「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判28


28: 市場経済に対応した幕藩制への展開ー享保の改革の歴史的性格

 「社会の変動」の2つ目の項目は、「幕府財政の悪化と享保の改革」である。「つくる会」教科書はここであらためて幕府財政が悪化した原因を指摘し、その後に享保の改革について述べている。

(1)幕府・藩の財政悪化の背景には多様な要因があった

 そこで最初に、幕府財政悪化の原因を教科書がどう捉えているのかを検討してみよう(p151)。

 幕府の財政難の根本的な原因は、産業の発達にともなう大きな社会の変動であった。17世紀の産業の発達により、さまざまな商品が生産されるようになったが、それだけ幕府や藩の支出も増大していった。18世紀になると米の価格はこれらの商品にくらべて下落し、米を納める年貢に依存している幕府や諸藩の収入は、慢性的に不足するようになった。この事態にさいし、幕府は、綱吉のときと同様に貨幣改鋳を対策として行った。これは、その後も江戸時代を通じてしばしば行われ、また大商人への借金もさかんに行われた。しかし、貨幣改鋳は物価高を招き、かえって幕府財政を悪化させた。そして大商人への借金にも限度があった。

 この記述は要するに、商品生産が盛んになるにつれて幕府や藩の支出が増大したが、米の価格がこれらの商品に比べると下落したために、幕府や藩の収入が慢性的に不足した、これが幕府や藩の財政難の根本的原因であるというものだ。
 これは正しい認識ではあるが、少し説明不足である。

@戦人から公家と化した武士

 1つは、商品生産が盛んになるにつれて幕府や藩の支出が増えたということ の関係が明らかでないことだ。これは、武士が都市に集住するようになったことで、彼らは純粋な消費者となったことが根本原因である。
 彼らが自らの所領に住んでいたときには、生産者から直接諸商品を諸役として収納できたが、都市生活者となったことでこれが出来なくなり、商人から貨幣で買わなければならなくなった。このことがまず幕府や藩の支出増大の根本的な原因であるが、ここが忘れられている。生産者を直接監督し自らも直営田や工房を持って生産者でもあった武士が、都市に移住して領国管理の官僚となったことが、幕府や藩の支出が増えた根本的な原因である。だからこそ、17世紀から18世紀にかけて活動した儒学者の熊沢蕃山や荻生徂徠は 、武士を都市から村へと戻して武士を生産者に戻し、さらに将軍や大名は諸職人からさまざまな商品を諸役として徴収する体制に戻すべきだと提言していたのだ。
 幕府や藩の支出が増えた2つ目の理由は、戦乱の収まった江戸時代において武士の存在理由が変化し、彼らの人生の目的が変わったことである。
 今までは武芸に秀で、平素から体の鍛錬と質素な生活をすることで戦に備えるのが武士の嗜みであり、戦で手柄を立てて立身することが彼らの人生の目的であった。しかし太平の世ともなると 、これでは対応できない。そして武士は戦士としての能力よりも、領国管理の能吏としての行政手腕が問われるようになり、様々な学問を修め、実際的な知識を持つことが求められた。従って彼らは多くの学問をするようになったのだ。そして彼らがこうして行政を司る官吏となるということは、武士が軍事貴族から行政に携わる堂上貴族へと変化することを意味し、武士と公家との交流も深まり、公家の嗜みであった様々な遊芸に武士も手を染めていく。武士が和歌・連歌・俳諧や書画・陶芸・立花、さらには能や狂言・浄瑠璃や平家琵琶などの諸芸に通じていったことは、先の 【25】元禄文化の項でも見たとおりである。
 従って武士は学問・諸芸を嗜みとし、身辺を文化の粋である様々な工芸品で飾るようになる。
 武士の生活は、都市生活者・行政官僚となることによって、各段に贅沢になったのだ。商品生産の拡大はこれに拍車をかける。それゆえ幕府や諸藩はしばしば武士に対して、贅沢を禁ずるお触れを出さざるをえなくなったのだ。

A産業発展の格差−珍重される上方産品

 幕府や藩の支出が増えた理由はこれだけではない。当時の経済構造にも原因があった。
 それは、全国で最も諸商品生産が盛んで、食料・衣料から諸工芸品に至るまで高い水準を維持していたのは、京・大坂を中心とした近畿地方、いわゆる上方であった。 新興都市江戸が上方から多数の商品を移入しなければ、江戸に集住した武士だけではなく江戸庶民の生活すら成り立たなかった現状については、先に【22】で見たとおりである。
 江戸はその直接的経済基盤である関東がもともと生産力が低く、そのため全国から集めた武士たちのための食料すら自給できず、上方から大量の米を移入しなければ成り立たない都市であった。 しかしこれは何も江戸だけの問題ではなかった。全国に新たに出来た城下町は、それぞれ元来の基盤とした領国での食料生産を基盤としていたので江戸のように食料まで上方に依存することは少なかったが、衣料・道具・諸工芸品となるとやはり上方から移入するしかなかった。江戸時代後期に至る までは、工業が盛んでしかも高い文化的価値のある商品を生産できるのは上方地方だけであったからだ。
 従って江戸を初めてとした新たに出来た城下町は、上方から大量の商品を移入した。このため幕府も諸藩も年貢米を上方の経済的中心都市である大坂に送り、そこで米を換金して必要な商品を買い入れることとなる。そうなると遠隔地に送られた上方産品は運送費も掛かるしそれが消費地では生産できない品物であるために価格 が高騰し、ために上方産品を大量に移入する幕府や諸藩は支出増に悩むこととなったのだ。
 しかも【23】で見たように、日本には異なる2つの通貨が流通していた。
 上方経済に属する地方、西日本と北陸・東北地方の日本海側、ここでは銀貨が通用し、東北地方の太平洋側と関東地方は金貨が通用した。そして経済力に勝る西日本の通貨である銀貨に比して、経済力に劣る東日本の通貨である金貨の力は弱く、ために金貨と銀貨の交換比率は、銀高金安となる。東日本とくに関東に基盤を置いた幕府と東北諸藩は、この金銀の為替格差にも苦しむこととなる。

:これを解決するには奢侈禁止令と上方産品の「国産化」。さらには金銀交換比率の銀安金高への誘導しかない。【21】で見たように、江戸j時代中期から各地で諸工業や多くの商品作物が栽培され、それぞれの国を代表する特産品が生まれたのは、高価な上方産品を買うためであったり、その代替物の国産化であったのだ。 また貨幣改鋳は【27】で見たように、金高銀安を狙ったものでもあった。

B武士人口の過剰−増大する人件費

 そして幕府や藩の支出が増えるもう1つの原因として、武士人口そのものの過剰という、根本的な原因も忘れてはならない。
 【27】で少し言及したが、諸藩や幕府の武士人口そのものがすでに過剰であった。
 戦国時代には武力を蓄え、隣国との戦に勝つことで領国を広げることが、武士の収入を増やす最大の武器であった。だから戦国大名は、武芸に優れた家臣を多数抱え、戦闘に必要な大量の歩兵・足軽も抱えた。そしてこの傾向は江戸時代も続き、1614(慶長19)年の大坂冬の陣・1615(慶長20)年の夏の陣以後も、その余波は続いていた。
 しかし太平の世となって、これまで抱えた膨大な人員を直ちに解雇するわけにもいかない。幕府の統治そのものが、将軍に対する諸大名の軍役奉仕を根本としていたため、その領国の大きさに従って大量の定められただけの数の戦闘員を確保して置かなければならなかったからだ。そしてこれは将軍の上洛や日光東照宮社参という形、さらには将軍の城や城下町の普請という形でしばしば点検され、この軍役をきちんと果たすことが義務化していた。
 したがって武士は江戸時代も中ごろになると、人工的に過剰となっていた。
 江戸時代の武士の勤務体制は、1つの役に複数の人員が配置され、交代で勤務をこなすのが通例であった。
 武士の勤務は幕府でも藩でも、通例は2日勤務すると1日公休となる。それほど人員が過剰だったのだ。1つの役に複数の人員を配置することで、できるだけ多数の家臣に仕事(役)を与える体制になっていた。しかしそれでも仕事を全員に与えることはできなかった。幕府でも藩でも無役の武士が大勢いた。
 この無役の武士は「小普請組」に配置され、日常的に生じる城や城下町の破損修理の手伝いに駆り出された。それしか与える仕事がなかったのだ。それでも無役の武士にも給与を与えなければならない。
 武士はそれぞれ、家代々に継承された家禄という給与が定められている。仕事のない武士にも家禄は支給せねばならない。
 さらに幕府や藩が領国経営に重点を置くに従って、武芸ではなく経営実務に役立つ学問や知識を身につけた武士が必要となってくる。従って外部からそれらの人材を新たに雇い入れたり、内部から能力の秀でた人材を発掘し、それを抜擢することも行われる。 将軍や大名の家臣は、それぞれの家の格に応じた諸役につくのが通例になっており、その役に応じた手当て(役料)を支給されていた。家老なら家老の家格の家の武士、奉行なら奉行、足軽なら足軽と、家格で役が決まっていた。しかし武士が官僚としての能力を問われてくると、家格だけでは十分な人材の確保は難しくなる。そのため外部からの新規の採用と、家格を無視して能力のある者を抜擢することとなる。
 こうなると新規召抱えの武士にも家禄と役料を支払うこととなり、新たに抜擢した者には、その役に見合った家禄を加増し、役料も支払うこととなる。こうして新規お抱えや抜擢された者たちの給与は増大し、さらに旧来の家臣や抜擢はされなかった家臣の家禄・役料は支払い続けなければならない。こうして幕府や藩の人件費は増大し続けたのだ。

C米の増産しすぎ−過剰生産は価格の暴落を生む

 そして幕府や藩の収入の源である年貢米にも問題が起きた。価格の低下である。
 教科書はこれが18世紀になってから起きたと記述しているが、これは誤りである。
 米価の推移を資料に即して見ると、江戸時代前半は基本的に米価が上昇した時期であるが、米の価格が最も高くなったのは1681(延宝8)年で、大坂の米価が米1石銀77匁、江戸の幕府米公定価格が米100俵金56両。これ以後は18世紀までずっと、途中飢饉による一時的な米価高騰があったにせよ、米価は下がり続けている。米価が継続的に下がる傾向は、17世紀後期、元禄時代にはすでに始まっていたのだ。
 この原因は単純である。これまでの時代での新田開発の進展の結果、米は全国的に大増産された。しかし米も商品である。需要以上に生産してしまえば、その価格は低下する。この現象が17世紀後期にはすでに起きていたわけだ。
 米増産によって幕府や藩の収入を増やす方策は、すでに限界に達していた。
 こうして幕府や藩の財政はしだいに苦しくなり、その対策がもとめられたわけだ。

:この当時幕府や諸藩はどの程度財政窮乏していたのか。その数値を少し上げておこう。幕府が江戸城中に蓄えていた金銀は、1661(寛文元)年には約400万両(約4800億円)であった。それが1709(宝永6)年には37万 両(約444億円)となっていた。綱吉の代に様々な増収策をとってもこれほどに激減したのだ。いかに毎年赤字であったかがわかる。また商人から借金を返せず、ために京都の豪商を潰してしまった大名として、三井高房の「町人考見録」では、尾張徳川・紀伊徳川・加賀前田・仙台伊達・薩摩島津・肥後細川・安芸浅野・筑前黒田・鳥取池田・南部・井伊・前橋酒井・奥平・森・戸田・立花などを上げている。仙台藩の借金は、1678(延宝6)年には24万5000両(約294億円)に達していたという。 この結果幕府や藩はしばしば、家臣の給与の一部(数%)を借り上げて財政難を乗り切ろうとした。ために家臣の生活も困窮し、商人から借金をしたり、領地を持つ家臣は城下に住まず領地内の屋敷に住み自給自足の暮らしをしたり、さらに下級の武士の場合には、細工物の加工に従って手間賃を稼いだり、さらには他領に出かけて商業にしたがったり大工や左官仕事に従事したのだ。いわゆる武士の内職である。彼らが困窮した生活から脱出する唯一の道は、その能力を買われて高い役料がもらえる役職に出世することであった。ために武士たちの間には勉学が盛んにもなったのだ。

 そしてその対策として幕府は、5代綱吉の時代に始めて貨幣改鋳という対策をとり、これは続く吉宗政権でもとられ、幕末までの間にもしばしば行われたが、これは物価高を生んで経済を混乱させる。そして幕府や藩も大商人から借金をするという対策もとったが、これにも限度がある。それは借金は次の年の年貢収入を担保にして行われるわけだが、米価の長期低落傾向の中では、あまり多額の借金はやがて返済不能に陥ってしまうからだ。
 従ってこれらに代わる新たな経済政策が必要とされていた。その対策をやったのが8代将軍吉宗の治世下に行われた享保の改革であるというのが、教科書の記述である。

 ここでも教科書は、貨幣改鋳を単なる収入増大策として捉えている。この側面もあるが、増大する商品生産に対応するという側面も忘れてはなら ず、適量の貨幣増なら激しい物価高は起こらない。また貨幣改鋳と借金に代わる新たな対策をしたのが吉宗政権であるという教科書の記述は、これまでも指摘してきたように誤りである。すでに4代の時代から様々な方策が採られており、8代吉宗政権は、それらを集大成したというのが正しい認識であろう。

:05年8月刊の新版での幕府財政悪化の原因についての記述は、大幅に変更された(p116)。そこでは、「18世紀になると、米が増産される一方で、都市の生活に必要な消費物資が、新たに商品として生み出された。また、農村にも貨幣経済が浸透し、農具や肥料を購入して、綿、菜種などの商品作物を栽培することが一般的になった。そのため、米の価格は他の商品に比べて下落し、米による年貢に依存している幕府や諸藩の収入は、たえず不足するようになった」と記述されている。米の価格が低下する理由をより正確に述べてはいるが、これがおきた時代を18世紀とする間違いは相変わらずである。

2)国家的見地で統治する行政機構の確立−享保の改革は統治機構全般に亘る改革だった−

 教科書は続いて吉宗政権による享保の改革について、次のように記述している(p152)。

 そこで、8代将軍となった徳川吉宗は、幕府の政治の大改革に乗り出した。吉宗はまず、支出をおさえるために大名・旗本に徹底した倹約令を出した。そして、諸大名に上米(一定量の米を幕府に献上すること)を命じ、さらに新田開発を行ったり年貢率をあげたりして、年貢収入の増加に努めた。また、商業発展にともなって増大する訴訟のために、公事方御定書という法律をつくって裁判の基準を定め、目安箱を設けて民衆の意見を聞く制度もつくった(享保の改革)。年貢率の増大は、百姓一揆を頻発させたが、享保の改革はいちおうの成功をおさめた。

@財政難対策に偏った享保の改革定義

 ここに書かれたことは、従来の教科書一般に共通したものであるが、この教科書の記述は、あまりに偏ったものである。なぜならこの記述は、享保の改革が主として財政難対策であったという性格規定に基づいており、その後半につけたりのようにして司法制度改革の問題と情報収集体制改革の問題が記述されたに過ぎないからだ。
 【27】の4代〜7代将軍治世下の幕政改革の項でも繰り返し述べたように、幕府の財政難の問題は、この時代に幕府や藩が直面した問題のほんの一部であった。根本的な問題は社会が変化してしまったことだ。
 この社会の変化の要点を述べると、それは社会全般に貨幣経済が浸透し、金を儲けるために働くことが一般的な社会になったということだ。そのため商品生産が広く行渡り、百姓も商品を売るために農業を行い、農産物需要の拡大を背景にした新田開発の進行とともに、従来であったら独立不可能であった下人や次男・三男が独立して一家をなし、百姓や商人や職人として生計を維持するようになっていった。このため村でも町でも、共同体の基盤である家族の形態は、従来の家父長制的大家族ではなく、単婚核家族となり、共同体の中でのこれらの小家族の占める比重が拡大するとともに、家父長制的な大規模経営によって大きな力を持っていた名主百姓や古参町人の力が衰え、彼らを通じて村や町を統治してきた幕府や藩の統治そのものが揺らいでいたことであった。
 この社会が貨幣経済を基盤としたものに変わったことで、年貢を収納することで経済的基盤を築いてきた封建領主の経済力が後退したことの表れが幕府や藩の財政難であった。
 求められていたのは、こうした社会の変化に対応できる形に幕府や藩の統治機構全体を改変することであったし、これを基盤として財政基盤も再確立することであったのだ。従って幕政改革も、単なる財政難対策ではなく、統治機構そのものの改変が求められており、4代〜7代将軍治世下の幕政改革でもこれに対する対策が試行されてきたのだ。
 従って享保の改革も、こうした社会の変化に対応して、いかに幕府の統治機構そのものを改変したのかという観点で見なければ、これが一定程度成功した背景も、そして改革後半世紀も経ないうちにまたも財政難が再燃し、幕末にまでいたる更なる改革が 施行せられねばならなかった背景、言い換えれば享保の改革の限界もまた理解できない。
 この点で「つくる会」教科書の記述は、あまりに不十分である。
 以下に詳しく見ていきたい。

A百姓の事業意欲をかきたててとりあえず成功した財政難対策

 まず焦点の財政難対策についてみておこう。
 教科書は、倹約令を出し、大名に上米を命じ、さらに新田開発と年貢率を上げることで増収を図ったと記述したが、問題はそんなに単純なことではなかった。
 倹約令は単に贅沢を禁止するという程度のものではなく、幕政の諸事万端で緊縮財政を組み、部門別に予算を組み、支出項目ごとに限度額を設けて支出を抑制した。例えば綱吉政権の時期には年間1万両(約12億円)も支出して財政を圧迫させた寺社修造費を、吉宗政権では、年に1000両(約1億2000万円)に制限し、 幕府は予算の限度額の範囲内での援助にとどめ、寺社は基本的にその領地の収入によって修造を行うこととした。それでも足りなければ、寺社が諸国に広く寄付金を要請できる制度を定めた 。
 また1722(享保7)年に始められた大名に対する上米は、一時的な方策である。上米を命じてその代わりとして参勤の期間を半年にし、さらに軍役負担としてのお手伝い普請も中止して大名出費を抑える制度であったが、この異例の制度を決めたとき、幕府はその布告で、あまりの財政難で旗本・御家人の給与を支払うこともできず、このままでは御家人数百人を人員整理をするしかないと、その窮状を訴え、大名の軍役負担を減らす代わりに大名から収入の援助をしてもらうという恥辱をも耐えてこの制度を実施したのだ。そこまで幕府の財政難は深刻だった。高1万石あたり100石の米を上納するこの制度で、年に18万7000石余りの増収となり、これで幕臣の給与のおよそ半分がまかなえた。しかしこの制度をいつまでも続けるわけにはいかない。
 従ってどうやって収入を増やすかが焦眉の急だった。

(a)年貢率の一貫した低下−百姓の攻勢に幕府は後退し続けた
 たしかに享保の改革において幕府は、最終的には年貢率の上昇によって増収を図ったのだが、最初からそれをしたわけではなかった。
 実は最近明らかになった資料によれば、幕府の年貢率は一貫して低下し続けていた。

表:幕府領の石高と年貢収納高1(藤田覚著「近世の三大改革」より)
幕府石高 年貢収入 年貢率(%)
1651(慶安4)上方のみ
1652(承応1)上方のみ
1653(承応2)上方のみ
1656(明暦2)関東のみ
1657(明暦3)全国ぶん
1658(万治1)全国ぶん
1659(万治2)全国ぶん
1660(万治3)全国ぶん
159万0911石
160万2290石
161万0910石
122万4900石
292万5470石
291万6540石
291万6600石
306万4770石
66万5280石
59万8320石
60万8760石
42万7120石
111万9530石
103万3550石
111万4270石
97万9050石
41.82
37.34
37.79
34.87
38.27
35.44
38.18
31.95

 これは4代将軍家綱の治世の前半の分である。関東よりも上方の方が年貢率が高く、生産力の異なる地域では年貢率も異なることを示しているが、同時に、この10年間を通じても年貢率が減少傾向にあることが読み取れる。すでに4代家綱の時期から、幕府の年貢収納率は減少傾向にあったのだ。
 そしてこの傾向は、これ以後も続いた。以下は10年毎の平均値で見ていこう。

表:幕府領の石高と年貢収納高2(「近世の三大改革」によって作成)
幕府石高 年貢収入 年貢率(%)
1663〜1672(寛文3〜寛文12)
1686〜1695(貞享3〜元禄8)
1706〜1715(宝永3〜正徳5)
1716〜1725(享保1〜享保10)
1726〜1735(享保11〜享保20)
1736〜1745(元文1〜延享2)
1746〜1755(延享3〜宝暦5)
約280万石
約390万石
約400万石
約412万石
約447万石
約459万石
約442万石
102万7981石
130万2967石
131万9547石
139万5782石
147万7350石
158万0404石
166万6845石
35.83
33.57
32.29
33.88
33.02
34.38
37.64

 年貢率の減少は5代綱吉の時代(1680〜1706)と6・7代の時代(1706〜1715)を通じても進行し、それは1716(享保1)年以後の享保の改革初期まで続いていることがわかる。そして享保の改革の最後の10年間 (1736〜45)とそれ以後の9代家重の代を通じて年貢率が次第に上昇していることも見て取れる。
 幕府領の総石高(もちろん検地による数値であり実際の取れ高はこれに倍する数値であったはずだ)もこの間に激増しているのは新田開発の進行の結果であり、年貢収入も増大しているが、享保の改革の初期までは、一貫して年貢率は低落し続けていたのだ。
 この原因は百姓の抵抗の拡大であり、その百姓と深く結びついた代官による、年貢滞納などであった。
 この時代の幕府の年貢収納方は、検見取り法という方法で、毎年収穫前の田畑を代官が実地検分してその年の作物の作柄を判定し、その年の天候なども加味して百姓の意見も聞き、検地帳に定められた石高にその年の作柄に見合った率を掛けて年貢高を決めるという方法であった。
 しかし武士である代官に、田畑の作物の良し悪しがわかるわけはない。実際のところは村の代表である名主の自己申告によって決められるのが実態であった。したがって百姓は、その年の天候の異変などを過度に言いつ のり、年貢高をなるべく下げようとする。そして今までのこの村での作物の実際の取れ高は代官は把握することはできなかった。刈高帳という台帳は、村が管理しており、代官にも見せなかったからである。したがって代官は名主との協議によってしか年貢高を決められない。
 そして当時の代官の多くが、その村に昔から住んでいる土豪であり、百姓とのつながりが強かったため、百姓の言い分を汲み取る傾向が強かった。さらに村の百姓は代官との協議が思うに任せないときは、越訴といって、その上部の統治機関に年貢高決定の不備を上訴することができたので、その年の天候や災害による状況などを詳しく訴え、年貢の減免を勝ち取ってもいたのだ。
 しかもこの時代は、村において小百姓の比率が増大した時代である。
 名主は代々名主職を務める村の有力者であり、代官と協議して年貢高を決め、さらにその年の村の年貢高に基づいて百姓1人1人に年貢を割り付けるのも名主の権限であった。従って年貢高の決定過程や年貢割付の過程で、名主や代官による不正が行われる可能性も高かった。年貢高が幕府への申告 では実際より低く報告され、差額を代官と名主が私したり、年貢を百姓に割り付けるときに、名主は彼の一族には有利に配分し、そうでないものや小百姓には不利に配分することさえあった。
 従って代官と名主の協議でその年の年貢高が決定しても、その決定に異議を唱えた小百姓たちが越訴におよび、決定された年貢高の改変と割付の改変を勝ち取ることもしばしばあった 。
 だから5代綱吉政権では、このような不正を働いた代官が解任されたのだ。
 そしてこの傾向は次の6・7代政権でも続き、さらにこの政権下では、名主職の世襲すら禁じられた。1713(正徳3)年のことである。以後名主は百姓の選挙で決められ、村の百姓すべての意思を代表し、その利害を守る者が選任されるようになり、そうではない名主はしばしば解任されるようになっていく。
 幕府が百姓から年貢を収納するに際しては、村の百姓全体の合意を得なければならなくなり、恣意的な年貢増徴は出来なくなり、次第に年貢率は低下していたのだ。
 これが8代吉宗政権が直面していた現実であった。

(b)定免法採用による増収策−幕府は百姓と合議した
 
では吉宗政権はどうこれに対処したのか。
 結論的に言えばそれは、百姓の利益の確保を前提とした妥協によって、年貢の増徴を図ろうという政策であった。
 1716(享保元)年に佐渡で定免制を採用して以降、幕府は定免法という新たな年貢収納方法を地域ごとに順次採用していく。 定免法とは、その年以前の5年とか10年とかの年貢額を平均して、年貢額を固定する方法である。
 佐渡で定免制が採用されたきっかけは、百姓が代官の不正と検見法の負担の重さを訴えたことにあった。
 1710(宝永7)年、佐渡の国を訪れた巡見使に対して、佐渡一国百姓の名で訴えが起こされた。その内容は、「1694(元禄7)年の検地以後、佐渡奉行荻原近江守の名代として彼の用人らが毎年検見のために佐渡に渡海するが、彼らは実際に田の稲を検分せず、役所で酒盛りをするばかり。そして不作などを彼らに訴えようとすると佐渡奉行所は百姓を捕縛して訴えを阻止し、村の名主も奉行所と結託して訴訟をさせない。さらに実際に検見する奉行所役人の費用は佐渡の百姓が負担しなければならず、30日ほどかかる検見の総費用は島全体で130両(約1560万円)でさらに役人 1人について伝馬4匹・駕籠人足10人を負担しなければならない。また代官見知りの有力百姓の田畑については天候などによる減免があるのに、他の百姓の田畑には減免がないなどの不公平が行われている。」と、奉行の用人や代官の不正を訴えた。そして、百姓の利益を守らない永代(世襲)名主は不都合なので、今後名主は3年で交代するように改めてもらいたいという願いであった。
 この願いはただちに新井白石によって聞き届けられ、佐渡奉行・勘定奉行の荻原近江守は罷免され、先にみたように幕府は永代名主を禁じた。そして8代吉宗政権になると、この訴えに基づき佐渡では定免法が採用され、検見を行うことなく毎年一定の年貢を収納するようにしたのである。
 定免法採用以後の佐渡の状況を見ると、この制度採用の目的がよく見えてくる。
 1719(享保4)年、佐渡奉行所は今年の年貢高として「1716(享保元)年・1717(同2)年・1718(同3)年」の平均を採用すると、佐渡の全名主を奉行所に集めて提案した。これに対して名主たちは、享保3年は特別に豊作だったのでこれははずし、「1715(正徳5)年・享保元年・2年」の平均額3万810石を採用してほしいと逆提案 。奉行所はこれを採用して、享保4年・5年と、この3万810石で年貢を徴収した。また1721(享保6)年にも佐渡奉行所に全島の名主を集め、「今後は、今までの定免で行くのか、作柄を検見して年貢を決めるのが良いか」と 佐渡奉行所は提案した。このとき百姓の答えは定免であったので、以後3年間も定免法を続けることになった。さらに1729(享保14)年、佐渡奉行所は定免の切り替えにあたって、「今年の年貢収納にあたって2600石の年貢増徴」を要請した。これまでの年貢額は4万5000石であったので約5%の増税である。この要請に対して百姓は全島260の村の名主が集会して協議し、増年貢を約束違反として拒否し、さらに奉行所がこれを受け入れないとなると、百姓総代が江戸にのぼって幕府に直接訴えると申し出た。それでも奉行所が幕府への直訴をも拒否して年貢の増徴を進めようとした ので、佐渡の百姓は「年貢増徴は難儀ではあるが上意とあらばお請する」と最終的には回答したのだ。
 こうした佐渡での定免法採用とその後の経過を見るとき、定免法採用は、佐渡の百姓には幕府と佐渡の百姓との契約であると受け取られていたのであり、その運用の実際も、奉行所と佐渡百姓との合議で行われ ていた。
 ではなぜ佐渡百姓は定免法を受け入れたのか。さらに1719(享保14)年にはなぜ年貢の増徴を受け入れたのか。
 その背景はいくつかある。
 まず1つは検地帳に載せられた石高は、実際の取れ高とは大きく隔たりがあった。田中圭一の研究によれば、それはおよそ2倍だという。だから多少増徴されてもなんとか受け入れることは可能であった。
 そして2つ目の理由は、幕府が百姓による新田開発に様々な利便を用意していたので、新田開発によって百姓の手元にはさらに米が手に入るが、定免法が採用されれば年貢額は一定であり、百姓の取り分は増え 、米を売って得られる利益はさらに増大するわけである。しかも検見を行わないのだからその費用負担も不要である。だから百姓は定免法の採用を認め、定免の切り替え時における多少の年貢増徴には応じたのだ。定免法採用は百姓にとっても利益があった。
 そして幕府にとっても定免法の採用は利益があったのだ。
 佐渡の百姓は定免法採用でさらに事業意欲を高め、各地で新田開発にいそしみ、増産に励んだ。ために定免ではあったが、佐渡一国の年貢収納高は年々上がっていった。先に見たように、1719(享保4)年の年貢高は3万810石である。それが10年後の1729(享保14)年の年貢高は4万5000石であり、さらに2600石の増徴にも百姓は応じた。10年で1万6790石の年貢増加である。
 おそらくこうした状況は、全国の幕府領のどこでも同じであったろう。だから吉宗政権下の前半(1716〜1735)においては、年貢収納率はかわらないのに、大幅に年貢収納高が増えていったのだ。
 こうして幕府は、百姓の要求に妥協し、定免法の採用によって彼らの事業意欲を向上させることを通じて年貢収納高を増やし、財政難解消に一定のめどをつけ 、1730年(享保15)頃には幕府の江戸の御金蔵には100万両(約1200億円)もの金が蓄えられた。 これに従って1730(享保15)年4月、8年間続いた上米の制が停止されて参勤も従来の1年に戻され、さらに1732(享保17)年には、手伝普請も再開された。

(c)増収対策としての新田開発の孕む危険性
 こうして年貢収納方法を変更して百姓の事業意欲を向上させることで幕府は年貢増徴を実現したのだが、佐渡の状況でみたように、新田開発もまた幕府の収入を増加させるうえでの有効な対策であった。
 1722(享保7)年、幕府は江戸日本橋に新田開発の高札を立て、町人請負も含む新田開発の方針を示した。
 この高札の趣旨は、新田開発が可能な場所があれば開発許可を与えるというもので、5畿内は京都町奉行所、西国中国筋は大坂町奉行所、北国筋関東は江戸町奉行所に出願を要請するものであった。町奉行所が管轄したということは、町人を対象にしてこの布告が出されていることを示している。またこれに関連して、新田開発にあたった町人には、開発に要した資金の1割5分の範囲内で新田から小作料を徴収することが認められた。これは従来の開発でも開発にあたった百姓らに新田の1割を与えたものを、町人にも適用したものであった。
 こうして財力のある町人や百姓の力を動員して、全国で新田開発がなされた。
 この時期に新田として開発されたのは、主に大河川周辺の沼や原地や山林、河口付近の潟であ り、先の高札では、これらの未開発の土地は大名・旗本・寺社などの個別の領主の統治権の及ばないもので、これらを新田開発すればそれは幕府領になると宣言していた。代表的なものは、下総(茨城県)の飯沼新田、越後(新潟県)の紫雲寺潟新田、武蔵(東京都・埼玉県)の武蔵野新田や見沼新田などである。飯沼新田は総面積1525町余り、石高で1万4383石 。紫雲寺潟新田は、総面積1647町余り、石高で1万6858石。武蔵野新田は、 武蔵野台地の原地を開墾したもので、新田村82村ができ、総面積2170町歩・石高は1万2600石。見沼新田は、総面積1800町歩。それぞれが大規模な開発であり、幕府領の総石高をかなり増加させ年貢収入の増加にも結びついていった。
 また幕府が一国規模で支配している佐渡では、奉行所は百姓の新田開発を促すために、1732(享保17)年「入会いの野山でも申請すれば、他村の者であっても開墾を認める。ため池の必要な場合は、奉行所の公費でため池を作ってやる」との布告 を出した。入会いの野山とは、それぞれの村が所有する山や野原や河原で、村人が必要とする薪や炭の材料、さらには牛馬の餌や田畑の肥料とする刈敷きを手にいれる共有地である。
 この享保17年の布告は、入会地の開墾に火をつけた。どんどん開墾を申請しないと、他村の者に入会地を取られるからであった。こうして佐渡では、1733(享保18)年に311町歩、1735(享保20)年に335町歩、1736(享保21)年には40町歩の開墾が行われた。総計で新田開発されたのは700町歩で、年貢収納は3000石増えたのだ。
 この佐渡で取られた政策は、以後幕府領全体でも実施されていく。
 幕府勘定所は、1738(元文3)年以降、全国の幕領で河川敷の新田開発を進めていった。河川敷は村の共有の入会地であり、従来は検地帳にも乗せられず課税されていなかった。この河川敷を個々の百姓に割り当てて新田とし、年貢を割り付けた。理由は商品経済の発展によって百姓も賃仕事などの収入も増えているから、この分を河川敷の新田として収納しようというものであった。以後河川敷も個人の所有地として売買され て他の村の百姓のものにもなり、村の入会地が他の村の新田として開拓され、河川敷の新田開発が加速する。また勘定所は、1743(寛保3)年以降、村の入会地である山林原野を「林畑」として把握して個々の百姓に割付、これにも年貢を課していった。ここでも借金のやり取りを通じて入会地としての山林原野が他の村のものになり、先を争った新田開発が行われていった。
 新田開発の奨励は効果があった。こうして先の表で見たように、享保の改革の全期間を通じて、幕府領の石高は、約412万石から約459万石へと10%ほども増えて、年貢収納高も139万石余りから158万石余りへと、20%ほども増えていった。
 だがこの政策の効果は一時的であった。
 なぜなら入会地を他村にとられないための開発なのだから、開発地は村から1里も離れた山の中であったりする。実際には開発はされずに、増えた年貢は村の田に割り当てて収めていた。そして実際に開拓された入会地も、地味が低く、それほど採算の合うものではない上に、保水力の弱った山野が田畑を流す洪水を起こすもととなったからだ。 大河川周辺の沼や潟、そして河川周辺の遊水地や野原を新田とすることも、洪水の際の遊水地であったこれらの機能を阻害することとなる。
 また従来田畑となっていない山林原野や湖沼は全て幕府のものという論理で新田開発がなされたことで、これらの森林原野や湖沼周辺の原野を入会地としていた大名や旗本領などの百姓と幕府との間で、国郡境目争論が頻発する。なりふりかまわぬ新田開発政策は、多くの百姓に犠牲を強いたのだ。
 従って新田開発には無理が伴っており、次第に採算の合わない新田は放棄される。先の資料で見たように、享保の改革以後、幕府の総石高が減少しはじめるのは、この結果だった。

Bその他の経済政策−殖産興業策による幕府領・日本国の経済力の向上

 財政改革としての享保の改革の成功は一時的なものであった。後に見るように 様々な矛盾が爆発しており、百姓・幕府・大名相互が対立し、無理に増やした新田もその後次第に放棄され、幕領の総石高も次第に減少し、年貢収入も減少したからだ。
 だが年貢増徴策以外の経済政策には、のちの時代に大きな成果を生み出したものもある。この時期に行われたその他の経済政策は、後に幕府のそして日本国の経済力の向上に役立ったものが数多くあり、これについて 「つくる会」教科書がまったく言及しないことは、不思議である。

(a)輸入品の国産化政策と輸出品の開発
 幕府の財政難の背景には、長崎などを通じた海外貿易によって大量の金銀が海外に流出するという問題も大きな位置を占めていた。そして金銀の増産がほぼ不可能な状態に陥っていた当時においては、外国貿易を改善することが焦眉の問題になっていた。
 吉宗政権は、外国貿易については、前政権下で制定された貿易制限策・正徳新例(【27】の3を参照のこと)を基本的には踏襲した。
 正徳新例については、輸入制限によって抜け荷が増え、砂糖・羅紗・薬種・鉛・鹿皮などの輸入品の高騰を招いたので廃止すべきであるとの意見が出されていたが、吉宗は長崎奉行に実態を調査させ、正徳新例が金銀の流出を防ぐ効果をあげていることを確認してこの継続を決めた。そして同時に、様々な方策を講じて密貿易を減らす処置をとった。
 こうした貿易制限とともに吉宗政権が行ったのは、輸入品の国産化と輸出品産業の振興による、貿易構造の改変であった。
 外国からの主な輸入品のうち、綿織物は17世紀末までにはほぼ国産化を完了し、さらに18世紀末の明和のころには尾張で輸入更紗の模倣が始まり、しだいにインド更紗に対抗できる製品が作られていった。生糸・絹織物は、元禄期からの輸入制限によって西陣での絹織物生産原料である生糸が不足したことを背景に、1713(正徳3)年に幕府は西陣に国産生糸の使用を要請した。そして、享保の時代になると国内で、特に東山道周辺で養蚕が盛んになるとともに、国内産の生糸が西陣などの絹織物産地に運ばれ、次第に国産生糸による高級絹織物が作られるようになった。また元文期(1736年)以降には蚕の温度管理が進んで輸入生糸に劣らぬ国産生糸が作られるようになり、国産生糸による高級絹織物が輸入絹織物を上回った。
 こうしてみると、吉宗治世下の享保から元文の時期はまさしく、輸入品の国産化が進んだ時代だったのだ。
 吉宗政権は、これ以外の輸入品についての国産化も進めた。
 砂糖の栽培は 琉球王国で早くから実施され、琉球では1645(正保2)年に砂糖専売制が実施され、薩摩経由で大坂に運ばれて多大の利益を上げていた。この事態を見た薩摩藩でも併合した奄美諸島でサトウキビ栽培をはじめ、元禄年間(1689年ごろ)には黒糖の生産を始めた。吉宗は砂糖の国産化に挑み砂糖栽培を奨励したので、サトウキビはその栽培適地に広がっていく。 江戸時代に薩摩以外でサトウキビが栽培されたのは、讃岐(香川県)・駿河遠州(静岡県)・紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府)・阿波(徳島県)・土佐(高知県)・日向(宮崎県)であるが、この中で讃岐・阿波が特に盛んでこの地では白糖を産し、幕末には奄美大島・琉球を凌ぐ生産量を示し、品質でも輸入砂糖を凌いだ。この結果、天保年間の初年(1830年代)には国内糖だけでほぼ自給を達成するところまでに発展する。
 また吉宗が特に力を入れたのが、薬草の調査と栽培、そして薬の製造・販売体制の確立であった。
 吉宗は当代の名だたる本草学者を側近に起用し、丹羽正伯には1729(享保14)年に稲生若水が編纂した「諸物類纂」の増補作業を命じ、1745(延享2)年までの17年の歳月を要して、動物・植物・鉱物など3590種の物産を記録する大博物辞典を完成させた。この間に1734(享保19)年には、諸国産物調査が行われ、この諸物類纂編纂の過程で諸国にも本草学が浸透し、諸国での殖産興業策推進に寄与している。
 また吉宗が抱えた本草学者や植物栽培に詳しい紀州出身のお庭番は、1720(享保5)年から1753(宝暦3)年まで諸国薬草検分を行い、北は蝦夷地・松前から西は九州長崎以東に至る多くの地域を踏査した。この薬草検分には薬草に詳しい医師や薬種問屋もつき従い、幕府領や大名領に限らず諸国を検分し、それぞれの地域でも薬草に詳しい者を案内人として頼み、彼らとの知識の交換をするとともに、それぞれの地域から薬草見習いを出させて、薬草の知識と薬の調合方法の伝授を行っている。そしてこれと平行して各地に薬草園が設置され、幕府のものとしては駒場薬園・小石川薬園・下総小金野薬園が有名であり、その他には尾張・紀州・南部・弘前・会津などの諸藩でも薬園が設置されている。 またこれらの薬園では様々な薬草が栽培されるとともに朝鮮人参の栽培が広く行われ、各地の特産物となっていく。さらに吉宗は薬の生産・販売ルートを確立させ、和薬の種類を定めてその検査法を確立し、薬の品質を検査する機関である和薬改会所を、1722(享保7)年に江戸・大坂・京都・堺・駿府の各都市に薬種問屋組合によって設置させた。
 こうして吉宗政権下において輸入薬種に基づく薬だけではなく、国産の薬種による和薬が数多く作られて販売される体制が作られたのだ。そしてこれは次に述べる飢饉・疫病対策でもあったのだ。
 また吉宗政権下の幕府では、銅に代わる輸出品としての俵物の集荷体制を強化した。すでに綱吉政権下の1699(元禄12)年に、中国料理の材料として珍重された煎海鼠(いりこ)・干鮑などの俵物を集めるために、長崎俵物諸色支配を任じて独占的集荷体制をつくり始めていたの だが、さらにこれを強化し、1744(延享元)年には、長崎町人8人を俵物一手請方に任じた。彼らは翌1745(延享2)年には長崎に、さらに1747(延享4)年には大坂・下関に俵物会所を設立し、北国からの俵物の独占的集荷を進めた。
 こうして次第に外国貿易では、銅に代わって俵物が主たる輸出品となっていき、金銀銅を輸出して外国産品(生糸・絹織物・綿織物・砂糖・薬種など)を輸入する体制から逆に、俵物を輸出して金銀を輸入する体制に 貿易構造が変わっていく。 輸入超過で日本から金銀銅が流出していたのを、逆に輸出超過黒字化し、海外から金銀を輸入することができるようになったのだ。貿易が儲かる体制になり、幕府直轄化されていた長崎貿易は、幕府の大きな収入源となったのだ。
 元禄時代から享保・元文の時代に進められた輸入品の国産化政策は、当時の世界貿易の主たる製品である、生糸・絹織物・綿織物・砂糖などを国産化して、逆に日本から世界の中枢である中国に国産品を輸出する構造に転換した。この貿易構造の転換が、幕末から明治時代における日本の貿易輸出の拡大の基礎を築き、中国を中心とする世界システムからの離脱とその従属化の一歩を進めたのである。
 この点は、教科書にもしっかり明記すべきであろう。

:しかし幕府が俵物の独占集荷体制をとったことは、これ以前から俵物を輸出品として集荷し、国外に輸出していた 西南諸藩との軋轢を強めることとなる。特に、すでに琉球を通じて俵物を密かに中国に輸出していた薩摩藩は、俵物会所の独占集荷体制に抗して、富山の薬種商人と組んで、東北から蝦夷地に至る日本海側の諸地域から俵物を独 自に集荷する体制を強化した。この動きは、幕府の俵物独占集荷体制構築に応じて俵物の藩専売制を敷いた東北諸藩と好対照であった。また全国的な殖産興業政策の結果、全国各地に特産物が出来たことは、各藩がその地の特産物の藩専売制を取ることを可能にし、各地の特産物の独占的販売権を握ってきた大坂商人、そして彼らに仲間を作らせ独占的販売権を保障するとともにそこから多額の運上金を得ていた幕府と藩との利害の対立も生み出した。全国的な殖産興業政策の展開は、特産物の専売権をめぐって、それぞれ商人と結んだ幕府と藩との利害の対立を生み出したのだ。

 さらに吉宗政権下では、日本の中の独立した一国としての幕府の経済基盤の強化も行われていた。
 首都江戸の後背地である関東は、当時は京大坂を中心とした上方に比べると諸産業の発展が遅れ、ために上方から多量の物資を江戸に輸入せざるをえず、これがために江戸の物価は高くなっていた。
 1729(享保14)年幕府は、江戸浅草門外の町人2人に唐胡麻の油の販売を一手に独占させ、関東の村々ではこの2人から種を受け取って栽培するように指示した。また1728(享保13)年には江戸中橋の商人が関東で産した菜種を一手に買い取ることが許され、関東の代官や村の名主を御用菜種方に任じて村々を回らせ、関東での菜種栽培を奨励した。唐胡麻・菜種油は、灯油としてや蝋燭の原料などに用いられており、当時江戸での消費の多くが上方からの移入品であったからだ。
 また関東における大豆栽培や綿花栽培も広がり、この時代からの関東の地場産業の発展は目覚しく、しだいに上方産品に代わって関東産品が江戸の消費の多数を占めるようにな った。江戸入荷物資に占める下り物の割合は、1720年代(享保年間)の繰り綿100%・木綿33%・醤油76%・油76%であったのが、1856(安政3)年には、繰り綿33% ・木綿18%・醤油6%・油60%と大幅に低下したことは、先に【22】「都市の発展が平和で豊かな近世社会を築いた」で見たとおりである。

(b)殖産興業策を裏付ける知識の集約−諸外国の知識をも利用
 教科書の記述だと、享保の改革は財政難を克服するための年貢増徴政策だけを行ったように見えてしまうが、商品経済の発展にともなう矛盾を解消するために、さまざまな殖産興業政策を行っていたのだ。
 そしてこの殖産興業政策の裏には、先の「諸物類纂」の編集や薬草調査で、近世になって発展した本草学の成果に依拠したことに見られるように、内外の知識の集約が行われていた。吉宗自身が医学や農学にも関心が深く、江戸城中奥に御書物部屋を設けて、ここに法律・医学・農政・天文・気象・地理・蘭学などの書物を多数所蔵し、常に本を座右において学習に励んでいた。また御薬部屋を設けて自ら薬を処方するとともに、朝鮮の医学書「東方医鑑」や、簡便な薬の調整法を記した「普及類法」の出版なども行わせている。
 また幕府は1720(享保5)年には漢訳洋書の輸入禁止を緩和し、中国語に翻訳されたヨーロッパの知識の吸収にも努め、さらに吉宗は、1740(元文5)年に、オランダ語文献を直接利用するために、儒学者・青木昆陽や本草学者・野呂元丈に命じてオランダ語を学習させている。
 こうした活動も次の時代に繋がる大きな一歩であった。

C貨幣経済の進展に対応した司法・統治機構改革

 享保の改革は財政難対策だけではなく、変化した社会に対応するための幕府機構改革も伴っていた。それは教科書が記したような司法改革だけではなかった。

(a)幕府の官僚機構としての勘定所−代官システムへの改変
 つぎつぎと新たな経済政策を打ち出し、それを百姓や町人に徹底させていくには、幕府官僚機構の確立が不可欠であった。
 とりわけ重要なものが、幕府財政を一手に引き受けている勘定所−代官の仕組みの確立であった。
 これまで全国の幕府領は、それぞれ数万石に分けた地域を代官が治めていたが、それを統括するのは、畿内・上方地方は京都町奉行所、それ以外が江戸の勘定所であり、幕領全体が勘定所によって統括されてはいなかった。また勘定所内部の機構も確立してはおらず、地域担当としては上方と関東に分かれており、さらに農政と裁判業務も分かれてはいなかった。
 1721(享保6)年、幕府は勘定所の機構を改編し、公事・訴訟関係をあつかう公事方と年貢・普請を担当する勝手方に分割し、それぞれを担当する複数の勘定奉行・勘定吟味役・勘定組頭を配置し、相互に独立した機関とした。さらに、1723(享保8)年には、これまでの上方・関東に支配地域が分割されていたのを一括化し、勘定所勝手方をその職務内容によって複数の係りに分割整理した。そして1734(享保19)年には 、畿内地方の幕領の支配を、公事関係はこれまでどおり京都町奉行所においたが、年貢・普請関係は勘定所支配とし、幕領の年貢・普請関係はすべて勘定所が一括統治する機構へと改変した。
 こうした機構改革によって勘定所の人員は、従来の130名から186名へと増員された。
 また直接幕領を統治する代官の整理にも手をいれ、1719(享保4)年には代官ら20名余りを使い込みや負債を理由に罷免した。これは代官が支配地の村の年貢を代納するなどして村と一体化していたのを改め、代官を勘定所支配の官僚とするための方策であった。また1722(享保7)年にも代官ら18名を同様な理由で罷免・配置換えしている。これは当時の代官総数の40%にもおよび、一時的に代官の定員が不足し、近在の大名に幕領の支配を委ねなければならなくなるほどの荒療治であった。 さらに1725(享保10)年には、これまで代官所の業務に必要な費用が口米といって百姓から年貢とともに徴収する方式であったのを改め、勘定所から一括して支給することとし、これに伴って代官所の経費が標準化された。これは代官所の経費が村から支給されることによって、代官と村との癒着が進み、代官が不正を行ったり百姓の年貢減免要求に従ったり 、代官が年貢を立て替えるなど、代官が幕府官僚としてではなく百姓と一体化した行動を取りがちだったからであった。
 そして1736(元文元)年には、全国の代官所を5つの組に再編し、5名の勘定奉行が、3〜5年毎に直接代官を統括する仕組みにした。さらに1744(延享元)年ごろには、代官の中で残っていた関東や畿内の世襲代官を罷免し、勘定所役人出身の代官に差し替えている。 この背景には彼ら世襲代官の多くが百姓の側にたち、1733(享保18)年には不作時の減免を訴えていたことが背景にあろう。
 こうして幕府は、幕領を勘定所−代官という幕府官僚機構で直接治める方式に機構を改編した。代官を百姓から切り離し、幕府官僚として幕府の意向に従い、百姓にその政策を押し付ける役目に代官を変えていった。この体制の確立期は、代官所費用が直接勘定所から支給されるようになった1725(享保10)年から、代官が直接勘定奉行によって統括されるようになる1736(元文元)年あたりである。 この勘定所−代官体制の確立を基礎として、この時期から幕府農政が転換し、それまで百姓の要求に妥協し、百姓の利益を確保することで百姓の事業意欲を高めることで年貢収入を増やそうとする姿勢から、できるだけ百姓から年貢を搾り取る姿勢へと幕府の姿勢が変化する。

(b)官僚機構の確立−人材の登用制度と公文書管理体制の確立
 この時代に確立された官僚機構は、勘定所だけではなかった。
 村方支配の要である勘定所に対して、町方支配の要である町奉行所の機構も、この時代に確立された。
 1719(享保4)年には、江戸町奉行所が北町・南町・中町と3つに分かれていたのを南北の2奉行所体制に改め、町奉行所内に様々な係りを設けて分担して職務を遂行する体制にした。このときに設けられた係りは、本所見回り・牢屋見回り・養生所見回りなどの係りと、主に火事の際に出動する出火の節人足改め・火事場建具改め・高見回り・風烈見回り、さらに新地家作改め・町回りなどの日常的な町改めと認可業務であった。

:幕府の3奉行の1つである寺社奉行は大名が任命され、その江戸屋敷が役所となり、役人は大名家臣が従事するので、幕府官僚機構としては整備されなかった。

 そしてこれらの実質的に行政実務を担当する3奉行が合議する場としての評定所が整備され、ここにはさらなる上部組織としての老中会議のメンバーである老中や、大名や旗本・御家人を監視する大目付や目付けも、必要な議題によっては参加して、評定所において幕政の主な事項は審議立案され、老中会議での審議・承認と将軍の親裁を経て、幕政が決定される仕組みもこの時代に確立された。
 さらにこれらの官僚機構を速やかに動かすために、家格による人材登用に代わって、能力によって人材を登用する制度も定められた。
 1723(享保8)年、幕府は役職毎に基準の禄高を定め、その役職に任命されたものの家禄が基準高に満たない場合は、その役職に在任している期間に限り不足分を支給するという制度を定めた。足高の制である。幕府の役職についた場合は家禄に加えて役料という手当てが支給されたが、役職に伴う経費が不足する場合には、役職についたものがその家禄から補充することになっており、役職につくにはそれ相当の家禄が必要とされていた。しかし家格に関わらず能力があるものを抜擢すると家禄が役職の格に見合わないことが多く、そのための高い役職についたものの家禄を増加させ、ために幕府の人件費が増大するので、能力による抜擢がしにくくなっていたのを改善したものである。
 この結果、様々な役職に低い家禄のものが抜擢され、その能力を大いに発揮することができるようになった。
 特に幕府農政・財政の元締めである勘定奉行は、これまでは5000石相当の旗本がつく役職となっていたので、番士や遠国奉行などを勤め上げたものが老齢に達してつく役職となっており、勘定所の業務をよく知らないものがつく名誉職に近いものになっていた。それがこの改革では3000石相当となっために、家禄の低い旗本や御家人から抜擢される例が増え、勘定所の平役人である平勘定やそれ以下の支配勘定、さらには代官など、家禄が数百俵の現米しかもらっていなかった下層の勘定所役人が、その才能と業務実績を積み上げて上り詰めることが多くなった。こうして勘定奉行は事実上勘定所という農政・財政機構の最高責任者になり、若くして任官して以来、年を取って引退するまで勘定所役人として勤め上げる例が増え、勘定所という官僚機構が確立したのである。
 この足高の制によって抜擢された者としては、中級旗本から41歳で江戸町奉行になり、以後20年余り町奉行、さらに15年間寺社奉行を務め幕政の中心で活躍した大岡忠相(ただすけ)や、平勘定から勘定奉行に上り詰めて辣腕を振るった神尾春央(はるひさ)、さらに大岡忠相の下で、武蔵川崎宿名主から代官に抜擢され、治水事業などで活躍した田中丘隅喜古(よしひさ)や、同じく武蔵押立村名主から代官に抜擢され、さらに勘定所役人となって勘定吟味役にまで上った川崎定孝など、多くの人材が輩出した。しかし足高の制は、幕臣の給与削減策としては大きな力は発揮しなかった。なぜなら5代綱吉・6代家宣・8代吉宗と、代々藩主から将軍になったため、その時々に数百人の家臣が幕臣に追加されていたし、享保の幕政改革に伴う機構改革で、役人の数が大幅に増員されていたからだ。
 また享保の改革においては、幕府官僚機構における文書が整理され、それぞれの役職の業務日誌や必要な文書資料目録が整備され、責任者が交代しても、その業務の記録や文書類が継続して保管・閲覧できるようになった。これまではそれぞれの役職についたものが業務についての備忘録や日記をつけていても、それは個人的なものに過ぎず、役職を交代した後にまで引き継がれることはなかった。そのためそれぞれの業務の先例も集積されず、それぞれの役職で特定の時期に行われた政策の背景になる資料なども引き継がれず、業務の継続性に支障をきたしていたからだ。
 これと同じ観点で行われたのが、次に見る法令の集成と裁判にあたって基準となる法令集の作成であった。

(c)増大する訴訟に対応する機構改革と法令集の整備
 幕府は1720(享保5)年に3奉行に対し、犯罪者への刑罰をあらかじめ決めて書き記すように命じ、これに基づいて今までの法令が集成され、今後も使用可能な法令を編纂して処罰規定などを書き加え、1742(寛保2)年に公事方御定書として完成された。またこれと平行して従来の法令集も編纂され、1615(元和元)年から1744(寛保4)年までに出された法令を編纂した「御触書集成」として、1744年(延享元)年に完成された。
 公事方御定書は、社会が複雑化して訴訟も多岐にわたって件数も増大し、従来の法令集もなく処罰規定もない中で、奉行の個人的な記憶や備忘録に基づいたやり方では裁判の遅れや、奉行毎の判決がまちまちになるという例が多く見られたからであった。
 なりふりかまわぬ新田開発の増大は、幕府領の百姓と私領(大名・旗本領など)の百姓の入会地を巡る境目争論を激発させており、さらに貨幣経済の村への浸透は、百姓間の借金返済をめぐる争いや田畑の質流れに関わる争いを激発し、これらの訴訟が勘定所に集中し、しばしば強訴や越訴ともなっていた。また都市への人口の集中は都市犯罪を増加させ、さらに都市での商取引の増大は、借金の返済や手形・為替の不渡り、さらに売り掛け金の支払いをめぐる争論などを多発させ、この裁判が町奉行所へ押し寄せ、奉行所の業務に支障をきたすほどであった。特にこの借金の返済をめぐる訴訟は、1719(享保19)年の奉行所での公事2万6070件のうちの2万4304件を数え、訴訟の余りの多さに奉行所は処理できず、翌年以降に持ち越される訴訟が相次いだという。
 公事方御定書の編纂は、これらの増大する訴訟に対処する基準を定めたもので、法令によって公正に裁判を行うためのものであり、御定書の第2巻には、訴訟手続き規定・村方訴訟規定・借銀訴訟規定・町方訴訟規定・寺社方訴訟規定・さらには賭博や無宿人取締り規定などでなっていた。そしてこの時に定められた諸規定は、従来の幕府での判例を元にしたものだけではなく、習俗として町や村で慣例化されていた法慣習を法令化したものも多かったという。特に従来町方や村方での争論を当事者の内済で済まして村役人や町役人の調停によって争論を治める方式が取られていたのを、公事方御定書では公式の裁判方式として取り入れた 。これは、増大する訴訟を効率よく処理する上で大いに役立ち、当事者と名主・奉行所の間を取り持つ職業的調停人であり訴訟事務取り扱い人でもある公事宿を生み出す背景とな り、裁判機構を確立する基礎となったのだ。
 この法令集の編纂により訴訟手続きや訴訟過程が法制化されて裁判が迅速化され、処罰規定も法制化されたために、恣意的な判例が減った。
 この意味で「つくる会」教科書が法令の編纂の目的を、「商業発展にともなって増大する訴訟」を処理するためと記述したことは正しく、裁判を迅速かつ公正に行うためのものだったのだ。享保の改革によってようやく幕府は、訴訟を処理する司法制度を整備することが出来、公儀としての体裁を整えた。

C幕藩制度の限界の露呈ー対処不能な社会問題の激発

  享保の改革は、貨幣経済の進展と小家族を基本とした社会への変化に対応して、その統治機構を改編して、幕府のそして大名・旗本などの領主の領国統治を安定させようとした改革であった。この意味で享保の改革によって幕藩体制は官僚機構を整え、国家制度としては完成した段階に達したといえよう。
 しかし享保の改革はまた、幕藩制度の限界をも如実に示し、後の幕藩制の危機の様相が改革の成功の影に透けてみえた取り組みでもあった。

(a)流通機構への介入−価格操作と貨幣改鋳−
 上に見たような方策で年貢収入を増加させても、これだけでは幕府の収入を増やすことはできなかった。なぜならば米はすでに商品の1つに過ぎなかったのだから、全国的な米の大増産運動はやがて米価の下落をもたらし、米価の下落は、せっかく年貢増徴で増やした収入増の成果を奪いとってしまうものだったからだ。
 幕府は米価をあげるべく奮闘した。
 1722(享保7)年、米の取引を活発化させるため、それまで禁止していた米の空米取引(名目的な先物買い取引)を一部解禁し、1728(享保13)年にはこれを全面的に公認した。そして1725(享保10)年には江戸の富商3人に買米を命じ、1729(享保14)年から1731(享保16)年にかけては、幕府自身が連年買米を行った。さらに諸藩に対しても米の貯蔵を命じて江戸と大坂への廻米を制限し、こうして米の供給量を減らして取引を活発にし、米価を引き上げようとした。
 しかし市場経済に幕府が介入しようとしても効果は少ない。米価は傾向として下がり続け、1730(享保15)・1731(同16)年には、1石あたり銀20匁台と通常の半額にまで下がり、武士の収入は半減した。
 しかたなく幕府は、1735(享保20)年には、江戸では金1両で米1石4斗以下、大坂では米1石について銀42匁以下という公定価格を設け、これ以上の価格で売った場合には、米1石について銀10匁ずつの運上金を米屋から上納させることとし、毎月の売買米高を奉行所に報告させるようにし、この布告の徹底を米商人・蔵宿・札差を残らず奉行所にあつめて命じてもいた。
 だがこれでも米価は傾向として下がり続けた。大坂では1731(享保16)・1735(享保20)・1736(元文元)・1744(延享元)年と立て続けに買米令を出し、江戸では1744(延享元)年に初めて買米令を出し、米屋107名に最高1人5000石・総額10万5500石の買米を命じた。それでも効果が少ないと、白木屋などの呉服商にまで買米を命じ、白木屋は3000石の買米を行うはめになった。しかしこれでも米価の低落傾向は続き、無理やり米を買わされた白木屋は、743両(約8916万円)の損金を出してしまったのだ。幕府の価格操作は失敗した。
 流通機構への介入は、米以外の諸色にも及んだ。当時の物価の趨勢は米安諸色高で、これが幕府財政や武士の家計の窮乏に拍車をかけていたからだった。
 1723(享保8)年、江戸町奉行大岡越前守と諏訪美濃守は、物価対策についての幕府老中の諮問に以下のように答えた。
 「炭・薪・酒・醤油・塩については、これらをあつかう商人の全てに仲間組織を作らせて月当番を決め、毎月の相場を申告させる。その上で相場が高くなったときには、原因を調べさせて申請させる」「商品の流通状況を調べるために、江戸入津の物資の書付を毎月浦賀奉行所から報告させ、さらに大坂でも諸荷物の数量を問屋ごとに調べさせ大坂町奉行に報告させ、江戸向けの物資については毎月荷物数量を大坂から江戸に報告させる」「江戸・京都・大坂で商種ごとの組合を作らせ仲間内で軒数を制限させ、他の職種の商人が荷物を扱えないようにする」などが、その対策であった。
 こうして、先に【22】で見たような大坂・江戸間の諸色の流通量調査がなされるようになり、1721(享保6)年から1724(同9)年にかけて、江戸・京都・大坂で、布・綿・米・茶・醤油・炭・酒・紙などの問屋や小売の商人の仲間組合が作られ、さらには、扇屋・紺屋・菓子屋・雛人形屋・瀬戸物屋・椀屋・皮細工屋・小間物屋・きせる屋・塗り物屋などの贅沢品を扱う問屋や小売商人の仲間組合が作られ、仲間内で仕入れ価格を統制し、物価を引き下げるように命じられた。
 だがこれもたいした効果はなかった。江戸で米以外の諸色が高いのは、江戸の後背地である関東でこれらの諸色の生産が盛んでないために上方から高い運送費を払って移入するためであり、幕府が法令で規制しようとしても無理だったのだ。
 こうした江戸後背地での諸産業の発展がない中で、金本位制の関東・東北の購買力をあげようとすれば、それは金銀貨幣の改鋳によって、金高銀安にするしかない。
 結局幕府は、6・7代政権時から受け継いだ高品位貨幣の鋳造・貨幣流通量の制限政策を撤回した。
 1736(元文元)年、幕府は金銀貨幣の改鋳を行った。
 このとき作られた金貨の金含有量は60%、銀貨の銀含有量は58%で、旧来の良質の貨幣(慶長・正徳・享保)との交換比率は、金貨では旧貨100両に対して新貨165両、銀貨は旧貨10貫目に対して新貨15貫目で、金銀貨の価値は金高銀安にされた。またこの貨幣改鋳にあわせて、幕府は寛永通宝の鉄銭を大量 に鋳造して流通させた。もっとも小さい金額の貨幣である一文銭が、商品流通の拡大に見合って供給されていないために、銭高になっていたからだ。1735(享保20)年ごろは銭1貫文(1000文)で銀12・3匁と、幕府が定めた公定 交換比率の銀60匁が銭4貫文よりもかなり銭高になっていた。
 そしてこの元文の鉄銭大供給によって通貨の交換比率はようやく安定し、金貨1両=銀貨60匁=銭貨4貫(4000文)という公定比率に近い数値で推移し、諸物価も安定し、米価も安値ではあるが安定したのであった。
 だがこのことは、幕府の力を持ってしても市場経済を統制することは不可能であることを示していた。幕府の様々な介入にもかかわらず、米価は低落し続け、せっかく年貢増加で増えた幕府収入も相殺されたからである。

(b)国役による災害対策−国家としてどう災害と対処したのか
 
さらに打ち続く災害も大きな問題であった。
 戦国時代から続く新田開発の進展は、日本全体の耕地面積を増やし、収穫物の増大をもたらしたが、その反面、新田開発の結果として山林の保水力が低下し、元禄時代から日本各地で大規模な風水害が起きていた。そして綱吉政権は、財政難が進む中で、このような大規模な風水害に対処する治水工事を、全国の大名にお手伝い普請を要請し、諸藩の財力をも動員して対処したことは先に 【27】で見た通りである。
 しかし享保年間の治水事業の大規模化はさらに、大きな水害を起こしていく。
 なぜならば河川の氾濫を防ぐために大規模な堅牢な堤防が建設されることは、河川を天井川と化し、一旦堤防が崩れれば今までに倍する災害が起きてしまう。さらに水害を防ぐために各地で河川の付け替え工事が進み、河川の流路が直線化されたことは川の水流の勢いを増し、これがさらに大規模な水害を起こす原因となったからだ。大雨による河川の氾濫はなかなか止めることができなかった。
 吉宗政権は、この事態にどのように対処したのか。
 1720(享保5)年、幕府は国役によって河川普請を行うことを法令として定め、1724(享保9)年には、その施行細則を定めている。
 この制度は、今後は河川の普請や水害復旧に際しての普請は、一国一円を支配する国持ち大名や20万石以上の大名は今までどおりに自藩の財源で普請を行うが、それ以下の領主の所で自力での普請ができない場合には、国毎に平均に費用を 課して普請工事を行うというものであった。そして河川水域毎に普請限度額を設け、普請が幕府領や大名・旗本領に限らずこの限度額を超えた場合には、河川毎に定められた国々に平均に費用を課することとし、幕府領の普請は費用の1割を幕府が負担して残りを国役とし、私領(大名・旗本など)からの願いで国役普請となった場合には、当該の領地に村高100石について10両を負担させ、残りの費用の1割を幕府が負担し、その残額を国々に平均に課することとされた。
 このとき国役普請が定められた河川と普請限度額・国役担当の国々は以下のとおりである。

表:国役普請地域一覧(笠谷和比古著「近世武家社会の政治構造」より)
  国役指定河川 国役賦課規定額 国役賦課対象国
利根川・烏川・神流川水系、鬼怒川・小貝川水系、荒川、江戸川 3000〜3500両 武蔵・下総・常陸・上野
3500両以上 安房・上総を加える
稲荷川・渡良瀬川・大谷川・竹ヶ鼻川(下野の小河川) 2000〜2500両 下野
2500両以上 陸奥を加える
富士川、大井川、安倍川、天竜川、千曲川・犀川水系 5000〜5500両 駿河・遠江・三河・信濃・甲斐
5500両以上 伊勢・伊豆を加える
関川・飯田川水系、保倉川、信濃川・魚野川水系、阿賀野川 2000〜2500両 越後
2500両以上 出羽を加える
木曽川、長良川・郡上川水系 2000〜4000両 美濃
4000〜4500両 近江を加える
4500両以上 越前をさらに加える
淀川・桂川・木津川・宇治川水系、神崎川、中津川 1万石以上は5畿内総がかり 山城・大和11郡・摂津・河内9郡
大和川・石川水系 河内7郡・大和4郡・和泉

 この国役指定がされた河川と国を見ると、ここが幕府領を中心として、旗本領や中小大名領が集まった地域であることがわかる。そして享保の国役令では、私領 (大名・旗本領など)出願の国役指定に限度額が設けられ、これは事実上10万石以上の大名領の河川普請を除外する規定であったので、享保の国役令は、幕府の河川普請費用を限度額を設けて削減して周辺の国々にその費用を分担させるとともに、単独では河川普請をしがたくなっていた旗本や5万石以下の小大名の救済を目的として出されていたことがわかる。またこの国役令の背景には、旗本や小大名領の百姓から、当該の領主が財政難により河川普請ができず、ために度々水害 が起こっているので、公儀・幕府で河川普請をやってもらいたいという願いが度々出ていたことが、制度制定の背後にあった。この願いを放置しておけば、旗本や小大名は百姓から、公儀失格の烙印を押され、領 国統治ができなくなる危険すらあったということだ。急激な新田開発による国土の崩壊は、小領主では対応できない規模の河川普請の必要が激増しており、しかも河川毎の統一的な対応が求められていたのである。幕府はこれらの小領主の領主権を肩代わりせざるをえなくなった。
 しかしこの享保の国役令は、1732(享保17)年に中止される。
 中止の名目的な理由はこのときの飢饉で西国で国役賦課が難しくなったことだが、実態は、国役普請が増える中で私領での国役普請も激増し、その私領の負担金を幕府が一時立て替えていたものの多くが、大名 ・旗本の財政難のために焦げ付き、幕府財政を悪化させていたのが真の理由であった。全国的な水害の多発は、幕府の財力で全国的に河川普請をしなければならない事態を招き、財政難をきたした幕府はついに、旗本・大名は自身の責任で河川普請をしろと、その公儀としての任務を放棄するにいたった。

:だがこの対応も長くは続かなかった。1757(宝暦8)年、幕府は再び国役を再開し、このときは私領出願の国役指定の限度額を撤廃し、同時に国持ち大名や20万石以上の大名にも手伝い普請として、諸国の国役普請を援助させた。これは、享保17年の国役停止以後も、例えば1742(寛保2)年の関東・信濃の大水害のように深刻な水害が全国を襲っており、10万石程度の大名までも自力では河川普請ができないところまで追い込まれていたからだ。 幕府はこの水害の激発に対して国持ち大名の財力を手伝い普請として動員しなんとか乗り切った。近世1の【11】(p298)で見た、薩摩藩による木曾・揖斐・長良の3河川の堤防工事がその例である。これを教訓として、幕府は 国役普請を再開し、私領の国役河川普請のための国役金を確実に徴収するために国役金の徴収限度額 (村高100石あたり関東は銀20匁・約4万円、その他は銀30匁・約6万円)を決めて確実に集めるとともに、財力のある国持ち大名や20万石以上の大名にも援助を頼み、共同して公儀としての役割を果たすよう促したのだ。財政難を理由として公儀として国土を守り民を守る義務を放棄することは許されない事態に落ちいっていた。しかし宝暦の国役再開は、幕府財政をますます逼迫させ、結局1824(文政7)年に国役普請万石以上停止令を出し、大名領の河川普請は大名が自力でやれと、幕府は再び公儀としての義務を放棄するにいたったのだ。幕末には、全国的な国土の荒廃は、統一国家権力でなければ対応できないレベルに到達していたということであろう。

(c)飢饉に対する備えを常備した
 寛永の飢饉以来、飢饉にいかに備えておくのかということも新たな社会問題になっていた。
 1728(享保13)年、幕府は全国の幕領に対して、災害対策用に米を蓄えることを指示し、年貢米の一部を各村にある郷倉や名主の家の倉に保管するように命じた。そして郷倉が未整備のところは幕府が費用を立て替えて整備し、翌年からモミで備蓄 し、毎年新モミが出たら詰め替えて、古いモミは浅草の幕府御蔵へ移送する体制をとった。【27】の 元禄の飢饉の項で見たように、すでにこの時代の村は貨幣経済が浸透しており、百姓は米すらも販売して利益を得るために栽培している状態で、飯米までも売ってしまい、米価の安いときに米を購入して飯米にあてる状態であった。だから百姓が食料を蓄えている状態ではなかった。そして村への貨幣経済の浸透はまた、村の中に大量の無高の百姓、その実態は商業または工業さらには通いの賃稼ぎで暮らす人々が多数存在するようになり、この層もまた日々の暮らし に追われる層であったので、飢饉に備える余力はなかった。こうした社会の変化に幕府は対応し、村の郷倉に米を蓄えるように指示したのだ。
 この体制で蓄えられた米は全国で60万石にもおよび、関東・東海地方が45万石、関西が10万石、北国が5万石であり、これは幕府の毎年の年貢収納量の30〜40%にも及んだ。また幕府は、1730(享保15)年には、各地の幕府の城や譜代大名の城の倉に保管された備蓄兵糧米である城米を御用米と名称を変更し、飢饉の際には救援米として利用できるようにした。
 これらの制度は享保17年の西日本の大飢饉の際には実際に運用され、郷倉の米が畿内・西国へと一斉に回送され、御用米も9万5000石が被災地に回送され、大きな役割を果たしたのである。
 1732(享保17)年の大飢饉は、西日本でのウンカの害によって、九州北部、山陰地方、さらには四国の瀬戸内地方など偏西風の影響の強い地域でほとんど稲が収穫できないという事態によって引き起こされたものであった。このため秋の収穫を前にして多くの飢人が出て餓死者も出し、さらに例年なら秋の収穫で食料が充分に行渡るはずの時期に食料がまったくない ため、西日本の先の地方を中心に大量の飢人を出し、多くの餓死者を出したのだ。
 この飢饉での餓死者は、幕府に諸藩から出された資料の合計では、1万2172人、そして飢人は264万6020人となっているが、この餓死者は実数よりもかなり少なく、飢人は実数より多いと推定されている。これは餓死者を多く出すと、飢饉に備えて米を蓄えておかず公儀としての役割を果たしていない廉で大名が処罰されるために、餓死者の実数は少なく出し、逆に飢人の数は、これらの人々に対する施し米を幕府からもらうために少し多めに申告するからである。
 しかし享保の飢饉は、後の天明の大飢饉などに比べれば回復が早く、そのため餓死者や飢饉後に発生した疫病による死者もかなり少なくなった。理由は、幕府のすばやい対応と、村や町の共同体による支えが働いたからである。
 幕府はウンカの被害が伝えられると直ちに幕領および藩領に対して被害状況を申告させ、その報告に基づいて被災地に米を廻送する手はずを整えた。そして1732(享保17)年8月下旬には早くも、大坂城の蔵米5万石を西国に廻送しはじめ、さらに江戸で買い上げた米8万石のうち3万石を大坂に廻送しこれも西国に廻送した。また11月には大坂に集まる幕府年貢米10万石も西国に廻送することを決め、さらに12月には、近畿地方の30の藩の城付御用米9万5525石を被災地に廻送した。合計で27万5525石。西国の被災諸藩が多めに要請した 廻米高34万2925石には及ばなかったが、素早い対応であった。また被害のひどかった大名45家・旗本24家などには5ヵ年償還の貸付金を出しており、その合計は33万9140両(約406億9680万円)にも上った。
 またこれ以外にも幕府は幕府領の飢人への救援米も支給しており、その総額は7万8600石、救援の対象となった人員は37万300人余りであり、当座の食料の他に、種籾や種麦代・牛馬代などの貸与も行われた。
 さらに享保の大飢饉対策で重要なのは、幕府は疫病の流行に際して薬方書付を作って幕領の村々に配布したことと、諸国の百姓や町人にも飢人を相互扶助するように呼びかけたことである。
 薬方書付に書かれた薬は、百姓の身近にある野草や畑の作物を利用して薬を調合するもので、先にみた全国的な薬草調査や薬調合法の伝授の成果であった。これと飢饉に際して素早く救援米が配られたことで被災民の体力の回復が早く、享保の飢饉では飢饉後の疫病での死者はほとんど 出なかったのだ。
 また1732(享保17)年12月に幕府は、5畿内・西国の幕領に対して、「米穀金銀の蓄えのある者は、その財力に応じて近隣の飢人を援助して餓死者を出さないように」との触書を出した。そしてこれに 応えて申告されたものだけで、3万7290人の者が自己の資産を投じて飢人を救済し、幕府から褒美をもらった。その内訳は、20両 (約240万円)以上の施しをしたものは58人で、内訳は町人29人・寺社6人・庄屋1人・年寄1人・新田支配人1人・百姓20人であった。また100両 (約1200万円)以上の施しをした者が15人で、この多くは京・大坂の豪商であり、大坂の大和屋の2153両(約2億5836万円)を筆頭に、鴻池屋277両 (約3324万円)、京都の三井342両(約4104万円)・白木屋100両(約1200万円)などであった。これは次に見る飢饉に伴う米価の高騰で多くの飢人が出たことへの対応であり、彼ら豪商は幕府の政策に従って米価引き上げのために米の買い付けを大規模に行っており、施行しないと彼らが打ち こわしにあう危険もあり、さらに彼らも多くの出入り職人や出入り商人、さらには通いの従業員や家作の住人を抱え、場所によっては町全体が1つの豪商によって養われている状態になっていたからである。また農村部でも手広く商売をしたり多くの田畑を抱える百姓が村民への施しを行い、最高額は174両 (約2088万円)も出した者もいたのだ。
 享保の飢饉では、町や村の共同体が動き、特に共同体の中心となっていた名主層や富商・豪農が自己の財産を投げ出して飢人を救うという行動を見せており、共同体の相互扶助機能が働いていたことは注目すべきである。
 こうして享保の大飢饉は比較的軽度の被害で済んだわけだが、このことが教訓となって幕府は、飢饉に備えて、その収入の30〜40%以上を蓄えておくという大きな財政支出を抱えることとなったのだ。  

:飢饉に備えて年貢米の3・4割を備蓄するという方策はとても効果があったが、同時に幕府にはあまりに重い負担であった。そのため1743(寛保3)年には、以後の郷蔵への備蓄は年貢米からではなく、飢饉や災害の際の救援米を百姓から出させて貯蓄する方策に変更された。そして飢饉や災害に際しての大名へ金銀を貸し付ける方策も、実際は返済が滞って幕府財政を悪化させる要因となったため、享保の飢饉以後は、あまり実施されなくなり、1755(宝暦5)年の東北大飢饉の時には3万3000両(約39億6000万円)余りと、かなり規模が縮小された。ここでも幕府は公儀としての役割を放棄し始めたのだ。

(d)都市貧困層対策−増大する都市貧困層にも幕府は目を向けた
 また享保の大飢饉では、米価の長期低落傾向に反して、都市で一時的に米価が急騰した。京大坂・江戸などの大都市は飢饉の影響は直接うけず、米の供給が激減したわけではないが、飢饉が予想される中で、米の先物取引相場が過剰に反応した故であった。大坂では、1731(享保16)年3月に米1石・銀26匁であったものが、1732(享保17)年8月に米1石・53匁に高騰し、さらに翌1733(享保18)年1月には米1石・120匁にまで上昇した。これは京都でも同様であり、1732(享保17)年12月には米1石・110匁という高値であった。
 幕府は1733(享保18)年の正月以降に対策を打ち、大坂では救援米2000石、京都でも救援米2000石などを用意し、町年寄を通じて飢人に4月まで米を支給した。ただしこの救援米の対象者は町で乞食をして食物を乞うほどに困り果てた住人を対象としており、大坂では対象は2万8057人を数えたという。そして3月になると家持ち・借家層を対象に米5000石を安売りし、米1石銀75匁が相場のところを銀55匁で売りさばき、さらに4月にも米5000石を相場が米1石銀86匁に対して銀66匁で売りさばいた。また5月には道頓堀川岸から難波御蔵場までの新堀の御救い普請をはじめ、働きたいものに土運びをさせて賃金を支給した。
 この状況は江戸にも及んだ。
 江戸は飢饉の影響は直接受けず関東は豊作であり、江戸で買米して西国に送ることをしていたのだから、米の供給が不足するとは幕府も予想していなかった。しかし 西国への廻米が予想以上に多くなり、江戸でも1732(享保17)年の暮れごろから米価が急騰し、今まで1両で米1石4・5斗ほど買えていたのが、米7・8斗しか買えなくなるほど高値になり、江戸でも多くの飢人が出るしまつであった。このため江戸では、1732(享保17)年の暮れから翌年の正月にかけて、家主層によって米価引き下げの訴えが数多く奉行所に出され、正月20日以降は、町奉行所に毎日2000〜3000人が詰め掛けて米価引き下げの訴えを起こすという強訴状態となっていた。この事態をうけて江戸の町名主層も寄り合いを開き、米価の引き下げや武家方の不払いによる商人の不景気の解消、さらには御救い普請の実施による裏店・日用稼ぎの者の救済を奉行所に訴えた。これと平行して、米価急騰の原因は幕府御用の米商人高間伝兵衛が米を買い占めたからだといううわさが市中に流れ、高間伝兵衛の町方への引渡し・処罰が奉行所へ訴えられた。
 幕府はただちに1731(享保16)年に出されていた奥州・関8州からの白米廻送禁止令を撤回し、さらに東海地方からの江戸廻米禁止令も撤回して江戸への米供給を増やし、さらに関8州・伊豆・甲斐からの新麦の江戸廻送を奨励し、米価沈静を図っている。また大坂や京都の例にならって米5000俵を飢人救済米として支給することを決め、さらに困窮者を救う御救い普請として江戸城の堀浚えを行うことを決め、秋田藩ほか5藩に手伝い普請を命じ、 1人50文の日雇い賃金で窮民を雇った。江戸名主の請願を幕府が取り入れたのである。しかし幕府は米商人高間伝兵衛の町引渡しの要求は拒否したため、1月26日、怒った窮民 約1700人が高間伝兵衛宅を襲い、家屋・家財を壊して大川に投げ込み、帳簿を破り捨ているという仕儀に至ったのだ。 幕府はこの初めての打ちこわしに対して、事件が沈静化した後の5月に首謀者4名を逮捕し、1人を遠島、3人を重追放とした。
 この都市での米価高騰の背景を見ると、そこには幕府が前年1731(享保16)年の歴史的な米価安を受けて、米価を引き上げるために米の先物相場を煽ったり幕府御蔵米や城米を増やし、さらに江戸の米価を高めるために諸国からの江戸への廻米を制限していたことが米価高騰の背景であることがわかる。幕府が米価をあげようと躍起になっていた時に、歴史的な凶作が起こり、米価が急騰したのだ。
 ではなぜ幕府は米価を上げようとしていたのか。
 これは米価が下がれば武士層の収入が下がって困窮するからであるが、同時に幕府の認識としては、米価があがって武士の懐具合が良くなれば彼らの支出が増え、その結果都市の商人も儲かって都市住民の暮らしも良くなると考えていたからであった。
 しかしこの幕府の認識は、すでに都市の経済構造・社会構造が元禄のころから大きく変わっていたことを度外視していた。
 すでに【22】で見たように、元禄の頃から江戸の町には周辺農村や他国から多くの人が集まり、江戸の町人人口は50万人を越えていた。全国的な商品流通網の確立と米価の低落傾向、そして首都江戸としての大規模な普請や寺社普請を当てにして、各地から商人や職人、そしてこれらの普請事業などを当てにした日雇い稼ぎの人々が多数集まっていたのだ。そのため 江戸の町人人口は急増し、彼らを相手にした日用品や贅沢品の商売も繁盛し、これらの商売に日雇いで従事して日々の稼ぎを得て暮らすことが可能になったのだ。江戸の商人の主な顧客は武士ではなく、急増する町人を相手にしていたのであり、だからこそ元禄末年に三井呉服店が大衆向けの現金売り・店売りを開始し大もうけできたのだ。
 都市には昔から居ついている武士相手の商売をする町人だけではなく、町の表店には町人あいての小商売人が店を出し、裏店の長屋には、通いの職人や振り売り商人さらには日雇い稼ぎで暮らす、多くの下層貧困層が集まっていた。彼らが暮らして行けたのは、江戸の景気が良いことと米価が低落して生活費が嵩まないからであった。この傾向は同じ時期に30万人の人口を誇った京・大坂も同様であった。
 幕府が米価を引き上げて武士や町人の生活を立て直そうとした政策は、この都市の変化には逆効果だった。従って大飢饉に伴う一時的な米価急騰は、これらの都市裏店に住む都市下層貧困層の日雇い暮らしを直撃し、その最下層の人々は収入の道も断たれて乞食となるしかなかったのだ。
 幕府は恣意的に米価を上げることもできず、これらの都市貧困層の生活を維持する政策を取るしかなくなった。
 しかし幕府は都市の変化にまったく気づいていないわけではなかった。
 すでに1721(享保6)年6月幕府は、さしあたり生活できても一度火事に出会えばその日の暮らしに困るものを町名主に命じて調査登録し、9月にはこれらの者が類焼被害を受けた場合には、数日間救助米を与えることにした。また、家族や本人が重病で生活が困窮しているものも調べ上げ、彼らにも扶助を与えることを決めている。幕府も江戸の町に、一度災害に出会えば暮らしが 成り立たなくなる下層貧困層が多数いることをつかんでおり、だからこそ1722(享保7)年には、彼らを対象とした救貧施設である小石川養生所を建設したのだ。この建設費用は金210両(約2520億円)余り、享保7年の運営費用は金289両(約3468億円)であり、収容人員は設立当初は40人であった。
 幕府はすでに都市の人口構造に変化が生じていることをつかんではいたが、それが都市の経済構造の変化を基盤にしていることまでには思いいたらなかったのだ。だからその米価高騰策が飢饉を契機にして都市での騒動を勃発させてしまった 。
 享保の飢饉以後、幕府は都市の下層貧困層対策にも多大の財政出費を強いられた。

D増大する財政支出−社会の変化は統一国家でしか対応できないものだった

 次々と発令された経済政策が功を奏し、幕府財政は比較的安定したのだが、米価を上昇させて諸色物価を低落させ、幕府収入を増加させようとする幕府の思惑はうまくいかなかった。年貢収納の増加は継続的な米価の低落を招き、米価低落は幕府収入を減らし、財政を悪化させていったのだ。 そして先に見 たような様々な災害の増大や都市での貧困対策など、幕府の出費は増大の一途を辿っていたのだが、さまざまな対策を講じていたとはいえ、それに見合っただけの収入増加をはかることはできていなかった 。

(a)突然の年貢収納方法の再改変−幕府は百姓との合意を破棄した
 このため吉宗政権下の幕府は、当初の百姓に妥協し、彼らの利益を確保することで彼らの事業意欲を高め、結果として年貢収入を増やそうとする政策から転換し、百姓からできるだけ搾り取ろうとする姿勢を強めていく。
 先に見たように佐渡では1729(享保14)年あたりから年貢増徴要請が続いており、さらに同年に陸奥(福島県)信夫・伊達両郡の百姓は、定免制の下では天候異変に基づく減免が拒否されたことに対して、近隣の大名へ越訴し処罰されている。伊達・信夫両郡では百姓の減免要求を代官が、「勘定所の仰せなので聞きとどけられない」と拒否したために越訴が起きたのだが、この時期から勘定所の代官統制が進み、同時に従来の検見制では当たり前であった天候異変による減免を拒否し、なるべく多くの年貢を百姓からとろうという姿勢に変化していたのであろう。
 そしてこの姿勢が劇的な転換へと結びつく。
 1737(元文2)年に松平乗邑(のりさと)が勝手係老中となり、同時に神尾春央が勘定奉行になった。
 以後幕府・勘定所は、かなり強引な年貢増徴政策を取っていく。先に新田開発の項で見た、入会地であった河川敷や山林原野をも畑として認定し、そこを個々の百姓に割り付けて年貢を収納する政策もその 1つであった。
 1747(延享4)年、幕府は百姓に諮ることなく、年貢収納方法を定免法から有毛検見取法へと転換し、翌年から全国的に実施していく。有毛検見取法とは、かつての検見法が、 検地帳に定められた田畑の等級(認定された地力の差)に依拠して年貢を決定していたのを、毎年実際の出来具合を見て、田畑の等級に関わりなく年貢を賦課する方法である。定免法では年々の天候による減免がないため各地で減免を求める百姓の訴えが起きており、さらに実際に凶作が起きると百姓が食えなくなり、代官らからも、平年より3割減の不作時には年貢の減免をすべき事が提案されており、定免法では百姓の要求は抑えられず年貢の増収も難しいと判断したからである。
 そして勘定所−代官は百姓に諮ることなく検見を実施し、一方的に年貢の増徴を指示した。
 こうした強引な年貢増徴政策が功を奏し、1744(延享元)年には、幕府の年貢収納高は180万1000石と史上最高を記録する。そして幕府財政も好転し、享保の改革後の1753(宝暦3)年には、江戸・大坂・二条・駿府・甲府各城の金蔵の合計は252万両(約3024億円)、1770(明和7)年には300万両(約3600億円)へと増加した。
 財政改革としての享保の改革は一応の成功を見たのである。

(b)百姓との衝突−露呈した年貢増徴策の限界
 しかしこの結果は、幕府と百姓との対立を激化させた。
 摂津・河内・和泉(以上は大阪府)・播磨(兵庫県)の百姓は再三代官所に減免を願い出でたが許されず、1745(延享2)年には、約2万人が年貢増徴に反対して立ち上がり、京都の代官屋敷まで押しかけ、さらに百姓の代表が、京都の内大臣近衛内前や武家伝奏のところまで押しかけるという事件が起きている。さらに1750(寛延3)年、佐渡の百姓は、1748(延享2)年以来の突然の有毛検見法への転換と数千石もの増徴に反対して、代表5名が江戸へ越訴を行った。こうした増徴反対の行動は各地で行われた。
 これらの百姓の抗議に対して、幕府はどう対処したのか。
 先の河内以下の抗議に際しては、代官手代は不正を行った廉で死罪に処せられ、百姓側も名主の役儀取り上げ、村への罰金を受けている。そしてこの事件を受けて幕府は1750(寛延3)年、強訴・徒党・逃散を禁ずる法令を出し、これに基づいて佐渡の百姓は処罰された 。百姓の代表5名のうちの2名は死罪で残りは重罪とされた。しかし代表を罰する代わりに幕府は、検見法による増税を諦め、さらに従来奉行所が百姓から様々な名目で礼銭や賄賂をとっていたのをやめ、佐渡の百姓が農産物などを他国に売ることを許したのだ。
 百姓の利益も認めつつ幕府も年貢収入を増やす政策を突然打ち切って、一方的に搾り取るだけ搾り取る政策に踏み切った幕府は、広範な百姓の抗議の前に、妥協するしか方法はなかった。
 幕府の年貢収入は、1744(延享元)年を最高額として、以後低下の一途を辿った。
 そして強引な増徴政策をとった勝手係老中の松平乗邑は1745(延享2)年に罷免され、勘定奉行神尾春央の権限も縮小され、以後の10年間に、改革政治の中で年貢増徴政策に関与した勘定奉行・勘定吟味役・勘定組頭や代官の多くが罷免された 。
 村の自治に依拠する百姓の攻勢の前には、幕府が年貢を増やすことはほとんど限界に来ていた。
 財政改革としての享保の改革の成功は、この限界をも示していたことを教科書は明記すべきであろう。

(c)幕藩制の限界も露呈−社会の変化は統一国家を必然化した
 享保の改革は、財政改革としては一応成功したかに見える。
 しかしその内実は、自然災害の続発や百姓の共同体解体の危険も顧みずに山林原野の新田開発にまい進し、なりふりかまわぬ年貢増徴によって一時的に年貢収入を増やし、同時に公儀として全国的に自然災害に対処するべき義務を放棄することで、なんとか財政の均衡を保っていたに過ぎなかったのだ。
 無理な新田開発は次第に新田の放棄という形で、幕府領の総石高の減少を招き、年貢収納高も次第に減少していく。
 1744(延享元)年は幕府総石高463万4076石、年貢収納高も180万1000石で最高値を記録する。そして享保の改革以後の最初の10年間(1746〜55)は 平均で総石高442万石・年貢収納高166万6845石・年貢収納率37.64%と高額を維持したが、その後総石高の減少に伴って年貢収納高も以後減少を続け、1765(明和2)〜1779(安永8)年の平均は152万石、1780(安永9)年〜1786(天明6)年の平均は145万石と享保の初年の水準に逆戻りしている。
 そしてこの間の1757(宝暦8)年に一時中止されていた国役による河川普請が復活したことや天明の大飢饉に見られるように、幕府の財政支出はさらに増大し、1770(明和7)年に300万両(約3600億円)あった幕府の貯金も 、1788(天明8)年には81万7000両(約980億4000万円)と激減したのだ。
 結局財政改革としての享保の改革の成果は、元の木阿弥となったわけだ。
 百姓が村の自治を盾にして真の村の収穫高を教えない中では、彼らから無理やり年貢を増徴することもできなかったし、村の入会地として百姓の生活の再生産に必要な物資を供給し、あわせて洪水を防ぐ装置であった山林原野や湖沼を新田開発したことは、かえって百姓の生活を貨幣経済の荒波に放り出しその階層分解を促し、自然災害を増大させて百姓の暮らしを危険にさらし、幕府の財政支出を増大させただけであった。
 そして入会地の減少と自然災害の増大は、幕府領の百姓と私領の百姓の入会地をめぐる争論を増大させ、これは幕府と諸大名との対立を激化させた。
 結局この増大する自然災害に対処するための国役河川普請は幕府単独ではなしえず、幕府からは独立した国家である国持ち大名の手伝い普請でなんとか乗り切るしかなかった。このことは公儀としての役割を幕府は単独ではなしえず、国持ち大名(その多くは外様大名である)の協力によってかろうじて公儀としての役割を果たしたことを意味している。また同時に国役による河川普請の実施は、中小大名が自力では公儀として領国を統治できず、幕府に従属したものに転落したことを意味し、全国が200数十の独立国に分立した状態では、激発する自然災害にも対処できないことをも意味していた。進展する貨幣経済の中での財政難を解消しようとして進められた国土開発の進行は、封建国家の枠を超えた自然災害の激発を生み出し、幕藩制という諸国分立の状態では対応できなくなったのだ。貨幣経済の進展は統一国家の出現を必然化しつつあった。
 このことは、幕府が行った米や諸色の物価安定策がなんら功を奏せず、西の銀貨と東の金貨という異なる通貨の交換比率を、その実質的な経済力のレベルに応じたものに貨幣を交換することで安定させたことが諸物価の安定に帰結したことにもよく現れている。さらに諸国での殖産興業政策の進展により諸藩が特産物の専売制を敷き、全国市場を統括する大坂商人とその背後にある幕府と諸藩が対立したことも、全国の諸物資のすみやかな流通と価格の安定のためには、国家が分立していることの不具合をも示している。
 貨幣経済の進展による全国市場の統一は、国家を統一することの必要性をも示していたのである。
 貨幣経済の進展に対応した幕藩制国家機構をつくりあげようとした享保の改革の成功とその限界の露呈は、幕藩制国家の限界を示していたことも、教科書はきちんと記述する必要があろう。そうでなければその後の幕府政治の推移は理解できないからである。
 そして享保の改革の眼目は、単に財政改革にあるのではなく、貨幣経済の進展によって変化した社会に対応できる幕府機構を作り上げることにあったのだ。この点では享保の改革は後々まで影響を与える多くの成果を出している。官僚機構としての継続的な政策立案・施行能力をもった奉行所の確立や、奉行−評定所−老中会議という組織だった幕府機構を確立したこと、さらには公事方御定書によって公正で迅速な裁判を確立したことなどである。この点はもっと強調されてしかるべきであろう。

:なお享保の改革と同じ時期に、諸藩でも同様な改革が進められ、藩政官僚機構の確立と、国家を富ませるための殖産興業政策が進められた。

(d)将軍権力を強めるための権威の強調
 ここで教科書ではまったく記していないことだが、享保の改革と権威の問題を見ておこう。
 先に見たように、歴代徳川将軍の中で初めて傍系から出た5代綱吉は、歴代将軍の中でも将軍の意思で統治を行った将軍として突出していた。彼が導入した服忌令や生類憐みの令は、将軍という存在を高貴な神にも等しい存在として諸人の上に君臨させ、彼を頂点とする貴賎・清浄不浄の道徳的な階層を作り出すことで、将軍権力をより強化しようとしていた。だからこそ彼は大嘗祭などの朝廷儀式も復活させて将軍を任ずる権威としての朝廷の権威の高揚にも意を尽くしていた。
 この綱吉以上に将軍が自身の意思で直接統治を行った将軍であり、自身も始めて徳川宗家以外から将軍になった存在である吉宗の場合はどうであったのだろうか。
 吉宗が動員した彼自身の権力を強化するための権威は、幕府草創者である神君家康の権威であり、軍事指揮官としての将軍権力の顕示であった。
 彼は家康の曾孫にあたり、この意味で、6代家宣・7代家継よりも家康に近い血族であった。

:4代家綱・5代綱吉は家康の曾孫。家宣は家康の曾孫の子。さらに家継は曾孫の孫であった。

 従って彼は治世の開始に当たって、自分が前代の将軍よりも神君家康に近い存在であることを強調し、何事も神君家康の時代の例に倣うように宣言していた。そして彼が将軍就任の最初に行ったことは家康も好んで行っていた鷹狩であった。
 鷹狩は5代綱吉の代に中止されて以来38年間実施されていなかったが、鷹狩は武士にとって武術の鍛錬の場であり、同時に実際に軍勢を動かす実践的訓練の場であった。また将軍の所領の各地には将軍専用の鷹狩の場である御鷹場が設けられ、その近在の地域は将軍の鷹のための餌を供給する場として指定され、各地に鷹狩のための将軍休息御殿や、鷹匠の家などが配置されていた。そして将軍は親しい関係にあるものや重要な家臣大名にも鷹狩を許可し、御鷹場で共に狩をすることで、将軍が全ての大名・武士、そして鷹場の百姓や町人の上に君臨する存在であることを可視的に示していた。鷹狩とは軍事指揮官である将軍の権力を示すものだったのだ。
 この鷹狩を就任直後の1717(享保2)年に復活させた吉宗は、自身を神君家康になぞらえ、将軍は軍事指揮官であること誇示したのだ。
 そしてこの傾向は、財政難対策が一応解決の見通しが出る中で、これも5代綱吉以来行われていなかった日光東照宮社参という形で示された。1728(享保13)年4月、吉宗は大名・旗本・御家人らの大軍勢を引き連れて日光に向かった。日光社参は将軍が大名以下の家臣を引き連れ、実際に軍勢として組織して行軍する大軍事演習であり、これを65年ぶりに復活したということは、ここでも将軍が軍事指揮官であり、軍事指揮官の資格で全国を統治している事実の可視的表現であったのだ。
 また吉宗は将軍権力を強めるため、その背景となっている権威である朝廷の権威を高めることもやっていた。
 1738(元文3)年、桜町天皇の即位にあたって幕府は、朝廷からの要請もないのに大嘗祭挙行を提案し、41年ぶりに挙行した。さらに1740(元文5)年には280年ぶりに新嘗祭も再興し、1744(延享元)年には、甲子の年に天下異変を防ぐために諸社へ奉幣使を送る儀式を再興し、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日の諸社へは303年ぶり、九州の宇佐八幡・香椎宮へは426年ぶりの甲子奉幣使の再興であった。
 こうして吉宗政権の下において朝廷は、応仁の乱以来停止されていた多くの宮廷行事を復興し、かつて諸権力の上に君臨していた時代の姿を蘇らせて行ったのだ。このことが1745(延享2)年の摂津・河内・和泉・播磨の百姓一揆が、京都の関白や武家伝送宅に押しかけたことの背景に存在する。幕府の公儀としての役割の放棄は、同時に朝廷の天朝としての権威の上昇を生み出し、これがこの時期以後の尊王論の伸張と、後の尊王攘夷運動へと繋がっていく背景ともなった。

(e)為政者には民の実像が見えなくなっていた
 なお最後にこの改革で定められた目安箱のことに一言触れておこう。
 教科書はこの制度の目的を単に「民衆の声を聞くため」としているが、どうしてこの時代になって急にこのような制度が必要になったのかは語っていない。目安箱の制度は何も幕府だけのことではなく、吉宗も紀州藩主だった時代にすでに実施している。
 この背景は、すでに見たように社会が大きく変化し、従来の村名主や町名主という土地の有力者を通じて民の実情を調べその意見を聞くという制度では充分に社会の実情が見えなかったからである。江戸時代の統治機構は、これらの公式の回路を通じて民が行政に関わり、政策立案や意見具申をできるものであったが、名主層だけでは把握できないほど社会が多様化し、村の小百姓や無高百姓さらには都市の裏店の日雇い層の要求を充分に汲み取れない時代になっていた。だからこそ幕府は目安箱を設置し、直接民の実情を知る者や民自身が訴えを起こし、名主層を通じなくても幕府に意見具申できるようにしたのだ。
 急速な社会の大衆化現象は、為政者には民の実情を見えなくしていた。

:05年8月刊の新版での財政難と享保の改革についての記述は、基本的には旧版のままである(p116)。追加されたものは、江戸で町火消しを組織したことと、コラムでサツマイモの栽培を推進した青木昆陽の話が、享保の飢饉に伴って記述されたことだけで、公事方御定書の制定が、商業発展に伴って増大した訴訟に対処するためという記述が削除されただけある。従ってここで指摘したような、経済社会構造の変化に対応した幕府機構改革であったことや、それが必ずしも成功せず、幕藩体制の限界を示していたこともまったく触れられていない。

:この項は、南和男著「江戸の社会構造」(1969年塙書房刊)、大石慎三郎著「江戸時代」(1977年中央公論新書刊)、進士慶幹編「江戸時代武士の生活」(1981年雄山閣刊・2000年ブッキング再刊)、高柳金芳著「江戸時代御家人の生活」(1982年雄山閣刊・2000年ブッキング再刊)、松下志朗著「近世奄美の支配と社会」(1983年第一書房刊)、川勝平太著「日本文明と近代西洋ー『鎖国』再考」(1991年日本放送文化協会刊)、川勝平太・浜下武志編「アジア交易圏と日本工業化ー1500‐1900」(1991年リブロポート刊・2001年藤原書店再刊)、林玲子編「商人の活動」(1992年中央公論社刊・日本の近世第5巻)、笠谷和比古著「国役論」(1993年吉川弘文館刊・「近世武家社会の構造」所収)、辻達也著「政治の対応−騒動と改革」(1993年吉川弘文館刊・日本の近世第10巻「近代への胎動」所収)、 野口武彦著「荻生徂徠」(1993年中央公論新書刊)、高埜利彦著「18世紀前半の日本−太平の中の転換」 ・笠谷和比古著「習俗の法制化」(1994年岩波書店刊・日本通史第13巻近世3所収)、大石慎三郎著「将軍と側用人の政治」(1995年講談社現代新書刊)、岩田浩太郎著「打ちこわしと 都市社会」(1995年岩波書店刊・日本通史第14巻近世4所収)、大石学著「吉宗と享保の改革」(1995年東京堂出版刊・2001年改定新版刊)、菊池勇夫著「近世の飢饉」(1997年吉川弘文館刊)、田中圭一著「日本の江戸時代−舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、田中圭一著「村からみた日本史」(2001年ちくま新書刊)、 藤田覚著「近世政治史と三大改革論」・大石学著「享保改革の歴史的位置」・菊池勇夫著「享保・天明の飢饉と政治改革」(2001年山川出版社刊・藤田覚編「幕藩制改革の展開」所収)、高埜利彦著「元禄の社会と文化」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史15「元禄の社会と文化」所収 )、福田千鶴著「御家騒動−大名家を揺るがした権力闘争」(2005年中央公論新書刊)、中岡哲郎著「日本近代技術の形成−<伝統>と<近代>のダイナミズム」(2006年朝日選書刊)、村井淳志著「勘定奉行荻原重秀の生涯−新井白石が嫉妬した経済官僚」(2007年、集英社新書刊)、大石学著「元禄時代と赤穂事件」(2007年角川書店刊)、小学館刊の日本大百科・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


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