「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判26


26: 勤勉と倹約の精神が説かれた背景には経済の大変動が存在したーコラム:石田梅岩と二宮尊徳のうそー

 第3節「産業の発達と文化の成熟」の最後の項目は 、「人物コラム:石田梅岩と二宮尊徳ー勤勉と倹約の精神」と題して、江戸時代の勤労階級である商人と百姓の道徳観を論じたものである。「つくる会」教科書はこのコラムの冒頭で、[勤勉は江戸時代から]と題して、次のように述べている(p148)。

 日本人は勤勉だとされてきたが、人々が勤勉を道徳的によいことであると考えるようになるのは、江戸時代になってからである。
 江戸時代は、戦国時代のように、耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり、戦いに巻き込まれて命を失うおそれはなくなった。まじめに働いただけの成果が約束され、一生の間、働いてたくわえたものを子孫に伝えることができるという見通しが高まった。そし て子孫も、家の仕事を引きついだりして、財産を残してくれた先祖に感謝することが自然に行われるようになった。
 先祖伝来の家業に勤勉にはげむことが、人間としての安心立命につながるという考えが広がった。江戸初期の大開発は、こうした勤勉によってなされた。

(1)「人々の安定した生活を支えた江戸時代像」を明確に示した優れたコラム

@異色なコラムができた背景は

 このコラムは、江戸時代という時代を「人々の安定した生活を支えた豊かな時代」と規定している。そして戦乱が収束する中で、この教科書が先に示したように、領主階級も産業の発展と生活の安定に意欲的に取り組んだ結果、勤労階級の人々は、その家業を安定させて子孫に継承させる基盤を得、こうして江戸時代は多くの村や町で、勤労階級の家の永続状態が生まれたことを明確に示し、その中で家業に勤勉に励むことが勤労階級の道徳として広がっていったことを記述している。これは先に見た学問と宗教の項で の、祖先を祭る祖先崇拝の儀式をともなう宗教が江戸時代に広がったことの基盤であり、町人や百姓たちも家の永続を保障する学を求めて儒学を学んだことの基盤でもあり、江戸時代という時代の特徴を見事に示すコラムとなっている。
 しかし、このような記述は、多くの教科書には見られない独特なものである。
 なぜならば多くの教科書では、江戸時代は封建領主階級としての武士が強権をもってして百姓や町人を支配した暗黒の時代という誤った教条主義的「マルクス主義的」時代認識にたっているからだ。しかし「つくる会」教科書における江戸時代の記述はそのような教条主義的時代認識には立たず、資料に即した時代像を明らかにしようとする学派の認識に依拠しているために、先に見たように他の多くの教科書とは異なった記述になったわけだ。

:「つくる会」教科書の江戸時代認識が資料に即した相対的に正しいものになったのは、この教科書の監修者にも名を連ねている大石慎三郎氏の資料に即して時代をみる学派の見解に依拠しているからであるが、これには彼らのある意図が背景にあるものと覆われる。それは「つくる会」が、「なぜ日本だけが欧米の植民地にならず欧米に伍して世界の強国になったのか」という問題を特に意識しているからである。そして「つくる会」は、後に近代の章で見るように、日本は中国や韓国のように自国が世界の中心という中華思想に汚染されず世界の動きを見る優れた目をもっていたから、とその理由を述べるのだが、そこではこの背景を、日本は武力を生業とした武人が政権を持っていたから、卓越した武力を背景に西欧が世界を席巻している情勢を見るに敏であったとしているが、それだけではあまりに主観主義に陥っていることは明らかである。そうなると明治維新を準備した江戸時代という時代そのものに目を向けざるを得ず、この時代が従来の歴史認識とは異なって、内発的に近代への発展の基盤を育てていたという正しい側面に注目せざるを得ない。こうしたわけで「つくる会」は、大石氏を中心とした実証主義的学派の見解を取り入れて、このような優れたコラムを書いたのであろう。だが残念ながらこの教科書は、江戸時代についての新たな認識を全編にわたって貫くことができていない。この点においてはこのコラムも例外ではないことは、以下に見ておきたい。

A経済の実態を見ない観念的主張

 しかしこのコラムの記述の全てが正しいわけではない。多くの根本的な間違いを含んでいるのだ。
 その第一が、先に見た冒頭の記述の最後の部分に存在する。それは勤勉に加えて倹約という道徳観が登場してくる背景を説明した部分である。
 教科書は次のように記述する(p148)。

しかし、元禄時代にみられた派手な生活により、商人などの中からは、没落していく人々も多数出た。そこから勤勉に加えて倹約の大切さも実感されるようになった。

 どこが間違っているかというと、元禄時代に商人の中から多数没落するものが出た背景の説明である。
 教科書は商人から没落した者がでた背景には、元禄時代に流行した「派手な生活」があったとしている。
 たしかに元禄文化の項でも見たように、この時代の都市においては、多くの遊興が流行っていた。そして富裕な商人の中には家業をおろそかにして能楽や歌舞伎三昧にふけり、家に能舞台まで拵えて能楽の稽古にうつつを抜かしたり、歌舞伎の高額な桟敷を貸しきってごひいき筋に観劇を勧めるなど、度を越した贅沢が行われたことは確かである。しかし問題は、彼らの贅沢が没落に繋がったのではない。大切なのは何故富裕な商人が家業をおろそかにして遊興にふけったのかという、この時代の商人がどのような経済活動に依拠して暮らしていたのかということであり、彼らが依拠してきた経済活動自体が崩壊したからこそ、多くの富裕な商人が没落せざるをえなかったという、江戸時代の経済の実態を踏まえた議論である。
 この点で、「つくる会」教科書の記述は、あまりに観念的であり道徳主義的にすぎるのだ。
 この点は続いて「勤勉と倹約の精神」に理論的根拠を与えた思想家として紹介されている石田梅岩の例でも同じである。
 そこで、石田梅岩の主張とその背景を、この教科書がどのように見ているのかを検討しておこう。

(2)石田梅岩の主張の背景には米を中心とした領主経済と貨幣経済の矛盾が存在した

 教科書は、勤勉と倹約の精神に理論的な根拠を与えた学者として石田梅岩(1685-1744)をあげ、石田梅岩が丹波の山村に生まれて幼い頃より京都の商家で働く中で、人間の理想のあり方を求めたことを記述したあと、彼の思想について次のように要約している(p148〜149)。

 梅岩は、自然の中の鳥やけものがそれぞれの仕方で生活をいとなんでいるように、人間にも「本心」のままに行動して、なお社会がいとなまれていくような自然な生き方=「形」があるはずだと考えた。そして、その「形」とは、みずからの勤労によって生活をいとなみ、この世の財貨を無駄に消費しないという倹約の精神であった。
 梅岩はこの考え方を、単に町人だけではなく、武士にも共通する道徳だと説いた。 梅岩の教えは心学とよばれ、多くの後継者に恵まれて人々の間に広まっていった。

@梅岩の理想とする社会は職に基づく共同社会だった

 たしかに梅岩はこのように説いた。しかしこれを単に「勤勉と倹約の精神を説いた」とのみ要約してしまうと、梅岩のこの教えの背後にある社会認識や時代認識を除外してしまい、この教えを時代を超えた普遍的精神へと美化してしまう危険がある。
 梅岩がこのような道徳は町人だけではなく武士にも共通すると考えたのは、士農工商の4身分は、それぞれ天が与えた「天職」であり、「天が与えた役儀」であるという儒学に伝統的な価値観に基づいたからであった。
 梅岩はその主著「都鄙問答」の中で、次のように述べている。
 「四民を治めたもうは君の職なり。君をたすくるは四民の職分なり。士はもとより位ある臣なり。農人は草莽の臣なり。商工は市井の臣なり」と。
 つまり天がそれぞれに社会を維持するための職分を与えたのであり、国を統治する君主を助けるといういみで、士農工商の立場は平等であり、どれも大事だというのだ。
 続いて梅岩は述べる。
 「商人皆農工とならば、財宝を通す者なくして、万民の難儀とならん」「商人の売買するは天下のあいたすけなり」と。
 つまりここでは商人の社会的役割を述べ、社会的に必要な財貨を社会の中で融通するのが商人の職分であり、商人はその役目を果たす中で利益を得るものなのだと説くわけである。そしてだからこそ商人は、自分の商品を買ってくれる人に自分は養われているのだと自覚し、相手を大切にして正直にすれば買い手が満足してくれ、こうして客は継続的に商品を買ってくれるのだと。そしてこの商品の売買の際に取る利益は社会的に容認される適正な額でなるべく少なくし、それでも暮らせるように質素倹約しておれば、少しの利益もたまり、だんだんに暮らし向きも良くなると説いている。商人の仕事も社会の重要な役割の1つであり、だからこそお客が大事なのであり、暴利をむさぼってはならないというわけだ。
 そしてこうして商人が得た財貨は、商人に商品を供給してくれる農民や職人のおかげであり、さらに商人が仕入れた商品を買ってくれた人々のお陰。さらにはその商人の店で働く奉公人たちのお陰であり、その商人の家が親から受け継いだものであれば、その家という財貨そのものも親や伝来の奉公人など多くの人のお陰で成り立っていると梅岩は説く。商人が暮らしていけるのも多くの人々のお陰であり、商人があつかう財貨も蓄えた財貨もまた社会の人々の苦労の結晶だと説くわけだ。こうして梅岩は社会を四民が共同して支える世間というように捉え、これに基づいて商人の役割や暮らし方を説いたわけである。 
 そして梅岩は、このようにそれぞれの社会的役割を自覚し、相手のことを思って仕事をするのは四民に共通したことだとして、つぎのように述べている。
 「士農工商ともに我が家業にて足ることを知るべし」と。つまりそれぞれに職は天が与えたものだと自覚し、その勤めを誠実に果たし、その仕事に満足すべきだと説いたのだ。
 石田梅岩の「勤勉・倹約」を説く言説の背後には、こうした社会観があったのだ。

A梅岩の思想はバブル崩壊後の社会共通認識であった

 さらに梅岩のように「勤勉・倹約」を説いたのは、この時代においてけして特異なものではなかった。
 梅岩が商人として活動したのは、1695(元禄8)年11歳のときから1699(元禄11)年15歳の時までの5年間と、さらに1707(宝永4)年23歳の時に、再度京都に出て呉服商黒柳家に仕えて手代を勤め、手代を辞めてそれまで独学で学んだことを基にして商人たちに講義を開始した1727(享保12)年までの20年間であたった。そして学者として市井の学者としての生涯を終えたのは、1744(延享元)年であった。
 彼が商人として活動していたのは江戸時代の経済の中心の1つとしての京都であり、その時代は、のちに学者たちが「元禄バブル」と呼んだ江戸初期経済成長の絶頂期とその崩壊、そしてバブル崩壊後の経済立て直しの時代であった。
 「質素・倹約」と「職分への忠勤」は、経済立て直しに努めた8代将軍徳川吉宗政権の合言葉でもあり、梅岩と同じく京都において、商人たちの勃興・栄華・没落の様をその内部でつぶさに眺めてきた、呉服商越後屋の 創業者・三井高利の長男・三井高平(宗竺)の「遺書」(家憲・1722・享保7年制定)やその跡継ぎの三井高房の「町人考見録」(1732・享保17年)にも説かれる徳目であった。

(a)越後屋三井家が見た「元禄バブル」
 三井高房の「商人考見録」や高平の家訓は、この「元禄バブル」とその崩壊の時代と商人のありさまを如実にしめす良い資料なので、ちょっとのぞいておこう。
   元禄時代の少し前の時代は、江戸時代初期の耕地の拡大や鉱山などの大開発、そして各地での大規模な城下町の建設などによって 経済活動が飛躍的に拡大し、人々の暮らしが豊かになった時代である。そしてその中で貨幣経済が村々まで浸透し、百姓も武士も貨幣がないと暮らしていけない世の中となったのだ。この中で社会的に大きな力を持つようになった商人の中には、巨額の私財を蓄え、幕府や大名の御用も勤める富商が生まれた。元禄という時代は、彼ら富商の財力を背景にして、都市では華麗な文化が繁栄し、武士も町人も百姓も贅沢な生活を送るようになった時代であった。この時代の風潮は、奢侈と遊興であった。
 しかし江戸初期の大開発による米の大増産は米価格の大暴落を生み出し、大名や武士の生活は次第に困窮し、彼らに依存していた富商の中には財産を失って没落するものが相次いだのだ。そして財政的にも窮乏した幕府や大名は、しだいに緊縮財政に移行して行った。つまり元禄とは、江戸初期の大経済成長が頂点に達するとともに大崩壊するという、経済の大変動期でもあったのだ。
 「商人考見録」はこの元禄期のバブル崩壊に直面して没落した商人たちのありさまを考究して、後人たちの商売の参考に資するために書かれた書物であった。
 これは見出しに48人の商人やその他には銀座・糸割符・幕府や諸大名の呉服所に関係した者や両替商の項目があげられ、それぞれが没落していくありさまを高平の意見を添えて記述している。この48人の商人のうち30人ほどの者は大名貸しによる被害を受けて没落した者であった。つまり元禄期までの豪商の多くは本業以外に、大名に金を貸すことで利益をあげていたのだ。
 この大名貸しについて高平は次のように評価している。
 「町人相手にくらべると、大名貸しは約束通りならばこのうえもなく良い取引で、人数はいらず、帳面一冊、天秤一挺でらちがあく。まことに寝ていて金をもうけるとはこのことだ。ところが大名貸しの商売は博打のようなもので、年貢米の大坂回しを担保にして貸付、その年はまあまあでも翌年になると、やれ江戸藩邸で臨時の出費がある、幕府から工事を命ぜられたなどといって、だんだん借金高が増えていく。廻米が担保になっているのを大坂へは送らず領内で現金に換え、江戸に送ってしまう大名も出てくる。初めのうちに損金を覚悟して縁を切ればよいが、大名の銀借り役人・留守居役などは元金をおとりにうまいこと言ってわなにかける。まるで油揚げにつられる鼠のようなもので、博打と同じく初めから負けると思って儲けるものはないため、あとを引いて大損をしてしまう。 」と。
 そして、貸付をうけた大名はなかなか返却をしないため、「帳面や証文の上ではかなりの利子を払うことになっており、融通したほうは儲かっているとおもって贅沢をする。」・・・こうして「勘定の上では大分の資産家であるはずなのに、その10分の1にも満たない借金のために家をつぶすことになる」と、大名貸しの危険性を具体的に指摘している。
 こうして江戸時代初期の経済成長に依拠し幕府や大名の御用を勤めたり彼らに金を融通して力を伸ばした大商人たちは、幕府や大名の財政状態が苦しくなるに従って逆に彼らに富をしゃぶられ没落して行ったのだ。したがって「大名貸しには頼るべからず」と「商人考見録」は子孫に戒めを説くことになる。
 さらにこの時代に没落したのは大名貸しに依存した商人だけではなかった。
 大名や幕府の寺社造営や土木普請などを請け負って巨万の富を築いた富商たちも、幕府や大名が緊縮財政に移行していくなかで商売に失敗して財産を失い零落した。紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などの巨万の財力を背景に遊興に耽った豪商たちである。
 「商人考見録」では「彼らのような商人の利益はばくちの金のようにすぐなくなる」と述べ、幕府や大名との付き合いはなるべく避けるようにと諭しているのだ。
 また「商人考見録」では、本業に精を出すことの大切さを説いた箇所も多い。
 大黒屋徳左衛門は長崎問屋を営業していたがつぶれてしまった。
 その理由は、「およそ問屋は客の荷物を預かり、その売りさばきを支配してわずかの口銭をとって渡世を営むものである。外から見ると大手のようにみえ、働く人の数も多くにぎやかではあるが、元来利分の少ない商売であるのに、その身のおごりからいろいろな費用が多くかかるようになる。また大欲を出し自分の考えで客の荷物を買い入れたり、あるいは客からの預かり荷の販売代金が回収できなくなる。さらに商荷物を前借りするために送り銀を他借するなどして、だんだん借銀がかさみ、利子が払えなくなってつぶれてしまった。どの商売も同じこととはいいながら、元来問屋商売はわずかな口銭を利益源として渡世をするのであるから、万事それにならってつつましくしなくては成り立たない」と。
 したがってこのような元禄バブルの崩壊によって没落した富商の例の教訓に基づき、三井高平の家訓では、本業以外の商売に手を出すことを固く禁じ、特に家業の商売以外の商品を投機的目的で買い置くことを禁じている。このような商売に手をだして利益をあげれば、それを見た手代たちも自分勝手に投機的商売に手を出し、場合によっては主人の名前で売買をして、もうかれば自分の利益として損すれば主人に押し付けるようになり、こうして商売全体が立ち行かなくなるからである。
 こうして元禄期以後に新たに勃興した商人の多くは、大名に依存せず拡大しつつある貨幣経済と都市民に依拠して富をなして行った。先に商人の勃興の項で見た、鴻池両替商や三井呉服商などである。
 その代表例である三井呉服店の店主の著した「商人考見録」や家訓に示された商売道徳は、石田梅岩が説いた商売道徳と瓜二つである。梅岩自身は大商人没落の経済的背景にはほとんど言及していないが、それは彼自身が見聞きした、時代に共通した経験であったのだろう。梅岩の言説は特異なものではなく、貨幣経済の発展の中で商人たちがつかみとった生きる知恵であったのだ。

:「商人考見録」の現代語訳は、林玲子著「商人の活動」に依拠した。

(b)特権商人没落の背景−領主経済と貨幣経済の矛盾
 石田梅岩が生きた時代は、三井呉服店の当主たちが見てきたように、多くの特権的商人が没落して行った時代であった。しかしその原因は、彼らが本業を忘れて幕府や大名に依存して富をなし、遊興にふけったからだけではなかった。彼ら特権的商人が依拠してきた幕府・大名らの米を中心とした領主経済そのものが崩壊し始めていたことに根本的な原因があったのだ。
 詳しくは次項に譲るが、特権的商人没落の背景は、幕府や大名という封建領主の財政的な破綻にあった。
 封建領主の富の源泉は、封建的領主権を背景として領内の百姓の村々から徴収する米を主とした年貢である。従って彼らは富をより多く得るためには年貢の増徴を目指し、戦国時代には領国の拡大によってそれをなしていた。しかし国内的な平和が確立された江戸時代においては領国の拡大の可能性はない。従って大名や幕府は、領内の産業の発展によって年貢を増徴する路を選んだ。それがすでに見てきた江戸時代初期の大開発であった。
 しかしこの時代においては米はすでに貨幣としての役割は失っており、米自身が1つの商品として流通する時代となっており、経済法則としての需要と供給の関係によってその交換価値・価格が決定するようになる。そして江戸時代の大開発が一段落し、各地の城下町や三都の人口増加も頭打ちになり、新田開発による新村の開発も頭打ちになってくると、都市での新たな米の需要の拡大は頭打ちになり、しだいに米は需要以上に生産されるようになり、米価は低迷する。こうなると年貢として米を収納してこれを貨幣に換えて生活している封建領主の収入は頭打ちとなり、へたすれば米価の下落によって収入減となりかねない。
 その上、武士をほとんど城下町に住まわせ、しかもそのかなりの部分を首都江戸へ集中させる体制は、武士の生活そのものを貨幣へと全面的に依存させていった。農村に武士が住んでいたときとは異なり、生活のあらゆる必要物資を手に入れるには貨幣が必要となる。そして江戸は特にまだ産業の遅れた関東にあったために、生活物資はおおいに不足し、大部分を京大坂などの上方などからの移送に頼っていた。従って江戸の物価は諸国よりも高くなる。米以外の商品の値段が高いのだ。
 さらに経済が急拡大し、今まで貨幣をあまり使わなかった村々までも貨幣によって暮らすようになると、貨幣そのものが不足していく。社会的に必要な物資を交換する手段である貨幣が不足し、貨幣の価格が上昇してしまうのだ。こうして貨幣不足による物価高騰まで生まれていく。
 こうして米を中心とした封建領主経済は次第に貨幣経済に侵食され、その力を失っていき、幕府や大名の財政は危機的なものとなり、これゆえ彼らは彼らに寄生して富を得ていた特権的大商人の富を食い物にして生きて行くしかなくなった。これが幕府や大名が次々と特権的大商人に借金を拡大していった背景である。そして借金がかさんで返却できなくなったとき、封建領主は、その領主としての政治権力を行使して、自らの借金の棒引きを行う。借金の踏み倒しか、返金しない代わりに、商人を武士に取り立てるという形での踏み倒しである。権力を握っている武士に商人は勝てない。こうして領主経済の崩壊とともに、領主に依存していた特権的大商人の多くが没落したのであった。
 商人は本業を勤勉に励み倹約してこそその暮らしはなりたつという石田梅岩の教えは、このような元禄バブルの崩壊から学んだ実践的な教訓に依拠し、それを儒学の伝統的な価値観によって理論化したものだったのだ。彼の教えは、このような領主経済と貨幣経済の矛盾が拡大する中での都市の商人や都市周辺で商業的農業を展開する富農への心得だったのだ。彼が武士の生き方に言及し、武士も商人と同じく「本業に励み倹約しなければならない」としたのは、儒学では士大夫階級こそが社会の模範であり、日本では中国の士大夫階級に相当するものは武士であり、武士は農工商の手本とならねばならないと考えたからに過ぎない。
 石田梅岩の教えはすぐれて、元禄時代のバブル崩壊とその後の再編期という、限定された時代における、商人階級の自信に裏打ちされた生活の知恵だったのだ。

:梅岩の教えは封建領主階級に対する批判が極めて少ない。そのことを持って、梅岩の思想は町人や百姓を搾取する封建的領主階級の存在を免罪する反動的なものであるという批判が、一部の学者の中には存在する。たしかに梅岩の思想を普遍化し、「勤勉と倹約」を社会の現実とは切り離して理想的な心性として持ち上げた後世の心学運動にはその側面が強い。当初は京都とその周辺の農村にしか広まらなかった梅岩の思想は、18世紀の後半には7ヵ国に広がり門弟も4・500人を数え、さらに19世紀初頭になれば関東や東北にも心学は広がり、69都町・28ヵ国に門弟が拡大し、その中には全国65の藩の大名家まで加わるという形で拡大した。そして寛政の改革をなした老中松平定信が江戸の人足寄場に心学の講師を招いて講義させたように、多くの大名家が心学者を招いて、村々の百姓に「本業に勤勉に励み質素倹約する」ことの大切さを教えさせた。領主経済の崩壊によって過酷な年貢収納という路に走り、かえって農村の崩壊を招いてしまった領主階級が、心学の講義によって農民を勤勉にさせ、そのことで年貢収納を拡大しようとしたからだ。この時期の心学運動には、封建領主の存在そのものが問題であるのにそれを免罪し、年貢を収めるためにこそ百姓は質素な暮らしをして勤勉に農業に励めという、体制擁護の運動となっていた。しかしこのことと、石田梅岩が「勤勉・倹約」を説き、封建領主の存在を批判しなかったこととは直接の関係はない。梅岩の生きた時代はまだ封建制度の解体期ではない。経済はいまだ緩やかに拡大し、封建領主もむやみに年貢増徴に走るのではなく、産業の順調な発展に依拠してその暮らしを成り立たせようとしていた。8代将軍吉宗の治世下における幕政が、百姓の要求に即して年貢を固定化する定免制を採用し、増産による余剰利益を百姓が自己の物とする道を開き、銭などの基本貨幣の大鋳造によって貨幣経済の健全な発展と安定に資するように動いていたように、封建領主と百姓・町人との利害関係はまだ鋭い対立には至っていなかったのだ。梅岩思想への「反動的」という批判は、梅岩思想を普遍的理想と美化する「つくる」会教科書のような動きや、18世紀後半から19世紀初頭にかけての領主主導の心学運動とに向けられるべき批判なのである。

(3)二宮尊徳の最大の敵は百姓の暮らしを破壊してやまない封建領主階級であった

 「つくる会」教科書は続いて「勤勉と倹約の精神」を説いた農政家として二宮尊徳(1787〜1856)をあげている。
 教科書は小学校などに設置されている二宮尊徳の銅像の写真を掲げ、これが二宮金次郎(尊徳)の子供時代の姿を写したものであることを述べた後に、以下のように彼の生涯とその思想を略述している(p149)。

 尊徳は、相模(神奈川県)の農家に生まれた。幼いとき、川のはんらんで家の田畑が水没し、10代で両親を失った。そこで伯父の家に世話になったが、不幸にくじけず、自分の力で家を復興しようとした。昼の仕事を終えた夜に、自分で植えた菜種の油からの油で灯をともして読書を続けた。
 尊徳は自分の経験から学ぶことを怠らなかった。捨ててあった苗を植えてみると一俵ほどの米がとれたのを見て、「積小致大」(小さなものを積み重ねて大きな結果を得る)という法則を悟った。やがて家の再興に成功した尊徳はそれに満足せず、小田原藩の家老・服部家に奉公して、その子弟がかよう藩校にお供し、講堂からもれ聞こえる講義で勉強した。のちに、尊徳は服部家の家政の再建を依頼されて成功し、さらに各地の家や所領の再建を頼まれた。
 尊徳の方法は、勤勉と倹約を合理的な方法に高めたもので、「仕法」とよばれ有名になった。尊徳の教えには大勢の賛同者が生まれ、報徳社という結社が成立して、明治期以降も発展して行った。

@無視された時代の性格と「仕法」の困難さ

 しかしここに主として描かれた二宮尊徳像は、家を再建するまでの幼少期・青年期に限られており、 しかも彼が家を再建するにあたっての彼の才覚の問題はまったく除外され、家を再建したのは「勤勉と倹約」だけであったかのように記述されている。
 さらに家を再建して後に、小田原藩の親戚筋の旗本領の再建など、荒れた農村の再建事業を進めて いったのだが、彼がこのような事業にとりくまねばならなくなった時代背景はまったく記述されていないし、事業に取り組む中で彼が直面した様々な困難はまったく無視され、その困難に直面する中で成長した彼の思想には一言も触れていないという欠陥が存在する。
 二宮尊徳が農村の建て直しに取り組んだ時代は、石田梅岩が活動した近世江戸時代の最盛期の元禄・享保の時代から約100年後の19世紀初頭、近世後期文化・文政から天保の時代。困窮した大名などの封建領主層が年貢増徴によって疲弊した家政を救おうとしてかえって百姓の暮らしを破壊し、しかもそこに連年の飢饉が襲った時代であった。しかも尊徳が活動したのは、梅岩が活動した京大坂を中心とした最も豊かな地方ではなく、もともと地味が悪く生産性が低い関東の農村であり、教えを説いたのは疲弊した関東の百姓と領主に対してであり、梅岩が教えを説いた豊かな地方を背景として力を伸ばしつつある商人と商業的農業で財力を蓄える百姓とは、おおいに状況が異なっている。尊徳が石田梅岩と同様に「勤勉・倹約」を説いたと言っても、その意味するところは自ずと異なるのだ。なのに教科書は、尊徳が置かれた状況については一言も触れない。
 さらに彼が大名家や旗本の所領を再建するにあたって直面した困難とは、窮乏した自家の財政を潤すために高利の借金をしてさらに窮乏化し、その果てには百姓の生活をも省みずに不当な年貢増徴をかけ続ける封建領主層の腐った精神と、飢饉と搾取によって労働意欲を失い、目先の利益だけに走ってしまう百姓の歪められた精神であった。
 彼が「仕法」を行う上で直面したのは、江戸時代近世後期の社会矛盾そのものであったのだ。
 そしてこの困難を1つ1つ解決していく中で、尊徳の心中には封建領主層や封建制度そのものに対する厳しい批判も生まれていった。しかし教科書は、これらのことには完全に口をつぐむ。
 総じて教科書が描く尊徳像は、彼の幼少期・青年期に偏っており、後半生のそれは抽象的で美化したものであり、教科書の描く尊徳像はかなり歪んでいるのだ。

A尊徳思想の背後にあるもの:家再建の過程で身についた思想

 では二宮尊徳はいかなる思想をもった人物だったのか。
 まず最初に、彼が家を建て直すまで の行動からその思想を探ってみよう。

(a)合理的な金銭感覚
 彼が家を再建するにあたっては、「積小致大」の考え方に基づく「勤勉と倹約」の精神があったことはたしかである。
 しかし二宮尊徳という人物のすごさは、その行動がもっと合理的な思考方法に基づいていたたことにあるのだ。
 彼が家を再興するにあたってなしたことは、亡父が借金のために売り払ってしまった田畑を買い戻すための元手となる資金をためることであった。
 彼は1804(文化元)年17歳のときに伯父の家を出て村内の名主の家に奉公して給金をため、やがて1806(文化3)年には亡父が質に入れた下々田9畝10歩を3両で買い戻して生家に戻っている。そして買い戻した田畑は小作に出して自身は小田原城下に出ての賃仕事などに精を出し、小作地から上がった米や麦と賃金をすべて使わず、余る分を低利で近在の百姓に貸し付けて増やし、さらに田畑を買い戻す資金としていった。そして1810(文化7)年24歳のときには、こうして貯めた資金を元手に1町4反5畝の田畑を所有するに至った。 またこの年彼は伊勢参宮のついでに京大坂をめぐり、帰宅して後に家を大規模に修理し、一応家の再建をなしたのである。

 :彼の父二宮利右衛門が1778(安永7)年ごろに相続した田畑は2町3反6畝余りであったので、その過半を買い戻したことになる。彼の生家は貧農ではなく、戸数50戸の村の上層百姓で組頭格であったのだ。

 彼が家を再建するにあたって利用したのは、現金稼ぎの賃仕事と田畑の小作化、さらに手に入れた米や現金を低利で貸して増やす金融業であった。二宮尊徳は極めて金銭感覚に優れ、金が金を生む仕組みまでも利用したのだ。
 また家再建後の1812(文化9)年26歳の時に、小田原藩の家老の服部家に中間として奉公したのも、買い戻した田畑を小作地にして、自身は賃仕事にさらに精を出して資金を増やし、残りの田畑も買い戻すためであった。そして服部家に奉公して得た賃金を節約してためてそれを元手に朋輩に 銭金を貸して増やし、そうして得た 銭金で借金のために売り払った田畑を買い戻し、その田畑を小作にだして耕作して取れた米や麦を さらに服部家の朋輩や近在の百姓にも低利で貸付けて増やしたり、米や麦の相場を良く調べておき良い条件の下で売買するなどして資金を貯めて行った。
 こうして尊徳は田畑を買い戻して、1815(文化9)年29歳のときに村に帰り、さらに1817(文化9)年に妻を迎えたときには、小作に出してあった田畑の大部分を自作に戻し、金次郎は一人前の百姓として 暮らすようになった。この時所有した自作地の広さは2町余りにおよび、尊徳は完全に生家の再建を成し遂げたのであった。
 彼が生家を再建したのは、「勤勉・倹約」の精神だけではなく、きわめて合理的な金銭感覚があったことを教科書の記述はまったく無視していたのだ。そしてこの合理的な金銭感覚は、後に農村を立て直すときに大いに役に立った。

(b)強烈な平等互恵思想
 
尊徳が資金を貯めていくとき、米や銭金を同輩や近在の百姓に貸し付けて資金を増やしたのだが、その方法は、高利貸しのように闇雲に高利で資金を貸し付けて取り立てるというものではなく、もっと平等互恵的な思想に基づいた合理的な方法であった。
 1つは極めて低利であったということ。それもその時々の米や銭金の相場を熟知していて、世間相場より低利に設定されており、借りる方にも利子の返済などで困らないように工夫されていたことである。
 2つ目に彼が貸し付けた資金は彼自身のものだけではなく、朋輩や近在の百姓からも銭金を預かって貸付、それを増やして戻したことである。つまり彼の貸付は自己資金だけではなく、預かった 銭金を貸し付けて増やすという金融業なのだ。
 さらに重要なのは、尊徳が銭金や米を相手に貸すにあたっては、貸し付ける相手1人1人の生活の設計を考えて、その借金の返済から将来の生活に備えての貯蓄の面倒を見たことである。 また服部家の朋輩の女中にたいしては飯の経済的な炊き方を教えて、節約した薪代を主人に代わって金銭で払い、独立して一家の主婦となるときの心構えまで教えたという。
 つまり人に金を借りて生活する者は、放置すると借金が嵩んで金を返すことも難しくなる場合が多い。尊徳は金を貸したものがそうならないように、相手の生活の程度や収入・借金の額などを考慮に入れて、きちんと借金も返して暮らしが成り立つような暮らし方の計画を立てて指導してやったということだ。単なる金貸しではないのだ。
 ここには後年の農村の建て直しの中で行われた、「分度を立てる」ということと同様な思想が見て取れる。
 それは、人はその収入(これが分度)に応じた暮らしてしていれば困窮することもないという思想である。そして暮らしが困窮して借金までしてしまうのは、その人の暮らしが分 度を越えているからだと考える。従ってまずその人の収入や支出そして借金の返済状況などを調べて現在の分度を立て、その分度の範囲内で暮らすように指導する。そしてこの計画に従って暮らせばやがて借金も完済し、暮らしも良くなるというものである。
 ここには単にお題目のように「勤勉・倹約」を説くのではなく、それぞれの事情に応じた分度を立てて生活を成り立つようにする計画をそれぞれの事情に応じて立てるという、きわめて合理的な精神が介在している。さらに金を貸すものが金を借りたものの暮らしが成り立つように指導するという姿勢には、金を貸すことが単なる利殖の手段ではなく、「暮らしに余る財貨を持っているものが足りないものに融通する」という、後年仕法の中で練り上げられ「推譲」と名づけられた社会的な平等互恵思想が脈々と流れてもいる。
 尊徳は百姓が手にするものは「天の恵み」だとよく語っていた。つまりその百姓個人のものではなく、天が世の中全体に与えた恵みだというのだ。だからその恵みを手にしたものはその恵みを無駄に使わないように倹約して生活し、余ったものは個人の利殖ではなく世のために役立つように投げ出せと、後世には「推譲」という思想を説明していた。
 後年になってこのような形に形成される思想が、青年期における金融活動の中にも流れていたに違いない。尊徳流に考えれば、 銭金や米を融通して得た利息は、自分が余したものを困っているものに融通してその暮らしを立て直したことに対する天の恵みと考えていたのであろう。
 尊徳の思想の中には、人間はみな平等であり、互いに助け合ってこそ生きていけるという平等互恵の思想が流れている。そしてこの思想が後年の農村建て直しの事業で全面展開される中で形をなしたのだ。

B尊徳「仕法」の特色

 尊徳が後年、大名や旗本の家政と領地の再建を依頼されるきっかけとなったのは、彼が以上のようにして自家の建て直しに成功した過程をつぶさに知った小田原藩家老である服部家から服部家の家政の再建を依頼され、長い年月を要したがそれに成功したことであった。そしてその過程で彼の手腕を見込んだ服部氏が、主家の大久保家の分家筋で財政難のために出仕すらできなくなっていた旗本の宇津家の家政と領地の建て直しに尊徳を推薦し、 藩主大久保氏がそれを採用したことにあった。さらにその宇津家領の下野の国桜町領の農村再建と宇津家家政の再建を10年ほどの年月で実現したことが彼の名声を広め、さらに多くの大名や旗本から領地と家政の建て直しを依頼され、最後には幕臣に取り立てられ幕府領の再建までも請け負う仕儀となったのだ。
 また後の項目で詳しく見るが、彼が活動した19世紀初頭の時代においては、多くの大名・旗本が生活に困窮して年貢増徴策に走り、ためにそれらの領地の村々も困窮して疲弊し、さらに状況が悪化することが各地で繰り広げられていた。このためこの時代には各地で、農村建て直しの方策が様々に立てられ、それを「仕法」と呼んでいた。その中には石田梅岩の思想をこの時代に適用し、百姓たちに「勤勉・倹約」を説く心学運動も含まれていたが、多くの「仕法」は極めて観念的に百姓にその道徳を押し付けるものであったり、単に領主の家政を再建するために年貢増徴を図るものが多く、多くは失敗していた。その中で尊徳の仕法だけが成功したのだから、彼が注目されたわけである。

:教科書の記述では、尊徳のやり方だけが「仕法」と呼ばれたかのような書き方になっているが、これは誤りである。当時世間で行われていた農村・家政の建て直し事業そのものが「仕法」と呼ばれていたのだ。

 では尊徳はいかにして大名や旗本の家政と領地の再建に成功したのか。その思想と方法を簡単に見ておこう。

(a)武士にも百姓にも「分度」を説く
 尊徳は自己の仕法の要点は、それぞれの「分度を立てる」ことだと後年語っている(「二宮翁夜話」巻の4・165話)。
 「私の方法は、分度を定めるのを根本とする。この分度をしっかりと立てて、これを厳重に守れば、荒地がどれほどあろうと、借財がいくらあろうと、恐れることもなく、憂えることもない。私の富国・安民の方法は、分度を定めるという一点にあるからだ」と。
 これが尊徳思想の根源である。
 「分度」を守って暮らすことを「分限を守る」とも言うが、通常はこの分度・分限という言葉は「身分相応」などというように、それぞれの身分や役割を守るという意味に使われ、封建的な家父長的な上下関係を維持する思想と受け止められている。その思想を尊徳は意味を変えて使っているわけである。尊徳の使用した意味は、「それぞれの現在の経済状態」とで も言う意味であり、それ自身には何の価値判断も加えていない客観的状況という捉え方である。
 したがって尊徳流に考えると、「分度」という「それぞれの現在の経済状態」を踏まえて生活すれば、積みあがった借金でも手がつけられないほど増えた荒地でも時間をかければ解決できるということになる。そのため「分度」を守るためには、さまざまな付き合いや趣味などはしばらく遠慮するしかない。付き合いや趣味は、分度を守って家の経済を立て直したあとで、多少の余裕が出たら再開すればよい。その際でも見栄を張って必要以上の贅沢をするとまたそのときの分度を超えた生活になるので、心して暮らしは質素で倹約したものでなければならないと考えるのだ。
 この考え方を尊徳は、家政の建て直しを依頼した武士にも、そして村の建て直しを依頼した百姓にもきつく守るように要求した。
 そのため尊徳は、農村の再建のためには百姓も領主も、それぞれの分度に応じた生活をし、できた余裕はすべて荒地を開墾したり道路や用水路を作ったりという農業のための基盤整備にまわし、それぞれの生活を元に戻すための資金として活用することを説いた。特に領主の場合には、領地が荒れて激減した年貢収入を基礎にしてその暮らしの分度を立て、村の建て直しに応じて年貢収納が増えてもそれをそのまま消費せずに、増えた分はそのまま農村再建のための費用として拠出することを要求した。そしてこれが守れるように尊徳は、村の一人一人の百姓の財産・収入や生活の程度を調査してそれぞれの「分度」を具体的に示すとともに、領主に対してもその家政の状況を公開させ、無駄を省いた生活をするように要請したのだ。
 この尊徳が設定した分度を百姓も領主も守って村の再建と家政の再建に努めた所は、一定の年月を費やせば必ず再建できた。しかし分度を守らず尊徳の要求を拒否したところの再建はままならなかったのである。

(b)世のために自己の余裕を拠出する「推譲」を武士にも百姓にも説く
 だがそれぞれの分度を決めてそれに応じた暮らしをさせて再建しようとしても、その経済状態の破綻の程度が酷く、分度を定めようがない百姓や村や領主が存在した。自分の力で暮らしを再建できないほど破綻したものが多くあったのだ。
 このような者に直面したとき尊徳は、まず最初は自らの蓄えを無利子で貸し与えてまず借金返済額を大幅に減額することによって、その者の分度がなりたつようにした。
 尊徳は初めて下野の国の桜町領に代官として赴くときには、自己の家や田畑の多くを売り払って得た76両余り(910万円ほど)の資金を持っていった。これを元手にして分度を立てようがない百姓に無利子で融資したのだ。そして桜町領の村々を立て直す過程で、村々の収入に余裕が出てきた場合には全てをその村の農業基盤の整備には充当せず、報徳金として積み立てておいた。この村の積立金が、後には村内の分度の立たない百姓への無利子の貸付金となったし、場合によっては、建て直しの必要な近村への無利子の融資となったり、尊徳が建て直しを依頼された遠方の村への無利子の融資となったのだ。
 尊徳は、このように自分自身のためではなく世の中一般の建て直しのために自身の余裕を拠出することを「推譲」と呼び、このような高い道徳性を持った百姓を育てようとしたのだ。
 また「推譲」は百姓だけではなく、武士にも求められた。
 先に見た、領主が農村の建て直しが進むに応じて増えた年貢を消費せずに蓄えておき、それを農村の建て直し資金に投入することも広く考えれば「推譲」である。だがこの場合は自分の領地の村の再建に投入するのだから、その結果、将来的には自分の年貢収入を増やすことになるのだから、それだけでは世のため人のためとは言えない。尊徳は、領地の再建が進んだあとも、領主に対しては厳しい「質素・倹約」の生活を要求し、領主だけではなく家臣団の俸給やその生活程度にまで手を伸ばして「質素・倹約」を要求して華美を戒め、さらなる余剰の蓄積を要求した。そしてそれは将来の飢饉への備えであると同時に、他の藩などの領地建て直しのために使われるべきであるとしたのだ。他藩のことも考えよ、他藩の領地の百姓のことも考えよというわけである。

(c)合理的な係数感覚に基づいた実地調査を基礎とした
 こうして尊徳の農村建て直し・領主の家政の建て直しは、厳しくそれぞれの分度を立ててそれを守った生活を続けながら、余ったものを農村建て直しのために投資したり、それでも余ったものを蓄えておいて、他領や他藩のためにも援助することを要求して、世の中の人々全体が、身分を越えて助け合うことを説くものであった。
 従って尊徳の「仕法」では、こういった道徳論を説く基盤として、それぞれの分度を立てるための合理的な調査が必要であった。
 尊徳は建て直しに当たって当該の村々の実情をつぶさに調べ上げ、表高と実際の年貢収納高との差を、短い場合には10年間の実績を、長いばあいには180年間もの実績を調べ上げて 、今後の領主の分度を定めて再建計画をたて、さらに、村人一人一人について借金がいくらあり、家族何名、食料在庫何俵という数字を1つ1つ押さえながら、村全体を動かして荒地の開発に取り組んだのだ。
 そして彼が荒地を開発する場合にはやみくもに行うのではなく、人家や用水路に近い比較的取り組み易い土地から手をつけて収穫を上げ、村の余力ができ次第、残った荒地にも順次手を入れるという合理的な取り組み方をしていた。
 たとえば1844(弘化元)年から再建に携わった陸奥相馬藩の場合には、寛文年間から弘化年間までのおよそ180年間の年貢収納状況を調べ、これを60年ずつの3つに区分してその平均をとって参考数値とするとともに、180年間を前半の比較的安定した時期と後半の天明・天保の大飢饉を含む時期に 2分してそれぞれの年平均収納高を算出した。そして今後10年間の年貢高を決めるにあたっては、年貢収納高の少ない後半の時期の平均に最近10年間の平均を足して2で割り、その額を今後の10年間の相馬藩の分度として定めている。これもまた長期的な見通しに立って、長期にわたる年貢収入の実態に基づいた合理的な判断と言えよう。

C尊徳仕法の成功例:下野桜町領の場合

 尊徳仕法の具体例として、彼が再建を請け負った宇津家・桜町領の例を見てみよう。
 1821(文政4)年に、小田原藩大久保家の分家の旗本宇津家の財政と領地である下野桜町領の建て直しを命じられたとき、尊徳は、同年の8月から1823(文政6)年の3月までの間に、小田原・江戸・桜町の間を6回往復して現地を調査し、建て直しのための詳細な調査書を作り上げ、それに基づいて今後10年の見通しを立てて、桜町領建て直し計画を提出している。
 桜町領は3ヶ村からなり、1698(元禄11)年には戸数400・人口も1900人余りを数え、領地の石高は4000石余りで、年貢収納量は米3100俵、畑からの年貢は200両を納めていた。しかし積年の領主の苛政と百姓の逃亡などによって村の戸数も156戸・人口749人と激減したため荒地が増え、1812(文化9)年から1821(文政4)年までの10年間の平均では、年貢米が962俵、畑の年貢は130両余りへ激減していた。尊徳は詳しい現地調査と最近10年間の年貢収納などの実情を調査し、これを元に再建計画を立てたのだ。
 尊徳の調査によると、桜町領の石高4109,118石のうち、水田が2524.231石、畑が1584.887石なのだが、実際は水田の3分の2、畑の8分の3が荒地と化しており、年貢として水田に約45%畑に約30%を掛けても、1822(文政5)年の実績でも米1005俵余り、畑の年貢127両しか収納できなかったのである。実に表高の3分の1。しかも村人全体の借金の額はおよそ1000両、さらに領主宇津家の借金も江戸の商人から数百両・本家大久保家からも600両あまりの借金を抱えていた。宇津家・桜町領は荒廃しきっていたのだ。
 そして尊徳はこの結果をグラフにして(図1参照)、桜町領の現状が一目でわかるようにした。

図1:尊徳が作成した桜町領の現状を示すグラフ(左:実物 右:説明の模式図)

 この図は、縦10ます横10ます、合計100ますの方眼をつくり、桜町領約4000石の現状を図示したものである。したがって1ますが約400石の田畑を表し、左からたて4列が畑を示し、右側6列が田を示している。そして年貢率を平均で4割と考えて、上の4列が年貢量を示す「公田・公畑」とし、下6列を百姓の取り分である「私田・私畑」とした。さらに、現在荒地となって使えない「荒畑・荒田」を青色として、灰色で表示した収穫できる「生畑・生田」とを色分けし、最後に現在年貢を収納している生・公田畑を朱色で明示したものである。こうすれば、荒地が畑の8分の3・田の3分の2に及んでおり、年貢収納量が本来のそれよりも大幅に減っていることが一目でわかるようになる。朱色で表示された右肩の部分が現在1005俵余りを収納している米年貢分であり、左肩の朱色で表示さレた部分が現在127両を収納している畑年貢分である。すさまじいまでに桜町領が荒廃している様が一目瞭然だ。
 またこの図は、今後の開発計画と当面の年貢高を考えるにも好都合なものだ。
 昔のように豊かな年貢を収納したければ、荒地となってしまった部分を開墾し田畑に戻せばよいことが良くわかる。現状のままで年貢率を上げてしまえば、百姓の暮らしが完全に破壊されることも良くわかる。そして荒地の開墾が進み田畑として使用できるようになれば、年貢率を上げなくても自然と年貢高はあがってくることもよくわかる。この図は桜町領の現状と未来とを見通すための優れた道具となっているのだ。
 そして、尊徳は次のように提案した。
 1823(文政6)年からこんご10年間の年貢は文政5年の実績の1005俵に留め置き、建て直しの結果それを上回った分はすべて立て直し費用に回すこととし、10年後には年貢米を2000俵にまで回復させると。
 こうして尊徳の詳細な実地調査と統計資料に基づく具体的でわかりやすい再建計画の提示を受けた宇津家と小田原藩大久保家は、尊徳の提案を受け入れて、10年計画で農村立ちなおしにとりくむこととなった。
 つまり尊徳は詳細な実地調査と長年の統計資料に基づく合理的な再建計画を単に言葉で説明するだけではなく、現状が一目瞭然にわかる数量グラフを提示して、領主宇津家に説得したのだ。彼の合理的な精神と柔軟な思考が見て取れる。

:この数量グラフは、板倉聖宣がその著「二宮尊徳と数学」で日本で最初の「量率グラフ」として提示し、彼の合理的な精神に注目した論考に示されたものを転載した。尊徳は特別な学問をしたわけではなく独習や耳学問として儒学や仏教教学を学んでいたわけだが、このような数学的思考方法をどこで学んだのであろうか。 尊徳が特別に学問をした人物ではないことに鑑みれば、江戸時代後期の人々にとってこれぐらいの数学的知識・思考方法は一般的であったということか。興味深い事実である。

 さらにこの尊徳の説得を宇津家が受け入れると、尊徳は私財をすべて売って得た資金76両余りを仕法資金として持参して桜町に赴任し た。そして、村人一人一人について借金がいくらあり、家族何名、食料在庫何俵という数字を1つ1つ押さえ、家の建て直しのために多額の借金の返済や必要な農具などが不足している百姓には仕法資金から無利子で融資して支え、さらには村の百姓で勤勉に働くものなどを表彰して村人のあるべき姿を示したり、また村の共同作業の指揮を取る百姓を村人の入れ札で決めさせるなど、村全体を動かして村が共同体として自立的に動いて再建に取り組むよう促して、荒地の開発に取り組んだのだ。
 尊徳は以上のような合理的な実際的な調査に基づいて、百姓や領主を動かして農村の建て直しを行った。
 ただし尊徳がやったことは単に荒地の開発だけではなかった。彼が後年人に当てた手紙の中で桜町領の再建について次のように述べていた(天保12・1841年。 小田原藩の鵜沢作左衛門あての手紙)。
 「田畑・荒地開発のことはもちろん、道をつくり橋をかけ、人馬の通路をわけ、あるいは川を掘り、溝をさらい堤防を築き、水路をわけ、竹・藤・つた・いばら・荻・萩・すすきなどを刈り捨て焼き払い、地形によって高地を掘り下げ低地に土を盛って高くし、あぜ道をつくり、なおまたお堂・神社・民家の荒廃したものを修理し、つぎに百姓の分家・入百姓を取り立てて新築の家をあたえ、農具・飯米を恵み、約10年を経過して土地はだいたい開け、民家も豊かになり村勢も昔にもどり、収納も最初の年の二倍になりました」と。
 彼がなしたことはほとんど、領主である宇津家がすべきことであった。一介の百姓出身の一代官が領主に代わって村人の生活を立て直したのである。こうして桜町領はほぼ10年を経た1831(天保2 )年には、戸数も164戸と8戸増えて人口も79人増え、年貢収納額も1894俵と以前の1000俵余りのほぼ倍となって、村は立ち直った。
 しかしこれで桜町領の再建は終わったわけではない。領主宇津家の家政を建て直し、今後領地に対して苛政をしなくてもすむようにしなければ村はまた荒れてしまう。
 尊徳が次に取り組んだことは、宇津家の財政の掌握と家政の再建計画の策定であった。
 尊徳は1829(文政12)年、すでに宇津家の家政の実態を把握し、領主の食費や光熱費などを節約するとともに、下男・下女の給料を削減し、さらに1831(天保2)年には宇津家家臣の高利の借金49両の返済を立替え、そのうえさらに1200両を永続手段金として宇津家に献納してこの利子で収入の不足を補い、再建完成後に本家大久保家からの年200俵 の米・金50両の援助金が断たれても暮らしが成り立つように工夫した。
 こうして桜町領は1836(天保7)年には173軒857人、1853(嘉永6)年には188軒・1103人へと復興し、宇津家も積立金8500俵と金210両の蓄えができて、当主は天保8年にようやく出仕ができたのであった。

D尊徳仕法が直面した「壁」とその「可能性」

 しかし何故一介の百姓であった尊徳が、本来は領主がやるべき 村人の生活を支える事業を行い、しかも私財までも投げ打ってそれを成し遂げなければならなかったのだろうか。そしてなぜ尊徳が「分度」を守る生活を強調しなければならなかったのか。
 これは元禄・享保期から続いたバブル経済とともに広がった贅沢な暮らしが、武士にも百姓にも身に染み付いていたからである。

(a)耕地が荒れ果てた背景は?
 元禄期以前の武士や百姓の暮らしは慎ましいものであった。よほどの裕福な者でなければ着物なども自分で仕立てたし、百姓は着物の生地そのものから自分で織って手に入れた。このように元禄期以前の人々の暮らしは、かなり自給自足的であったのだ。
 もちろん農業そのものも中世からかなりの程度商業的農業となり、市場の動向を睨んで生産するものとなっていた。しかし市場がまだ限られた範囲のものであったので経済規模はまだそれほど大きくはなく、従って人々の日常生活そのものは、自給できる範囲に限られていたのだ。
 しかし江戸時代初期における大開発と大都市の成立は全国市場を成立させ、経済規模は拡大を続けた。
 それに伴って現金収入も増えて、百姓たちも手元に多額の金銭を蓄えるようになる。そして都市に集住させられた武士たちの間には、それまでの生産と結びついた暮らしから完全な俸給生活の消費者となるに及んで、より豊かな生活を求める傾向が強まった。またこの傾向は戦乱が収まったことによって、それぞれの暮らしを華美に豊かに 装い飾ることが、それぞれの優劣を競う手段とな り、武士たちの間には様々芸能が流行し、都市の町人たちもそれに倣ったのである。
 この都市生活者の華美な風潮は次第に農村部にも広がり、百姓も衣服や身の回りの品を貨幣で買うようになったのである。農村部まで華美な生活が広がった。だが農業は常に自然との闘いである。飢饉は忘れたころに周期的に襲ってくる。だから後に「慶安のお触書」として出回ったように、この時代に飢饉が続く中で幕府や諸藩が百姓に対する生活指針として、 商業的農作業に精を出すとともに、華美な生活を慎むことを説いたのだ。
 しかし経済成長が続く中では、時々襲ってくる飢饉の恐ろしさは一過性でしかない。だから華美な生活は百姓も武士も続けた。
 その結果収入が足りなければ借金をしてでも華美な生活を維持しようとして借財を重ね、それがかえって生活を圧迫する。 百姓も米が売れるから全部売ってしまい、来年の種籾が不足するとそれを買い、買うための金が足りなければ借金までして農業を進めようとする。そこへ飢饉が襲えば借金は返せなくなって百姓は村を捨て、領主の年貢収入はさらに不足する。
 そうなると領主はすぐに年貢を増徴して借金返済と華美な生活の維持に当てようとする。そしてこれはそのまま百姓の生活を圧迫し、百姓もさら借金して暮らすようになり、かえって百姓も暮らしがなりたたなくなる。こうして暮らしを成り立たせる見通しを失った百姓は年貢を取られる田畑の耕作は放棄して年貢を取られない裏田畑での商品作物栽培に精を出し、現金収入をえようとする。これに対して領主は先例を無視して裏田畑の作物にまで年貢をかけるようになり、生活に困窮した百姓は一揆に訴えたり、果ては田畑家屋敷を捨てて都市に逃亡したりする。
 尊徳が百姓も領主もその「分度」を守って暮らし、できた余裕はすべて耕地開拓や農業の基盤整備に投入させようとしたのは、以上のようなバブル経済の崩壊期から続く貧困の連鎖を断ち切ろうとしたからであった。

(b)尊徳仕法が直面した封建制との矛盾
 だが尊徳の仕法はかならずうまく行くわけではなかった。
 尊徳仕法の眼目は「分度を守ること」である。武士も百姓も現在の収入に見合った質素な生活を要請された。そして暮らしが立て直るにつれて増えた収入は消費することが許されず、村の再建のための基盤整備に投入することを要請される。またこの取り決めを破った場合には、厳しく叱責され責任を追及される。だから華美な生活に慣れた武士や百姓の反感を受けることとなる。
 たとえば百姓の場合では、再建途上では飲酒が禁止されていたのに酒を何樽も買い置いて飲んでいた名主クラスの百姓が罰せられ、お役ご免の上罰金までとられている例もあった。しかも立て直しに入る前は、村の名主などの中には領主の代官に取り入って荒地の現状を過剰に申請して年貢を減免してもらい、その裏で耕す者もおらずに荒地となった田畑を密かに耕して自分の収入を増やしていた例もあったが、尊徳が代官となってからは実情を把握して仕法を行い、荒地には百姓の分家や他領からの百姓に分け与えて耕作させるから、裏の収入も取り上げられてしまう。そういうわけで、百姓出身でしかもよそ者の尊徳が代官となって命令することに反感を持 つ有力百姓が現れ、それが尊徳に反感を持つ代官などと結託して尊徳の仕法を妨害する。尊徳はその対策に追われることとなるのだ。それでも百姓には村の復興ぶりが日々の労働で実感できるから 、時間をかければなんとか我慢もできよう。
 武士の場合は主家の財政が分度にそって削減されれば、その家臣の給金も大幅に削減される。百姓には分度を守った質素な暮らしをして余りを田畑の開発に注げば将来暮らしが楽になることが、日々の労働を通じて具体的に実感されるが、武士にはそれがない。しかも領地に実際に赴いて尊徳とともに農村建て直しに取り組んでいる武士なら多少はその実情もわかるだろうが、江戸にいて給金で生活しているだけの武士にとっては、建て直しの結果年貢収納高が増えても給金は据え置かれ、日々貧しい生活が続くだけである。しかもこれを強いるのは、領主の家政をも掌握した百姓上がりの代官の尊徳である。百姓のくせに不埒な。家政と領地の再建を進める領主の 家中には、耐乏生活を強いる尊徳に対する不満が充満することとなる。
 このため、尊徳の仕法が成功するためには、尊徳の仕法に共感して家中の不満を鎮めるために、家臣の暮らしを成り立たせるための下賜金や下賜米を出したり、藩の財政支出によって困窮した藩士が共同で助け合う五常講のような組織をつくったりする政策を実行する藩主や家老などの援助が不可欠なのであった。
 また尊徳仕法が成功するためには、村の百姓の中に、尊徳の思想に共鳴し彼に積極的に協力しようとする人々の群れが組織されることが必要である。
 そして尊徳は従来の代官のように時々江戸から出向いてくるのではなく、常に村に住み、百姓とともに村中を歩き回って一緒に作業しながら再建の進め方を人々に説き、場合によっては生活の苦しい者には自らの仕法金から無利子で融資までしてくれるのだから、村の百姓の中に尊徳の信奉者が多数現れるのは必然である。しかもそれは従来からの村の有力者ではなく、尊徳によって引き立てられた百姓の分家や他領からの入百姓である。村の中で尊徳に共鳴する百姓が増えれば増えるほど、村の有力者や武士の中に尊徳に対する反感が拡大する所以である。尊徳の言動が、村のこれまでの身分関係を破壊してしまうからである。
 こうして尊徳仕法のまえには、ただ百姓から年貢を取り立てることだけを考えていたり、役目について良い思いをすることだけを考えていた武士と、それと結びついていた村の有力者との反尊徳連合が形成される。そしてこの動きが領主の家中で一定の力を持つに及ぶや、尊徳仕法は頓挫してしまうのだ。
 尊徳の進言にも関わらず復興に従って増えた収納高に沿って年貢が増徴されて、復興でついた余力がさらなる復興資金に回されず、結果として復興が後戻りしてしまったり、尊徳仕法に沿って建て直しが行われる場合でも、尊徳自身が直接村に乗り込んで復興を差配することは許されず、従来の藩中枢−郡代官−代官の系列で仕法が実施されたことで、百姓である尊徳の実際的な観察に基づいた仕法や百姓一人一人の心をつかんだ指導が行われず、結果として農村建て直しができない場合が起きたのだ。前者の例は、尊徳が1831(天保2)年から1848(嘉永元)年まで再建に関わった旗本川副家の領地である常陸真壁郡青木村の例であり、後者の例は、1837(天保8)年以後行われた小田原藩の例である。他には尊徳仕法に共感してそれを進めた家老を更迭して仕法を失敗に導いた下野烏山藩の例や、尊徳仕法を単なる荒地開墾だと考えて彼が領内に住んで村人を指導することを許さず、用水路建設や干拓工事の指揮をさせた幕府領の場合などもあり、尊徳仕法は必ずしも支持されなかったのだ。
 尊徳の仕法の特色は、百姓にも領主にも「分度」を守った生活を要請し、さらには再建によって得た余剰を他の村や他の領主の再建に拠出する「推譲」を要請するものであった。したがって領主には百姓の暮らしを立て直すために必要な資金の拠出を強制され、そのために質素・倹約を要請される。これは言いかえれば、一介の百姓にすぎない尊徳が、封建領主の領主権限に介入してそれを代行かつ制限して、領主が村から必要以上に収奪することを阻止するものである。従来の封建領主権を前提とすれば、これは違法な領主権限への挑戦である。しかも百姓あがりの尊徳がこれを領主に「命令」するのであるから、古い考え方の 者であれば、尊徳と彼の信奉者を排除しようとするのは当然であったろう。
  こうして尊徳の仕法は、封建制度を敵視したものではなかったにもかかわらず、村と領主の暮らしの再建のためには、必然的にその力関係を調整しなければならなかったゆえに、封建制度そのものに激突してしまったのだ。

:尊徳仕法の中で成功例としてあげられる前記の宇津家・桜町領の再建の過程でも、彼の仕法への反感で村の有力百姓と代官としての尊徳の上司が結託して、彼の仕法を妨害する事態が生じている。しかもその現状を詳しく書き記して代官職を辞する書簡を小田原藩に送っても上司の交代で握りつぶされ、ついに尊徳は桜町領を出奔して行方知れずとなったことがある。1829(文政19)年の春のことであった。この時は事態の変化に驚いた桜町領の尊徳支持者たちが動いて尊徳の行方を尋ね、同時に宇津家と小田原藩にこの背景と実情を報告したことにより、尊徳の仕法を妨害した上司の代官の解任と結託した百姓の処罰が行われた。そして、成田山新勝寺に参篭していた尊徳が呼び戻され、尊徳仕法は彼の考えどうりに施工されることとなった。桜町領の再建成功の影には、尊徳の手腕を買っていた小田原藩主大久保忠真・家老服部氏の存在が大であり、小田原藩自身が財政難に苦しみながらも宇津家に毎年200俵の米と金50両の援助金を10年間にわたって出し続けるという援助と、小田原藩が尊徳の進言に基づいて300両の藩金を元手にした五常講を実施して藩士の生活苦を救い尊徳仕法への不満が充満することを防いだこと、そして尊徳仕法を理解した宇津家と小田原藩大久保家が、15年間にわたって総額1万8900両(約22億6800万円に相当)の復興資金を投入したことが背景にあったのだ。

 困難な仕法を進める中で、尊徳は次第に封建制度とその下での人心の混乱に対する批判の目を育てていった。
 尊徳は田畑が荒廃する原因を一般論としてだが厳しく現状を批判している。
 「田畑が荒れると、勤勉でない百姓のせいにし、人口が減少すると、間引きの悪弊によるというのが普通の論であるが、どんな愚民だからとて、ことさら田畑を荒らして自分が困窮するもとを作る者があろうか。・・・その原因は、租税が重くて堪えきれないで、田畑を捨てて作らないのと、民政が行き届かなくて、堤防・田の溝・道橋が破壊して耕作ができがたいのと、博打が盛んに行われて、風俗が退廃し、人心が失せ果てて耕作しないのと、この三つである」と(「二宮翁夜話」巻4の136話「国家衰亡の元」)。
 さらにまた、桜町領の荒廃の原因については具体的に次のように述べていた。
 「こんどの復興仕法は、村勢復興・年貢回復であって、とてもかけもちのお役人の仕事では不可能と思われる。たとえ移転常住しても、近年の流行の気風か、農民の将来の困難を考えず、その場だけの手柄を殿様のために役立つなどと言いつくろって欺瞞し、年貢増強のことばかり努力し、立身出世の褒美を内心にもつ人物では不適当と思う。・・・・寛永の昔から寛文年間までこのような家臣が政治を行っていたとの言い伝えを聞いた。・・・・初代の殿様の時代、元禄年中から享保年中まで、ひどい家臣の悪政が行われた。新田・新畑・屋敷地の打ち出しによる年貢の増強の例が年貢割り当て書にたくさんある。およそ100年間、農民を害し、年貢3000俵余を取り立てた罪状が天に通じたのであろうか、・・・人口も年貢も減少し、わずか1000俵の米と畑の年貢127両という形だけの中身のない状況となってしまった。」と(「1828・文政11年の尊徳の桜町領代官辞職願い」)。
 尊徳は封建制度の矛盾の中で荒廃した人心の現状に気づき、その制度への批判を強めていったのだ。

(c)村の百姓自身による「自主管理」を内包する尊徳仕法
 だが尊徳は、とくに領主側の無理解を公然と非難することはしなかった。
 彼がもちいた方法は、共感者の育成と従わない者への説得と成果への賞賛であった。
 彼は自分に教えを請う人々には、武士であろうが百姓であろうが分け隔てなく、倦まず弛まず自分の考え方と実情を説明し、村の再建のための具体的な方法を教示した。そして彼の思想は人間を身分によって分け隔てするものではなく、人は皆それぞれの分を天から与えられて支えあって生きているという平等観に立っていた為、彼の周りには常に彼に教えを仰ぎ、彼の方法を身につけ、自分の村や自分の藩を立て直そうとする優れた人材が武士・百姓を問わず寄り集った。
 尊徳の仕法の性格を今日的な観点で性格づけてみれば、それは村を百姓自身で自主管理するというものであったろう。
 農業は天の恵みである。太陽の恵みと雨の恵み、それに地の恵みが合わさって、それらを熟知している百姓が大地と作物に精魂を傾けて手を掛けるとき、耕地は天が定めただけの恵みを人間にもたらしてくれるというのが尊徳の思想であった。
 大地のことを一番よく知っているのは百姓だというわけである。
 尊徳は荒地を開発するとき、単にその田畑の面積を問題にするだけではなく、その土地の地味や土地の高低・土地の水利の便や人家からの距離や道路の有無、さらにはその地が作物を市場や江戸に運ぶにどれだけ便利であるかなどくわしく調べ上げ、これに基づいて開発順序を決め、必要 な道路や水路や橋や堤防を作ったり、人家を修理して、村自身が持つ力を集中して開発にあたっている。そして領主に対しては、領地を管轄する陣屋への十分な人的な配置とその代官たちの陣屋への常駐を要請し、村の実情を調べ百姓とともに開発に当たることを要請している。武士は村のことを熟知している百姓に学べというわけである。
 さらに開発を進めるにあたっては村共同体を動かす。農作業を指揮する人物は百姓の入れ札で決め、村でもっとも良く働く百姓を表彰する際にも候補者を百姓自身から指名させ入れ札で決定する。そして開発計画は村を隅々まで調べて一人一人の百姓の実態を把握した尊徳が、合理的な考えで立て、それを直接領主に説明して受け入れを説得する。さらに開発計画を磐石にするためには、領主の家政の実情も調べ上げ、その現在の収入に見合った生活をできるように指導する。
 すべてが百姓の「代表」である尊徳が仕切り、かれの指導下で村共同体を動かして再建はなされる。
 尊徳は村や領主から依頼されて外部から乗り込んだ「再建屋」だから、それ自身は村や百姓を代行しているに過ぎない。しかし仕法が進むにつれて村の中に彼の信奉者が生まれ、彼らが村共同体を動かしていけば、彼の仕法は代行から、村の百姓自身による自治へと転化するわけである。
 尊徳はそのことを自覚していたと思う。
 だから尊徳は、村の百姓や代官・武士への批判を公言しない。批判は彼の思想を理解している者に対してだけ吐露される。通常は彼がなすことは、彼の観点からして優れた良いことを行っている人々を褒めるだけ。彼によって抜擢された分家百姓や入百姓には、村の有力者を批判したり何かと言って喧嘩をしかけたりするのではなく、これらのものたちをも穏やかに説得し、よく話し合って協力して開発を進めるように説いている。また彼を信奉する武士たちに対しても、藩内の問題点は厳しく手紙や直接 会って指摘はするものの、藩内で威張ったり揉め事を起こすのではなく、人々を根気強く説得することが説かれてもいる。
 もちろん尊徳が最初からこの境地に至ったわけではない。桜町領や他の土地を再建する過程で学んだことに違いない。彼の仕法は初期の桜町領のそれと後期のものとは取り組みが変化している。彼は後期になればなるほど、人々を褒め、必要な者には手助けをし、多くの人に倦まず弛まずその思想を語り、説得を試みるようになっている。
 だが穏やかに人々を説得する影には、先に見たような現状への厳しい批判と、ままならない現状への痛憤が存在した。
 尊徳の日記の、1855(安政2)年12月31日の項には、「私の手を見てくれ、私の足を見てくれ、私の書簡を見てほしい。そして私の日記も見てほしい。おずおずとおそるおそる深い淵をのぞくように、薄い氷の上をわたるように生きてきたことを見出すだろう。」と書かれていた。尊徳の死の約1年前の記述である。
 尊徳は、身長約6尺(1.82m)、体重25貫(94`)の偉丈夫であった。成田山に参篭して21日間の断食祈願の満願の日に、一気に20里(80`)の道のりを成田から桜町まで歩いたという伝説ができたほど丈夫な体で健脚の持ち主であった。老年に至って村を検分する際にも、友の若者がへばっても尊徳はへばらず、畦端でしばらく寝ればまた元気に検分を続けられる体力の持ち主であったとも伝えられている。後年全国の小学校に作られた尊徳の少年時代の銅像からはうかがい知ることができないほど、尊徳は農作業に鍛え抜かれたたくましい体と、怜悧で合理的な思考力と豊かな暖かい心をもった農業実践家だったのだ。
 しかし彼ほどの力をもってしても、個人の力だけでは、封建制度の矛盾はすぐにはどうすることもできなかった。だから彼は地道に実地調査を行い同志を育てることを通じて、少しずつ少しずつ封建領主権への介入と制限を推し進め、社会を改良しようと努めたのだろう。そして彼の取り組みへの共感は少しずつ野火のように社会の中に身分を越えて広がっていた。
 これが後に明治維新を行って封建制度を廃止し、市民的自由をある程度確立して、国を富ませることになった動きの、社会の底流にあったものなのだろう。

 

 二宮尊徳の仕法は、「つくる会」教科書が描くような、単なる「勤勉・倹約」を説く精神主義的な道徳的なものではなかったのだ。むしろ領主の側にたって百姓に「勤勉・倹約」をといて農村を立て直そうとしたのは、尊徳の活動時期の直前か平行しておこなわれた石田梅岩の門流による「石門心学」に基づく仕法運動であった。だが江戸時代後期の文化・文政から天保のころの時代は、そのような精神主義によって百姓を鼓舞すれば村が立て直せる状況ではなかったのだ。すでに村の発展のためには封建的領主権を背景にして百姓から年貢を取り立てるだけの武士の存在そのものが桎梏になっていた。これは元禄・享保のころの儒学者・荻生徂徠 や、後の国学者・本居宣長や尊徳の同時代人である安藤昌益など、多くの江戸後期の知識人にとって自明のことであり、領主権の制限や武士身分の廃止そのものが時代の課題になっていたのである。
 二宮尊徳は、このことを農村建て直しにおいて実践的示したのであった。彼の実体験によって裏付けられた思想は、後に明治維新・産業革命期の日本の農村を興隆させた思想そのものの先駆けであり、今日にも通じる先見的なものであったといえよう。

:二宮尊徳は、明治国家が道徳主義的家父長主義的に国民を組織していく過程で、「勤勉・倹約」「親孝行」の権化であるかのように利用され、かれを称揚した報徳記の記述は修身教科書などで積極的に取り上げられていった。しかもこの過程では、彼が封建領主の存在そのものを厳しく批判していたことはほとんど流布されなかったため、戦後の歴史学では彼は封建制度を擁護する反動的な思想家とのレッテルが長らく貼られてきた。そして一方では「つくる会」が典型的なように、明治期以後と同様に、尊徳の人生とその思想を、幼年期青年期にのみ切り縮め、道徳主義的に称揚する傾向も顕著であった。そのどちらもが間違いであったことは、彼の書簡や日記と仕法関係の文書を詳しく読み解いた近年の研究が示しているとおりである。 なお文中の尊徳の言動や書簡の現代語訳は、児玉考多編「二宮尊徳」に収録されたものを引用した。

:05年8月の新版ではこのコラムは「二宮尊徳と勤勉の精神」と改題され、冒頭の部分と尊徳に関する記述はそのまま残され、石田梅岩に関する記述が完全に削除されている (p115)。したがって新版のコラムは、旧版が持っていた積極的な側面と間違いとをそのまま継承したものになっている。 石田梅岩と二宮尊徳の思想は、先に見たように極めて類似したもので、分に応じて諸身分が分担して社会を形成し、お互いに支えあって生きていくという共同社会のような社会観に基礎を置いていた。さらに尊徳の思想と実践は、封建領主権への介入と制限にまで及んでおり、このコラムは、2人の思想と実践を背景に近世江戸時代の時代の性格とその変化・崩壊の過程までも生き生きと描き出すことのできる題材であった。しかし「つくる会」教科書は、この豊かな題材を、単なる道徳主義に改変してしまったことで、時代の実相を鮮やかに浮き立たせる可能性を、自ら摘み取っていたのである。

:この項は、 安丸良夫著「日本の近代化と民衆思想」(1974年青木書店刊)、加藤周一編「富永仲基」(1984年中央公論社刊・中公バックス日本の名著18)、児玉考多編「二宮尊徳」(1984年中央公論社刊・中公バックス日本の名著26)、板倉聖宣著「二宮尊徳と数学」(1984年仮説社刊・ たのしい授業6月号15所収)、 林玲子著「商人の活動」(1992年中央公論社刊・日本の近世第5巻)、鈴木浩三著「江戸の経済システム」(1995年日本経済新聞社刊)、大藤修著「二宮尊徳」(1995年岩波書店刊・講座日本通史第15巻「近世5」所収)、矢嶋道文著「近世日本の重商主義思想研究」(2003年御茶の水書房刊)、倉地克直著「江戸文化を読む」(2006年吉川弘文館刊)、大石学著「元禄時代と赤穂事件」(2007年角川選書刊)、平凡社刊「日本史大事典」・小学館刊「日本大百科全書」・岩波書店刊「日本史辞典」の当該の項目などを参照した。


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