国家の手によって、産業を発展させるための基礎科学としての役割を担うこととなり、ますます発展したのであった。

(c)豊かな暮らしへの指向が医学の発展をもたらした
 また本草学は本来が薬になる動植物・鉱物を探す学であったため、この発展の背景には、近世において医学が急速発展したという事情も存在した。
 医学が発展した背景には、1つは暮らしが豊かになるにつれて健康指向が強まり、人々が病に立ち向かう知識や病気を予防する知識などを求めてことにあった。また2つめには、日本では儒者という特権的階層が存在しなかったため、儒学を志すものは他に金を稼ぐ仕事を持たざるを得ず、多くの儒者が医者を兼ねていたことも医学の発展の背景にある。そしてすでに見たように、儒学という学そのものがもつ客観的な科学的な思考方法が医学にも持ちこまれ、人体についての研究や薬についての研究が深められたのだ。さらに3つめには、近世においての周期的に飢饉が襲っていたのだが、儒学を学んだ医者たちは飢饉の惨禍を少しでも軽減するために医学の知識を使おうと努力し、飢饉で体を壊した人達を治療したり、本草学の中の飢饉の際でも育つ作物や野草の知識を応用したりして対応したことも、医学の発展の背景にあった。
 近世医学で主流的地位を占めたのは、中国の李朱医学という朱子学の理気論で伝統的な「経絡」説を解釈した医学であり、これを世に広めたのは、秀吉の持医でもあった曲直瀬道三(1507‐1594)であった。しかしこれに対しては伝統的な医学のほうから「あまりに観念的」との批判がおこり、朱子学的な後世の解釈を排して直接古典に帰ろうとする古医方が強まり、実証と臨床に重点を置き、日本に自生する薬種を使ってその効能を試したり、民間療法も使ってみて効果があれば取り入れるなどした後藤艮山(1659‐1733)などが現われた。また中国医書の五臓六腑説に疑問を持ち、刑死体解剖を観察して人体の構造を考察する医師も現われた。
 さらに医療への期待が高まるにつれて一般人でも読めるような医書や養生書が出版され、貝原益軒の「養生訓」(1713年刊)などがその代表である。
 医学も様々な流派の論争を通じて発展していたのだ。

(d)商工業の発展が数学の発展を促した
 関孝和(?‐1708)の和算も、彼一人の独創というわけではなかった。「つくる会」教科書が、彼が「方程式の解法や円周率を独自に発見した」とするのは誤りである。
 関孝和は甲府宰相徳川綱豊(後に6代将軍家宣)に仕え勘定吟味役についていたが、綱豊が1704年に将軍世子として江戸城西の丸に入るに従って幕臣となり御納戸組頭となり300俵を碌した武士であった。彼は独学で和漢の数学書を読破し、独特の数学理論を深めた。
 日本における数学の発展は3度の波があり、江戸時代の数学の発展はその第2波の、室町後期に中国から計算用具としての算盤(そろばん)と、割り算に用いられる「割り声」(割算九九)が伝来したことが背景にある。
 これは日明貿易を行った貿易船によってもたらされたらしいが、商業の発展によって計算の必要性が高まっていたために広まり、江戸時代始めには、京都・大坂でそろばん塾も作られた。さらに、この時代には商業だけではなく、全国各地で鉱山開発や農地開発が行われたことを背景にして測量術や土木学が発達し、そのためにも数学知識の集大成が求められ、奈良時代に伝来して広まっていた九九の知識なども含めて集大成した「割算書」(毛利重能著1622・元和8年刊)や「塵劫記」(吉田光好著1627・年刊)などの数学書も出版された。吉田光好(1598‐1672)は京都の 大商人角倉家の一族の出で、「塵劫記」は中国の数学書「算法統宗」(程大位著・1592年刊)を研究して日本の実情にあうように組替えたもので、さらに「塵劫記」の1641年版では当時の数学研究の進展を背景に高次元の数学の問題が取り上げられ、巻末に回答を附さない問題が掲載されて、世の数学者に挑戦を促したため、以後高等数学の研究が盛んになった。

:平山諦によれば、吉田光好が「算法統宗」を手に入れたのは、イエズス会の宣教師として1604(慶長9)年から1611(慶長16)年まで京都の天主堂で布教した、イタリア人宣教師スピノラ(1564-1622)からであったという仮説を提唱している。それは「塵劫記」の冒頭に吉田光好自身が「この書は、ある師について、その師に教えを聞いたものをまとめた」と記述しているからである。そして光好を初めとした角倉一族や前記の毛利重能はキリシタンであり、高名なクラビウスに数学を習い自身も優れた数学者であったスピノラは京都にいた間、数学の講義を日本人に行っていたのであるから、毛利や光好の叔父の角倉素庵もまた彼の講義を聞いたものであろう。そしてスピノラらの数学の業績を見るとどう考えても彼らは算法統宗を手に入れてこれを研究していたとしか考えられない。まだ少年であった光好はスピノラからこの書を譲られて、成人して後にこれを詳しく研究して「塵劫記」をなしたものであろう。 というのも「塵劫記」では「算法統宗」を十分理解していない箇所が多々あるため、光好自身は直接スピノラから詳しい教えを得ていないと考えられるから。しかしその由来と師について書くことは、当時キリシタン宗門禁教令の嵐が吹く中では憚られ、「ある師」とあいまいに記すことしかできなかったと、平山は推定している。

 この流れのなかで従来の数学では解けない種類の問題に直面し、新たな計算方法が模索されることとなった。方程式の導入である。
 この課題を最初に進展させたのは京都の数学者の沢口一之で、彼は中国の算術書「算学啓蒙」(1299年刊)に記してあった「天元術」という、算木を使って一元高次方程式を立てる方法に注目し、「古今算法記」(1671年刊)でこの方法を解説し、今までの数学では解けなかった高次の問題に回答を与えた。しかしこの方法では算木を使うために未知数を1つしか立てられないという制約などがあり、方程式を立てること自体が難しかった。
 これを解決したのが関孝和であった。
 彼は中国の様々な方程式について研究した数学書を研究して、算木を使わないで方程式をたてる過程を紙の上で計算することとし、この制約を解消した。
 また円周率の問題など、円について研究することも江戸時代初期から行われており、円周率については3.16が一般に使われていた。しかし中国から3.14の数値がもたらされたことからどちらが正しいかについて論争が行われ、村松重清が1663(寛文3)年に小数点以下7桁まで計算して3.14が正しいことを証明し、さらに計算方法を精緻化して小数点以下10桁まで計算したのが関孝和であったのだ。ただ彼らの段階では数値を用いて計算したので、円周率の公式は求められず、これを成し遂げたのは関孝和の弟子の建部賢弘(1664−1739)であった。
 江戸時代における数学の発展も、それを必要とした社会的背景があったのであり、数学者相互の論争と研鑚が背景にあったのだ。

(e)改暦の必要性が天文・暦学の発展を促した
 さらに江戸時代は、天文学・暦学が発展した時代であった。これは日常生活に欠かせない暦が、実際とあわなくなっており、さまざまな問題が生じてきていたからだ。
 当時の日本の暦は、861(貞観3)年に採用された唐の暦法に基づく「宣命暦」であった。この暦法の1年の平均年数は365.2446日で1太陽年より0.0024日ほど長い。従って800年以上に渡ってそのまま使われると暦の上の季節は実際よりも2日も遅れていた。季節に移り変わりをいち早く予測して対応する農業にとって、暦のずれは致命的であった。
 このような中で暦学を研究するものも多く輩出し、1685(貞享2)年に新たな暦が作られた。「貞享暦」であり、日本人が作った初めての暦である。
 この暦を作った渋川春海(1639‐1715)は幕府お抱えの碁師安井算哲の子で父の跡を継いだが暦学を学び、諸国の緯度を測定したり天体の運行を測ったりして、「大和暦」という新しい暦を作った。これは中国元時代の「授時(じゅじ)暦」にならったものであったが、これが幕府に採用されて「貞享暦」となったものである。渋川春海はこの功によって幕府天文方に任ぜられ、以後幕府が朝廷に替わって暦を作っていくこととなる。
 また江戸時代には初期のころから西洋天文学が、イエズス会の教科書やこれが中国に取り入れられて翻訳されたものが日本にももたらされたことによって広まっていた。またヨーロッパ人がもたらした世界地図やこれに基づいて世界図屏風も卵形の地球図で描かれていたため、天動説をとりながらも大地が球形であるということは、多くの学者たちにとって常識となっていた。
 西洋天文学を取り入れて活動した学者としては、西川如見(1648−1724)がいる。
 彼は長崎の町人であったが、朱子学や天文暦学などに興味を持ち、多くの著作を著している。彼の知識の源泉の中には海外に開かれた町としての長崎の特徴を示す、多くの西洋科学に基づく書物やそれを学んだ長崎の学者に教えを受けたことがあった。彼は72歳のとき8代将軍吉宗の招きによって江戸に出て将軍の諮問に答えて西洋天文学の知識を説明し、彼の長子の西川正休を天文方に推挙した。ここに幕府天文方に西洋天文学が導入され、18世紀末に西洋天文学を一部使用しての暦の改訂が成される基盤となったのだ。

(4)近世日本の学問の発展を促した外国からの人や物の伝来

 このように近世江戸時代の初頭から中頃にかけて、日本でも農学・本草学(博物学)・医学・天文学(暦学)・数学などの自然科学が発展した。しかしこの過程は、「つくる会」教科書が記したような「日本独自」なものではないことは、上に見たように明白である。

@大きな役割を果たした外国からの学術書の伝来

 それぞれの学問に中国の学術書が大きな影響を与えたことは明白だ。
 農学における
中国明代の徐光啓が著した農書「農政全書」、本草学における明の李時珍が著した「本草綱目」、数学における明の程大位が著した「算法統宗」。これ以外にも「算学啓蒙」(数学書)・「天工開物」「三才図会」(博物学)・「天経或問」(天文学)など、数多くの中国の学術書が輸入され、学者たちが競ってこれを読解し、これらを基礎にして新たな学問展開を遂げていったのだ。このことは実学の面だけではなく、先に見た儒学や歴史学の発展においても同様であった。

(a)朝鮮からもたらされた漢籍
 近世日本における学問の発展には、数学の「算学啓蒙」のように秀吉の朝鮮侵略時に持ちこまれた朝鮮版の中国の学術書も大きな役割を果たしている。
 秀吉の朝鮮侵略においては、秀吉や諸大名は朝鮮の文化財を略奪する目的で、文字の読める僧侶を朝鮮に派遣して、朝鮮の宮廷や諸寺に所蔵されている貴重な書籍を略奪した。
 徳川家康は豊臣氏を倒したあとでその蔵書を没収し、自身が所蔵したり足利学校や伏見学校に寄贈している。この朝鮮から奪った書籍が元になって、彼自身の手で、朝鮮活字によって多くの漢籍が復刊されてもいるのだ。そして彼が引退して駿河に移ったのちは多くの朝鮮本は駿河文庫として蔵書され、家康の死後は将軍家・尾張・紀州・水戸家に分配された。その内の紀州・水戸のものはそのご散逸してしまったが、尾張の蓬左文庫には、尾張家に分配された朝鮮本377部2839冊のうち131部は明治初年に散逸したがその他は今も所蔵されている。
 この尾張家に所蔵された朝鮮本の中に、今も秀吉の朝鮮侵略の前後に日本にもたらされた朝鮮本が122部残されているが、それを見ると、近世初頭に朝鮮からどのような漢籍がもたらされ、それがどう影響したかが読み取れる。それは1つには「晋書」「北史」「資治通鑑綱目」「三国遺事」などの史書があり、さらに「大明会典」「治平要覧」「大明律」などの明代法制基本書物の大部分があり、さらに学術書として「易学啓蒙要解」「書伝大全」「詩伝大全」「選詩演義」「大学章句大全」「中庸章句大全」など、儒学の基本の古典も多く含まれていたのだ。
 近世江戸時代において統治権限に携わった将軍や大名とその官僚たちは、儒学によってその統治の哲学を確立したわけだが、その古典や、実際にどう法律を定めどう制度を定めたかなどは、朝鮮を通じて中国明の制度を研究して取り入れたわけである。
 また朝鮮からもたらされた漢籍にはこれ以外にも、数学書や医学書も含まれ、日本における数学の発展や医学の発展にも寄与している。「医方類聚」「東医宝鑑」などの朝鮮医学を大成した書物も江戸時代初期に日本に伝わり、「東医宝鑑」は幕府の手で1723年に「医方類聚」は1861(文久元)年に刊行され、「古今稀な医書」として医者たちに珍重されたのだ。

:この時期に朝鮮からもたらされた漢籍は、尾張家以外にも、宮内庁書陵部・内閣文庫(江戸城の紅葉山文庫から出たもの)・尊敬閣文庫(前田家)・静嘉堂文庫(東京)・毛利文庫(山口)・米沢図書館・鹿児島大学など、将軍家や諸大名に所蔵されたものが、今でも保存されている。

(b)貿易を通じて中国からもたらされた漢籍
 また、近世全期間にわたって長崎を通じて輸入された中国の学術書も大きな役割を果たした。
 近世においてどれほど輸入された漢籍の位置が大きかったかは、長崎において幕府が輸入した漢籍の量を統計的に見ただけでもよく分かる。
 特に購入部数が多いのは、寛永年間から寛文年間の近世初期であり、中には1度に100部を超える書籍が購入されている。以後1723(享保8)年まで見てもほとんどは0〜20部の間で、とくに近世初期にその位置は高い

:特に多いのが、1639(寛永16)年の92部・1642(寛永19)年の56部・1643(寛永20)年の143部・1644(正保元)年の182部・1645(正保2)年の266部・1646(正保3)年の254部・1651(慶安4)年の189部・1652(承応元)年の264部・1653(承応2)年の256部・1654(承応3)年の69部・1655(明暦元)年の92部・1657(明暦3)年の83部・1658(万治元)年の67部・1659(万治2)年の88部・1660(万治3)年の118部・1661(寛文元)年の55部。(以上、川勝守著「『華夷変態』下の東アジアと日本」による)。

 この初期のころに輸入された漢籍は、中国の古典や歴史・地理書、そして明代の法律についての注釈書などが主であったこの古典が儒学の日本定着に大きな役割を果たしたのであり、歴史・地理書や法律の注釈書は、日本人の歴史・地理認識の拡大や、法制度の整備に影響を与えた。
 次に幕府による漢籍購入が盛んになったのが8代吉宗の享保の時代で、1722(享保7)年の38冊、1723(享保8)年の31冊と急増している。この時期のものは、中国人商人が長崎にもたらし幕府がそれを買い上げただけではなく、将軍吉宗自身が直接中国人商人などに注文して取り寄せた書籍も含まれている。
 「大清会典」「六部則例全書」などの法令集や「例案全書」などの裁判の実務書、そして「広東賦役全書」などの徴税実務書や、「荒政輯要」などの飢饉や凶作への対応の書などがそれである。この時代になると、清朝の官制や租税の徴収制度など統治機構に関する書物が増え、さらには農学や医学書、百科辞典なども増加し、飢饉や凶作などへの対応策や新種の作物や肥料・農具などの研究に役立てられたわけだ。吉宗の時代には、社会の急激な変化に対応した行政の有り方が模索されたわけだが、その知的基盤として、中国のありかたが研究されたわけである。
 そしてこれらの中国の学術書は日本でも新たに版が組まれて出版されたり、その解説本が出版されたりして、広く学問研究を進める上で大きな役割を果たした。
 これは先に文化の項で見た、この時代の出版物に占める学術書・医学書の割合を見れば、よくわかることである。

江戸時代の出版点数(鈴木敏夫著「江戸の本屋」より)
  1670(寛文10)年 1685(貞享2)年 1692(元禄5)年
仏書 1677(40.3%) 2493(40.0%) 2799(38.9%)
学問教養書 877(22.8%) 1228(20.7%) 1472(20.5%)
医書 247( 6.4%) 401( 6.8%) 454( 6.3%)
文学日用教養書 1025(26.5%) 1812(30.5%) 2456(34.3%)
合計 3826(100%) 5934(100%) 7181(100%)

 寛文期から元禄期にかけて急激に出版点数が増えているが、学問教養書は常に20%ほどを占め、医書も6%ほどを占めている。学問教養書と医書とで、全出版点数の4分の1強を常に占めているわけで、いかにこれらの書物の需要が高かったかを示している。

(c)徐々にもたらされた西洋の学術書
 また西洋の学術書も近世日本の学術の発展に寄与している。
 例えば天文学・地理学で大きな足跡を残した西川如見(1648‐1724)の場合で言えば、彼の西洋天文学の知識はイエズス会の教科書であったゴメスの「天球論」からキリスト教関係の語句を削除した小林謙貞著の「二義略説」であったし、中国で出版された西洋天文学の知識も含む書で地動説も紹介されている「天経或問」(1675年刊)で、これは禁書であった。また彼が著した世界地理書の「華夷通商考」は、当時禁書であったキリスト教関連の書物を最初に改めることが出来た役人や唐通事の知識を元にしたものであった。種本は、唐通事の林道栄の「異国風土記」やイエズス会士のアレーニの「職方外紀」である。
 このように近世初期においては西洋の本の多くは禁書あつかいであったので影響は少なかったが、後に8代将軍吉宗の指示で洋書の輸入が解禁されてからは数多くの書物が輸入され、翻訳されている。これについてはのちの洋学の項で見ることとする。

A人との交流も大きな役割を果たした

 書物を通じての外国の学術の吸収だけではなく、直接外来の人と接しての学習も行われていた。そしてこれは幾つかの異なる回路を通して行われていた。

(a)拉致された朝鮮儒者との交流
 秀吉による2度にわたる朝鮮侵略戦争においては、多くの朝鮮儒者が日本に拉致されて、日本における儒学定着の基礎を作っている。
 日本における朱子学の開祖とされている
藤原惺窩(1561‐1619)は、相国寺妙寿院の禅僧であった時期に、拉致されて伏見に滞在していた朝鮮儒者姜坑(かんはん)(1567‐1618)と出会い多くのことを学んでいる。
 姜坑(かんはん)は朝鮮において朝鮮の朱子と呼ばれた儒者・李退渓門流に学んだ儒者で、科挙文科に合格し、第二次侵略(慶長の役)・1597(慶長2)年当時は激戦地となった南原の防衛軍のために食料を調達する官についていた。しかし戦いに敗れる中で一族とともに海上に逃れたが、その途中で藤堂高虎の水軍に捕らえられ、最初は伊予(愛媛県)大洲に連行され、1598(慶長3)年に京都伏見に移されていた。彼はこの地ではかなり自由に外出したり多くの文人と会っていたのだが、その中に禅僧であった藤原惺窩がいたのだ。
 藤原惺窩は当時、但馬竹田城主の赤松広道に仕えており、彼の伏見屋敷で姜坑に会った。禅僧としてすでに朱子学をある程度学んでいた惺窩は多くの疑問点を姜坑に問いただし、朱子の学説が当時の日本で主流であった漢代・唐代のものとかなり違った独創的な学説であることを確信し、姜坑ら10数人の儒者たちに依頼して「四書五経」の浄書と朱子による新しい注に基づく訓点を施してもらった。こうして出来た「四書五経倭訓」が、日本における初めての朱子学の教科書となったのだ。また惺窩は姜坑に対して、朝鮮の科挙の制度や春秋に孔子廟において孔子を祭る儀式である「釈奠(せきてん)」や国王が学者から儒教の経典の講義を受ける場である「経莚(けいえん)」について、そして官庁における官吏の等級を示す「朝著(ちょうちゃく)」など、朱子学に基づく儀式や人材登用制度の実際についても尋ねている。藤原惺窩が朱子学の学習を、単なる学問の問題としてではなく、国を統治する制度のありかたの問題として捉えていたことを良く示す逸話であり、彼が播磨(兵庫県)龍野の城主であった赤松広道の政治顧問として統治の諮問を受けていた経歴が背景にあろう。
 先に惺窩が「四書五経」の浄書と新しい訓注を姜坑らに依頼した事業の経費は、赤松広道が出しているのであり、広道もまた姜坑に学んで領国に孔子廟を作ったり、「釈奠(せきてん)」のための祭服や祭冠を作り、家臣を率いてその祭儀を学んだりもしたのだ。
 藤原惺窩が後に徳川家康に招かれて講義したときに着て現れたという道服(儒者の衣服)は姜坑に学んでのものであり、朝鮮の儒学に基づいた官人制度に習って、日本にも儒学に基づいた統治制度を実現しようという意欲の現われでもあったのだ。
 姜坑は1600(慶長5)年に朝鮮に帰国したが、伏見での藤原惺窩や他の儒学者との交流を通じて、近世日本儒学に大きな足跡を残している。このように拉致されて日本に来り学者として大名に優遇されて後に朝鮮に帰国したものは、これ以外にも多い。阿波徳島に連行された鄭希得や伊予に連行された魯認、そして薩摩に連行された李文長などがそれである。
 また日本に帰れずそのまま大名家に儒者として抱えられて日本に土着し、それぞれの藩において儒学の定着に寄与した学者も多い。
 紀州(和歌山)に住んだ李真栄(号して一陽斎)もその例である。
 彼は22歳のときに拉致されて紀州に住むこととなったが、後に朝鮮使節が来朝して拉致された人々の帰国を図ったおりに帰国できず、紀州の娘と結婚して2児をもうけた。後に、その人となりや学識を紀州藩主の徳川頼宣が聴き家臣としようとしたが断り、紀州で塾を開いて門人に儒学や医学を教えて暮らした。彼の子息の李全直(梅渓)は紀州藩儒者となって徳川頼宣に重用され、藩主と世子光貞の江戸参府にも同行し、2代藩主光貞にも大きな影響を与えた。またこの李梅渓やその門人、そして李真栄の門人であった鳥井春沢ら多くの儒者が紀州藩には育ち、彼らによって様々な漢籍が翻訳・研究された。その中には中国・明時代の法制度や地史などがあり、これらの儒学に基づくだけではなく中国の制度に習って藩の統治を行おうとする環境の中で育った紀州4代藩主の徳川吉宗(光貞の末子)が、8代将軍となって大量の清の地史や法制度などの書物を取り寄せさせて翻訳し、幕政改革にその知識を生かす元となったのである。
 このように朝鮮から拉致された儒学者たちも、近世日本の学術の発展に大きな足跡を残している。

(b)中国からの亡命知識人との交流
 また近世江戸時代の学術の発展に果たした外来の人との直接交流では、中国明朝の滅亡・清朝成立期の混乱の中で日本に亡命してきた知識人の位置も大きい。
 漢民族が作った明王朝が臣下の反乱と満州女真族が作った清王朝の勃興の過程で滅びる中で多くの中国知識人が日本に亡命し、中国最新の明・清代文化を日本にもたらしている。
 儒学の深化の上で大きな足跡を残しているのは、朱舜水(1600‐82)である。
 彼は明朝の再興を企てて何度も長崎や安南・交趾(ベトナム)の間を渡航して軍資金を集め、さらに日本に明遺臣への援軍を要請したが目的を果たせず、1659(万治2)年に日本に亡命した。日本の儒者たちの間では、彼の度重なる明皇帝への忠節の姿勢に対する評判は高く、柳川藩(福岡県)の儒者であった安東省庵(1622‐1701)はその俸禄の半分を割いて朱舜水の生活を支えた。そして朱舜水の評判を聞きつけた水戸藩主徳川光圀の招きによって、朱舜水は1665(寛文5)年に江戸に赴いた。彼は光圀に対して講義を行うだけではなく、水戸藩の藩校である「彰考館」の創設にも関り、彼の大義名分を守る生き方や実理と実学(儒器・儒服制作、石橋の設計など)を重んじる朱子学と陽明学の中間の学風が、水戸藩の儒者や多くの江戸の儒者に影響を与えた。
 彼の影響を受けた儒者としては「彰考館」総裁として「大日本史」編纂にあたった安積澹泊(あさかたんぱく)(1656‐1737)や、林信篤(1644‐1732)・木下順庵(1621‐98)・山鹿素行らがあった。

:林信篤は林家3代・はじめて大学頭となる。木下順庵は藤原惺窩の弟子の松永尺五に学ぶ、室鳩巣(1658‐1734)・雨森芳洲(1668‐1755)・新井白石(1657‐1725)・榊原篁洲・祇園南海(1676‐1751)ら元禄享保期に活躍した儒者を多く育てた室鳩巣は新井白石の推挙で幕府儒官となり吉宗の諮問も受けた。雨森芳洲は対馬藩儒者で朝鮮外交にも深く関わり朝鮮語通事養成も行った。榊原篁洲は紀州藩儒者、吉宗にも影響を与える。祇園南海も紀州藩儒者。藩校の教官。新井白石は6代・7代将軍の儒官として幕政に大きな力を振るったことは有名。

 またこの時期に中国から亡命した知識人としては、日本黄檗宗開祖の隠元隆g(いんげんりゅうき)(1592‐1673)がある。
 彼は中国福建省黄檗山万福寺の住持として活躍した臨済宗の高僧であったが、明王朝の滅亡後に多くの福建省出身の亡命明人商人が建てた長崎の禅寺・興福寺の招きを得て、1654(承応
3)年に長崎に随行員30名余りを伴って来航し、その地の禅寺興福寺・崇福寺の住職を務め、多くの人が彼の講話に集った。やがて彼の評判を伝え聞いた京都妙心寺の僧らの招きで摂津富田の普門寺に赴き、その後、京都で後水尾上皇や江戸で4代将軍家綱にも謁し、幕府によって京都宇治に寺領400石と寺地を得てここに中国から多くの工人を招いて明風建築からなる黄檗山万福寺を建立、ここで念仏禅を行った。この寺の新奇な建物や書画・骨董、そして新奇な教えは近世江戸の人々に大きな影響を与え、各地に黄檗宗の禅寺が次々と輩出し、黄檗宗の禅寺が出来た村の百姓の中にも漢詩を作る人を多く育てたわけである。
 かの儒者荻生徂徠が江戸芝にあった黄檗宗の禅寺の中国人僧侶から中国語を習って、訓点を施していない漢籍を読めるようになったのも、隠元の渡航があったればこそであった。
 この他にも明の滅亡時には多くの知識人や商人が日本に亡命した。彼らもまた日本各地に住み、その最新の中国文化を日本に伝えたのである。

(c)公的な回路を通じた外国の人との交流
 もう1つ外国人との直接交流を通じた学術の交流の場として重要なのが、長崎などの開港所での外国人との直接交流と、外国からの正式の使節の江戸参府の旅の折の交流であった。
 この中で大きな役割を果たしたのが、朝鮮通信使の使節や随員との交流であった。
 さきに見たように、近世日本は中国明王朝が清王朝に滅ぼされたことを契機として、日本自身が神国=中華であるという意識を高めていた。しかしこれは清王朝が満州族によって立てられた夷蛮の国だという認識に立ち、清が中華を名乗れるのなら日本も中華を名乗れるはずだという意識に基づいているのであり、近世日本の文化そのものが、中国文化、それも明王朝時代の文化に深く依拠しているという事実そのものにも基盤があり、日本こそが中華の文化を正しく継承しているという自負でもあった。
 と言っても外国との直接交流を制限してしまった近世日本は、上に見たように、書物を通じてしか中華の文化を学ぶことは出来なかった。どうしても直接かの国の知識人から直接教えを請いたい。この近世日本の知識人の欲求を直接満たす貴重な機会が、朝鮮通信使の使節とその随員との交流の場であったのだ。朝鮮は古くから中国の制に習った国造りをしており、学術も中国からの直輸入であった。しかも第7回の天和信使(1682・天和2年)からは、日本との学術交流に備えて「製述官」という朝鮮の有数の学者を同行させていた。だから朝鮮通信使の宿には、日本の知識人が殺到し、詩文の交換から始まり、学問的な意見の交換も盛んに行われたわけである。
 通信使の使節や随員は日本に滞在した3・4ヶ月のうちに、1000余人もの日本の知識人と面談した。その知識人の中には、林羅山・林春斎(1618‐80)・木下順庵・室鳩巣・徳川光圀(1628‐1700)・
祇園南海・貝原益軒・松崎慊堂(こうどう)(1771‐1844)・稲生若水・古賀精里(1750‐1817)・伊藤東涯(1670‐1736)・三宅観瀾(1674‐1718)・新井白石・人見鶴山・那波魯堂(1727‐89)らの名だたる儒者・本草学者などが含まれている。

林春斎は林家2代の林鵞峰。「華夷変態」という明清交代期の状況を集成。松崎慊堂は江戸後期の儒者。朝鮮通信使応接や渡辺崋山の赦免運動に活躍。稲生若水は江戸中期の本草学者。古賀精里は江戸後期の儒者。昌平黌儒官で寛政三博士に加え称された。伊藤東涯は江戸中期の儒者で伊藤仁斎の長子。仁斎の私塾・古義堂を発展させ経学・史学・言語学など幅広い業績を挙げる。三宅観瀾は江戸中期の京都の儒者で大坂町人塾の懐徳堂初代学主となった三宅石庵の弟。後に水戸藩の彰考館総裁。人見鶴山は林羅山の門人で林春斎の「本朝通鑑」を編集した儒者。那波魯堂は江戸中期の徳島藩儒者。

 そして通信使とこれらの儒者・本草学者との問答は多岐にわたっている。
 たとえば貝原益軒の場合で言うと、1682(天和2)年の第7回の使節を筑前藍島において接待した際に、使節に加わった製述官の成椀との間で、朝鮮王朝の禁じた地理学以外の問題や中国・朝鮮の有名な儒学者の業績や、さらに学校や科挙試験の在り方など広く論じ合った。つまり益軒はこの論議を通じて、儒学の深奥に触れただけではなく統治の学としての儒学の在り方まで学び、このことが後の福岡藩の儒学のあり方に大きな影響を与えたと言う。
 また6・7代将軍に仕えた儒者・新井白石の場合で言うと、1711(正徳元)年の第8次使節の接待の大綱を定め対外関係を取りし切っていたのは白石であったが、白石は公式の行事以外に、正使・趙泰徳らとの間で、儒教・儒学から世界地理・アジア外交・日朝交流の広い範囲に及んで学術問答や意見交換を行っている。通信使との談論は、学術を深める良い機会であったし、中国清王朝との間で使節をやり取りしている朝鮮の高官を通じて、アジア・世界情勢について知識を深める良い機会であった。
 さらに使節と談論した日本の儒者や本草学者・医者、そして多くの大名や武士は、この機会を得るにあたって御互いに漢詩を交換し合って出会いを喜び合うとともに、己の漢詩の力量を試すに良い機会であった。徳川光圀は、1682(天和2)年の第7次使節の正使・尹趾完を尋ねて詩の交換を行い親しく歓談した。また彼は自身で日本国の使節として朝鮮を尋ねることを夢見るほど、かの国に憧れを抱いていたとも言う。さらに新井白石の場合は、自身がまだ一大名の家臣に過ぎなかった1682(天和2)年の使節に人を介して自作の詩集を送って、さらに使節製述官の成椀に直接面会を許されて詩集を誉められ、序文まで書いてもらって得意になっている。さらに30年後の第8次使節(1711・正徳元年)に際しては、新たな詩集を対馬の雨森芳洲を介して事前に使節に届け、今回も序文を書いてもらっている。白石にとっても朝鮮使節と朝鮮国は憧れの対象であったのだ。
 また他には日本の医師が使節を尋ね、使節随員の医師との間で医学問答を交わし、年来の疑問点などを質してもいる。
 このように江戸時代を通じて定期的に都合12回にわたって日本を訪れた朝鮮通信使との交流は、日本の知識人にとって、その学問を深め世界に対する知識を広げる良い機会となったのである。
 さらに毎年1回行われ(のちに5年に1度)、江戸時代を通じて166回行われた長崎のオランダ商館長の江戸参府も、互いの学者が交流する良い機会であった。一行は江戸日本橋・室町本石町にある長崎屋に宿泊するので、医者や本草学者や儒者などの学者が多数この宿を訪ねて、ヨーロッパの先進科学を学んだ。有名な蘭学者の青木昆陽(1698‐1769)や平賀源内(1728‐79)もここをしばしば尋ねている。
 そしてオランダ商館長の一行に加わった医師には、多くの優秀な学者が含まれていた。例えば1690(元禄3)年に来日した博物学者E・ケンペルや1775(安永4)年に来日した植物学者C・P・ツュンベリー、さらに有名なシーボルトらである。彼らと日本の学者との交流は江戸参府のおりだけではなく、長崎でオランダ通事を通じて彼らと談論・学習し、彼らの様々な西洋科学の知識を手に入れていたのだ。例えば、ツュンベリーは高名な植物学者リンネの高弟であり、リンネが1735年に新たに開発した花の形態や機能に基づく新たな植物分類法がいち早く日本に伝えられたのだ。
 さらにかの進化論を確立したチャールズ・ダーウィン(1809‐1882)の祖父でいち早く1789年の著書「植物の園」で進化論を唱えたエラスムス・ダーウィン(1731‐1802)の説が、そのわずか9年後の1798(寛政10)年に、長崎のオランダ人・レオポルド・ボナパルトの講義によって津軽の学者・秋田孝季(?‐1831)とその縁者・和田長三郎吉次(?‐1824)に伝えられたことが、彼らの著書である「東日流(つがる)外三郡誌」の中の「太古絵巻」の記述でわかる。また、同じ「太古絵巻」の記述からは、同じレオポルド・ボナパルトの講義によって現在の宇宙は太古の昔の宇宙の爆発によって生じたというビッグ・バンの思想が伝えられたことも示し、この時の講義の受講者の中には秋田孝季と和田長三郎以外に、民俗学の先駈けの学者である菅江真澄(1754‐1829)も含まれていた。18世紀末に日本に伝えられたビッグ・バンの思想は、フランスの博物学者のジョルジ・ルイス・ルクレール(1707‐88)の説であり、この説はエラスムス・ダーウィンも信奉していたという。20世紀後半になって確立された宇宙論であるビッグ・バンの思想の思想が、すでにその未定型なゆりかご期であった18世紀末に日本に直接広がっていたとは驚きである。

:この「東日流外三郡誌」は津軽氏による津軽支配以前の津軽・東北の真実の歴史を各地の古文書や発掘遺蹟を通じて考究したものである。これ自身が近世江戸時代の思想界の論理的な探求的な雰囲気の所産であり、それが極まった享保・宝歴・寛政期の賜物である。しかしこの書物が1975年に「市浦市資料編」として刊行され、さらに古田武彦氏によって氏の提唱する多元的日本古代史観を証明する資料だと紹介されて以来「偽書」であるとの論難が続いた。しかし、2006年秋に秋田・和田直筆の「東日流外三郡誌」などの寛政当時の原本が見つかり、近世史家などによって紙質や内容からも近世文書であることが証明され、偽書論争には一定の決着を見た。それゆえこの書物に書かれた西洋学術の伝来を示す資料も、近世江戸蘭学史の貴重な資料として再検討すべきである。「東日流〔外・内〕三郡誌 寛政原本・写真版」とその解説は2007年12月末以降にオン・ブック社から刊行される予定。

 8代将軍吉宗によって西洋の科学などの書物の輸入が解禁されて以後は、こうして長崎でオランダ人(ドイツ人やスウェーデン人も含まれたが)学者から親しく西洋科学について講義を受けることも可能になっていたのだ。この点についてはのちに蘭学の項で詳しく見ることとする。
 さらにこの公的な回路を通じて、日本へ外国の学術が流入する。
 その経路は、長崎で公式に中国人やオランダ人と交渉するために置かれた通事の役職や蕃書改め役を通じた経路である。
 先に見たように、蕃書改めの役は、外国の本が輸入された際に最初にそれを検閲する係りであるから、検閲で輸入指し止めとなった禁書の内容にも触れ、密かにそれを書写することも可能であった。また唐通事やオランダ通事も当初は貿易決裁のための実務的な語学しか要求されなかったが、長崎が世界の情勢を知る貴重な場所となり、幕府が阿蘭陀風説書や唐船風説書の迅速な提出を求めるようになると、通事の役割は単なる通訳ではなく、膨大な外国情報を読み解いていち早く幕府に通報する役目が加わり、より高度な語学力が求められて行った。まして8代将軍吉宗以後は外国の学術をより深く学ぶことが重視されたため、通事が要求される語学力は、高度な学問レベルにまで達していたのだ。
 そのため通事の中から中国語やオランダ語に深く通じるとともに、それぞれの国の学問にも深く通じ、それぞれの学問書を翻訳し日本に紹介する者も出てきたわけだ。そして彼らは外国の学術に関心深い学者にとっては、貴重な情報源であるとともに、外国の学術を教えてもらう教師ともなったのだ。先にみた「異国風土記」を著した唐通事の
林道栄や紅毛外科の開祖となり「解体新書」の序文を書いた吉雄耕牛(1724‐1800)や、天文物理書やケンペルの「日本誌」の抄訳を行い「鎖国論」などの著書のある志筑忠雄(号は中野柳圃・1760‐1806)、幕府天文方となり様々な蘭書の翻訳に携わりロシア語牛痘書「遁花秘訣」の訳などに携わった馬場佐十郎(1787‐1822)など優れた科学者や語学者が輩出したのだ。
 この唐通詞の多くは、明末清初の混乱の中で日本に移り住んだ中国人の子孫であった。
 またかの儒者・荻生徂徠は1711(正徳元)年に、唐通詞である岡島冠山から中国語を学ぶ結社を作り、弟や門人とともに生きた中国語を学び、儒学の古典を中国語の文献として後代の解釈を退けて直接読み解く古文辞学を確立することとなったのだ。

 このように、近世江戸時代の学術の発展の背景にはそれを要請した貨幣経済の発展という社会の変化があったとともに、多くの外国人との直接交流も、学術発展の基盤となったのだ。江戸時代は鎖国していた時代であったと認識されてきたが、鎖国とは外国との交流を統制・制限することで、けして外国との交流を拒否するものではなく、当時の日本人の目は、さまざまな海外への窓を通じて世界に広がっていたことが、学術の興隆を通じても明らかになる。
 この点で、「つくる会」教科書が、近世江戸時代における学術の発展を、まるで「日本独自で」なしとげられたことのように記述したのは根本的な間違いである。

(5)西洋の学のレベルは他を圧していたのか?

 最後に1つ気になる点について考察しておきたい。それは先に見たように「つくる会」教科書が学問の発達の記述の最後に、「日本の科学は西洋諸国にくらべても、当時高い水準に達していた」と書いていたことである。
 この記述の背後には、近世江戸時代、とくにこの場合は元禄文化の項であるから、「17世紀においては、世界で最も科学が進んでいたのは西洋である」という「常識」が背景にあり、これが、アジアなどよりも学のレベルにおいては他を圧していた「科学先進国西洋」に日本は並んでいたのだという民族主義的主張をなす根拠であった。
 この常識は正しいのだろうか。

@16世紀以降西洋の学は他を圧していたという「常識」

 「西洋の学が他を圧するレベルに到達したのは16世紀においてであり、それ以後西洋科学は世界をリードしていた」という「常識」が西洋の学者を中心として長く唱えられてきた。これは西洋科学の金字塔ともいうべき発見を列記して見れば自明のことのように思われる。
 フォンタナ(タルターリア)が3次方程式の解を発見したのが1535年。コペルニクスが地動説を唱えたのは1543年。ヴェサリウスが近代解剖学の礎を築いたのも同年。カルダーノが3次方程式の解法を公表したのが1545年。ケプラーが惑星の法則を発見しガリレオが望遠鏡で天体観測を始めたのが1609年。ニュートンやレイプニッツが微積分法を確立したのが1670年前後。さらにニュートンが万有引力について発表したのが1687年。リンネが新しい動植物の分類法を発表したのが1753年と58年。ダーウィンが「種の起源」を発表して進化論を唱えたのが1859年。メンデルが遺伝の法則を発表したのは1865年。
 これを見ると、西洋諸国が「地理上の発見」を成して世界に進出して以後、めざましい科学的発見をなし世界をリードしていったという認識は正しいものであるかのように見える。
 この常識に立てば、沢口一之や関孝和が高次方程式の解法を確立したのが17世紀後半だから、西洋に遅れること1世紀ほど。そして関孝和が円周率を計算し弟子の建部賢弘が確立したその方法は西洋の微積分学とほぼ同じものであるわけだから、彼らがその方法を確立した1670〜1690年代は、西洋でニュートンらがこれを確立したのとほぼ同等の時代である。
 「つくる会」教科書の著者たちが「日本の科学は西洋諸国とくらべても、当時高い水準にあった」と豪語した根拠はここであったろう。

 だが西洋や日本の学は、その他の国々、特に長い間文明の中枢であった、中国・インド・中近東の国々より進んでいたのだろうか。
 実は先の「16世紀以降西洋の学が他を圧していた」という「常識」が形成される過程においては、これらの文明中枢の学のレベルとの比較が行われていないし、相互の学がどう交流し合ってきたかということも究明されないまま、先の「常識」は主張されているのだ。

A学問のレベルは相互交流によって高まってきた

 先に見たように、日本の近世の学の発展の背後には、中国の学が、朝鮮経由や中国からの直接の伝来によって日本の学に大きな影響を与えたことが、日本の学の発展の基礎であったことを示す多くの事実があった。
 今問題になっている数学の問題で言えば、関孝和によって多元連立方程式が筆算によって代数的に解かれるようになった背景には、中国の元時代の数学書「算学啓蒙」に説かれた「天元術」という解法の伝来と、日本の数学者によるその解読と、さらなる方法論の改良があったわけだ。この「天元術」の伝来なくして関孝和の業績はなかったといっても過言ではない。また彼による円周率の計算も、中国の数学者が円周率を詳しく算出したその結果が伝来し、それをさらに改良したからこそ、正確な方法を編み出すことができたのである。
 日本の和算の高度な発展は、前時代の元・明の時期における中国数学の発展成果の伝来があったればこそなのだ。
 このような文明の相互交流による学問の発展は、西洋の学でも同様であった。
 実は15世紀以降における西洋の科学の発展の背景には、イスラムの科学の成果が大量に流入したことがその発見の基盤にあったのだ。
 コペルニクス(1473‐1543)が地動説を唱えるにあたって参照した古代文献があった。それは古代ギリシャのプトレマイオスの天動説を批判したアリスタルコスの手記であった。ポーランド人のコペルニクスは1496年にイタリアのボローニャ大学に留学してギリシア天文学を学び、さらにイタリアのパドバ大学・フェラーラ大学で学ぶ中で、彼の地動説の体系を固めた。このどこかで彼はアリスタルコスの手記に出会って彼の地動説に学んだわけである。
 また3次方程式の解法を発見したフォンタナ(1499‐1557)はイタリアの数学者で。数学は独学で学び、ベローナ、ブレシア、ベネチアの各大学で教授となっている。 またカルダーノ(1501‐76)もイタリアの医学者・哲学者・数学者で、パビア、ミラノ、パドバで学び、パビア、ミラノ、ボローニャで医学を教えた。
 この15世紀の「科学革命」と呼ばれた業績は、すべてイタリアで行われている。実はこのことに意味があるのだ。
 15世紀のイタリアは東方貿易によって栄えた地域で、イスラムの文化が多数流入し栄えた地域であった。その中には近世編1の【1】で見たような商業上の技術や制度だけではなく、多くの学術がイスラムから流入していたのだ。
 とくにカルダーノは当時流行していた新プラトン主義に立った哲学者でもある。
 新プラトン主義は3世紀のエジプトに活動した哲学者プロティノスの思想を核としたもので、事物の秩序は連鎖していると考え、アリストテレスのように事物を固定的に捉える伝統的な思考法を脱した新しい思想であった。そしてこれは、15世紀にイタリアの哲学者・フィチーノ(1433‐99)が古代文献からラテン語に翻訳して以後流行したものである。
 そして、この古代ギリシャの天文学知識や哲学や科学の知識は、古代以来イタリアに伝えられたものではなかった。これはイスラムの科学としてイタリアに伝えられたものだったのだ。
 その始まりは、10世紀末。後にローマ法王シルベステル2世となったジェルベールがスペインに留学し、アラビア語文献をラテン語に翻訳した。当時のスペインはイスラム帝国の統治下にあり、イスラムの方が西洋よりも科学や技術が進んだ先進国だったのだ。ここを通してイスラムの科学として古代ギリシアやローマの科学が西洋にもたらされた。そしてこの傾向は12世紀の十字軍の遠征以来イスラム圏との貿易が盛んになるに伴って加速し、イスラムの文芸に学ぶことが盛んになり、大量のイスラム語の文献が東方貿易の拠点であったイタリアにもたらされたのだ。
 この中でイスラムの学問を大量にラテン語に翻訳して紹介したのは、クレモナのゲラルドであった。彼が訳した文献の中に、古代ギリシア以来、ローマ・ビザンチンと発展した科学の成果が多数含まれていたのだ。プトレマイオスの天文書、アリストテレスの諸著作、アビケンナの医学正典など。そしてユークリッドの幾何学や数学書など。しかし当初はこれらの知識は古代ギリシアのものとは考えられず、それより古い古代エジプトの知識と考えられていたし、ラテン語には適当な語彙がなかったので翻訳書の中には多くのアラビア語が使用された。アルコール、アルカリ、アルゼブラ(代数学)など。そしてアラビア数字もこの中で伝えられた。
 こうして古典への回帰をめざすルネサンスの時期に、古代エジプトの哲学・科学と誤認された知識がイタリアに流入しのだから、これは当時の西洋の人々にとって、依拠すべき古典として多いに歓迎された。コペルニクスが学んだボローニャはこうしてもたらされた東方の科学研究の拠点であったのだ。
 コペルニクスが読んだアリスタルコスの手記はこうしてもたらされたものだった。コペルニクスによる宇宙認識の転換は、イスラムの文明を通じた古代ギリシアの科学との接触によるものだったのだ。
 さらに近代西洋の学に大きな影響を与えたのは、古代ギリシア・ローマの学だけではなかった。
 中東地域に古代エジプトやメソポタミア、そして古代ギリシアやローマの影響をうけたイスラムの学が独自に発展した。このイスラムの学もまた、近代西洋の学に大きな影響を与えている。
 たとえば、13世紀のイギリスのロジャー・ベーコンに始まる光学の研究は、彼がイスラムの科学者アル・ハイタムの著作を読んだことが出発点になっている。アル・ハイタムは、光の屈折や反射について研究してギリシア時代の学説を修正しており、さらに目の構造を研究し、レンズ作用によって網膜上に像が結ばれることをはじめて明らかにしている。
 また、アリストテレスの運動学には多くの矛盾があることが明らかになり、その矛盾点の解明を進める中で、ガリレオによって作り上げられた近代運動学の背後にも、イスラムの科学があった。12世紀のスペインのコルドバに生まれたイブン・ルシッドはアリストテレスの優れた研究者であり、すでにアリストテレスの諸学問には多くの矛盾があることを明らかにしていた。このイブン・ルシッドの著作がヨーロッパにもたらされることなくして、ヨーロッパのルネサンスにおける学問復興もなかったし、ガリレオによる近代運動学の確立もなかったのだ。
 このように学術は幾つかの文明の相互交流によって発展したものである。
 そしてこのことは技術の面においても同様である。
 技術の移転は長い間、中国・イスラム(インド・ペルシア・エジプトなど)の文明中枢相互の交流と、それらの文明中枢の技術が辺境地域へと広がって行く歴史であった。例えば中国からイスラムの地域に広がってその地で改良されて西洋に広がり、この地で改良されて文明中枢や東の 辺境である日本にまで広がった技術は多数ある。製紙技術・火薬の利用・磁石羅針盤の利用・印刷術の4大発明だけではなく、さらに鋼鉄の共融解法や酸素化処理技術・機械仕掛けの時計・ベルト伝導やチェーン伝導・アーチ式橋および鉄鎖によるつり橋・削岩設備・船の技術(船首駆動および船尾駆動の外輪船、防水区画、船尾の舵など)など、15世紀以前に多くの技術が中国で生まれ、イスラムの地域で改良されて西洋にそして日本に広がっていたのだ。
 また従来西洋が他を圧していった時代とされた15世紀以後の時期の技術を見ても、それは多くの分野において相互交流が行われ、1ヶ所で進んだ技術が開発されると、たちどころに他もそれを学び自分のものとして活発に使用するというのが常態であった。例えば戦国時代のところで見た鉄砲の技術で見れば、16世紀においてもっとも進んだ小銃・火砲を開発したのは西洋であり、その技術はたちどころにオスマン・トルコやインド・中国・日本に受容され、さらにその地で改良された。しかし火薬を使って弾丸を飛ばす方法そのものは中国で開発されたものであり、それがシルクロードを経てイスラム諸国に伝わって小銃・火砲となり、さらにそれが西洋に伝わって改良されたものであった。
 技術も科学と同様に文明の相互交流によって高まっていったのだ。

B西洋の学は他を圧してはいない

 ではこの15世紀以後に発展した西洋の科学は、他を圧したものだったのだろうか。
 フォンタナが3次方程式の解法を発見した当時の西洋数学では、まだ記号で方程式を表す方法は取られておらず、文章で示していた。そしてこれは元の時代の天元術でも同様であり、関孝和が高次方程式を筆算で解いたとき も同様で、記号で式を示すのではなく文章で行っていた。
 ということは数学のレベルで言えば、13世紀の中国の元の時代の数学と15世紀の西洋の数学、そして17世紀の日本の数学が同じレベルにあったことを示している。またこれは言いかえれば、13世紀の中国の数学のレベルに、西洋は15世紀になってやっと追い付き、日本は17世紀になってやっと追い付いたということだ。
 また天文学で言えば、コペルニクスが地動説を確立し、ガリレオが望遠鏡による惑星の観測によってそれを確かめたことは偉大な発見である。そして地動説の提起は、当時一般的であった遠洋航海用天体暦が天動説に依拠していたため天体の位置が不正確であったために現実とずれがおこり、航海にも支障が出ていたからだ。コペルニクスは天体の位置を観測によって確かめながら、地動説の正しさを確信した。
 しかし16・17世紀の西洋においてはこの考え方は多数派ではなく、一部の科学者に支持されていたに過ぎない。このことはガリレオが異端審問に掛けられ自説を撤回しなければならなかったことに良く示されている。カトリック教会を始めとした多数派は依然として天動説に依拠しており、これは同じ時代の中国や日本の人々の認識においてもそうであった。この地動説が 西洋で一般に認知されるのは、17・18・19世紀を通じてより精密な天体観測がなされて、その正しさが証明されて以後のことである。
 そして地動説が現れても西洋の暦も天動説に沿って作られ、部分的に地動説にたつケプラーによって発見された惑星の運行法則で補足的に修正されたものが使われた。
 この西洋暦と地動説も含む天文学は宣教師の手によって中国にも日本にも伝えられ、それぞれの国の天文書にも掲載され、現実とずれ始めていた両国の暦がこれによって改正された。しかしこれによって天動説が放棄されたわけではないことは西洋と同様であった。中国でも日本でも暦は依然として天動説に従った認識にそって作られ、それにケプラーによって発見された惑星の運行法則を採用することで修正しただけであったのだ。ただ両国とも天文観測器具については、精度の高い西洋流のものが使用され、それぞれの天文台で天体の位置観測が続けられ、その 後も暦の訂正に寄与したのだ。
 このように西洋の天文学が中国や日本に受容されて利用されたということは、天文学においても西洋も中国も日本も、17世紀においてはほぼ同等のレベルにあったと言えよう。

 このように見ると、15・16・17世紀においては西洋も中国も日本も(そしておそらくはイスラムも)、科学においてはほぼ同じレベルに達していたと言えよう。そしてこれは、先進文明としての中国やイスラムの文明の科学のレベルに、西洋や日本がようやくにしてこの時期に追い付いたということを意味し、その中で西洋や日本で文明の中枢を 越える学問的認識が育ちつつあったということを意味している。 しかし西洋の学がイスラムや中国を凌駕し、さらにそれが技術とも結びついて強大な力を発揮するのは19世紀になってのことであ り、日本がその西洋の学を学んで中国の学を越えたのは、19世紀も終わりの頃のことだったのだ。
 こう考えてくると、「つくる会」教科書が、「日本の科学は西洋諸国にくらべても、当時高い水準に達していた」と記述したことは、従来常識とされてきた「15世紀以後は西洋の科学が他を圧していた」とする根拠のない妄説に依拠して自国を誇る、極めて民族主義的な主張であったことがわかる。 

:05年8月刊の新版でも、旧版とほぼ同様な記述が踏襲されている。すなわち、「自然科学の分野でも、日本独自の発達がみられた」としており、宮崎安貞の農業全書の集成の背景に中国農書の伝来があった事実や、関孝和の和算の業績の背景にも中国数学書の伝来があった事実を完全に視野の外においている。そしてまとめとして、「このように、日本の科学・技術は、西洋諸国にくらべても劣らないほどの水準に達していた」と記述し、根拠のない民族主義的主張を旧版からそのまま継承している(p113)。

【補論】近世日本社会と宗教

(1)宗教を軽視した教科書の記述

  さて「つくる会」教科書は、「時代の現実的、合理的傾向」という記述をして、近世江戸時代の思想傾向が、「現実的で合理的」なものであるという認識を示していた。このことは元禄文化の項で見たように、現実の世の中を直視した芸術が栄え、さらに多くの学問、とくに実践的諸科学が発展したことを見るとき、極めて的を得た指摘のように思える。
 では近世江戸時代の人々は、「現実的合理的」な精神の持ち主で、神や仏などを信じることはしなかったのだろうか。
 たしかにこの時代は、表面的に見ると、宗教の力が弱まった時代であるかのように見える。
 この教科書が、「平和で安定した社会」の【農産品の生産】において(p135)、「農民は農繁期には忙しく働いたが、農閑期には、豊かさがもたらすゆとりを背景に、神社仏閣の参拝の旅に出かけたり、獅子舞や相撲、踊りなどで休日を楽しんだ」と記述したように、本来宗教的行事である神社仏閣へ参拝することが、この時代では娯楽であるかのような様相を呈しており、宗教の力が弱まったような印象を得る。
 そして翻って検討してみると、「つくる会」教科書では、中世の「鎌倉文化」の項で新しい仏教が生まれたことを記して以後は、「文化」の項目の中で宗教の問題を論じることはまったく行っていない。宗教に多少とも関連することとして、中世の「室町の文化」で「村祭りや盆踊り」を年中行事としてとりあげただけで、近世江戸時代の文化の項では、宗教の問題はまったくあつかっていない。まるで人々の日常生活の中で宗教の占める位置がまったくなくなってしまったかのようなあつかいである。
 しかしこれは「つくる会」教科書の特徴であるだけではなく、他の多くの教科書の特徴でもある。
 著者が授業で使用してきた清水書院の教科書でも、文化の項における宗教の扱いはまったく同様で、鎌倉新仏教の登場以後は、室町の文化の中で盆踊り・村祭りとして紹介されるだけであった。
 だが教科書の記述において、鎌倉時代以後に宗教の問題がまったく扱われていないわけではない。
 それは政治史の中に登場する。
 中世・戦国時代における一向一揆の登場と百姓の自治、そして織田・豊臣政権によるその弾圧。さらにキリスト教の伝来と信徒の拡大と豊臣・徳川政権による弾圧と禁教。政治史において宗教が取り扱われた最後の所は、近世におけるキリスト教禁止と島原の乱、さらに寺請制度によるキリシタン宗門改めの実施である。以後教科書が宗教の問題をとりあげるのは、近代の明治維新の中で廃仏毀釈運動を取り上げるのみである。
 つまり、「中世の新仏教の登場のように民衆の生活の中で大きな位置を占めた宗教は、近世の織田・豊臣・徳川政権による宗教弾圧によってその力は衰え、近世においては宗教は統一政権の民衆統治のための支配の道具と化してしまった。もやは宗教は民衆の生活において、その自治をも支えるような大きな力は持っていない」というのが、多くの教科書に共通する理解なのであろう。
 しかし本当にそうなのであろうか。
 室町時代の文化の項で扱われた「盆踊りや村祭り」は、これを教科書が取り上げる時には必ず、今に続いている伝統文化としてとりあげられることに見られるように、現代のように宗教的色彩が希薄となり、単なる伝統行事と化してしまった現状が教科書には反映されているのであろう。そしてこれは、「つくる会」教科書でも同様な位置づけである。しかし盆踊りや村祭りは中世編の【23】でも見たように、先祖の霊の帰還を祝い家や共同体の繁栄を祈る宗教行事である。
 また近世の記述で教科書は、キリシタン禁教と寺請制度の成立以後でも、宗教の問題をとりあげてはいる。「つくる会」教科書では、「平和で安定した社会」の項の最後で、農民が「神社仏閣の参拝」に出かけていることが記述され、清水書院の教科書でも、「深める歴史7:街道と港」の項目の中で「伊勢参りの群衆」を描いた絵画が紹介され、「多いときには1年に480万人もおしかけたといわれる」と注記されている。そして近代の「開国の社会的影響」の項の中で、「ええじゃないか」と神社のお札などが降る中で踊り狂う群衆の姿が示され、社会不安が広がる中で宗教が大きな力を発揮している様が示されている。
 近世になっても宗教は、人々の生活の中で大きな位置を占めていたのだ。

(2)近世の宗教活動の特徴

 近世江戸時代における宗教活動の特徴はつぎのように要約できよう。
 1つは、宗教的行事が娯楽的要素を強くもつようになり、宗教施設への参拝が物見遊山の一環となったこと。
 2つ目は、宗教が日常的道徳の根源とされる価値観を提供するものになり、そこでは仏教・神道・儒教の間に役割分担がなされて、3つの異なる宗教が統一して民衆教化にあたったこと。
 3つ目には、寺請制度に示されるように、仏教寺院が人々の身分・思想を保証する公的機関となり、仏教寺院において先祖の供養や葬送が独占的に行われるようになったこと。
 さらに4つ目には、従来の産土神や町や村の惣堂以外にもさまざまな流行神が生まれ、それぞれの神にさまざまな現世利益が付託されて広く信仰されたこと。
 以下それぞれの特徴とその関連に沿って、近世社会と宗教との関係についてすこし述べておきたい。

(a)娯楽としての宗教施設への参拝
 
近世江戸時代の宗教活動の特徴の1つは、宗教施設への参拝が、娯楽としての性格を強めたことである。
 これは1688(貞享5)年に出版された井原西鶴の「日本永代蔵」の冒頭の「初午は乗ってくる仕合」に、「折ふしは、春の山、二月初午の日。泉州に立たせたもう。水間寺の観音に、貴賎男女参詣(もうで)ける。皆、信心にはあらず。欲の道連れ、はるかなる苔路、姫萩、荻の焼原を踏み分け、いまだ花もなき片里に来て、この仏に祈誓かけしは。その分際ほどに、富めるを願へり」と記したことによく示されている。
 神仏へ祈願するのは、直接的な現世利益を求めてのことなのだ。後に見るように、近世には様々な神仏が信仰され、それぞれ多様な現世利益を求めて参拝が繰り返される。そしてこのような様々な現世利益をもたらす神々が信仰されていくことに伴って、それぞれの神の在所を訪ねる旅が流行する。
 もっともポピュラーなのは伊勢参宮であり、その途中や帰途に、道筋にある有名な神社仏閣にも参拝し、さらには有名な湯治場や京・大坂などの名所も尋ねるという旅が、この時代には流行する。そしてこれ以外にもそれぞれの地域に信仰された神仏への参拝の旅が流行し、その寺社へ参拝の道すがらには、多くの茶屋や芝居小屋が設けられ、物見遊山として人々が殺到したのだ。
 この参詣旅行の目的地は、何も昔から有名な神仏には限られない。いきなり無名の神が登場し、その神が大いなる霊験をもたらすといううわさが広がるや、たちどころに参詣客が殺到し、参道には茶屋や芝居小屋が乱立する。たとえば著者が住む 神奈川県川崎市の多摩区宿河原の下綱という所には、多摩川を望む台地に「綱下げの松」という古くからの由来のある枯れ松がある。この松に霊験があるといううわさが立つと、突然江戸市中から多くの人々が参詣し祭りのような様相を呈した。松の周りには茶屋ができ、玉川八景の絵図や綱下げ松の縁起、うちわなどが売られた。 この松は江戸時代の東海道の脇街道として商人の往来が頻繁に行われた矢倉沢往還(大山街道)の沿線にあり、多摩川の二子の渡しを渡って二子宿・溝口宿を過ぎたところから北西・東南に分岐する八王子街道沿いに、北西へ少し行ったところにある。大山街道は江戸時代になって相模(神奈川県)大山に鎮座する石尊大権現・大山不動尊への信仰が高まるとともに、大山参詣の街道ともなり、こう呼び習わされたものだ。
 枯れ松への参詣が始まったのは、1831(天保2)年10月の頃であり、翌3年春になると訪れる人はさらに増え、「枯れ松からご府内までは日々市場のごとく」というありさまになった。江戸の武士たちは馬を10匹・20匹と連ね、庶民は三々五々連れ立って訪れる。そこで沿道にあたる大山街道の三軒茶屋には20組を越える駕籠屋が集まり、さらに沿道の等々力村の堀口霊神塚、衾村の鎮守杉、上作延村のしばられ松なども霊験を宣伝して客をよび、参詣コースに入るというありさま。そして枯れ松から多摩川までの間には茶屋が84軒も軒を連ね、麦から細工や植木を商う露店まで出る。さらには枯れ松への最短コースである宇奈根村の多摩川の渡し場の河原一帯にも茶屋が並び、酒や水菓子まで売られるようになった。こうした中で河原を舞台に旅芝居まで興行されたわけだが、それは近在の平尾村の若者衆が山の大木を売ってその金で旅芸人一座を呼び、これにはその周辺の村々も関与していた。
 こうして突然江戸近郊の村の高台の枯れ松の霊験を肴に多くの商売人が集まったわけだが、この事件の結末は早く、天保3年6月に幕府の関東取締り出役によって茶屋撤去が命じられ、翌年1833(天保4 )年末には枯れ松も伐採されて騒ぎは静まったのだ。
 このような新たな流行神の登場と消滅の騒ぎは、全国各地で繰り広げられていた。
 さらに大坂・京都・江戸などの大都市とその近郊においては、古い来歴を持つ寺院や神社が、長い間秘仏として公開されずにい た仏像や神像さらに様々な宝物を、ご開帳と称して定期的に人々に公開し、広く社会的に結縁を求めるようになり、多くの人がご開帳に列を成した。これは江戸では、1670(寛文10)年ごろ、大坂では1689(元禄2 )年ごろから盛んになり、江戸・大坂やその近在の寺院・神社がご開帳を行った。そしてこの傾向はさらに増加し、中には人が多く集まる都市やその近郊の寺社を借りてご開帳を行う「出開帳」という出張イベントすら行われるようになり、ご開帳の場には、浄瑠璃や「かるわざ」「水からくり」「曲馬」など、芝居や見世物なども併設されて、信仰行事というより娯楽としての側面すら見せていくようになったのだ。

b)人々を統合する価値観の根源としての宗教
 では近世においては宗教は人々の心に大きな影響を与えなかったのか。
 すでに多くの箇所で見たように、近世においては道徳的価値観を人々に広める作業が広範に行われ、その1つとして「仮名草子」などの出版物がたくさん出され、さまざまな物語を通じて人々に如何に生きるべきかという道徳を提示することが行われていた。この道徳的価値観を提示する根源的思想として近世の宗教は存在したといっても過言ではない。
 ただここにおいては、仏教・儒教・神道という異なった宗教が分担して道徳を説いていた。
 仏教は、仏教寺院がそれぞれの檀家を持ち、その檀家の家の祖先の供養や葬祭を司ることによって、人間の死と死後の世界についての人々の思想に大きな影響を持つこととなった。仏教は年忌供養を実施することで、人はその家族や子孫によって手厚く供養されることによってこそ極楽に往生できるという思想を広め、人々の中に家族・家の繁栄と継続こそが、もっとも大切なものであるという価値観を広めて行った。そしてこれは長い平和な安定した社会が出現したことにより、多くの人が家族と家職を持って暮らすことができるようになった社会状況とあいまって、祖霊の供養という社会習慣を根付かせることとなったのだ。
 しかし人々の日常生活における道徳的価値観とそのための身の処し方を具体的に提供したのは、儒教であった。
 すでに見たように中国において祖先崇拝を核として共同体社会の展開の中で、儒教は祖霊を祭るさまざまな宗教的行事を日常の中に配置することを通じて、祖先を、そして家族を、さらに隣人をも「愛」の対象としていかに生きるべきかの道徳的作法を確立していた。この儒教的道徳観が近世社会が安定に向かう元禄期前後から取り入れられ、藩や幕府も、たとえば親孝行を表彰するなどの行為を通じて、人々に道徳的価値観の定着を図ってきたのであった。
 死と霊魂を通じた道徳を仏教が、そして家を核とした共同体道徳を儒教が提供したわけである。
 では神道はどのような役割を果たしたのであろうか。
 近世における神道は、仏教から完全に独立した存在ではなく、本地垂迹説に基づく神仏習合によって、仏教とほとんど一体化していた。ただ仏神と融合した神々に対する信仰は、祖霊の供養ではなく、人々にさまざまな現世利益を与えるものとして人々に信仰さされた。これは神道が独自の教義も組織もまだ未確立であった故である。神道の神々が人々に与えた道徳的価値観は、「日本は神国である」という、中国や西洋とは異なった文化的伝統をもった優れた国であるという「国民的観念」だけであったといっても過言ではない。いわば道徳観全体を包み込む民族的枠組みを与えたというものであろう。
 近世において宗教は、こうした価値観を人々に与えたのである。

(c)祖霊供養・葬祭に特化した仏教
 しかし人々の日常的な精神生活は、中世以来の伝統にそって、それぞれの町や村の惣堂である仏教寺院とそれと一体化した町や村の鎮守の社を中心として営まれていた。 「つくる会」教科書が、p144・145において「地方の生活文化」という項を設け、そこに「民間の主な年中行事」として、元旦・七草・節分・上巳の節句・彼岸・七夕・盆・すすはらいなどを示したように、新年の初めから年の暮れまで、年中行事としてさまざまな祭礼が設けられ、それにそって家々の暮らしが進行していたのである。
 その中で共同体の惣堂として、さらに家々の檀那寺としての仏教寺院は、町や村の文化・宗教の中心としての位置を近世においても占めながらも、しだいに祖霊供養と葬祭に特化していった。人々が仏教寺院と関わるのは、祖霊を祭る年忌法要の時と家族の葬祭の時とに次第に限定されていったのだ。今日一般に仏教を揶揄して使われる「葬式仏教」の始まりである。そしてこれは、すべての人々がいずれかの仏教寺院の檀家となり、檀那寺として仏教寺院が檀家の身分と思想の保証をする寺請制度の導入と、それまではそれぞれの家の墓はそれぞれの家の敷地内に置かれていたのを檀那寺の墓地に統合するという制度の導入によって進行した。 こうして仏教は、人の死と死後の世界に関することだけを司り、人々に与える精神的影響は次第に縮小されたのだ。
 中世においては、阿弥陀仏や大日如来のように絶対神的傾向を孕む仏が現れ、阿弥陀仏を強く信仰しその救いに預かろうとする浄土真宗の信仰においては、阿弥陀信仰と本願寺教主に対する信仰が信徒の全生活を包み込み、一向一揆に表現されたような信徒の町や村が寺社・貴族や武家権力から独立して自治を行う精神的・政治的基盤となっていた。仏教の信仰が信徒の全生活を 覆い尽くすほどの大きな力を持ってきていたのだ。しかし近世においては、仏教のそのような力は規制され、仏教の信仰は政治から切り離されて、人々の祖霊崇拝を基盤とした祖霊の供養にその働きを限定して行ったのだ(ただし浄土真宗の信仰の強い地域では、次に見るような様々な現世利益を求める祈祷は行われず、真宗寺院でのさまざまな祭礼に一本化され、真宗信仰が信徒の政治生活を除く全生活を包括する力を今だ維持していた)。

(d)現世利益をもたらす多くの流行神の登場
 だが今日でもそうではあるが、人々が生きていくに際しては、多くの人間の力ではどうにもならない災難危難が襲ってくるものである。人が生まれそして死ぬことそれ自身が人間の力を超えた大きなものによって動かされているように感じるものであるが、それ以外にも様々な災害、地震や台風暴風、大雨や洪水、さらにはイナゴの害や冷害などによる飢饉の襲来による農作物の不作や気象変動などに伴う魚の不漁など、多くの災難危難が人々を襲う。この多くの人知を超えた災難危難に当面したとき、人は神に祈り救いを求める。それは現在でもそうなのだから、近世の人々にとってはなおさらそうであったろう。
 近世の人々の信仰生活の特徴の1つは、災難危難に際して神仏の加護を求める祈祷が全国各地で行われ、この祈祷に際しては、寺社の神官や僧侶ではなく、主として修験道に属する行者たちによって祈祷が行われ、さらにさまざまな現世利益を請け負った新たな流行神がたち現れたところにあったのだ。
 この傾向はすでに中世において現れていた。
 古代末期から中世初期に広がった熊野信仰、そして中世末期から近世初期に広がった伊勢信仰はその走りであった。
 熊野信仰は観自在菩薩が住む補陀洛山を熊野とし、熊野三山の神のそれぞれの本地仏が阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩とされたことにより、到来する末法の世から逃れるために熊野に参ることによって、生きながらにして補陀落浄土 へ生まれ変われるとする、信者の全生活を包み込んだ現世利益を求める信仰であった。また伊勢信仰は、天照大神の本地仏が宇宙の根本をなす仏である大日如来であるとされることにより、天照大神がすべての神々の上に立つ超越神とされ、この神がいます伊勢に参ることによって、諸神諸仏の霊験が示されるという、これも信徒の全生活を包み込んだ現世利益を求める信仰であった。 そして熊野信仰と伊勢信仰は、御師と呼ばれる修験者によって全国に広められた。
 しかし近世において新たに発展した信仰は、もっと具体的な現世利益を求めるものであった。
 それは剣難、水難、火難に霊験あらたかであるとして駿河(静岡県)の秋葉山頂に鎮座する、観音の化身であると称する三尺坊大権現を信仰する秋葉信仰や、同じく火伏せ、防火の神として山城(京都府)の愛宕山に鎮座する神を信仰する愛宕信仰、さらには本来は稲・養蚕・食物の神として信仰されていたのが、中世から近世にかけて商工業が盛んになると全国の町屋にも広がって、生産・商業の神として全国各地に稲荷社が勧進された稲荷信仰など、具体的な現世利益をもたらす神々であった。
   そしてこれらの新たに力を持った神仏が権現を称していたことにも示されるように、仏や菩薩が仮の姿をして(しばしば人間の姿をして)この世に現れ、人々をあまねく救済するものとして新たな神仏は尊崇され、この信仰は修験者という僧でも神官でもない宗教者の手によって広められたのだ。
 もっとも近世になって流行した神々のご利益を個々に見ていくと、それはかなり多くの一般的なご利益を求められていた。
 たとえば近世中・後期になって流行した、讃岐(香川県)琴平に鎮座する金毘羅大権現を信仰する金毘羅信仰の場合を見てみよう。
 この神が鎮座する琴平の象頭山は、古来地元民から農業を守護する神として崇められ、瀬戸内の海民からは航海の目印として尊ばれてきた。この山に金毘羅神が祭られたのは16世紀も後半のことで、象頭山松尾寺の本尊釈迦如来の守護神として祭られたのが始まりだという。しかし次第に金毘羅神が肥大化して松尾寺を侵食し、17世紀中ごろには松尾寺別当の金光院が金毘羅別当として象頭山を支配し、金毘羅大権現と称して人々に尊崇されるようになったという。
 そして金毘羅信仰が高まった背景には、この地を治めていた生駒氏の讃岐藩がこれを尊崇し、国内最高の330石の社領を寄進したことが背景にあり、次いでこの地を分掌した高松藩・丸亀藩もこれを継承して保護し、高松藩開祖の松平頼重は社領を将軍家朱印地とするよう幕府に斡旋し、1648(慶安元)年に初めて朱印状が幕府から下され幕末に至ったのだ。また金毘羅信仰が三都など大都市に広がった背景には、高松・丸亀両藩が江戸屋敷や大坂蔵屋敷に、藩士たちの求めに応じて金毘羅神を祭ったことに始まる。そしてこの神が、18世紀中期以後に京・大坂や江戸の庶民にも信仰されるようになり、江戸虎ノ門の丸亀藩邸内の金毘羅神への奉納金だけで、1781(天明元)年には年に150両にも及んでいた。こうして19世紀初頭の天保期には、江戸だけで100箇所の金毘羅巡拝所が成立するほど篤く信仰されたのであった。
 この神は、海上安全、海難救助の神として今日では知られているが、その霊験を示した近世文書に示された霊験は多岐に亘り、家内安全・子孫繁盛・五穀成就・商売繁盛・開運長久など32種類にも及び、一般的な願望を適える霊験が示されていた。
 金毘羅神はもともと、インドのガンジス川に住むワニを神格化した仏教守護神であるが、次第にその神格は高められ、かつて釈迦殺害の目的で投げられた巨石を受け止めて釈迦を救った神で、「悪魔外道を調伏する」力を持つ偉大な神とされ、さらにかつて保元の乱(1156年)で讃岐に流されて死んだ崇徳上皇の御霊とも一体化し、金毘羅神は祟り神としての性格も兼ね備えていくこととなったのだ。
 このように金毘羅神の神格が高められ、多くの一般的ご利益をかなえる事ができる力のある神として信仰されたことは、金毘羅信仰が流行した近世後期、18・19世紀という時代の様相を反映している。金毘羅信仰は すでに見たように江戸や京都・大坂、そして名古屋などの大都市とその近郊の農村で広がったものだが、18・19世紀の時代においては後に見るように、飢饉や噴火などの大災害 が各地を襲い、そして全国的流通網の不備に伴う米価や物価の高騰など、人々を多くの危難が襲っていた。それゆえ人々は次第に、 個々の現世ご利益を求めるだけではなく、襲い来る社会的災難からの包括的救済を求めるようになり、この人々の心を反映して、次第に流行神には諸神諸仏に超越した最高神の神格が付与されていき、このためにその霊験が包括的になっていったものであろう。
 そしてこの傾向はすでに近世中期に富士講とし て広がった浅間信仰において顕著であり、 江戸時代を通じてほぼ60年おきに行われる伊勢への「お陰参り」にも示されている。全国的に広がった「お陰参り」は、1650(慶安3)年・1705(宝永2)年・1771(明和8)年・1830(文政13)年が記録されており、全国的に熱狂的な参宮が行われた。伊勢に至る沿道では施行が行われ、旅費がなくても参宮できたのである。文政のときは4か月間に宮川の渡船場を渡った者が約428万人だったという。これも起きた年代を考えてみると、全国的に飢饉や災害が続いた時期であり、社会不安が高まる中で伊勢参宮を勧める御札降りの奇跡が起こり、全的救済を求めて人々が殺到したものであろう。
 そしてこの傾向は、社会不安がさらに高まった近世末期にさらに深められ、黒住教・金光教・天理教・丸山教・大本教などのような、天地絶対の神の子(使徒)による全的救済をもとめる信仰に繋がったのである。

(3)都市的な場の広がりと新たな信仰の広まり

 このように見ていくと、近世人の生活にとって、宗教はけして小さなものではなかったことがわかる。 近世江戸時代の人々は、人間の生き死にや幸不幸の全てが神仏によって左右されていると信じていたのだ。そして新たな流行神を含めて、多くの神仏が信仰された階層は庶民には留まらず、武士や藩主層など社会上層にも及んでいた。近世江戸時代の日本人は、現代人よりも深く、神や仏に対する信仰の中で生活していたのだ。
 ではなぜ近世において多くの神仏が新たに信仰を集め、それぞれに具体的な現世利益が求められるようになったのだろうか。
 この背景の重要な1つが、近世における各地での都市の発展という社会現象が存在しよう。
 先に見たような新たな神仏が登場し広まった場所は、三都を初めとした大都市と、その周辺に広がる都市的な村であった。このような都市は、古くからある町や村とは異なり、古くから存在する町や村の惣堂や鎮守の社を中心として結集した共同体ではない。政治や経済の結節点に、政策的にあるいは商工業の全国的展開を背景に形成されたものである。この新たな都市や都市的な村もまた、旧来の村や町と同様にその共同体の中心となる惣堂と鎮守が勧進され、これを中心に町や村が形成され てはいる。しかしそこに住む人々は、先祖代々の共同体の一員としての連帯感はまだ希薄であり、しかも都市に住む人の移動は激しく、連帯感がなかなか形成しにくいという状況にあった。
 近世に新たに形成された都市においては、住人が共同体に包摂されず、一人一人がばらばらな個人として存在した。
 これが近世において各地で新たな神仏が信仰され広がった背景であろう。
 古くからある町や村とは異なって、その中心には産土神と惣堂の信仰は確立されていなかった。 新たに生まれた都市的な場に住む人々は、産土神や惣堂としての仏教寺院とは、精神的な深いつながりをもっていなかった。だからこそ人々は各地から有名な神仏を勧進してそこに参詣して、さまざまな現世利益を祈念するという行動に出たに違いない。そしてやがて近世社会の様々な矛盾が噴出し、それが解決されないことから社会不安が広まるに従って、神仏への祈念は具体的な現世利益を求めるだけではなく、全人格的救済を求める方向へと変化していったのであろう。
 この点については、後の近世中期・後期の政治社会状況を見る中で再論し、さらには近世後期の文化の項で詳述したい。

:05年8月刊の新版でも、近世の人々の生活に深く宗教が浸透していたことはまったくどこでも触れられていない。

:この項は、東明雅校訂・井原西鶴著「日本永代蔵」(1956年岩波文庫刊)、 平山諦著「和算の歴史−その本質と発展」(1961年至文堂刊・2007年ちくま学芸文庫再刊)、薮内清著「中国の科学文明」(1970年岩波新書刊)、尾藤正英著「国家主義の祖型としての徂徠」・前野直彬著「徂徠と中国語および中国文学」・荻生徂徠著前野直彬訳「学則」「弁道」「答問書」「政談」(1973年中央公論社刊・日本の名著16・「荻生徂徠」所収)、北島万次著「朝鮮日々記・高麗日記」(1982年そしえて刊)、杉本つとむ著「江戸の博物学者たち」(1985年青土社刊・2006年講談社学術文庫再刊)、 小沢浩著「民衆宗教の深層」(1988年岩波書店刊「日本の社会史」第8巻「生活感覚と社会」所収)、三輪修三著「多摩川−境界の風景」(1988年有隣新書刊)、上垣外憲一著「文禄・慶長の役」(1989年福武書店刊・2002年講談社学術文庫再刊)、加地伸行著「儒教とは何か」(1990年中央公論新書刊)、古田武彦著「真実の東北王朝」(1990年駸々堂刊)、田中誠二著「藩政機構と家臣団」(1991年中央公論社刊・日本の近世第3巻「支配の仕組み」所収)、朴春日著「朝鮮通信使史話」(1992年雄山閣刊・2000年ブッキング再刊)、川勝守著「『華夷変態』下の東アジアと日本」(1992年中央公論社刊・日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、 末木文美士著「日本仏教史−思想史としてのアプローチ」(1992年新潮社刊)、葉山禎作著「農書からみた近世農業技術」(1992年中央公論社刊・日本の近世第4巻「生産の技術」所収)、 野口武彦著「荻生徂徠」(1993年中央公論新書刊)、平山諦著「和算の誕生」(1993年恒星社厚生閣刊)、頼祺一著「近世人にとっての学問と実践」・田尻祐一郎著「儒学の日本化―闇斎学派の論争から」・黒住真著「儒学の体系化―仁斎・徂徠の思想構築」・小島康敬著「儒学の社会化―政治改革と徂徠以後の儒学」・八木清治著「経験的実学の展開」(1993年中央公論社刊・日本の近世第13巻「儒学・国学・洋学」所収)、 渡邊忠司著「町人の町大坂物語−商都の風俗と歴史」(1993年中央公論新書刊)、三宅英利著「近世の日本と朝鮮」(1993年朝日新聞社刊・2006年改題して講談社学術文庫再刊)、黒住真著「儒学と近世日本社会」・ケイト−ワイルドマン−ナカイ著「武士土着論の系譜」(1994年岩波書店刊・講座日本通史第13巻「近世3」所収)、 奈倉哲三著「近世人と宗教」(1994年岩波書店刊「講座日本通史」第12巻近世2所収)、神田秀雄著「信心の世界の変容と新たな救い」(1994年中央公論社刊日本の近世第16巻「民衆のこころ」所収)、上城誠著「『進化論』をめぐってー西欧科学史と和田家文書(上)」(1995年新泉社刊・「新古代学」第1集所収)、澤井繁男著「ルネサンス文化と科学」(1996年山川出版社刊・世界史リブレット28)、アンドレ・グンダー・フランク著「リオリエント‐アジア時代のグローバル・エコノミー」(2000年藤原書店刊)、姜在彦著「朝鮮儒教の二千年」(2001年朝日選書刊)、黒住真著「近世日本社会と儒教」(2003年ペリカン社刊)、高埜利彦著「元禄の社会と文化」・杉仁著「明清文化と日本社会」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収)、倉地克直著「江戸文化をよむ」(2006年吉川弘文館刊)、平凡社刊の日本史大事典、小学館刊の日本大百科全書、岩波歴史辞典の該当の項目の記述などを参照した。


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