「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判27
27: 生類憐みの令は清浄なる国土創出の方策だったー4代から7代将軍の治世での幕政改革ー
近世の日本の最後の節は、第4節「幕府政治の動揺」であり、17世紀半ばから19世紀半ばまでの時期を取り扱い、17世紀半ばまでに成立・安定した日本近世社会がどのように変化し、それにともなって近世幕藩体制がどのように
変わっていったかをあつかっている。その最初の項目は「社会の変動」と題して、17世紀の半ば以降の貨幣経済の発展に伴って社会がいかに変化し、それにともなって年貢米をとることでなりたっている領主経済に動揺が広がり、さまざまな政治の改革が進められたことが記述されている。
この「社会の変動」の最初の項が「幕府政治の転換」である。
この項は、4代将軍家綱の時代と5代将軍綱吉の時代、さらには6・7代将軍の時代を取り上げているので、それぞれ分けて見ていこう。
(1)家綱政権は社会の変化に対応した幕政改革の端緒であった
教科書は冒頭に次のようにして4代家綱時代の政治の転換について述べている(p150)。
17世紀のなかばになると、戦国時代の気風も弱まり、幕府の統治もしだいに安定してきた。そこで幕府は大名に対して、それまで行ってきた領地を取り上げたり削ったりする厳しい対応を改めるようになった。大名を取りつぶすと、かえって浪人(つかえる主君のいない武士)が増えて、社会不安の原因となったからである。 |
@大名改易は大名統制策という誤解
これは直接的には、幕府が1651(慶安4)年12月に幕府法を改正し、しばしば大名改易(取り潰し)の原因となってきた「無嗣断絶(跡継ぎがないため大名家を取り潰すこと)」を防ぐために、今まで禁じてきた「末期養子(当主の死に臨んでにわかに養子を定めること)」禁止を緩和し、大名家の当主が50歳未満の場合には、その死に際して末期養子を入れて家の存続を図ることが許されたことを指している。さらに4代家綱時代の 無嗣断絶を除く大名改易がそれまでの将軍の時代と異なっておおいに減少し、1651(慶安4)年から1680(延宝8)年までの30年間に10家(45.2万石)と激減したことを指している。
注:それまでの大名改易は無嗣断絶の場合を除いてもかなり多い。家康の時代(1602〜15)は29家(153.2万石)、2代秀忠の時代(1616〜31)は15家(290.6万石)、3代家光の時代(1632〜50)は20家(229.9万石)と、家綱の時代よりそれぞれ短いにも関わらず、改易された大名の数はかなり多い。改易理由の内訳については、近世編1のp290の表1「大名改易の時代」を参照のこと。
しかしこの教科書の記述は、大名改易を減らした理由を「戦国の気風も弱まり幕府の統治もしだいに安定した」からと説明していることに見られるように、大名を改易すること自体が幕府による恣意的な大名統制策であるという、従来からの誤った理解に基づいたものである。
近世編1の【11】「幕藩体制とは合議に基づいた分権的統治体制であった」で検討したように、大名改易はけして恣意的なものではなく、「公儀」である幕府の統治に重大な阻害要因となった場合にやむなく実施されるものであり、幕府は当該の大名が「統治能力なし」と判定されたり「無嗣断絶」であった場合ですらなるべく大名家を断絶しないように扱おうとし、やむを得ず取り潰す場合でも、諸大名に対して審理を公開したり改易理由を詳しく説明していたのである。大名改易は幕府の統治を安定させるために敵対する可能性のある大名を統制する方策ではなく、「公儀」としての幕府の統治権を分有し、当該の大名家の領国の統治を行う大名が「公儀」として政治を執行する資格がないと判断した場合にやむを得ず行われたものなのであった。
したがって4代家綱政権において大名改易をなるべく少なくするために末期養子を認めたのは
、幕府の統治が安定して大名を統制する必要が薄れたからではなく、教科書がその末尾に記述したように、大名改易による浪人の多発が社会的な不安定要因と化し、社会の統治を妨げるものになっていたからであった。
A武家家政の困窮と浪人問題の「爆発」
17世紀中ごろまでには全国に多くの浪人があふれて社会問題になっていた。その浪人を生み出す最大の原因が大名改易や大名の減封であった。
江戸時代初頭から1651(慶安4)年までの大名の改易は、198家で総石高1688万石、さらに大名の減封は19家で総石高249万石、合計で217家・1937万石である。これを当時の軍役の規定数である万石で200人
余りという数で算定してみると、およそ40万人の浪人が生まれたと推定される。当時の推定人口は1000万から1500万人であることを考えれば、かなりの数と言えよう。
もちろん、これらの浪人が全て浪人として社会に滞留したわけではない。
この間には1614(慶長19)・1615(慶長20)年の大坂夏の陣・冬の陣があり、大坂方の主戦力は浪人であったし、幕府方にも大勢の浪人が戦功による就職をもとめて多数参戦していた。そして大坂の陣以後に、双方で名を上げた浪人が多数主家を得て就職していった。またこの時期は幕府や大名は領国の経営を充実させるべく家臣団の充実に努めていた時期でもあったので、算術や測量術など直接的に領国経営に役立つ諸科学を身につけていたものや儒学などの学問を修めていたものは、才能を見込まれて就職する機会を得ていた。しかしこのような技芸に優れた武士でないものは、戦国の世が終わり武芸がしだいに直接的には役立たない時代になっては就職の機会は減少の一途を辿っていた。
しかもこの17世紀の中ごろに至る時代は貨幣経済が発展し、それに伴って領主経済が悪化を辿った時期であったので、大名は次第に新規の家臣を召抱えることを抑制せざるをえなくなっていった。そのため大名家の家法に従わなかったりした家臣を召し放ったり、主家の財政悪化を理由にした人減らしも行われて浪人はかえって増える傾向にあり、浪人が就職する機会は減少していった。
そして忘れてはならないことは、当時の浪人の語が示していたものは、主家を持たない武士というだけのものではなかったことだ。
当時の浪人の中には、郎等・中間・若党などという武家奉公人と呼ばれるものが多数含まれていた。
彼らは帯刀を許されていたが、武芸で身を立てるものではなかった。武士の下人として戦となれば主人の武具や生活道具を背負ったり乗馬を引いたりして参戦しはしたが、一般には主人の身の回りの世話をするのが主な仕事であった。この武家奉公人も戦国の世のように戦で手柄を立てればより上級の武士に出世することも可能であったろうが、戦のない平和な世の中となればそれも適わない。しかも諸大名家においてはその経済が苦しくなるに従って、常時永代にわたって代々抱えていた武家奉公人の替わりに、必要なときだけ雇い入れる季節雇いの奉公人をその領地の百姓の中から雇うようになり、そのため永代の武家奉公人であったものたちの多くが失業することとなったのである。
当時の浪人の中でもっとも悲惨なのがこの武家奉公人であった。彼らこそが「かぶき者」と呼ばれて、徒党を組み無頼な乱暴を働いていた者たちの主だった供給源だったのだ。
では幕府は浪人に対してどのような対応をしていたのであろうか。
幕府の浪人対策は基本的に、武士身分を捨てて百姓や町人、さらには僧侶となって生きていけというものであった。
そして大坂の陣の豊臣方が浪人からなっていたことや、島原の乱も取り潰された小西家などのキリシタン大名の浪人が多数参加していたことに見られるように、幕府は浪人を危険な存在とみなしていた。従って京や大坂などの大都市においてはしばしば、浪人は追放されたし、町や村への居住も制限され、一定の地域を限って浪人調査を行うこともなされていた。近世編1の
【18】で田畑永代売買の禁止にかかわるお触れとして引用した1643(寛永20)年に佐渡に出された「御触書」に、「よそからきて田地も作らず怪しいものは、村においてはならない。もし隠しおいた場合には科の軽重を糺し、宿をしたものは処罰の対象とする」
と書かれていたのは、浪人が村に居住することを禁止したものであったのだ(近世編1p465参照)。
そしてかぶき者に対しても、1648(正保5)年には禁令が出されて、長脇差を差して派手な服装をして粗暴な行動をするものがあれば目付けが捕縛することを命じ、家綱政権になってからも1651(慶安4)年から6年間に渡ってかぶき者の検挙を行うこととなった。
こうして百姓や町人になることなく武士身分のまま主家を持たない浪人は、社会で行き場もなく、その不満が鬱積することとなる。
そしてこの不満が爆発しそうになった事件が、3代将軍家光の死の直後、1651(慶安4)年7月に勃発した。
1つは松平定政事件。そしてもう1つは慶安事件、講談などでよく知られた由比正雪の乱である。
松平定政事件は、将軍家の家門大名が幕政を批判し、ために領地没収改易となった事件である。
松平定政は、徳川家康の異父弟で伊勢桑名11万石の大名であった松平定勝の6男で、三河刈谷2万石の大名であった。その家門大名が近頃の幕政を批判し、自分の領地と邸宅・武器などをことごとく幕府に返納することを願い出て、さらに彼は剃髪して江戸の町を托鉢するという挙に出た。幕府はこれを「狂気」の沙汰と断定して改易処分にしたわけだが、定政の幕政批判は、「近頃の幕政は幕府の権力の強化に力が入れられており、ために見捨てられた多くの旗本が困窮している」というものであり、これを放置しておけば「一両年以内に天下の争いが起こる」に違いないとして、その旗本の困窮を救済するために彼の領地や邸宅を献上するというものであった。
そして定政の処分(改易と身柄預け)が決まった7月18日のわずか5日後に発覚したのが慶安事件であった。
慶安事件は幕府の原資料が残されていないので詳しいことはわからないが、由比正雪や丸橋忠弥などの浪人の軍学者や武芸者が中心となって浪人およそ2000人が徒党を組み、正雪が同志とともに久能山東照宮を襲ってそこにあると言われる家康の軍資金を奪い駿府城を占領することを合図に、江戸や大坂や京都で同志が蜂起し、大老酒井忠勝などの「君側の姦」を排除して「御政道を糺す」というものであった。そして江戸での蜂起は、江戸城二の丸の塩硝蔵に火を放ち、江戸の水源に毒
を流し、混乱に乗じて江戸城を奪取するというものであったという。幸いこの企ては事前の7月23日に内部から密告者が現れて幕府の知るところとなり、各地で一味の者が捕縛され、8月10日に一味とその親族35名が処刑されて終わった。
3代将軍家光が48歳で死去したのが4月20日。そしてその嫡子家綱11歳が将軍に就任したのが8月18日。わずか11歳で自ら政治的判断を下せない将軍の下での政権が、叔父の保科正之と前代からの重臣たちによって支えられて船出するまさにそのとき、経済的困窮と行くあてのない不安の中で鬱積した人々の不満が、一方は家門大名からの幕政批判として、他方は浪人たちによる幕府権力の武装奪取計画として噴出したのであった。
B軍事指揮権による「強権的」統治ー前代までの政治の特色
この松平定政の「幕府権力の強化のみに力が入れられている」という幕政批判とは、具体的には何を指していたのだろうか。
1つは幕府が統治機構の整備に意を注ぎ、老中や諸奉行の制度とそれらの合議制としての評定所の設置などを行うとともに、大名の参勤交代制や家格による序列などの整備を図ったことであろう。そしてこの過程で、将軍自身の直家臣団に対しても、家格の序列と統制が行われた。
1635(寛永12)年の武家諸法度の改正で、大名が領国1万石以上のものと明確に規定され、さらに大名の資格として「国の統治を行うに相応しい器量を備えたもの」という従来の規定を廃止して大名の家の存続を前面に出したのと平行して、幕府は「諸士法度」を制定した。ここでは、領国1万石未満の将軍家臣を旗本・御家人として大名よりも一段格の低いものと定めるとともに、旗本御家人の義務とその生活の細々としたことまで厳しく定めた。これと平行して政権の中枢には譜代の家臣よりも能力のある新参の者が多く登用されたことは、小身の譜代旗本層には、大きな不満が広まった。戦が継続する時代ならば武辺一本で主人に忠節を尽くして立身することも可能であったが、太平の世ともなると優れた統治能力を発揮する者でなければ、譜代の家臣といえども立身することは不可能になっていたからであった。このことは
3人の将軍につかえ1639(寛永16)年に没した大久保彦左衛門忠教が著した「三河物語」が、家光の治世下では譜代家臣が重用されないことを痛烈に批判していることによく示されてる。
これに江戸という大消費都市に集住することから来る旗本家政の困窮と、江戸での打ち続く大火による家屋敷の消失。松平定政がいう「幕府権力の強化のみに力が入れられ、政権から見放された旗本は困窮している」というのはこうした事態をさしていたものと思われる。
また2つ目には、3代家光までの幕府政治が、4代以降のそれと大きく異なった性格を持っていたことである。
3代家光までの幕府政治と4代家綱、そして5代綱吉の時代の幕府政治の性格は大きくことなっている。これは従来から「武断政治」と「文治政治」という言い方で示されていたものであるが、もっと的確な表現をするならば、家光までの幕府政治の基本は、征夷大将軍という
武官の持つ軍事指揮権を盾にして、諸大名の服従と諸身分の統合を図る政治であったのが、4代以後の幕府政治では、その軍事指揮権を盾にした政治が後景に退き、権威と法とによる統治に転換したということである。
この将軍という軍事指揮権を持った者の力を背景にして統治を図る形態は、1615(慶長20)年の大坂の陣における豊臣氏の滅亡以後の平和な時代においても、将軍家が大規模な軍勢をそろえて行軍するという形で継続していた。その1つは、将軍の上洛である。
初代家康は都合7回、2代秀忠も都合6回、3代家光も3回、1603(慶長8)年から1634(寛永11)年までの32年間に実に16回に及ぶ。そして江戸時代初期における将軍上洛の最後を飾る1634(寛永11)年の家光の上洛は、極めて大規模なものであった。家光の乗り物の前後を譜代大名や旗本の厳重な警護で固めただけではない。先駆けを勤めた仙台の伊達氏以下の東北大名以下、全国の大名が家臣を率いて供奉し、その総勢は30万7000人、従来の将軍や大御所の上洛の実に3倍に達する規模であった。
この時代は日本の政治の中心が京都であり、豊臣氏滅亡までは豊臣氏が公儀の中心であったために、将軍はしばしば京都・大坂に出向いてそこで政務をとる必要があった。それは諸大名への指示の徹底であったり、京都の朝廷との折衝であったのだが、その際にも将軍は全国の大名に軍役動員を掛けて軍勢を催し、その威力を背景にして指示の徹底なり折衝をおこなっていたのだ。
そしてこの将軍が諸大名に対して軍役動員を掛ける事でその支配力を誇示する政策は、これ以後は、将軍の日光東照宮社参という形で継続された。
家光は1625(寛永2)年から1648(慶安元)年までの23年間に、あわせて9回の日光社参を繰り返した。
日光東照宮は幕府開祖の家康が東照大権現として祭られており、武家政権による統治の背景として崇められていたから、それに将軍が諸大名を引き連れて参拝することで、将軍の権威を内外に示そうとしたものであった。そしてこの社参に際しては、江戸城で軍勢の閲兵儀式が行われたり、しばしば大規模な鷹狩をも伴っていた。日光社参そのものが軍事演習を伴った軍役動員だったのだ。
またこの行軍にさいしては参列した諸大名や旗本は必要な人員を揃えて必要な食料や金銭を用意しなければならなかっただけではなく、この行軍に必要な人馬は、街道筋の村々から挑発された。その規模は、後の1776(安永5)年の10代将軍家治の例で言うと、費用が総額23万両
(約27億6000万円)、動員された人夫が400万人以上、挑発された馬が30万匹にも達したという。将軍の軍事指揮権によった統治とは、いかに無駄な労力と金銭を要したものであり、動員される諸大名や旗本だけではなく、街道筋の町人や百姓にも大きな負担を掛けていたのである。
しかも大名などに多大の負担を課する政策は、日光社参などだけではなく、江戸城や大坂城などの幕府の城の普請や日光東照宮の大造営や各地での寺社の修造などに際しても、幕府は諸大名に対して軍役として普請役を
課しており、これらの普請役も大名には大きな経済的負担であった。さらに3代家光の時代は武家諸法度が改正され大名の参勤交代が制度化されたことで、江戸での暮らしの諸費用や、江戸と領国との間の参勤費用なども大名家政の疲弊に大きく寄与していた。また1637(寛永14)年の島原の乱に際しては、九州を中心にして兵糧・軍役の徴発と動員がなされており、これも九州諸大名と九州の各地の百姓に対して、大きな負担を強いるものであった。
C武威に依拠した統治と社会の疲弊
当然こうした統治行為の連続は、国富を減らし民の力を削ぐこととなる。大名や旗本の経済は困窮し、それを補うための年貢増徴は百姓をまた疲弊させる。そんなおりに天候異変が続くものならば、たちどころに飢饉となって社会を襲うこととなる。それが3代家光治世の末期におきた寛永の大飢饉であった。
1641(寛永18)・1642(寛永19)年の大飢饉は全国的に起きたもので、「天下大飢饉、日本国中にて人多く死ぬなり」と認識された大規模な飢饉であった。
直接的な原因は連年の天候異変と疫病の流行であり、1640(寛永17)年には西日本を中心に牛の疫病が流行し、西日本では主に田畑の耕作に使役してきた牛の半数近くが死ぬか病気に倒れ、農作業に多大の支障をきたした。そして翌1641(寛永18)年には、西日本では旱魃が襲ってさらに地方によっては虫害も起こり、北陸・関東・東北地方では長雨や冷気が続いて冷害となり、全国的に収穫が半減した。この天候異変は翌1642(寛永19)年も続き、西日本ではまたも旱魃が襲い、それが秋になると一転して大雨となって各地で大洪水が襲った。さらに東日本では、長雨が続いて冷害となり、さらに秋には大雨となって大洪水が各地を襲った。
この連年の天候異変による収穫の激減は、この間の領主による年貢増徴で疲弊していた百姓をさらに疲弊させた。そしてこの打撃は特に、当時各地での新田開発の進行とともに譜代の下人をもった家父長的大百姓から自立しつつあった小百姓層を特に疲弊させ、彼らは山に入って葛や蕨などをとって食用にしたり、
家族を大百姓の譜代の下人として売り払ったり、
田畑をこうした大百姓に売り払ったり、さらには他領や城下町・宿場町・京大坂江戸などの大都市へと、仕事と食料を求めて流浪することとなった。
しかし都市へ逃げても十分な食料があるわけではなかった。
当時利殖を得るための有力な商品であった米を多く所蔵する武士層は、飢饉に伴う米価の値上がりを見て、それぞれの蔵米を放出するのではなくそれを退蔵してさらに米価を吊り上げ、米価を高騰させることでさらなる利益をあげようとした。そのため都市の米価は急騰し、京大坂では通年の2倍に、江戸では3倍となり、都市に流れ込んだ窮民だけではなく、都市普請などで流入した多くの下層民もまた食料を得られず餓死するものが相次いだのだ。また大名の中には自国の安定だけを優先させて、他領からの窮民の流入を関所改めの強化などで阻止したり、米が余っていても隣国への救援などを拒否する態度を示すものもあり、全国的な飢饉にも関わらず、幕府諸藩あげての統一し
た対応はすぐには取れなかった。
こうして全国での餓死者は5万とも10万とも言われ、特に都市では河原には投げ込まれた餓死者の死体が充満し、これらの死体や養うことができずに解き放たれた幼児を野犬が襲い、その死肉を貪り食うという情景が各地で見られたのである。
江戸時代最初の大規模な飢饉と認識された寛永の大飢饉は、連年の天候異変を直接の原因としてはいたが、その背景には、領主階級の窮乏を負担の百姓への転嫁によって凌ぐという「悪政」があったのだ。こうして飢饉に際して各地で領主の不正が幕府
に訴えられたり、都市における役人と商人とが結託しての米価の吊り上げなどの悪行が幕府に訴えられ、果ては家光の治世そのものを指弾する落書すら出現し、「悪政」への批判が充満したのであった。
これにたいして幕府は直ちに対策を練って布告し、同様な対策を諸大名・旗本もとるように全国的な布告を連発して行った。
しかしその対策の多くは倹約令であり、贅沢を禁じ、普段から田畑が荒れないように懇ろに世話をして年貢を完済せよというものであり、飢饉に際して食料が不足しないように全国的に酒造を禁じたり、麺類・饅頭・豆腐の製造販売を禁じたり、さらには田畑の売り買いを禁じて、年貢収納が滞らないようにするのが主たる対策であった。また一部では米価を意図的に高騰させた役人を処罰したり、領主や代官が日ごろから百姓の暮らしが成り立つように配慮したり、年貢の割付に際しては不公平がないように注意したり、代官や村役人の諸費用の削減と透明化や年貢収納時の費用の削減など、領主代官の不正を減じ百姓の負担を減らして百姓の暮らしが成り立つようにしろとの布告も見られたが、領主や代官の大規模な勤務査定がなされたわけではないので、これらは法の上での訓令のレベルに留まっていた。
民を救うためには、大名らへの多大な負担を減じ、彼ら領主の民への施政を「民を搾り取る」ものから「民を慈しむ」ものへと転換させることが必要であったが、問題の所在が認識され始めてはいたが、家光の治世下ではまだ具体的な対策はとられないままであったのだ。
こうして「武威」に基づく治世は、大名・領主層の疲弊と彼らから負担を転嫁された百姓衆の疲弊へと帰結し、都市には打ち続く改易・減封政策によって生み出された大量の浪人層と村から流れ込んだ日雇い稼ぎの労働者と窮民が充満するという、「上下ともに窮する」状態となっていたのだ。
3代将軍家光の死に際して剃髪・出家して幕政を批判するとともにその領地・屋敷などを困窮した旗本を救うために投げ出そうと
した三河刈谷城主松平定政の行為や、由比正雪ら浪人層による幕府転覆の武装行動は、こうした「武威」に基づく政治によって、大名・領主層から百姓・町人層に至るまで「上下ともに窮する」状況を生み出した幕政に対する批判であったのであろう。幕政はまさに転換すべきことを求められていたのだ。
D権威と法に依拠した統治への転換の開始
政権の発足に際して内外から厳しい批判を受けた4代家綱政権は、早速事態に対応して幕政の転換を始めた。
その第1が、当面した危機である浪人対策であった。そこで打ち出されたのが、先にみた末期養子の容認による大名改易の減少であった。
何故末期養子の容認による大名改易の減少が浪人対策のなるのかというと、江戸時代の最初の50年間における大名改易・減封の多くが、大名の継嗣断絶によるものだったからだ。
この50年間に末期養子の禁のために無嗣断絶となった大名は58家・430万石であった。この間の改易・減封は217家・1937万石であったから、家数において22%石高において27%を占めていた。従って大名の死に際しての末期養子の容認によって、多くの大名家の取り潰しが回避されたのだ。これがなければ、たとえば1664(寛文4)年の米沢藩主上杉綱勝が27歳で跡取りがなく病死した際に、米沢30万石は取り潰されていた。この時は高家吉良上野介義央の子景倫が末期養子となって上杉家の家督を継ぎ、30万石の領国の半分15万石の相続が認められたのだ。
この浪人対策として大名家改易減少策がとられた会議においては、江戸からの浪人の追放が審議されたが、反対意見が出て末期養子の容認による大名改易減少策がとられたという。そして当時の江戸町奉行の石谷貞勝が役目についている間に1000人の浪人の就職斡旋をして就職させたと伝えられるように、浪人対策においても、浪人の追放という強攻策が退けられたのだ。
また第2の政策転換は、家光政権で9度も行われた日光社参が1度だけに制限されたことであった。
これは将軍家綱がまだ幼く軍事指揮官として行軍することが不可能であったという事情にもよるが、最初は家綱が20歳となった1660(万治3)年に計画された日光社参が、この年の江戸の大火で119町が延焼し508人の焼死者が出るという江戸の町が大被害を負い、さらに各地でも大火が起こるという世情不安に鑑みて中止されたことに見られるように、莫大な費用と負担を掛けて軍事演習を挙行することを回避しようとする傾向が反映していた。結局家綱の日光社参は1663(寛文3)年の一度だけとなる。こうして将軍の軍事指揮権に基づく武威による統治は大きく後退した。そしてこれは次の5代綱吉政権に
継承され、将軍の日光社参はまったく実施されなかった。
さらに第3に家綱政権は、まだ社会に色濃く残っていた戦国の気風を払拭するための政策も推進していった。
さきの1663(寛文3)年の将軍日光社参が終わった翌月、代初めの儀式として武家諸法度が改正された。
この改正の眼目は、殉死の禁止であった。
主人の死に際してその身近くに使えた近臣が殉死するということは戦国時代から見られたが、江戸時代になってもこの傾向は続いていた。例えば1651(慶安4)年の将軍家光の死に際しては、佐倉城主堀田正盛、岩槻城主阿部重次、側衆内田正信、さらに大奥で家光に使えた堀田正盛の母や小十人頭の奥山安重、書院番頭の三枝守重が殉死した。またこの際、阿部重次の家中でも4人の家来が殉死している。またこれは大名家でも行われていたことで、仙台藩では1636(寛永13)年の藩主伊達政宗の死に際しては15人の家臣が殉死し、さらにその従士5人が殉死、また1647(正保4)年の
3代藩主光宗の死に際しても7人の家臣が殉死している。さらに1641(寛永18)年の熊本藩主細川忠利の死に際しては19人の藩士が殉死。江戸時代においては殉死はかなり一般的なものであった。
そして江戸時代に殉死が流行した理由は、「天下泰平の世であれば御用にも役立たず、せめて2世のお供をし」と当時称せられたように、戦のない世となって、主君に武辺で使えてきた家臣が主君への忠義を尽くす場として殉死を選んでいたのだ。ここには
当時は、家臣は主君個人に仕えるという関係であったことも影響していよう。
しかし主人の死に際して主だった家臣が殉死することは、領国統治経営体としての藩や幕府にとっては大きな痛手である。また太平の世が続く中で、次第に家臣にとってその家の存続は主人の家の存続と一体となっていく。こうして家臣は主人個人に仕えるのではなく、主人の家に仕える方向へとその意識と関係のあり方の変更が求められていた。家綱政権での殉死の禁止は、このような背景があったのであり、戦国の世から太平の世への転換に応じた君臣関係の意識変革でもあった。
また家綱政権は先に見たように、かぶき者の取締りを強化し、1651(慶安4)年から6年間に渡ってかぶき者の検挙を行った。
この頃のかぶき者は、江戸時代初頭の慶長年間のそれが戦国の下剋上に示されたような実力本位の自由な気風を示し、武士や武家奉公人だけではなく多くの百姓・町人にも広がり支持されていたのとは異なり、ますます立身出世の道を閉ざされた武家の次
・三男や仕事にあぶれた武家奉公人らの鬱憤をはらすはけ口となっていた。この残存する戦国の遺風を一層する意味も、かぶき者の取締りには含まれていた。単なる治安対策ではなかった。
また4つ目には、家綱政権の時期には、前代にもまして全国的に新田開発や商品作物の栽培が進み、幕府や諸大名もこれを奨励した。
寛永の大飢饉が示したように、大名や旗本など領主の経済を潤すために百姓の年貢負担の増加を求めるだけの政策は、社会の疲弊をもたらすだけであった。幕府や藩は、経済活動がより活発になることで国の富を増やし、それによって百姓の暮らしも良くなり領主の暮らしもよくなる方向に政策を転換したのだ。
この時期には様々な勧農政策が採られた。近世編1の【18】「百姓も町人も共同体の下で自由に生きていた」で見たように、様々な触書が百姓に出され、日々営農に心して従事することが勧められたり、飢饉に備えて倹約を命じたりしたのは、まさにこの時代であった。そしてこの時代の積極的な勧農政策は効を奏して、耕地面積は増大し、江戸時代初頭(17世紀初頭)の約164万町歩から18世紀初頭の297万町歩へと激増した。そして米の収穫高も増加し
、17世紀初頭の約1850万石から18世紀初頭の約3000万石と激増した。これにともなって商工業も発展して各地に大規模な都市も発展し、人々の暮らしも向上して衣服は綿織物が常態となり
、庶民でも絹織物を着られるようになり、食生活も1日2食だったのが3食となり、多くの菓子類も消費されるようになったのだ。
近世編1の【18】で見た「大開発の時代」とは主として4代家綱の治世(1651〜1680)のことであり、先に見た豊かで多様な文化の栄えた元禄の時代とは、この治世の末期から次の5代綱吉の治世にあたる。
こうして大開発の時代は今までにもまして貨幣経済を発展させ、人々の暮らしを豊かにしていった。
そしてこの豊かさを背景として商業が発展し都市が発展し、多様な文化が栄えるとともに、懸念された浪人も次第に減少して行った。多くは百姓や町人に身分を変えて活動したのだ。そして浪人のままの者の多くも、彼らが武士として持っていた知識や教養を生かして、様々な文化活動に従事した。豊かな社会の到来とともに、知識人・文化人という新たな階層が生まれ、これは主として武士層から補充されたからだ。しかしこの結果として米の大増産は米価の大暴落を招き、かえって領主経済の衰退を招いたことは、次の項で詳しく見よう。
さらに5つ目に、家綱政権の後期では、こうした経済活動の発展に対応し、前代に見られたような役人の不正を糾す取り組みも行われるようになっていった。
幕府は家綱治世の末期に幕府領の検地を実行した。
関東地方は主に1668(寛文8)年に行われ、残った関東近国は1678(延宝6)年に実施された。さらに近畿地方の幕府領に対しては、1676(延宝4)年から1678(延宝6)年にかけて実施された。近畿地方における検地は、1590年代の太閤検地から実に80年ぶりのことであった。
この検地では、検地の実施要綱である検地条目が新たに定められ、1間を6尺3寸から6尺1寸に変更して名目上の田畑の面積を多く見積もったり、屋敷地を検地対象に参入したり、荒地で田畑に復旧可能なところは検地の上早急に耕地化するなどの施策を取ることによって、幕府の収入を増やすことを目的とした。さらに「漆・桑・こうぞ・茶など、商品作目畑は別に検地すること」と定めたように、近年広がっている商品作物栽培の実態を把握するとともに、これらをも年貢収納の対象とすることで同じく幕府の収入を増やそうとしていた。しかしこの検地は、こうした収入を増やすことを目的としただけの従来の検地とは
異なった性格を持っていた。それは代官の不正や村役人の不正を糾そうという意図をも持っていた。
この検地は従来の検地が当該の土地の代官によって行われていたのとは異なり、近隣大名に実施させた。そして大名による検地が実施されている間に、幕府勘定奉行所の役人団による巡検団が派遣され、その検地と平行して自ら検地を行い、大名による検地の結果を監視している。そしてこの巡検団に出された指示書によると、巡検団には「代官の仕置きの善悪を調べること」や「困窮の村があれば原因を糾し、庄屋に横領がないかどうか調べること」「不相応に税率が低いところがあればその理由を糾すこと」「百姓から代官・手代の不正告発があったら訴状を取り上げること」などの指示が出されており、この検地が幕府領の代官やその手代とさらに村役人である庄屋が結託して不正を行い、百姓に過重な年貢を掛けたり年貢を私していたりしていないかを糾す意図を持っていたことを示している。
寛永の飢饉の項で見たように、諸国百姓をくたびれさせた原因は天候異変であるよりも、年貢増徴を図って大名・旗本とその代官が恣意的な検地を行ったり年貢割り当てを不正に行ったりしたことにあった。
実はこの時代までの幕府領や旗本領(そして大名領も)の代官は、幕府の役人というよりも、その土地の昔からの土豪や豪商が代官職を世襲し、いわば領地の管理と年貢収納を幕府・旗本から請け負うというのが実態であったからだ。幕府は直接百姓を把握するのではなく、村落共同体の長である土豪や庄屋を通じて年貢収納を行っているに過ぎなかったのだ。従って土地の有力者である土豪・代官と庄屋は結託して私腹を肥やす政治を行う。そしてこの時代新田開発が進むに従ってこれらの有力者の下人であった百姓たちが自立した自作農となるに従い、これらの土豪・代官や庄屋などの有力者が村落共同体を支配することに対する批判を強め、庄屋の動きを監視するための組頭などの村役人を置いたり、代官を飛び越えて彼らの不正を幕府に訴える動きに出ていたのだ。
寛文・延宝検地は、これらの自立しつつある小百姓の要求に応えるとともに、土豪・代官や庄屋の不正を糾すことによって、本来幕府の収入になるべき年貢を確保するという側面を持っていたのだ。家綱政権の末期のこうした動きは、30年ほど前の寛永の大飢饉で明らかになった村落統治の悪しき実態を改め、より公正な統治へと転換する動きでもあった。そしてこの動きは次の綱吉政権でも継続され、ここでは不正のあった代官やそれを見逃してきた勘定所役人の多くが処罰され、代官・勘定所の役人は、幕府の忠実な官僚へと再編成される。
4代家綱政権は、江戸時代初期において進展した社会の変化とそれに対応しきれていなかった幕府や藩の統治機構の改革に手をつけた政権であった。教科書が記述した大名改易への対応の変化も、その一環であったのだ。「戦国時代の気風も弱まり、幕府の統治もしだいに安定してきた」からという理由付けでは、事実とはまったく逆の記述になってしまう。社会の変化に対応して幕府の統治を安定させるために、いまだ残存している戦国の気風や統治機構の全面的改編に手をつけたというのが正しい認識であろう。
注:05年8月刊の新版では、家綱政権において大名改易抑制策がとられたことすら全面削除されている。その反面、「17世紀も後半になると、戦国時代の荒々しい気風も弱まり、幕府の統治も安定してきた」という誤った時代認識はそのまま踏襲され、この時代認識はそのまま、5代綱吉の治世の記述に直結されている。新版でも17世紀後期の幕府政治の転換の社会的背景がきちんと把握されていないままである。このことを直接に反映したのであろうが、第4節の 標題も「幕府政治の動揺」ではなく「幕府政治の展開」とあいまいなものに修正され、4代将軍から7代将軍の治世を記述した項の標題の「社会の変動:幕府政治の転換」も完全に削除された。そして5代から7代までの政治は「綱吉の政治と元禄文化」という形で第3節「産業の発達と三都の繁栄」の末尾に組み入れられ(p112)、次の第4節「幕府政治の展開」の冒頭を飾る「幕府財政の悪化と享保の改革」(p116)と叙述の場所としても完全に分断されてしまった。4代から8代までの将軍の治世は、社会の変化に対応した一連の幕府改革であったにもかかわらず、これを一連の対応として捉えることができた旧版の記述の優れた面すら失われてしまったのだ。
(2)綱吉政権は社会の変化に対応した幕政改革を全面展開した
4代家綱政権において社会の変動に対応する幕政の改革に手がつけられたわけだが、この改革が全面展開し始めたのが、次の5代綱吉政権においてであった。
教科書は5代綱吉政権の政治について、次のように記述している(p150〜151)。
5代将軍綱吉は、武士たちが殺伐とした行動に出ないように生類憐みの令を発して、子どもや病人を捨てることを禁じ、犬から虫にいたるまでいっさいの生き物の殺傷を禁じた(1687年)。また湯島聖堂で孔子をまつるなど儒教の普及に努めた。武道より学問を重んじた綱吉の政治を、文治政治という。各藩でも藩校を設け、儒学による武士の教育に努めるようになった。 しかし、生類憐みの令は、犬を斬ったため島流しになるなど、多くの人々を苦しめた。また綱吉は、仏教や神道をさかんにするため、多くの寺院や神社の造営を行い、これにかかる費用で幕府は財政難におちいった。そのため、幕府は貨幣改鋳(貨幣に含まれる貴金属の量を増減してその価値を変えること)で貨幣の量を増やして、収入を増加させたが、これは物価高を引きおこして、人々の生活を圧迫した。 |
5代綱吉の政治は人々に迷惑をかけ、幕府財政を悪化させただけではなく経済まで混乱に落とし入れたという評価であり、これは「悪政である」という、さんざんな評価である。この記述は、生類憐みの令の記述などは従来より詳しく、「人間も含めすべての生き物を大事にしろ」というお触れであってけして犬だけの問題ではなかったことを提示したことに見られるように、近年の歴史研究の深化を不十分であるが反映している面があるとはいえ、全体としては従来からの「悪政である」という、綱吉の治世の背景と目的を無視した表面的な歴史研究の流れを全体としては踏襲したままである。しかもたくさんの事実誤認も含んでいる。
4代家綱政権が大名改易の抑制を含めて変動する社会の状況にあわせて幕政を改革し始めたことを理解できれば、次の5代の政治ではこれはどうなったのか疑問がわいてこよう。
教科書の記述では、社会の変動に合わせた幕政の改革は、5代・6代・7代の治世でも行われず、8代吉宗の時代になってようやく手がつけられたということになっている。享保の改革である。そしてこれが従来の学説なのだが、本当にそうなのか。
綱吉政権の性格について、近年の研究に依拠して教科書の間違いを糺しておこう。
@真っ先に手がけたのは幕府の財政改革であった
まず財政難の問題をとりあげよう。
幕府財政の悪化の問題でも、教科書の記述では、悪化の原因は綱吉が多くの寺社の造営に金を遣い過ぎたからだということになってしまう。
たしかに貨幣改鋳はこの費用を捻出するために貨幣に含まれる金銀の含有量を減らして(金銀の含有量を減らすとは記述していないがこれは常識である)、その分だけ浮いた差額を幕府の収入としようという目的も含まれてはいた。これは歴史を学んだことのある者なら知っている常識であり、教師も補足できることである。
しかしなぜ収入を増加させるために貨幣の改鋳なのか。収入を増加させるためなら、他にもっと良い方策があると、誰でも考えるであろう。近世編1の「大開発の時代」の項で見たように、幕府や藩は大規模な新田開発を行って米の大増産運動を行っていたし、商品作物の栽培も奨励していたのだから、こうやって世の中が豊かになれば自然と幕府・藩の収入も増えるわけである。なぜそれをやらなかったのか。当然出てくる疑問である。
この疑問は、教科書の次の項「幕府財政の悪化と享保の改革」の冒頭の記述を読むとすぐ理解できる。
ここには「幕府や藩の支出が増大したが米価の下落によって幕府藩の収入は減り、慢性的な赤字になった」と記述してあり、これが「幕府の財政難の根本的原因」であると明確に記述している。年貢の主たる源泉である米の大増産は、米価の下落を引き起こす。当然幕府や藩の収入は減る。だから財政は逼迫する。
でもこう読んでいくと、教科書の幕府財政は綱吉が多くの寺社の造営を行ったからだという記述と相反する。
唯一の整合的な解釈は、「綱吉の治世の前にすでに幕府財政は米価の下落によって悪化しており、大規模な寺社の造営によってさらに財政は悪化した。そしてその費用を捻出するために貨幣の価値を下げて利益を得ようとした」というものだ。
教科書はまったく記述していないが、綱吉政権が真っ先に手がけたのは、財政機構の改革によって、幕府の財政難を解消することであった。財政難を解消するために当時考えられた手を真っ先に打ったのだが、それでも解決できずに貨幣改鋳に手を染めたということなのだ。
(a)代官の不正を糺し、百姓と幕府の収入を増やす
綱吉政権が真っ先に手がけたのは、旗本領も含む幕府領を実際に統治する代官の勤務査定と粛清であった。
綱吉は将軍宣下の儀式も終わっていないのに、手始めとして民政の改革に着手した。
1680(延宝8)年8月3日、彼は「近年幕領の百姓が疲弊しているので、仁政を施すことによって衰亡のないようにすること」を老中に命じ、5日に彼自身の将軍擁立に功のあった老中堀田正俊に「農民のことをつかさどるべし」と命じ、後の「勝手方老中」という月番制で政務を見るのではなく財政部門を専管する老中職を置いた。
そして老中は8月7日。代官の服務規程を布告した。
この規定は第1条において「民は国の本なり」と規定して、代官は「常に民の辛苦をよく察し、飢饉などの憂いこれなきように」と申し付けている。そして民に疑念を持たれないように代官は行動すべきことを命じ、具体的には、第4条で「手代に任せず代官自身で職務に励むこと」を指示し、さらに第5条で、「支配所の民を私用に使役しない」「民から金銀米などを借りたり民に金銀米などを貸したりしない」ことを命じ、第6条では「常に堤・道・橋の普請や河の掃除に心がけ早めに修理すること」や「百姓の間に争論があるときには軽いうちに処置し内々に処置できるときはえこひいきのない」ことなど、具体的に代官としての治世の心がけを命じている。そして最後に第7条で「年貢未進がないよう心がけること」を命じている。
つまり代官が私腹を肥やす不正をすることなく、百姓がきちんと農事に専念できるように心がけ、年貢をきちんと幕府に納めるように指示しているのだ。要するにここで禁じたような不正を代官が行っており、農政が行き届かず百姓が困り、年貢もきちんと納入されていないからこれを糺すと宣言しているのだ。
これは将軍に対して「公領の衆民」が困窮しているという情報が入ったためであったという。ということは4代家綱の治世の末年に行われた寛文・延宝の検地において代官や庄屋の不正の有無が調べられているから、その実情を知っている勘定所の役人から将軍に実情の注進と民政の体制刷新の具申があったということであろう。
この布告は翌1681(延宝9)年早速実施された。
1月に昨年に京大坂で米価が急騰したおりに米を退蔵して私腹を肥やした役人があったとの訴えがあったゆえにこれを査察する旨が布告され、2月になると勘定所役人4人に特別に命じて、代官未進会計の摘発特別班をつくらせ、さらに翌1682(天和2)年には新たに勘定差添役(後の勘定吟味役)を置いて、勘定所の役人や代官を監視した。この摘発班の査察によって、翌1682(天和2)年には摂津
(大阪府)の代官1名とその子息が「職務怠慢」を理由に追放された。そして摘発は続き、1685(貞享2)年までに9人の代官が切腹・免職・流罪・追放となった。
さらに1687(貞享4)年6月には勘定組頭荻原彦次郎1人に「総代官の会計の査察」が命じられ、翌7月には伊豆・三島(静岡県)の代官と越後・高田(新潟県)の代官が摘発され、前者は解任の上お預け、後者は流罪の上切腹となった。そしてこの代官摘発はその後も続き、1689(元禄2)年4月までに、都合16名の代官やその子どもが摘発され、斬首・切腹・流罪・免職などの処罰がなされた。またこの民政官の摘発は代官だけではなく、それを監督する勘定所役人にもおよび、勘定頭(奉行)3名の罷免と勘定吟味役1名の罷免、さらには平勘定8名を罷免降格処分や流罪などにして、勘定所全体の体制が刷新されたのであった。
こうして世襲的に代官として幕領支配をしてきた代官の多くが粛清されて代官は勘定所支配の忠実な官僚と化すこととなり、また今まで代官の不正を見逃してきた勘定所の役人の多くが罷免されたことで、勘定所そのものも忠実な官僚へと変貌することとなる。
この代官・勘定所役人の粛清は「年貢収奪の増強」を図った封建的なものとの評価も一部にはあるが、ことの経過を資料に沿って見ていく限り、増大する小百姓の土豪・代官と庄屋の共同体支配と不正に対する批判に依拠しながら民政の公平を確保することを通じて、新田開発や商品作物栽培の拡大によって増大した生産力に見合った年貢を収納しようとした寛文・延宝検地の成果を実現しようとするものであったに違いない。1681(延宝9)年から1707(宝永4)年までの間に処分された代官は、代官総数約50名のうちの35名。その半数の18名が世襲代官であり、25人の処罰理由が年貢の滞納であったからだ。
この大規模な民政機構の粛清・建て直しを実施した勘定組頭荻原彦次郎は1687(貞享4)年9月に勘定吟味役へと出世して、幕府の財政機構の中枢である勘定所を差配する中心となった。彼が後に貨幣改鋳を指揮した勘定奉行荻原重秀である。
だがこうして民政機構の建て直しをやったとはいえ、年貢収入をむやみに増加させるために検地を恣意的に行うわけにはいかない。寛永の大飢饉の原因がこの無理な年貢増徴であった以上、この方策はとれない。代官・勘定所の粛清建て直しと検地の実施によっても、幕府の年貢収入はそれほど増えなかったのだ。
注:代官が村の有力者と結託してその年の作柄の検査を誤魔化し、収納すべき年貢を収納せずに私腹を肥やすということは、この後も続いた。次の6・7代将軍の時代に政治顧問として活動した新井白石も年貢収入が伸びない理由として代官の不正をあげている。代官の大量粛清と全員の配置転換を強行して、代官を完全に幕府勘定所配下の官僚への転換をやりとげたのは、8代将軍吉宗治世下の幕府である。
(b)鉱山の体制を改革し金銀産出量を増やす
そこで次に幕府が目をつけたのは、年貢収入以外の重要な収入、幕府最大の金銀山である佐渡鉱山の採掘・金納入体制の刷新であった。最盛期の元和期(1615〜24)には年間で推定で800キログラム近い金
銀を上納した佐渡金山も次第に採掘量が減り、元禄期(1688〜1704)には年100キログラムを割り込むほどに落ち込んでいた。中国などから絹や陶磁器や砂糖などを購入するに不可欠で通貨の基本であった金
銀の産出そのものが激減していたのだ。このことも幕府財政の窮乏の1つの原因であった。
この佐渡鉱山の改革を行ったのが、1690(元禄3)年に勘定吟味役と佐渡奉行を兼任した荻原近江守重秀であった。
荻原がやったことは、大規模な資本投下を行って金の産出量を増やすことであった。
当時の佐渡金山は次第に鉱脈を掘りつくし、坑道は地下深くに達していた。そのため各所で出水が相次ぎ、手回し式のポンプを導入しても解決できず、多くの坑道が水没していた。これが金採掘量の激減の原因の1つであった。この問題を解決するために排水のための長さ900mのトンネルを掘削させ5年の歳月を要して完成させた。この結果多くの坑道が復活し、金の採掘量は往時に復帰したのであった。このために投下された資金は都合11万3000両(約183億6000万円)であった。
しかし金採掘量の減少の根本的な理由は、当時の技術で採掘可能な優良な金鉱脈の枯渇であった。排水のためのトンネルを作っても、これは一時的なものに過ぎなかったのだ。従って十分な金を確保しようと思えば、別の面にも目を向ける必要がある。
(c)長崎貿易のありかたを変え、金銀の流出を抑える
それが日本の金銀が海外に流出する海外貿易であった。そして幕府が主として管轄するのは天領長崎での貿易であった。
日本は当時世界有数の金銀の産出国であり、およそ世界の金銀の3分の1を算出していたと言われる。そしてこの豊かな金銀でもって日本は、中国や東南アジアを通じて、生糸・絹織物・陶磁器・砂糖・香料などの品物を大量に購入していた。しかし日本から中国・東南アジアに輸出する品物はなく、代金は銀を主として使っており、銀が枯渇しつつあった時代には金の輸出も認めていた。要するに豊かな金銀を使って中国・東南アジアから「文明の産物」を購入するという片肺貿易であったのだ。
長崎を通じては大量の金銀が海外に流出している。
銀が最も流出した1661(寛文元)年には3万1000貫(11万6250s)以上の銀が流出しており、この時期の銀座の銀貨鋳造量が年7000貫(2万6250s)だから膨大な量の銀が流出していたのだ。
従って幕府もこの膨大な銀流出量を抑えようと、1664(寛文4)年には、生糸の貿易額の半分までは金で支払うことを認めていた。しかしこの方策は金の海外流出をも増大させることとなる。
後に5・6代将軍の下で政治顧問として活動した儒学者・新井白石は、1715(正徳5)年に長崎における貿易量を制限する布告を出すにあたって、江戸初期以来の金銀の海外流出量を算定している。それによれば、金の流出量は国内の金の保有量の4分の1の719万2800万両、銀の流出量は国内の銀の保有量の4分の3の112万2627貫に及んでいるという。
幕府は貿易量を制限する方法をとって、金銀の海外流出を防ごうとした。
1685(貞享2)年、幕府は「御定高制」を定め、唐人は年に銀6000貫(金換算で10万両)、オランダ人は金5万両を越えてはならないとし、貿易量の制限をはかった。しかし輸入される生糸・絹織物・砂糖などは日本での自給は当時はできず、すでに庶民にいたるまで絹織物を着込み砂糖菓子を食べていた状況では、貿易量の制限は深刻な不景気を招き、反面では密貿易を増大させることとなる。必要なのは貿易を制限して経済活動を低調にさせるのではなく、貿易を活発に行いながらも、金銀の海外流出を抑える政策であったのだ。1685年の貿易制限以後、幕府は貿易の支払いの一部に金銀に代わって銅を輸出することを許可し、そのおり1690(元禄3)年あたりから伊予の国(愛媛県)の別子銅山の採掘量が増大したことを背景にして、銅代替輸出を本格化していった。
そして幕府は1697(元禄10)年、新たな長崎貿易体制を布告した。
この布告の要点は、長崎貿易の幕府直轄化であり、長崎奉行所の統括の下に長崎町年寄りらによって運営される「長崎会所」が行うこととし、その費用は幕府が負担し貿易事務に必要な経費を差し引いて、その利益は全額幕府に上納させることとなった。この結果年15万両(約18億円)の貿易総額とその他付随した貿易利益4万両(約4億8000万円)から貿易事務経費の11万両(約13億2000万円)を差し引いた残りすべての8万両(約9億6000万円)ほどが、全額幕府の収入となったのである。そして幕府は1700(元禄13)年に大坂銅座を設立して銅の売買を専管させ、輸出のための銅の調達体制を確立した。
こうして金銀の流出を抑えるために確立した長崎貿易の直轄による利益は、後の享保年間においても幕府収入の7%ほどを占め、貴重な現金収入となったのであった。この貿易体制の変更を主導したのは、1696(元禄9)年に勘定奉行となった荻原重秀であった。
注:この改革でも貿易を通じた金銀の流出を完全に止めることはできなかった。基本的には輸入するだけの片肺貿易を改善し、日本からの輸出を増やし、輸入品の自給を達成しなければ、これは解決のできない問題であった。貿易の根本的な改善は、輸入品の国内自給化対策と、その後の俵物などの輸出品の調達にまたねばならなかった。
(d)金銀貨幣の改鋳−貨幣量を増やして商品流通を円滑にする
ことも目的の1つであった
だがこうして年貢収納体制を改革し、金銀採掘体制も改善し、長崎貿易体制を変えて金銀の海外流出を制限しながら貿易の利益を幕府が独占する体制を築いても、幕府財政の逼迫は根本的には改善しなかった。幕府財政の逼迫の根本原因は、収入の中核を占める米の値段の暴落と、江戸とその基盤の関東が江戸に
住む武士や町人の生活用品を自給できず多くを京大坂から移入しているため消費物資が米に比べて割高となり、ために武士の家計の収支が赤字になるからであった。この問題に手をつけない限り、財政難は解消しない。
幕府はこの時代に始めて江戸における物価調査を行った。1668(寛文8)年2月に、米・大麦・小麦・大豆・小豆・油・魚油・鯨油・菜種・胡麻・荏胡麻・酒・塩・薪・炭の在庫調査を行い、続いて4月にはこの15品目に加えて、呉服物・絹・紬・真綿・材木の相場を調べさせている。江戸の住人の生活に不可欠で多くは上方から移入されている品物の数量と価格を調べたわけだ。武士の財政難を解消するためには、物価統制も不可欠だったからだ。だがこの時代にはここまで手をつけてはいない。在庫調査と価格調査が行われるに留まっていた。
注:これは、綱吉政権の官僚たちも、武家の財政難の原因を的確に認識してはいた証拠である。詳しい諸商品の流通経路や在庫調査・価格調査を行い、これらの消費物資の価格統制を行う政策は、8代吉宗の代の町奉行大岡忠相によって実施される。
そこにもってして、5代将軍綱吉は権威と道徳によって国民統治を強化しようとしたために多くの寺社の造営を行い、このために幕府の財政はさらに逼迫し、江戸城に蓄えた金銀も底をつくほどの惨状を呈してしまったのだ。
幕府は1695(元禄8)年、大規模な貨幣改鋳に踏み切り、金貨・銀貨の金銀含有量を減らして大量の金貨・銀貨をつくり、それを金銀含有量の高い旧貨幣と等価で交換することを布告して、その分で浮いた金銀をもって幕府の収入とした。
このとき鋳造された元禄小判は金の含有量が10.2388g、小判全体に占められる金の含有比率は57.36%。これは旧貨幣である慶長小判の金含有量が15.0577gで含有比率が84.29%だったのと比べると、大幅に小判の品位が落ちている。慶長小判2枚を鋳潰して元禄小判に鋳直せば、3枚の小判ができることになり、慶長小判と元禄小判を等価として交換していけば、幕府は大きな利益を得ることとなる。
幕府はまずは幕府所蔵の慶長小判を元禄小判に鋳直して市中に流通していた慶長小判と徐々に交換させ、交換で手に入れた慶長小判を順次元禄小判に鋳直す方法をとった。こうして元禄8年の改鋳以後の8年間で幕府が得た利益は、額面で450万両余り(540億円余り)と言われている(新井白石の推定による)。
この政策は、慶長期以後の貨幣経済の発展によって豪商の手に帰した富の多くを、貨幣改鋳という形で幕府が取り上げる方法であった。まだ商品流通の実態も把握できず商人個々の利益や財産を把握できない当時にあっては
、所得税も消費税もかけることはできないのであるから、商業活動で商人の手元に集まった富の一部をを幕府が収納するには有効な手立てであった。
しかしこれは当然、慶長小判を大量に所蔵してきた豪商たちの抵抗に直面する。豪商たちは手持ちの慶長小判を元禄小判に交換しようとはせず、退蔵する。そして金属価値の低下した元禄小判を西日本の基本通貨である銀と交換する際には、
従来は慶長小判1両は銀貨60匁ほどと交換していたのを、純金量がほぼ3分の2に低下した元禄小判は銀貨50匁程度と純金の量
に見合った額でしか取引しなかった(このとき後に見るように銀貨の銀含有量も減らされていたので、銀貨との交換量が単純に3分の2に減ることにはならなかった)。これでは元禄小判の
交換価値は低下してしまい、金貨で西日本の産物を購入していた幕府・江戸の商人は購入できる産物の量が減ってしまう。今までと同じ必要量を手に入れようとしたらかえって出費がかさみ、これでは貨幣改鋳の効果はないのだから、幕府はあの手この手で元禄小判を流通させようとする。
幕府は退蔵された慶長小判と元禄小判との交換を促すべく、交換期限を限ってしまう。1697(元禄10)年4月を持って交換期限とし、それ以後は慶長小判は流通禁止としたのだ。それでも交換は進まない。進まないどころか慶長小判が使えなくなるのであれば、勝手に慶長小判を鋳潰して元禄小判を作り、幕府が儲けることができなくしてしまう動きすら現れる。偽せ金作りである。幕府はこれとも戦わざるを得なくなった。
そしてさらに幕府は元禄小判を流通させるために、1697(元禄10)年に従来はなかった2朱金(1両の8分の1)を発行する。従来は小判の下の貨幣は1分金であり、これは小判の半分の価値があった。しかしこれをさらに下位の通貨である銅銭と交換すると1000枚を越え、携帯にも大変不便であった。そこで小判と1分金の下に2朱金を導入して
、小判なら2朱金8枚、1分金なら2朱金4枚と交換できるようにし、貨幣の量を増やして商品流通の便を良くしようとしたのだ。
もともと貨幣改鋳は、金銀の含有量を減らして幕府が利益を上げようとした目的以外にも、足りなくなっていた貨幣の量を増やし、発展し拡大していた商品流通を便利にしようとする意図もあったからである。事実幕府は、1699(元禄12)年に不足していた銅銭の寛永通宝を大規模に鋳造した。商品流通が活発となってそれを交換する通貨が大幅に不足していたからであった。しかしこのとき作られた寛永通宝は従来のものに比べて小さく薄く、鋳造の品位も落ちている粗雑なものだったので不評であった。このとき新しい寛永通宝への不評に対して、
貨幣改鋳の責任者・勘定奉行荻原重秀が放ったと伝えられる言葉が秀逸である。
「貨幣は国家が造るもの。たとえ瓦礫であっても行うべし」と。
貨幣は交換手段だというのだ。たとえ瓦礫であっても(今日で言えば一片の紙切れであったとしても)、発行する国家の信用を背景に貨幣として通用する。今日の信用貨幣の考え方である。だから金含有量の少ない元禄小判も、含有量の多い慶長小判と等価だと国家が決めたのだから、それで通用させろというわけである。
しかし当時の人々はまだ貨幣をそれ自身としてお宝であると考えてきた。貨幣の交換価値よりも、貨幣自身の貴金属としての価値が重んじられていたのだ。だから元禄小判の通用を拒み、さまざまな混乱が起きたわけである。
そして混乱はこれだけではなかった。
実は元禄小判の鋳造と平行して、幕府は新たな銀貨の鋳造も行っていた。
これまでの慶長丁銀・豆板銀の銀含有比率は金貨と同じくほぼ80%あり、純銀とほぼ等価として交換されていた。そして慶長銀の多くが長崎などの外国貿易での交換手段として使用され海外に流出していた。しかし新たに鋳造された元禄丁銀・
豆板銀の銀含有比率は64%とかなり銅が多く含まれていたため、貿易に訪れる中国やオランダ・朝鮮の貿易商人は元禄銀の受け取りを拒否し、貿易が滞ってしまった。
しかも幕府はさらに銀貨の鋳直しを行った。
1706(宝永3)年には宝永2つ銀(丁銀・豆板銀)を造り、元禄銀と等価として流通させた。この宝永銀は銀の含有比率がさらに低下し50.7%へと下げられ、半分は銅であった。これは直接的には、元禄
8年の改鋳のときに金貨(小判)は金含有比率が84.29%から57.36%と約32%減だったのにたいし、銀貨は80%から64%と20%減だったので、金安銀高となり
、金貨・銀貨の交換比率が、金貨1両を銀貨60匁であったのを銀貨50匁に下がって、金貨での購買力が低下したのを元に戻そうとするものであった。
しかしこうなると宝永銀はほとんど銅貨である。しぶしぶ元禄銀での貿易を認めていた朝鮮商人は、完全に宝永銀貨での貿易決済を拒否してしまった。このため対馬経由で日本に入っていた朝鮮人参が品不足となって価格が高騰。幕府はしかたなく、貿易決済にのみ使用を限った慶長銀と銅品位の銀貨を鋳造し、貿易決済にあてることとなった。
国内的にも国際的にも、金属としての価値の高い貨幣が通用していた時代にあって、金属品位を落とした貨幣が受け入れられるには多くの時を要したのである。
注: この銀貨の金属価値を下げることで金貨と銀貨の交換比率を金高銀安にして幕府・江戸の購買力を高めようという政策は、銀貨が国際通貨として流通していることから、大きな問題を招いた。この政策に対しては同時代に側用人・老中格であった柳沢吉保につかえた儒学者・荻生徂徠が明確に批判している。金貨の銀貨に対する価値を高めたかったら、金銀の比率をいじるのではなく、通常の売買の基本通貨である銅銭に対する金貨・銀貨の比率を変えて金貨の交換価値をたかめることだと。そしてこの意見は8代将軍吉宗の諮問に答えた彼の著書「政談」に記され、後に町奉行大岡忠相によって実施される。この点については享保の改革の項で述べることとする。
なお従来は、この元禄の貨幣改鋳による旧貨退蔵の影響で物価が高騰し、人々の生活に難儀をきたしたと言われ、「つくる会」教科書でもそう記述されている。
しかし実際に当時の江戸と大坂の米価の推移を調べてみると、1695(元禄8)年の改鋳以後10年間の米価は、年率で江戸では2.8%、大坂でも2.7%に過ぎない。緩やかなインフレ(物価上昇)と言ってよく、諸物価が急騰したとは言えない。しかもこの時代は継続的に米価が他の消費物資に比べて安くなる傾向があり、諸商品の価格や賃金は上昇傾向にあった。ということは年率3%程度の物価上昇は、賃金の上昇で吸収されてしまう。
勘定奉行荻原重秀の詳しい伝記を著した村井淳志の研究によれば、貨幣改鋳によって物価が高騰したという従来の理解は、貨幣が改鋳された1695(元禄8)年と翌9年とは冷夏であり、ために米などの収量が減少して米価が跳ね上がったのではないか。事実、改鋳の翌年である1696(元禄9
)年の大坂の米価は前年の米1石銀75匁に対して、米1石銀105匁と急騰している。そして江戸の幕府の米買い上げ価格も、前年の米100俵28両に対して36両と急騰している。
貨幣改鋳と気候変動による不作が重なったことで、貨幣の改悪で物価が急騰したという理解が、当時生まれたのではないかということである。貨幣改鋳による物価高という認識は虚像だったのだ。
(e)幕臣の給与体系の大改造
そしてこの時期幕府は、幕臣の給与体系の大改造を行っている。
1695(元禄8)年ごろ幕府は、関東地方の幕府領の検地を実行している。これは幕府旗本の給与体系変更に伴うものであった。
幕臣は旗本が約5000人、御家人が2万人ほどいたが、その多くは幕府の浅草御蔵から直接米を給与として受け取っていた。当時の幕府の天領400万石から得られる年貢収入は、年間76万両余りであったが、その40%あまりの30万両余りが、幕臣に直接支払う給与としての米であった。そして幕府から知行地をもらってそこを治め、自身で年貢を収納して収入としていたのは、一部の上級旗本に過ぎなかった。
実はここにも幕府財政悪化の原因がある。
なぜならば年貢は、不作・凶作などが起きれば、それに対応して減額せざるをえない。幕府の年貢収入は減るのだ。しかし給与として米を直接御蔵から受け取る旗本や御家人の給与は、常に額面どうりで500俵取りなら500俵毎年きっちり受け取る。これでは不作や凶作が起これば、幕府
財政は悪化するわけである。
幕府勘定所は、これを改善しようとした。
当時の武士の観念としては、同じ給与額でも知行地を支給されるほうが、米を支給されるよりは格の上の武士であると認識されていた。知行取りになることを出世と考えていたのだ。
幕府勘定所はこれを利用した。
1697(元禄10)年、幕府勘定所は、これまで500俵以上を米で受け取っていた旗本は原則として知行取りに変更する旨を布告した。そして合計542名分を知行地に割り振ったのだ。知行取りとなれば、不作・凶作になれば年貢を減額せざるをえない。そうすれば、不作・凶作となったときの幕府が家臣に支払う給与
を大幅に減らすことができる。こういうカラクリである。
そしてこの新規知行地振り替えに応じて関東の天領や旗本領・大名領の検地をし直し、旗本や譜代大名の領地を大幅に変更しつつ、新たに知行取りとなった旗本の知行を関東地方に割り振っていったのだ。
この方策は一石二鳥を狙ったものだ。
1つは幕臣の給与削減。当時の幕臣の数は多すぎた。戦国期末期に戦勝による領国拡大をもくろんで多くの家臣を抱えたが、太平の世となってそれらを使うあてがなくなっても、大規模な人員整理はできなかった。ために幕臣が多すぎたのだ。そのため多くの役職は複数人員で兼務することになり、月番交代で業務にあたることとなる。現在の感覚で言えば
1つの仕事を複数の人員で担当するワーク・シェアリングに近い。しかし現在のワーク・シェアリングが仕事と当時に給与も分割し、総体としての賃金を抑制しかつ失業を減らす方策であるのに対して、江戸時代武士のワーク・シェアリングは仕事の分担だけで、複数の役人はそれぞれ役職に応じた同等の給与
(役料という)をもらうことになり、賃金負担はかなり重かった。だから当時の幕臣の中には、家伝来の家禄はもらえるものの役職にはつけず(無役という)、毎日仕事に出かけることなく家で暇をもてあます武士が多数いたのだ(諸藩でも事情は同じである)。したがって少しでも幕臣の
家禄を削減することは、幕府財政の好転に寄与する。
この政策のもう1つの目的は、幕臣の官僚化であった。
江戸開闢いらい約100年たつ当時においては、知行地をもらっていた旗本は、その土地の小大名と化していた。つまり幕府の政策や命令をその地域に貫徹できにくくなるのだ。ましては関東地方にも多く存在した小大名である譜代大名はそうである。それを幕府の都合によって領地替えを行うことによって、幕府の命令に従う官僚へと、旗本や小大名をかえていこうということである。
注:幕臣の給与体系変更に伴う元禄検地で、幕府は田畑を質に入れた結果流れて田畑の所有者が検地帳に記載された年貢負担者と異なった場合、現に田畑を所有しているものを年貢負担者に認定するという処置を取っている。これは田畑の永代売買を事実上承認する措置であった。
(f)大仏殿造営を国役にて実施
こうして綱吉政権においては、さまざまな対策が施され財政難を少しでも解消しようと努めていた。
しかしその側で将軍綱吉は、次々と大規模な寺社の造営を繰り返し、老中と勘定所共同で進めた増収策で得た利益もすぐに消し飛んでしまう。幕府は大変なジレンマに陥っていたのだ。
そこに戦国時代末期の戦乱で焼け落ち破損した奈良の大仏と大仏殿の修造の話が持ち上がる。戦乱によって大仏殿は全焼し、大仏の頭部も焼け落ちて両手も失われ、大仏の上半身は原型をとどめないほど破損していた。とりあえず頭部は元に戻してつなげたものの、奈良の大仏は1567(永禄10)年以来、破損されたままで放置されたのであった。
東大寺学僧の公慶上人はこの修造を祈念し、幕府の許可をえて諸国勧進を行って1万2000両(約1億4400万円)を集め、1692(元禄5)年に大仏本体の修造を完成し大仏開眼供養を実施するところまでこぎつけた。しかし問題は大仏殿の造営である。奈良時代と同規模の大仏殿を造営するには、18万両(約21億6000万円)もの巨額の費用が見込まれた。しかしこんな巨額の費用は幕府は負担できる状態ではなかったのだ。
しかし公慶上人は将軍綱吉が尊崇した知足院(護国院)の隆光の助力を得て将軍綱吉にも謁見し、大仏殿再興の許可を得ている。これは将軍お声掛の事業でもあったのだ。
しかたなく幕府は1699(元禄12)年に、大仏殿の規模を往時の3分の2程度に縮小して総工費を10万両(約12億円)程度に圧縮するとともに、この費用の半額5万両を天領への賦課金として、高100石につき金1分として5年かけて集めることとした。さらに1701(元禄14)年には、残りの5万両を大名領から徴収する(国役という)こととし、高100石につき金2分を2年間で徴収することとした。大名領はおよそ2000万石だから年間5万両、2年で10万両。計画を上回る額である。
こうして幕府は初めて大名に対して課徴金を賦課する。
江戸時代の大名領は独立国家であるから、幕府が大名領から年貢諸役を徴収・徴発することはできなかった。それをあえてやったのだ。それほど幕府は財政的に困窮していたということであろう。
民政機構の改革や金山採掘体制の強化、そして貿易体制の再編や貨幣改鋳、はては幕臣の給与体系の変更までやって財政改革に努めたが、それでも幕府財政の悪化は食い止めることができなかたったということだ。
A相次ぐ災害を幕府の強い指導の下で対応
そこに泣きっ面に蜂のようにして、相次いで天災が襲っていった。幕府はますます財政出動をせざるを得ない事態に追い込まれた。
江戸時代には幕府は公儀として認識されていた。公儀とは天の委任をうけて人間世界を統治する主体、今流にいえば政府であり、天に代わって人民の暮らしを守るべきものとされていた。あいつぐ天災で人民が困窮しているのに、これを放置することは許されなかったのだ。
(a)相次いだ災害−風水害・飢饉・大地震・富士山噴火
寛永の大飢饉によって社会矛盾が噴出し、幕府はこれへの対策を迫られたのだが、その後の4代家綱・5代綱吉の治世下の時代もけして平穏な時代であったわけではない。
特に目立つのが各地で風水害が起きていることである。
ちなみに日本史年表に挙げられたものを列記してみると、家綱治世下では、1658(明暦4・万治元)年・1660(万治3)年・1666(寛文)年・1674(延宝2)年・1676(延宝4)年・1677(延宝5)年・1680(延宝8)年と
、秋になると諸国で風水害が起きている。この延宝8年は5代綱吉治世の開始の年だが、各地で風水害、とりわけ大洪水が起こることはこれ以後も続き、1704(宝永元)年には幕府のお膝元の関東で利根川が出水し、各地に甚大な被害を与えている。
これは自然災害というよりも人災であった。
この時期はそれ以前から新田開発が進行した時期なのだが、開発の過度の進行は、本来雨水を土中に保水し大洪水を避ける自然のしくみを担っていた森林を伐採して耕地に換え、さらには洪水時に出水した河水を一時的に貯めて田畑が水に漬かることを防いでいた河川流域で遊水地であった原野を耕地に換えていた。そのため洪水が起こりやすく、起きた場合には田畑・人家に甚大な被害をもたらすことになったのだ。
この時代に活動していた儒学者で、岡山藩で農政を担当していた熊沢蕃山は、諸国で年貢増徴を狙って新田開発を進めることに反対し、新田開発によって山野が荒廃したことが各地で風水害を多発させた原因であると厳しく指摘していた。それでも領主層の収入の源は年貢としての米に依存していたため、本来は耕地に転換できない荒地や森林を開墾して一時的に田畑として検地を行い、実際にはまもなくあまりに人手がかかって採算がとれないために耕作を放棄するというようなことが各地で行われていたのだ。
そして山野の荒廃は大規模な治水事業の実施を求めていたのだが、大河川が集中する地域ほど全体を統治する国持ち大名が少なく、小藩が乱立していたため、治水を個々の大名や旗本に任せていた現状では、大規模な効果的な治水事業が実施できず、ために各地で秋になると大規模な風水害が続いたのであった。
また寛永の大飢饉以後も、各地で飢饉は起きていた。
1669(寛文9)年は北陸以西の諸国で飢饉が起き、1674(延宝2)年・1675(延宝3)年は相次いで諸国で飢饉が起きた。また5代綱吉治世の始まりである1680(寛文8)年の冬は雨や雪が異常に少なく、翌1681(寛文9)年の春には畿内・関東で飢饉が起きていた。
さらに綱吉治世の末期には、東北地方で大規模な飢饉が起きた。1695(元禄8)年の元禄の大飢饉である。
この年の東北地方は正月から降雪・寒気に襲われて春の訪れが遅くて苗の生育が遅く、いつもより田植えがだいぶ遅れた。そこに4月から6月には毎日のように東風が吹いて冷涼な気候となり、6月の末には長雨が続き綿入れを着るほどの寒気が続いた。この傾向は翌7月・8月も続き、8月7日には霜が降り、作物に大きな被害を及ぼしたのである。
このため弘前藩(青森県)では年貢米も例年の3分の1へと激減し、各地で多くの餓死者と百姓が逃亡したため空家となった人家が相次いだ。弘前藩の人口は20〜30万人程度と見積もられているが、このときの餓死者は総数10万人にも上ったと言われている。
さらに隣の盛岡藩(岩手県)でも大規模な凶作が起こり、餓死者が5万人も出たと伝えられている。
そしてこの大飢饉の原因は、単なる天災ではなかった。
この時期までには冷涼な東北地方でも新田開発が続き、各地で江戸時代当初に比べると1.5倍程度の田畑が造成され、各藩とも総石高は表高を大きく上回っていた。そして米はもっとも手早く換金できる作物であったため、領主も百姓も米を売り急ぎ、ために百姓は次の年の種籾すら不足する事態を生じていた。また従来は東北では田畑に稗をまいて凶作時の備えにしてきたのだが、東北は馬の大産地だったために馬の餌となる大豆の需要が拡大し、稗をやめて大豆を栽培するところが増えていた。
こうして打ち続く天候異変によって食料が枯渇したとき、百姓にも蓄えはないし、領主の蔵にも緊急に配布すべき米がないという事態が起き、これが多くの餓死者を生み出す背景となっていたのだ。
弘前藩では幕府に対して御救い米の拝借を願い出て米3万俵が許可されたが雪中のために輸送できず、代わりに支給された金1万両を持って加賀(石川県)・越後(新潟県)方面に米買いの使者が立てられたが、冬の日本海は海が荒れるために廻船は冬は行われておらず、結局御救い米を給付することすらできなかったという。
急速な貨幣経済の進展に、社会が対応できていなかったのだ。
しかし自然災害はさらに続く。
1703(元禄16)年12月31日には、房総半島沖にて大規模な地震が起こり、犬吠埼(千葉県)から下田(静岡県)までの海岸を津波が襲い、中でも外房総から九十九里浜の地域では5〜10mの大津波が押し寄せ、数千人の死者を出した。元禄の南関東大地震である。
震源地は相模トラフ(房総半島沖から相模湾の海底にある凹状の大地。日本列島が乗るユーラシアプレートにフィリピンプレートが潜り込んでいる現場)上の海底で、南房総の野島崎沖。マグニチュード8.1の大地震で、房総半島南部は最大6m、三浦半島南部や湘南の大磯でも最大2m海岸が隆起する大規模な地震であった。この地震での陸上の被害も甚大で、
相模(神奈川県)・小田原では小田原城の天守閣も倒潰し家や寺社の倒潰が8000余にのぼり、死者も2300人以上。江戸でも城中や大名屋敷や市中の長屋などが多数倒潰し、各地で火災も起き
、死者は8000人以上、潰れた家屋も2万以上という大被害をもたらしたのだ。当時の記録では、関東8ヶ国で死者は20万7313人であったと伝えられる。
だが自然災害はさらに連続して襲い掛かった。
1707(宝永4)年10月4日には、東海地方から東南海・南海・九州地方にかけて大地震が起き、推定震度6の範囲は、静岡の清水地方から土佐高知にまでの大規模なものであった。そして
袋井・浜松・鳴海・四日市・大坂などの被害が甚大で、伊豆下田から九州にかけての広い範囲を津波が襲った。伊豆下田では家数920軒のうち857軒が流出55軒が半壊し、男女11人が溺れ死に、大小の船93艘が破損。浜名湖口では津波と地盤沈下のため地形が大きく変わり、新居宿では240軒余り流出・100軒あまり倒壊して、15人の死者を出している。また地震による地盤沈下のために浜名湖の奥の気賀では水田2654石分が水没して湖となり、御前崎付近では土地が隆起して、大須賀町横須賀の天然の良港が全て陸地になってしまった。
大坂では家屋1万600が倒潰し、3020人ほどが死亡。土佐でも津波で1万5000戸もの家屋が流失した。死者は記録されただけでも5000人は超えている。推定マグニチュードは8.4。
そしてこの宝永地震の49日後の11月23日、富士山が大噴火。宝永の大噴火である。
噴火は11月23日から12月9日まで続き、今日でも富士山南斜面に大規模な爆裂孔・宝永火口を残した。
この大噴火による降下石砂による被害は甚大で、山ろくの須走では約4m。浅間社の神主の家に火山弾が落ちて焼け、周辺の民家37戸が焼失。他の民家や浅間社や寺院も、降り積もる火山噴出物の重みと続く地震のため、深い砂に埋もれてしまった。また富士山麓東側の駿河
(静岡県)・駿東郡と相模(神奈川県)・足柄上郡・下郡の被害は甚大であり、多くの田畑が火山灰や土石に埋もれた。さらに風で流された火山灰はかなり遠くまで届き、御殿場で約1m、小田原で90cm、秦野で60cm余り、藤沢でも25cm、そして江戸でも15cmと伝えられる。このため多くの村では二毛作で作っていた麦が全滅し、翌年春の稲の作付けも不可能となり、薪や炭や秣の供給源である野山も深い砂で覆われ、百姓たちの生活基盤は完全に破壊されてしまった。
元禄時代は平和で豊かな時代と言われてきたが、こうしてみてくれば災害の連続した時代でもあった。
そして特に寛永の大飢饉いらい50数年ぶりの元禄大飢饉が起きた1695(元禄8)年という年は、幕府が史上初の貨幣改鋳を始めた年であり、この年の11月には武蔵
(東京都)・中野に犬小屋が設置された年でもあった。貨幣改鋳で豪商の富を奪いとろうとし混乱を起こしたその年に大飢饉が発生し、ために翌元禄9年の米価は数倍に上がり、都市の下層民は暮らしに難儀した。ちょうどその時が生類憐みの令による社会的混乱が頂点に達したときで、江戸市中にあふれかえった野犬を収容する施設を、銀2314貫余りと米5500石を投じて建設し、ここに収容された8万頭余りの野犬
1匹が、1日に白米3合・味噌50匁・干しいわし1合が与えられて手厚く世話されている傍らで多くの都市下層民が日々の暮らしに困り、東北の諸藩では数10万の人々が飢え死にする。
これでは幕府の政治に対して「悪政」という怨嗟の声が充満するはずである。
そして追い討ちをかけるようにして、元禄地震・宝永地震・富士山の噴火と一連の災害が襲う。
この地震と噴火は現代の地震学・火山学の知識からすれば、日本列島が乗るユーラシアプレートとその下に太平洋側から沈みこむ太平洋プレートとフィリッピン海プレートとの歪が溜まり、その歪を解消するためにおきた一連の自然現象である。しかし江戸時代の当時の人の科学的知識では、これは不可思議な転変地異の連続であり、悪政に対して天が怒った結果であるという認識がうまれてもしかたがない状況であった。
勘定奉行荻原重秀によって進められた貨幣改鋳を口を極めて酷評した新井白石は、これらの天変地異を、金銀という国の宝に手をつけた悪政に対する天の天罰だとわめいたくらいであった。
(b)災害対策に諸大名を動員し、国役にて対応
ではこれらの災害にたいして綱吉政権下の幕府は、どのように対応したのであろうか。
打ち続く飢饉に対する対策は、先にみたように、御救い米に対する援助を申し出た藩に対して米を給したり、代わりに資金を援助したりした程度であり、ほとんどなんら見るべき対策は取られていない。しかもこのときは生類憐みの令が出されているときなので、飢えに苦しむ人々が家畜を殺して食べないようにという藩の布告が出され、かえって飢えに苦しむ人々を追い込める役割すらはたしている。
元禄の大飢饉が全国的なものではなく東北地方に限られていたものであるので、その分だけ危機感が幕府にはなかったのではなかろうか。
しかしこの時期に続いた風水害は全国的なものであり、それは直接的に年貢収納の基礎となる田畑の流失という被害をこうむるものであるため、幕府は当時としてはできるかぎりの対策を取っている。
笠谷和比古が徳川実記などの資料から元禄元年以降の河川普請の記事を抜書きした資料によると、綱吉死去の1709(宝永6)年までの間、全国各地でさまざまな河川改修が行われている。そしてこの時期の河川改修で特徴的なことは、「お手伝い普請」と称して、諸大名が動員されていることである。
大名のお手伝い普請は将軍に対する軍役として、これまで幕府の城や江戸の町の造成などに行われてきたものであった。しかしここで初めて大名を河川普請に動員する措置が取られたのだ。
その初めは、1704(宝永元)年の大和川水路修築である。
大和川は奈良盆地を西流して生駒山地・金剛山地の渓谷を通じて越えた後に河内柏原付近で河内平野(大坂平野)に入り、そこから流路を変えて平野を北上し、大坂城の東北で淀川に流れ込む大河川である。しかもその過程でかつて古代には湖であって平坦な河内平野を北上する過程で流路は行く筋にも分岐し、氾濫を繰り返していた川である。そのため江戸時代初頭より各所で堅固な堤防が建設され、ために大和川は流路が固定されて川床に土砂が堆積して天井川となり、いっそう洪水の危険が高まっていたものであった。この川を河内平野に入ったところで流路をほぼ90度西にまげて西進させ、そのまま河内平野を横切って堺港の北側で大坂湾に流れ込ませるという大工事が行われたのだ。
このおり、「助役」として植村・九鬼氏など6家の大名が手伝い普請に駆り出された。
この6家の大名は、姫路・明石・三田・岸和田・大和高取・丹波柏原と大坂近国の大名であるが、大和川が流れている河内の国の大名ではない。
河内の国の多くは幕府領であり、天領と旗本領と譜代の小大名の領地が入り乱れていた。従って統一的な治水事業が行われにくかったために洪水が相次いでいたのだが、それを幕府が一元的に管理し、河道の大規模な付け替えで改善しようとした事業であった。つまり領主の範囲を超えた普請、天下普請だったのだ。
これを幕府の財政が豊かであった江戸時代初期であれば幕府単独で工事を行ったのであろうが、財政難にあえいでいた幕府は単独では工事をすることができず、畿内近国の大名を手伝い普請(助役)として動員し、場所を決めて費用と人夫を大名の下で、工事を担当させたわけである。
この方式は以後も続行される。
同じ1704(宝永元)年には、利根川・荒川の浚渫工事に、山内・佐竹氏など4大名が助役を命じられ、翌1705(宝永2)年には、江戸近辺の浅草川や深川の修理に牧野・水野氏など5大名が助役した。さらに1707(宝永4)年には宝永地震と富士山噴火で壊れた河川修理に本多・酒井・真田の3大名が助役し、同被害対策のための1708(宝永5)年の相模の国の河川修理にも、岡山池田・豊前小倉の小笠原・越前大野の土井・肥後高瀬の細川・鳥取新田の細川の5大名が助役を命じられた。また1709(宝永6)年の駿河・相模における河川浚渫助役には、藤堂・松平の2大名が助役。そして大名の河川普請への助役は、6・7代将軍の代にも継続され、1710(宝永7)年の相模河川浚渫助役には堀田・諏訪・安部の3大名、伊勢長島修造や武蔵の国の六郷渡し場修築助役にも、細川・黒田氏など4大名が動員され、1714(正徳4)年の荒川・利根川浚渫には酒井・相馬・松平の3大名が助役として動員された。
幕府の財政難はうち続く風水害を防ぐための治水事業に、当該の河川流域に領国を持っていない大名の力を借りなければ、必要な工事ができないほどに追い込まれていたのである。そして同時にこれは、将軍も大名もともに公儀として、天に替わって世の中を治める役割を果たすべきものと同時代人には観念されていたのだから、当然の処置であった。
さらに打ち続く地震・噴火に対応して幕府は、災害復旧工事の費用負担を、幕府だけではなく諸大名にも課した。奈良大仏殿造営で取られた国役方式が、ここでもとられたわけである。
1703(元禄16)年の元禄大地震は江戸の町に深刻な被害をもたらし、各所に亀裂の入った江戸城城壁や倒壊した門や櫓、さらに歴代将軍の霊廟や大名屋敷などの再建、そして破損した橋や堤防などの修築に多大の費用を要した。しかも地震で大きな被害を受けた小田原藩にたいしては、1万5000両(約1億8000万円)を貸し与え、その北隣の甲斐の国も大きな被害を受けたのであろう、領主の徳川綱豊にたいしても2万両(約2億4000万円)を貸し与えている。1699(元禄12)年に大仏殿造営のために集めた資金の残りの半分が消し飛んだ勘定になる。自然災害は人知を超えた大規模なものだったのだ。
さらに1707(宝永4)年の富士山噴火で深刻な被害を受けた小田原藩に対しては、被害が集中した駿河駿東郡と相模足柄上郡と足柄下郡、年貢高にして5万6384石の領地を一時的に幕府領に転換し(替わりに美濃・三河・伊豆・播磨などに領地を与えられる)、関東郡代は被災地を巡検して救援金を被災者に送ったほか、砂の厚さが90cmを越えた39村に1年間の間1人1合の米を、砂の厚さがこれ以下の村にも、田1反について300文から1分までの救援金を出した。さらに各地に降り積もった砂を酒匂川を通して流しだす計画を立てて工事を行い、これには多くの大名も助役を命じられたのだ。ただしこの河浚いなどの工事は、実際は町人に請け負わせ、請け負った町人が村々から人足を集めて工事を担当した。助役の大名は地域を分担して、工事の見回り・監督を分担したのである。
この噴火で大被害をうけた小田原藩領の復旧には多年を要した。
幕府は1716(享保元)年幕府領に編入した小田原藩領のうち2万7948石を、小田原藩に返却した。被災地のほぼ半分の普及がなったということだろう。そして残り半分の復旧がなったのは1783(天明3)年である。実に災害から70年あまりの歳月を要したのだ。
そしてこれらの事業に必要な費用を、幕府は全国にたいして、幕府領・大名領・旗本領の別なく課した。
これは石高100石について金2両を徴収するもので、1708(宝永5)年中に幕府金蔵に納められたものは、金48万8770両余り、銀1貫870匁にのぼった。これは幕府の歳入の4割に相当する高額である。
この諸国から集められた高役金のうち16万両が被災地復興に使用され、24万両は江戸城北の丸御殿の造営費用に残されたという。それだけ幕府の財政はきつかったのであろう。
貨幣経済の進展にともなう大開発の時代の進行は、自然との闘いにおいては、封建領主の領国・独立国家がいくつも分立するという幕藩体制では対応できない水準に達していたのだ。
注:河川普請などに対する大名の助役は8代吉宗政権において廃止された。その代わり大河川流域をいくつかにわけて、その大河川の普請の費用を担当する国を決めて、国々は天領・旗本領・大名領の別なく、一定の石高に応じて金銭を課する「国役」方式が定められ、工事は幕府の責任において実施された。5代綱吉政権が末期に実施した「国役」方式が全面的に採用されたのだ。
注:以上の綱吉政権の経済政策については、主として勘定奉行荻原重秀の詳細な評伝である村井淳志著「勘定奉行荻原重秀の生涯−新井白石が嫉妬した天才経済官僚」の記述によった。
B道徳と権威による社会統治への幕政改革
以上綱吉政権の経済政策を見てきたが、かなり困難な状況に対してその原因を的確に分析し、かなり妥当な対策を取っていることが見て取れるだろう。事態の深刻さに対応して経験的に編み出していったという面もあるが、その多くが後の8代吉宗政権による享保の改革にも継承され、幕府財政の再建におおいに寄与したことを考えれば、合理的な解決策を模索していたと言える。
この綱吉政権の経済政策を推進したのは、平の勘定から勘定奉行にまで立身し、幕府の経済政策を一手に引き受けた荻原重秀という優れた経済官僚の存在と、彼を引き立て幕政を推進した大老堀田正俊や老中阿部正武の存在を忘れてはならない。さらに途中から綱吉政権の舵取りに参加した側用人柳沢吉保も、彼自身も微禄から立身した存在であったために、彼らの経済政策を理解し後押しすることができたであろう。
こう見てくると、かなり現実的に合理的に政策を立案・執行できる人材が、綱吉政権には揃っていたといえる。
では同じ綱吉政権が実施し、後世にまで悪政と不評であった生類憐みの令は、いかなる政策であったのか。これまでの経済政策の合理的な面を見るとき、この「悪法」もそれなりの社会的合理性があって布告されたのではないかという推理がなりたつ。
以下に詳しく見ておこう。
生類憐みの令については、1980年代初頭に、2つの独立した研究によって、その実態と社会的背景が明らかにされている。1つは1982年に仮説社の「授業科学研究」第10巻に掲載された板倉聖宣の「生類憐みの令−その範囲・原因とその結果−道徳と政治(その1)」であり、他の1つは、1983年に平凡社から出された塚本学の「生類をめぐる政治−元禄のフォークロア」である。前者は原資料を整理して生類憐みの令の実態を明らかにし、それが単に犬の問題だけではなく人間も含む全ての生き物を大事にするという道徳法令であることを明らかにし、この法令の意味するところをわかりやすく授業案にした授業書として出版されたものであり、この法令の資料集としても優れたものである。また後者は生類憐みの令が実際には何を問題にしていたのか、当時の社会状況と照らし合わせながら解明した社会史的観点での考察である。
以下この2つの論考に依拠して見て行きたい。
(a)生類憐みの令の実際
まず板倉聖宣の本が生類憐みの令と呼ばれた一連の法令を時系列的に列記してくれているので、これに依拠して生類憐みの令と呼ばれる、一連の法令群の実態を見ていこう。
教科書はこの法令が出された年度を1687年としているが、これは間違いである。たしかにこの年の初めに出された一連の法令が全国的に生類憐みを指示したものだが、これ以前にもこれ以後にも生類憐みを呼号した法令は出されているのだ。
法令としての生類憐みの令の初出は、1685(貞享2)年に「将軍の御なりの通行路上に犬猫がでるとも苦しからず」としたもの。
この時代には将軍が外出するときの沿道はごみ1つないように綺麗に清掃され、清掃したという証に道端に白砂を積んだり手桶に水を汲んで置くなど、将軍の通る道は清浄を保つように義務付けられていた。このことに関連して将軍御なりが予定されていた浅草寺の近くにたむろしていた野犬を、寺の別当が捕まえさせて殺させ、簀巻きにして隅田川に沈めていたことが発覚し、その僧侶と犬を殺害した門番を罰したあとに出された法令である。次に出されたのが1686(貞享3)年の馬の尾ぐきを切ることや馬に焼印を押すことの禁止である。
ただこれ以外にも、江戸城中にて「鳥類・貝類・えびなどの料理を禁ずる」指示が出されていたし、将軍の権威の象徴である鷹狩をやめ、鷹匠を減員して配置換えをしたり、野鳥を鳥銃で撃つことを控えるお触れが出されていたことなどは、綱吉が将軍就任の当初から、生類憐みの思想を持ちこれを実践し始めていたことを示している。
そして生類憐みの令が本格的に発動されはじめたのが1687(貞享4)年である。
この年の正月に、「人宿や牛馬宿などで重病の生類を捨てることを厳禁」する法令が、幕府領・大名領を問わず全国に布告される。これは重病人や病に倒れた牛馬を捨てることを禁じたものだが、あわせてその附則に捨て子の禁止も書かれていた。そしてこの法令はその年の内に再度出され、捨て子を見つけたり病人や病に倒れた牛馬を見つけたならば、見つけたものが手厚く看病したり養うことが厳しく達せられた。
この法令は、生類憐みの対象に人も含まれ、さらには労働に不可欠な牛馬も含まれることを示したものである。
またこの年にはさらに細かな法令がいくつも出された。ただしこれらは幕府領を対象にしたものである。
食料として生きた魚・小鳥・鶏・貝類を売買することの禁令、鳥を飼うことの禁令、生きたイモリや黒焼きを売買することの禁令などである。この際、生きた貝類の売買については漁民などの反対によって許可される。また犬に関する法令もいくつか出され、大八車や牛荷車で犬をひき殺すことを禁止するものなどや、この年には犬を斬って島流しにあった武家奉公人の例が初めて記録にもあり、すでにこれ以前に犬を大事にする(野犬であっても)という法令が出されて、飼い犬の場合にはそれぞれの飼い主と犬の特徴を調べた「犬の戸籍」が作られたいたことがわかる。
そしてこの年には、江戸幕府になって初めて、諸国鉄砲改めが行われ、町人や百姓が持っている鉄砲の実態が調査され、「鹿や狼を脅すための銃」と「盗人などを防ぐ用心のための銃」さらに「専業の猟師と認定された者の銃」以外は没収された。これは武器としての銃の取り上げではなく、人間に害をなす鳥獣を駆除するための銃の数を規制することが目的であった。そして実際に害獣を鉄砲で駆除する場合には、幕府や大名お抱えの鉄砲隊が出動して駆除するように改められた。百姓や町人もむやみに鳥獣を鉄砲で殺してはならないというものだ。
さらに1688(貞享5・元禄元)年には牢獄の囚人で死ぬものが多いことに関して囚人の待遇改善の法令が出され、牢獄を風通しよくしたり月に5度入浴させたりなど待遇が改善された。囚人も人間らしく処遇せよというわけだ。
1690(元禄3)年には、トリモチを使って小鳥を取ることは職業的な猟師と鳥差し以外は禁止され、さらに生類をひき殺さないように大八車には監督をつけることが布告された。またこの年には捨て子禁令が再度出され、子どもを養えないものは届出、村や町で養うようにという指示が出されている。
1691(元禄4)年には、蛇や犬・猫・鼠などに芸を教えて見世物にすることが禁止される。
そして1692(元禄5)年には、江戸郊外世田谷の喜多見村に犬小屋が設けられ、病犬などが収容された。さらに、浅草川の諏訪町〜聖天町の間では漁をすることが禁じられ、翌1693(元禄6)年には、釣り船が禁止され、漁師以外のものが魚を取ることが禁止された。さらにこの年には鷹狩が完全に廃止され、鷹匠も配置転換となり、鷹はすべて伊豆諸島新島に放たれた。また1694(元禄7)年には飼われている金魚の員数調べがなされ、10月には江戸中の金魚7000匹ほどを集めて、相模の国藤沢の遊行寺の池に放たれた。
1695(元禄8)年には、江戸市中に群れていた野犬の始末がつかなかったのであろう、江戸・大久保と四谷に幕府直営で犬小屋が建設され、建設には津山藩・峯山藩に助役が命じられた。
さらに中野に新設れた犬小屋は16万坪あり、この犬小屋には8万2000匹、最大で10万匹もの野犬がいたという。この野犬には1匹につき1日で米5合・そのほかに味噌と鰯を与えたという。犬が10万匹いれば米だけで1年で11万石ほどになり、おそろしく巨額の費用である。この費用は江戸の町人からは「小間1間につき金3分(4分の3両・およそ9万円)」、関東諸国の百姓からは「石高100石につき1石」の特別税をかけてまかなわれた。この年、捨て子・捨て犬禁令が再度出される。
これ以後も生類憐み令関連の法令は出し続けられる。
1698(元禄11)年には「猟師以外が屠殺すること」の禁令が出され、さらに1699(元禄12)年には「江戸城の外堀の内側での鳥類の販売禁止」、そして1700(元禄13)年には、捨て子禁令が再度出され、病人は百姓・町人でも許可なく辻かごに乗ることが許されて、従来あった辻かご300台制限が撤廃し、辻かご税が新設された(翌年には辻かご税を申告したものが3612台に達した)。憐れむべき生類に人間(子どもや病人)も入っていることを示したものであろうか。またこの年には、ウナギやドジョウも活き魚だからとして販売が禁止された。また1702(元禄15)年には銃殺した鳥の販売が禁止され、馬が苦しまないために道中の荷馬の重量規定を守れとのお触れが出され、これは1705(宝永2)年・1707(宝永4)年にも再令されている。さらに1705(宝永2)年には鳥を飼うことが再度禁止され、鳥類を含めて弄ぶために動物を飼うことが禁止され、1708(宝永5)年には馬の首の毛を切ることが禁止されている。
以上主な生類憐み令関連の法令を列記してみた。なおここには、生類を憐れまなかったために処罰された例や、生類をどうあつかったらよいかという問い合わせに伴って出された細則は載せなかった。
この一連の生類憐み令は、1709(宝永6)年1月10日に将軍綱吉が死ぬと、ただちに20日には廃止され、生類憐みの令違反で処罰されていたものたちが解き放たれた。新井白石によると、この年のうちに罪を許された者は8831人に達し、その多くが生類憐みの令関連であたっという。しかしこの法令が廃止されるまでには、多くの人々が法令違反の咎で、死罪・遠島・牢獄入りや免職などの処罰を受けていたのだ。
だが生類憐みの令関連の法令の中で廃止されず、以後もずっと法令として機能し続けていたものもある。
それは、捨て子・捨て病人・捨て病牛馬の禁止令であった。これ以外の生類憐みの令はすべて廃止され、処罰されたものも許されたわけだが、このことはこの法令が出された意味を読み取るための核になることであるが、これについては以下に見ておきたい。
(b)変動する社会−
家父長制大家族から単婚小家族へ−が生み出す問題への対応
少し長くなったが、生類憐みの令が単に犬だけを対象にしたのではなく、人間も含む全ての生類を対象として憐れむようにという法令であり、武家だけではなく百姓や町人もすべてに対して出された法令であったことがわかるであろう。この意味で「つくる会」教科書が、子どもや病人を捨てることを禁止したことを記述したことは正しかったが、その発令の目的が「武士の殺伐とした行動を抑える」としたことは誤りであったことは明白であろう。
ではいったいこの一連の法令が出された意味は何であったのか。
この問いを検討するには、生類憐みの令を2つにわけて考えることが有効であると思う。
その1つは、子どもや病人、病に倒れた牛馬を捨てることを禁止した法令。
この法令はそれ以外の生類について定めた法令とは異なり、幕府領だけではなく全国の大名領にも出された布告であることと、法令が定められた時から厳罰(死刑)が想定して出されている。そしてこれ以外のものは、人間に害をなす鳥獣や虫なども含めて、すべての生き物を愛護しむやみに生き物の命を取らないとした動物愛護令と考えられ
、主として幕府領、とりわけ江戸の町を対象として出されたもので、罰則も当初は軽く、守られないために次第に死刑も含む厳罰になったという経過を辿っている。
では最初の問題を検討してみよう。
塚本学は、捨て子・捨て病人・捨て病牛馬に関する諸大名の法令や処罰例などを具体的に調べ、これが起こる社会的背景について考察している。
捨て子や子殺しは農村・都市に関わらず多くの場所で発生しているが、下手人は貧しい町人や百姓さらには浪人であった。そして捨て子・子殺しで死罪となったものの多くは、他人の子どもを金銭をもらって養育する約束で引き取りながら養育せず、捨てたり殺したりした例が特徴的である。
つまり当時の日本では、貧しさゆえに子どもを養育できない親が増えており、それを金をもらって引き取る商売すら成り立っており、その商売として子どもを買い取った養い親が捨て子または子殺しをするという状況となっていたというのだ。
塚本はこの背景を、村では新田開発などの大開発で、大土地所有者の下人であった百姓が独立して各地の村では小規模な田畑を有する単婚家族の小百姓が多数生まれていたが、これらの小百姓は凶作や飢饉ともなればすぐに暮らしが成り立たなくなるほどの生活だったので、しばしば子どもを育てられなくなる。また以前だったら大土地所有者が将来の自家の労働力になることを願ってこうした小百姓の子どもを買い取って養うことも見られたが、下人が独立する趨勢の強い時代となったからにはこれを養う魅力も失せ、彼ら大土地所有者も昔ほど多人数を養う余裕はなくなっているから、村においても養育できなくなった子どもを捨てたり殺したりすることが横行した。
ましてや拡大しつつある都市に集まった者の多くは、土木作業などの賃稼ぎを当てにした単身者が多いし、消費物資を自給できない多くの都市では凶作が起こればたちどころに米価などが高騰して、多くの都市下層民が食えなくなる。この状況は都市下層民が子どもを養えなくなってもそれを買い取って養う人が少なく、都市は村以上に子捨てが流行るということであろうと。
こうして塚本は捨て子禁令が頻発された時代背景は、村で単婚小家族が増えたことと、都市にも都市の稼ぎを当てにした単身者と単婚小家族が増えたことを指摘している。
また病気になった牛馬を捨てることも、こうした時代だからこそ起きたのだと塚本は見ている。
牛馬は村の農業の重要な労働力であり、馬はさらに物資の輸送手段となる働き手として百姓にとっても重要だし、街道沿いの村々の馬は、しばしば街道の宿駅での伝馬の担い手として徴発され、領主にとっても大事な労働手段であった。しかし河原や野原が多かった江戸時代初頭までとは違い、この時代はすでに各所で新田開発が進行したために、こうした牛馬を放し飼いにして養う場がなくなってきていた。ために牛馬を養うためには、牛馬専用の穀物を購入することが必要となった時代であった。
こうなると牛馬を養うのはそれなりに豊かな百姓でなければできないこととなる。
従って次第に村での牛馬の数が減っていくのだが、これと平行して、凶作や飢饉が襲えば、今まで牛馬を飼育することができた百姓にその余力がなくなり、ために牛馬を野に放したり、病気に倒れて養う意味もなくなった牛馬を捨てることが横行した。
牛馬を捨てることの背景にも、子どもを捨てることと同様な背景があったと塚本は推定しているわけだ。
子どもや牛馬を捨てることは、社会の貴重な労働力を捨てることともなり、社会的な損失である。これを防ぐことが捨て子・捨て病人・捨て病牛馬禁令の主とした目的ではなかったかというのだ。この法令の背景には、こうした元禄時代に至るまでの社会の変化があったのであり、そこでおきた問題を解決しようとする方策だったのだ。
(c)放生会の日常化−聖なる都市の実現−
では他方の様々な生類を大事にしろという諸法令には、どのような意味があったのであろうか。
この諸法令を検討してみるとき、様々な生類を人が殺して食べたりそれを生業とすることで、何か社会的な問題がおきていたわけではないことに気づくだろう。むしろ様々な生類を大事にしろという法令が出たことで、人々の様々な楽しみが奪われ、さらにその楽しみを売る商売人が難儀するという問題が生じているくらいである。
だからこれは、人が生類を「虐待した」という問題が生じたから出された禁令と見ることはできない(野犬を斬り殺すという問題は除く。この件については後に検討する)。
では一体何であったのか。
ヒントは生類憐みの令の背景には、仏教で言う放生(ほうじょう)の思想があることと、これらの生類憐みの令が布告された場が、主として将軍が君臨する都市である江戸を対象にしてだされていることである。
さらに生類憐みの令が出される以前において、その先例となったことの1つとして、幕府においては初代から4代までの将軍の祥月命日においては殺生が禁じられ、生き物を食べることが禁じられていたという事実である。
この祖先の祥月命日に物忌みとして殺生を禁じ生き物を食さない習慣は、都の公家たちの間に古くから伝わるものである。そして公家たちの観念としては、宮中で行われる様々な行事はみな神の御前で行われる神聖なものと考えられていたので、宮中の行事に参加するものたちは、その前の一定期間自身を清浄に保つために殺生を禁じ生き物を食さないようにしていた。また清浄を脅かす最大のものが死の穢れであったので、生き物を殺さないだけではなく、身内に死や出産、さらには宮中に参内する途上でも死人にであわないように細心の注意を払っていた。
5代綱吉政権の統治は、この都で長い間行われていた公家の政治を飾る権威や道徳を、幕府政治に広範に取り入れたものであったが、その最も直截な表現が、統治の初期である1684(貞享元)年に定められた服忌令である。
これは近親者に死者が出た場合に神事や慶事を行わずに喪に服する期間と、自身の死の穢れがなくなるまで自宅で謹慎する忌引きの期間を定めたものであり、死の穢れから朝廷の神事を守るため、古くから都の公家たちに伝わった習慣を、武家の統治に導入したものである。
さらに代初めの武家諸法度改正では第1条を「文武弓馬の道を嗜む」から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」へと変更し、儒教的な道徳・儀礼によって統治を行うことが宣言されていた。だからこそ綱吉政権においては、儒学を幕府の正学として、林鳳岡を始めて大学頭に任じて幕府機構の中に位置づけるとともに、1691(元禄4)年には江戸湯島に孔子廟を建立させ、上野忍が岡にあった林家の私塾をそこに移転させ、幕臣に儒学を講義させた。
さらに新義真言宗の亮賢と隆光に帰依した綱吉は、この師弟を将軍の安全祈祷を行う護持僧とし、亮賢には護国寺を隆光には知足院(護国院)を創建させ、さらには奈良東大寺大仏殿や法隆寺諸堂の修復など、106の寺社の大規模な造営を行った。この護持僧を任命することは古くから天皇が行っていることであり、都や諸国に多くも寺を建立させることも、古くから天皇が行ってきたことである。
また綱吉政権は、神道も重んじて1682(天和2)年に吉川惟足を幕府神道方に任命したが、さらに幕府囲碁方の安井算哲(渋川春海)を京都の土御門泰富に入門させて新しい暦を作らせ、彼を初代幕府天文方に任じた。神社を統括する役所を設けたり天文方を設けて新しい暦を作るなどということは、従来都の朝廷が行ってきたことであり、朝廷の専権事項であった(織田信長が暦の制定権を朝廷と争いその権限を奪ったことが、彼が排除された原因の1つとなったことは記憶に新しい)。
このように綱吉政権がとった道徳と権威による統治のさまを検討してみると、それは都の朝廷が行ってきた習慣を取り入れたというだけではなく、幕府神道方や幕府天文方の設置に象徴的に見られるように、朝廷が古来保持してきた全国統治に関わる専権事項を幕府が接収し、将軍は天皇に替わる聖なる君主として日本国全体に君臨し、将軍を頂点とする幕府こそが全国を統治する唯一の政権なのだと宣言したかのようなものであった。
この観点から生類憐みの令を見ると、この法令が当初は将軍の身近な江戸城において前将軍の祥月命日に殺生を嫌ったことから始まり、それが次第に拡張されて、まず城中において生き物を食すことの禁令として始まり、さらにこれが将軍が統治する都である江戸市中と彼が現実に統治する幕府領、さらには大名や旗本を介して間接的に統治する大名・旗本領に拡大されっていったという経過を辿っている
ことが注目される。そして現に社会問題となっている捨て子・捨て病人・捨て病牛馬の問題以外に関する生類憐みの令は、将軍と彼が統治する空間そのものからできるだけ殺生を排除しようとするものであることから、将軍が統治する空間そのものを清浄に保とうとする意図があったものと見受けられる。
都の朝廷においても、この傾向は存在した。
先にみたように、朝廷の祭事に参加する公家たちは身の清浄を保ち、特に死の穢れから逃れることに細心の注意をしていた。また綱吉政権下で221年ぶりに復活された天皇即位儀礼である大嘗祭においては、儀式に参加する天皇公家が清浄を保つだけではなく、神事が行われる間は、京都市中においては寺々の鐘や鉦の音を停止することが命じられ、さらには御所の築地の中には、僧尼ならびに法体のものや不浄の者など、ようするに死者に触れるものたちの往来を禁じ、都市京都そのものの清浄が保たれるように注意していた。またその即位に際してはしばしば放生会が行われていたことも歴史的事実である。
綱吉が行った生類憐みの令の布告は、自身を天皇に擬して、彼が統治する江戸を都に擬して、これらを清浄なるものとしたいという意図に基づいていたのではなかろうか。
しかし朝廷で清浄を保つための行動は、儀式に関わるものと儀式が行われる期間に限られており、常に京都を清浄に保とうとするものではなかった。また石清水八幡などで行われる放生会などは、常に生きていくために生き物の命を取らざるをえない人間の性を省みる行事であり、これも常に毎日殺生を禁じるというものではなかった。綱吉が意図した聖なる君主としての将軍と清浄なる都江戸という観念は、一時的に行われるべきものを常態化することによって、人々に過度に禁欲を命じるものであり、そのためにその意図に反して、人々の不評を買ったものであるに違いない。
(c)百姓・町人を個として統治する「聖君主」
塚本学はその著書のまとめにおいて、綱吉が生類憐みの令を出した意図について、大略次のように述べている。
「従来であれば下人などの子どもや多くの牛馬は、彼らを養う財力がある大土地所有者が面倒を見、養って行った。しかし小百姓の自立による家父長制大家族の解体と単婚家族の成立という社会状況においては、こうした大土地所有者という親方層が、下人の子どもや多くの牛馬を養う行為そのものを解体した。従って自立した単婚小家族は、個人として社会の荒波にもまれることとなる。綱吉政権は、この従来の親方層の役割を自ら荷なおうとしたのではないか。親方層が日常生活の中で彼らが接触する範囲の人々に対して果たしてきた権能を、綱吉政権は全人民規模で担おうとしたのではないか。そこがそもそも無理なのだが、そこにこそ政権の意図はあった」と。
社会が家父長制的大家族から単婚小家族へとその構成を変化させたとき、個々の百姓や町人は、彼らを庇護してきた共同体を失い、社会の荒波に直接押し流されるようになる。村や町の共同体は依然として親方層を中心とした自治の機関であったゆえに、共同体は彼らを保護するものにはまだなっていなかったのだ。やがてこうした小家族が特に村においては優勢となり、村共同体を小百姓の合議に基づく自治の組織に作り変えていくのだが、それはまだ先のことである。
こういう旧来の社会組織が解体され、あらたな社会組織が出来上がらない過渡期において、綱吉政権は、従来の社会組織の主体であった親方層の役割を果たそうとしていたのだと塚本は推理した。これは慧眼である。
しかしこう見るならば、この見方はもう一歩踏み込んでいくべきだ。
従来の親方層の上部にいて、それをも社会的に統合しようとしていたもの。これこそが都の朝廷であり天皇であった。
綱吉を頂点に頂く幕府は、この都の朝廷と天皇に替わって全国を統治しようとしたのではないか。将軍は自らを、個々の百姓・町人を統治する「聖君主」として擬し、かつて桓武天皇や近衛天皇・高倉天皇が京の都の隅々の民の暮らしにまで気を配ったという伝承に見られるような、一人一人を統治する「聖君主」になろうとしたのではないかと。
だがこれは道徳と権威でなしうることではない。
社会の変動に対応した新たな統治機構や自治組織を確立することによってしかなしえない。
5代綱吉治下の幕府は、まさにこの新たな統治機構の確立をこそ求められており、そのことを経験を通じて学び、少しずつ手をつけていった時代であったのだ。生類憐みの令も、過渡期ゆえの行き過ぎであったのだろう。
(d)朝廷とも一体となった権威としての将軍
しかし徳川将軍家は、天皇・朝廷を守るための武威を施行する武門貴族に過ぎない。それ自身としては、聖なる王としての天皇とその政府である朝廷に取って代わることはできない。将軍は天皇に全国統治権を委任され、それに基づいて動いている存在にすぎないからだ。
したがって幕府が自らを全国政権として押し上げようとするには、これに伴って朝廷権威そのものをも上げなければならない。
実は幕府の全国政権化という動きは、綱吉政権よりも前から起きていた。
例えばこれは、初代家康の霊廟を日光に移し、それに日光東照大権現という神号を朝廷から認可を受け、これを日光東照宮という徳川氏の祖霊を祭る神宮としたことにもよく示されている。神号をもらったのが2代秀忠政権下の1616(元和2)年で、東照宮の格を認定されたのが3代家光政権下の1645(正保2)年。さらに翌1646(正保3)年以後は天皇の幣を奉る奉幣使を創設し、同時に伊勢神宮に天皇の幣を奉る例幣使を180年ぶりに復活し、日光東照宮を天皇家の祖霊神である伊勢神宮とならぶ神格をもった神社へと高めていた。
そして綱吉政権がさらにその全国性を高めようとしていたその時、朝廷でもまた同様な動きが起きていた。
霊元上皇による朝儀の復活による「朝廷復古」運動である。
1686(貞享3)年、霊元天皇は東宮に譲位し、その際に221年間絶えていた大嘗祭を挙行するように幕府に要請した。江戸時代初頭に応仁の乱以来衰えていた朝廷の権威を旧に戻そうという動きが起きていたことは先
に近世編1の【12】で見たが、その延長上に天皇即位儀礼も復活させようというのだ。このとき幕府は費用をかける財政的余裕がないことを理由に当初は拒否したが、結局通常の即位の儀礼のための費用の枠内で大嘗祭を挙行するという朝廷の案を呑み、大嘗祭は久しぶりに復活した。
そしてこの綱吉の代においては次々と宮中祭儀が復活した。その一例は1694(元禄7)年の賀茂社の葵祭りの再興である。さらに綱吉の代においては、荒廃した天皇陵の調査と再建も行われている。これらは朝廷権威を高めることにおおいに役立ったからである。
ただしこのとき幕府は、大嘗祭に際して天皇が鴨川に行幸し禊(みそぎ)をすることは許可しなかった。
幕府は天皇が極力京の町の人々の目に触れることを避けていて、1626(寛永3)年に後水尾天皇が二条城に行幸して以来、天皇の洛中行幸はなかったからだ。この点に、天皇の権威を高めることは将軍・幕府の権威を高めることに繋がるので認めざるをえないが、日本国を統治する聖君主として天皇が人々の目に触れることはなるべく避けたいという幕府の思惑が見え隠れする。将軍の権威を高めるために天皇の権威を高めると、ますます将軍は天皇の委任を受けて全国を統治するという事実が注目されるという、相反する事態が生まれるからだ。
ここを突破するには、朝廷と幕府の一体化しかない。
注:幕府将軍の正室は3代家光 が伏見宮家から正室を迎えて以後は公家摂関家などの高位の公家の姫君を輿入れする例が多いことは朝廷と幕府の一体化の現れであろう。綱吉の正室は彼がまだ館林藩の藩主であった当時に結ばれた鷹司家の姫君である。そして次の6代将軍家宣の正室も近衛家の姫君。しかし3代以後正室に男子は生まれない。将軍家の家格は上昇しても、それを体現する血を継承した将軍は生まれなかったのだ。
(e)戦国の気風の一掃としての武士対策
最後に生類憐みの令の中の、犬を斬り殺すことの禁令の意味を考えておこう。
犬殺しの禁令は、塚本学によれば生類憐みの令以前にもその例があり、諸大名においてもこの禁令は出されており、犬を殺して処罰された例も幕府でも大名家でもいくつも見られるという。
そしてその処罰例を検討してみると下手人の多くは武家奉公人と呼ばれる中間・若党などの下層の武士であり、中には彼らの寄り合いの酒盛りの酒の肴として、他人の犬を斬り殺して犬なべにして食べたという例も見られるという。さらにこの際に犬殺しの罪で処罰されたものの多くは、「その他悪事多く」とされており、いわゆるカブキ者として奔放な生き方をしていた武家奉公人であったと思われる。
そして当時の都市には多くの野犬がいた。
この野犬は多数の群れを作って行動し、道端に捨てられた子どもや病人を襲ったり、その死肉を漁っていたりしたのであり、幕府も綱吉政権の前には、子どもや病人を襲う野犬は杖などで打ち据えてもよいと布告を出していたぐらいである。この点を踏まえて塚本は、都市を闊歩する野犬を、同じく体制に対する不満をもって派手な格好をして都市を闊歩していたカブキ者が斬り殺して喝采をあびるということもあったのではないかと推測している。
都市には多数の浪人予備軍としての武家奉公人が溢れていた。特に主家に譜代として長く使えた奉公人ではなく、年季を限って主家を渡り歩く渡り中間と呼ばれる武家奉公人は、給金も安く長期に安定した暮らしを予定することもできない季節奉公人であった。彼らこそがカブキ者として公的な秩序に逆らうヤクザ者であり、ここには立身出世を夢見る戦国の気風が残され、幕府はこの対策に大いに頭を悩ましていた。
生類憐みの令にしばしば見られる犬殺しの禁令は、このようなカブキ者対策として出されたものではなかったかと塚本は推定している。
「つくる会」教科書が、「武士たちが殺伐とした行動に出ないように」として生類憐みの令が出されたとしていたのは、このことだったのだ。だがこのように部分を全体に及ぼして考えてしまうと、この法令発令の全体の意図が見えなくなってしまう。
注:塚本によると犬殺しで処罰された者の中に、御鷹役人の下人が多く見られるという。鷹狩に使用する鷹はしばしば生餌として犬を使っていたので、御鷹役人にとっては、犬を殺すことや犬を食うことは慣れていたと思われる。このあたりにも綱吉が鷹狩をなくしていった背景があろう。
C武威から道徳・権威・法による統治への転換の歴史的背景
以上長くなったが、5代綱吉の治世は、征夷大将軍という軍事指揮権に基づいて全国を統合するという時代から、道徳・権威・法によって統治する時代への転換期であったのだ。だから彼の治世においては武威の象徴であった将軍の日光社参は廃止され、替わりに、孔子廟の建立や諸国の寺院神社の修造や建立が行われ、仏教の放生会の思想に裏打ちされた生類憐みの令と、神道的な死穢の観念に基づいた服忌令が出されていたのだ。
そしてこのような武威による統治から道徳・権威による統治への転換の歴史的背景は、国際的な平和の実現と国内的な平和が続く中での産業の発展と社会の変化とであった。
国際的には綱吉が将軍となった1680(延宝8)年は、中国が清王朝によって完全に統一された時期である。
1644(寛永21・正保元)年に明王朝は滅亡したが、明の遺臣による抵抗は明王族を擁して1650(慶安3)年ごろまで続き、さらに台湾に拠る鄭氏の抵抗も続いた。さらに明王朝滅亡に功があり中国南部に藩王として封じられていた明の将軍らが1673(延宝元)年に反乱を起こし
(三藩の乱)、この勢力と台湾の鄭氏が共闘し、東アジアの混乱は続いていたのだ。
この混乱が収束したのが、綱吉が将軍になったころだった。
綱吉将軍就任の翌1681(天和元)年。清軍は全面攻勢をかけて明3将軍の反乱を鎮圧し、さらに1683(天和3)年には台湾も攻略して鄭氏を滅ぼし、ここに中国は完全に清王朝によって統一された。約40年続いた東アジアの動乱が収束したのだ。そして清王朝は1683年にはそれまでの貿易禁止令を廃止して海外貿易を許可したので、東アジア規模での貿易は拡大し、長崎に来航する唐船も年24隻余りから200隻あまりに増加したのである。
この国際平和の実現によって、征夷大将軍という軍事指揮権によって日本を統合する歴史的背景は消滅した。
これが幕府が武威から道徳・権威・法による統治へと転換した国際的背景であった。
そして国内的には70年近く続いた平和の中で、諸産業も発展し各地に都市が生まれ、貨幣経済が急速に発展した。この中で旧来の家父長制的大家族を持つ親方層が社会を支配する構造から、単婚小家族が主たる構成単位となる社会へと世の中は急速に転換し、そのため旧来の統治機構や自治機構がこれに対応できず、さまざまな問題が起きていたのであった。
綱吉政権の多くの施策は、このような歴史的背景に基づき、噴出しつつあった社会問題とこれと連動した幕府財政の悪化を食い止めるべく実施されたものであった。そしてこの中で生類憐みの令は服忌令と対になって社会を道徳と権威によって統治しようとする政策であり、これを通じて将軍を日本国を統治する聖王の地位に上せようとするものであった。
生類憐みの令という、当時においても不評であったこの政策は、綱吉政権のこのような歴史的性格とその政策の全体像の中において検討しないと、その持てる意味はまったくわからなくなり、ただ悪政であったというだけのものに終わる。「つくる会」教科書の記述は、その種類には人間も含まれるという研究史上の認識の深化に依拠しながらも、こういった
国の内外にわたる社会の変化に対応する新たな統治方式を模索するという綱吉政権の全体像のなかにおいて検討することをまったくしていない。
ここにこの教科書の記述の限界が見て取れるのである。
注:綱吉政権の歴史的性格についてはしばしば、その治世下において大名改易数が46家・161万石へ増加し、しかもその多くが親藩・譜代大名に対することから、綱吉政権は身内のものにも厳しく対することで将軍権威を強化し、この強化された権威を背景にして国役や貨幣改鋳などを行い、全国政権として強権政治を行ったと評価する向きが多い。だがこれも依然として大名改易を大名処分の方策としてきた間違った旧来の定説に依拠したものである。福田千鶴はその著書「御家騒動」において、大名改易の主たる理由とされてきたお家騒動を詳しく検証し、幕府は必ずしも大名取り潰しを目的とはせず、公儀としての大名家の安泰を策していたことを示している。特に綱吉政権の当初に改易された親藩・越後松平家の場合は、前代からしばしばお家騒動がおきており、それを幕府の裁定によって収め、将軍の権威の下に親族大名などの監督下で大名家の統治が進むようにしていたにも関わらず、相変わらずお家騒動が続き、ために藩の仕置きも緩み、脱藩や百姓の越訴が相次いでいた。それゆえ綱吉は越後松平家は公儀として統治を行う力量に欠けると判断して改易したのだが、その際にも綱吉は処置に悩み、尾張徳川光友に処置を相談し、越後松平家を取り潰すことを目的とするのでなければご随意にという内諾を得ていた。従来の通説のように取り潰すことが目的ではなかったのだ。そして綱吉の晩年に越後松平家は再興され、美作津山松平家となって幕末まで続く。綱吉は将軍就任にあたって将軍家の兄の家系の嫡流である越後松平家を潰して将軍権威を高めたという通説は虚妄であった。
注:05年8月刊の新版における綱吉政権の記述(p112)は、ほぼ旧版の記述そのままである。従ってその問題点は旧版のまま継承されている。
(3)幕政改革はさらに続く−正徳の治−
5代将軍綱吉は、1709(宝永6)年死去し、世子であった甥の綱豊が家宣と改名して6代将軍となった。
そしてこの将軍と次の7代家継の治世を幕府儒講として支えたのが新井白石であったのだが、この時代も前代から続いて幕府政治の改革の試みは続いたわけである。
教科書は綱吉の政治に続いて、この時代の政治について以下のように記述している(p151)。
綱吉が死去したのち、新井白石が登用され、生類憐みの令をただちに廃止し、貨幣の価値をもとに戻して、物価高をおさえようとした(正徳の治)。しかし、それが今度は不景気をよび、白石の政策は効果をあげなかった。 |
たしかにこの記述には大きな間違いはないのだが、これだけでは生類憐みの令に代表される前代綱吉の悪政を是正したのが白石が補佐した政治であり、しかし経済政策については大きな効果がなかったという評価になってしまい、この時代も幕府政治の改革に向けた苦闘が続けられたことがまったく度外視される危険をもっている。
正徳の治と後に呼ばれた6・7代将軍の治世は、1709年から1716年のわずか7年間にすぎず、幕政改革という面では大きな成果はなかったのだが、この時代にも社会の変化に対応した幕政の改革は続けられ、その試行錯誤の様はそのまま次の8代吉宗の時代に継続され、いくつかの改革はそのまま踏襲されているということくらいは記しておくべきであろう。
以下に簡単にその要点のみ、見ておきたい。
@その経済政策−貨幣改鋳・貿易制限・幕府代官の統制など
(a)貨幣再改鋳−経済の拡大に対応できず
幕府は1712(正徳2)年に勘定奉行荻原重秀を罷免したあと、1714(正徳4)年5月に、慶長小判と同じ金の含有率を持つ正徳小判を発行した。そして以後、正徳金1枚に対して元禄金2枚の割合で交換を進め、元禄の改鋳で出回った金の含有率の少ない元禄小判を回収した(同時に銀貨も慶長銀と同じ銀含有率の銀貨に改鋳した)。これは「金銀は天地より生じた大宝であり、これを人為的に品位を乱した荻原の政策は許しがたい」という新井白石の考えに基づくものであった。
しかしこれによって通貨量が半減し、ために商品の流通が滞り、経済の停滞を招いたのである。
これは元禄の貨幣改鋳が単に小判の金含有量を減らすことで幕府が富商に集まった富を回収することを狙ったものであっただけではなく、拡大する商品流通に対応するだけの量の通貨を確保しようとする、経済的にも合理的な政策であったことを、儒学者の白石が理解しなかったことの結果であった。
注:この正徳金の鋳造と流通は次の8代吉宗政権でも継承されたが、貨幣はそれが含む金銀の金属としての価値でその価値が図られるのではなく、商品流通を媒介する交換手段としてこそ価値があり、交換手段として一国の政府が認定すれば、それが金属としては低い価値しかなくとも通用するという、貨幣の信用貨幣化の趨勢に抗うもので、かえって経済の混乱を招いた。そのため吉宗政権も1736(元文元)年に正徳金を改鋳し、金の含有率の低い元文金を鋳造して商品流通に対応した貨幣量を確保することとなった(同時に正徳銀も銀含有率の低い元文銀に改鋳)。
(b)貿易制限−輸出代替品開発と輸入品国産化政策の開始
だが金銀の含有率の高い貨幣に交換してしまうと、ますます幕府が所蔵する金銀の量は減り、しかも長崎などを通じた外国貿易を通じて海外に流出する金銀の量を増やす結果となる。
従って幕府は、同時に外国貿易を通じての金銀の海外流出を防ぐ対策を取る必要があった。
1715(正徳5)年、幕府は長崎における貿易の新たな制限を実施した。
中国船の数を年間80隻から30隻に減らし、その貿易高を銀で6000貫匁に制限する。そしてその貿易高の内、銀3000貫匁は俵物と呼ばれる海産物などの商品と銅300万斤を当てる形にして、銀や銅の流出を抑える。さらにオランダ船についても年に2隻で貿易高銀3000貫匁に制限し、銅はその内の150万斤へと制限した。また幕府はこれより早く、1713(正徳3)年には国内での生糸の生産に励むよう指示を出している。これは長崎での生糸の輸入が減ってきたことによって西陣での機織が衰えてきたことに対応して、国産生糸を西陣で使うことを奨励してきたが、これによって国内各地の機織業での原料不足を生じていたため、国産糸の増産を指示したものである。
以上のことは「薬品以外は輸入すべきではない」という新井白石の考え方に基づくもので、8代吉宗政権以後にも継承され、18世紀の末には日本は生糸・絹織物・陶磁器・砂糖などの国際貿易品
の国内での自給を達成し、外国貿易は以前の赤字から大幅な輸出超過へ変化し、西洋諸国の産業革命にも匹敵する国力を日本にもたらした改革である。しかし白石によるこの貿易改革は、すぐには効果はでなかった。それどころか特に中国船の来航数を制限したために密貿易が増大し、これを取り締まるためにさらに、正規の貿易船であることを証明する信牌(渡航許可証)を事前に発行するなどの新たな対策を取るしかなくなったのである。以後幕府は密貿易との長い戦いに突入する。
(c)幕府代官の統制−年貢増徴をはかる
1712(正徳2)年7月、幕府は勘定吟味役を再び置いて不正代官を取り締まり、さらに全国の幕府領に巡検使を派遣して不正の摘発を行い、年貢の増徴を図った。幕府代官の不正の摘発は綱吉政権下で
も行われ、先に見たように多くの代官が粛清されたのだが、それでも代官と村役人の結託による年貢未納などの不正はあとを絶たなかったらしいからである。その結果翌年の年貢米は43万俵余り増加したと白石は述べている。
当時の年貢収納方法は、毎年代官が幕府領のそれぞれの担当地域を巡検してその年の米の作柄を実見し、それに基づいて年貢収納量を決めるものであった。そのため担当者の代官と村役人が結託し、不作などを理由として年貢を値切ったり、幕府に納入する年貢高を不正に低く見積もって差額を私したりしていたのである。結局これは不正をいくら暴いても
らちがあくものではない。
注:次の8代吉宗政権でも当時の代官50人余り全員の配置転換で代官の不正をなくそうとしたが果たせず、結局年貢収納方法を改め、一定の年限の平均年貢高をもとに毎年同じ年貢高を収納する方式に改められることとなる。
(d)軍役負担を軽減
年貢増徴を図ろうとしても限界があった。これは17世紀を通じて行われた新田開発が限界に達し、これ以上の開発はかえって自然災害を増加させるもととなっていたからであった。米を基調とした領主経済の再建は
容易ではなく、幕府の財政難もなかなか改まらなかった。
同じことは諸大名にも言え、当時の大名家はどこも財政難に悩んでいた。
白石はここにも1つの改革の方向を明示した。
1712(正徳2)年、幕府は諸大名の参勤のさいの供の人数や江戸城各門の番人の数などを減らし、軍役としてそれぞれを負担してきた大名の負担の軽減を図った。このことは軍役という武威に基づいた統治を後退させようという当時の傾向にも合致しており、次の吉宗政権でも継承され、さらに軍役負担の軽減が図られることとなったのだ。
A将軍権威の向上策−対外政策・礼式の策定・天皇家との一体化など
(a)朝鮮国王と対等の日本国王へ
またこの時代幕府は、前代に続いて将軍の権威の向上を図っている。
その1つとして幕府は、1711(正徳元)年の朝鮮通信使来朝時に、国書での将軍の称号を、従来の「日本国大君」から「日本国王」へと変更した。これも白石の提言によるもので、大君とは朝鮮では王子の嫡子を指す言葉なので国王より身分が低いこととな
り侮られるという彼の意見に基づいたものである。白石は歴史的に将軍を日本国王と称してきたという室町時代の先例に基づいて提言したもので、朝鮮側の疑義にも関わらずこれを受け入れさせた。
たしかに対等外交という当時の実情からすればこれは正論である。
しかし幕府は中国清帝国とは国交を結ばず、将軍は清国皇帝に臣下の礼すらとっていない。中国皇帝に臣下の礼を取っていてこそ日本国王と名乗れるのだ。その意味で清国皇帝に臣下の礼をとって朝鮮国王に封じられている朝鮮国王からすれば、日本国は格下の国であり、ましてや将軍は「日本国王」たる天皇の臣下に過ぎない。だから従来は将軍の国際的称号は「日本国大君」であったのだ。
両国の関係は大義名分からは朝鮮国王が上、幕府将軍が下であったのだ。従って白石の提言は、朝鮮国にとって受け入れがたいものであった。ましてこのとき幕府は、通信使の待遇を天皇の勅使より上の待遇で遇してきたのにこれを改め、費用もかからない簡素なものに
変えていた。
朝鮮国にとっては屈辱的な対応であったのだ。朝鮮国は伝統的に日本との和平を重視する立場をとっていたので、不満ながらもこれに従ったに過ぎない。
注:また幕府は日本が中国皇帝に臣下の礼を取らないことによって中国の冊封関係から離脱して、東アジアに日本を頂点とする冊封関係を築き上げようとしていた。朝鮮やオランダさらには琉球を日本に臣下の礼をとる蛮族の国とらえ、これらの国の使節に将軍が謁見することは日本国を中華としてこれらの国に君臨するものとして諸外国に示すものと考えてきた。 この礼式は5代綱吉政権で確立する。この観点からすると、朝鮮と日本とが共に「国王」として対することは対等外交に形としてもなるのであり、朝鮮との外交関係を通じて日本が事実上中国に臣下の礼をとることとなり、 日本を中華とする幕府の大義名分論からも受け入れがたいものであった。そのため8代吉宗政権では、朝鮮との関係と待遇については旧来のものに戻されている。
(b)将軍を頂点とした礼式の策定
6代将軍家宣は、1712(正徳2)年10月に49歳で死没した。彼は3代将軍家光の息子綱重の嫡子に生まれて甲府を所領とする大名となっていたのが、5代将軍綱吉に跡継ぎがなかったため、大名の子から始めて将軍となったものであった。しかし、跡継ぎの7代家継は、まだ3歳2ヵ月の幼児であり、将軍の権威の低下は覆いがたかった。
その分だけ幕府は、将軍の権威を高めるために儀礼を重視し、家格の序列を重んじることとなった。
1709(宝永6)年8月の江戸城における重陽の節句の儀式に出席する武家に、万石以上の大名と高家・大番頭は花色の小袖を着用するように命じ、礼服の色で一目で格式がわかるようにしていた。さらに1711(正徳元)年12月には、将軍参詣に供奉する場合にも、大名の官位に応じて、侍従は直垂、4品は狩衣、諸大夫は大紋という具合に、装束を決めていった。
将軍を頂点として儀式における家格の差を、服装でわかるようにしていったのだ。
(c)天皇家との一体化
さらに幕府は、幼児が将軍となることで権威が低下したことを、天皇家との婚姻を通じて補おうとした。
1715(正徳5)年、幕府は将軍家継・4歳と霊元上皇の皇女八十宮・2歳との婚約を発表し、宮が7歳となる5年後に輿入れとすることを公表した。天皇家と将軍家とが婚姻を通じて一体化しようという構想である。
すでにみたように大名家でも都の公家との婚姻が広がっており、将軍家やその親族の大名でも、摂関家や宮家との婚姻が続いていた。そこで将軍に皇女の御台所を迎えることで、さらに将軍の権威を高めようとしたのであった(これは将軍がわずか6歳で死去したことで実現しなかったわけであるが)。
このように短い間であったが、6・7代将軍の治世下においても、幕府政治の改革は進められていた。ここでも社会の変化に対応した試行錯誤が続いていたのである。
8代吉宗による享保の改革は、幕府財政を一時的に立て直すなど大きな成果をあげ、吉宗は幕府中興の祖などと崇められている。しかしその改革は、5代綱吉の時代や、6代家宣・7代家継時代の幕政改革の成果や失敗に依拠して行われたのであり、そのことを無視することは、歴史を
1人の英雄によって動かされるとする、物語的な歴史理解に繋がる。この意味で、彼の前の時代の幕府の社会の変化に応じた試行錯誤をも正確に記しておくことは意味のあることであろう。
注:05年8月刊の新版においては、「正徳の治」についての記述は大幅に削減された。すなわち、「綱吉が死去したのち、6・7代将軍の時期に新井白石が登用され、生類憐みの令を廃止し、財政の立て直しをはかった。」と(p112)。これでは彼の改革政治の中身が完全に削除されており、さらに意味のない記述なっている。
注:この項は、大石慎三郎著「江戸時代」(1977年中央公論新書刊)、進士慶幹編「江戸時代武士の生活」(1981年雄山閣刊・2000年ブッキング再刊)、 板倉聖宣著「生類憐みの令−道徳と政治」(1982年仮説社刊・1992年再刊)、塚本学著「生類をめぐる政治−元禄のフォークロア」(1983年平凡社刊・1993年平凡社ライブラリー再刊)、つじよしのぶ著「富士山の噴火−万葉集から現代まで」(1992年築地書館刊)、笠谷和比古著「国役論」(1993年吉川弘文館刊・「近世武家社会の構造」所収)、 辻達也著「政治の対応−騒動と改革」(1993年吉川弘文館刊・日本の近世第10巻「近代への胎動」所収)、石橋克彦著「大地動乱の時代−地震学者は警告する」(1994年岩波新書刊)、高埜利彦著「18世紀前半の日本−太平の中の転換」(1994年岩波書店刊・日本通史第13巻近世3所収)、 大石慎三郎著「将軍と側用人の政治」(1995年講談社減殺新書刊)、菊池勇夫著「近世の飢饉」(1997年吉川弘文館刊)、高埜利彦著「元禄の社会と文化」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収 )、 松尾美恵子著「富士山噴火と浅間山噴火」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史16「享保の改革と社会変容」所収)、福田千鶴著「御家騒動−大名家を揺るがした権力闘争」(2005年中央公論新書刊)、大石学著「元禄時代と赤穂事件」(2007年角川書店刊)、村井淳志著「勘定奉行荻原重秀の生涯−新井白石が嫉妬した天才経済官僚」(2007年集英社新書刊)、小学館刊の日本大百科・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。